[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち②【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち②
1911(明治44年)
9月には長男平造は、
早稲田大学政経学科に入学したが、
現住所福田英子方、保証人逸見斧吉は変っていない。
しかし、間もなく、
石川三四郎が横浜市根海岸芝生に転居することによって、
福田英子一家も横浜に石川と共に住むことになり、
平造は牛込区市ヶ谷薬王寺前町に下宿することになった。

革也は、10月15日に隠居届出をし、
大学生になった平造に家督相続を行なっている。

翌年の1912(明治45・大正1)年に特記すべきことは、
6月28日に、
堺・高島米峰らが発起人になって
「ルソー生誕 200年記念会」が行なわれ、
記念晩餐会は約40名の有志が集まり
神田淡路町の料亭多賀羅亭で開催され、
会費は無料でこの費用130円は
革也が拠出したものであった。

後年、発起人の1人高島米峰は、
「革也さんのお陰で、
 初めて高級なフランス料理を食べさせてもらった。」
と語っている。
記念講演会は神田美士代町青年会館で開催され、
三宅雪嶺ら 500人が参加し、
ルソー生誕の記念を兼ね兆民・秋水幸徳を偲ぶ会ともなり、
多くの社会主義者たちも参加した。

革也にとって、
1912(明治45・大正1)年
6月9日は父藤三郎の17回忌、
6月25日は母くまの7回忌、
さらに祖父儀左ヱ門の37回忌にあたるが、
この法事をやめて、費用を提供したのである。
当時の「読売新聞」(1912年6月29日)には、
「200年の後に日本人の法事の費用で
 自分の記念会が催されるとは定めてルソーも
 思ひ及ばなかった事であろう。」と報じられている。

この年は、明治天皇の「崩御」と大正天皇の「即位」という
歴史的なエポックにおいて、
わが国の民衆はなんとはなしに
新しい時代の潮流を感じとっていた。

大正と改元された年の12月に
第2次西園寺内閣が総辞職に追い込まれ、
第3次桂内閣が成立することに端を発して
第1次憲政擁護運動が展開された。

民衆の力で桂内閣を倒したという点で、
日本の近代政治史上に特筆すべき事件であった。
その中心人物が犬養毅・尾崎行雄で、
当時憲政の神様といわれた政治家である。

その犬養毅が、再び革也宅を訪れたのは、
1913 (大正2) 年の秋であった。
そのとき、
犬養は革也宅の寄書帳の表題に
「情往興来帖」と名付けて揮毫する。
さらに革也の求めに応じて、
公会堂のために、
「題須知公会堂壁」と為書きして揮毫した。
その掛軸は今なお公民館に掲げられているが、
その由来を知る町民は今では数少ないであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/13
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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《京丹波町 畠中源一町長》資産公開 預貯金919万円、土地を新たに30件取得し 建物も5件新規取得:京都新聞2026年5月1日

京都新聞DIGITAL
京都中部の自治体が首長の資産を公開 預貯金919万円、
土地を新たに30件取得し 建物も5件新規取得
# 京丹波町
2026年5月1日 17:36
昆陽和奏
京都府京丹波町は町条例に基づき、
昨年11月に再選された…
 京丹波町長資産公開:京都新聞260501-1
〔画像〕京丹波町長資産公開:京都新聞260501-1

 京丹波町長資産公開:京都新聞260501-2
〔画像〕京丹波町長資産公開:京都新聞260501-2
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 京丹波町について 町長室
※畠中源一町長:HPに名前は記載されていない。
 京丹波町について
〔画像〕京丹波町について
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宇治市 市長の資産 更新日:2025年6月30日更新
市長の資産等を公開します
 市長の任期開始の日以降の資産を公開いたします。
 市長の資産公開とは、市長が条例に基づき、
定められた時期に自己の保有する資産等に関する報告書を作成し、
皆さんにその内容を公開しているものです。
 報告書には、土地・建物・預金などの資産や、
所得、関連会社の役職等についての項目があります。
 資産公開をすることにより、
開かれた市政の実現をすすめてまいります。
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◎政治倫理の確立のための京丹波町長の資産等の公開に関する条例
平成17年10月11日
条例第7号
(1) 土地
(2) 建物の所有を目的とする地上権又は土地の賃借権
(3) 建物
(4) 預金(当座預金及び普通預金を除く。)及び
   貯金(普通貯金を除く。) 預金及び貯金の額
(5) 有価証券
(6) 自動車、船舶、航空機及び美術工芸品
  (取得価額が100万円を超えるものに限る。) 種類及び数量
(7) ゴルフ場の利用に関する権利
  (譲渡することができるものに限る。) 
   ゴルフ場の名称
(8) 貸付金
(9) 借入金
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◎政治倫理の確立のための京丹波町長の資産等の公開に関する規則
平成17年10月11日
規則第6号
(資産等報告書等)
第1条 政治倫理の確立のための
京丹波町長の資産等の公開に関する条例
(平成17年京丹波町条例第7号。以下「条例」という。)
第2条第1項各号に掲げる資産等には、
外国にある資産等を含むものとする。
(報告書の訂正)
第9条 報告書を訂正しようとする場合には、
京丹波町長は、訂正届を作成し、
訂正の箇所に認印するとともに、
その氏名及び訂正年月日を記載しなければならない。
この場合において、削った部分は、
これを読むことができるように字体を残さなければならない。
(報告書の閲覧)
第10条 条例第5条第2項の規定による報告書の閲覧は、
当該報告書を作成すべき期間の末日の翌日から起算して
60日を経過する日の翌日からすることができる。
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[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち①丹波町是五則【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
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 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち①
1909(明治42)年3月、革也は2回目の須知町長に就任した。
革也は町長就任に当り、4月3日に次の町是五則を制定したが、
発蒙舘時代の恩師井上堰水に相談したものと見られる。

1. 本分を自覚して職業に勤勉す。
1. 文教を振興して知徳を増進す。
1. 質素を体守して風儀を高尚す。
1. 自治を愛重して町源を涵養す。
1. 進取を目的として守成を領持す。

革也は、40歳という不惑を迎えて町是五則のもとに
須知町政に全力を傾注していた。

奇しくも同じ年に、
船井郡園部町長に30歳の中山伝之丞(九天)が就任した。
中山は革也とは10歳年下であるが、
発蒙館で堰水に学んだ門下生でもあった。
慶応義塾大学理財科を父の病気のため卒業間際に退学。
在学中に社会主義に関心をもち、
矢野文雄の影響をうけ、
園部に帰郷してから執筆にかかり、
「社会主義提要」(京都文港堂、1904(明治37)年8月刊) を
25歳のとき出版していた。

かねてより革也とは親交があり、
革也と同じように犬養毅などとも交友関係をもっていた。

中山の三男が1910 (明治43)年4月24日に生まれたときは、
革也が名付親となって「章」と命名している。

革也の長男平造は、
1910(明治43)年5月に
早稲田大学高等予科政治学科に入学した。
学籍簿によれば、
現住所は東京府豊多摩郡淀橋町角筈7の38 福田英子方、
保証人は東京市日本橋大伝馬町1の25 逸見斧吉で、
『世界婦人」のネットワークである。

『世界婦人」編集兼発行人として石川三四郎が入獄しており、
革也は福田英子に対する経済的な援助も兼ねて
平造を下宿させたものと思われる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/12
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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[岩崎革也略伝]2. 非戦論と社会主義への共鳴【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
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  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

2. 非戦論と社会主義への共鳴
このようなときに、1903(明治36)年4月、
長女きぬを姻戚関係にある三輪田真佐子が
校長の三輪田高等女学校に入学させ、寄宿舎に入寮させた。

従来の岩崎革也研究文献は、
このとき一家を挙げて東京に移ったと
いっているが間違いである。

1903(明治36)年5月4日に茂三郎は革也と改名し、
ここに岩崎革也が誕生することとなった。

改名の動機は今となってはわからない。
ただ、読書欲旺盛な革也ゆえ、
当時出版されていた多くの社会主義文献は
購入し読むことによって、
この世の中を革(あらためる)めようという
気概があったのではないかと推察はできる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/10

4月、長男平造が京都二中を中退し、
東京でエスペラントを学ぶために上京するため、
東京市牛込区市ヶ谷加賀町2丁目33に一家を借入れた。

そして、
三輪田真佐子に長女きぬ、
長男平造の保護を依頼したのであり、
革也の本拠地は依然として須知であったのである。

また翌年1908 (明治41)年12月20日頃には、
北は中国革命運動の軍資金獲得のために
須知の革也宅を訪れたが、
革也病床のため大黒屋に宿泊し、
革也の姉と長女が応待した。
しかし不首尾に終わった。
大黒屋の用箋と封筒を使っての、
病床の革也宛書簡で明らかになった。

1907(明治40)年4月頃、
革也は再婚するが入籍はしていない。
妻は登美子 (35歳)で初婚、
17年間京都市高等女学校教諭として
勤務していた女性である。

その結婚生活の様子は、
革也の招きで「世界婦人」の福田英子が、
岡山への帰省の途中10月中旬に
数日間革也宅に滞在したときのことを、
「世界婦人」第20号(1907年12月15日)の
「旅行中の色々 (一)」で紹介している。

このとき福田は、革也宛の為書きのある
田中正造の書3幅を持参した(口絵写真参照)。
この頃は、もっぱら革也は『世界婦人」に消息をのせ、
福田との交友を深めていった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/11
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年12月09日 06:25
[大黒屋:京丹波町須知]
宿場町の顔だった築350年超の建物を調査・
京都新聞2022/12/8
同町の政治家で、著名な社会主義者との交流で知られる
岩崎革也(1869~1943年)も
大黒屋をひいきにしたとされ、
二・二六事件(1936年)の黒幕とされて処刑された
北一輝も滞在したという。
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[岩崎革也略伝]1. 自由民権運動とキリスト教伝道【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
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 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
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〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
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  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

1. 自由民権運動とキリスト教伝道
岩崎茂三郎
(のち、1903(明治36)年5月4日に革也と改名)は、
父 松本藤三郎(亀岡藩野条村 松本藤佐衛門次男)と
母 くま(野条村 松本四郎兵衛次女)の長男として、
1869(明治2)年12月21日に、
※明治2年12月21日=1870年1月22日
※1869年12月21日=明治2年11月19日
亀岡藩須知村で生れた。

父 藤三郎は造り酒屋松本家に生れ、
のち須知村の岩崎家に杜氏として入って働いていたが、
1876(明治9)年に岩崎家の当主八郎に認められ、
家族全員が岩崎家へ入籍し岩崎姓となった。

父 藤三郎(如雪)は、
岩崎家の家督を相続し、
酒造業「絹屋」の跡目を継ぎ、
勤勉これ努めて一時衰退していた岩崎家を再興し、
一代にして巨大の富を得た。
 -略-
このような時、
18歳になった茂三郎は、
1887(明治20)年2月9日、
親戚の野条村 松本富松 妹ふさ(18歳)と結婚し、
4月15日に父 藤三郎から家督を相続することとなった。
 -略-
当時からキリスト教に入信すれば
財産をつぶすという噂があり、
父 藤三郎から、
茂三郎が入信することを猛烈に反対され、
次第にキリスト教から遠ざかっていかざるを
えなかったのである。

家の隣に教会堂ができ、
茂三郎の入信を心配した父は、
茂三郎を株の勉強のためとして
大阪へ出したと思われる。
1889(明治22)年、
大阪時代の茂三郎は、
大阪で『東雲新聞』を創刊し主筆をしていた
中江兆民の感化を受け、
中江兆民の書生であった
幸徳秋水と接触があったと伝えられるが確証はない。

1889(明治22) 年は、
大日本帝国憲法が発布された年である。
茂三郎は20歳になっていたが、東京に出て、
川合清丸の主張に共鳴したといわれている。
川合は、神儒仏の三教統一による尊王愛国主義を旗印とした
道徳団体大道社を組織していた。
現在、岩崎家に川合清丸の扁額が残っているところから、
茂三郎の少年期から青年期にかけての思想的遍歴は、
発蒙館で漢籍を学び、
自由民権運動に共鳴し、
キリスト教を求道し、
東洋のルソー中江兆民に感化をうけ、
さらに川合の国粋的な思想にも
理解を示すというように複雑である。

一方、須知村で自由民権運動・キリスト教伝道の
中心人物であった前田英吉は、
1888(明治21)年に府会議員に再選されたが、
12月府会で娼妓廃止の建議を提出するが賛成者がなく、
1889(明治22)年11月、
府会議員をはじめ一切の公職を辞任し、
家族とともに大阪に出て、
さらに1892(明治25)年6月に一家をあげて北海道に渡った。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

北海道札幌に渡るに際し、
かつて山陰街道の本陣であった土地すべてを
須知村に寄贈して移住した。
今、その跡地に前田の篤志を顕彰して史跡碑が建立されている。

前田は、札幌で洋品店を経営するとともに、
札幌独立教会、禁酒会のために尽力し、
札幌社会問題研究会を設立し、
幸徳秋水を迎えて社会主義演説会を開催し、
日露戦争時は、社会問題研究会の例会や至誠会との交流、
さらに札幌平民新聞読者会の中心人物として活躍している。

前田が去った後の須知村は、
明田吉五郎がキリスト伝道の中心人物となり、
丹波教会の主任執事となる。
1888(明治21)年、市町村制実施により、
9カ村が合併して須知村となり、
明田は村長となり3期つとめ、
この間、府会議員に当選するが、
1898 (明治31)年10月に一切の公職を辞して、
福井へ移住した。

明田にしろ、前田にしろ
素封家の坊ちゃん育ちの旦那衆であったため、
キリスト教に接することによって、
その倫理的な生活態度は私利私欲を目的とせず、
私財をすてて公共事業への奉仕に終始した。

そのため、
名声の上昇とともに財産を失うこととなったのである。
同じく坊ちゃん育ちの茂三郎に対する
父 藤三郎の危惧は的を射ていたことになり、
キリスト教から遠ざけたことは
岩崎家にとって正解であったといわざるをえない。

東京から帰ってきた茂三郎には、
1890(明治23)年1月に長女きぬ、
翌1891(明治24) 年5月に長男平造、
1893(明治26)年7月に次男耕作が出生した。

しかし茂三郎の夫婦生活は円満ではなく、
茂三郎は島原や城崎温泉に
専用の部屋があるというほどの
放蕩生活であった。

その理由を、
長女きぬの女婿 岩崎吉勝は後日、次のように語る。
「妻ふさは、貞淑の上に万事に行届いた仕え方は
 先以て舅姑の覚えが殊の外めでたかった。
 ……さて鋭敏隆鼻自意識が強く
 自尊心の高い若い夫にとって、
 父母のお声がかりの、我が妻としてよりも
 あまり行届いた姉すがたで仕える態度に・・・
 厭気がさして胸底甚だ楽しまない。
 …『ふさは親達の嫁であって私の妻ではない」と
 屢々父母に訴え不機嫌を呈するのが常態であった。」

しかし、この主張は認められず
また許されずに生活が荒れたのである。

さすがの父 藤三郎も、あまりの放蕩生活にあきれかえり、
1894(明治27)年8月に茂三郎を勘当し、
戸籍から除籍して孫 平造 (3歳)に
家督相続をさせるという挙に出た。

そして、その年の12月に藤三郎は須知銀行を設立し
頭取に就任したのである。

ところが、翌1895(明治28) 年6月に藤三郎が突然死去し、
茂三郎が家業の酒造業と銀行業を引き継ぐこととなった。

当時、岩崎家は、船井郡内10ヵ町村にわたって
30余町歩の田畑をもち、
小作米400~500石に及んでいたといわれている。

1898(明治31)年2月に
茂三郎は自ら勘当を解いたのであろう家督を相続し、
4月には三男三郎が誕生した。
間もなく、銀行業に専念するため酒造業を廃業している。

しかし、夫婦関係はうまく行かず、
1899(明治32) 年4月に
城崎温泉の安達みねとの間に男子を生むことにより、
ついに5月に妻ふさと協議離婚することになったのである。

岩崎吉勝は、革也は今まで何度か出たり入ったりしていた
悶着の夫婦関係を清算しようとして
正式に離婚手続をとったという。

その理由を、
「1は自尊心の奪還であり、
 1は家族制度という封建への反逆」といい、
これこそが茂三郎が革新思想に突進せしめた原因であった。
この点を看過して黙殺せしめては
社会主義に走らせた謎は解けないともいうのである。

1900(明治33) 年3月には須知村村会から推挙され、
31歳で須知村村長に就任し、
翌1901 (明治34) 年7月に、
高原村・竹野村と合併し須知町となり、
初代須知町町長となった。
しかし、1902(明治35)年12月に病気(頭痛)のため
町長を辞任したのである。
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『岩崎革也年譜』の作成にあたって:太田雅夫1993(平成5)年10月1日【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

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出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993(平成5)年9月22日 受理
 1993(平成5)年10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

 『岩崎革也年譜』の作成にあたって
1993(平成5)年の本年は、
1903(明治36)年10月27日に幸徳秋水と堺利彦が、
「平民社」の結社届出をし、
11月15日に週刊『平民新聞』創刊号を発行してから、
満90年を迎える記念すべき年である。

また、平民社に関係した人物でいえば、
田中正造の没後80年、
大杉栄の没後70年、
平民社の中心人物であった
堺利彦の没後60年でもある。

さらにもう一つ加えるならば、
本年譜の主人公、
平民社の財政的援助者として有名な
岩崎革也の没後50年に当るのである。
 -略-
もう一つは、
明治大学法学部教授山泉進
「観音峠を越えて一秋水と秋月-」
 『初期社会主義研究」
第5号(1991年12月刊)の論文である。

これは、塩田庄兵衛編
『増補決定版 幸徳秋水の日記と書簡」
(未来社、1990年4月刊)に収録 
(秋水の革也宛ハガキのみ収録) されていない、
封書を中心とした
岩崎革也宛の幸徳秋水・幸徳千代子書簡計16通
(生前坂本清馬が秋水の筆をまねて模写されたもの)
を紹介し、
平民社時代の幸徳(秋水)と革也(秋月)を
新しい視点から論じている。
そして、
「遺族宅に原本が存在しているものと考えられる」
と記したのである。

私も初期社会主義の研究を志してより、
岩崎革也という人物に強い関心を抱きつつも、
調査を行なうことなく、すでに
『初期社会主義史の研究-明治30年代の人と組織と運動-』
(新泉社、1991年(平成3年)3月刊)を出版した。

山泉論文を読むことによって、
もう一度岩崎革也の関心を呼びおこし
衝動にかられていた。

丁度そのとき、
偶然にも私の知人宅間恒子氏が、
岩崎長氏宅の隣家岩崎純一氏と
親戚であることを知ったのである。

さっそく岩崎純一氏を紹介していただき、
1992(平成4)年初春に書面にて、
岩崎革也関係資料の調査をしたいので、
岩崎長氏と交渉して下さるよう依頼を申し上げた。

その結果、1992(平成4)年2月末に直接、
当主の岩崎長氏から電話をいただき、
当分の間多忙が続き、
未だ充分に資料の整理もできていないので、
改めて連絡しますとの返答をいただいた。

1992(平成4)年6月初旬、
森本啓一氏(伊丹市収入役)から電話があり、
「今日、須知の岩崎長氏宅へ行き、
 長氏とお会いし、
 先生の書簡などを拝見しました。
 実は私の長男と長氏の三女とが
 今年の3月結婚しましたので、
 岩崎革也について関心をもち、
 先生の著書や『初期社会主義研究』第5号など
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/7
 を購入して読んでいるところです。
 長氏から太田先生に6月か7月中に
 調査に来ていただいて結構ですとのことでした。
 その節は私も同道いたします。」
という誠に嬉しい伝言であった。
聞けば森本氏は、
私の出身大学法学部の後輩でもあるという。

折角の機会でもあるので当主の岩崎長氏の了解をえて、
山泉教授と同志社大学人文科学研究所
田中真人教授にも参加していただき、
夏季休暇に入った
1992(平成4)年7月25・26日の2日間にわたる

岩崎革也探訪の旅となったのである。
3人とも年来の夢が叶うという喜びに溢れ、
25日は、園部町の石川楼に宿泊し
議論に花を咲かせた。
このときの田中教授の話は、
「観音峠越えの前夜」『初期社会主義研究』第6号
(1993年1月刊)に収録されている。

翌朝、私たちは、森本氏の出迎えをえて車で須知へ向った。
途中、観音峠にさしかかったさい下車し、
今を去る72年前、新年の厳冬のなかを、
堺利彦が歩いたという観音峠の旧街道を
往時を思い浮かべつつ少しの行程歩いてみたのである。

須知の岩崎革也旧邸は、
築後100年は経つというのに
往時を偲ぶにふさわしい富豪の邸であった。

最近の伝聞によれば、
旧邸を高速道路が貫通するために、
数年後にはその姿を消さざるをえないということで
誠に残念である。
 -略-
貴重な資料の損傷を防ぐためにも、
これらのマイクロフイルム化を、
岩崎長氏に強くお願いをし、
当面、森本啓一氏に協力を依頼し、
書簡のリスト作成に全力を挙げることとした。

その後、丹波町須知茶ノ木山にある革也の墓に詣でて、
岩崎革也旧邸をあとにした。

この二日間は、実り多き探訪の旅であったと
いわざるをえない。

森本氏のご努力により
「秋月文庫 岩崎革也宛書簡集仮目録」が完成し、
岩崎長氏も快く私たちの意図するところを
お汲みとりいただき、
マイクロフイルム化の承諾を与えて下さったのである。
幸いにも、田中教授のご尽力により
同志社大学人文科学研究所で、
マイクロフイルム化の費用を負担して下さることになり、
ようやく実現する運びとなった。

「『秋月文庫』(岩崎革也宛書簡集およびその他資料約600点)
 マイクロフイルム化に関する覚書」を、
岩崎長氏と岩崎革也研究会(田中真人・山泉進・太田雅夫)
との間で交換し、
1992(平成4)年12月15・16日の2日間、
田中教授と私は再度、革也邸を訪れて
マイクロフイルム化の作業を終えたのである。

私は、今後の岩崎革也研究の基礎資料として、
「岩崎革也年譜」の必要性を感じ、
森本啓一氏との共同作業で作成にとりかかり、
一応未定稿ながらここに
「岩崎革也年譜」の完成をみたのである。
 -略-
『岩崎革也年譜』を、平民社創立90周年記念として、
また、岩崎革也没後50年の10月13日付で発行でき、
岩崎革也の霊前に捧げることに幸せを感じるのである。
  1993(平成5)年10月1日
  太田雅夫
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/8
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歩兵少佐 故鈴木良光 寡婦 鈴木雅 終身扶助料 年額 百五拾圓也:明治17年10月21日

件名標題 10_21仙台鎮台軍人寡婦より扶助料下賜度旨出願
レファレンスコード C09071869000
資料作成年月日 明治17年10月21日~明治17年10月21日
規模 4
組織歴/履歴 陸軍省

内容
明治十七年十月二十一日
二十五日付 卿 総務局長 房長
 壹第一一三五号
仙台鎮台 軍人寡婦ヨリ扶助料
下賜度旨出願

主任局長 副長及次長 主任課長
別紙 壹第一一三五號 出願之件 審按仕候處
恩給令第二十一条ニ適シ
扶助料可賜者ニ付 左ニ太政官ヘ御上申案
取調及上申候也
C200093384400_0001
〔画像〕C200093384400_0001

   御上申案
歩兵少佐故鈴木良光寡婦扶助料
下賜之儀ニ付上申
 東京府武蔵国小石川区武島町 士族
 宮城県仙台区大聖寺表門通 寄留
    非職
 歩兵少佐 故鈴木良光 寡婦
 一 扶助料年額 百五拾圓也 雅
右 故歩兵少佐鈴木良光儀 病ニ罹リ
仙台陸軍病院ニ於テ
明治十六年十二月五日 死去致候
就テハ明治十六年九月十一日
欽定陸軍恩給令ニ拠リ
右寡婦ヘ終身扶助料トシテ
前@ニリ年額下 賜度
C200093384400_0002
〔画像〕C200093384400_0002

依テ別紙願
C200093384400_0003
〔画像〕C200093384400_0003
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年11月06日11:25
非職歩兵少佐「鈴木良光」
仙臺陸軍病院ニ於テ去ル五日死亡セシ
【官報 1883年12月12日】明治16年
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/45358052.html
【官報 1883年12月24日】明治16年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治16年
◎故歩兵少佐鈴木良光 外一名ハ
 一昨廿二日各左ノ通仰渡サレタリ
 故歩兵少佐從六位勳四等 鈴木良光
 多年奉職勉勵候ニ付
 爲祭粢料金貳百五拾圓 下賜候事
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年11月03日15:20
《鈴木雅子さん》陸軍中佐の未亡人で、
横浜二百十二番館の女學校を卒業した英語の達者な女性でした:
大関 和(ちか)【明治百話】昭和6年
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[我が家の花壇]20260429


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[端艇部]昭和十三年度學友會各部部員【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年

【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
出版者   關東學院高等商業部學友會
出版年月日 1938.5
p1【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
〔画像〕p1【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/1
  各部員一覽
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/21
  昭和十三年度學友會各部部員一覽
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/22
端艇部
部 長    木川 敎授
主 將 三B  勝野  信
委 員 三A  森 荒治朗
       佐々木長重
    二B  八木原修良
    一C  若宮 得成
       市村喜八郎
       神谷 照煕
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/25
昭和十三年五月廿二日印刷
昭和十三年五月廿五日發行
編輯兼 白山源三郎
發行人 横濱市中區三春臺
    關東學院高等商業部
印刷所 成信舎印刷所
    横濱市中區戸部町六丁目二一三番地
    電話(3)六三三六番
發行所 關東學院高等商業部學友會
    横濱市中區三春臺
    關東學院
    電話(3)〇二〇一番一二五三番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/38
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[野球部]昭和十三年度學友會各部部員【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年

【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
出版者   關東學院高等商業部學友會
出版年月日 1938.5
p1【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
〔画像〕p1【會員名簿】關東學院高等商業部學友會 昭和13年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/1
  各部員一覽
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/21
  昭和十三年度學友會各部部員一覽
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/22
野球部
部 長    川崎 敎授
主 將 三A  川口 文雄
委 員 三B  新美 爲三
マネヂヤー
    三A  加賀谷吉之助
〃   一C  西池 英顯
部 員 三B  溫  瑞雄
    二A  吉村 和雄
       湊   康
       佐藤 一郎
    二B  平塚 總平
       佐藤  正
    一A  粟屋禮次郎
       山本  良
       平野 精一
    一B  井上米吉郎
       川崎 瀧男
       澁谷  敏
       池畑 喜幸
    一C  乾  一馬
       中村 勇吉 
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899485/1/25
昭和十三年五月廿二日印刷
昭和十三年五月廿五日發行
編輯兼 白山源三郎
發行人 横濱市中區三春臺
    關東學院高等商業部
印刷所 成信舎印刷所
    横濱市中區戸部町六丁目二一三番地
    電話(3)六三三六番
發行所 關東學院高等商業部學友會
    横濱市中區三春臺
    關東學院
    電話(3)〇二〇一番一二五三番
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