『北辰神武一刀流 小栗篤三郎:東京帝國大學 船田一雄』
第五高等学校[龍南會雜誌]74:39-60

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 74: 39-60
Issue date 1899-10-25
Type Departmental Bulletin Paper
Right
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074-010【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
◎東京だより p22/23
左に掲ぐるものは東京帝國大學 船田一雄君■、
中嶋先生の許に達したる書翰の一片なり。
終日蠢爾小説を繙き心膓を腐らすことをやめて
左の全文を讀め。

(前略)
在熊中心身共に健全を得て
僥倖にも高等學校卒業の榮を得たるは
偏に先生の賜と感謝罷在候
上京後も都下靑年の風儀を實見して
益剱道修養の必要を看取し、
良師を得て其の啓發にあづからんと存じ居り候處
漸く昨日
北辰神武一刀流
小栗篤三郎と申す先生の事を聞き込候故 ※原本:小粟
昨日より早速入門を乞ひ
稽古をはじむることを得る樣に相成り候
小栗先生は當年既に七十三歳の高齢なるも
意氣の豪健壯者も企及志得ざる次第にて
毎日朝より夕にかけ
幾多の健兒を相手に稽古に余念なく候
本日の如き
令息危篤なるにも拘らず
平然として御稽古を致され
假令一日寸時たりとも休みたりとありては
開國以來連綿たる神州の武道に對し
誠に相濟まぬ次第なり
頑兒の死生の如き固より顧みるに足らずとて
其愛兒の寐處と僅に障子一枚を隔てたる道場にて
平常の如く丁々戞々として稽古相成候には
門人一同感服致し候
其他近來武士道の頽廢
日に甚しきを慨され候等
大に先生と感を同しくされたる點
不少と愚考致し候
何卒御上京の節は是非御訪問相成度
一寸乍序愚見申添置候
(中略)
今回川崎君より一高寒稽古の模樣を聞き
羨望にたへず候
(以下略)
【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
〔画像〕【龍南会雑誌】明治32年1899-10-25
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wikipedia[船田一雄]
船田 一雄
(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日[1])は
大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。
生涯[編集]
愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。
久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、
試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に
編入学する[2]。
中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、
船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという[2]。
1896年(明治29年)、
愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学[2][3]。
1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して
東京帝国大学法科大学独法科に進んだ[2]。
在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した[2]。
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提供館(Library) 埼玉県立久喜図書館 (2110009)
質問 「小栗篤三郎」についての資料をさがしている。出身地不明。
回答 『武芸流派大事典』(東京コピイ出版部)p652-653
   〈北辰真武一刀流〉の項に
   「祖は小栗篤三郎義宣、文政10年(1827)美濃国可児郡久々利村生まれ、
    千葉周作の門に入り北辰一刀流の免許を得る」と記述あり。
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