釣り姿の河野一郎先生と筆者[児玉誉士夫]【生ぐさ太公望:随想】1976

【生ぐさ太公望:随想】1976
著者    児玉誉士夫 著
出版者   広済堂出版
出版年月日 1976
p5【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p5【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/5

  辻 政信さんのこと
河野一郎先生は支笏湖に着かれるや、
視察視察とあちらこちらと歩きまわり、
支笏湖の宿に一緒に泊ったのは二度か三度である。
河野先生の話は構想も大きく考え方も流石に深い。

「まず、北海道は観光は観光として、
 青函トンネルを開通し、
 道内には縦横に高速道路を伸ばし、
 そして、
 苫小牧あたりに大産業地帯を造成しないかぎり
 北海道の発展はあり得ない。
 だが、
 住んでいる人たちは道路を造ることに反対だろうし、
 海の近くに工業地帯を造るのも反対だろう。
 しかし、
 そんなことを一々とり上げていては
 いつまでたっても発展はできない」

自分も大いに同感である。

このとき先生は、ふと話題をかえ、
「君、辻政信君とは戦時中から深い関係だろう。
 辻君は向うで殺されたらしいが、
 一体どんな人だ!」
p52【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p52【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/52

  永田ラッパの由来
昭和三十九年(1964)、四月頃のことだったと思う。

建設大臣をしていた河野さんから、
「名神高速道路の滋賀県栗東と
 岐阜県小牧との間の開通式があるんで
 京都へ行くが一緒に行かないか」
と誘われた。

京都には毎年のように出かけ、
琵琶湖の中をあちらこちらと釣りまわっている。

釣りの時期には一寸早いが、
「私は琵琶湖で釣りを楽しみますから
 お供をしましょう」
と言うと、
「それはちょうどよかった。
 僕も一日ぐらい閑ができるから
 釣りのおつき合いをしよう」
と、京都行きが決まり、
河野先生ご夫妻に自分と家内、
それに、
太刀川恒夫君と仲憲太郎君が
釣り道具や釣り竿をかついで一緒に出かける。

河野先生は定宿があるそうでそちらに泊り、
自分たちは八坂神社のすぐそばにある
『みどり屋』に泊る。

この宿は小さくて何の変哲もないが、
ご主人の岡村多内さんも子息の幸二君も
魚釣りは飯より好きだといった人たちで、
それに幸二君は料理番が本職であるから
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/77

釣ってきた魚を思うように料理してくれるので、
自分のように釣りを楽しみに
旅行しているものにとっては、
かけがえのない旅館なのである。

釣り場の案内役には岡村多内さんの友人で
時計屋をしている岩本邦義さんという、
釣りもうまいが人柄もまた好ましい
よい人を紹介してもらっていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/78

<写真>釣り姿の河野一郎(中央)と筆者[児玉誉士夫](右)
p79-1【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p79-1【生ぐさ太公望:随想】1976

<写真>釣り場へ向う河野一郎(左)と筆者[児玉誉士夫](中央)
p79-2【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p79-2【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/79
生ぐさ太公望
著 者 児玉誉士夫
発行者 櫻井 義晃
発行所 廣済堂出版
    東京都千代田区飯田橋2-4-3
    日吉ビル4F
    電話 03-263-0781(代)
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《児玉誉士夫》榊原仟先生ご夫妻「支笏湖に遊ぶ」昭和38年夏【生ぐさ太公望:随想】1976

【生ぐさ太公望:随想】1976
著者    児玉誉士夫 著
出版者   広済堂出版
出版年月日 1976
p5【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p5【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/5

  支笏湖に遊ぶ
昭和三十五年(1960)、
日本は安保条約問題で
保守党と野党とは真向から激突、
街頭では何万とも知れぬ学生が
安保反対の怒号を張り上げ、
警官隊と激突するといった騒乱の年であった。

そして、この年は自分にとっても
終生最大の不祥事に遭遇した。

最愛の家族を失った心の痛手は、
その後の一、二年間、政治を口にする力も失い、
釣り竿をさえ握る気にもなれなかった。

そんなことから三年もすぎて、
やや心の痛手も薄らいできた
昭和三十八年(1963)の夏、
自分は再び支笏湖を訪れた。

この時は今は亡き河野一郎先生も一緒で、
東京女子医大の榊原仟先生ご夫妻も
はるばる一緒にやってこられた。

ご一同、この支笏湖にはじめて接して、
その幽邃なことにはいたく感嘆されて、
榊原先生は一ときをも惜しむように
ホテル附近のエメラルドの樹林や
コバルト色に輝く湖水の周辺を
オイルカラーで描写される。

日ごろ全神経をすりへらすような
多忙な仕事から解放されたよろこびを
一度に満喫されているようにみうけられた。

夫人はボートを漕いで
岸の藻やそのまわりを泳ぐ魚を
あくことなくみておられた。

それから数日間、
榊原先生のご夫人は自分の家内と一緒に
アイヌ部落や牧場、樽前山などを見物し、
北海道情緒を楽しまれ、
榊原先生は静かにパレットと絵筆に親しまれたり、
あるいは、
自分と一緒に姫鱒釣りを熱心に研究されていた。

流石に先生は斯界の第一人者と言われるだけあって、
こうした余技についても真剣に取り組まれ、
その姿には全く敬服し頭の下がるものがあった。

グランドホテルから二百メートルほど離れたところに
ホテル経営のロッジがあって、
p51-1【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p51-1【生ぐさ太公望:随想】1976

<写真>憩いの一刻
(左より、森、筆者(児玉誉士夫)、水野、
 太刀川恒夫、堀、榊原仟)
p51-2【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p51-2【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/51

そばにオコタンペ湖から流れてくる
幅五メートルぐらいの谷川がある。

その谷川では四、五寸ぐらいのアメ鱒がよく釣れた。

榊原先生は支笏湖に着いた翌日、
この谷川でアメ鱒をずいぶん釣り上げ、
大いに気をよくし、
味を占められたらしい。

その翌々日は朝から激しい風雨の日で、
自分はこれではどうにもならんと
部屋で道具の手入れをしていると、
榊原先生が顔を出されて、
「行きましょう!」
と言われる。
「いや、雨が上がらないと危いですよ」
と止めたのであるが、
しばらくして家内が、
「先生が川の方に釣りに行かれたようですよ」
と知らせてきた。

この降りではどうにもなるまいと心配していると、
そこへ先生が頭に瘤をつくって帰ってこられた。

川の流れが早いので石に躓(つまず)いて
転んでしまわれたらしい。

夫人もそばにこられ、
「雨が上がるまでお待ちなさい、
 と言ったんですが、
 主人は言いだすときかないもんですから
 こんなことになるんです」

「いや、釣りをする人は誰れでも、
 釣り場に行き川を見れば
 もう釣りたくなるのはしかたのないことで、
 私も同じです」

「児玉さんも気をつけなさいよ」
と一本とられてしまった。

榊原先生は人も知る
心臓医学の世界的権威であるが、
決して学者ぶらない明朗闊達な、
人間味のあふれる先生である。

そして、夫人もまた明朗そのもので
ユーモアに富んだ心の美しく
やさしい方である。

  辻 政信さんのこと
河野一郎先生は支笏湖に着かれるや、
視察視察とあちらこちらと歩きまわり、
支笏湖の宿に一緒に泊ったのは二度か三度である。
p52【生ぐさ太公望:随想】1976
〔画像〕p52【生ぐさ太公望:随想】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12441628/1/52
生ぐさ太公望
著 者 児玉誉士夫
発行者 櫻井 義晃
発行所 廣済堂出版
    東京都千代田区飯田橋2-4-3
    日吉ビル4F
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榊原仟先生が児玉誉士夫との関係を云々される縁は…昭和38年夏:沢地久枝【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983

【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
著者    沢地久枝 著
出版者   文芸春秋
出版年月日 1983.11
p2【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p2【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/2

  別れがたき別れ―榊原先生を悼む
p90【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p90【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/90

榊原先生を追悼する文章で、
どうしても書いておかなければならないことの発端は、
一九六三年(昭和38年)にさかのぼる。
私は最初の心臓手術から三年目くらいで再発し、
十四年間つとめた職場をやめていた。

退職後しばらくして、
朝日新聞社科学部のデスクのO氏と私とを、
榊原先生御夫妻が招いて下さった席でのことだったと思う。

「心研」と俗にいうのは
東京女子医大付属「心臓血圧研究所」のことで、
研究と臨床が並行しておこなわれている。
しかし、圧倒的な比重は心臓手術を中心とする臨床にあった。
p99【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p99【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/99

この年(昭和38年)の夏の終りの夕方のことである。
突然先生が私の家へ見えた。
あとにもさきにも、
先生がわが家へ見えたことはこの一度しかない。
細長くて暗い三畳の仕事場で、
先生はいきなり用件を話された。

――資金集めが思うようにゆかなくて困っていたら、
ある人から、この人が動けば、
財界その他の寄付を集めることは
容易になるがどうかといわれた。

しかし、そういう援助を受けていいものかどうか――。

お話の要点はこういうことであった。
先生がためらいを示された人、
それがロッキード
p100【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p100【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/100

事件で被告となり、
榊原先生の診断書を楯に
国会への証言を拒むことになる児玉誉士夫である。

「その人については、
 戦中のこと戦後のことをふくめて、
 噂を聞いています。
 その人個人の寄付というならともかく、
 どんなに汚い手を通ったお金であっても、
 それが医学の進歩のために使われるのであれば、
 そのお金はきれいなお金になるのではないでしょうか」

手暗がりの廊下へ電話をひっぱってきて、
そこから先生は橋渡しを提案されている
友人へ電話をかけられた。

ロッキード事件の「黒い」人脈として、
児玉誉士夫との関係を云々されることになる縁は、
このときを境に生じた。

先生があの夏以後、
※昭和38年(1963)夏
どの程度の交遊をもたれたかは知らない。

だが、基本的なことははっきりしている。
<研究部>設立に際しての協力者の一人であり、
のちに心臓を悪くして主治医と患者の関係を生じた。

これが黒い人脈として
云々されるようなことであるかどうか。

ロッキード問題がさかんにとりあげられたとき、
榊原先生を論評した文章の中には、
戦争中から軍部や児玉らと、
「接触があったはずである」(傍点澤地)
というたぐいのものもあった。

だが、榊原先生と児玉誉士夫の縁は、
十六年前の夏、
※昭和54年(1979)-16=昭和38年(1963)夏
率直に迷いを示され、そして決断し、
私のこの家から一本の電話をかけられたところから
はじまっている。

児玉誉士夫の協力によって
p101【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p101【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/101
集められた金が、
一円たりとも先生個人の生活をうるおすことは
なかったことはいうまでもない。

先生が、まだ若かった私のような人間の判断を
一つの踏み切り台として決断されたのも、
心臓病とのたたかいにとって、
公開の研究部が絶対に必要であるという確信があり、
設立への強い願望があったからである。

私心の入りこむ余地などあり得ない。

二回目の手術を受けた。
手術日は、一九六九年(昭和44年)六月二十五日。
p102【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
〔画像〕p102【ぬくもりのある旅 (文春文庫)】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/102
(一九七九年)昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/103
文春文庫 320円
ぬくもりのある旅
1983年11月25日 第1刷
著 者 澤地久枝
発行者 西永達夫
発行所 株式会社 文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町3-23 〒102
TEl 03-265-1211
印刷・凸版印刷
製本・加藤製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12553665/1/141
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《榊原仟》日本心臓血圧研究所・研究部:昭和43年完成【心臓の話 (潮新書)】1968

【心臓の話 (潮新書)】1968
著者    榊原仟 著
出版者   潮出版社
出版年月日 1968
p1【心臓の話 (潮新書)】1968
〔画像〕p1【心臓の話 (潮新書)】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/2429851/1/1

<写真>第67図 日本心臓血圧研究所・研究部
そこで、石坂泰三氏を設立委員長にお願いし、
日本心臓血圧研究所、
研究部の設置の運動にのりだした。

幸い官民各方面の分野の方々や、
財界の方々などから、
この仕事に非常な応援をいただいて、
ついに昭和四十三年(1968)、
これが完成したのである。

これらのための費用は多額のものを要するが、
すべて各方面からの寄付に仰いでおり、
自転車振興会、その他からの補助をえているのである。
p111【心臓の話 (潮新書)】1968
〔画像〕p111【心臓の話 (潮新書)】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/2429851/1/111
心臓の話  潮新書40
1968年9月25日 初版  ¥250
著 者 榊原 仟
発行者 池田克哉
印刷所 大日本印刷
 本文印刷 市ケ谷工場
 表紙整版 榎町工場
 製  本 大日本製本
発行所 株式会社 潮出版社
    東京都新宿区信濃町18
    振替 東京61090
    電話(353)3961(大代表)
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《榊原仟》児玉誉士夫氏を介して神田博厚相を紹介していただいた【私の履歴書 第49集】1973

【私の履歴書 第49集】1973
出版者   日本経済新聞社
出版年月日 1973

 私の履歴書
 榊原 仟(さかきばら しげる)
(東京女子医大付属病院長)
p7【私の履歴書 第49集】1973
〔画像〕p7【私の履歴書 第49集】1973
https://dl.ndl.go.jp/pid/12292094/1/7

一方、医学の進歩は絶え間ない
基礎研究の積み重ねがものをいう。
だから、医師及び理学、工学出身の研究者を集め、
東大から招いた堀原一君を指導者として
基礎的研究に専念してもらった。

もちろん私たち臨床医も
総力をあげて取り組んでいる。
ところが全国には研究したくても
施設に恵まれなかったり、
経済的に断念せざるを得ない
優秀な学徒が大ぜいおられる。

わが国の心臓医学全体のレベルを上げるためには
そうした人たちに公開の研究部を設け、
存分に研究してもらおうと思い立ったのである。

この構想を持出したら、
会う人がみな
そんな夢のようなことが出来るはずがない」
と反対する。

しかし私の一生を賭してもやりたいことなので、
親友の青木義信君に話を持ちかけたら
「だれか有名な人がいるといいんだが」
とアドバイスしてくれた。

ちょうどそのころ
児玉誉士夫氏の知人の方を
手術したことを話すと、
それは好都合だと青木君が
児玉誉士夫氏を説得してくれた。

児玉誉士夫氏を介して
神田博厚相を紹介していただいたが、
厚相は大乗り気で、
自ら石坂泰三氏のところへ連れて行き、
引き合わせて下さった。

石坂氏も「それほどの意気込みなら」と
各方面に紹介状を書いて下さった。

あとで聞いたところでは、
自ら手紙を書いていただくのは珍しいことだという。

かくして吉岡博人先生(東京女子医大学長)を
理事長とした日本心臓血圧研究振興会が成立した。

これに献身的に協力していただいているのは
理研映画テレビ代表取締役の伊藤友猪氏である。
非常に熱心にいろんな方々を説得し、
私はただ頭を下げに行けば
よいようにしていただいている。
多くの方々の善意に支えられ、
一つ一つ理想がかなえられる私は幸せ者である。

こうして研究部がオープンしたのは
昭和四十二年(1967)であるが、
およそ心臓に関する研究機械なら
すべてが整っている。
p38【私の履歴書 第49集】1973
〔画像〕p38【私の履歴書 第49集】1973
https://dl.ndl.go.jp/pid/12292094/1/38

昭和四十年の七月上旬、
人工内蔵学会のため別府に来ていたが、
夜ふけに東京からの長距離電話を受けた。
自民党の河野一郎氏が倒れ、
冲中重雄、武見太郎両先生が診察したところ
腹部大動脈りゅう出血で、
手術を必要とする可能性があり、
博多に特別機を用意するから
至急戻って来いとのことである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12292094/1/42
 私の履歴書 第四十九集
昭和48年10月19日 印刷
昭和48年10月26日 発行 定価850円
編 者 日本経済新聞社
発行者 佐久間 央
印刷者 栗田真太郎
発行所 日本経済新聞社
    東京都千代田区大手町1-9-5
    郵便番号100
    電話(03)270-0251(大代表)
    振替 東京555
印 刷 東光整版印刷
製 本 トキワ製本所
(分)0323(製)3049(出)5825
https://dl.ndl.go.jp/pid/12292094/1/156
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【医の心 (中公文庫)】1987
著者    榊原仟 著
出版者   中央公論社
出版年月日 1987.2
 上海へ赴任
昭和十八年(一九四三)の冬、
私は都築先生に呼ばれて、
一週間以内に家族同道でよいから、
上海に行くように命ぜられた。
英国が上海につくった
レスター・チャイニーズ研究所と
仁済病院とを合わせて、
同仁大学というのをつくり、
そこで中国の学生を教育しようという案があり、
東大が引受け、
私には外科部長として赴任するようにと
命ぜられたわけだった。
東二郎先生が全体の長、
近藤台五郎先生が研究所の長、
白崎重弥先生が白人病院の院長、
中山高志先生が仁済病院の院長、
角田賢吾君が婦人科部長、
米倉秀雄君が内科部長、
そして私が外科部長ということだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12611122/1/66
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児玉誉士夫と榊原仟/黒い霧の心臓を握る白い巨塔の黒幕【現代の眼 17(5)】1976-05

【現代の眼 17(5)】1976-05
出版者   現代評論社
出版年月日 1976-05
p1【現代の眼 17(5)】1976-05
〔画像〕p1【現代の眼 17(5)】1976-05

  榊原仟/黒い霧の心臓を握る p140-143/182
      白い巨塔の黒幕
 なぜ”診断書“をかいたのか
 医学界七不思議のひとつ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771557/1/140

 私学行政の貧困を足場に
 上海で児玉を知っていた?
その前に、昭和四十四年一月二十四日付
『朝日新聞』夕刊に、
「病院とは違って収入はまったく無く、
 しかも公開というのでは、
 その費用を大学に期待することはできない。
 中学、高校時代の友人、先輩、あるいは知人、
 特に青木良信、宮内勇、唐島基智三、工藤昭四郎、
 児玉誉士夫の諸氏、
 並びに当時の厚生大臣神田博氏には
 親身のお世話をいただいた」
と書いている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771557/1/141

さて、このころ、
わが国ではまだ心臓の手術などは行われておらず、
榊原は都築教授の下で
肺結核やヒロポンの研究に没頭していたという。

昭和十八年十月下旬のある日、
都築教授から上海へ行くよう命じられた。
上海同仁大学教授兼仁済病院外科部長としてである。
そして、昭和二十年の終戦後、
帰国するのだが、
帰国後、親しいひとに、
「上海から引き上げる際に、
 児玉さんにはずいぶんせわになった」
と洩らしていたという。

このことが本当なら、
榊原は、
戦中の上海で児玉を知っていることになる。
戦中の上海といえば、
児玉誉士夫が児玉機関の名とともに
諜報活動をして聞こえていたころだ。

その前に榊原は、
軍医としてフィリピンのバターン半島へ
渡ったことがある。
昭和十七年に帰国して
都築教授の研究の手伝いなどをしていたところを、
上海行きとなったのである。

  過去にいまわしい不正選挙
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771557/1/142

  ”児玉の次“は榊原が主役に
しかし、児玉誉士夫が暴かれたのは、
歴史の趨勢である。
それは、まさにドラマチックとさえ見えた。
不思議なことに、
ドラマは次のドラマを生むようにできているものだ。
児玉誉士夫のすべてが洗われたとき、
おそらく榊原もまたドラマの主役として
脚光を浴びるであろう。
(坂口義弘)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771557/1/143
現代の眼/第17巻/51年5月号
昭和五一年四月三〇日印刷
昭和五一年五月 一日発行
定価四〇〇円(〒四九円)
発行者 加治屋英夫
編集者 丸山  実
発行所 (株)現代評論社
    東京都中央区京橋三の一一
    郵便番号 一〇四
    電話東京代表(五六一)八七〇一~八七〇五
印 刷 大日本印刷株式会社
    三共グラビア印刷(株)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1771557/1/173
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児玉誉士夫に近い病院として第一にあがるのは東京女子医大病院である【謀略の構図】1977

【謀略の構図】1977
著者    吉原公一郎 著
出版者   ダイヤモンド社
出版年月日 1977.9
 p3【謀略の構図】1977
〔画像〕p3【謀略の構図】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/11974831/1/3

児玉誉士夫に近い病院として第一にあがるのは
東京女子医大病院である。
二度目の証人喚問がかかった矢先の
(昭和51年)二月二十七日、
児玉誉士夫が入院しようとして果たさなかったのも
東京女子医大の付属脳神経センターである。

かつて上海時代、
児玉機関は銅銭や貴金属、
ダイヤだけでなく麻薬も集めたが、
敗戦後、麻薬は上海の仁寿病院に集積された。
         ※仁済病院
病院は麻薬の絶好の隠し場所であったからである。
この仁寿(仁済)病院の外科部長が後の
榊原仟東京女子医大教授(現筑波大副学長)であった。

榊原も『私の履歴書』で、
「上海時代は児玉誉士夫氏に世話になった」
という意味のことを書いている。

東京女子医大の脳神経センターをはじめ、
建物のかなりの部分が
児玉誉士夫の寄付になるものであることは知られているが、
心臓が悪かった児玉誉士夫は榊原教授の診察を受けており、
昭和四十九年ごろに、
児玉誉士夫が舌のもつれを訴えはじめたため、
榊原教授は喜多村教授に児玉誉士夫を預けている。

以後、喜多村は児玉誉士夫の主治医となるが、
東大医学部の脳神経外科の助教授であった喜多村が
東京女子医大に移ったのも榊原の推薦によるものだった。
 p32【謀略の構図】1977
〔画像〕p32【謀略の構図】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/11974831/1/32
謀略の構図
昭和52年9月1日 初版発行
著 者 吉原公一郎
発行所 ダイヤモンド社
    郵便番号 100
    東京都千代田区霞が関1-4-2
    編集 電話 東京(504)6403
    販売 電話 東京(504)6517
    振替口座  東京9-25976
慶昌堂印刷・誠光本製社
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「ロッキード」2次喚問 証言席についた5証人【日本写真年鑑 昭和52年版】

【日本写真年鑑 昭和52年版】
著者    日本写真新聞社 編
出版者   日本写真新聞社
出版年月日 1977.2
 p3【日本写真年鑑 昭和52年版】
〔画像〕p3【日本写真年鑑 昭和52年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/12284373/1/3

「ロッキード」2次喚問
 疑惑解けず終る

証言席についた5証人。
右から
大庭 哲夫(全日空前社長)、
鬼  俊良(ロッキード日本支社支配人)、
若狭 得治(全日空社長)、
伊藤  宏(丸紅前専務)、
大久保利春(丸紅前専務)

質問に立った楢崎弥之助氏(社会党)の
示す書類のサインを確認する、
証言席の鬼俊良氏。
 p35【日本写真年鑑 昭和52年版】
〔画像〕p35【日本写真年鑑 昭和52年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/12284373/1/35
日本写真年鑑 77 定価4,900円
日本写真新聞社 1977年
昭和52年2月10日発行
編集・発行/日本写真新聞社
     (日本新聞協会会員社)
本   社/東京都中央区日本橋3-8-16 〒103
      TEL(03)271-1071(大代表)
北海道支社/札幌市北区北8条西3 日写ビル
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      (0862)22-6970
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      (092)291-3822
印刷所  /東京グラビア印刷株式会社
      凸版印刷株式会社
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鬼俊良は湘南中学出身で東亜同文書院を出て【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976

【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976
著者    上田耕一郎 編著
出版者   新日本出版社
出版年月日 1976
 p2【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976
〔画像〕p2【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283099/1/2

  第四 CIA、対日秘密謀略の罪
また鬼俊良は湘南中学出身で東亜同文書院を出て、
戦後米軍の情報要員として働いていた。
新聞に、中学時代の同級生が道で会ったら、
米軍の制服を着ていて
“ぼくはいま情報関係の仕事をしている”
といった事実も報道されています。
湘南中学の同窓会名簿には
兄さんとともに「死亡」と書いてある。

CIAはよく戸籍を消すんですね。
死んだことにしまって使うわけですが、
そういう点で鬼俊良という人も
完全にCIAであろうといわれている男です。

だから同級生たちはみんな死んだと思っていたら、
テレビで証人に出てきたので
びっくりしたそうですが、
そういう奇怪な人物です。
 p26【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976
〔画像〕p26【構造疑獄ロッキード (新日本新書)】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283099/1/26
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《鬼俊良》第42期生(大学3期)昭和20年9月学部卒業【東亜同文書院大学史】1955

【東亜同文書院大学史】1955
出版者   滬友会
出版年月日 1955
p1【東亜同文書院大学史】1955
〔画像〕p1【東亜同文書院大学史】1955
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580187/1/1

第四二期生
(大学第三期)
(昭和十六年四月予科入学、
 昭和十七年十月学部入学、
 昭和二十年九月学部卒業)
《鬼  俊良》
p177【東亜同文書院大学史】1955
〔画像〕p177【東亜同文書院大学史】1955
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580187/1/177
昭和三十年七月十日 発行 (非賣品)
著者兼発行者 滬友会
       右代表者 宇治田直義
印刷所    生生印刷株式会社
       東京都中野区新井町七四一
発行所    滬友会
       東京都千代田区丸ノ内二ノ八
       三菱仲十二号館六号四一一室
       振替東京七一三八〇番
       電話(23)局四一〇八番
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580187/1/182
シャープ テレビ・ラジオ
 早川電機工業株式会社
p186【東亜同文書院大学史】1955
〔画像〕p186【東亜同文書院大学史】1955
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580187/1/186
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