「西三ノ宮城」跡、東麓の道一つ隔てた所に「東三ノ宮城」跡【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984

【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
著者    [丹波内藤会 編]
出版者   [丹波内藤会]
出版年月日 1984.7
 p1【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
〔画像〕p1【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/1

三ノ宮城 145
①船井郡瑞穂町三ノ宮
②③――
④山内孫太郎久豊
⑤山城
⑥本丸・石垣・井戸
⑦八〇m×一八m、標高二八〇m、比高三〇m
⑧―
⑨『丹波誌』『船井郡誌』

三宮小学校の裏、※現:金木犀(特養老人ホーム)
忠魂碑の右側から尾根道を上ると
「西三ノ宮城」跡があり、
東麓の道一つ隔てた所に
「東三ノ宮城」跡がある。

後者は見張台のような役割を
果たしていたものと思われる。
 三ノ宮城址・三ノ宮西城址
〔画像〕三ノ宮城址・三ノ宮西城址[Googleマップ]

町 立 三ノ宮小学校
不断寺 芦田哲雄
 郷土誌「三ノ宮」昭和56年発行
〔画像〕郷土誌「三ノ宮」昭和56年発行

『丹波誌』によると、
当城は山内孫太郎久豊の拠った城で、
山内三郎兵衛宅の背後にあり、
石垣跡・井戸跡もあるといっている。

また貝原益軒の『西北紀行』には、
「山内村あり、
 ※山内村あり。
 是土佐守山内氏の祖先の住めりし所なりと云ふ。
 ※是土佐大守山内氏の先祖の住めりし所也と云。
 此の辺茶種多し。
 ※此邊藥種おほし。
 沢瀉を田にうゑて利とす」とある。
 ※澤瀉を田にうへて利とす。
※【日本紀行文集成 第1巻】1979:下記
  諸州めぐり 西北紀行 巻之上
  貝原篤信記
  https://dl.ndl.go.jp/pid/12458164/1/66

本丸の北側には空堀があり、
それが竪堀となって下方まで続いている。

いまでは普断寺(※不断寺)との間が
道路で切断されてしまったため
旧観は失われてしまった。
なお、城主の子孫といわれる家が残っている。
 p77【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
〔画像〕p77【丹波内藤氏諸記録 第5集】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/77
 丹波内藤会会員名簿
 (船井郡内)
内藤秀治 京都府船井郡丹波町須知新町41
     07718-2-0605
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/145
丹波内藤氏諸記録(第五集)
昭和五十九年七月発行
発行者 内藤  洋
    京都府船井郡日吉町胡麻
編集者 内藤元晴
    京都府船井郡園部町熊崎
編集者 内藤義一
    京都府船井郡日吉町志和賀
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575601/1/147
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【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
著者    貝原篤信 記
出版者   茨木多左衛門
出版年月日 正徳3 [1713]
 p11【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
〔画像〕p11【西北紀行 2巻】正徳3 [1713]
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三ノ宮城(三ノ宮村):山の内甚右衛門、弟小太夫等居住【山内首藤氏史料 第1巻】1967

【山内首藤氏史料 第1巻】1967
著者    前田泰男 編
出版者   前田泰男
出版年月日 1967
 p1【山内首藤氏史料 第1巻】1967
〔画像〕p1【山内首藤氏史料 第1巻】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/1

八 丹波 山内首藤氏族で
     系圖等は第一八項及び第九項参照。

  船井郡橋爪城(橋爪村)
  主に山内伊勢守通意あり、
  その一族山内將監通倫は、
  丹後與謝郡水部氏の聟となり、
  本庄・菅野両城主となる。
  また三ノ宮城(三ノ宮村)は
  山の内甚右衛門、弟小太夫等居住した。

  丹波志の
  天田郡條に
  「山内氏・子孫友淵村。紋丸に三ッ柏、
   赤井浪人と言ひ傳ふ。
   古家と雖、古の塚無し」、
  「山内氏、子孫河合村上河合、日向側坪ノ内に住す」

  氷上郡條に
  「山ノ内氏・大河村。
   古家、山の内甚右衛門、弟小太夫の貳人、
   船井郡三の宮城主也。
   浪人にて來住す」。
 p46【山内首藤氏史料 第1巻】1967
〔画像〕p46【山内首藤氏史料 第1巻】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/46
昭和四十二年七月三十一日印刷
呉市東片山町六八
前田泰男
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708326/1/72
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《小峰菊次郎》丹波町高岡出身・戦後 船井教員組合の執行委員長【親が子供に語る丹波の村落史】1983

【親が子供に語る丹波の村落史】1983
著者    湯浅貞夫 著
出版者   [湯浅貞夫]
出版年月日 1983.3
p3【親が子供に語る丹波の村落史】1983
〔画像〕p3【親が子供に語る丹波の村落史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575445/1/3

p8【親が子供に語る丹波の村落史】1983
〔画像〕p8【親が子供に語る丹波の村落史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575445/1/8

昭和初年に西本梅小学校には
小峰菊次郎という校長があった。

この人は今の丹波町高岡の出身で、
京都師範を卒業し
京都市梅屋校の校長や京都府視学となった人だが、
昭和十年頃は西本梅校長を務めていた。

戦後船井教員組合の執行委員長を務め
社会党の府会議員となった。

この人の伯母が野々口鶴之助の妻として
竹野から埴生に嫁して来ていた。
p60【親が子供に語る丹波の村落史】1983
〔画像〕p60【親が子供に語る丹波の村落史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575445/1/60
親が子供に語る丹波の村落史
印刷・発行 1983年3月20日
著者 湯浅貞夫
編集 日本機関誌協会京滋地方本部
協力 京都市上京区新町丸太町上ル春帯町350
   TEL 075-231-3048
印刷 (株)京都機関誌印刷センター
   TEL 075-211-4651  1400円
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575445/1/120
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京都新聞
応仁の乱ごろ、京都中部に築かれた城があった 
ポンプ倉庫から発見、古文書まとめた歴史冊子
2024年12月1日 7:00
町塚葵
京都府京丹波町高岡の下村地区の歴史を、
地元の男性が冊子にまとめた。
応仁の乱前後に築かれたとされる
高岡下村城跡の解説をはじめ、
地元の古文書をひもといて
幕末から150年余りの郷土史を年表にまとめた。
年中行事なども写真を交え、今に伝えている。

編集したのは小峰章司さん(68)。
2022年に区長を務めた際、
「地元の遺跡や変わりつつある伝統を後世に伝えたい」
との思いで資料探しを始めた。
 ―略―
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【京都府学事関係職員録  大正11年】
出版者   京都府教育会
出版年月日 大正11-14
 ◎竹野尋常高等小學校 竹野村字高岡
校 長 竹野村字高岡  松本 幹治
訓 導 同       小峰菊次郎
同   高原村字豐田  新江田素男
同   同       上田 立治
同   須知町字上野  山崎 英一
同   竹野村字高岡  船越 なか
同   同       野田作之進
同   竹野村字水戸  岸本  好
學校醫 須知町字須知  蘆田 耕平

【京都府学事関係職員録  大正13年】
出版者   京都府教育会
出版年月日 大正11-14
 ◎竹野尋常高等小學校 竹野村
校 長 竹野村字高岡  德田 靜一
訓 導 竹野村字高岡  小峰菊治郎
同   高原村字豐田  新江田素男
同   竹野村字高岡  上原 光枝
同   竹野村字新水戸 高山  末
同   竹野村字高岡  飯田  幸
代用  須知町字新町  佐名木鳳一
同   竹野村字水戸  野々村ヨル
實補  竹野村字高岡 野田作之進
學校醫 須知町字須知  芦田 耕平

【京都府学事関係職員録  大正14年】
出版者   京都府教育会
出版年月日 大正11-14
 ◎竹野尋常高等小學校 竹野村
校 長 竹野村     德田 靜一
訓 導 竹野村     小峰菊治郎
同   高原村     中南 義信
同   高原村     新江田素男
同   竹野村     佐井 三郎
同   竹野村     上原 光枝
同   竹野村     飯田  幸
實補  竹野村     野田作之進
學校醫 須知町字    芦田 耕平
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《菅沼ジョージのアメリカ留学》【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980

【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
著者    深潟久 著
出版者   西日本新聞社
出版年月日 1980.9
p3【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
〔画像〕p3【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/3

 ジョルダン シンフォニー事始め
大北電信会社長崎支店長夫人
カロリン・ジョルダンさんが
長崎にきたのは明治三十四年である。

デンマークのグレート・ノーザン電信会社が
長崎、上海間にケーブル二回線を敷設して
外国通信をはじめたのは明治四年である。

長崎、ウラジオ間にも海底通信を引いた。
その中継所は小ケ倉の千本松原にあった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/64
支店は梅ケ崎に木造二階建て洋館があり、
二階がジョルダン一家の住居になっていた。

ジョルダン家はまったくの音楽一家であった。
支店長オーゲル・ルドウィック・ジョルダンは
バイオリン奏者としてプロの域にあり、
夫人のカロリン・ジョルダンは
デンマーク宮廷音楽学校出身のピアニスト。

長男のアルフはコントラバス奏者、
二男のジェームスは父親に似てバイオリニスト、
音色の美しさとテクニックのうまさ、
音量の豊かさはプロに匹敵する腕前だった。
三男のクニューはピアノとセロ。

アルフは神戸、ジェームスは横浜、
クニューは上海に勤めていたが、
ときどき長崎に集まって
ジョルダンの門人たちと演奏を楽しんだ。

明治三十八年、日露戦争が終わると
長崎音楽協会が創立された。

長崎地方裁判所長山口武洪の発起で、
ジョルダン一家を中心とした楽団を組織したのである。

会長山口武洪、賛助員は知事、市長、
三菱造船所長、三井物産支店長、三菱炭坑社幹部、
官吏、軍人、実業界の知名士らであった。

演奏はジョルダン一家に、
香港上海銀行支店長夫人
マクドナルド(バイオリン)
菅沼ジョージ(バス)
スタンダード石油支店長
プール(バイオリン)
活水音楽教師
アッシュボー(ピアノ)
それに日本人は
長崎高等女学校の音楽教師
青地キチがいた。

キチはジョルダン一家と親しく通訳的存在でもあった。
キチ自身も多くの弟子を以て音楽向上につとめている。

またジョルダンの門人深川正七、
山口武洪の娘山口節子。
節子は長崎高女から東京上野音楽学校に進み、
卒業後バイオリニストとして名声をあげた。

ほかに検事正の娘水上、
平戸町池田屋旅館の娘池田姉妹らがいた。

毎週一、二回、大北電信の階上で猛練習がはじまった。
ジョルダン夫妻の指導はとてもきびしかった。

第一回公演はその階上ホールで、
プログラムのなかに田園交響楽があった。

活水講堂やYMCAホールなどで
しばしば演奏会が開かれ、
長崎市民に大きな感動を与えたのである。

ジョルダン夫妻は休暇で一時帰国したが、
再び長崎にもどって南山手十六番館に住んだ。
したがって練習場は十六番館に移った。

グランドピアノ一台、
アプライトピアノ一台があった。

アッシュボー、ザレスカ、青地キチ、
クズネッオパらが名曲を弾いた。

華やかなスタートを切った長崎音楽協会も、
会員の分散で会の運営が困難になった。

ジョルダン家三兄弟の転勤や
深川正七と
菅沼ジョージのアメリカ留学
外人会員も続々と転出した。
それでもジョルダンは練習を続けた。
p65【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
〔画像〕p65【長崎女人伝 下 (西日本選書 ; 1,2)】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/65
長崎女人伝<下>
深潟 久 1980
1980年9月17日
著 者 深潟 久
発行人 福田利光
発行所 西日本新聞社
福岡市中央区天神1丁目4番1号
郵便番号 810
振替 福岡20番
TEL(092)711・5523
冷牟田印刷 篠原製本
定価1500円
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260279/1/118
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ジョルダン合奏団の人々【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965

【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
著者    藤岡武雄 著
出版者   沖積舎
出版年月日 1982.3
 ジョルダン合奏団の人々
(右より6番目斉藤てる子)
p95【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
〔画像〕p95【年譜斎藤茂吉伝 新訂版】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464215/1/95

特にてる子夫人は、
外人の主宰するジョルダン合奏団に加わり、
歌を唱ったり、
ヴァイオリンをひいたりした。
この合奏団は一方では社交的な色彩をもち、
団員青地キチ宅を中心として、
名流夫人やその子女の社交場として華やかな存在であった。

茂吉のもとに出入りした歌の弟子原道子さんは、
その状況を次のように語っている。
「てる子夫人は二尺四寸(普通二尺)の振袖を着て
 その華やかさが人眼をひいたが、
 その長い振袖が音楽の仲間にも流行、
 外人仲間のダンスパーティにも出入して
 長崎の田舎町に異彩をそえていた」

このジョルダン合奏団の主宰者
カロリ・ジョルダン(Caroline Jordan)夫人は、
デンマークの宮廷音楽学校出身のピアニストである。

同じくヴァイオリンをひく夫
オーゲ・ルードウィック・ジョルダン
(AAGE Ludvic)は
大北電信会社長崎支店長として
明治三十四年頃長崎に来て
南山手十六番に居を構えたが、
夫のジョルダンは大正七年病没、
大正八年てる子夫人の参加した頃は、
ジョルダン夫人を中心に
伊藤辰一郎、青地キチ、深町秋子らが
主要メンバーだった。

ジョルダン合奏団の世話役をしていた伊藤辰一郎は、
マンドリンをひいていたが、
大正二年、当時五十五歳のジョルダン夫人に
ヴァイオリンの教えを乞い、
その後
長崎シンホニー・オーケストラを創立した人である。
同氏は
「てる子夫人の入会されたのは
 青地キチ女史の紹介であった」
と語っている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464215/1/95
年譜斎藤茂吉伝 新訂版
昭和五十七年三月二十日発行
著 者 藤岡武雄
発行人 沖山隆久
印刷人 坂田啓三
発行所 株式会社 沖積舎
東京都千代田区神田神保町一-五二
郵便番号一〇一
電話 二九一-五八九一
振替 東京三-一七七六三二
好文印刷+東光/愛千製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464215/1/190
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【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
出版者   日本大学文理学部
出版年月日 1965-02
 ジョルダン合奏団の人々
(左から1番目深町秋子・7番目伊藤辰一郎・
 9番目ジョルダン夫人・11番目斉藤てる子夫人」
p47【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
〔画像〕p47【日本大学文理学部(三島)研究年報 (13)】1965
https://dl.ndl.go.jp/pid/1784764/1/47
昭和40年2月10日 印刷
昭和40年2月15日 発行
発行者 秋葉安太郎
    日本大学文理学部(三島)
    静岡県三島市芝町4丁目
印刷者 小倉 兼蔵
    三光印刷株式会社
    東京都豊島区高田南町3の734
https://dl.ndl.go.jp/pid/1784764/1/119
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2024年11月24日05:35
《菅沼メリー 演說・菅沼元之助 通譯》
癲狂並ニ其療法ニ就テ【九州醫學會誌 5】1898-03(明治31年)
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《菅沼元之助》長崎市十善寺町【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年

【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
著者    吉岡誠明 編
出版者   吉岡誠明
出版年月日 大正9

大正八年(千九百十九年)
日本メソヂスト敎會 第四回總會議事錄
自十月廿三日 至十一月四日
於 東京銀座敎會
p3【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
〔画像〕p3【日本メソヂスト教会総会議事録 第4囘】大正9年
   ◎常任委員
 五、日曜學校及共勵會委員(十二名)
   菅沼元之助
十二、指名委員(八名)
   菅沼元之助
   ◎特別委員
 二、年會記錄調査委員(四名)
   菅沼元之助
 年會記錄調査委員
   菅沼元之助君
 〇共勵會局(八名)
   菅沼元之助君
  信 徒
長崎市十善寺町  菅沼元之助
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長崎婦人病院(私立)長崎市十善寺中野【長崎県統計書 明治35,36年】

【長崎県統計書 明治27年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
 第五十一 病院ノ患者
※婦人病院 長崎市十善寺郷:記載なし

【長崎県統計書 明治33年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一六三 病院 明治三十三年十二月三十一日
病院名 婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺郷
醫 師      一
調劑員      一
看病人      二
患 者
 入院     五一
 外來    九八七
  計  一、〇三八
※上記と同一内容
【長崎県統計書 明治34年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一六三 病院 明治三十三年十二月三十一日
病院名 婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺郷
醫 師      一
調劑員      一
看病人      二
患 者
 入院     五一
 外來    九八七
  計  一、〇三八

【長崎県統計書 明治35,36年】
出版者   長崎県第一部
出版年月日 明13-45
  〇衞生
 第一七三 病院 明治三十五年十二月三十一日
         明治三十六年十二月三十六日
病院名 長崎婦人病院(私立)
所在地 長崎市十善寺中野
      三十五年    三十六年
醫 師      一      一
調劑員
看病人      一      一
患 者
 入院     三五     三九
 外來  二、六三七  二、六八七
  計  二、六七二  二、七二六
p181【長崎県統計書 明治35,36年】
〔画像〕p181【長崎県統計書 明治35,36年】
明治三十八年 十月三十一日印刷
明治三十八年十二月 十一日發行(非賣品)
    長崎縣
印刷者 喜多璋太郎
    長崎市豊後町壹番地
印刷所 喜多活版所
    長崎市豊後町壹番地
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《菅沼メリー君》第十五回九州沖縄醫學會 明治42年5月【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年(1909)

【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年(1909)
出版者   長崎医学専門学校研瑶会
出版年月日 1909-03
p1【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
〔画像〕p1【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/1

 ◎第十五回九州沖縄醫學會準備
來る五月一日、二日を期し
長崎に於て開會せらるべき
九州沖縄醫學會は既に其準備に着手し
委員長以下左の如く推選あり、
尤も一日は袋町靑年會舘に於て總會を催し
二日は長崎醫學專門學校に於て
分科會を開くべき都合に略決定したる由
委員長  田代  正君
副委員長 村上 安藏君
     大谷 周庵君
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/25

  接待、宴席係
係長  村瀬三英君
委員  ―略―
    菅沼メリー君
p26【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
〔画像〕p26【長崎医学専門学校研瑶会雑誌 (89)】明治42年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/26
明治四十二年三月二十八日印刷
明治四十二年三月 三十日發行
編輯者  田川 兵力
兼發行者 西彼杵郡浦上山里村字里郷一八五六番地
印刷者  富永官十郎
     長崎市今鍛冶屋町三十三番地
印刷所  重誠舎
     長崎市今鍛冶屋町三十三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1775389/1/48
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月24日05:35
《菅沼メリー 演說・菅沼元之助 通譯》癲狂並ニ其療法ニ就テ
【九州醫學會誌 5】1898-03(明治31年)
 第五回九州醫學會員
 明治三十年三月五日撮影
       小川一眞製
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《菅沼メリー》醫師:十善寺中野三十六番地【長崎県紀要】明治40年

【長崎県紀要】明治40年
出版者   第二回関西九州府県聯合水産共進会
      長崎県協賛会
出版年月日 明40.10
 p3【長崎県紀要】明治40年
〔画像〕p3【長崎県紀要】明治40年

 第五節 醫師(イロハ順) p150-152/285
十善寺中野三番地    品川百樹
十善寺中野三十六番地  菅沼メリー
 p152【長崎県紀要】明治40年
〔画像〕p152【長崎県紀要】明治40年
明治四十年十月 十九日印刷
明治四十年十月二十一日發行
第二回關西九州府縣聯合水産共進會
長崎縣協賛會
印刷者 田山 宗堯
    東京市日本橋區數寄屋町一番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《精神科医 高木俊介》「やめよう、面会制限」京都新聞コラム暖流に書きました。2024.11.25

しゅん(高木俊介)@ragshun
「やめよう、面会制限」
京都新聞コラム暖流に書きました。
家族、親しい人との面会を
現在の状況下で厳しく制限することは、
回復の妨げにもなれば、
医療者自身の怠慢にもつながります。
#コロナ面会制限を終わらせよう
#面会制限は人権侵害
 「やめよう、面会制限」
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 ともに生きる 公益財団法人 京都新聞社会福祉事業団
 京都新聞社会福祉事業団
  やめよう、面会制限
2024.11.25
コラム「暖流」
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
【ACT-K主催、精神科医 高木 俊介】
新型コロナウイルス感染症が
5類感染症にされて一年半になる。
世界的には、
その直前のWHOのパンデミック「終了」宣言で
各国がコロナ対策の様々な規制を撤廃した。
世界中で多くの犠牲を出した疫病は、
過去のものになった。
  ―略―
現在の感染状況では、
一律に厳格な面会制限を行う正当な根拠はない。
 病院の安全は大事だが、
それにこだわるあまり、
より大きな個々人の人としての幸福と、
社会のゆとりを失ってはならないだろう。

たかぎ・しゅんすけ氏
2つの病院で約20年勤務後、
2004年、京都市中京区にACT-Kを設立。
広島県生まれ。
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