《新城吉太》四男六女アリ・島尻郡南風原村字宮平五五七番地【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年

【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
著者    浜松哲雄 編
出版者   沖縄県医師同窓会
出版年月日 昭和4
 p2【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
p2【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/2
《新城吉太》 p102/151
 現住所・島尻郡南風原村字宮平五五七番地
明治十八年(1885)八月十日生。
明治四十年(1907)三月
醫生敎習所第十八期卒業後
醫術開業試驗ニ及第シテ
第三〇〇三一號ヲ以テ登錄セラル。
明治四十五年(1912)五月
福井縣足羽郡麻生津村ニ開業、
四星霜ヲ閲シテ歸省、
大正四年(1915)十二月
國頭郡久志村村醫及ビ校醫ヲ囑託、
大正八年(1919)三月
轉ジテ同郡金武村村醫及ビ
同村各小學校校醫ヲ拜命
大正十一年(1922)一月
島尻郡南風原村村醫及ビ
同村各小學校校醫ヲ囑託、
同時ニ現住所ニ移轉
開業シテ今日ニ至ル。
氏ハ齡不惑ヲ過グル四歳ニシテ
四男六女アリ。
 長男 吉光君 當年廿八歳、
 那覇市松山小學校訓導。
 二男 吉三君 當年十八歳、
 縣立第一中學校第三學年在學。
 三男 吉雄君 當年十六歳、
 縣立第二中學校第一學年在學。
 四男 康成君 當年七歳。
 長女 淺子  當年十七歳、
 縣立第一高等女學校第三學年在學。
 二女 文子  當年十三歳、
 南風原小學校尋常科第六學年在學中。
 三女 美代子 當年六歳。
 四女 清子  當年五歳。
 五女 澄子  當年三歳。
 六女 千惠子 當年一歳。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/102
昭和四年三月 二十日印刷
昭和四年三月二十五日發行 非賣品
發行人 沖繩縣醫師會同窓會
編輯人 濱松 哲雄
    沖繩縣那覇市若狭町二丁目二十六番地
印刷人 中澤藤太郎
    東京市本郷區春木町二丁目五番地
印刷所 中信堂印刷所
    東京市本郷區春木町二丁目五番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/150
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[福原町・稻荷新地・新川・遊廓]藝妓・娼妓細見【通人必携花柳の栞】明治27年

【通人必携花柳の栞】明治27年
著者    山田嘯月 編
出版者   川辺文金堂
出版年月日 明27.2
 福原町及稻荷新地遊廓全圖 新川遊廓圖
p2【通人必携花柳の栞】明治27年
〔画像〕p2【通人必携花柳の栞】明治27年
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/2

〇藝妓細見之部
 ◎神戸中撿番  元町通五丁目
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/14

 ◎神戸西撿番  元町通六丁目
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/19

 ◎福原福撿番  福原町仲ノ町
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/20

 ◎福原新撿番  福原町舊大門東入
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/21

 ◎柳原淀撿番  西柳原町(淀川又七方)
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/22

 ◎柳原中撿番  北逆瀨川町
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/23

 ◎新川     今出在家町(撿番ナシ)

 藝妓統計
神戸中撿番  百七十五人
神戸西撿番   二十七人
福原福撿番    五十人
福原新撿番   三十七人
柳原淀撿番   二十四人
柳原中撿番   二十六人
新   川     壹人
合   計  三百四十人
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/24

〇娼妓細見之部
 ◎福原町
一等 色葉樓  福原町三百三十二番屋敷
        藤並政次
        後見人 古塚利兵衛

一等 松浦樓  福原町四百五十八番屋敷
        松浦長兵衛
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/25

一等 眞田樓  福原町三百四十番屋敷
        阪本よし江
        後見人 阪本善七

一等 勢陽樓  福原町三百三十九番屋敷
        伊勢秀吉

一等 澤山樓  福原町三百三十八番屋敷
        大橋しげ
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/26

一等 愉快樓  福原町三百三十七番屋敷
        高楠しも
        後見人 高楠孫三郎

一等 千石樓  福原町三百三十六番屋敷
        紀野こう

一等 寶勢樓  福原町八十一番屋敷
        吉田定兵衛
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/27

一等 安福樓  福原町八十番屋敷
        安福嘉吉

一等 八幡樓  福原町七十九番屋敷
        水江たね
        後見人 水江寛三郎

一等 山海樓  福原町七十七番屋敷
        山西慶二
        後見人 古川寅吉
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/28

一等 成田樓  福原町七十六番屋敷
        友成德次郎

一等 靑柳樓  福原町七十五番屋敷
        長澤兵藏

一等 多聞樓  福原町七十四番屋敷
        南部新七
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/29

一等 巴 樓  福原町七十三番屋敷
        大原小まつ

一等 長谷川樓 福原町三十八番屋敷
        長谷川九一郎

一等 若松樓  福原町七番屋敷

一等 東 樓  福原町六十番屋敷
        米田もと
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/30

二等 南越樓  福原町三百五番屋敷
        竹内三郎
        後見人 白崎眞語

二等 甲子樓  福原町四百三十七番屋敷
        淸水こう
        後見人 淸水政次郎
(以上各樓月曜日撿査)

一等 三ツ村樓 福原町六十七番屋敷
        加納まつ

一等 布引樓  福原町二百二十五番屋敷
        門脇常三郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/31

一等 勢州楼  福原町六十八番屋敷
        川北靜一
        後見人 川北五百藏

一等 西村樓  福原町二百十七番屋敷
        西村槌藏

一等 玉藏樓  福原町二百〇九番屋敷
        藤井きり江

一等 中國樓  福原町二百五十番屋敷
        高田嘉介
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/32

一等 山 田  福原町二百十三番屋敷
        山田一馬

一等 玉井樓  福原町二百四十二番屋敷
        中川ちか

一等 西川樓  福原町二百二十六番屋敷
        植村松太郎
        後見人 泉 善兵衛

一等 牧野樓  福原町二百十六番屋敷
        岩本由次郎
        後見人 岩本九十郎

一等 高砂樓  福原町六十三番屋敷
        松本儀夫(音吉改)
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/33

一等 末富樓  福原町百七十六番屋敷
        吉田たみ

二等 菊本樓  福原町二百十五番屋敷
        北野さと

二等 松 田  福原町二百十番屋敷
        松田むめ

二等 淺 井  福原町二百九十三番屋敷
        淺井よつ

二等 新成田樓 福原町百七十三番屋敷
        服部熊藏

二等 豐國樓  福原町二百四十八番屋敷
        上田 實
        後見人 上田保兵衛
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/34

二等 東愉快樓 福原町二番屋敷
        森田利中

三等 朝日樓  福原町二百四十五番屋敷
        伊藤小松

三等 玉 崎  福原町百八十三番地
        玉崎たま

三等 山口樓  福原町八十二番屋敷
        山口ひで

三等 金勢樓  福原町二百三番屋敷
        久保佐吉

三等 愛知樓  福原町八十二番屋敷ノ一
        伊藤松次郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/35

三等 曾我部  福原町二百四十三番屋敷
        曾我部太七

三等 古 川  福原町二百四番屋敷
        古川寅吉

三等 天 池  福原町二百六十五番屋敷
        天池德兵衛

三等 富 田  福原町二百三十八番屋敷
        富田とよ
        後見人 妹尾善藏

三等 眞 柴  福原町二百〇五番屋敷
        眞柴重郎兵衛

三等 繁喜樓  福原町二百四十六番屋敷
        門脇藤次郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/36

三等 丸万樓  福原町四番屋敷
        十文字よね

三等 南繁喜樓 福原町二百九十八番屋敷
        山本たま

三等 菅 原  福原町二百三十九番地
        菅原ひさ

三等 靜岡樓  福原町二百九十三番屋敷
        西脇さと

三等 加藤樓  福原町百八十四番屋敷
        加藤しやう

四等 湊 樓  福原町二百九十六番屋敷
        前田こま
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/37

四等 貴 志  福原町二百三十七番屋敷
        貴志よね

四等 永昌樓  福原町二百四十二番屋敷
        中川こま

四等 三浦樓  福原町二十九番屋敷
        日根野こと

四等 龜鶴樓  福原町九番屋敷ノ二
        櫻井時光
        後見人 櫻井義一

四等 山 本  福原町二百三十一番ノ一屋敷
        南繁喜ノ支店
        山本安太郎

五等 中 村  福原町百七十八番屋敷
        中村けい
        後見人 久保常吉

五等 壽 樓  福原町百八十番屋敷
        板垣いしの

 ◎稻荷新地(橘通六丁目ノ通稱)
一等 常盤樓  橘通六丁目五番屋敷
        吉川彦兵衛
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/38

一等 榮 樓  橘通六丁目二番屋敷
        增谷しも

一等 成田樓  橘通六丁目二十番屋敷
        重岡たね

一等 松月樓  橘通六丁目三番屋敷
        寶谷らく支店
        後見人 寶谷丈吉

三等 日進樓  橘通六丁目十八番屋敷
        寶谷丈吉

二等 新榮樓  橘通六丁目廿九番屋敷
        增谷せつ
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/39

二等 西川樓  橘通六丁目十一番屋敷
        西川よね

二等 廣岡樓  橘通六丁目六番ノ一屋敷
        廣岡常吉

二等 杉浦樓  橘通六丁目十三番屋敷
        杉浦品藏

三等 勢春樓  橘通六丁目十六番屋敷
        近澤淸助

三等 保榮樓  橘通六丁目十二番屋敷
        波多野芳藏

三等 長崎樓  橘通六丁目十四番屋敷
        井上しげ
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/40

三等 播州樓  橘通六丁目廿一番屋敷
        小谷まさ

四等 醉月樓  橘通六丁目六番ノ二屋敷
        廣瀨しん

五等 近江樓  橘通六丁目廿五番屋敷
        大橋ふじ

 ◎新川(今出在家町ノ通稱)
一等 繁榮樓  今出在家町三百六十八番屋敷
        魚谷吉平

一等 宮本樓  今出在家町三百七十一番屋敷
        宮本うの
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/41

一等 新川樓  今出在家町三百七十五番屋敷
        荒川まつ

一等 若山樓  今出在家町三百七十三番屋敷
        谷所さよ

三等 小 西  今出在家町三百六十九番屋敷
        小西伊介

三等 金榮樓  今出在家町三百七十六番屋敷
        波方せい

三等 和田川  今出在家町三百七十二番屋敷
        荒田丑松
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/42

三等 新榮樓  今出在家町三百六十五番屋敷

四等 柳原樓  今出在家町三百七十七番屋敷
        荒川むめ

四等 千石樓  今出在家町三百六十一番屋敷
        千林喜介

四等 廣永樓  今出在家町三百六十三番ノ一屋敷

四等 榮 樓  今出在家町三百七十七番屋敷
        湯淺かね
(此樓は現今休業中)

娼妓統計
遊  廓  樓 數    娼妓數
福  原 六十二軒  五百五十人
稻荷新地  十五軒   九十二人
新  川  十二軒   八十九人
 合計  八十九軒  七百卅一人
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/43

〇市内料理店ノ部
  ◎列次ハ鑑札ノ等級ニ依ル故ニ町所散亂ス
 ◎神戸部
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/44

 ◎湊東部
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/45

 ◎兵庫部

 ◎葺合部

 ◎湊山溫泉前

〇著名飲食店 主トシテ料亭 類似ヲ採錄ス
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/46

 ◎湊東部
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/47

 ◎湊西部
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/48
明治廿七年二月廿二日印刷
明治廿七年二月廿五日出版
    正價金貳拾五錢
編纂者 山田嘯月
發行兼 川邊安兵衛
印刷者 神戸市北長狭通六丁目百卅四番邸
印刷所 神戸活版所
    神戸市元町四丁目百十五番邸
發賣所 川邊文金堂
    神戸市北長狭通六丁目
發賣所 文金堂支店
    神戸市多聞通裁判所前(井筒太席向)
https://dl.ndl.go.jp/pid/768033/1/52
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《松村宣子=松村一造・松村純子(松村 墨)・大國伊都雄・大國清香》各地宣信徒の誕生祭祝電【東北日記 3之巻】昭和3年

【東北日記 3之巻】昭和3年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和3.10
 東北巡敎中ノ出口王仁三郎聖師【著者】
 (北海道札幌神社前)
p3【東北日記 3之巻】昭和3年
〔画像〕p3【東北日記 3之巻】昭和3年
各地宣信徒の誕生祭祝電 左の如し。
  君現れし佳き日
  壽ほぐ天地の千代の榮えの
  色美はしき
と出口宇知麿 天恩郷一同の祝電を始め、
龜岡方面よりは御田村卓子氏、北村隆光、
愛善新聞社編輯一同、
明光社宗匠一同、
川畑八重子、石原氏、藤原勇藏、根占、古田豐年、
大國伊都雄、仝(大國)清香
大谷、畑中、佐伯の諸子、
松村宣子(松村一造)
土井大靖、土井佳江子、
井内鐵外、加藤明子氏、

綾部よりは櫻井同仁、鈴木重義、井上留五郎、
大本瑞祥會本部一同、
第一天聲社一同及び中野武英、
松村純子(松村 墨)
湯ヶ島支部、伊豆支部、
綾部の渡邊宗彦、西崎算保、
藤津輝虎の諸氏及び紀伊南部支部、
紀伊南部下早支部、
東京駒込より御田村龍吉、比企支部、平田氏、
越前武生分所、岡山分所一同、
北海道では根室支部、小樽支部、宇都宮淸子より送電。
本日五十八回の誕生を祝し玉ひし
御厚意を記念するため東北日記の一部に記しおく也。

綾部大本總裁補井上留五郎氏より
本日總裁就任の挨拶電報あり、
明光社よりは小幡神社冠句懸額奉納
無事終了せりとの報知あり、
是にて一先づ安心
目出度五十八回誕生を祝ふ北見の空
昭和三年十月 十日印刷 東北日記三之巻奥附
昭和三年十月十四日發行 定價壹圓參拾錢
編輯者 藤津  進
    京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字本宮下三十二番地
印刷兼 瓜生 鑅吉
發行者 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
印刷兼 天聲社
發行所 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
    振替口座 大阪六〇五三四番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年10月05日04:30
物語拝読講師《松村宣子:松村一造》
大本瑞祥會九州主會・昭和6年10月
松村家代々祖等之奥城
昭和三十一年十二月吉日
 京都市東山区清水五丁目 松村宣子 建之
f3267e89
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《大国清香=松村 弘(こう)》常任理事「世界連邦京都婦人の会」小野梓・賀川豊彦・湯川秀樹【世界連邦運動二十年史】1969

【世界連邦運動二十年史】1969
出版者   世界連邦建設同盟
出版年月日 1969
p3【世界連邦運動二十年史】1969
〔画像〕p3【世界連邦運動二十年史】1969
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/3
京都では、湯川スミが中心になって、
昭和31年2月21日、奥村女子会館において
「世界連邦京都婦人の会」準備が開かれた。
会長   湯川スミ
常任理事 延原べん、大西鶴子、上原芳子、
     大国清香、渡辺愛子、山力タミエ、
理事   高山静子、塚本美代、中路五十子、粟田茉紗子、
     森 幸子、守屋友紀子、千嘉代子、鏑木重野、
     藤井ふく、児島田和、石野愛子、竹上冬子、
     武間富貴、井上愛子、苅谷せい、池田貞子、
     富森松枝、藤田静子、井島規代子、池川幸満、
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/100
小野 梓 ※《大国清香=松村 弘(こう)》の祖父
世界を救う唯一の途は、
一大合衆国政府を樹て、
宇内の与望を担う賢哲を選んで
世界大統領とするにあり。
(明治3年、早稲田大学建学の功労者)

賀川豊彦
「人のものは己のもの、己のものは己のもの」
という思想が残るあいだは世界連邦の建設はできない。
「己と人が共に楽しむ」
意識の誕生する日に世界法治がめざめる。
(前同盟副会長)

湯川秀樹
世界連邦の建設は決して夢ではない。
日本人が世界連邦に努力すれば、
他日かならず、
人類全体から感謝されよう。
(ノーベル賞物理学者 同盟顧問)
p113【世界連邦運動二十年史】1969
〔画像〕p113【世界連邦運動二十年史】1969
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/113
 Ⅱ 戦前の単行本(1868~1944)
Ⅰ 明治以後~第一次大戦終了までの文献
  (1868~1917)
(255) 小野 梓「救民論」1870
   【小野梓全集 第4巻】1981
   著 者 早稲田大学大学史編集所 編
   出版者 早稲田大学出版部
   https://dl.ndl.go.jp/pid/12407920/1/70
(256) 中村敬宇「米利堅志」序文 1873
(257) 植木枝盛「無上政法論」
(258) 中江兆民「三酔人経綸問答」1888
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/285
大国以都雄 亀岡市南郷町
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/305
世界連邦運動20年史
      特製本
1969年(昭和44)4月10日 印刷
1969年(昭和44)5月1日 初版発行
編集兼発行所
世界連邦建設同盟
東京都千代田区内神田1-15-10
振替 東京29964番
電話 東京(03)-(291)-6619・9255
印刷所 (株)弘栄堂
東京都港区西新橋3-13-7
電話(431)3530・3875
製本所 有限会社 協栄製本
東京都板橋区熊野町8
定価1,800円
https://dl.ndl.go.jp/pid/11925035/1/313
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年04月03日08:00
《大國以都雄:總務主任》[皇道大本昭和靑年會現勢一覧表]
(昭和九年六月末現在)
《大國以都雄》
  明治29年(1896)3月26日生
  平成         歿
大深浩三:山口縣吉敷郡山口町大字上堅小路百参番地[除籍謄本]
大深以都美(大正11年p85)
大国以都雄(大正13年11月)
大国美都雄(p98)→大本での名前
「真偽二道」大国美都雄著 昭和58年11月10日発行

妻 大国 弘 
  明治42年(1909)8月28日生
  昭和51年(1976)7月5日歿
 <父 松村仙造(眞澄) 母 松村 墨>
  大国弘(こう) → 大国清香 大本での名前
  大正15年2月11日婚姻
  「真偽二道」p119-120 大国美都雄著
  昭和58年11月10日発行
  昭和2年7月16日 入籍[除籍謄本]
4f198942
〔写真〕左から
前列 小野雄二 (小野又一 二男)
   小野一雄 (小野又一 長男)
中列 松村正子 (松村一造 妻)
   大国以都雄(大国 弘 夫)
   小野又一 (小野一雄 父)
   金岡重  (小野又一 三姉)
   大国 弘 (大国以都雄 妻:小野又一 長姉)
後列 松村一造 (小野又一 兄)
   小野文子 (小野又一 妻)
   坂本佳記 (小野又一 甥)
   ※父 坂本恭啓 母 (松村)文子
撮影場所:松村一造宅
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《大国清香=松村 弘(こう)》愛善婦人連合会 副委員長 昭和24年5月【大本七十年史 下巻】1967

【大本七十年史 下巻】1967
著者    大本七十年史編纂会 編
出版者   大本
出版年月日 1967
 綾部大本一望圖
p8【大本七十年史 下巻】1967
〔画像〕p8【大本七十年史 下巻】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/3007522/1/8
一九四九(昭和二四)年四月二三日、
綾部・亀岡・京阪神各地の婦人有志が本部に会合して、
愛善婦人会の全国組織化の準備にかかり、
同年五月八日、愛善婦人連合会が結成された。
委員長には出口八重野、
副委員長に大国清香が就任し、
代表委員制による運営がおこなわれることとなった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3007522/1/460
大本婦人会
一九五三(昭和二八)年五月一四日、
近畿宗教婦人連盟総会では、
京都府代表として大国清香
兵庫県代表として野上比奈子が、
大本婦人の立場から意見をのべ、
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/3007522/1/555
大本七十年史 下巻
昭和四二年八月七日発行
限定出版 五六七〇部
編集 大本七十年史編纂会
発行 宗教法人 大本
京都府亀岡市天恩郷
振替京都 二五六三七
本文印刷 株式会社 天声社
原色図版 サン印刷株式会社
写真製版 坂上写真製版株式会社
製本 大日本製本紙工株式会社
頒価 上・下巻通巻 五〇〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/3007522/1/685
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年02月15日01:55
松村眞澄(仙造)の墓・植芝盛平の墓:綾部市天王平
A地区 125-2 亀岡 大国清香
         ※大国 弘(こう)小野一雄・雄二の伯母
          大国春栄
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小野義真は陶工ではない アマチュアの最高峰とでも云う存在か【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974

【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
著者    日本盆栽協会 編
出版者   三省堂販売
出版年月日 1974
175 蕎麦釉丸(小野義眞作)
   14×8.3
p34【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
〔画像〕p34【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/12439944/1/34

〇小野義真
名品とされ珍重されている小野鉢のほとんどは丸鉢です。

しかし、そのロクロの技術、釉薬の特殊さは
他の鉢の追従を許さない厳しさを持っていると云えます。

元来 日本鉄道の社長の重任を負い、
人格、名声共に知名な人のわりに、
その経歴等余りにも不明な点が多かったのですが

もちろん小野義真は陶工ではない、
アマチュアの最高峰とでも云う存在か。

前述したように国鉄の前身である
日本鉄道株式会社の三代目の社長を勤められた人で、
天保十年(1839)土佐幡多郡宿毛(現宿毛市)に
士族 小野安兵衛義信の子として生れ、
四人兄弟の長男であります。

三十才の頃、しばらくの間、
官界に身を置いて土木事業にたづさわったが、
その後官界を去り三菱会社に入り
財閥 岩崎弥太郎の股肱となり、
その手腕を縦横に振るい、
大隈重信侯とも昵懇の間柄だったようで、
東京橋場の本邸のほか、
向島の別邸、
関屋の別荘があったようです。

橋場の本邸に窯を築き
瀬戸の陶工、加藤正吉を従いて
この小野鉢が生れた訳で、
その釉薬などには並なみならぬ苦心があったようです。

小野鉢には[ひらがな]、
或は
[片カナ]などの符合が見られますが、
これは何のために入れたものかよく判っていません。

尚[どくろ]の中に正の字を入れた落款がありますが、
これは加藤正吉のものとされています。

明治三十八年(1905)五月胃癌のため他界されました。
p59【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
〔画像〕p59【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/12439944/1/59
盆栽水石の 鉢・水盤・卓
定価2900円
発行所 社団法人 日本盆栽協会
    東京都台東区上野公園3番42号
発売元 三省堂販売株式会社
    代表者 亀井 要
    〒101 東京都千代田区神田神保町1の41
    電話03-292-1481(代)
    振替口座 東京9390
製 作 大塚巧藝社
印 刷 昭和49年1月 9日
発 行 昭和49年1月10日
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《小野義真=小野義臣》盆栽界で人気の高い鉢に小野窯がある【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976

【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
著者    忍田博三郎 著
出版者   三友社
出版年月日 1976
 p3【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p3【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/3

上 16 真葛香山合作金波絵丸
    小野義真
    口径17.5cm 高さ7.5cm
中 17 曙釉袋式丸
    小野義真
    口径15cm 高さ10cm
下 18 小豆釉鉄鉢
    小野義真
    口径12cm 高さ6cm
 p14【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p14【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/14

《小野義真》 p36-39/130

尚、現在大宮の清香園主の先代山田初五郎氏が
小野家のお出入りであり、
陶工の加藤正吉氏とも昵懇の間柄だったと聞き、
色々お尋ねして見たり、……。

「しゃれこうべ」の落款
 95 加藤正吉の落款
 p36【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p36【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/36

 96 小野窯花瓶の底にある符合「むぎほし」
 p37【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p37【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/37

小野梓は小野義真にとって義理の弟です。
もともと遠縁であった両者でしたが、
梓が義真の妹利遠(りお)と結婚したからです。
(明治七、八年頃と推測されます)。
 ・・・・・・
宿毛市では明治百年を記念し、
宿毛十傑と称して、
宿毛の生んだ偉人の遺跡に標柱を建てました。
義真の旧居は宿毛市の東北隅にあり、
その建物の一部は今も残され、
その屋敷を囲む土塀の如きは、
今は往時の宿毛を偲ぶ唯一の文化遺産であり、
ここに「小野義真邸跡」と標柱が建てられました。
庭なども数寄を凝らしたもので、
往時の主を偲ぶが如く、
現在なお当時のまま残っていて、
大正九年夏、
大町桂月はここに約四十日間も滞在し、
その庭の趣きを賞して「休翼庭」と
名付けたと言われています。
それは、流れの中にしばしば
翼を休めている鳥の姿をした岩が
あったからだと云います。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/38

花は朝顔を愛し、書をよくし、
桃斉の号は老鼠堂永機につけてもらったもので、
俳句は永機門下の逸材であったと云います。
  朝顔の つぼみ数えつ 宵寝かな
  長き夜や 偕に楽しむ 酒の味
  寝ながらに 見るも驕りや 庭の雪
などの秀逸が残され、
最後の句は明治三十八年一月より胃癌の為
病床にあって作ったもので、
はしなくも義真の辞世の句となりました。

とにかく義真には、
東京に三ヶ所の住所があった事は確実で、……。

つまり移転前の真先稲荷の隣接地に小野義真の本邸と、
尚その隣りに、
小野梓と利遠(妹)の新家庭を作り住まわせ、
自らも又ここに定住したと考えられます。

本邸の川向うに向島の別邸があったが、
ここは小松島と呼ばれ(現在の白髭橋の東詰)
その広さは三千平方メートルにも及ぶ
宏大な規模のものだったと云われ、
この外に関屋に別荘があったが、
その地は現在のどの辺に当るのか確証もなく、
定かではないので
今後の研究課題にしたいと思います。

小野十五郎=福地悟朗

カラー写真No.16 真葛香山合作金波絵丸
カラー写真No.17 曙釉袋式丸
カラー写真No.18 小豆釉鉄鉢

 97 カラー写真No.16
 真葛香山合作金波絵丸の鉢の箱書。
 p39【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p39【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/39

 p119-1【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p119-1【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/119

 p119-2【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p119-2【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/119
日本の小鉢と陶工
盆栽小鉢の面白味 定価 三五〇〇円
昭和五十一年五月十五日初版発行
著 者   忍田博三郎
発行人   北村 卓三
企画編集人 清水  明
発行所   株式会社 三友社
      東京都練馬区石神井六丁目一番二十五号
      電話(〇三)九九七ノ五一三一(代表)
      振替東京五ノ四八七八九 (〒一七七)
      印刷・製本 凸版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/127
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年06月06日05:13
《小野義真(義臣)》自宅の庭に窯を築き
尾張の名陶工・加藤正吉を抱え、
多くの名品をプロデュースした稀代の趣味人

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年04月26日06:05
《小野銀行頭取 小野十三郎》黑岩(小野家執事)
土佐日記(二) 宿毛:大正九年六月七月
【桂月全集 別巻 上】1980
七月三日 朝くもる
 小野氏と共に「コウゾノ」堰にかほ あらひにゆく
 一宮神社のあとに上る、
 老松二抱半おこんば淵(村役場)
 樹しげりて眺望なし東福寺ノ畔、
 伊賀氏の墓地に上る
 宿毛一目の下、休翼園
 午前 小學こうえん
 夜 淸寶寺こうえん
 とうふくじの側の小山 伊賀氏の墓地也
七月四日
 宿毛のわらぢは ちぼ一つ也
 篠山ノ神社ふきん檜多し、
 上はつゝじ、どうだん、小笹一面也
   鯤化作鵬々作石
   悠然休翼小池邊
   池中一任鯉魚躍
   梅雪松風幾萬年
   題休翼園 小野氏
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《福地悟朗=小野十五郎》芸能界はもとより各方面に博識の紳士だった【国民文化 (439)】1996-06

【国民文化 (439)】1996-06
著者    国民文化会議 編
出版者   国民文化会議
出版年月日 1996-06
 国民文化 439
 1996年6月25日発行
p1【国民文化 (439)】1996-06
〔画像〕p1【国民文化 (439)】1996-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1757437/1/1

国民文化会議の40年⑫
2 発足当時  その⑥(山部芳秀)
 福地悟朗氏のこと
事業部活動といえば、
一時期夢声氏のもとからきておられた
漫談家で無声映画の弁士だった
福地悟朗氏がなつかしい。

すでに娘さんが嫁いでアメリカにおられたから
五十代半ばにみえたが、
皮ジャン(とは当時は言わなかったが)に
皮のハンティングといったスタイルで、
芸能界はもとより各方面に博識の紳士だった。

やがて氏は、
大隈重信とともに立憲改進党の指導者で、
法学者、政治学者として知られ、
東京専門学校(早稲田大学)を創設する
小野梓の孫にあたり、
※小野梓の甥
 小野義真の子:小野十三郎・小野十五郎(福地悟朗)
 小野義真の妹:利遠の夫が小野梓

夢声氏がさきにきていたマネージャーにかえて
文化会議向きに派遣された人だとわかった。

氏は、思想の科学研究会の
『夢とおもかげ』(中央公論社刊)などを紹介したり、
講談、落語、浪曲などの声帯模写をきかせてくれたり、
ほとんどが四谷駅近くの大衆酒場でのことだったが、
虎造、米若、勝太郎、綾太郎、友衛、梅鶯、武蔵、雲など、
下町の商店街育ちの筆者にはラジオでなじみの
浪曲師たちのサワリをきかせてくれ、
近くにいた客をおどろかせたりした。

国民会議の大衆芸能部会には漫談の稲岡進、
漫才の大空ヒット・ますみ氏らから
正岡容、小池夢坊、宇井無愁ら
実に多彩な名が並んでいたが、
そういう人々に登場してもらう場も
なかなか作れなかった。

ある時福地氏に、
戦後すぐの日本共産党の大衆路線のなかで
「小林多喜二の母」などの浪曲をつくり、
徳田球一書記長が大感激して
演台にかける大きな飾り布(独特の言い方がある)を
贈ったといわれた浪曲師のことや、
そうした試みについて意見を聞いたことがあったが、
新しい思想は新しい形式でなくては、
といったふうなことを、
慎重に考えつつ言われたようだった。

福地氏が来ておられたのは
半年ほどにすぎなかったが、
のちずいぶんたって
村山知義原作・山本薩夫監督の映画
『忍びの者』をテレビでみていて、
城中の不寝番が拍子木を打ち
「火の用心」を唱えて歩くシーンになったとたん、
鍛えあげた見事な声にハッとした。

まちがいなく、福地氏であった。
すばらしいバイプレヤーだったと、
のちに映画関係者から聞かされた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1757437/1/8
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として⑥〔完〕【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

―― トーキーになってくるころはどんなでしたか。

福地 最初は、ディスク式トーキーといいまして、
ワーナーブラザーズ、
機械場へレコードテーブル置いて、
映画のスピードと合わせて
レコードで音楽を出してやっていた。
すぐダメになる。
磨滅しますから一週間もたないですよ。
ラブシーンに雑音が出たりなんかして問題にならない。
ソーレみろ、そんなトーキーなんてダメだよ、
音が出るときだけで一週間もたないんだから、
映画説明は永久にわれわれの仕事として続くんだ、
大部分そういう意見だった。

そのうちにフォックスの『進軍』『マーチング・オン』
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/165

という二巻ものの映画がまいりました。
これがフィルムトーキーなんですよ。
これはえらいことになったなと思いましたら、
夢声が
「あきらめなよ、
 どう頑張っても人力車がタクシーに
 かなうわけないんだから」
「じゃ、われわれ失業者ですね。
 ルンペンインテリだ」
「バカなこと言うんじゃない、
 失業者じゃない。
 失業というのは事業そのものはあるんだよ。
 クビになったのが失業者だ。
 われわれは事業そのものが滅びちゃったんだから、
 失業者じゃない。
 滅業者だ。
 胸を張って歩けよ」
そういって励ましてくれましたが、
お互い悩んだですな。

―― 当時の同僚、いっぱい弁士がおられて、
日本ものなんかをやる人と全然違いますね、
徳川夢声、福地さんなんかは。

福地 まるっきり違う。
たとえば下町ふうの、
浅草ふうという邦画の方がいます。
浅草ふうというのは、歌うと言いまして、
全部しゃべるんでございます。
映る前から前説(まえせつ)をやって、
終わりまで。
終わりのマークが出るまで、
「ナントカナントカで、
 円満なる解決をつけるに至ったという、
 これをもって全巻の終わりであります」、
全部しゃべる。

夢声は逆なんです。
よけいなことをしゃべるな、
映画あっての解説者なんだから。
一番いけないのは、ドア説明だ。
ドア説明というのは何ですかというと、
廊下があるだろう、
向こうから男性と女性が歩いてくる。
女性がドアをあけて中へ入る、
続いて男性が入る、
こういうシーンがあるとすると。
と、
「先に立っているメリーは、
 扉に手をかけて開くと中へ入る。
 後から彼は続く」
こういうことをしゃべる、
これがドア説明。
そんなもの見ていればわかるじゃないか。
何のためにそれをしゃべらなければいけないか。
何か特別な意義のあるアクションならば、
それはしゃべらなければいけない。
さもないことはしゃべる理由がないと、
私に懇々と教えてくれました。

私が夢声に、ドア説明をやめろといわれたこと、
これがああそうかとは思って聞いていたんですが、
一番ショックを受けて、
はっきりしたのは、
武蔵野館時代に説明者室御中という
無名のはがきがまいりまして、
僕はこの一年間あなた方の説明ぶりを研究してきたが、
石野馬城氏は七〇%しゃべっている。
山野一郎氏は五〇%しかしゃべらない。
徳川夢声氏に至っては三〇%しかしゃべらない。
しかも最もこの三〇%が印象的である。
これだと思った。
つまり夢声が一番はっきりつかんでいたんですね。

夢声は僕らに、
お客の側になって見た場合に、
見終わった後で、はてな、
いまの映画には弁士がついていたかしらんと、
自問自答するという場合が一番成功したときである。
あすこでうまいこと言ったぜなんて、
そういうものじゃないんだ、
ということを繰り返し言ってました。
あくまでも映画あっての弁士だと。

―― その後はどうされましたか。

福地 で、夢声は結局浅草へいって、
古川緑波と一緒に喜劇の「笑いの王国」をやった。
そのうちに放送のほうも、
JOAKが「映画物語」というのをやった。
「宮本武蔵」のずっと前ですが。
「サロメ」だとか、
「ジークフリード」というのを
夢声に三〇分ぐらいやらしている。
それで声優に彼はなった。
われわれもおかげでNHKへ出入りができて、
一週間に一回ずつ漫談を自分たちで考えだして
ずっとやりました。
それで糊口をしのいだわけです。

そのうちにP・C・L映画。
そうするといままでの俳優さん、
スター連中はダメ、しゃべれない。
いままではこれでパッと消えると
字幕が出て弁士がやっていた。
自分でしゃべらなければ
いけないということになると、
大変ですよ。
そこへいくと、
徳川夢声とその一門はしゃべることは平気だ。
とにかく入ってほしいというので、
凖専属というので、五〇円、拘束料。
優先的に撮影所の仕事をする。
あとは、一本幾らという手当を出すというので、
『唄の世の中』(一九三六)というのを
P・C・Lが撮りまして、
私は、はじめてその中でチンドン屋をやりました。
その次に『東京ラプソディ』、
主題歌が「花咲き花散る宵も……」というやつ。
藤山一郎主演で、伏水修という監督。
これで私は抜擢されて、
レコード会社の宣伝部長の役をやりました。

それから映画にちょいちょい出るようになった。
一回出ますと三〇円から五〇円、
十分めしが食える。
そのころ夢声が一五〇円かな。

凖専属料、何もしないでも。
そのうちに『彦六大いに笑ふ』という三好十郎の。
あのシリーズで夢声は一躍スターダムに上がった。
それにつれてわれわれも映画に出る。

映画の仕事のないときは、
そのころ映画館でアトラクションというのがはやりまして、
俳優がごあいさつに出る。
歌を歌ったり、踊ったり、その司会者。
私は歌うたいの人たちとも知り合いになり、
ずっと長いことやりました。

戦後になって、東宝の大争議、
このときにこっちは旗を振ったほうです。
それから今日に至っている。
俳協というところに所属しまして。

 福地悟朗(1985年)
 p166【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p166【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/166
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印刷・凸版印刷 製本・永井製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/186
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として⑤【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

 p165-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p165-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― 福地さんは武蔵野館に五〇円の給料で入られますね、
それからだんだん
どこか館を移っていくわけですか。

福地 武蔵野とパレスかけもちから
シネマパレス専属になりましたときは、
一二〇円になりまして……。

―― それが何年ごろですか。

福地 昭和四年。
それでその年の暮れに、
高知の高等学校が、
大変映画熱の盛んなところでして映画観賞会をやる。
去年ドイツもののフランク・ムルナウの
『ラストマン』『最後の人』という
無字幕映画をやった。
夢声さんにきてもらおうと頼みにきたが、
忙しくて行かれない、
そのかわり代理として弟子の山天をさし使わす。
山天というのは山形天洋。
これはそもそもどういう人かというと、
夢声が葵館におりますときに、
臨官席にきていた警官なんです。
山形県の生まれなんです。

高知では徳川さんがやった通りやってくださいよ、
よけいなこと言わないようにと
釘をさされて非常に侮辱を感じたらしいけど行った。

それで今年は『ラ・ルー』というフランス映画、
これは日本名『鉄路の白薔薇』、
アベル・ガンスの長い名画なんです。
これが一本、もう一本は、
デンマークのホームドラマで、
『あるじ(ホスト)』これは一時間ぐらいの二本立て。
弁士は二人ほしいんだけれど、
高知に縁のある人はと調べてみると、あるある。
徳田秋声という文士のニセモノみたいな名前の男がいるが、
これは馬場弧蝶のせがれだ。
これは徳川夢声に憧れて徳田秋声なんていう名前をつけた。
これを呼ぼうじゃないか。

もう一人、福地悟朗がいい。
あれの親父は土佐の宿毛というところの出身らしい。
君行くかね。
行ってみよう、
高知っていいところらしいから
行きたいと思っていたから行きます。
じゃ、二日間だから行ってごらん。
二日間で一五〇円だった。
君は『あるじ』、
馬場君はアベル・ガンス、
『ラ・ルー』をやる。

で、行きまして、各女学校も観覧随意、この映画に限り。
ふだんは映画館には出入り禁止のころです。
それで二日やったわけです。
最初に私がずうっと『あるじ』をしゃべり、
あと二時間半ぐらいの長丁場を
徳田君がしゃべることになっていた。
しゃべれなくなった。
声が出なくなった。
彼はついことしの三月二三日に死にました。
私より若いんですよ。

これが声が出なくなったから
少し助けてくれというので、
私が少ししゃべった。
とうとう二日目は、二本とも私が全部やっちゃった。
私は不思議な弁士がいるもんだと思われたようです。
向こうの映画館のは皆関西式ですからね。
「東山三十六峰静かに眠る……」
ばっかりだから、
そこでそれこそ座談的な説明をする僕が受けました。

帰ってくると、高知へ一年でいいから
きてくれないかということになった。
夢声に相談したら、
一年ぐらいならいいだろう、
行っておいでよ、いいところだぜ、
カツオのたたきはうまいし、というんで、
幾らで雇うかというと、
二五〇円出させるという。

それで前金一つ。
こういうならわしがございまして、
新しいところへ雇われるときは前金というのがある。
それが給料と同じ。
二五〇円一つといえば二五〇円だけ。
三つといえば七五〇円になる。
これはバリュウによって違うわけです。
私に二月出すからきてくれ。
貧乏小屋だけどしんぼうしてくれというので、
昭和四年の暮れに向うから金を送ってきまして、
私はもう女房もっておりましたけれど、
一人で向こうへ行った。

一年で帰してくれるかと思ったのが
そうはいかないで、
フォックスから『進軍』というフィルム式トーキーが
やってくるまで向こうで。
いよいよ弁士のストライキです。
私が旗を振りまして、
争議をやっている最中に劇場が燃えてしまいました。

―― 何という映画館ですか。

福地 大山館。高知市内で
すぐ前に世界館というのがありまして、
これがライバルで、
向こうは金がうんとあるから
いい映画をどんどん入れるんですよ。

こっちはインチキ政治家が道楽に映画館をやっている。
金を出さないから、
パラマントにしても、
フォックスにしても、
いい映画を回してくれない。
火事になって大山館は焼けてしまい、
下足番に至るまでみんな警察に調べられました。
私だけ調べられなかったけれど、
仕方なく武蔵野館へ帰ったわけです。

帰ってきてびっくりしたのは、
トーキーの音の出ているところへ、
夢声と山野一郎氏が掛け合いで映画をやっているんです。
泣いても泣ききれなかったですね。
夢声はそのあと武蔵野をやめまして、
日本劇場でチャップリンの『街の灯』をやりました。
どういうわけか夢声が声をつぶしてしまって
ダメになりました。
吸入をかけたりして一生懸命しゃべったんですが、
うまくいかないので、
夢声を出しておいて、
声の出ないところを私がごまかして、
夢声の声帯模写でうまく切り抜けたことがございます。
それがもう映画とわれわれとの最後でしたな。
昭和九年一月でございます。

 旧武蔵野館の内部
 p165-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p165-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/165
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印刷・凸版印刷 製本・永井製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/186
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