《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として➃【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

夢声が出てきまして、
事務所で話したら、
あんたよけりゃここで働いてくれって、
映画の弁士になるならば、
五〇円出すというけど、どう?
そのころ東大出が四〇円でしょう。
「あんたミリオネアーの息子かなんか知らないけど、
 どうせいまは あまり金は持ってないだろう。
 五〇円あげるから、部屋を借りて、
 福神漬で三度三度めしを食えば生きていけるよ、
 しっかりやりたまえ」。
それが始まりです。

それで新春大興行、
福地悟朗という名前で出たわけです。
その時、私がしゃべったのは『特製鋼鉄人形』、
ワーナー・ブラザーズ作品、
主演マット・ムーアとマリー・プレボーでございます。
大正一五年、正しくは昭和元年一二月三一日。

 『武蔵野周報』7巻1号 福地悟朗の名が見える
※『武蔵野週報』
 p164-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p164-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― 当時、暗くなったときに話を始めて、
引っ込んでしまうから、顔は見えないですか。

福地 見えません。まるっきり見えません。
後ろにカーテンがありまして、
カーテンをあけたときに薄く光線が入るんです。
その光線によって、夢声は蓬髪だったんです。
これがまことに芸術的に見えるんですよ。
もじゃもじゃの毛が。
それで大喝采があるわけですね。
長いシャシンですと三人でやる場合がある。
夢声とかわるときにも、
スッとカーテンをあけて説明台へ入ったときに、
そのカーテンの気配でお客は拍手を送るんです。
顔は全然見えない。

―― それの説明は全く即興といいますか、
原稿があったりなんかはしないのですか。

福地 タイトル・シーツというのをフィルムと一緒に、
各映画会社、フォックスとか、
パラマウントとかつけてくる。
そのタイトル・シーツを、
いまでいうアルバイト、
東大の英文科の学生諸君で
しょっちゅう遊びにきている連中が、
仲間を集めて翻訳している。
それをつけて、タイプで打ったやつをもってくる。
それをわれわれ一通り見て、
三階の小さなスクリーンで、
普通のスピードの三倍ぐらいの速さで
ブルルルルッと回す。
楽士さんと、私がしゃべるなら私と、
二人で見るわけです。
それで楽士と相談する。
このラブシーンはセレナーデの何を入れる、
ここは何を入れる、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/164

いいでしょう、
というようなことで選曲をする。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/165
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印刷・凸版印刷 製本・永井製本
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として③【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

―― 結構遅いみたいな感じですね。

福地 ですから、
もう遅いかなと思ったんですけれど、
別に夢声は遅いとも言いませんでした。
じゃ、武蔵野館へ遊びにいらっしゃい
というので行くときに、
年の暮になりまして、
大正天皇が崩御ということになった。
そのころ、一週間ごとに映画は
かわるんでございますが、暮は変えない。
その年の統計をとって、
一番大入りのレコードをつくったフィルムを蒸し返しで、
思い出のためにというので暮にやって、
そのかわりいい説明を必ずつけるというのを
やるならわしがあった。
夢声はそのときに
『救ひを求むる人々』という、
これはしかるべき大きな会社で
つくったんじゃないんです。
ジョセフ・フォン・スタンバーグという
当時無名の監督の『サルベーション・ハンターズ』。
夢声が大変好評だった。
それを暮にやったわけです。
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〔画像〕p163-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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 福地悟朗(昭和初年)
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〔画像〕p164-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

その時の夢声というのは、愛酒家だとか、p163/189
豪酒家だといっているけれど、
私にいわせると暴酒家ですな。
くさってくると飲む。
ウィスキーであっても、焼酎であっても、
アブサンでアッテも、何でもいい。

寝られないから、
アダリン、カルチモン、ゼルナール、
ベロナール、劇薬をボリボリやりながら飲む。
そして指を突っ込んで吐く。
吐いた後、またラッパ飲みをする。
これを繰り返していました。

その『サルベーション・ハンターズ』を
やりましたのが大正一五年、
昭和元年になろうとする境目の日でした。
二五日。
初日に私遊びに行ってました。
「この名画をこの名説明で」と、
いっぱいの入りなんです。
私、一回目を見ていまして、
新聞には、「日本に初めてきたプロレタリア映画」と
――プロレタリア映画じゃないですよ。

弱虫だった青年が恋人をとられそうになって、
憤然として喧嘩をする、相手をのしちゃう。
何だ、おれ強かったのだ、というだけの映画です。

それを夢声がしゃべっている。
よけいなことしゃべらないで、
実にうまいなあ。
「とある港、別に変わったことのない、
 不思議のない港、
 太陽と泥と漂流する木切れ、
 猫、骨をしゃぶる」
と小さな声でやって、
「飢えたる者」と力を入れる。
これは効くんですね。
これを夢声がやって大喝采。

ベロベロに酔っぱらって、酒をもってこい。
見習い君に酒をもってこさせて、
「もうダメだ、きょうは。帰る」
「帰るって、先生」。
次席に山野一郎という人気のあった人です。
「僕はこれはやらないよ、徳川さんでなきゃ、
 この映画はもつ映画じゃないよ」
その次に石野馬城という人がいた。
これは浅草からきた人だった。
この人も「いや、私もご辞退いたします」。

それは辞退をするわけなんですよ。
それぞれ一城の主なんですね。
夢声と比較されるわけです。
こんなに違うのかなと思われたら
やりきれないですよ。

先生困りますよと、
支配人が泣きそうな顔をして、
どうしてくれるんだといったんです。

夢声は、「小野君、あんたやれ」
「エエッ」
「あんた、やれるよ。
 さっき見ていただろう。
 やれる。
 やってごらん。
 あの息なんだ。
 最後だけなんだ、力を入れるのは。
 『ウォッチ・ゼア・ウォーク』と
 タイトルが出てるだろう。
 『見よ、彼らが歩み行く姿を』
 あそこだけなんだ。
 あとはサラサラとやっておけばいい。
 やってごらん。
 とにかく帰る」と帰っちゃった。
みんな真っ青になりました。

めくらヘビという心理でしょうかね。
ええい、やっつけちゃえと。
それで真っ暗の中へ出まして
しゃべり出したところが、
説明台の下へかじりついて見ているファンがいるんですよ。
不思議な顔をして見ていましたがね。
むこうから顔は見えないから。

ところが、夢声だと思ってお客は聞いてくれて、
大喝采。
それで一日三回ですから、
あと二回またやったわけです。
それが第一回のお目見えです。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/164
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として②【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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私は実はまず咄家になろうとして、
柳家三語楼、談州楼燕枝、四代目柳家小さん、
この三人を順々に訪ねまして
「師匠、お弟子にしていただきたい、
 住み込みで一生懸命やりますから」
「おまえさん咄家になるというのは
 寄席は好きか?」
「大好きです」
「いま幾つだ」
「いま一三になりました」
「小咄ぐらいやったことあるだろう。
 しゃべってみろ」
「はい」。
それで小咄をちょっとやりました。
三語楼という人だけは、
手にストップウォッチを持ちまして
「『穴子でからぬけ』知ってるね」
「ええ」
「あれ、しゃべってみろ。
 いいね、おまえ。
 普通ね、これ八分ぐらいかかるんだよ、
 うちの前座は。
 おまえさん六分でやっちゃったよ。
 六分でやれるんだ。
 おいで、あしたから」
うれしかったですがね。
「ええ、伺いますから、よろしく」
「うん。で、親御さんはむろんご承知だな」。
私、そのとき家出していたのです。
「それが具合が悪いんです」
「あっ、それは残念だが、ダメだ。
 そういう人を引き取って
 ひでえ目にあった仲間がいる。
 誘拐罪になる。ダメだ」
どこへ行ってもダメ。
テストは受かるんですが、ダメ。
それであきらめました。

ところが、
私の母というのは江戸っ子で、
いまの日本橋の三越の前に植木棚と称する
町人の町があって、
その袋物問屋の娘だった。
嫁入り支度に踊を踊ったり、
三味線を習った、長唄を。

それで耳は私できていたものですから、
もうしようがない、
長唄やってやろうと思って、
吉住小三郎の弟子で
小桃次という人が小石川におりまして、
これはビクターで赤盤を出した達人で、
師匠には遠く及ばないけれども、
なかなか大家だった。

ここへ頼み込んで、弟子入りしました。
頼み込んでといっても、
これは咄家の世界と違いますから、
束脩、金拾円也を包んで持っていった。

吉住派はお座敷長唄。
謡がかりの芝居長唄とは発声が違う。
吉住のほうは言文一致なんです。
三年やりました。
朝十時から夕五時まで弁当持参、
ほかのお弟子の稽古まで聴く。
いわゆる盗みげいこ。

いよいよおさらいをして
テストを受けまして、
「官女」を唄って小源次という名前をもらい、
帝国ホテル演芸場でやることになっていたときなんです、
その『キイン』を見たのは。
顔が見えない、これだと思いましたね。
 p163-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p163-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

そのころ、親譲りの小金が少し残っておりました。
芝に私の親父が関係しておりました
紅葉館という非常に高級な料亭がございました。
明治三二年、
日本人による活動写真製作のはじめといわれる
『紅葉狩』、市川団十郎と尾上菊五郎出演が、
ここをセットとして撮影されたと、
古くからの女中からききましたが、
たしかめるすべはございません。

私のところへ東大英文科で、
川端康成、今東光らの
『新思潮』を出したいんだけれど、金がない。
三〇〇円要る、出してくれないか、
という話が知人からもちこまれました。
こっちは長唄を一生懸命やっているときで、
これという金も要りませんでしたから、
三〇〇円出したんです。

身もちが悪くて困っているという
仲間うちの評判だった今東光が、
袴をはいて私の家まで挨拶に来たことを覚えています。

その連中が武蔵野館で夢声の友達になって
しょっちゅう遊びに行っていた。
だから、話をしてくれと頼んだところが、
いいという。

夢声を紅葉館へ呼んで、
飲んでいる最中でした。
そこで私、夢声に初めて会って、
弟子入りを頼んで、オーケー。
これが昭和元年、正しくいいますと
大正一五年の一一月でございます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/163
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として①【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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夢声の弟子として
福地悟朗
ふくちごろう
一九〇〇年東京に生まれる。
咄家にあこがれ修業中、
たまたま聞いた夢声に感激、
さっそく弟子入りし映画説明者となる。
洋画中心の知的な語りには定評があった。
トーキー以後、P・C・Lに入り、
脇役として活躍。
戦後の東宝争議では文工隊として全国をまわる。
以後、俳協に所属し現在に至る。
無声映画の鑑賞会などで、
洋画の名作を一晩でも語る貴重な弁士経験者である。
(インタビュー 一九八五年六月二四日)
 p162【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p162【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― お生まれは何年ですか。

福地 明治三三年、一九〇〇年一〇月五日生まれ。
本名を小野十五郎と申します。

―― 小野梓の身うちだとか。

福地 親父が土佐の宿毛の出身で、
小野義真といいまして、
東北本線、上野から青森までの私鉄、
日本鉄道を創設いたしまして、
その社長をやっておりました。

井上勝、岩崎弥太郎の弟弥之助、
この二人と、手を組んで始めたらしい。
たまたま盛岡の郊外、
岩手山麓の原野二六〇〇余町歩に
非常にうたれたものがあった。
何かここでやろうじゃないかというんで、
三人で金を出し合って買収した。
これが小岩井農場なんです。
小野の「小」と岩崎の「岩」と
井上の「井」を組み合わせた。
そういう男でございました。

弟の梓のほうは、ロンドンへ行きまして、
もともと蒲柳の質であったのが、
たちまちに
コンサンプション(肺結核)にやられまして、
三五歳で死んだんでございます。

彼は大隈重信と協力、
早稲田大学を創設しました。
旧制中学もロクに出ていない私が
早稲田大学に入りましたのも、
このおじの縁故でございました。

今でいう「裏口入学」、
金は使っておりませんが
頼みこんで入学できたわけです。

ミルクホールに入りびたりの
けしからん学生生活でしたな。
まあ、私は芸事の方が好きだったんです。

―― シネマパレスに行かれて
初めて夢声をおききになったとおっしゃいましたが、
最初、咄家になりたかったというお話から、
そのへんの事情をお話していただくと……。

福地 向島で私生まれたものですから、
浅草へ行きまして、映画ばかり観ていました、六区で。
そのころ染井三郎とか、生駒雷遊とかいう、
いわゆる下町ふうの美文麗句で歌い上げる、
これよりうまい弁士はないと思っていた。

ところが小野梓が始めた冨山房に勤めている、
やはり土佐からきておりました人が、
「小野さん、あんた弁士、弁士というけれども、
 弁士は浅草だけではない、神田にもいますよ」
「どこにいる」
「淡路町のパレス」
「何という弁士?」
「徳川夢声」
「聞いたことないな」
「一ぺん聞いてごらんなさい」。
そのときにやっておりましたのが、
『キイン』というフランスの映画。
エドマンド・キイン。

シネマパレスで、
浅草とはまるで雰囲気の違う、
お客は咳払いする人もほとんどないくらいで、
小さな小屋でドームの形で、
こういう下へ下がっていて、
スクリーンが見えて、
その前に小さなボックスがあって、
トリオぐらいで演奏している。
やがてブザーが鳴りまして暗くなる。
真っ暗の中に音楽が流れる。
しずかにカーテンが上がる。
そうすると何かささやくような声で、
「無名の青年から名をおこして
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/162

 一躍演劇団の花形となりました
 エドマンド・キイン、
 その青春時代の華やかさに比べ、
 最後は暗澹たるものでございました」。

こういうしゃべり方なんですね。
洗練されたバリトンで
ちょうどこうやってお話しているのと同じようだ。
はてな、これが活弁かな、
こんなしゃべり方でどうなるのかな、
と思って見ているうちに、
うまいんですね、性格描写が。
それから失恋をする、
伯爵夫人に恋をしてボロボロになっていく、
何もそういうことの説明はしないんだけれども、
ときどき吐息をつくようにしゃべっていく
彼のしゃべり方。

これに付き添いのニコラス・コリンという
老優がおりまして、脇役が。
これがうまい。
主人公が倒れてしまったところで
カーテンが落ちる。
「お客さま、芝居はおしまいでございます」
という一言。
見ていてハッと泣きたくなる。
これはすごいなあ、なるほど。
何よりも私がうれしかったのは、
真っ暗で顔が見えない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/163
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
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《足立道五郎》安井病院 院長【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)

【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
出版者   医事日報社
出版年月日 1979.12
p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/1
京都市
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/95
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/106
           最終学       卒年度
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p107【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/107
80年度版 近畿病院名簿(第9版)
定 価 5,500円 送料別
初 版 昭和38年12月20日 発行
第9版 昭和54年12月20日 発行
発行所 株式会社 医事日報社
    本社 大阪市東区淡路町3-6 船場ビル
       電話06(231)3276・8967番
  東京支社 東京都中央区八丁堀4-11-7 神谷ビル
       電話03(553)5080番(代表)
発行者 松尾  進
印刷所 新阪神印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/234
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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瑞穂病院(船井郡瑞穂町)【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)

【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
出版者   医事日報社
出版年月日 1979.12
p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/1
京都市
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/95
瑞穂病院   船井郡瑞穂町字橋爪
              最終学
中川 幸英  院長、外   京都府医大
坂本 弘宣  副院長 産婦 京都府医大
軽尾三千秋  事
林  靖彦  内      金沢大
矢野  明  小      金沢大
水野  一  薬
吉田 正幸  X線技師
上西 道枝  婦長
p124-2【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p124-2【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/124
80年度版 近畿病院名簿(第9版)
定 価 5,500円 送料別
初 版 昭和38年12月20日 発行
第9版 昭和54年12月20日 発行
発行所 株式会社 医事日報社
    本社 大阪市東区淡路町3-6 船場ビル
       電話06(231)3276・8967番
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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笠次病院(船井郡園部町)丹波笠次病院(船井郡丹波町)【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)

【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
出版者   医事日報社
出版年月日 1979.12
p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/1
京都市
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/95
船井郡
笠次病院   船井郡園部町御園町5-8-7
              最終学   卒年度
笠次 節哉  院長     京都府医大 昭和31年
工藤  進  事
佐藤 貞栄

丹波笠次病院 船井郡丹波町須知新町70
村田  哲  院長
塩田 一生  事
前沢 一功  X線技師
大歳みさを  婦長
p124-1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
〔画像〕p124-1【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/124
80年度版 近畿病院名簿(第9版)
定 価 5,500円 送料別
初 版 昭和38年12月20日 発行
第9版 昭和54年12月20日 発行
発行所 株式会社 医事日報社
    本社 大阪市東区淡路町3-6 船場ビル
       電話06(231)3276・8967番
  東京支社 東京都中央区八丁堀4-11-7 神谷ビル
       電話03(553)5080番(代表)
発行者 松尾  進
印刷所 新阪神印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12096440/1/234
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島根県第一中学校(松江中学校) 卒業生名簿:明治45年3月卒業(第三二期)<明治期・完>【松江北高等学校百年史】1976

【松江北高等学校百年史】1976
著者    松江北高等学校百年史編集委員会 編
出版者   島根県立松江北高等学校
出版年月日 1976.12
p5【松江北高等学校百年史】1976
〔画像〕p5【松江北高等学校百年史】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/5
  第三章 島根県立松江中学校 赤山時代明治期
      明治三〇年から明治四五年まで
  第一節 松江中学赤山時代の出発と新発展
      一 赤山時代の出発
赤山新校舎の竣工
明治三〇年(一八九七)五月、
松江中学の赤山新校舎が竣工した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/189
明治三〇年度を送る
明治三〇年度は、
松江中学にとって
赤山時代が出発した記念すべき年であった。
この明治三〇年度について、
松江中学校(島根県第一尋常中学校)
浜田中学校(島根県第二尋常中学校)
私立中学校修道館に関する県の学事報告が、
新聞に報道されているので紹介しておきたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/197
校名島根県第一中学校と改称、規則の改正
新しい中学校令の制定によって、
明治三二年四月一日から松江中学の正式名称は、
島根県第一尋常中学校から
島根県第一中学校とかわった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/203
この期の卒業生一覧
この期の卒業生を、
島根県立松江中学校卒業生名簿
「双松」創立九〇周年記念号(昭和四一年五月)
によって掲げておく。
氏名は、アイウエオ順である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/302

明治四五年三月卒業(第三二期)
越野 堯広  安達 豊美  安部  昇
石橋  穣  板垣 龍亮  稲田  鼎
祝 洋之助  岩崎 猖治(原猖二)
内垣 修一  小村源太郎  楫野康吉郎
葛西  緑  河瀬 重憲  河口 隆保
亀田 精一  木村 幸雄  清原運一郎
黒見  萬  小泉 勇雄  高力 三省
島田恵之助  下田 猛夫  昌子 理務
杉原 直明  鈴木 重雅  高木 秀雄
高木 倉市  高橋富三郎  高井 末彦
多久 安貞  田代  栄  田中康道(豊)
田村 正修  土江 信一  恒松 吉哉
恒松(宮脇)杪       坂本(坪内)四郎
富田 権市  富村 邦好  長岡徳太郎
長沢 春雄  中島 徳夫  長田四郎太郎
長野 信正  永井 庸省  永井  清
永井 元孝  中村金一郎  谷龍 道教
錦織(並河)秀夫      福本(新田)章四郎
新田 善平  原田(中村)克孝
原田 友厚  伴  信也  平石 米市
平石(森脇)真二郎     福庭  孝
福光 正義  藤原 義文  本田 観海
本田房之助  本田彦次郎  三島雄二郎
三原 幸蔵  水谷  厳  村上 元吉
森田 正次  森原  徹  森脇  章
森脇  静  柳浦 忠市  柳原 善一
山根弥次郎  山根 精一  吉岡  静
四杉喬次郎  米原 富造  岩宮  巌
渡部 寛三
(中途上級学校入学者 山田定義)
以上八〇名。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/304
松江北高等学校百年史
昭和五一年一二月二五日 発行
編集者 松江北高等学校百年史編集委員会
発行者 島根県立松江北高等学校
    松江市西川津町三六一八の一
印 刷 松栄有限会社
    松江市西川津町六六七の一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/894
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島根県第一中学校(松江中学校) 卒業生名簿:明治44年3月卒業(第三一期)【松江北高等学校百年史】1976

【松江北高等学校百年史】1976
著者    松江北高等学校百年史編集委員会 編
出版者   島根県立松江北高等学校
出版年月日 1976.12
p5【松江北高等学校百年史】1976
〔画像〕p5【松江北高等学校百年史】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/5
  第三章 島根県立松江中学校 赤山時代明治期
      明治三〇年から明治四五年まで
  第一節 松江中学赤山時代の出発と新発展
      一 赤山時代の出発
赤山新校舎の竣工
明治三〇年(一八九七)五月、
松江中学の赤山新校舎が竣工した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/189
明治三〇年度を送る
明治三〇年度は、
松江中学にとって
赤山時代が出発した記念すべき年であった。
この明治三〇年度について、
松江中学校(島根県第一尋常中学校)
浜田中学校(島根県第二尋常中学校)
私立中学校修道館に関する県の学事報告が、
新聞に報道されているので紹介しておきたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/197
校名島根県第一中学校と改称、規則の改正
新しい中学校令の制定によって、
明治三二年四月一日から松江中学の正式名称は、
島根県第一尋常中学校から
島根県第一中学校とかわった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/203
この期の卒業生一覧
この期の卒業生を、
島根県立松江中学校卒業生名簿
「双松」創立九〇周年記念号(昭和四一年五月)
によって掲げておく。
氏名は、アイウエオ順である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/302

明治四四年三月卒業(第三一期)
青山 吉堯  石川  静  板倉 重義
伊藤 啓助  伊藤 文彦  今井卯三郎
上野  誠  枝木 満徳  岡崎清三郎
岡崎 真孝  岡田(吉岡)文秀
小川  龍  大阪  利  太田(玉木)麻之助
梶谷  清  勝部 辰雄  勝田(佐藤)義治
加藤 秀治  堀江(加藤)芳一
門脇  勲  民部(河内)道弘
金森 房義  亀木憲次郎  古川(亀山)俊峰
江角(岸)清 北垣賢三郎  北川 三郎
木村康一郎  草光 信成  桑原荒一郎
久保田 肇  倉敷(飯野)禄夫
古藤銀之助  小堀 秀一  佐々木英雄
白築 祐久  島村 正雄  菅原(佐藤)三郎
陶山 蔵松  高橋  浩  高橋  誠
滝倉 修蔵  田中 源一  田中 義憲
提  素一  津森 彬晴  若林(永海)親夫
中島 寿夫  山田(中西)茂一郎
中井  実  仲田 雅男  西村 多聞
橋本 知義  幡垣 保幸  米原(秦)弘
早見  龍  原田 房義  日高  弘
藤原  璋  藤原 平吉  堀江 伴良
正井 義人  松浦 直美  松浦 義信
松井義三郎  大森(前田)作
丸  昌策  源  確翁  青柳(宮廻)金市
竹下(宮脇)得吉      陸浦哲哉(丹羽義三郎)
村上 厳男  目次豊三郎  森脇 義一
保田  寛  安原 誠介  安井 大学
柳川 和民  山崎  徳  山崎  利
山田金右衛門 山根泉一郎  吉野 信義
四方田 登  堀江(和田)浩
渡部善一郎  井上(佐野)岩吉
遠藤規矩郎
(中途上級学校入学者 山根直政、仙田伴一、荻野秀寿)
以上八八名。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/304
松江北高等学校百年史
昭和五一年一二月二五日 発行
編集者 松江北高等学校百年史編集委員会
発行者 島根県立松江北高等学校
    松江市西川津町三六一八の一
印 刷 松栄有限会社
    松江市西川津町六六七の一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/894
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島根県第一中学校(松江中学校) 卒業生名簿:明治43年3月卒業(第三〇期)【松江北高等学校百年史】1976

【松江北高等学校百年史】1976
著者    松江北高等学校百年史編集委員会 編
出版者   島根県立松江北高等学校
出版年月日 1976.12
p5【松江北高等学校百年史】1976
〔画像〕p5【松江北高等学校百年史】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/5
  第三章 島根県立松江中学校 赤山時代明治期
      明治三〇年から明治四五年まで
  第一節 松江中学赤山時代の出発と新発展
      一 赤山時代の出発
赤山新校舎の竣工
明治三〇年(一八九七)五月、
松江中学の赤山新校舎が竣工した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/189
明治三〇年度を送る
明治三〇年度は、
松江中学にとって
赤山時代が出発した記念すべき年であった。
この明治三〇年度について、
松江中学校(島根県第一尋常中学校)
浜田中学校(島根県第二尋常中学校)
私立中学校修道館に関する県の学事報告が、
新聞に報道されているので紹介しておきたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/197
校名島根県第一中学校と改称、規則の改正
新しい中学校令の制定によって、
明治三二年四月一日から松江中学の正式名称は、
島根県第一尋常中学校から
島根県第一中学校とかわった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/203
この期の卒業生一覧
この期の卒業生を、
島根県立松江中学校卒業生名簿
「双松」創立九〇周年記念号(昭和四一年五月)
によって掲げておく。
氏名は、アイウエオ順である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/302

明治四三年三月卒業(第三〇期)
荒木 一郎  青木  功  安部 正吉
青山勘十郎  井上 順一  井上  操
井川  博  伊東長一郎  石倉 清度
石橋寛五郎  伊古美郁郎  飯塚栄太郎
今岡十一郎  大田 直行  大田研(田部健一)
岡村  栄  奥村堅志郎  勝部 栄七
勝部 武雄  勝田 民尊  河井寛次郎
河津  秀  河口 暢寿  河原寿一郎
梶谷  郁  梶谷 又市  楫野 修常
釜野 孫六  加持 英夫  桑原 太郎
木村  鼎  駒沢 克巳  小林 虎一
後藤 敬一  坂田 善一  坂上 恭一
佐藤喜八郎(恭次郎)    佐藤  固
佐藤  俊  佐草 吉雄  佐々部(萑部)進
庄司繁次郎  志谷 鉦一  清山 憲治
田部 顕穂  田代  幹  田代常三郎
田中  椅  土江惣太郎  富永 繁行
名原憲次郎  西田 敬三  西村 武生
錦織  尚  根岸 水澄  野口 順平(国樹)
金田(平垣)喜一      広田万蔵
福山 伍郎  樋野(福田)米重郎
福田 軍一  船越  哲  松本  健
松浦 義忠  間田  弘  槙原  孝
水野豊之助  三島 善久  村上 英夫
村上  究  森田延次郎  斎藤(森山)信治
中田(安井)武男      山根  勇
矢島  煕  山内 幸七(湞)
山本寛二郎  山口 南耕  横山 正勝
横山 唯芳  横井哲二郎  和田 堯蔵
渡辺愛之助  渡辺  毅
以上八四名。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/304
松江北高等学校百年史
昭和五一年一二月二五日 発行
編集者 松江北高等学校百年史編集委員会
発行者 島根県立松江北高等学校
    松江市西川津町三六一八の一
印 刷 松栄有限会社
    松江市西川津町六六七の一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111561/1/894
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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