《伊藤 薫》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《伊藤 薫》
位階勲等
 陸軍歩兵軍曹
 勲七等功六級
生年月日   大正元年一一月一九日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字中台
住 所    出生地に同じ
遺族と続柄  妹 善子 妹の長男 太 ※伊藤 太
現在の世帯主 伊藤輝雄 戦没者との続柄 妹婿
軍戦歴
昭和一二年八月二八日
 支那事変勃発により応召。
 福知山歩兵第二〇聯隊に入隊
昭和一二年九月中
 島本部隊今井隊に属し渡支する
昭和一二年九月二七日
 北支王口鎮附近の戦闘にて
 迫撃砲弾に倒れ戦死
行年 二六才

◎兄を偲ぶ
昭和十二年七月七日
支那事変勃発に伴い直ちに兄は召され、
橋爪忠魂碑の前で「お国の為頑張って参ります」
と元気に挨拶をし
村民の皆様の歓呼の声に送られ炎天下を出発し、
福知山二十連隊に入隊間もなく戦地に赴く時、
二条駅で軍事列車は二分間の停車をした。

幸い私は暁方のホームで見送る事が出来た。
その時汽車の窓から私を見つめ
「母を賴む」と言われた。
今も尚その目(まな)差はこの𥇥の裏に残っている。

兄は十三才にして父を失い、
幼くして戸主となり、
母を助け私共姉妹の父代りともなり、
時には厳しくまた優しく忠実で責任感強く、
学校の成績も優れていたと聞く。

やがて支那事変も世界大戦にと広がり
二十年八月十五日
米国の科学に敗れ遂に終戦となった。

以後三十余年の間に日本は平和な工業国として栄え、
最早今日では世界の先進国とまでなった。

兄はこのことを願って
身をお国に捧げたのだと信じている。

ただ私は、兄が今日の繁栄を見ずして
お国の為とは言い乍ら
戦場の露と消えていったことを想い起こすとき、
胸が張り裂ける思いがする。

兄さんの後を継いでいる私は
子孫にその人柄や勲功を言い伝え
末ながく御霊のお守りを致さす所存でございます。
何卒安らかにお眠り下さい。

 涙くもる 𥇥に兄のみ声して
  崩るゝ吾の心鞭打つ   伊藤善子
[平和の礎]瑞穂町:伊藤薫p2
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:伊藤薫p2

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
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