〔写真〕山東移民の渡來【滿洲寫眞帖. 昭和2年版】

〔写真〕山東移民の渡來 p33/86
山東方面から去來する苦力は
候鳥のそれのやうに年々滿洲の地が迎へ又送る
一つの民族的流れである。
然しながら最近は支那本土の戰亂と饑饉を避けて
彼等多數の無産階級が、
定住の意思を持つた植民群として
移動し來るやうになつた。
その數毎年二十萬を下らず
特に一九二六年(昭和元年)の如きは
百萬に近いとさへ推定せられてゐる。
彼等は京奉線の列車により、
大連航路の汽船により
更に又
徒歩で長途を北上するものさへある。
圖は大連に汽船で到着したその一團で、
甲板上に群がる家族の姿相にも
生活苦が滲み出てゐる。
昭和三年三月二十五日印刷
昭和三年三月二十八日發行
昭和二年版【定價 貮圓】
編著者 南滿洲鐡道株式會社
    社長室情報課
發賣所 社團法人 中日文化協會
    大連市紀伊町九十一番地
印刷所 東京印刷株式會社
    東京市日本橋區兜町二番地
發行者 中日文化協會
    代表者 坂本政五郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[満州写真館 山東移民]
山東移住民の上陸
軍閥闘争の激しい政情不安な中華民国からは大勢の移民が満州へ移住した、
と当時の書籍にあります。
『満州の民には支那、特に山東地方(中華民国三東省)からの
移住土着したものが多く居る。
彼らの多くはツバメのごとく、春に来て冬に故郷に帰っていく。
が、そのうち幾分かづつはそのまま土着して、
荒れ野を勝手に耕し土着農民となり、ある者は労働者となって要る。
写真は彼らの大群が大連へ上陸し汽車を待つ間の憩い。』
ぎっしりと見渡す限りの人です。疲労と不安が彼らの表情に見られます。
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