築地之圖-明治九年頃:
京橋區小田原町(南築地)昭和七年十月一日現在(地番入)
【創立満五周年記念史】昭和7年

【創立満五周年記念史:附・青年文藻、南築地今昔物語】昭和7年

築地之圖-明治九年頃 p69/115
三之橋 安藝橋(※①海幸橋)
築地四丁目 海軍省
p69-築地之圖-明治九年頃
〔画像〕p69-築地之圖-明治九年頃

京橋區小田原町(南築地) p70/115
昭和七年十月一日現在(地番入)
京橋區靑年團南築分團
小田原橋
魚市場
築地川東支川 魚河岸橋 海幸橋(舊安藝橋) ※①下記
波除神社 海軍軍樂隊
p70-京橋區小田原町(南築地)昭和7年
〔画像〕p70-京橋區小田原町(南築地)昭和7年

京橋區小田原町(南築地) p71/115
昭和七年十月一日現在(地番入)
京橋區靑年團南築分團
築地川南支川 小田原橋 門跡橋 備前橋
築地川 堺橋 南明橋 明石橋
魚市場
築地川東支川 魚河岸橋 海幸橋(舊安藝橋) ※①下記
波除神社 海軍軍樂隊  海軍經理學校
一丁目四番地 盲人技術学校 和光童園 京橋消防署
かちどき渡 隅田川
p71-京橋區小田原町(南築地)昭和7年
〔画像〕p71-京橋區小田原町(南築地)昭和7年

 小田原町(南築地) p73/115
前に記した如く、
南築分團は小田原町の靑年敎育の爲に、
修養の爲に、
親睦の爲に、
町内發展の爲に生れたものであるが、
小田原町といふ土地とはどんな處かと云ふと。
小田原町は東京市京橋區の東南の隅にありて、
隅田川の沿岸に添ひ、
月島と相對する一小島をなす地で、
東西約三町、南北五町弱程の街である。

月島へは勝鬨の渡、月島の渡の二渡船に依り、
明石町へは明石橋(舊寒さ橋)、南明橋(舊新榮橋)、
堺橋(舊加賀爪橋)に依つて、
築地へは備前橋、門跡橋、小田原橋に依つて、
魚市場へは魚河岸橋、海幸橋(舊安藝橋)に依つて ※①
連絡をとつている。
昭和七年(1932)七月一日以來、 p74/115
區劃整理による地區改正に基き町名が變更された、
卽ち舊名南小田原町一丁目並びに小田原河岸が
小田原三丁目
南小田原町二丁目並びに南本郷町、上柳原町が
小田原町二丁目
南小田原町三丁目、四丁目、並びに南飯田町及南飯田河岸が
小田原町一丁目と改稱され、
舊の七ケ町が僅か三ケ町に區分された。
舊稱南小田原町の名は
日本橋小田原町に對して名付けられたものである。
 ―略―

大日本地名辭書(築地本願寺の條)
 p81/115
築地海軍省屬邸は本願寺の西南にして、
今築地四丁目と稱し、
方五町許の大邸なり、
三方水を繞らし、
東南は海灣に臨む、
今海軍大學校、水交社等在り、
舊は增山河内守、稻葉長門守、
松平越中守(定信)等の別邸、
並びに一橋殿、尾張殿の庫舎に充てられし地なり。
幕政の末期に、
海軍所を其東岸(舊淺野家の別莊)に置かれ、
尋いて維新の初めに轉じて海軍省に爲り、
隣近の諸邸を収む、
已にして兵學校を此に開き、
本省は溜池葵坂へ移り(後日比谷に移る)
其屬邸として保持せらるものとす。

 魚市場の話 p94-95/115
震災後日本橋の魚市場は一時芝浦へ行つたが、
すぐ其歳築地四丁目、
もとの藝州侯邸址に移轉したのが、
現在の築地魚市場である。
 ―略―
p94-魚市場の話
〔画像〕p94-魚市場の話
p95-魚市場の話
〔画像〕p95-魚市場の話
昭和七年十月二十三日印刷
昭和七年十月二十六日發行
(非賣品)
編 著 毛利素風
發行者 小林光三郎
    東京市京橋區小田原町二丁目四番地
印刷所 周文堂森印刷所
    東京市京橋區小田原町三丁目十二番地
發行所 京橋區靑年團南築分團
    東京市京橋區一丁目五番地 町會々館
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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