〔転記〕[小野梓先生の憶ひ出]前橋孝義
[早稻田大學新聞]昭和三年四月廿六日(木曜日)
[小野梓先生の憶ひ出]前橋孝義
早稻田大學の前身なる
東京專門學校の創立當時の事に就いては
多少知つてゐる事がありますから
少しお話して見ようと思ふ
當時私はまだ年は二十書生の身で
校務の手傳ひをしたり又
當時の講師諸君に就いて
色々敎へを受けたりして居つた、
當時の講師諸君は何れもまだ年も若く
帝大を出た許りの新學士腕揃ひ、
その中の一人の人が感想をのべた
自是東西南北散聲々鳴破世人眠
といふ句があつたが、
講師新學士諸君は
東西南北に散じないで相提携して、
東京專門學校に全力を注ぐ事になつたのは
實に不思議の緣とでも云ふべきであらう、
そして當時學校の中心となり
骨子となつて大いに勤めた人は
申すまでもなく小野梓氏でありました、
今日
高田總長が皇室中心主義を常に鼓吹されてゐるが
小野氏その人は大の皇室中心主義の人であつた
想ひ起しますが前後七年の辛苦を經て
出來上つた國憲汎論を宮内省に献じて ※國憲汎論を含む記事
乙夜の御覽に供へんとして一編の上書を書かれた、
言々肺腑より出て人を動すものがありますが
その中に
臣之家世佳土佐國臣之族系出於新
田氏臣之族祖義貞書於忠於元弘建
武之際臣之家父節吉唱義於元治慶
應之間特如臣節吉夙奉先帝愛民之
勅窃抱勤王忠節之志頗謀報効不幸
中道而病臨終遺囑臣梓曰吾未見王
政維新齎多年之志將死吾死之後汝
宜爲王家與國土克致汝身以全乃之
志臣梓年甫十五泣而聽命縣來十有
余年未嘗一日忘之
と云ふ言葉がある、
小野氏が明治九年から
明治十九年一月十一日
病歿の時に至るまで
國家のため社會の爲め
寸時の間斷なく種々の事業に力を致したのは
皇室に對する誠心誠意の現れに他ならぬ、
故大隈總長は事業をなすに
すべて責任を以つて當つたが
小野氏も亦事をなす場合には何處までも
責任をさける事をしない、
是は世の人々に異つた偉大な點だといふ事を
山田一郎學士が常に云つて居りました、
そしてその十年間に
小野氏のなした事業といふものは
人の五倍乃至十倍の働きを表はしてゐるので
卽ち官府にありては法律又は財政について
種々の意見を述べて當局を勵し
明治十四年野に下つてから後
立憲改進黨の組織には小野氏の力
大いに預つてゐる、
東京專門學校の設立是亦
小野氏の充分力を致した事業であり、
同時に多くの著述に從事し
尚時世の必要に應じて新著出版の爲に
東洋館書店を經營實に驚くべき精力を以つて
種々の事業をなしたのであります、
それも健康體であるかといふと決して、然らず、
昔支那の王陽明が病軀を抱へて
血を喀きながら軍馬の間に出入した
それとも比すべきでもあらうかと思はれる、
小野氏は種々な活動をしてゐる間に
健康はかばかしからず
應々にして血を喀かれる事があるが
而しその偉大な精神と
英氣ある氣象は病魔に打勝ち
その元氣の程は
はたの見る目も驚く許りであつた、
而しそのため壽命を縮め
三十五にしてこの偉大なる人物が
世を棄てるに至つたのは
實に歎きても尚あまりある事であります
此小野氏の精神はやがて
東京專門學校の精神となり
引いては今日の早稻田大學に冥々の感化を與ふる
大きな原動力ではなからうかと思つてゐます、
小野氏の明敏な天才は申すまでもないが
その一例として齡十九の時、
まだ洋行前でありましたが
支那に於て研究をして居た際、
救民論と云ふ一編を書いた事があります、
これは世界各國が互ひに相爭つて弱肉強食の世の中
人類の不幸の大なる當時の有樣に深く感ずる所あつて
どうしても世界の平和人類の幸福を進むるには
世界は一つにならなければならぬと
云ふ事の意味をのべたのがその主意です、
その中の一節
今爲宇内生民之計莫如建一大合衆
政府推宇内負望之賢哲使之總理宇
内焉置一大議事院擧各士之秀才確
定公法議宇内之事務云々
當時は此議論を聽くものが
夢の如き議論として誰も相手にしない、
而し現在の世界の大勢を考ふるに
追々小野氏の理想に向ひつゝある樣に思はれる、
卽ち國際聯盟の將來などに思ひを致す時は
小野氏の思想は余程世の中から進んだ意見を
もつてゐたと云ふ事がうかがはれる、
私は親しく小野氏の風貌に接し
その演説を聞き又は
その敎へを受けた事もありますから
こんな話をしてゐる中に
色々昔の事を思ひ出して
感慨無量であります(談)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
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