《尾田熊一》[平和の礎]瑞穂町遺族会:昭和58年

[平和の礎]瑞穂町
[平和の礎]瑞穂町:表紙
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:表紙

《尾田熊一》
位階勲等
 陸軍伍長
 勲七等功七級
生年月日   大正六年六月一〇日
出生地    京都府船井郡瑞穂町字中台
住 所    出生地に同じ
遺族と続柄  妹 ゆきゑ
現在の世帯主 尾田峯雄 戦没者との続柄 義弟(妹の夫)
軍戦歴
昭和一六年一一月末日
中部第三七部隊へ応召入隊
昭和一七年二月一一日
フイリッピン ルソン島 バターン州 カナス岬
附近にて戦死

◎兄を憶(おも)いて
   ゆきゑ(妹)
今日も瑞穂の里には、
初秋の美しい空が広がり、
虫の音とさわやかな風が流れてまいります。

最後に別れた我が家の庭に立って
はるか南のフイリッピンの地に眠る
亡き兄に想いをはせることしばらく。

女姉妹(きょうだい)の中で
唯一人の男子として生れた兄。

父母の慈愛のもとに、
心やさしく、
またたくましく成長し、
甲種合格で福知山歩兵第二〇聯隊に入隊して
支那事変に参加。

任終えて帰郷後間もなく
大東亜戦争勃発直前の十一月、
召集令状を受けて出征して行った
あわただしさを思い起します。

それは見送ることさえ許されぬ程の
秘(ひそ)かなことでした。

翌年二月には激戦の地ルソン島に上陸、
敵の銃火を浴びて、
「山ゆかば草むす屍(かばね)」
の古歌のとおりになり、
友の追悼の辞に
  星影に遠き故郷を描(えが)きつつ
     南の国に果てし ますらを
と歌われました。

残された母が八十三才の生涯を終えるその日まで、
枕辺に置かれてあった兄の写真に、
母の悲しみと苦しさ
如何ばかりであったろうことを想い起します。

幾多の青春の命を奪った戦争というもの程
残酷なものはない。

兄を失った悲しみと戦争への
にくしみは、
今尚私たちの心に鮮烈に焼きついて放れません。

生命の尊さと、
平和のありがたさをしみじみ思い、
幾多の散っていかれた青春の霊に祈るばかりです。

三十有余年の幾月を経た今、
若くして南の島に散った兄を偲び、
心から冥福を祈り、
追憶の記と致します。
[平和の礎]瑞穂町:尾田熊一p5
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:尾田熊一p5

 平和の礎
発行日 昭和五十八年二月二十一日
発 行 瑞穂町遺族会
編 集 瑞穂町遺族会顕彰録編集委員会
編集人 上田重太郎
印 刷 株式会社 北星社
[平和の礎]瑞穂町:奥付
〔画像〕[平和の礎]瑞穂町:奥付
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