《上野與吉》【人事興信録】3版(明治44年)~6版(大正10年)
【人事興信録. 3版(明44.4刊)
皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部―の之部】
《上野與吉》 p953/1002
大阪興業株式會社 監査役
大阪府 平民
妻 よし 明治 六年(1873) 九月生
大阪、平民、尾崎かね 長女
養子 貫三郎 明治二二年(1889)一一月生
大阪、平民、朝越もん 孫
君は大阪府平民 上野庄兵衛の長男にして
安政三年十一月廿三日を以て生れ ※1856年12月20日
明治十七年(1884)五月 家督を相續す
嘗て大阪に於て株式仲買業を營みしが方今之を罷め
大阪興業株式會社監査役たり
家族は前記の外
長男 與一 明治三八年(1905)一月生あり
京都、下京、松原大和大路東入三丁目南入興善町
電話 三〇二五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779812/953
【人事興信録. 4版】大正4年
記載なし
【人事興信録. 5版】大正7年
《上野與吉》 p783/1374
日本電線株式會社 取締役
大阪晒粉株式會社 取締役
大阪府 平民
妻 ヨシ 明治 六年(1873) 九月生
大阪、平民、尾崎カネ 長女
男 與一 明治三八年(1905) 一月生
養子 貫三郎 明治二二年(1889)一一月生
大阪、平民、亡 朝越富藏 長男
婦 たづ 明治二五年(1892) 四月生
養子 貫三郎 妻
滋賀縣人 石居四郎平 妹
君は京都府平民 亡 上野庄兵衛の長男にして
安政三年十一月二十三日を以て生れ ※1856年12月20日
明治十七年五月(1884) 家督を相續す
現時前記會社の重役として知らる
家族は前記の外
孫 和子 大正五年(1916)一月生あり
京都、下京、松原通廣道西入
電話 長 下三二五
參照=石居四郎平、※貝塚榮之助の項
【人事興信録. 6版】大正10年
《上野與吉》 p689/1245
日本電線(株) 取締役
京都府 平民
妻 ヨシ 明治 六年(1873) 九月生
大阪、平民、尾崎カネ 長女
男 與一 明治三八年(1905) 一月生
養子 貫三郎 明治二二年(1889)一一月生
大阪、平民、亡 朝越富藏 長男
婦 たづ 明治二五年(1892) 四月生
養子 貫三郎 妻
滋賀縣人 石居四郎平 三女
君は京都府平民 上野庄兵衛の長男
安政三年十一月生 ※1856年12月20日
現時 日本電線製造株式會社 取締役たり
家族は尚
孫 和子 大正五年(1916)一月生
養子 貫三郎 長女
京都、下京、下鴨字河町
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《上野與吉:義金拠出申込額 一万円》
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 米(12-069)
大阪朝日新聞 1918.8.15 (大正7)
[京都富豪の逃腰]
[折角の委員会も小田原評定]
馬渕京都府知事は京都市内に連夜勃発せる
米騒動事件に対する善後策を講ずべく
十三日市内の主なる富豪十数名を招き
協議の結果五十万円の救済義金を
富豪一般より募集することに決定、
十四日午前十時より富豪百余名を招き、
馬渕知事及び内貴甚三郎氏より
刻下の急務は窮民の救済を為すにあり、
而して其資金五十万円、少くとも三十万円を要するが故に
応分の義金を醵出ありたき旨懇談せるに救済団を組織し
適当なる方法を講ずることとなり委員に
辻忠郎兵衛、湯浅七左衛門、松風嘉定、
曾野作太郎、中井三郎兵衛、飯田新七、
島津源蔵、大村彦太郎、田中源太郎、
浜岡光哲、天野治郎吉、大沢徳太郎、
雨森菊太郎、奥繁三郎、内貴甚三郎
の十五氏を挙げ委員は別室にて
義金割当及び救済方法に就て協議中
委員以外の参会富豪は
委員の協議纏るを待たずして随意に退散せるより
折角の協議も小田原評定に終り
唯今迄の義金拠出申込額も
三万円 辻忠郎兵衛及同商店
一万円宛 田中末雄、上野與吉、大沢商会、稲垣合名会社
千円 新実八郎兵衛
の七氏にして其額七万千円に過ぎず
此外未だ金額確定せざる寄附者もあれど
五十万円は愚か最少限度の三十万円にも達する事
或は六ヶ敷からんと気遣われつつあり
データ作成:2005.5 神戸大学付属図書館
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