2012年05月

《安井荘次郎氏》関係者について

玉本様

安井荘次郎氏については、
ブログ掲載以外の事は分かりませんが、
地元の郷土史家の数名の方が、
御存知の可能性はあります。

京丹波町役場に、お問い合わせ頂ければ、
手がかりが有るかと思います。
http://www.town.kyotamba.kyoto.jp/
小野一雄
追記 平成24年(2012)5月23日

除籍謄本を入手する方法もあります。

除籍謄本の保存期間について
平成22年6月1日から,戸籍法施行規則の一部改正が施行され,
除籍謄本の保存期間が80年から150年になりました。
(戸籍法施行規則第5条第4項)
http://komainu-dottokomu.seesaa.net/article/161392455.html

[安井荘次郎]
墜落事故により昭和3年(1928)10月30日死去
明治26年(1893)9月22日生
昭和3年(1928)10月30日歿 35歳
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2415572.html

私の祖父(松村仙造)
昭和3年(1928)3月3日 歿
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2166980.html
除籍謄本入手日:平成24年(2012)2月10日 綾部市役所

小野一雄
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

明治国際医療大学付属病院 5月12日~21日:入院

明治国際医療大学付属病院 5月12日~21日:入院

5月12日(土) 緊急入院
5月21日(月) 退院

小野一雄
明治国際医療大学付属病院 5月12日~21日:入院

[我が家の猫]誕生日

[我が家の猫]誕生日

[我が家の猫]
ミー子 雌 15歳
平成9年(1997)5月11日生
1我が家の猫:誕生日
[我が家の猫]
キティ 雌 14歳
平成10年(1998)5月10日生
母 ミー子
父 近所のシャム猫
2我が家の猫:誕生日
2012年02月10日(金)
[我が家の猫]
近所の方が、生まれてすぐに捨てられていた子猫を、
自分の家は、犬は良いが、猫は駄目なので、
育てて欲しいと、連れて来られました。
その時、我が家には、チチワが八匹いました。

[我が家の猫]
ミー子 雌 14歳9カ月
平成9年(1997)5月11日生
両親とも不明

[我が家の猫]
キティ 雌 13歳9か月
平成10年(1998)5月10日生
母 ミー子
父 近所のシャム猫
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村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛

村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛

《村井資長 早稲田大学 第10代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《斉藤一寛 早稲田大学 名誉教授》

[早稲田学報]1972年12月号

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
―略―
二 建墓・除幕式 p27-28
―略―
昭和四十七年十月七日 清宝寺 釋省三
この墓地は緩やかであるが斜面になっていて、
多数の人々が一箇所に集まることが出来ないので、
総長の辞の後、焼香を終えた人人はさんさんごご
再び清宝寺の本堂に帰った。
それは精進落を本堂で行うことになっていたからである。
ほぼ三時過ぎ本堂に於ける精進落が始まった。
その前に総長はじめ大学側、親族の方々との相互紹介が行われた。
この時は法要の時と違って、気分が和らいだためか、
親族の方々にとっては
梓が故郷に帰って来たと思っているように窺われた。
施主早稲田大学は、釋省三師の表白文にある通り
「為すべき程の事を為し終えて」
還り来た小野梓を迎えた感じがしたと思う。

村井総長、阿部先生から筆者に
挨拶をするようにと強く言われたので
心なくもマイクの前に立った。
今は何も言うことはない。
大学、市、親族の方々、
その他の多くの人々の御協力があって
今日の日を迎えることが出来たので、ただ
「素志が貫かれて有り難うございました、の
 一語しか申上げる言葉はありません。」と言った時、
胸せまって不覚にも絶句してしまった。
満堂の人々から拍手があったと後で聞いたが、
自分には何も判らなかった。

次いで清家省三師からの挨拶があったのだが、
これも表白文にあるように、
昭和四十二年八月二十日の黄昏時に旅姿の筆者が
小野家の菩提寺清宝寺境内に建てられている
大隈侯篆額の「小野梓君碑」の前に佇んでいたのが、
筆者が梓と至近距離での出会いであった。

その時素衣の端をまくり上げて
境内の落葉を掻き集めている者がいた。
僧かと思えばさに非ず、
さりとて寺男にしては気品が高い。
俗人とも定めかねる人物であった。
この人が清宝寺の住職清家省三師であった。

来意を告げると、彼は衣服を改めて本堂に案内し、
御本尊の前で小野梓の位牌と過去帳とを取り出して、
「よく訪れてくれた」と、
敬意をこめて労ってくれた。
これが、今日このように結実するとは思わなかった、
表白文に「知る人ぞ知る」とある通りである。
次いで清家省三師の挨拶があって、五時前に精進落は終った。
―略―
(昭2仏文・名誉教授)

小野先生の生地を訪ねて p29-31
阿部賢一
創立九十年記念行事の一つとして
小野梓先生八十七回忌法要と墓碑除幕式が先生出生の地
土佐の宿毛市清宝寺で行われた。
その式に参列し、また一般市民に対する講演を頼まれて
村井総長一行に加わって私も出かけた。

土佐は曽遊の地であるが宿毛は始めてである。
時あたかも南方からの台風来の気象予告があったので、
一行諸君より一日早めに
総長、田古島君と羽田から飛び立って高知に行った。
空港では若き校友田村信孝君に迎えられ、
郊外山上の清風荘に落ついた。

台風はどこへいったのか、
ここまでくると大気も海洋も碧く澄みきっている。
名物の鰹のたたき、伊勢エビのさしみなど
味のよささはいうまでもないが、
若き校友の心づくしがうれしかった。
同君はかつての紛争にまきこまれながら
敢然スト反対に立ち上った経験をもつ青年であった。
同君の車でよく舗装された国道を
海風を浴び山並をぬって高知に入り、
桂ヵ浜の渚に立つホテルニュー高知に投じ、
ここで大学から来られた諸君と落合った。
近くにある坂本竜馬の巨像を久しぶりにみて、
同時代に生れ、大望を夢みたにそういない
少年小野梓のことを考えてみた。
―略―
翌朝(七日)早く一行と汽車で中村駅に着、
ここで車をつらねて約一時間で宿毛に行き秋沢別館に投じた。
街はずれの旅館で、
窓を開いて下をみると実る稲穂が無惨に倒れている。
台風通過の跡だと聞いた。
宿毛市は人口二万八千、いとも静かな市で、
その一角に小野先生出生の屋敷があったが、
その跡は全然変っている。

昼食後、清宝寺に行く。
門内に一歩はいると木犀の芳香が漂うている。
秋晴の境内で洗心の境に在るの感じがした。
式場に行く。
式その他の催について
心ゆくばかり細かな配慮をしてくれた
清宝寺住職清家導師や
京都から来られた小野家の遺族の方々に会う。

式は本堂で行われた。
祭壇には小野先生の遺影を中心として花が飾られ、
遺族と大学側が向いあって席が設けられ、
満堂粛然として読経の中に式次第が進められた。
清家導師が表白文で先生の略伝と遺業をたたえ、
村井総長は大学として先生に
大学今日あるは一に先生の献身的努力に由ることを
切々と感謝をこめて申上げた。
さわやかな秋風につれて流れこんでくる木犀の香りをかぎながら
私は瞑目して思考に沈んだ。
次いで遺族はじめ大学側の焼香、会衆一同の焼香が行われた。

次いで寺内裏山の小野家墓地に一同登り、
新たに大学建立の「小野梓先生墓碑」の除幕式に臨んだ。
先生父君の墓石より低きをよしとした墓碑で、
形は小さいが感銘深い永遠の生命をもつ墓碑である。
読経の中に一同焼香して先生を偲んだ。

式一切はかくて終り、山を下って本堂に帰り
いわゆる精進落のくだけた会合となった。
なごやかな話が数氏から行われたが、

ご本人が躊躇したのを無理に引出して挨拶してもらったのは
斉藤一寛君であった。
同君は教育学部教授当時から
小野先生の魅力に引かれたか格別の感興を覚え、
しばしば宿毛に旅して先生の旧跡を尋ね、
縁者を尋ねて旧縁古話を探り、
その成果を数々のパンフレットにして知友間に報告されている。
自然清家導師とも親しくなり、
今度の行事万端について陰で苦心してくれている。

同君の熱心な小野先生崇拝と探究心が、
先生の法要と墓碑建立を実現させた大きい推進力であったことを
忘れてはならぬと私は思うている。

そんな因縁をもつ斉藤君だから、
この機会に一言挨拶あって然るべきものと
総長と私も考えて無理に引出した。

控え目の同君も已むをえず立ったが、
感慨無量で最初はいささか絶句したようだが
淡々として小野先生にひかれた自己を少しく語り、
清家導師との出合いの面白さを話し、
導師の熱心な配慮を感謝したが、
これに応じて導師も立って丁重な感謝をこめて話された。

その夕刻四時半から宿毛市と早稲田大学主催の
小野先生記念の文化講演会が中央公民館で行われた。
かたくるしいこの種の会にどの位の人が集まるだろう、
と思うたが、
講堂は満員で三百名以上ということであった。
公民館の方の挨拶があって
宿毛市史編纂委員長橋田庫欣氏が幻灯を用いて
小野家の系譜を綿密に説明され、
前もって用意して渡されていた系譜と照らしながら拝聴して
私はさすがによく調べられているものと敬服した。
―略―
私は「小野梓先生の教育思想」という題で講話をした。
―略―
小野先生の高邁卓識さをみると
真に明治時代最高の知識人である。
その教育思想はいまは誰も彼も容易に口にする。
しかし、実践は容易ではない。
混沌としている現在のわが教育界にとって
最も斬新かつ緊要な問題である。

それを九十年以前に教育の指針として説かれた先生こそ
一大先覚者といわねばならぬ。
早稲田学園は先生を師と仰ぐことを誇りとする。
先生を生んだ宿毛の市民各位も誇りをもって
永く先生を追憶されるだろう、と述べた。
―略―
翌朝早く宿毛を立って海岸沿いに車を駆って宇和島に、
そこで電車に乗りかえて松山に、
そこから空路帰京した。
今度の旅は天候に恵まれ、
海山の秋晴をほしいままに楽しむことができた。
これも小野先生につながるご縁で感謝の旅であった。
(十月二十八日)
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定 価 八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
振 替 東京 八九八六
1《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
小野梓先生の教育思想
2《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》

小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2248352.html

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

[早稲田学報]1972年12月号

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛

一 八十七回忌法要
昭和四十七年十月七日、
宿毛は朝から晴れ上がった爽やかな日を迎えた。
この日は標題に示した通り、
小野梓の故郷高知県宿毛市において、
梓の八十七回忌法要を営み、
かつ建墓・除幕式の行われる日であった。

周知の通り早稲田大学は本年建学九十周年を迎えた。
この九十周年を記念するためにいろいろの行事が催されたが、
建学の母ともいうべき小野梓の墓を、小野家の墓地内の、
彼の遺髪の埋葬されている跡に建立することが
記念事業の一つとして企画された。
この企画は昭和四十六年五月から着手され、
村井総長の指示で浜田総長室長、元施設部長の杉浦巴氏、
それに筆者が現地に赴いてつぶさに現場を視察し綿密な計画が進められた。
筆者はさらに旬日を重ね宿毛に滞在して、
小野梓の系図を、親族をはじめ、土地の古老、郷土史家、
図書館などで若干の資料を得て、
「小野家略系図」の作成に当り、
本年三月未定稿として刊行した。
爾来一年五か月にして、
この年、この月、この日に建墓・除幕式が行われることになったのである。

墓は左に父義與、母助野の墓石、
右に養子義実(梓の義兄)の墓石の間の中央、
少しく後方に下った個所に建てられた。
墓石はスウェーデン産のブルー・パールblue pearl と呼ばれるもの、
白味がかった地に薄い青色を掃いた、高貴、純潔な色調を帯びている。
墓の高さ八一センチ、幅八五センチの横墓で、
表面には横書きで「東洋小野梓之墓」、
裏側には梓の信念を表わした彼の銘句
 一国の独立は国民の独立
 に基し、国民の独立はその
 精神の独立に根ざす 而して
 国民精神の独立は実に
 学問の独立に由る
 早稲田大学総長 村井資長書
と刻まれている。〔以下字配りによらず〕
向って右側面には
「早稲田大学創立九十周年の歳
 昭和四十七年十月 早稲田大学 建立」
と刻まれ、
左側面には
「収遺髪 願入院釋東洋居士
 嘉永五年二月二十日生 明治十九年一月十一日歿
 行年三十五才」
と彫られている。
これらの文字は村井資長総長自らの揮毫になるものである。

式に先立って午後一時、
小野家の菩提寺清宝寺本堂で八十七回忌の法要が営まれた。
参列者約八十五名、
むろん梓の直系、
第三代の一雄氏、
故二代又一(昭和四十七年一月三十一日歿)の未亡人文子夫人、
次男の雄二氏はじめ親族の方々、
近県から馳せ参じた校友、知人、
それに大学側村井総長、阿部元総長、
増田・清水両常任理事、浜田総長室長以下十二名が着座した。
型の如く開会の辞から、清家省三師が導師となり読経に入る。
嗚咽がそこかしこから聞える。
同氏は次のような表白文を読み上げる。

表白文
末燈鈔に曰く。
「ちかいのやうは、無上仏にならしめんと、ちかい給えるなり。
 無上仏と申すは、かたちなくまします。
 かたちましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。
 かたちましますとしめすは、無上涅槃とは申さず。
 かたちましまさぬやうをしらしめんとて、はじめて弥陀仏と申す」
恭々しくおもんみれば、阿弥陀如来は、罪劫深重の凡夫を救わんがために、
他力廻向の本願を成就し給い、釋迦如来出世の本懐を顕わして、
弥陀の本願を説き給う。
宗祖親鸞聖人、これを教行信証に顕わして、浄土真宗と名づけ、
弥陀仏の誓いの要を、末燈鈔に示し給う。
われ今、聖人の化導によって真実の教を聞き、大悲の衿哀を蒙って、
真の仏弟子となる。
しかれば、現生には、仏祖の宏恩を仰いで報謝の大道を歩み、
当来には往生の素懐をとげて涅槃の妙果を証せん。

本日、早稲田大学は、学祖東洋小野梓、法名、願入院釋東洋居士の、
東福寺山の旧墓を改修して、新たに一基を建立す。
村井総長自ら揮毫し、梓の辞を誌して、墓碑銘となす。
よって、有縁の人々相集まり、
梓八十七回忌法要、並びに墓碑除幕の儀を厳修す。

昭和四十二年八月二十日の黄昏時、当山の境内、小野梓の記念碑の前に、
学匠一人佇みてあり、齢、耳順うのころか、
長躯蓬髪、全身汗にぬるるも、あたかも、
遠きより慈父のもとに還り来たれるが如し。
早稲田大学教授斉藤一寛と知らる。

この日、この時、斉藤一寛の胸に、今日の盛儀を期して、
一つの念願、その火花をちらせしや、否や、知る人ぞ知る。
又、早稲田大学と縁深かりし小野義真の一寄進になる当山本堂に於て、
義真の最も愛厚かりし梓の法要を営む事を得たり。
われらの喜びこれに過ぐるものあらにゃ。

仏かねて知ろしめして、われらがために、
往く者、送くる者、来たる者、
皆倶に一処に相集う。
即ち、倶会一処の喜びを誓い給えり。
今日の盛儀、
これを倶会一処と言わずして何をもって仏の誓いとなす。
われら今、茲に、尊前を荘厳し、懇ろに聖教を読誦して、
大悲あまねき仏意に添いたてまつらん事を期す。
願くば、三宝哀愍して納受し給え。
昭和四十七年十月七日
清宝寺 釋省三

導師の表白文につづいて、早稲田大学総長が次のような辞を述べた。

早稲田大学総長 村井資長の辞
小野梓先生、
先生は早稲田大学の前身東京専門学校の創立から草創の期に、
その全身全霊を捧げて短い生涯を燃やし尽されました。
―略―
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定価八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
振 替 東京 八九八六
1建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
2建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
3建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
4建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
5建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
村井資長総長 小野雄二 小野一雄 小野文子

小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》ネット資料

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》ネット資料

[財団法人 山人会]
―会員の横顔―
1978年(昭和53)山人会報41号より
斎藤 一寛
胆石の摘出手術から退院して約20日、
順調な回復の日々を送っている。
77歳にして、ますます気力充実。
57年10月、早稲田大学は創立百周年を迎えるが、
その記念事業の一環として、
同大学生みの母といわれる小野梓の全集出版を提唱し、
自ら編さんに取り組んでいる。
八ヶ岳山ろく大泉村生れ、
零歳で両親とともに北海道は旭川へ、
日露戦争後に南樺太へと渡った。
大正9年上京して早稲田大学へ進学し、
前田晁氏や中村星湖氏らとの出会いとなる。
「私はいわば"多国籍住民"でして実は山梨はそう知らない」という。
しかし、山人会には創立後、
2回目の会合から出席したというから最長老である。
「山人会も戦後随分変わった。
会員が増えて゛家庭的゛な雰囲気から社会的になったが、
原点の良さは忘れず受け継いでいってほしい」としみじみ言う。
山人会を大事にする気持が伺える。
仏文学者で早稲田大学名誉教授、
48年に勲三等瑞宝章受章、
現在は昭和女子大で週3回の講義をしている。
著書に「坪内逍遥と比較文学」「フランス演劇発達史」など。(桂田記)
http://www1.odn.ne.jp/sanjinkai/syoukai/yokogao/yokogao47.html

[斎藤一寛](さいとう かずひろ)
明治33年(1900)年7月25日―昭和53年(1978)年4月16日)
フランス文学者、早稲田大学名誉教授。
山梨県生まれ。
昭和  2年:1927年早大仏文科卒、日本女子高等学院教諭。
昭和  4年:1929年早大出版部入社、
昭和  5年:1930年退社し著述に専念、
昭和  9年:1934年日本電報通信社入社、
昭和22年:1947年第二早稲田高等学院講師、
昭和24年:1949年早大講師、
昭和25年:1950年教育学部教授、
昭和31年:1956年から昭和32年:1957年までパリ留学、
昭和35年:1960年から昭和37年:1962年まで教育学部長、
昭和41年:1966年から昭和43年:1968年まで早大理事、
昭和46年:1971年早大を定年退任、名誉教授。
フランス演劇を専攻し、晩年は比較文学にも手を染めた。
「著書」
佛蘭西語發音五時間 大学書林 1930
フランス語会話 大学書林、1932
フランス語動詞変化表 大学書林、1934
フランス語基礎1500語 大学書林、1948
フランス基礎単語2000 第三書房、1949
フランス思想劇の成立 早稲田大学出版部 1954
フランス語24講 第三書房、1957
舞台の鬼アントワーヌ-フランス自由劇場の歩み 早稲田大学出版部、1964
坪内逍遙と比較文学 二見書房 1973.11
小野梓の人と思想 校倉書房 1973
フランス演劇発達史 カルチャー出版社 1976.9
「翻訳」
居酒屋 エミール・ゾラ 春陽堂、1932-1933
永遠の処女 シャトーブリアン 進行社、1946
もの言ふかしの木 ジョルジュ・サンド 愛育社、1949
捨子フランスワ サンド 大学書林、1949
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80%E5%AF%9B

[創部90周年記念 早稲田大学競走部年譜]
※ 斉藤一寛(昭和36年~44年)
競走部歴代部長
山本忠興(大正12年~19年)
野村平爾(昭和21年~25年)
末高 信(昭和26年~32年)
中村佐一(昭和33年~35年)
斉藤一寛(昭和36年~44年)
織田幹雄(昭和45年~48年)
竹内常行(昭和49年~52年)
木村時夫(昭和53年~平成2年)
榎本隆司(平成2年~10年)
濱口晴彦(平成10年~16年)
野嶋栄一郎(平成16年~ )
http://www.waseda-ac.org/history/rekidaibucho.html

斉藤一寛教授・書簡:昭和47年7月13日(木)

斉藤一寛教授・書簡:昭和47年7月13日(木)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

小野文子様
斉藤一寛
謹啓
いよいよ御健勝の御事と推察申上げます
今秋、早稲田大学創立九十年を迎えるに当り、
寸暇を得て小野梓について、若干の記憶を喚び起こすために
次のことについて?しく調べてみました
(1) 梓の言う「学問の独立」の意味
    (「早稲田学報・四六年一〇号」)
(2)著書「国憲汎論」の上表文却下の経緯(「早稲田大学史記要第五号」)
(3)早稲田大学と小野義真との関係(同右、別冊)
(4)東京在住地の確認(同右)
(5)小野家の略系図
以上はすでに発表しましたので、
御高覧を得た方もあると思いますが、
今回(2)の抜刷が出来ましたのでお届けいたします
なお、不備の点など御教示頂ければ幸甚に存じます
敬具
七月十三日
小野文子様
斉藤一寛
※ 昭和47年(1972)7月13日(木)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和47年
[小野梓著『国憲汎論』の上表白文について
斉藤一寛
早稲田大学史記要 第五巻 抜刷
四 『上国憲汎論表』について p158-159
筆者は昭和四十六年五月上旬、
宿毛時代の小野梓の生活や小野家の家系などを確かめるために、
彼の故郷宿毛を訪れた。
予定は十日間、折りからの霖雨で行動は拘束され、
小野梓の遺族の方々、土地の古老、遺跡、
墓地などを廻るだけで相当の時間を費した。
幸い宿毛市役所、市教育委員会、公民館、
特に菩提寺清宝寺を守る住職清家省三氏の御尽力により、
遺族および関係者の方々が、
一堂に集会して資料を照合したり、記憶を喚起したり、
古文書の被見、その複写など、作業は徐々に進展した。
梓の生れた宿毛の自然である背景もまた見逃してはならなかった。
「預言者は故郷に入れられない。」
と言われているが梓の場合はそうではなかった。
梓を敬慕する人々の助力によって
辛うじて初期の目標はほぼ達せられた。
五月六日の午後、
清宝寺の庫裡を訪れた際、
清家氏と談たまたま梓の『国憲汎論』に及んだ。
清家氏は別棟の建物から一巻の軸を持って来た。
それは梓の「手写」になる
「上国憲汎論表」を表装したものであった。
天地約一五〇センチメートル、
巾約七〇センチメートルの
古色蒼然とはしているが損傷のない一軸であった。
軸を掲げて清家氏と共その一字一字を拾うようにして読み下した。
それには楷書で次のように書かれていた。
―略―
※ 昭和46年(1971)5月6日(木)
2斉藤一寛教授・書簡:昭和47年

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日(土)

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日(土)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

612
京都市伏見区深草正覚町九
小野又一様
折りまげないで下さい

〒167
東京都杉並区南荻窪二丁目26-16
斉藤一寛
電話(三三四)○六四七
前略
なかなか、すっきりしない天気です。
御健勝の御事と存じます。
先般 詩仙堂にお伴した時の写真 やっと、出来ました。
とても御笑覧願えるほどの出来ではないのですが、
写真屋が本職でないのでお許し下さい。
その時の思い出としてお送りいたします。
何卒御笑納願います。
では要用のみで失礼します。
七月二十四日  斉藤一寛
小野又一様
追伸 奥様、御令息にもよろしくお伝え下さい。
昭和46年(1971)7月24日(土)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
2斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
3斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
4斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
5斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
詩仙堂  小野又一 小野雄二
 

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月11日(火)

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月11日(火)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

612
京都市伏見区深草正覚町九
小野又一様

〒167
東京都杉並区南荻窪二丁目26-16
斉藤一寛
電話(三三四)○六四七

前略
先日、小野梓の事項を調査に四国を巡り、
京都に立ち寄った際は、旅行中のことで、
電話をかける??もなく、
そのまま京都に直行し、
お宅を訪ねる結果となり大変失礼いたしました。

ヤスのことについて、多くの知識を得、
かつ「民法之骨」の原稿
その他を実見し、
感銘著しいものがありました。

小生の不時の訪問で、
小野さんのスケジュールを乱したこととなり、
その点、同じ仕事をしている者として、
突然の訪問がいかに迷惑かは知っておりましたが、
何卒お許し願います。

翌日の日曜は、
御迷惑をおかけしないで済むと思っての行動でしたが、
その日曜を、
すっかり小生のためにつぶしてしまった結果になり、
本当に恐縮しています。

なお、一番有り難かったことは車を出して頂いたことでした。
厚く御礼申上げます。

これから、宿毛―京都間の調査事項を整理するわけです。
「大学史編集所」とも連絡して、
また、お願いする件が出ましたら、
よろしく、御助力のほどお願いします。

帰京の翌日は一日寝ていまして。

今日から又 仕事に入ります。
取りあえずお礼まで申上げます。

末筆ながら奥様、
車の運転して下さった雄二さんに
よろしくお伝え願います。

これを機縁に今後とも、
私的にもよろしく御指導下さるよう
お願いします。
とり敢えず御礼まで・・

五月十一日      斉藤一寛
小野又一様

※ 突然の訪問が・・・。昭和46年(1971)5月8日(土)
※ 翌日の日曜は・・・。昭和46年(1971)5月9日(日)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
2斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
3斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
4斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
[小野梓著『国憲汎論』の上表白文について
斉藤一寛
早稲田大学史記要 第五巻 抜刷

四 『上国憲汎論表』について p158-159
筆者は昭和四十六年五月上旬、
宿毛時代の小野梓の生活や小野家の家系などを確かめるために、
彼の故郷宿毛を訪れた。

予定は十日間、折りからの霖雨で行動は拘束され、
小野梓の遺族の方々、土地の古老、遺跡、
墓地などを廻るだけで相当の時間を費した。

幸い宿毛市役所、市教育委員会、公民館、
特に菩提寺清宝寺を守る住職清家省三氏の御尽力により、
遺族および関係者の方々が、
一堂に集会して資料を照合したり、記憶を喚起したり、
古文書の被見、その複写など、作業は徐々に進展した。

梓の生れた宿毛の自然である背景もまた見逃してはならなかった。

「預言者は故郷に入れられない。」
と言われているが梓の場合はそうではなかった。

梓を敬慕する人々の助力によって
辛うじて初期の目標はほぼ達せられた。

五月六日の午後、
清宝寺の庫裡を訪れた際、清家氏と談たまたま梓の『国憲汎論』に及んだ。
清家氏は別棟の建物から一巻の軸を持って来た。

それは梓の「手写」になる
「上国憲汎論表」を表装したものであった。

天地約一五〇センチメートル、
巾約七〇センチメートルの
古色蒼然とはしているが損傷のない一軸であった。

軸を掲げて清家氏と共その一字一字を拾うようにして読み下した。
それには楷書で次のように書かれていた。
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240152.html
※ 昭和46年(1971)5月6日(木)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[小野梓先生七十年記念祭 演劇]《小野梓》野澤英一 作

[小野梓先生七十年記念祭 演劇]《小野梓》野澤英一 作

四幕 及 エピローグ
昭和三十年十一月十八日(金)二時 五時
於  大隈講堂
主催 早稲田大學

<この人を見よ>
およそ早稲田人で小野梓の名を知らぬものはあるまい。
今から七十三年前の明治十五年の秋、
大隈侯を助けてわが學園の創立に與った第一人者が
實に小野梓その人だからだ。
建學の基本として先生が堅持したのは
學問の獨立、研究の自由であった。
これこそ傳統的精神として早稲田大學の生命をなすものである。
意志は剛健でも先生の身は病弱であった。
學校の經營、講義、著述、さらに政治的活動に、
わが身を顧みなかった先生は
三十五歳の若さで血を吐いて倒れた。
それから歳月は無心に流れて七十年、
先生の蒔いた種子は年毎に成長して
今や天に冲する巨木になった。
大學創業の恩人として先生を偲び、
學園の傳統として築かれた不滅の精神をさらに深く學び取らう・・・。
小野先生七十年記念行事が企てられたのもこの理由からで、
その一コマとして劇《小野梓》が
校友及び學生諸君の手によって上演される。


《小野梓》 四幕 及 エピローグ
第一幕 夜明け
  第一場 土佐國幡多郡宿毛村 小野梓生家
      ―明治二年十一月中旬―
  第二場 支那太平洋汽船客船「バンクーバー號」
      ―明治七年五月―
第二幕 立憲改進黨
      墨田川畔淺草 橋場村 小野梓邸
      ―明治十四年十月―
第三幕 東京専門學校
      早稲田東京専門學校普請場
      ―明治十五年八月―
第四幕 東洋館
      神田小川町 東洋館書店
      ―明治十六年九月―
エピローグ
    早稲田大學大隈會館内庭園
      ―昭和三十年十一月―

スタッフ
製 作   河竹繁俊
作     野澤英一
演 出   加藤長治
装 置   遠山静雄
照 明   小川 昇
舞臺監督  稲垣 勝
出 演   加藤精一
      近代劇場
      早大藝術科學生

配  役
小野 梓  原 孝之
兄 稠松  根岸定生
馬場辰猪  根本 茂
高田早苗  八代青樹
岡山兼吉  寺田彦右
小川為次郎 田中 香
大隈重信  加藤精一
天野為之  法尢堯次
砂川雄俊  田村 洋
金子堅太郎 林 正
山田一郎  青木亮一郎
山田喜之助 矢部 恒
市島謙吉  椿 恭造
生田二郎  青木克博
坪内雄藏  小谷 清
坂本嘉治馬 岸啓次郎
左官 佐平 根本 茂
   留吉 奈良 和
   源造 坂田光夫
  吉五郎 有馬裕人
大隈邸書生 萩原 光

東洋館店員原田  東 一壽
客(書籍小賣商) 法尢 堯次
東京専門學校入校志願者
       A 時枝國文
       B 山内康治
       C 濱ノ上猛
       D 又吉康廣
早大生沼田耕治  田中 香
早大生高村良太郎 林 万夫

梓の母 助野       園田昌子
  妹 廉子       村山喜三子
立田利遠子(後に梓の妻) 美柳光子
小野安子(梓の娘)    淺川裕子
小野家女中        山田佐智子
早大生河上元子      古川咲子

≪梗概≫
土佐藩の輕格の家に生れた小野梓は、
十八歳のとき勉學のため上京したが、
藩の學校に入らず昌平校の學んだため、
藩のきらうところになり郷里に呼びかえされた。
梓にしてみれば、一國一藩のことしか考えぬ
藩の人達の固陋さが我慢がならなかった。
そこで梓は自由な勉學の出來るよう、
武士を捨てて平民になる決意を固め、
その旨を家老まで届け出た。
母の助野、兄の稠松、妹の廉子らは
梓の氣持を十分に理解してくれた。
また梓の許婚者の利遠子も賛成してくれる。
梓は洋行して世界の生きた學問を研究しようという決心である。

明治七年、小野梓は親友の馬場辰猪とともに英國留學から歸國した。
その船上で二人は若々しい理想に燃え、新日本の建設の抱負を語りあう。
折から、洋上に日の出を望んで二人は日本の夜明けを思う。

明治十四年十月、小野梓は參議大隈重信の引きたてによって
會計検査員になっていたが、
大隈が薩長の藩閥政府と意見があわず、
野に下るときいて、自ら辭表を提出した。
その歸途大隈邸を訪ね、
大隈の下で新政黨立憲改進黨を組織する決意を固めた。

墨田川にのぞむ小野梓邸では、娘の安子を圍んで、
高田早苗、岡山兼吉らが陽氣に談笑していたが、
歸宅した梓の決意を聞いて欣然これに参加することになった。

小野梓にはもう一つ大きな仕事があった。
それは大隈の下で私立專門學校を設立することである。
梓がかねがね抱いていた學問の自由と獨立とを確立し、
政府權力に縛られない人物養成の機關としての學校の設立について、
大隈と全く意見が一致したのである。

この學校には高田早苗らが積極的に協力することになった。
彼等が勇躍して座を辭したあと、
自由黨の馬場辰猪が訪れ、入黨を勸めた。
しかし小野は斷乎これを斷り、
またも二人の間に政治のあり方について激論がたたかわされた。

この頃から小野は次第に病勢が進んでいた。
激しく咳込む小野の姿をみて、
利遠子や娘の安子の心は痛む。
しかし小野は國家のため、
學校のため自分の身をいとってはいられなかった。

明治十五年、東京專門學校の普請は急テムポで進んだ。

折から、ここを見廻りにきた大隈と小野は
氣輕く職人達の仲間に入り
學校の抱負や心境を語る。
高田、岡山、市島、山田らも校舎の竣工を待ちかねてやってきた。
ここでもまた學校に對する政府の干渉が話題となって
その固陋ぶりが大笑いになった。

ところへ、
金子堅太郎が訪れた。
金子は伊藤博文の内意をうけて
小野に駐米特命全權公使の依頼に來たのである。
小野は「ロッキー山の雪見は眞平だ」と笑うのであった。

明治十六年、
小野梓は神田小川町に東洋館という書店をひらいた。
その目的は西洋の知識を廣く紹介したいためで、
この點普通の書籍商とは異なっていた。

一方小野の著わした『国憲汎論』は、
政敵である伊藤參議さえも感心させたものだったが、
これに感激した若人は小野を慕って入校志願者も多く
今日も小野に激勵されて歸ってゆく。

ここへ、坪内雄藏が高田にともなわれて訪れた。
坪内は專門學校の講師を豫定されていたが、
シェークスピヤの最初の翻譯『該撤奇談(シーザルきだん)』が
この東洋館から出版されることになり、
その相談に來たのだった。

二人が歸ったあと、
安子が馬場から贈られた「天賦人權論」を携え、
馬場が日本を捨てて國外に去る話をもたらした。
馬場の心境を思って小野は深い感慨にひたる。

この東洋館の繁榮を祝しに大隈が訪れ、
小野との間に條約改正問題が論じられる。

小野はすでに條約改正論を草し、
出版許可を内務省に申請していた。
ところが、その出版が不許可になったという報せが來た。
小野は興奮して學校に行き、
直接自分の主張を學生に訴えようといきまく時、
喀血して倒れる。

小野梓歿して七十年、
大隈會館庭園内にある胸像の前で、
三人の早大生が語りあう。
學校のため、學問のため、學問の獨立のため
自身を犠牲にした小野先生の意氣と精神を
われわれはもっと體得しなければならない、
現代には特にこの小野精神が必要なのだ。
そう三人が決意を新たにする時、
時計台では自由の鐘が高らかに鳴り響く。
1[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
2[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
3[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
小野梓(原 孝之) 小野安子 小野又一
4[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
「蘆原生」は小野梓の筆号
[明治前期演劇論史]松本伸子 著
演劇出版社
坪内逍遥の『該撤(シーサル)奇談』が登場するのだが、
東洋館発行のこの翻訳書については読売新聞、
明治十七年(1884)六月六日付で蘆原生(藤田鳴鶴)が
「日本始めて訳書あり」という一文で絶賛している。
―略―
これは、「蘆原生」が小野梓の筆号であることの確証といえるであろう。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2216898.html

※ ただお嬢さんの安子さんの年齢を
  大きくしたような潤色はありましたが、

《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240147.html

本年は小野先生逝去七十年にあたるので、
學園においては十一月十七、八、九の三日間
盛大な記念祭をおこなった。
以下はその概況である。
―略―
なお、演劇終了後、加藤長治氏は以下のような感想を語った。
「人格識見ともにすぐれた學園創設の大恩人である小野先生を、
大學の立場で劇化するのはむずかしいことだとまず感じました。
―略―
野澤君が資料を刻明に調べ、
小野先生の全貌を一應本筋にあやまりなく書いてくれました。

ただお嬢さんの安子さんの年齢を大きくしたような潤色はありましたが、
これはむしろ作者の手柄といっていい位でしょう。
演出に當っては大隈老候を背景に東洋先生という先覺者の性格、
正しい姿を見失わないように心がけました。・・・」
―略―
(落合 記)

[麒麟兒=小野梓:獅子兒=馬場辰猪]
【維新から今日までの青年学生史】大正7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659878.html

[明治十四年の政變]
【維新から今日までの青年学生史】大正7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659879.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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