[小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」
従五位 小野梓君碑
元老院議官従四位 中村正直譔
君諱を梓といい 小野を氏となす 諱=死者の本名
二月廿日 嘉永壬子(五年) ※1852年3月10日
土佐宿毛の里に生まる
節吉これ考 考=亡父
助野これ妣 妣=亡母
幼時軟弱にして 就学怠り多し
十三才に迨び 翻然として慙悔す
酒井南嶺の塾を望美という
詩文を目課とし 経を研め史を讎す
日新館に遷るや 学進み人駭く
第一の書生となり 高楼机に憑る
固く従軍を請う
戊辰(明治元年)の載 ※1868年
越後に至るに及びて
賊徒罪に伏す
岩村通俊 君を愛すること無比
携えて京洛に遊び
心耳を開達す 心耳を開達=世事に眼をひらく
一日扇を以て 君のほほを撃つ
汝節吉の子 豚犬を恨むのみ
恩人の一言 深く骨髄に徹す
自ら事業を期して 成らざれば止まず
誓って女色を避け 曾て浼されず
真正の英雄 力を用いるは此に在り
鴻鵠の志有り 鴻鵠=大きな
燕雀の詆に任す 燕雀=小人物
士格を解き去り 欧米に航す
小野義真 資給して助け済う
専ら法律を学び 深く根底を究む
明治丙子(九年) 文字訂正(甲戌⇒丙子) ※1876年
君始めて出仕
司法太政と 次第にうつる 文字訂正(大政⇒太政)
十三年に迨び 官革政を行ない
会計検査院始めて置かる
一等検査となり
君僚衆に先んず 夙夜懈らず 夙夜=朝早くから夜おそくまで
剛直自ら矢うも
その志行われず 力めて職解を請う
立憲改進党将に 企 発るや
君其間に在りて 拮据整理 拮据=忙しく働く
一時にこれ盛え 彰に遠邇に聞ゆ
専門学校にては 子弟を教育し ※現:早稲田大学
君議員となり 言肯綮に中る 肯繁に中る=要点をつく
暇余書を著し 燭を以て晷を継ぐ
「国憲汎論」弁ずること江海の如く 江海=豊かに満つるさま
「民法之骨」筆に光彩あり
不朽の業 期待に負かず
甲申(明治十七年)九月 血を咯て病起り ※1884年9月
丙戊(明治十九年)一月 危殆に逼る ※1886年1月11日
十有一日 溘然として死す 濫然=にわかに
願入院東洋居士と謚す
僅に三十五 年歯を永らえずとも
其の所為を顧るに 載紀すべきこと多し
学を為しては博く通じ 漢洋を具に躰す
官に在りては
剛正にして柔靡を肯わず 柔靡を肯わず=妥協をゆるさぬ
政治家となりては 能く国是を審かにし
盛年之を備う 英偉と称すべし
君良友多し
吾が鄙をいわず 辞を合せて銘を請う
我豈己むべけんや
明治二十年丁亥五月 ※1887年5月
従三位勲一等伯爵 大隈重信篆額
大内青巒書 宮亀年刻
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[小野梓没後百年 案内碑の設置を記念し
早稲田大学作製 清宝寺に納む
昭和61年10月19日]
表紙拓刷は彩雲堂版による
印刷・シンソー印刷
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※原本:振り仮名(ふりがな)あり
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
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