(第一幕)御愛妾ミス日本召抱えの段:宮様商賣一ヵ年を探る【真相 3(7)(19)】1948-06

【真相 3(7)(19)】1948-06
出版者   鶚出版
出版年月日 1948-06
p1【真相 3(7)(19)】1948-06
〔画像〕p1【真相 3(7)(19)】1948-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/3555910/1/1

   宮様商賣一ヵ年を探る
   かれらは何をしているか?


 (第一幕)御愛妾ミス日本召抱えの段
かえりみれば、
敗戰の翌年(昭和21年)五月二十七日、
連合軍から十四皇族の財産特權剥奪指令が發せられ、
昨年(昭和22年)十月十四日十一宮五十一人が
いよいよ皇籍を離れて約一年。

雲の上で特權と敬語の温室に育つた
元宮樣たちの生活は、
それなりに相當きびしいもので
あつたにちがいない。

總額千七百四十七萬五千圓の一時金が、
當時皇室經濟會議で松本治一郎(社)が
ダメをおしたように、
「その使途に充分に注意」
されたであろうか。

豺狼のような思惑屋のえじきに
なつてはいないか。
財産税に苦しめられ、
インフレにおびやかされながら、
宮内府の手もはなたれた
おんば日傘そだちの彼らが、
宮樣廃業後どうやつて生計をたて、
またどれだけ意味のある生活をしてきたか。

「久邇香水」は元六櫻社日野工場長だつた
手島某のオパレスク化粧料本舗
(敗戰後設立、立川)で
昨秋から製造に著手、
特に「高貴な」ものにするため、
久邇の紋章を圖案化した外裝の印刷で
發賣がおくれたという(グラフ參照)。

大體元皇族は事業に消極的で、
あえてとりまきの思惑屋とはいわないが、
一般に外部から持ちこまれる話に應じて、
會長とか社長、顧問などにおさまるのが普通。

久邇の香水もその一つで、
手島の希望で會長に豫定されている。

久邇は子女が多いせいで、
最高額の一時金をもらい、
元皇族中トップの財産家になつた。
「元來事業にはあまり關心がなかつた」
(本人談)とはいえ、
現在手をつけている事業の數では彼が最高。

なかでももつとも乘氣をみせているのが、
大島漁業株式會社
(椿油の岡田が社長。
 太平洋近海の漁業を一本に大々的にやる計畫)で、
安井東京都知事の切なる要請で今度會長に就任した。

標準語普及を目的とする
敎育レコード會社でも久邇を會長に戴き、
近く交詢社一階に手廣く事務所を設けて發足する。

久邇本邸は、
財産税のために大映に約六〇〇萬圓で賣却
(その後轉賣されて、聖心女子大學が使用)
母俔子(邦彦王妃)のいた別邸
(同じく常磐松)に移つたが、
家族は二十歳の邦昭をかしらに子供七人。
母親と本人をあわせて九人だが、
召使いの數が(最近人べらしをした結果)二十人。

生計費が月十萬圓かかる。
天皇一家の月百三十萬圓には及ばぬが、
相當なもの。

感心なことに他の宮家とちがい
タケノコ生活の經驗はないという。

記者が豪華なじゆうたんを敷きつめた部屋で
インタビューした際も
「君ら、タマネギ生活なんかしていたら、
 さきざき困るじやないか」
とオウヨウにさとされた。

自家用車も他の宮家では
タケノコのたしにしているが、
久邇家では時價百五十萬圓のキヤデラツクを筆頭に三臺、
さすがに現皇后の兄貴だけの貫錄をみせている。

で、もつぱら事業を盛大に、
収入の增加をはからざるをえず、
結城豐太郎を財政顧問として、
有利な企業を物色、
まず「ダンスホール」二軒に投資したが、
其の一つメリーゴールド(銀座)は
兒玉機關の一變形。

昨秋後樂園でミス日本となつた
岐阜の後藤某女を引抜いて
ナンバーワンで賣つたが、
最近この花形が雲がくれして
新聞紙上をさわがしたと思つたら、
ナンオコツタイ、
昨年知子夫人をうしなつて
空閨をかこつ久邇氏がすばやくさらつて
御愛妾になさつていたとは、
オシヤカ樣でも御存知あるめえ。

もう一つのクラブ・パール(神田)は
堂々「御同伴專門」と銘をうつた
インチキ・ホール。
眞ツ晝間から御同伴の二人づれが、
スローなテンポで、
頬つぺたをくつつけ、
チークダンスをやつている。

時々は特別豪華なシヨウもあるが
所轄署は見て見ぬふり、
さすがに宮樣の營業だけに
特權をみとめているらしい。

久邇はこのほか、
化粧品の櫻屋
(三井本館、社長は海兵時代の同期生
 福田良人元大佐)
に出資、
東北牧場(靑森縣七戸市)
では取締役會長、
また久邇奨學金を出す英語五千字會でも
會長をやつているが、
會長の兼務がすぎると集中排除法に引つかかるので
目下思案中とあつて、
日本觀光施設會社では相談役をやつている。

ちなみに久邇一家の事業熱は
京都に別居中の靜子さん
(多嘉王妃、朝融の叔母)
にもおよび、
上京區の邸内なる久邇洋裁學院は
生徒二百人の盛況とある。

 (第二幕)ポンせんべい機販賣の段
p4【真相 3(7)(19)】1948-06
〔画像〕p4【真相 3(7)(19)】1948-06
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一九四八年六月一日 發行
眞相(第三巻第七號 通巻第十九號)
       定價    三十圓
       送料     一圓
       半年概算 百八十圓
編集 發行人 佐和慶太郎
印刷所    日本印刷工業株式會社
發行所    人民社
       東京都中央區銀座西二ノ三
       電話 京橋(56)〇四六四番
       振替 東京一一五二一一番
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(序幕)御紋章入り衣類賣拂いの段:宮様商賣一ヵ年を探る【真相 3(7)(19)】1948-06

【真相 3(7)(19)】1948-06
出版者   鶚出版
出版年月日 1948-06
p1【真相 3(7)(19)】1948-06
〔画像〕p1【真相 3(7)(19)】1948-06
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   宮様商賣一ヵ年を探る
   かれらは何をしているか?

 (序幕)御紋章入り衣類賣拂いの段
柳の綠に映える銀座の舗道を最近漫歩した人は
スピーカーから流れ出る
こんな聲をきかなかつたろうか。
-銀座の皆樣、久邇樣の久邇香水の
 香りゆかしい喫茶室で名曲をお聞き下さい。
-こちらは銀座のナツメでございます。

 間斷ないレコードのメロディーとともに
貴族的な女性の聲が尾張町の一角で
そぞろ歩きの客に呼びかける。

ウインドウには「久邇香水直賣所」
のビラが貼つてある。

元宮樣の久邇朝融がはじめた
久邇香水の直賣所たるこの店は、
すでに早く一昨年の八月頃から
インフレの荒波にたえかねた
元華族の御令嗣たちが、
血縁の元妃殿下連中をそろつての内職かせぎ。

古物商として委託販賣にあたる美術部と
特撰の食料品部と高級喫茶部の三つにわかれ、
間口三間奥行十間の小店ながら、
にぎにぎしくも、
いとみやびやかである。

數人の男女店員にまじつて
かいがいしく働く貴婦人は、
松平俊子
(秩父宮妃勢津子の叔母、
 李鍵公妃佳子の母親。
 戰時中は荒鷲母の會や航空婦人會會長をつとめ、
 日本女子專門學校長の敎職を追放された女丈夫)
を筆頭に、
松平幣子(ぬさこ)、松平親子(ちかこ)、
倉橋俊子、加藤新歌子(しかこ)など、
德川、鍋島、毛利系のそうそうたるところが出そろい、
親戚にあたる元竹田宮の光子夫人なども
ときどき店に立つ。

賀陽敏子、閑院直子、伏見朝子などの
元妃殿下はいうにおよばず、
「天皇・皇后以外のほとんど全部の宮樣方が
 お成りあそばします。」
(夏目の女主人談)。

しもじもには手にとどかぬ
高價な食料品部、
喫茶部もさりながら、
この店の壓巻は何といつても
美術部の衣類の委托。

中央の「衣類受入口」で、
金砂を召してお化粧も濃い
「松平の奥樣」方が、
次々と持ちこまれる
きらびやかなお召類の品定め、
お家流の水莖のあとも
うるわしく記帳あそばす。

ウインドウにならぶ衣類、
身の廻り品などすべて
「上ツ方のタンスの底に鎭座していた御品々」。

はじめは妹連中を通して
衣類などを賣りに出した皇族も、
最近は「御自身お出かけ」になり、
德川のアオイの紋のとなりに
菊の紋章がならんでいる。

ここの店主は夏目タツ
(三田の土地建物、金融業、
 夏目合名會社社長、不動産協會理事、
 夏目喜次郎の細君、
 女子美術を出てから
 學校關係の金融相談を
 やつていた女金貸)、
松平俊子との關係から
前記一連の婦人たちと働くことになつたが、
もつぱら「上ツ方」や「天下の財閥」の
御歷々を對象にすこぶる盛況。

昨年度の所得一五〇萬圓以上、
一カ月の賣上げは一〇〇萬圓を下らぬ
(京橋税務署しらべ)
最近は宮家御用達で古くから有名な
赤坂山王の「有職ずし」の
委託加工もはじめるとか。

ついでながらここに働く女店員は、
ほとんどが夏目の自宅を寮に、
食事付でやとわれて、
朝は十時から夜は十一時まで、
休憩なしの働きずめ、
今樣女貫一タツさんは
どうやら勞働基準法など
御存知ないようである。

 (第一幕)御愛妾ミス日本召抱えの段
p4【真相 3(7)(19)】1948-06
〔画像〕p4【真相 3(7)(19)】1948-06
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一九四八年六月一日 發行
眞相(第三巻第七號 通巻第十九號)
       定價    三十圓
       送料     一圓
       半年概算 百八十圓
編集 發行人 佐和慶太郎
印刷所    日本印刷工業株式會社
發行所    人民社
       東京都中央區銀座西二ノ三
       電話 京橋(56)〇四六四番
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[安商浩]桃山虔一(李鍵):安商浩とその妻【親和 (201)】昭和45年(1970-09)

【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
出版者   日韓親和会
出版年月日 1970-09
p1【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
〔画像〕p1【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252082/1/1

    故 郷
  桃山虔一(李 鍵)
ホテルの二十五階の窓から眺めたソウルは、
はじめて来た異国の街であるかのような
錯覚を起こさせるほどの変りようであった。

私が前にソウルに来たのは、
一九四三(昭和一八)年の五月が最後で、
今度はそれから二十八年ぶりということになる。
    -略-
  「大韓独立万歳!」
    -略-

  安商浩とその妻
祖父(高宗、李太王煕)が急逝したのは
一九一九(大正八)年一月二十二日の
明け方のことであった。

一族の大黒柱であった祖父の死は、
人々を深い愁いに沈ませた。

平素は病気一つしたことのない
健康な人であっただけに、
七十の声も聞かないで世を去ったことは、
ひとしお哀惜の念をそそった。
    -略-
祖父の死因は脳溢血と発表されていたけれども、
巷間には「日本の官憲に一服盛られたのだ」
との噂がひろまっていた。
    -略-
ところで、今度は二カ月前の
一九一九(大正八)年一月にパリで開かれた、
第一次世界大戦後の講和会議に、
祖父がまたもや密使を送ったとか、
送ろうとしたとかいう噂がたって、
それがもとで日本の官憲に
一服盛られたというのである。

祖父を死に至らしめた下手人は、
典医(侍医)の安商浩だとのことであった。

安商浩が名医であったか、
どうかは審かでないが、
彼がソウルで有名な医師の一人で
あったことはたしかである。

一族をはじめ知名の人の中には
この医師の診療を受けている者が
非常に多かった。

幼時ひどく虚弱であった私のことを
「十歳まで生きることはむずかしい」
と予言したのも安商浩である。

安商浩は日本(大阪か神戸)で苦学をして
医術を修めた人で、
妻女は留学先から連れ帰った日本女性であった。

この女性は母のところへも時折挨拶に来ていたが、
あるときなどは私のツーチンボ(通信簿のこと)を
見たいといい張ってきかず、
閉口したことがある。

妻女のこのように
積極果敢な社交性のおかげを蒙って、
安商浩は総督府その他の日本人官吏の中にも
多数の患者を持ち、
それらの家庭にも繁く出入りをしていたようである。

そんなところから
下手人にされたのだろうと思うが、
真偽のほどはもとより不明である。
p17【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
〔画像〕p17【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252082/1/17

社団法人 日韓親和会
東京都千代田区猿楽町二ノ五ノ五

「親和」第二〇一号  一〇〇円
昭和四十五年九月十五日発行
半年分(送料共) 五百円
一年分(送料共) 千 円
振替口座東京一七五四七
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252082/1/30
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[安商浩]君の夫人、川口磯子さんは長州馬關の産で、當年二十七八歳の美人である【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)

【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
出版者   朝鮮公論社
出版年月日 1913-09
p1【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
〔画像〕p1【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/1

  日鮮同化の魁 鮮夫日妻 評判記
              欣草生
  (一)醫師 安商浩君
  ……由來多幸な男……
  ……花の如き川口磯子さん……

◆試みに南大門内の一點より金參錢を投ぜよ。
東大門行電車は京城の一大動脈たる
南大門通を五分間にして縦貫し、
更に一轉して、
第二の大動脈たる東大門通を驀進する。

行くこと一分にして、
累々たる朝鮮家屋の連互せる間に、
一段高く、
古色稍蒼然たる正方形の一西洋館が見える。

扁して曰く、
醫學得業士、安商浩。

更に試みに扉を排して診を乞(もと)めよ。
痩身小軀、短髪赭顔、
痘痕斑々として風彩の頗る擧らない一國手が、
淸洒たる白衣に身を纏うて、
欣然として迎へ、
極めて打解けた態度で、
先づ「御容體はと」問ふであらう。

言葉から態度から、
尠(すこ)しも日本内地人に違はない。
是が醫學得業士安商浩 其人である。

◇君は當年四十歳の働盛り、
曾て東京に遊び、
高木兼寛男の慈惠院醫學校に學び、
明治三十三年五月及明治三十五年五月の兩度に於て、
内務省醫師開業試驗の前期及後期を、
抜群の成績で合格し、
醫學得業士の稱號を得た。

歸來現時の處に開業し、
朝鮮に於ける刀圭界の先覺者として
君獨特の外科刀を揮(ふる)ひ、
從來の人蔘醫者をして顔色なからしめた。

君は朝鮮人には稀有(めずら)しい才氣溌溂で、
又非常な勤勉家である。
一年三十有六旬、
君の門前市を爲すのも故なきでない。

◆君の夫人、川口磯子さんは、
長州馬關の産で、
當年二十七八歳の美人である。

茲に窈窕なる磯子夫人に就て、
何人も羨むお目度い逸話がある。

◇安君は由來多幸な男で、
君が首尾よく醫學得業士の免狀を握つて、
愈々慈惠醫院の醫師となり、
尚ほ斯學の研究に餘念なかつた頃、
丁度現時の李堈公殿下も等しく
東京の別邸に在つたので、
君は高木男爵の推薦で、
同殿下附の醫師に聘せられた。

多幸なる安君が、
殿下附の醫師として、
殿下の健康を一身に引受け、
專ら過失なからん樣にと献身して居た頃
一方同じ殿下の上女中と云うふ名義で、
朝夕殿下の御身の廻一切の事を
お世話して居た二十二三の美人があつた。

今迄解剖だの黴菌だのと、
顯微鏡の底ばかりを覗いて居た
安君の眼球の水晶體を透して、
茲に端なくも美しい婦人の姿が、
異樣の尊き輝きをはなつて
視神經を刺激し、
奇しくも安君の心臓を躍らせた。

常に科學の論定から宇宙の萬有を赤裸々にし
盡さずんば已まざる安君の勇氣を以てするも、
猶且つ此の奇しき物體に一指だも染むることを得ず、
是に於て遂に宇宙の不可解を感じたかどうか
それは知らぬが、
果斷家の安君は遂に決心した。

そして一日殿下の御機嫌よき日を待つて、
彼れは明瞭に意中を言上し、
殿下の寛大なる御處置を懇請した。

殿下にはいと粹に渡らせられ、
諾と云つて微笑を給ふた。
安君は果報な男である。

斯くて明治四十年春三月、
名にし負ふ壇の浦の浦風靜かに、
女波男波の語らひ嬉しく、
花の如く美しい婦人は、
奇才安商浩君の腕に微笑んだ。

安君と磯子夫人は、
斯んな嬉しい運命の糸に繋がれて、
同穴の契りを結んだのである。

◆斯くて戀女房たる磯子夫人は、
佯(いつわり)なき貞操を安君に捧げた。

學成り戀亦成つた安君は、
滿腔の愛を磯子夫人に捧げた。

軈(やが)て貞淑なる磯子夫人は、
花の如き絹子さんと
玉の如き正浩君との一女一男を擧げた。

勤勉なる安商浩君の診察室は、
日に月に榮えた。
二三年の内に宅地も出來た、
田地も出來た。

絹子さんは當年五つで正浩君は二つだ。
純日本内地式に養育されて愛らし盛り、
此頃は内地から祖母さんも見えた。
※写真《京城の辯護士 崔鎭君》
p63【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
〔画像〕p63【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/63

祝朝鮮公論發展
京城中部大寺洞二十九統八戸
辯護士 崔 鎭
(電話九七七番)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/31

大正二年八月二十六日印刷納本
大正二年九月  一日發行
編輯兼 中村初五郎
發行人 東京市京橋區新榮町三丁目壹番地
印刷人 武井 万二
    東京市小石川區小日向臺町三ノ七七番地
印刷所 日本印刷株式會社
    東京市神田區三崎町三丁目一番地
    電話本局一八四〇・一八九八
發行所 朝鮮公論社
    東京市京橋區加賀町二番地
    電話新橋二六〇番
總支社 朝鮮公論總支社
    京城太平町
    電話二三九八番一〇七〇番
朝鮮大賣捌所 -略-
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/76

日刊 日本電報通信
京城太平町 電話二三九八番一〇七〇番
株式會社 日本電報通信社支社
支社長  牧山耕藏
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/79

天下の兩切紙巻煙草
   パイレート
輸入元 京城 平壌 釜山
英米煙草株式會社
p83【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
〔画像〕p83【朝鮮公論 1(6);9月號】大正2年(1913-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186875/1/83
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[安商浩]學校出身者で當直醫より累進して醫長となったのは安商浩を以て嚆矢【成医会雑誌 39(1/2)】大正9年(1920-07)

【成医会雑誌 39(1/2)】大正9年(1920-07)
出版者   東京慈恵会医科大学
出版年月日 1920-07
p1【成医会雑誌 39(12)】大正9年(1920-07)
〔画像〕p1【成医会雑誌 39(1/2)】大正9年(1920-07)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/1

故成醫會長醫學博士男爵高木兼寬先生遺影
p3【成医会雑誌 39(12)】大正9年(1920-07)
〔画像〕p3【成医会雑誌 39(1/2)】大正9年(1920-07)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/3

 花 岡 三
閣下并に先輩同僚諸君、
本夕私は故高木男爵閣下の追悼會を開催せらるゝに方り
此席に立ちまして感慨の念が殊に深いのであります、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/18

又話は別でありますが
是も後進指導に御熱心の好例としては
私共と同時代に韓國人で安商浩君が居りました、
同君は御承知の方もありますが
韓國留學生として渡來してより
種々の艱難辛苦の末
日本人としても耻しからぬ丈けの
學力を得て居りましたが、
先生の殊遇を受けた事は
私共の同僚の比ではなかつたのであります、

先生が何故に同君を斯く熱心に
誘導せられたかと想像致しまするに
韓國當時獨立して居つたから
同君が韓國へ歸つて衛生に醫育に
其他の事に就て恰も先生が
英國に於て修業せられ、
日本の醫學乃至文明開發に努力せられたる如く
同君を敎導し先生の大精神を遠く
韓半島に扶殖せられんとする
御信念もございましたろふし

又尚進んでは御自身の御理想を韓國の邊土に迄も
普及せしめられんとする御希望もあつたと
推察せらるゝのでありますが、

安商浩君は進んで慈惠醫院の當直醫長と迄なりました、
確か同君迄は歷代の醫長は海軍軍醫の方々で
學校出身者で當直醫より累進して
醫長となつたのは
先づ 安商浩を以て嚆矢として宜しいと思ふ、
p20【成医会雑誌 39(12)】大正9年(1920-07)
〔画像〕p20【成医会雑誌 39(1/2)】大正9年(1920-07)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/20

 東京慈惠會醫院醫學專門學校
 昇格後援會寄附者芳名
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/68

金千圓 安商浩
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/73

大正九年七月十八日發行
編輯兼發行人 市川  浩
印刷人    川出壽三郎
發行所    成醫會
       東京市芝區愛宕町二丁目十四番地
       私立東京慈惠會醫院醫學專門學校構内
印刷所    報文社
       東京市麴町區有樂町二丁目一番地
賣捌所    丸善株式會社書店
https://dl.ndl.go.jp/pid/1785585/1/80
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[安商浩]東京市に於ける外國人醫師【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)

【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)
出版者   順天堂醫事研究會
出版年月日 1903-11
p1【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)
〔画像〕p1【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1529187/1/1

◎東京市に於ける外國人醫師
 外國人にして東京市内に開業しある者の
 氏名を掲ぐれば左の如し

京橋區明石町四番地  外國醫學校卒
 英國人 テビツトソン、マクドナルド

京橋區明石町十三番地 外國醫學校卒
 米國人 ルタルフホリングトイスラー

京橋區明石町十五番地 外國醫學校卒
 米國人 ホワイテンガエスワルテン

赤坂區赤坂氷川町十七番地 外國醫學校卒
 米國人 ウヰリスノルトンホイトニー

芝區芝公園第五號地二番  外國醫學校卒
 米國人 マートルヱスエルスペンサード

芝區芝公園第五號地    外國醫學校卒
 北米合衆國人 セリダンアルフレツトコツクウード

芝區愛宕町二丁目八番地  東京慈惠醫院 試驗及第
 韓國人 安商浩

麻布區麻布今井町四十一番地 外國醫學校卒
 獨逸人 ヱルウ井ンベルツ

以上ハ普通醫師なるが此外
齒科醫及び藥劑師は左の如し

京橋區西紺屋町四番地 久保田誠磨方 外國醫學校卒
齒科醫 米國人 ヂエームス エスサクース

牛込區市ヶ谷藥王子町八十三番地   外國語學校卒
藥劑師 獨國人 フレドツクヒスターケ

以上 總計十人なりと云ふ
p43【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)
〔画像〕p43【順天堂醫事研究會雑誌 (371)】明治36年(1903-11)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1529187/1/43

明治三十六年十一月廿六日印刷
明治三十六年十一月廿六日發行
發行兼 菅野 徹三
編輯者 東京本郷區湯島五丁目十番地
印刷者 加賀美憲一
    東京本郷區湯島五丁目十番地
印刷所 報文社
    東京京橋區三十間堀三丁目十番地
發行所 順天堂醫事研究會事務所
    東京市本郷區湯島五丁目十番地
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[安商浩]李王殿下に扈從して入京、李王家典醫 徐丙孝、同御用掛 安商浩:去廿八日無事歸城【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)

【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1917-06-30
p1【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)
〔画像〕p1【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183779/1/1

◎徐丙孝・安商浩 兩氏退京
曩に李王殿下に扈從して入京したる、
李王家典醫 徐丙孝、
同御用掛安商浩は
入京以來諸方面より歎侍を受け、
大滿足にて去廿八日無事歸城したりと。

徐氏は最初の入京にして、
殊に長く李王家に奉仕せし人なれば、
内地に於ける氏の感興如何は
吾人の知らむとせる所なりしが、
其の歸途車中にて某氏に洩せる所に依れば、
 日本内地は實に吾骨を埋むべきの所にして
 又同時に吾人知識の揺籃たらしむべき地なり、
 吾人の子孫後進は此の水淸くして、
 山靑き地に於て
 諸大家の薫育に於て
 眞に日本帝國の一員たるに
 恥ざるの材を養成せざる可らず」云々
と、多大の感謝と憧憬とを表したりと。
p2【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)
〔画像〕p2【醫海時報 (1201)】大正6年(1917-06-30)
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[安商浩]李王殿下扈從の典醫:東京慈惠會醫學專門學校出身【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)

【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1917-06-09
p1【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)
〔画像〕p1【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183776/1/1

◎李王殿下扈從の典醫
今回始めて御入京あらせらる
朝鮮の李王殿下に扈從して東上すべき供奉員の中、
典醫として(朝鮮人)は
徐丙孝 及
安商浩の兩氏と、
其外總督府醫官中 内外科より各一名宛、
總督附として入京すべしと、
徐氏は米國にて醫學を修めたる人、
安氏は東京慈惠會醫學專門學校出身也。
(徐氏は高等官三等從五位・安氏は奏任囑托)
p13【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)
〔画像〕p13【醫海時報 (1198)】大正6年(1917-06-09)
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【醫海時報 (1199)】大正6年(1917-06-16)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1917-06-16
◎安商浩 御用掛 招待會
今回、李王殿下に陪從して東上せる
朝鮮 昌德宮 典醫御用掛 安商浩氏は素と、
東京慈惠會醫專校出身者なるの故を以て
同校敎職員諸氏は、
其滯京中、
一夕同氏を招待して盛宴を張るべしと。
p13【醫海時報 (1199)】大正6年(1917-06-16)
〔画像〕p13【醫海時報 (1199)】大正6年(1917-06-16)
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[安商浩]義和宮に扈從して歸國:義和宮が非常に信用せられ、日夕傍らを離されぬ【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)

【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1907-06-08
p1【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
〔画像〕p1【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
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  ◎韓國醫事近况
  《佐藤博士談片》
 韓國の醫事主權者とも見るべき
 佐藤博士は去一日を以て
 歸京せられたれば、
 記者は直ちに妙義阪上の邸に往訪せしに、
 博士は快く面會せられ、
 同國の醫事衞生に關する近况に就き
 左の如く語られたり。
▲今回は京城に滯在する事約一ケ月なりしが、
  -略-
▲大韓病院の工事は遺憾なく進捗しつゝあり、
  -略-
▲建築の一目を眩するものあるも、
  -略-
▲右の内にて衛生家は
實に韓國衛生一般施政に任ずる事なれば、
  -略-

▲右の外に若手の醫員を置くは勿論なるが、
其内には彼の朝鮮人にして
我慈惠院醫學校を卒業し、
同院の醫員を久しく勤め、
内務省の試驗にも及第したる
安商浩氏は義和宮に扈從して歸國し、
高木男爵よりも談しのありし事とて、
余も朝鮮人の患者を診療せしむるには
持つて來いの人物なりと思ひ、
其俸給豫算迄編成し採用に決したるに、
同人は義和宮が非常に信用せられ、
日夕傍らを離されぬ始末にて、
同人は頗る困難し居る趣なりしかば
伊藤統監にも談じ、
義和宮に交渉を遂げて
是非採用する積りなり、
朝鮮に醫育を盛んならしめんには、
同人の如き者を重用すれば、
自然模範となりて、
奬學の爲め利益多しと信じ居れり。

▲統監府の設置されて僅かに一年、
朝鮮の事情が急速の變化をなしたるは
右の義和宮と安氏の事情にても
知らるゝ事なるが、
醫事衛生上の思想の如き亦
大に變化したるを認む、
即ち一例を示せば、
從前は政府の經營せし醫學校ありしも、
一人の入學志望者なく、
食費は勿論被服迄給與するも尚入學者なく、
止むなく種々説諭して無理矢理に
入學させ居たりしに、
本年入學志望者を募集せしに、
應募者實に六百餘名の多きに達せり、
入學試驗の結果、
官費生二十名、
私費生二十五名に入學を許可し、
他は經費其他の都合にて之を拒絶せり、
盖し朝鮮あつて以來の珍らしき現象といふべく、
之を見るも如何に彼等の思想が
急劇の變化をなせしかを知るに足る。
▲入學規程には
日語學校卒業者たる事を明規し居れども、
如何にせん日語學校卒業者は、
昨今賣行頗る宜しく、
彼方も此方も奪合ふ有樣にて、
從つて相當の俸給を得らるゝより、
進んで他の專門學校を収めんとするもの少なく、
不得止(やむをえず)
今回は日語學校を卒業せざるものにも
入學を許可したり、
されば敎授は極めて困難にて、
本邦人敎授の講義は、
飜譯者を通じて生徒に傳へざる可からず、
如斯にしては到底良果を収め難ければ、
將來は成可く
日語學校卒業者に限る方針なるは勿論なり。
p4-1【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
〔画像〕p4-1【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183235/1/4

▲同仁會の事業は韓國に於ては大に見る可きものあり、
  -略-
▲同仁會が推選して鐵道沿路各停車場へ配置せし
醫師の成績は頗る好良にして、
鐵道員を診療する傍ら
一般朝鮮人の診察に任じ、
且地方一般衛生上の指導を勉めつゝあり、
  -略-
▲十三道の監察使に衛生顧問として
一名宛の本邦醫師を聘せしむる事は、
  -略-
p4-2【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
〔画像〕p4-2【醫海時報 (677)】明治40年(1907-06-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183235/1/4
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【醫海時報 (687)】明治40年(1907-08-17)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1907-08-17
▲安商浩氏(韓國人 醫師)
韓國 義和宮殿下の侍醫として來朝せり
p7【醫海時報 (687)】明治40年(1907-08-17)
〔画像〕p7【醫海時報 (687)】明治40年(1907-08-17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183245/1/7
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[安商浩]留學中の朝鮮醫學生:東京慈惠院醫學校の當直醫長を勤め居れりと【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)

【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1904-05-28
p1【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)
〔画像〕p1【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183078/1/1

◎留學中の朝鮮醫學生
同仁會より補助し居りし彼の朴宗桓は、
千葉醫學專門學校の聰はを了へて
目下赤十字病院に實地を見習ひつゝあり、
又東京慈惠院醫學校にて修學後
我が開業試驗に及第したる安商浩は、
目下同院の當直醫長を勤め居れりと。
p5【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)
〔画像〕p5【醫海時報 (520)】明治37年(1904-05-28)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183078/1/5
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