《横尾敬義:海軍大佐/佐賀市長》
【人事興信録.10版(昭和9年)下卷】

【人事興信録. 10版(昭和9年) 下卷】
《横尾敬義》 p816/902
 從五位 勳四等 功四級
 海軍大佐
 佐賀市長
 佐賀縣在籍
君は佐賀縣人にして
明治十三年(1880)十月五日を以て生る
同三十五年(1902)海軍兵學校を卒業し
同三十七年(1904)海軍少尉となり
同三十九年(1906)日露戰役の功に依り功四級を賜はり
大正 十年(1921)海軍大佐に任じ天龍艦長に補せられ
同 十二年(1923)豫備役編入
昭和 七年(1932)推されて佐賀市長に就任し
現在に至る
(佐賀市會所小路 電話一一九〇)
昭和九年十月廿八日第十版發行
發行所 株式會社 人事興信所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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横尾敬義(よこお たかよし、
1880年(明治13年)10月5日- 没年不明)は、
日本の海軍軍人、第九代佐賀市長。
その提案した「魚雷肉攻案」は特殊潜航艇、別名甲標的の開発につながった。
最終階級は海軍大佐。
生涯[編集]
佐賀県士族の出身である。
父の横尾義勇は佐賀中学教員や佐賀高等女学校校長などを
歴任した教育者である。
義勇は予備校を経営していた時期があり、
その生徒の一人が、横尾の同期生となる百武源吾であった。
百武三郎、百武晴吉、そして源吾の妹は横尾の妻となる。
1899年(明治32年)、海軍兵学校に入校し、
1902年(明治35年)12月に30期を卒業。
席次は中位であった。
海軍少尉に任官し、横尾は日露戦争に出征する。
―略―
第一艦隊参謀(少佐)、水雷学校での勤務などを経て、
1921年(大正10年)12月に軽巡洋艦「天龍」艦長に補され、
翌年にはシベリア出兵からの撤退に伴い、沿海州の警備を行った。
12月に待命となり、翌年予備役編入となる。
―略―
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