2012年06月

[大久保謙治]【陸上競技年鑑】大正12年:等

[大久保謙治]【陸上競技年鑑】大正12年:等

[大久保謙治:大久保麑山の孫]P19

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

[大久保謙治:大久保麑山の孫]P19

「それから謙治さんの方は池永さんが力を入れて
〔スターにする気で、主演の映画をとるために〕
満州ロケ等をやったのですがこれは駄目で
その後は撮っていないのではないかと思います。
学生時代運動の方では日本記録等を持っていた事もあり
競技仲間ではかなり有名でしたが
浅岡の様には行かず池永さんも困られた事と思います。
それで宣伝部長か何か〔宣伝部長である〕に転出した筈です。
その反動かマスオさんの方は初めの一年間に
これこれの宣伝費を使ったと
池永さんが木下伯父に話したと云っていました。」 p124

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大久保謙治]学生時代運動の方では日本記録
【アスレチックスレコード年鑑】大正13年(1924)
大正十三年度
大日本体育協会陸上競技レコード(米制)p32/155
種 目  ハイハードル
レコード 17秒2
保持者  大久保謙治
所 属  早大
年月日  大正9年11月28日
場 所  駒場

【陸上競技年鑑】大正12年
全國專門學校聯合陸上競技大會記録 p55/73
第一回 大正 八年 四月 十九、廿日
第二回 大正 九年十一月  二、三日
第三回 大正 十年十一月 十三、十四日
第四回 大正十一年 九月 廿三、廿四日
第一回帝大、第二回以後駒場トラック
高障碍競走
二五七九 森田俊彦 (農大) 一八秒四
二五八〇 大久保謙治(早大) 一七秒八
二五八一 大久保謙治(早大) 一七秒六
二五八二 森田俊彦 (農大) 一七秒四
低障害競走
二五七九 金城良雄 (早大) 二九秒四
二五八〇 大久保謙治(早大) 二七秒四
二五八一 内田庄作 (早大) 
     ハードル一個を倒す(二七秒〇)
二五八二 内田庄作 (早大) 二七秒二
※ 皇紀二五七九 大正8年(1919)
  皇紀二五八〇 大正9年(1920)
  皇紀二五八一 大正10年(1921)
  皇紀二五八二 大正11年(1922)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971708/55
大日本体育協会最高記録 p61/73
大久保謙治 ハイハードル 十七秒二
別府賢二郎 ローハードル 二十七秒四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971708/61
大正十二年四月二十日印刷
大正十二年四月二十五日発行
定 價 七十五錢
編輯者 森田俊彦
発行者 山岡愼一
    東京市赤坂区青山南町六ノ一四七
    全國学生陸上競技聯合代表者
印刷者 矢形 豊
    東京市本所区番場町四番地
印刷所 凸版印刷株式会社
    東京市本所区番場町四番地
発行所 全國学生陸上競技聯合
    東京市赤坂区青山南町六丁目一四七
    振替口座 東京 五二九四二番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971708/68

【アスレチックスレコード年鑑】大正13年(1924)
大正十三年度
大日本体育協会陸上競技レコード(米制)p32/155
種 目  ハイハードル
レコード   17秒2
保持者  大久保謙治
所 属  早大
年月日  大正9年11月28日
場 所  駒場
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971841/32
世界陸上競技レコード
ハードル(10個)(米制)p36/155
種 目  110※
レコード   14秒8
保持者  トムソン
所 属  加奈陀
年月日  大正9年(1920)8月18日
場 所  白耳義
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971841/36
大正十三年四月七日印刷
大正十三年四月十日発行
定價 金 壹圓四拾錢
著作者 大日本体育協会
発行者 目黒甚七
    東京市京橋区南伝馬町二ノ五
印刷者 高橋 郁
    東京市京橋区弓町
印刷所 三協印刷株式会社
発行所 目黒書店
    東京市京橋区南伝馬町二丁目
    電話 京橋 二一六三番
    振替口座  二八〇九番
発行所 目黒書店
    新潟県長岡市表四ノ町(本店)
    電話 長岡   一八番
    振替口座  三六一九番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971841/152

【報知年鑑】大正14年
レコード一覧表 p315/429
世界レコード(陸上競技)
百十メートル高障害
トムソン(カナダ) 一四・八秒
日本レコード(陸上競技)
百メートル       高木正征(暁星中) 一一・〇秒
二百メートル      谷三々五(満鉄)  二二・二秒
百十メートル高障害   榎原如一(同志社) 一六・二秒
二百メートル低障害   内田庄作(早大)  二六・二秒
走幅飛         織田幹雄(広中出) 七メートル〇八五
走高飛         織田幹雄(広中出) 一メートル八〇
ホップステップジャンプ 織田幹雄(広中出)一四メートル三五
世界レコード(水上競技)
百メートル自由型  ワイズミユラー(米国)  五九・〇
四百メートル自由形 ワイズミユラー(米国)五・〇四・二
百メートル背泳   キーロハ   (米国)一・一二・六
百メートル背泳   ワイズミユラー(米国)一・一二・六
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976132/315
大正十三年十月二日印刷
大正十三年十月五日発行
編集人 報知新聞調査部
    東京市麹町区有楽町二丁目一番地
    右 代表者 生駒粂藏
発行兼印刷人 広瀬 憙六
印刷所 報知社印刷所
発行所 報知新聞社出版部
    東京市麹町区有楽町二丁目一番地
    振替 東京 四二〇五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976132/426

【日本スポーツ人名辞典】昭和8年版
大久保謙治(陸上)p53/246
東京大森区山王一ノ二七二〇
日本活動写真会社営業部
大分県出身。
大正十一年早大商科卒業。
早大競走部先輩にて、
同九年十一月駒場に於ける
第八回全国陸上大会に於て、
百十米高障碍十七秒二で栄冠を掌握す。
当時早大競走部重鎮として力戦す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145549/53
昭和八年十二月二十七日発行
発行所 日本スポーツ協会
    東京市下谷区西黒門町拾三番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145549/245

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[創部90周年記念 早稲田大学競争部年譜]
関東学生陸上競技対校選手権大会歴代優勝者
110M H
年度 回数 優勝者 記録
大正9年 第2回 大久保謙治 17秒8
大正10年 第3回 大久保謙治 17秒6
大正12年 第5回 下田貞晴 17秒2
昭和3年 第10回 織田幹雄 16秒0
(2011年5月27日更新)
http://www.waseda-ac.org/history/kankareyushosha.html

[ジョニー・ワイズミュラー]
(Johnny Weissmuller、1904年6月2日 - 1984年1月20日)は、
オーストリア・ハンガリー帝国出身のアメリカ合衆国で活躍した
水泳選手・俳優。
映画俳優
1929年、ワイズミュラーは下着メーカーのBVDと契約を結び、
モデルとなった。合衆国中を回って水泳ショー、
水着のチラシ配り、サイン会、トークショーなどを行った。
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと7年契約を結んでから
俳優としてのキャリアが本格的に始まった。
1932年の『類猿人ターザン』でターザン役を演じ、
世界にセンセーションを巻き起こした。
ターザンの原作者エドガー・ライス・バローズも喜んだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC
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[大久保謙治]【早稲田大学校友会会員名簿】【映画事業名簿】昭和10年

[大久保謙治]【早稲田大学校友会会員名簿】【映画事業名簿】昭和10年

[大久保謙治:大久保麑山の孫]P19

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

[大久保謙治:大久保麑山の孫]P19

新派の俳優となった〔後記―これはまちがい。後にその訂正が出てくる〕
大久保謙治の場合は、親の慎二が当時の新聞記者であったから、
割合すらすらと俳優になれて、
身内の抵抗など少なかったかも知れないが、
これもはっきりしたことは判らない。P22

アキの異母弟の大久保慎二(新聞人であった)の長男の謙治が、
大正十一年(この前の年)
早稲田大学の商科を卒業した学士様であるにもかかわらず、
すでにこの時、新派に身を投じて役者になっていた(芸名その他、知らぬ)
〔後記―まちがいであった〕ので、P57

『謙治〔大久保謙治・大久保麑山(逕三)の末子慎二の子
・加来佐太郎にとっては年少の従弟に当る〕が大阪に転勤になった
〔早大を出て、東京の三越に入社していた〕ので久しぶりに会いに行こう』P120

「それから謙治さんの方は池永さんが力を入れて
〔スターにする気で、主演の映画をとるために〕
満州ロケ等をやったのですがこれは駄目で
その後は撮っていないのではないかと思います。
学生時代運動の方では日本記録等を持っていた事もあり
競技仲間ではかなり有名でしたが
浅岡の様には行かず池永さんも困られた事と思います。
それで宣伝部長か何か〔宣伝部長である〕に転出した筈です。
その反動かマスオさんの方は初めの一年間に
これこれの宣伝費を使ったと
池永さんが木下伯父に話したと云っていました。」 P124

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大久保謙治]
早稲田大学 大学部 商科 大正十一年卒業
三越呉服店員
日本活動写真会社 営業部

【早稲田大学校友会会員名簿】大正14年11月調
大学部 商科 大正十年度得業 p250/517
大久保謙治 三越呉服店員        p252/517
大阪市東区石町二ノ一七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910567/252
大久保謙治 大正10年 大商 大分 p406/517
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910567/406

【会員名簿】会員名簿. 昭和2年11月
大学部 商科 大正十一年卒業 p259/420
大久保謙治 日本活動写真会社
大阪市東区石町二ノ一七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462439/259

【會員名簿】1928(昭和3年)
大学部 商科 大正十一年卒業 p260/424
大久保謙治 日本活動写真会社
大阪市東区石町二ノ一七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083557/260

【早稲田大学校友会会員名簿】[昭和10年用]
大久保謙治 p113/462
大正11年 大 商
大分
日本活動写真会社 営業部
品川区大井林町三三四
(電 高輪 六二九三)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/113

[大久保謙治]
日活本社宣伝係長

【映画事業名簿】 昭和10年(1935) 下期版
昭和10年(1935)9月20日発行
日本活動写真株式会社 p7106
東京市京橋区京橋三丁目
電 京橋 自二一二二至九
(代)  松方乙彦
(総務) 田村栄一
(営)  松井彌太郎
(経理) 磯野 保
(直営館)江守清樹郎
(歩合館)伊藤 義
(宣)  大久保謙治
(業)  映画製作配給・映画館経営
日本活動写真株式会社 p7/106
京都撮影所
京都市右京区太秦多数町十四 
電 嵯峨 二六三・西陣 一〇九五・三二五二
(所長)池永和央
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032452/7
太秦発声映画株式会社 p14/106
京都市右京区太秦蚕ノ社
電 西陣 四九九四 嵯峨 一七二
(代)池永浩久
(常任監査)今井理輔
(総務)  木村晋門
(支)   小岩正直
(業)   JOシステム発声映画製作
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032452/14
昭和十年九月現在 映画人名簿 p81/106
池永浩久 太秦発声社長            p82/106
京都市上京区小山花ノ木町六五 電 西陣 二三二六
池永和央 日活京都撮影所長    p82/106
京都市上京区紫野初音町四九 電 西陣 一四九一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032452/82
大久保謙治 日活本社宣伝係長 p84/106
東京市品川区大井林町三三四 電 高輪 六二九三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032452/84
大河内傳次郎                             p85/106
京都市右京区太秦堀ケ内一二
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032452/85
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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別府三穂三郎:妻(遠山)常子【昭和人名辞典】昭和8年1月25日発行

別府三穂三郎:妻(遠山)常子【昭和人名辞典】昭和8年1月25日発行

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

『池永と三穂
(別府三穂三郎
〔中津川苗木元領主子爵遠山健彦の姉常子と結婚〕、
当時伏見の稲荷神社境内に居住)P123

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

《除籍謄本》
[別府又十郎]戸主
[別府三穂三郎]三男
明治11年10月15日 生
明治39年6月26日  遠山常子 ト 婚姻届出 同日受付
大正2年6月16日    京都府紀伊郡深草村大字福稲小字願成2番地
         分家 届出
※ 上記、別府祐弘先生(父 別府祐六:別府又十郎の六男)から、
  頂いた除籍謄本(原本のコピー)を基に作成。
[履歴と業績]別 府 祐 弘
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291502.html

[遠山常子]

【昭和人名辞典】昭和8年1月25日発行

[遠山健彦]p227/737
〔無業〕
(岐阜県恵那郡苗木町)
當家は加藤次景廉の後裔にして
景廉建久六年美濃国遠山荘を領し
子孫分れて七流となる
當家は其一にして
代々苗木城に居り
久兵衛尉友政に至る
友政德川氏に仕へ軍功を以て
舊領苗木一萬五百二十一石に封ぜられる
夫より十二代を経て友俤に至り
明治十七年子爵を授けらる
氏は友俤の二男にして
明治三十年七月に生れ
先代兄友郷の養子となり
大正九年襲爵す
大正十年京都帝国大学法学部政治科を卒業す
家庭と姻戚
妻  賀壽子(明治三十五年生)子爵 日野西資 三女 ※日野西資博
養妹 眞子 (大正五年)
養妹 和子 (大正八年)
姉  常子 (明治十七年)は福岡県人  別府三穂三郎に、
妹  良子 (明治三十二年)は工学博士 妻木頼黄 長男 二郎に嫁せり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107711/227

[日野西資博]p702/737
〔宮内官〕
(京都市外上賀茂村竹ケ鼻二)
當家は権大納言日野時光の子権大納言資国の法なり
夫より三代を経て久しく中絶す
大納言広橋総光の子総盛之を再興し
後別に一家をなし家名を日野西と称す
爾来九代を経て先代光善に至る
光善明治十七年子爵を授けられ
豊国神社 白峰神社 梨本神社 四条畷神社 平安神社
各宮司に歴任し貴族院議員に列す
氏は其二男にして明治三年十一月に生れ
大正十二年襲爵仰付けらる
夙に宮内省に出仕し曩に
侍従宮内事務官内匠頭京都出張長を経て
現時宮中顧問官たり
関係事業と地位
従三位勲二等、子爵、宮中顧問官なり
家庭と姻戚
妻  廣子 (明六生)子爵 鳥尾敬光伯母、
男  資忠 (明三三)従五位、
同妻 重子 (明三九)子爵 清岡長言長女、
男  資孝 (明三八)
女  兌子 (明四二)
弟  尊照 (明二〇)
妹  徳賨 (明二三)あり、
長女 栄子 (明二九)は愛知県人 星川久七に、
二女 治子 (明三一)は子爵 北小路三郎に、
三女 賀壽子(明三五)は子爵 遠山健彦に、
四女 智子 (明四〇)は愛媛県人 廣瀬満敏に、
妹  愛子 (明五) は静岡県人 寺田善作に、
同  範子 (明一〇)は学博士  櫻井小太郎に、
同  薫子 (明一二)は東京府人 村井吉兵衛に、
同  延子 (明一五)は鹿児島県人 田中十熊に嫁し、
弟  長輝 (明八)
妹  照子 (明一七)は各分家せり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107711/702
昭和八年一月二十日印刷
昭和八年一月廿五日発行
定價 金 参拾圓也
著作兼発行人 伊澤廣明
       大阪市住吉区晴明通一丁目七十四番地
印刷者    加藤三次郎
       大阪市東成区鶴橋北之町一丁目一五四
印刷所    加藤印刷所
       大阪市東成区鶴橋北之町一丁目一五四
発行所    光人社
       大阪市住吉区晴明通一丁目七十四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107711/736

[別府祐六:別府又十郎の六男]
京都帝国大学 法学部 法律学科 大正十年三月学士試験合格

[遠山健彦]
京都帝国大学 法学部 政治学科 大正十年三月学士試験合格

【京都帝国大学一覧】自大正7年 至大正8年
大正八年八月八日発行
第一学年 p152/251
法学部  法律学科
別府祐六 福岡
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940183/152
第一学年 p154/251
法学部  政治学科
遠山健彦 岐阜
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940183/154

【京都帝国大学一覧】自大正8年 至大正9年
大正九年三月三十一日発行

大正七年入学 p154/259
法学部  法律学科
別府祐六 福岡
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940184/154
大正七年入学 p156/259
法学部  政治学科
遠山健彦 岐阜
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940184/156

【京都帝国大学一覧】自大正9年 至大正11年
大正十年十二月二十八日発行
大正十年三月学士試験合格 p190/283
法学士 法律学科
別府祐六 福岡
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940185/190
大正十年三月学士試験合格 p195/283
法学士 政治学科
遠山健彦 岐阜
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940185/195

[日野西資博]

【大阪大火紀念帖】明治43年1月
出版者 大阪市立第二北野小学校
勅使 侍従子爵 日野西資博君  p6/64
(本校に賜ひし日野西侍従の書簡)     p7/64
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765450/6

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[妻木頼黄]
妻木 頼黄(つまき よりなか、
安政6年1月20日(1859年2月22日) - 1916年(大正5年)10月10日)は
日本の建築家。
大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、
明治時代の官庁営繕組織を確立した。
国会議事堂の建設にも執念を燃やしたが、
妻木の在世中に本建築が着工することはなかった。
工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E9%BB%84
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[菅野保太]【九州薬業家列伝】明治37年『大河内傳次郎』富士正晴

[菅野保太]【九州薬業家列伝】明治37年『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

明治三十八年(一九〇五)、マスオ八歳(小学校に入っていただろう)、
四兄梢十二歳が十一月六日づけで、正(タダシ)と改名している。
この改名の動機や理由は全然はっきりしない。P26

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。P28

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[菅野保太]

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
薬剤師籍 大分 p862/976
菅野保太
試験二十六年三月
大分平民 明治元年生
下毛郡中津町中津一四六八
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/862

[菅野保太]

【九州薬業家列伝】明治37年4月29日発行
[菅野保太氏](大分県)p178/245
豊前仲津の地方に於て鏘々の名あるものは菅野保太氏とす。
性質
氏は性質稍々尊大の風あれども
交際日を経るに従ひ頗る交情の掬すべきものあり
嘗て法律学を修めんとの志を立てたりしも
中途にして其目的を変じ
東京薬学校に入り廿四年同校を卒業し
薬剤師たり氏は
斯業の改良発達には頗る其心を傾けて
盡力する処あり
又嘗て大分県薬業組合の取締、
仲津病院の薬局長等
公私の職務に盡瘁せしこと少からず
其他地方の衛生上にも貢献する所甚だ多しと云ふ。
氏は同地の舊舗として取引最も正確を極め
且熱心勉強家の誉れ亦甚だ高し
嗜好
氏は俳句を好み殊に新派を愛す
酒は用ひざれども大の交際家にして
公私の世話事等熱心に斡旋せり
是れ其嗜好とも見るべきか。
氏は年歯僅かに三十を越ゆる三四
学識あり
才能あり
殊に資本あり
氏の前途亦多望なるかな。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777581/178
明治三十七年四月二十日印刷
明治三十七年四月廿九日発行
定價 壹圓五拾錢
著者兼発行人 後藤改平
       福岡県筑紫郡警固村大字今泉百九拾番地
印刷者    亀井熊次郎
       福岡県福岡市片土居町貳拾貳番地
印刷所    九州薬報社
       福岡県福岡市片土居町貳拾五番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777581/240

[東京薬学校]

【東京遊學案内】明治23年
[東京薬学校]p77/107
東京薬学校は薬剤師を養成するの目的を以て、
専ら薬剤学を教授する所なり。
帝国大学に入らずして、
普通の薬剤師とならむ者は、
此校を措て又外に從学する所なかるべし。
修業年限は二ヶ年にして、
学科は数学、英語(独逸語)、植物学、物理学、無機化学、
有機化学、製薬化学、調剤学及実地調剤、定性分析、
薬品鑑定、薬局方使用法、実地製煉、生薬学実地演習等なりとす。
入学する者は十七歳以上の男子にして、
相當の学力あるを要すべし。
学費は入学金貳圓、授業料は一学年金十八圓となし、
月割を以て納めしむ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1086264/77
明治23年8月16日出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1086264/104

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[菅野 正(大邊梢 後 大邊正):大河内傳次郎の四兄]『大河内傳次郎』富士正晴

[菅野 正(大邊梢 後 大邊正):大河内傳次郎の四兄]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

明治三十八年(一九〇五)、マスオ八歳(小学校に入っていただろう)、
四兄梢十二歳が十一月六日づけで、正(タダシ)と改名している。
この改名の動機や理由は全然はっきりしない。P26

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。P28

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[菅野保太]

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
薬剤師籍 大分 p862/976
菅野保太
試験二十六年三月
大分平民 明治元年生
下毛郡中津町中津一四六八
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/862

[大邊男:大河内傳次郎]
『株式会社 日光社』
取締役 大邊 弘
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正  大分県下毛郡中津町一四九八

【銀行会社要録】
[第22版]大正7年 画像なし

【銀行会社要録】 附・役員録. 23版:大正8年刊行
『株式会社 日光社』        p214/1163
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 工業薬品ノ製造販売
株 数  4,000
資本金 200,000
内払込額 50,000
取締役 大邊 弘
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/214
『大邊 弘』           p890/1163
大阪府豊能郡麻田村五三
旭製作株式会社   取締役
日本自動車株式会社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/890
『菅野 正』 p1148/1163
大分県下毛郡中津町
株式会社 日光社 監査役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/1148

【銀行会社要録】 附・役員録. 24版:大正9年刊行
『株式会社 日光社』 p218/1162
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/218
『大邊 男』 p876/1162
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/876
『菅野 正』 p1143/1162
大分県下毛郡中津町一四九八
株式会社 日光社 監査役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/1143

【銀行会社要録】 附・役員録. 25版:大正10年刊行
『株式会社 日光社』 p222/1208
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/222
『大邊 男』 p816/1208
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/816 
『菅野 正』 p1180/1208
大分県中津町一四九八
株式会社 日光社 監査役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/1180

【銀行会社要録】 附・役員録. 26版:大正11年刊行
『株式会社 日光社』 p192/1091
北区本庄葉村町一一〇五
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/192
『大邊 男』 p781/1091
大阪市南区長堀橋筋
(株)日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/781
『菅野 正』 p1068/1091
大分県中津町一四九八
(株)日光社 監査役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/1068

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[大邊亮:大河内傳次郎の長兄][長崎医学専門学校]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊亮:大河内傳次郎の長兄][長崎医学専門学校]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

長兄亮が長崎医専を卒業したのが、明治四十年(一九〇七)、
マスオ十歳の年であるらしいから、
亮は二十七歳で、ひどく手間どったものだなと不審も起る。
それから逆算すると、長崎医専入学は明治三十七年(一九〇四)、
マスオ七歳
亮二十四歳のころかとも思われるが、
豊津中学時代か、長崎医専時代かに体を悪くして何年かの休学があったか、
その間に浪人時代があって停滞したのだろうと想像するより仕方がない。 P25-26

(大正四年)六月十四日、ついに長兄亮死亡。 P42

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大邊 亮][長崎医学専門学校]
明治36年9月30日現在 医学科 第一年級 ※記録なし
明治37年9月30日現在 医学科 第二年級 ※記録なし
明治38年9月30日現在 医学科 第三年級
明治39年9月30日現在 医学科 第四年級
明治40年9月30日現在 医学科 級外生
明治40年10月 医学科 第7回 卒業生

【長崎医学専門学校一覧】明治38-40年
自明治三十八年 至明治三十九年   p1/155
生徒(明治三十八年九月末日現在)  p35/155
医学科 第三年級          p37/155
大邊 亮 福岡           p38/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813255/38

【長崎医学専門学校一覧】明治38-40年
自明治三十九年 至明治四十年    p75/155
生徒(明治三十九年九月末日現在)  p109/155
医学科 第四年級          p109/155
大邊 亮 福岡           p110/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813255/110

【長崎医学専門学校一覧】明治40-42年
自明治四十年 至明治四十一年    p1/64
生徒(明治四十年九月三十日現在)  p34/164
医学科 級外生           p34/164
大邊 亮 福岡           p35/164
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813256/35
明治41年2月1日発行         p78/164

【長崎医学専門学校一覧】明治40-42年
自明治四十一年 至明治四十二年    p79/164
明治四十年十月 医学科 第七回卒業生 p143/164
大邊 亮 開業 福岡平民       p144/164
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813256/144
明治42年3月5日発行          p159/164


[大邊 晋:大河内傳次郎の父]
[大邊 亮:大河内傳次郎の長兄]

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
福岡県築城郡
大邊 晋
〇〇十七年四月
福岡平民
嘉永元年生 岩屋村大河内一九二三  p658/976
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/658
福岡県 追録
大邊 亮
得業士四十一年三月
福岡 平民             p659/976
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/659
「得業士」ハ旧高等学校及官立医学専門学校卒業生ニシテ
 学士号ヲ得ザル者         p52/976
『・・・』中ノ年月ハ登録年月ヲ示ス p52/976
〇〇 従来開業医

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[大邊晋:大河内傳次郎の父]【帝国医籍宝鑑】【日本杏林要覧】『大河内傳次郎』富士

[大邊晋:大河内傳次郎の父]【帝国医籍宝鑑】【日本杏林要覧】『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

四、父晋はイイ藩主の侍医を勤め、維新後は町医者を開業した。P8
マスオの父晋は明治四十一年五月、六十一歳で死亡したが、・・・。P9

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

【帝国医籍宝鑑】明治31年8月7日発行
従来開業医 福岡
大邊 晋                    p361/393
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900127/361

[大邊晋:大河内傳次郎の父]
[大邊亮:大河内傳次郎の長兄]

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
福岡県築城郡
大邊 晋
〇〇 十七年四月
福岡平民
嘉永元年生 岩屋村大河内一九二三        p658/976
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/658
福岡県 追録
大邊 亮
得業士四十一年三月
福岡 平民                   p659/976
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/659

「得業士」ハ旧高等学校及官立医学専門学校卒業生ニシテ
 学士号ヲ得ザル者          p52/976
『・・・』中ノ年月ハ登録年月ヲ示ス  p52/976
〇〇 従来開業医

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[大邊 男(マスオ):大河内傳次郎][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊 男(マスオ):大河内傳次郎][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。P28

大正十一年頃といえば、
大辺マスオは次兄弘の経営する洋酒・化粧品の日光社の
会計部長時代なのだろう。P41

再び、大正四年に帰る。
五月五日、次姉ミツ二十七歳が、
神戸市神戸栄町七丁目五〇番屋敷伊藤金二郎と婚姻届出。
その頃、長兄亮に死期が迫って来ていたので、
あわただしく婚姻をすませたという感じがしないでもない。
又、神戸は本籍地であって、
大阪に住み何か企業をやっていた人ではないかと
想像したくなるような点もあるが、
この人についてはまだ調べるに至っていなかった。 P41-42

大正七年(一九一八)二十一歳、大阪商業を卒業し、
神戸高商の入学試験には失敗したマスオは結局、
上級学校進学をあきらめさせられ
(と思う。もし、神戸高商へ入っていたら、
 次兄弘、三兄脩も学費を出してやったかも知れないとも思う)、
従って早稲田大学進学など及びもつかず、
次兄弘の会社に会計部長で入ったということになっている。
この会社は日光社といい(太陽社という人もいる)
化粧品、洋酒などを製造販売していたと、御園京平の「年表」にある。
しかし、その「年表」ではマスオの大阪商業卒業を
大正四年(一九一五)十八歳としており、三年早期にずれているので、
弘の会社についてのことも、
誰か親族のはるかな記憶によったもであろうと思われる。
それより、今のところ方法がないことも確かである。
さきに藤本準三説の、騒人社といって出版業をやっていたと思うというのも、
マスオの在学中の弘の会社の仕事であったのかも知れないのである。
弘という次兄の事業の変転につての追及は
ほぼ不正確にしか行われ得ないようだ。 P48-49

「そのうち、日光社の取引先きである
 東京銀座の明治屋の仕入部に入社することができ、
 余暇を得て文学の勉強に励み、雑誌などに投稿するようになった。」
(「年表」大正四年の項)とあるが、
「そのうち」が大正四年(一九一五)であるのは論外として、
大正七年から大正十二年、二十一歳から二十六歳の間のどの年か、
今のところ全然はっきりしない。 P50

震災で明治屋をやめて引き上げ
(その時、やはりひとりでやる仕事でなければ駄目だと痛感して帰って来たという。
家族も、甥もそういう意味のことを、本人から聞いている)、
再び日光社に勤めた。
ということは大阪市北区山崎町七四番地の
次兄弘のところへ帰り住んだということで、
本人の母親アキもそこに居たそうだ。
そのころ、日光社では化粧品とかブローチを商っており、
倉庫の二階にマスオはおって、
伊藤田力は緋の袴をはいた女の人の綺麗な絵をかいてもらったそうだ。 P51

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大邊男:大河内傳次郎]
『株式会社 日光社』
取締役 大邊 弘
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正


【銀行会社要録】
[第22版]大正7年 画像なし

【銀行会社要録】 附・役員録. 23版:大正8年刊行
『株式会社 日光社』        p214/1163
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 工業薬品ノ製造販売
株 数  4,000
資本金 200,000
内払込額 50,000
取締役 大邊 弘
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/214
『大邊 弘』           p890/1163
大阪府豊能郡麻田村五三
旭製作株式会社   取締役
日本自動車株式会社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/890
『川崎静雄』           p918/1163
大阪府泉南郡麻生郷村
日本自動車株式会社 監査役
旭製作株式会社   取締役
株式会社日光社   取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/918
『伊藤金二郎』          p825/1163
大阪市西区今木一九八
旭製作株式会社   取締役
株式会社日光社   監査役
日本自働車株式会社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/825
『旭製作株式会社』        p261-262/1163
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十月
満 期 未詳
目 的 諸機械類製作販売
株 数  2,400
資本金 120,000
内払込額 30,000
取締役 大邊 弘
取締役 松尾四郎
取締役 川崎静雄
取締役 三谷佐太郎
取締役 伊藤金二郎
監査役 富田賢治
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/261

【銀行会社要録】 附・役員録. 24版:大正9年刊行
『株式会社 日光社』 p218/1162
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/218
『大邊 男』 p876/1162
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/876

【銀行会社要録】 附・役員録. 25版:大正10年刊行
『株式会社 日光社』 p222/1208
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/222
『大邊 男』 p816/1208
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/816 

【銀行会社要録】 附・役員録. 26版:大正11年刊行
『株式会社 日光社』 p192/1091
北区本庄葉村町一一〇五
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/192
『大邊 男』 p781/1091
大阪市南区長堀橋筋
(株)日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/781

[第27版]大正12年
『株式会社日光社』『大邊男』 いずれも記載なし


【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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[大邊弘:大河内傳次郎の次兄][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊弘:大河内傳次郎の次兄][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

大正七年(一九一八)二十一歳、大阪商業を卒業し、
神戸高商の入学試験には失敗したマスオは結局、
上級学校進学はあきらめさせられ
(と思う。もし、神戸高商へはいっていたら、
 次兄弘、三兄脩も学費を出してやったかも知れないとも思う)、
従って早稲田大学進学など及びもつかず、
次兄弘の会社に会計部長で入ったということになっている。
この会社は日光社といい(太陽社という人も入る)
化粧品、洋酒などを製造販売していたと、
これも御園京平の「年表」にある。 P49

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

『合資会社 日光社』設 立 大正五十二月

【銀行会社要録】 附・役員録. 第21版
大正6年5月刊行
『合資会社 日光社』p267/1314
大阪市南区順慶町2-48
設 立 大正五十二月
満 期 十ヶ年
目 的 電気 金物 諸機械 器具 材料 製造及輸出入
資本金 30,000
社員氏名及出資額
大邊 弘 (無)20,000
廣瀬義弘   10,000
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387658/267

【日本全国諸会社役員録】第25回
大正6年7月10日発行
『合資会社 日光社』p377/1327
大阪市南区長堀橋筋二丁目
設 立 大正五年十二月
営業ノ目的  電気 金物 諸機械 器具 材料 製造 販売並輸出入
資本金    参萬圓
無限責任社員 大邊 弘
       豊能郡麻田村
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936466/377

【神戸高等商業学校一覧】大正5年
神戸高等商業学校一覧 大正五年九月三十日調        p2/117
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人           p76/117
大邊 弘 自営・輸出入業合資会社 日光社(大阪市) 大阪 p78/117
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941094/78
大正5年11月18日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正6年
神戸高等商業学校一覧 大正六年九月三十日調        p1/104
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人           p61/104
大邊 弘 自営・輸出入業合資会社 日光社(大阪市) 大阪 p63/104
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941095/63
大正6年11月18日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正7年
神戸高等商業学校一覧 大正七年九月三十日調         p2/113
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p65/113
大邊 弘 自営・輸出入商 合資会社 日光社(大阪市) 大阪 p67/113
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941096/67
大正8年1月10日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正8年
神戸高等商業学校一覧 大正八年九月三十日調         p2/119
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p69/119
大邊 弘 自営・輸出入商 合資会社 日光社(大阪市) 大阪 p71/119
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941097/71
大正8年11月30日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正9年
神戸高等商業学校一覧 大正九年九月三十日調         p1/110
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p58/110
大邊 弘 自営・輸出入商 合資会社 日光社(大阪市) 大阪 p59/110
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941098/59
大正9年10月25日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正10年
神戸高等商業学校一覧 大正十年九月三十日調         p2/116
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p61/116
大邊 弘 自営・日光社(大阪市) 大阪           p63/116
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941099/63
大正10年12月13日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正11年
神戸高等商業学校一覧 大正十一年九月三十日調       p1/123
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人           p61/123
大邊 弘 自営・ゼピー化粧品商 日光社(大阪市) 大阪   p63/123
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941100/63
大正11年12月15日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正12年
神戸高等商業学校一覧 大正十二年九月三十日調       p2/132
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人           p68/132
大邊 弘 自営・ゼピー化粧品商 日光社(大阪市) 大阪   p70/132
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941101/70
大正12年12月15日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正14年
神戸高等商業学校一覧 大正十四年九月三十日調        p2/132
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p76/149
大邊 弘 自営・日光社(東京市) 大阪           p78/149
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941102/78
大正14年12月15日発行

【神戸高等商業学校一覧】大正15年
神戸高等商業学校一覧 大正十五年九月三十日調        p1/143
明治四十一年(第二回)卒業 百四十二人            p62/143
大邊 弘 自営・日光社(東京市) 大阪           p64/143
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941103/64
大正15年12月15日発行

【神戸高等商業学校一覧】昭和3年4月調
神戸高等商業学校一覧 昭和三年四月調            p3/159
第二回 明治四十一年卒業 百四十二人            p85/159
大邊 弘 豊津中学 自営・日光社(大阪市)         p86/159
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1279457/86
昭和3年5月13日発行

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[大邊脩:大河内傳次郎の三兄][神戸高等商業]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊脩:大河内傳次郎の三兄][神戸高等商業]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)]

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

次の年(明治四十二年)、
マスオ十二歳の二月四日に三兄脩は養子として、
姉ツタの嫁入っている伊藤田家へはいる。P27

それは、大分県の中津中学へ入れるために、
福岡の大辺家より、大分県の伊藤田家へ籍を移したのだというように、
今となっては思われているようだが、
脩はその時すでに十九歳であることを思うと何となく変である。
福岡県の豊津中学にでもいて、入学試験に備えて、
受験校としてもっと高級だったかも知れぬ
大分県立中津中学へ転校させたのかと想像しておくより
(そこまで調べは届かなかった)仕方がない。P28

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。
この一年に、二組もの養子縁組があって、
息子が二人大辺家の戸籍を離れたということは、
マスオにとってどのような感じのものであったろうかという気がする。P28

そして、(明治四十四年)五月二十三日、
脩は伊藤田七郎の養子であることを
協議離縁により廃し、大辺脩にかえる。P30

大正三年(一九一四)、三兄脩は神戸高商を卒業し(第八回)、
江商株式会社に入社した。P39

大正六年(一九一七)には加来秀介の手紙によると、秀介が中学二年の頃、
インドより帰国した脩(マスオの三兄)が大阪に行くというので、…。P42

昭和二年、大阪商業時代に仲良しであった同級生の藤本準三が
伊藤忠の社員としてインドのカルカッタに出張した。
たまたま大辺脩が江商の支店長で、藤本を一夕招待して宴をひらいた。P135

翌昭和三年、
兵庫県武庫郡精道村へ帰国していた脩が三月二十二日に死亡。P136

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)][大邊正・菅野 正]

【大分県人士録】大正3年4月4日発行
大分県立中津中学校卒業生名簿          p258/291
第十一回卒業生(五十七名)明治四十二年
伊藤田 修 下毛三保 神戸高商業        p266/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/266
第十五回卒業生(七十七名)大正二年           p268/291
菅野 正                    p269/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/269
大正三年四月四日発行
大分県人士録発行所
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/288

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)]

【神戸高等商業学校一覧】明治42-44年
神戸高等商業学校一覧 自明治四十三年四月 至明治四十四年三月 p84/180
豫科 第一部 九十九人             p139/180
伊藤田 修 大分                p140/180
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812764/140
明治43年11月3日発行

【神戸高等商業学校一覧】明治44-45年
第一年 百三十九人               p58/102
伊藤田改 大邊 修 福岡            p58/102
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812765/58

【神戸高等商業学校一覧】自明治45年至大正2年
第二年 百三十六人               p57/102
伊藤田改 大邊 修 福岡            p58/105
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941090/58

【神戸高等商業学校一覧】大正2年
第三年 百二十九人               p59/101
伊藤田改 大邊 修 福岡            p59/101
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941091/59

【神戸高等商業学校一覧】大正3年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p88/107
大邊 修 福岡 江商合資会社(大阪本店)    p89/107
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941092/89

【神戸高等商業学校一覧】大正4年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p88/107
大邊 修 福岡 大阪、江商合資会社(孟買支店)  p91/107
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941093/91

【神戸高等商業学校一覧】大正5年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p91/117
大邊 修 福岡 大阪、江商合資会社(孟買支店)  p91/117
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941094/91

【神戸高等商業学校一覧】大正6年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/104
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(孟買支店)  p76/104
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941095/76

【神戸高等商業学校一覧】大正7年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p80/113
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(上海支店)  p80/113
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941096/80

【神戸高等商業学校一覧】大正8年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p84/119
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(上海支店)  p84/119
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941097/84

【神戸高等商業学校一覧】大正9年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p72/110
大邊 修 福岡 江商株式会社(倫敦支店)    p73/110
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941098/73

【神戸高等商業学校一覧】大正10年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/116
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p77/116
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941099/77

【神戸高等商業学校一覧】大正11年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/123
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p77/123
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941100/77

【神戸高等商業学校一覧】大正12年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p82/132
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p84/132
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941101/84

【神戸高等商業学校一覧】大正14年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p90/149
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p92/149
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941102/92

【神戸高等商業学校一覧】大正15年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/143
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p78/143
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941103/78

【神戸高等商業学校一覧】昭和3年4月調
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p96/159
大邊 修 福岡 昭和三年三月 歿 中津中学  p97/159
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1279457/97

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「孟買」とは、インド西岸のムンバイ市(旧称ボンベイ)の漢字表記です。
実は、わが国最初の遠洋定期航路が、
明治26(1893)年に神戸-孟買間に開かれていたのです。
これは、当時の殖産興業政策の柱である紡績の原料であった綿花が
インドから大量に輸入されていたためです。
http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/maga-g.html
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