2012年05月

[190]〔坂部秀夫君〕p244-245[現代船井郡人物史]

[190]〔坂部秀夫君〕p244-245[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[190] 〔坂部秀夫君〕p244-245
    醫師
    京都在
坂部家は祖父秀達、嚴父俊篤共に醫を業とし、

令兄秀之助氏は東京大學別課を卒へ
船井郡八木町に開業し
産婦人科を以て手腕卓絶、名聲あり、

氏は明治四年五月
同郡檜山村に生れ父祖の志を繼ぎて
京都府立醫學校に入り、
成績満點を以て
卒業後大學醫院及び
府立病院に醫術研究すること多年、

明治三十九年現在の地に開業
今日に至れり、

君は資性温厚の中に覇氣を有し
氣品高尚、磊落淡白、
患者に接する懇切叮嚀を極め、
其貧富に依り匙加減を爲すと云ふが如き
卑倫陋劣なるが如き
藪醫竹庵とは全く其趣きを異にし、
近時其利を爭ふ漁夫も啻ならすと雖も
都會の地に於て超然として其美風を支持せるは、
遉が世々刀圭家として重視されたる流れ淸き態度は
長袖時代の俤を偲ばしむるものあり、

希くは君此美的を子孫に傳へて
家名の隆盛ならんことを。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

《明治時代の京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)の医師》
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/43/

【日本医籍】内務省衛生局 忠愛社 明治22年8月8日出版
兵庫県多紀郡
『阪部秀達』上篠見村 p40/246
『坂部俊篤』上篠見村 p40/246
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780081/40

【帝国医籍宝鑑】南江堂書店 明治31年8月7日発行
開業医
『阪部秀之輔』兵庫県神戸市長狭通七丁目 p93/427
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/93
京都醫學校 助教諭 p54/427
『坂部 準』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/54

【日本杏林要覧】日本杏林社 明治42年12月28日発行
京都府船井郡 p144/976
『阪部秀之輔』別科 明治22年11月
       京都平民 萬延元年生
       八木村八木五五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/144
京都市上京区 p134/976
『坂部秀夫』醫學校 明治25年9月
      京都平民 明治四年生
      御幸町二条南入四三五 電話一六二四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/134

【日本医籍録】医事時論社 大正14年8月10日発行
京都府船井郡 p851/1332
『坂部 茂』 八木町八木
外産婦科 坂部醫院
明治23年1月4日生
大正5年 京都醫専卒
登録 39422號
同年同校 産婦人科教室   勤務六年
臺灣總督府 臺北醫院婦人科 勤務七年
同地醫學専門學校 講師嘱托
日赤支部病院 婦人科長   就任八年
日赤滋賀支部病院      勤務九年
現地開業
趣味 讀書 旅行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/851
京都市上京区 p842/1332
『阪部秀夫』御幸町二条南入
一般
明治4年5月14日生
京都醫學校卒 明治25年
登録 6420號
明治39年現地開業
大正10年 市会議員 當選 府醫師會理事
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/842

【京都府立医学専門学校一覧】
[第1冊]明治36-37年
明治36年8月13日発行
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812709/75
明治25年 第15回卒業生 44名 p45/77
『阪部秀夫』長濱病院勤務 兵庫平
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812709/45

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[140]〔中南甚之助君〕p184-185[現代船井郡人物史]

[140]〔中南甚之助君〕p184-185[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[140] 〔中南甚之助君〕p184-185
    前 梅田村長
    船井郡梅田村
祖先代々農を業とし
地方屈指の財産家として其名あり、

氏は明治四年九月十日
現在地に呱々の聲を擧ぐ、

其高等小學校を卒業するや
明治二十二年六月擧げられて
同村役場書記となり、

同三十八年十二月同村収入役となり、

四十三年九月助役となるに及び
収入役辭任、

四十四年十二月村長たるに及び又
助役を辭任せり

爾来其職に在る

一期にて本年一月退職したるが
此間實に二十餘年克く公職の爲に盡瘁し
事蹟の見るもの亦尠しとせず、

然るに惜むべし今や閑地にあり、

君資性温厚篤實にして磊落、
貧富貴賤に依りて區別する樣なる事なく
實に平民的氣輕な人にて
頗る任侠に富み
旦那樣何ふか頼みやすと揉手をすれば
見捨てる事の出來ぬ質にて、
人の爲に失敗せしこと
決して尠しとせず、

殊に君は酒を好み
美人を愛する等
富豪の旦那樣としての貫目はあれども、
餘り經濟界には用ひられざる男なり、

されど年歯尚春秋高く
實際の手腕を社會に認めらるゝは
寧ろ今後にあるなり、

君幸に自重以て
晩年の成功を期し
捲土來重益々公共の爲に貢献し
努力吝ならざらんことを望むものなり。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

[115]〔山崎良吉君〕p150-151[現代船井郡人物史]

[115]〔山崎良吉君〕p150-151[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[115] 〔山崎良吉君〕p150-151
    醫師
    船井郡須知町
先代良達氏醫を業とし村民に崇拜せられたり、

氏は其長子にして
父業を繼かんとせるも
當時資産豐ならざりしかば
提供すべき資なく、

されど元來怜悧の氣質とて奮然惟へらく
男子宜敷獨立獨行天下に行ふべきなりと、
意を決し窃に闕門を出で

京都數學校京都支會義塾等に普通學を修め、

次て大阪慈恵病院醫學校に學び

後ち笈を東都に負ひ醫學專門濟生學舎に入り

非常なる苦學を積み、
開業試験に合格し
故郷に錦の披露を爲したるが、

爾来門戸は頗る隆盛を極め
資産亦隆々として向上し
今や同町屈指の財産家として
名聲を博するに至れり、

君は温厚篤實にして
遉が幼時より苦勞せるだけありて
世の何たるを解せば
人に接する圓滿八方美人主義は
其職として洵に適切、

其苦學中、珠磨かざれば光なし、
勤勉は幸福の母なりとの格言を拳々服膺し
座右の鏡として奮勵せしが如き
今の青年輩が遠く及ばざる處なり、

其不撓不屈の精神と堅實なる志想が
今日の成功を致さしめたる所以にて、

患者に接する洵に親切其言ふ處亦
誠實にして衆望を博せり、

殊に君は公共の事に意を用ひ
克く地方に模範を示す、
年歯尚春秋に富む
幸に健在以て
益々國家の爲に盡瘁を祈る。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《明治時代の京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)の医師》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182917.html

【日本杏林要覧】日本杏林社 明治42年12月28日発行
[山崎良吉]  p144/976 原本p184
試験38年6月  京都平民 明治1年生  須知町須知新町10
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/144

【日本医籍録】医事時論社 大正14年8月10日発行
[山崎良吉] p850/1332 原本p京都29
須知村須知 明治1年11月1日生 明治38年 済生学舎卒 登録19828号
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/850

※ 大阪慈恵病院醫學校

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野安(安子)] 《女医への道》-01
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2162960.html
医術開業試験・合格・第89号(第86号)
明治16年(1883) 9月12日生誕
明治19年(1886) 1月11日小野梓歿
明治30年(1897) 東京府北豊島郡南千住大字地方橋場~宿毛
        明治30年8月26日転住
明治31年(1898) 高知県幡多郡宿毛村大字宿毛町50番屋敷
        明治31年6月30日相続
明治31年(1898) 大阪慈恵医院医学校 在学
『日本女医会雑誌・第73号』昭和11年頃発行
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【近畿遊学便覧】明治35年1月1日発行
明治32年(1899) 大阪慈恵医院医学校(3年制)p20-21/79
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812720/20
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年01月21日(木)
[醫師 山崎良吉君:先考良達氏:令嗣舜也君]
【京都府人物誌】昭和3年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2625571.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[060]〔村山磯太郎君〕p81-82[現代船井郡人物史]

[060]〔村山磯太郎君〕p81-82[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[060] 〔村山磯太郎君〕p81-82
    船井郡會議員
    船井郡須知町字安井
氏は明治二年十二月九日生、

祖先代々農を業とせるも
今は材木商を營み
傍ら菓子粉を製造する等
家運益々隆盛を極む、

明治三十四年四月擧げられて同村會議員となり満期再選。

同三十九年十一月同村助役となる等
專ら村治の為に盡瘁せしに、

明治四十年七月家事都合を以て
助役のみか村會議員まで辭任し
爾来全く公職と絶縁して
一意專心家業に従事し
亦を顧みざるの有様なりしが、
隆々資産の成るに隨ひ
名聲は彌々重きを加へ
衆望は何時までも其隠退を許さず、

昨年九月郡會議員に選出せり、

されば氏も國民の義務遁れ得ざる所と就任し
今日に至れるが
其他同村區長、蠶業組合長等を務め
地方殖産の為に盡せり、

君は温厚の中に
覇氣を有し進取的活動の人なり、

幼時秩序的學府を經ずと雖も
頭脳明晰にして理財に富み、

志操堅實にして一旦發起したる事は
飽まで成功を期せざれば
已まざるの氣慨あり、

されど其多くを語らず
謙譲なるを以て
一面平凡なる人物なりと評する
あれども是れ親しく君に接せず、
外觀を穿てる酷評ならん、

君子は惡なるが如しとは洵に金言なり、

今や嗣子文治氏ありて
家事に杞憂なし

殊に君年歯尚春秋あり、

國家の為め
益々其手腕を發揮し
晩年の大成を祈る。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

[053]〔安井福次郎君〕p73-74[現代船井郡人物史]

[053]〔安井福次郎君〕p73-74[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[053] 〔安井福次郎君〕p73-74
    酒造家
    船井郡須知町字安井
安井家は安井の安井と稱し
字を姓とせるだけに中々の舊家なり、

代々農を業とし庄屋を勤め村民の崇敬せる所なりき、

前代儀助氏に至り酒造を業とするに至れり、

氏は其長子にて萬延元年八月三日生れ、

明治三十三年四月擧げられて同村助役となり
同時に衛生委員となり
三十四年六月勸業委員となりしが
三十七年四月助役と衛生委員は満期退職せるも
其年四月同村學務委員に擧げられ再選を重ねて
本年四月満期となりたるが
勸業委員は今尚勤務中なり、

君は實に温厚篤實にして人と争を好まず、
萬事控目勝ちなれども
其欲する事は徐々に發表して遺憾あらしめず、
克く公共の事に盡し
勤儉貯蓄を奨勵せるが如きは
町民の多とする處なり、

殊に君は酒造業熱心にして
銘酒福壽の醸造に多大の注意を拂へるが、
其名聲嘖々として販路年々擴張せられ
今日の隆盛を見る、

君亦幸運の人と稱すべきなり。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

[149]〔太田源治郎君〕p196-198[現代船井郡人物史]

[149]〔太田源治郎君〕p196-198[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[149] 〔太田源治郎君〕p196-198
    勲七等
    檜山村長
    船井郡檜山村字和田
太田家は地方に於ける門閥家にして
世々庄屋年寄等の村役を出す、

氏は其一族にして
元治元年十二月同地に呱々の聲を擧ぐ、

幼にして頴悟其小学校を卒業するや
暫く家庭にありて父祖を助け
米穀粉製造業に従事したるが、

明治二十八年四月同村會議員に擧げられ
三十二年九月郡會議員となり、
三十六年同村長に就職したるが
三十八年八月辭任せり

此間日露戦役あり
東奔西走克く奉公の實を盡したる其功に依り
勲七等青色桐葉章及金五拾圓を下賜せられたり、

其村長辭職後は専ら蠶業に腐心し
三十九年十一月合資會社三一館を設立し
養蠶講習所を設け技術者を養成し
亦蠶種製造販賣を為す等、
地方蠶業の為に貢獻せしが、

四十三年再び村長に當選
大正四年四月辭任したるも
本年二月三度村長に推薦せられ今日に至る、

此間船井郡長後藤善二氏よりは
多年力を村治の發展に致したる廉に依り木杯一組を、

京都府知事よりは多年公職にあり
熱心教育の進歩を圖るの廉により
硯函一個を授與せられたり、

尚大正三年五月船井郡農會長に擧げられ現に其職にあり、

大正二年一月後藤郡長が表彰せる事歴は左の如し
―略―
以上叙する所に依り、

君が性行竝に事績は窺知するに難からず、

今や郡農會長として船井郡農村の盛衰を
双肩に荷ふ大責任たるなり、

既往の歴史を軌道とせば決して至難とするに足らざれども、
自重以て郡民の期待に背かざらんことを希望するものなり。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

[135]〔太田榮之助君〕p178-179[現代船井郡人物史]

[135]〔太田榮之助君〕p178-179[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[135] 〔太田榮之助君〕p178-179
    檜山村の元老
    船井郡檜山村
氏は文久二年十二月七日生にて ※1863年1月26日
志操堅實、
壮時は満々たる覇氣を有し、
氣骨稜々として誠に竹を割たる如き
清廉にて其欲する所は之を云ひ、
決して人を憚らず自由民権論の輸入せらるゝや、
非常なる熱心を以て之が鼓吹に努め
選挙運動等には一方の旗頭となり
大道狭ましと濶歩し氣焔萬丈、
八釜しやを以て鳴したる闘士なり、

斯る有様なれば町村制實施の際はイの一番を以て
村会議員に當選し大に村政の為に盡したり、

同三十一年三月擧げられて同村學務委員となり

三十二年三月収入役となりたるも

同年十月同村々長となるに及びて辭任せり、

同三十六年村長満期退職したるも

四十年十月再び擧げられて村長となりしが

四十二年十二月家事都合を以て辭職し、

爾来酒造を業として専心之に従事し
政事狂と稱せられたる政黨熱も何時しか冷却して
亦昔時の感あらしめず、

常識の圓熟したる酒造家の旦那様なり、

されど壮時の俤は何處となく名残を留め、
氣品高尚にして風采態度自然に備はる貫目は
遉が名家に人となりたるを偲ばしむ、

今や全く政界を絶縁して出でざれども
其名聲あり、
人望あり、

既往の事蹟は決して村長太田源次郎氏に譲らざるべし、

檜山村が郡内の模範村として稱揚せらるゝもの
氏の力亦大なりと謂ふべし、

嗣子平馬氏は京都中學校を卒業し
一年志願兵として福知山歩兵第二十聯隊に入り
満期歸郷後は豫備歩兵少尉として
郷黨の為に盡瘁せるのみならず、

檜山郵便局長として
地方通信機關の責任を荷ひ
國家の為に貢献せり、

太田家は平馬氏に依りて
鬼に金棒を得たりと云ふも過言にあらず
家名の隆盛期待すべきなり、

君年歯尚春秋あり幸に健全以て鶴壽を祈る。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

舎監:小野文子・主事:小野又一[二十年の歩み]ノートルダム女学院

舎監:小野文子・主事:小野又一[二十年の歩み]ノートルダム女学院

[二十年のあゆみ]ノートルダム女学院
第4節 現職々員1覧 p273
「舎 監」       p281
鴛渕裕枝

小野文子
〒613
京都市伏見区深草正覚町9
TEL (075)541-4961

S・ナタリー
〒606
京都市左京区鹿ケ谷桜谷町1
ノートルダム修道院
TEL (075)771-4436

「ノートルダム女学院20年史年表」 p301

昭和47年(1972) p312
1月31日 本校主事 小野又一氏 逝去
「あ と が き」 p313-314
深い山の岩間からかすかな音をたてて流れ出した
ノートルダム女学院の源流は20年の短い歳月のうちにも、
それなりに大小様々の岩にぶつかって、
その都度八方にしぶきをあげながら次第に床を削り、
巾を広げてやっとこの頃、
川の仲間に入れていただけるように
なったのではないかと思います。
編集を終えた今、そのような気が致します。

昨年の4月、校務分掌の一分枝として校史編纂部が発足し、
束田延夫先生を頭にシスター・ヴァージニアと私の3人が、
この任を仰せつかりましたが、
この種の仕事はどこの学校の場合でも同じでしょうが、
私共の場合も例に洩れず、仲々順調には進みませんでした。

まず束田先生が
ノートルダム法人事務局関係のお仕事が多忙となられ、
20年史編集にあまり加わっていただけなくなりました。

その後任として、
小野又一先生が8月1日より赴任されましたが、
何よりも誠実な御性格と
20年史編纂への御熱意とに喜んでおりました矢先、
47年1月8日に脳卒中でお倒れになり、
御家族、御親類、御友人、職場の全員の祈りも空しく、
1月31日未明御他界されました。

先生とのお別れの悲しみは一方ならぬものでしたが、
その中で第3篇思い出の流れ用に依頼しておりました
旧職員、卒業生、父母の会の役員方、
その他色々の御関係の方々から次々と記事も寄せられたことが、
大きな励みになりましたことを、
ここに感謝をこめて記させていただきます。

幸いその後西村四郎先生、岩城昌子先生、
吉田志希子樣、鴛渕裕枝樣が
お手伝いに来て下さったおかげで
どうにかここまでまいりました事を深く感謝しております。

その他この小史編纂のため陰に陽に御力添え下さった
数知れぬ方々にこの場を借りて心から御礼申し上げます。

最後になりましたが、この20年史編纂の方針としましては、
幸い御健在で御活躍して下さっています
創立者とその協力者たちの生の声を
できるだけ忠実に伝えようということと、
20年の間に分散してしまった資料を
一つにまとめようということでした。

前者のために校史としては
異例の座談会方式を取り入れましたし、
後者としては、不備ながら第2篇で
出来るだけの統計類を正直に収めました。

この20年史が
今後の本校の教育のために何らかの意味で役立てば
これに勝る喜びはないと思っております。
(浅井照子記)

[20年のあゆみ]
昭和47年(1972)10月1日発行
発行者・発行所
    ノートルダム女学院
    京都市左京区鹿ケ谷桜谷町1
印刷所 関西印刷株式会社
    京都市下京区西七条東御前田町

[都會と田舎と何れが有利か]【鍼灸医術開業法】山崎良斎著

[都會と田舎と何れが有利か]【鍼灸医術開業法】山崎良斎著

【鍼灸医術開業法】一名・鍼灸医術概論
山崎良斎著
大阪:日本医書,昭和5
山崎,良斎(1890-1940)

五 都會と田舎と何れが有利か p104/125

大都會で開業するのが利益か、
田舎で開業するのが利益かと云へば
いずれにも利害の伴ふことは勿論であるが、
大體から見て著者は田舎の方が有利であると考へる。

田舎は、開業の資本も少なく、
開業後の維持費、生活費も低廉であるから
安全な生活をすることが出来る。

東京や大阪等の大都會で家屋を借りて
開業するだけの資本があれば、
大抵の田舎なら新築して開業することが出来る。

田舎は宣傳するにも知れ易く、
良い評判さへ得たなら
次から次へ傳はるから
廣告費などは殆んど要らない。

又都會は轉宅する人が多いから
折角出来た患家も忽ち失ふことがある。

田舎は轉宅する人は稀であるから
一度信用を得たなら永久的の患家となる。

更に田舎で評判を取れば
追々都會から行く患者も出来るから
實力ある者は田舎でも發展が出来ないこともない。

然し田舎で開業する人達は特に充分の實力を養って
細心の注意を拂って失敗せぬことが肝要である。

田舎は良い評判も早い代りに
悪い評判も早い。

殊に田舎の人達は質朴であるから
一度不信用を賣ると
夫れを回復することは容易でない。

都會でも實力があって
信用せられることは勿論必要であるが
少々の失敗が致命傷となる樣なことはない。

都會は都會として有利な點もあるが
相比較して田舎の方がよいと信ずる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107463/104
大正14年3月10日印刷
大正14年3月20日発行
大正14年11月1日再版印刷
大正14年11月10日再版発行
昭和3年7月20日三版印刷
昭和3年8月1日三版発行
昭和5年3月1日第四版印刷
昭和5年3月10日第四版発行
鍼灸医術開業法
定価 金弐圓
著作兼発行人 山崎直文
       大阪市港区九条北通一丁目十二番地
印刷者    瀬戸清次郎
       大阪市西区靭下通十一丁目十一番地
印刷所    一成舎印刷所
       大阪市西区靭下通十一丁目十一番地
発行所    日本医書株式会社
       大阪市港区九条北通一丁目拾二番地
大売捌所   南江堂書店
       東京市本郷区春木町三丁目
       南江堂京都支店
       京都市中京区寺町通御池南
       丸善株式会社大阪支店
       大阪市東区博労町四丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107463/124
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
【鍼灸医術開業法】一名・鍼灸医術概論 山崎良斎著
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2216886.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[165]〔吉田八重野女史〕p213[現代船井郡人物史]

[165]〔吉田八重野女史〕p213[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[165] 〔吉田八重野女史〕p213-214
    女醫
    船井郡世木村
吉田家は地方に於ける舊家にして
祖父半之丞氏迄は医を業とし村民の崇拝せし處なるに
厳父彦七氏は医を好まずとて農となりしも
不運にして意に任せず、
殊に二人の娘を遺して早逝せしかば
令弟半之丞氏其後を承継せざるの止むなきに至りたれば、
二人の娘を實子の如く愛撫して養育したるも
元より遺産あるにあらざれば、
十餘年前半之丞氏は二人の娘を連れて京都に移住し
郵便局員等の安宿を営業として幽に其日を送り居りたる内、
姉娘は船井郡新庄村西村平太に嫁したるを以て、
妹たる八重野子は如何にもして
吉田家の再興を圖らんと、
大學病院看護婦となり一生懸命勉強したれども
職に在りては意に任せざる為め、
遂には笈を東都に負ひ一時書籍屋に奉公し
暇あれば書を手にし黙読徹宵に及びを常とせり、
然るに或る機會を以て基督教牧師の宅に奉公し
意中を語りたるより、
牧師の同情に依りて獨學自由を得るに至りたれば、
孜々として倦まず寝食をも忘る熱心にて
研學せし功果は空からずして、
前期医術試験に合格したるを以て益々奮励努力、
一昨年後期試験をも合格し
茲に医術開業免許状を得るに至りたるが、
当時子が喜びは如何許りなりしか、
男子にても成し得ざる苦學なるに
殊に青春燃ゆるが如き娘の身を以て、
有りと有らゆる苦學を盡して此成功を為したる
到底凡婦の及ぶ所のあらず
称讃するにも其辭なきなり
子は其れより更に修業の為め
一ヶ年神戸の某婦人科医師に就き實地の研究をなし
昨春帰郷して現地に開業したるものなるが、
婦人科小児科は其最も特長とする所にて
殊に辛酸苦學を甞めて成功せし婦人とて、
患者に接する極めて懇篤にして功果亦顕著なるより
忽ちにして好評を博し、
田舎の事なれば一犬吠えて萬犬實を傳ふの有様にて、
開業以来門前は眞に市をなすの盛況、
郡内は勿論綾部、舞鶴福知山京都地方よりも
態々来り診を乞ふの有様にて
誠に一種の流行神を見るの感あり、
子は年歯二十八歳
親にも勝る叔父半之丞氏と二人暮にて、
子が今日あるは叔父の賜ものなりとて
半之丞氏に孝養怠りなければ、
半之丞氏も家名の再興を喜び
昔時の辛苦を語り草に
楽しき光陰を送る身となりたるは
寔に吉田家の為め慶すべき事なるが、
俗に所謂一時流行と化せざる様、
子現在の手腕を以て決して足れりとする事勿れ、
医術は日進月歩を以て向上發展しつゝあるなり、
されば努めて研鑚怠るなく伍して其遺憾なきを期せよ。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五

『吉田八重野』船井郡・口丹・中丹 女医 第1号
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2216619.html

日本の女医(医術開業試験合格)第236号(第240号)
京都府の女医 第5号
船井郡・口丹・中丹 女医 第1号
胡麻郷村保野田(現 京都府南丹市日吉町保野田)

『吉田八重野』p850/1332
胡麻郷村保野田
内児産婦科 吉田医院
明治19年8月24日生
明治44年日本医専卒
登30413号
後東京愛国婦人会育児院小児科一ケ年
杏雲堂医院内科一ケ年
神戸市鳥越病院産婦科等勤務
大正3年現地開業 村医 校医
趣味 育児法研究
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/850
【日本医籍録】
大正14年8月5日印刷
大正14年8月10日第一版発行
発行所 医事時論社
    東京市小石川区関口町109番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/1330

『吉田八重野』p685/1228
胡麻郷村保ノ田
明治19年8月24日生
明治44年試験及第
登30413号
日本医学校卒業後
愛国婦人会育児院産婦人科ニ勤務一ケ年勤務後
神戸市鳥越病院産婦科ニ勤務
大正3年現地ニ開業
戸主会顧問
基督教矯風会支部長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1071099/685
【日本医籍録】[第151冊]昭和15年版
昭和16年1月10日第15版発行
発行所 医事時論社
    東京市世田谷区代田二丁目681番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1071099/1225

[209]〔隅山玄察君〕p253[現代船井郡人物史]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2233381.html

【最近調査大日本医師名簿】光明社 昭和6年5月15日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1049421/318
船井郡            p54/321
隅山玄察  下和知村字本庄  p54/321
隅山茂   下和知村字本庄  p54/321
吉田八重野 胡麻郷村字保ノ田 p54/321
出張所
隅山玄察  胡麻郷村字胡麻  p54/321
何鹿郡
隅山織之助 中上林村     p54/321
出張所
隅山織之助 奥上林村     p54/321
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1049421/54

【日本医師名簿】日本医事新報社 昭和8年11月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054827/150
船井郡医師会
隅山玄察  下和知村字本庄  p26/154
隅山茂   下和知村字本庄  p26/154
吉田八重野 胡麻郷村字保ノ田 p26/154
何鹿郡医師会
隅山織之助 中上林村     p26/154
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054827/26

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ