[(随想)大連医院泌尿器科の思い出]
元京都大学・広島大学教授 柳原 英
元京都大学・広島大学教授 柳原 英
京都大学学術情報リポジトリ p1/3
KURENAI 紅
京都大学KYOTO UNIVERSITY
Title (随想)大連医院泌尿器科の思い出 Author(s) 柳原,英
Citation 泌尿器科紀要(1959),5(10):989-990
Issue Date 1959-10
p1/3
泌尿器科紀要 p2/3
第5巻 第10号
昭和34年10月
随 想
[大連医院泌尿器科の思い出]
元京都大学・広島大学教授 柳原 英
私が23年間(大正9年8月一昭和18年3月)勤務した大連医院が
今は日本の手を離れて再び複元せなくなつたことは残念でたまらない.
せめて其一端なりと述べて慰めとしたいと思う.
私が赴任した当時の大連医院は旧ロシヤの軍病院即ち
日露戦争終了後の日本陸軍病院を踏襲したので
建築物は各科,各病棟共孤立して
お互いに連絡のない不便なものであつた;
例えば皮膚科,泌尿器科外来と其病棟とが離れて居る.
内科も外科も別棟であるばかりか,
X線科も別棟でそれに通ずる廊下もない,
此形式は北満のロシヤ軍病院を御覧になつた方は御承知のことと思う.
明治40年4月,
時の陸軍病院を満鉄が継承して
満鉄大連病院と命名し満州各地に分院或は出張所を設けて
大連病院がこれを統轄し,
満鉄社員及其家族の診療を開始したのである.
其際 陸軍三等軍医正 秋山春斎氏が院長となり,
其旗下に3-4名の一,二等軍医が配属せられ,
内科,小児科,外科は勿論,
皮膚科,泌尿器科も設けられたとあるから
吾が泌尿器科は大連病院の創設と共に設けられたことは事実である.
―略―
大正9年6月塙医長辞任して東京市内に開業せらるるや,
不肖 柳原英が同9年8月10日着連,乏しきを医長に就任した.
当時大連医院には泌尿器科の施設不充分であつたので
当時の院長 尾見薫氏の了解を得て
膀胱鏡其他泌尿器科に必要なる諸設備を整備して
泌尿器疾患の診療に従事した.
かくて大連医院も皮膚科,
花柳病科並びに泌尿器科の実質を備うるに至つたのである.
当時吾が科は私を加えて7名によつて
診療に従事するの盛況を呈するに至つた.
―略―
p2/3
―略― p3/3
私の欧米出張中(大正13年10月一大正15年3月)は
日高誠一博士が代理として着任せられ,
辞任後,帰国して大阪市に開業せられた.
私は欧米より帰朝するや
予ねて新築に着手して居た大連医院も落成し,移転を完了した.
抑も大連医院は初代満鉄総裁 後藤新平子爵によつて
創案されたものが(1907:明治40年)
約20年後の大正15年に完成された大病院で
床数約800,
冷暖房設備は勿論,
ドクター及ナースコーリング等諸装置の完備せる
名実共に東洋一を誇る大病院が出来上つたのであるが
落成後20年の敗戦と共に満鉄否日本の手を離れたのである.
―略―
而して私が大連医院を去つた後は
副医長松見一男君が医長に昇任せられ終戦を迎えられたのである.
かくて吾が大連医院泌尿器科は明治40年4月に始まり,
昭和20年8月に終つたのである.
p3/3
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