2012年09月

[本官勘合帳 外國官一号]第百十七号~第百十八号

[本官勘合帳 外國官一号]第百十七号~第百十八号

[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第百十七号 『南部英麻呂』 午十五歳 p020 ※明治3年庚午(1870年)
       南部従五位 弟 米國
       明治九年一月三十日??    ※明治9年(1876)1月30日
       十二年一月十三日 返納    ※明治12年(1879)1月13日
      《南部英麻呂》 米 p002
       南部従五位 弟 留学 自
       庚午八月           ※明治3年庚午8月
                      (1870年8月27日)
       明治六年 十八        ※明治6年(1873)
       十一年十二月帰        ※明治11年(1878)12月
       十二年一月十三日 返納    ※明治12年(1879)1月13日

第百十八号 『奈良眞志(マサシ)』 午二十五歳 p020 
                      ※明治3年庚午(1870年)
       南部英麻呂 随従 米國
       七年十二月十五日       ※明治7年(1874)12月15日
      《奈良眞志》 米 p002
       岩手縣 前同人家従 留学 官
       庚午八月           ※明治3年庚午8月
                      (1870年8月27日)
       明治六年 二十八       ※明治6年(1873)
       七年十二月十五日返納     ※明治7年(1874)12月15日

第百十七号 『南部英麻呂』
WASEDA WEEKLY
入学記念号
早稲田に歴史あり 特別編
東京専門学校開校式 ―第1回目の入学式
大学史資料センター 助手 伊東 久智
 1882(明治15)年10月21日午後1時。
早稲田大学の前身・東京専門学校の開校式が挙行された。
現在へと連なる早稲田大学の歴史が幕を開けた瞬間である。
居並んだ新入生の数はわずか80名。
学苑の周囲にはいまだのどかな田園風景が広がっていた。

 式は校長・大隈英麿(大隈重信の養子)の「開校の詞」にはじまり、
慶應義塾の福沢諭吉をはじめとする来賓の祝辞を挟んで、
最後に建学の功労者・小野梓が演壇に立った。
「祝開校」と題されたその演説は、
舌端(ぜったん)火を吐く気迫に満ちたものであったと伝えられている。

 一国の独立は国民の独立を基礎とし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。
そして国民精神の独立は、実に学問の独立による。
ゆえに、国の独立のためには民を、民の独立のためにはその精神を、
そして精神の独立のためにはまず何よりも学問を独立させなければならない―。
自学の精神に基づく「学問の独立」という建学の理念は、
この演説のなかではっきりと表明されることとなった。

 創設者である大隈重信は、
政変のために明治政府を追われた直後ということもあり、
学校が反政府分子の養成所とみなされる風評から学生を守るため、
この開校式には姿を現さなかった。
小野はその大隈の心情を代弁するかのように、
参会者の胸裏にその一語一語を刻みつけたのである。

 それから130年―
今年もまた大学の歴史を継ぐ新入生たちがキャンパスに
足を踏み入れようとしている。
開校式で高らかに謳(うた)われた建学の理念は、
これまでもそうであったように、これからも、
前進してやまない学生たちの歩先を照らしてくれるはずである。
1270号 2012年4月1日掲載
http://www.wasedaweekly.jp/detail.php?item=225

第96回:南部英麿(なんぶ ひでまろ)
更新日 2011年12月14日
南部英麿(1856年~1910年)
早稲田大学創立貢献者
南部英麿は1856年(安政3年)9月11日,
盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれた。
兄の利恭は第41代南部家当主に,弟の信方は支藩の七戸藩藩主となっている。
幼いころより英邁の誉れの高かった英麿は,
1870年(明治3年),数えで15歳の時に姉の夫である
華頂宮博經親王(かちょうのみや ひろつね しんのう)に従い渡米した。
現地の私立中学をへてダートマス大学に入学,
のちにはプリンストン大学に移り,天文学を修めて学位を得た。
1878年(明治11年)12月に帰国した英麿は,
翌年大隈重信の娘クマ子と結婚,養子縁組を行い大隈姓を名乗る。
当初は内務省地理局,外務省交信局に勤めるも,養父の重信とともに
1881年(明治14年)に官を下り,
翌年の東京専門学校(現:早稲田大学)創設の際には推されて校長に就任した。
その後第二高等中学校教授,東京高等商業学校教諭などをへて,
1896年(明治29年)には早稲田中学校校長となり,
“去華就実”を校是として大いに中等教育の普及に努めた。
1898年(明治31年)3月には岩手県第1区で衆議院議員に立候補し当選,
3期議員を務めている。
しかし1902年(明治35年)9月,とある事情で大隈家を離れた英麿は南部に復姓し,
兄利恭に分家を申し出て自ら平民となった。
その後は亡くなるまで,郷里で子弟の育英にあたった。
理工系の学問を修め,
その普及に努めた英麿だったがなかなか思うようにはいかなかった。
そのため1908年(明治41年),
早稲田大学に理工科が創設された際には非常に喜んだと言われている。
掲載日:2008年9月25日
http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007544.html

第百十八号 『奈良眞志』
奈良真志[なら-しんし]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1846-1911 明治時代の軍人。
弘化(こうか)3年生まれ。
アメリカに留学し,海軍会計事務をまなぶ。
海軍主計学舎の教頭などをへて,明治19年主計学校校長となる。
海軍省にはいり,26年主計総監。
明治44年11月7日死去。66歳。陸奥(むつ)盛岡出身。
http://kotobank.jp/word/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%9F%E5%BF%97

きろく解読館
荻原勇馬家 201227
替って戸来官左衛門秀包の三男勇馬是知がその家督を相続した。
使番目付兼帯となり、公事用懸を勤め、
維新後は監察、盛岡県大属、岩手県大属を勤めた。
明治三年華頂宮博経親王がアメリカ留学の時、
南部英麿、奈良真志、藤森主一郎らと倶に随行した。
郁子妃は南部利剛の長女で、留学費用は南部家から出費された。
同六年宮が留学先で病に倒れ、
是知と藤森主一郎は随従帰国した。
この年是知は華頂宮家家扶となった。
明治十一年には東京に在住中であったが、士族明細帳によれば、
加賀野村(盛岡市)三番屋敷に住所があった。
大正六年東京で死去。その跡を千代吉が相続した。
http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50591

[本官勘合帳 外國官一号]第百十三号~第百十六号

[本官勘合帳 外國官一号]第百十三号~第百十六号

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《 》[航海人明細鑑3]

第百十三号 『品川通商権大佑』  p019
       支那上海

第百十四号 『西 徳二郎』 午二十四歳  p019 ※明治3年庚午(1870年)
       魯國
      《西 徳次郎》 魯 鹿児島縣 留学 官 p037
       庚午七月     ※明治3年庚午(1870年)7月28日
       明治六年 廿七  ※明治6年(1873)

第百十五号 『小野寺魯一』 午三十歳  p020
       魯國
       七年九月二日 返納   ※明治7年(1874)9月2日
      《小野寺魯一》 魯 宮城縣 留学 官 p037
       辛未七月        ※明治4年辛未7月(1871年8月16日)
       明治六年 三十三    ※明治6年(1873)
       七年九月二日 免状返納 ※明治7年(1874)9月2日

第百十六号 『大村松二郎』 午二十歳   p020
       山口藩
       英國
       九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
       仝月廿八日    返納 ※明治9年(1876)12月28日
      《大村松次郎》 英 山口縣  p020
       明治六年 廿三     ※明治6年(1873)
       九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
       仝月廿八日  免状返納 ※明治9年(1876)12月28日

第百十三号 『品川通商権大佑』
品川忠道[しながわ-ただみち]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
品川忠道  しながわ-ただみち
1841*-1891 明治時代の官僚。
天保(てんぽう)11年12月19日生まれ。もとオランダ通詞。
民部省にはいり,外務大録(だいさかん),通商大佑にすすむ。
明治4年伊達宗城(むねなり)らにしたがい清(しん)(中国)にわたり,
日清修好条規締結にあたる。
在清初代領事,総領事をつとめ,
17年農商務省にはいり,通商局長となる。
のち実業界に転じた。明治24年2月18日死去。52歳。
肥前長崎出身。通称は英輔。
http://kotobank.jp/word/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%81%93

第71回 日本領事館と居留民取締規則 陳祖恩
上海日本領事館スタッフ(1932年)―写真
日本領事館は、上海日本人社会の最高機関であり、
居留邦人を監督・保護するための機関である。
上海の居留邦人がまだ7人しか居なかった1870年、
外務省の同意の下、「開店社」という名の民部省駐上海機関が、圓明園路の角、
新天安堂の隣にある英国租界新大橋南川岸(現・南蘇州路3号)に設立された。
初代駐在員には
品川忠道通商大佑、斎藤麗正、神代延長文書権少佑の3人が任じられた。
品川忠道は長崎出身で、英語とオランダ語に精通しており、
米国艦隊のペリー提督が横浜に来た時には彼の通訳を担当。
1869年、会計官通商司兼造幣局翻訳官に就任。
同年11月、民部省通称少佑として研究調査のため上海を訪れ、
翌年、通商権大佑に昇任し、開店社の業務を任されることになった。
開店社の設立間もなく、外務省は各国の駐上海領事たちと連絡を取り合い、
中日国交締結準備のため、開店社内に「外務省上海出張所」を設け、
居留邦人の監督及び対外交渉の全権を負わせた。
この出張所が日本領事館の前身であり、
品川が初代日本代理領事に就任している。
陳祖恩
東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。
著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》
《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。
http://gd.shwalker.com/shanghai/contents/serialize/200612/index.html

第百十四号 『西 徳二郎』
西 徳二郎(にし とくじろう)
(1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官。
外務大臣を勤めた。薩摩藩出身。枢密顧問官、男爵。
子に硫黄島の戦いで戦死した西竹一陸軍大佐がいる。
経歴 [編集]
1847年 父・西藤左衛門、母・加納ヒロの次男として生まれる。幼名を常二郎。
1870年(明治3年) ロシア ペテルブルク大学に留学。
1873年-1880年 中央アジアを調査のために踏破する。
    ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、
    タシケント、ウイグル、新疆を調査した。
1874年 フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BE%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E

第百十五号 『小野寺魯一』
函館市史 デジタル版
キリスト教   P699-P700
文久元(1861)年には、
イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、
その活躍もまた著しく、
異教に激怒して斬殺しようとした神明社の神官
沢辺琢磨をも、
逆に信者にし、古事記、万葉集まで学ぶという熱心さであった。
彼がロシア語を教えた者のなかには、
山東一郎(早稲田に北門義塾を開く)、
小野寺魯一、
嵯峨寿安(2人ともロシアに留学)などがある。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-14-02-05~06.htm

第百十六号 『大村松二郎』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:大村松二郎
別 名:山本軍三郎
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

幕末散歩 ― 最近気になること
大村益次郎について
4)山本軍三郎とその家族
  益次郎の門人であり遺言により後継ぎと決定
4)山本軍三郎とその家族
  軍三郎は三田尻士族山本藤右衛門の次男で、
  益次郎の門人であるが、後を継ぎ大村松二郎と改名する。
  明治12年末に病のため海軍病院で29歳で死去。海軍少佐。
  その家と家族については詳細が分かっていないが、
  松二郎の戸籍では出身は山口県第九大区第四小区。
  昔の三田尻村車塚などになる。
  詳細はこれから追跡調査したい。
http://hananomichi.at.webry.info/201008/article_1.html

奇才傾一世
幕末長州に時間とお金をついやす日日
第一部 木戸孝允のイギリス滞在日記 ― 岩倉使節団の旅 ―
1 英都ロンドンに滞在
明治5年8月17日 リバプール到着
 宿泊先のホテル 木戸のために用意された部屋の姿見が割れているのが発見
 到着早々損害賠償を巡って悶着
明治5年8月25日 市ィと河北義次郎(長州・松下村塾)と共に
 寺島宗則を訪ねる
 午後は来客で部屋がいっぱい
 大村松次郎(大村益次郎の子)など
 3時ごろ南貞助の案内で大久保らと市内の動物園へ
 夜、青木と午前2時まで歓談
http://sblog410.blog72.fc2.com/blog-entry-283.html

桂小五郎 ・ リーダーの資質を探る
(2) 同志の遺児たちへの温情
また大村益次郎の子
松次郎に対しても、
亡父の遺志を継がせようと八方周旋して
官費生での英国留学を実現させています。
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/manabe2.htm

大村益次郎と人々
(幼 名) 村田宗太郎
(医 名) 村田良庵
(拝 名) 村田蔵六
(拝 名) 大村益次郎永敏
村田孝益 父、医者、百姓、秋穂藤村家から婿養子
     益次郎3歳の頃、村田の家を解き、秋穂へ移住
梅(梅子) 母
琴子   妻、鷹ノ子高樹半兵衛娘
松次郎  養子
文恭   弟
ふで(筆) 妹
とよ(豊)  妹
http://www.geocities.jp/suzenjipc/Smasujiro.html

[本官勘合帳 外國官一号]第百八号~第百十二号

[本官勘合帳 外國官一号]第百八号~第百十二号

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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
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第百八号  『松井正水』 午十九才 p018 ※明治3年庚午(1870年)
       高知藩  米國留学
       七年七月廿八日返納     ※明治7年(1874)7月28日
      《松井正水》 米    p002
       高知縣  留学 官
       七年七月廿八日免状返納   ※明治7年(1874)7月28日
       明治六年廿二        ※明治6年(1873)

第百九号  『眞邊戒作』 午二十二才 p019 ※明治3年庚午(1870年)
       高知藩 米國留學
       十一年八月八日返納      ※明治11年(1878)8月8日
      《真辺戒作》 米     p002
       高知県 留学 官 廿五
       十一年八月八日返納      ※明治11年(1878)8月8日

第百十号  『深尾具作』 午十八才  p019 ※明治3年庚午(1870年)
       高知藩 米國留學
      《深尾具作》 米     p002
       高知県 留学 官 廿一

第百十一号 『宮澤新次郎』 午二十三才 p019 ※明治3年庚午(1870年)
      『國澤新次郎』
       高知藩 米國留學
       七年七月廿八日 免状返納    ※明治7年(1874)7月28日
      《國澤新二郎》 米     p002
       高知県 留学 官 廿六
       七年七月廿八日 免状返納    ※明治7年(1874)7月28日

第百十二号 『馬場辰猪』 午二十一才  p019 ※明治3年庚午(1870年)
       高知藩 米國留學
      《馬場辰猪》》 米 p002
       高知県 留学 官 廿四

眞邊戒作・國澤泉・松井正美・深尾某・小野梓【馬場辰猪】明治31年4月増補
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[本官勘合帳 外國官一号]第百六号~第百七号

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第百六号 『前田十郎佐衛門』 午 p018 ※明治3年庚午(1870年)
      鹿児島藩士族 英
      外國ニテ死去

第百七号 『伊月一郎』 p018
      徳島藩 英 
     《伊月一郎》 英 p020
      名東縣 留学 官
      明治三年庚午三月  ※明治3年庚午(1870年)4月1日
      八年十月廿三日返納 ※明治8年(1875)10月23日

第百六号 『前田十郎佐衛門』
留学生前田十郎左衛門の死
佐光昭二
前田十郎左衛門(1849-70)略伝
鹿児島藩士前田新之助(名は清政)の息として嘉永2年鹿児島城下に生まれた。
名は清廉。明治2年(1869)6月8日 慶応義塾に入社。
次いで開成所に学び、さらに海軍操練所に進んだ。
同3年 、海軍術修業のため英国留学を命ぜられ英艦隊に乗艦するも、
英国に向かう途中自殺した。
1. 事件の概要
明治2年10月26日(1869年11月29日)
英公使パークス(Harry Smith Parkes)は、澤宣嘉(1835-73)外務卿あて
書簡を送り、海軍生徒を世界周航中の英艦に乗組み海軍術修業の意向を打診
同年11月15日(1869年12月17日)
澤外務卿より英公使宛、英艦に海軍生徒を乗り組ませ度旨回答

明治3年3月6日(1870年4月6日)
英艦隊6隻 (Liverpool, Phoebe, Endymion, Liffey, Scylla, Barossa)
横浜に寄港
同 年3月14日(1870年4月14日)
海軍操練所生徒
前田十郎左衛門(鹿児島藩)・
伊月一郎(徳島藩)に英国留学被仰付
同 年3月19日(1870年4月19日)
両名ともにフィービー号(Capt.J.Bythesea)に乗り組み横浜を出航
同 年4月16日(1870年5月16日)
カナダ南西部バンクーバ島のエスキモルト(Esquimalt)に寄港
同 年4月22日(1870年5月22日)
両名連署にて英海軍校留学希望の嘆願書を兵部省あて発送
(同年7月10日、辮官より兵部省に「可為 伺之 通事 」)、
同港出航に際し前田は旗艦リバプール号に移乗
同 年9月12日(1870年10月6日)
午後7時 、英艦隊、ブラジルのバイア(Bahia,現サルバドル)の港に停泊
同 年9月13日(1870年10月7日)
フィービー号の伊月一郎は、早朝ホーンビ提督(GeoffreyT.P.Homby)より、
午前4時同艦士官室にて、前田十郎左衛門が割腹自殺したことを知らされ、
伊月は直ちにリバプール号に赴き死亡を確認
(「疵等相調へ候庭腹部ニケ所咽部と二ヵ所 有之全く割腹被致候に相違無之」
1870年12月3日 、伊月一郎、兵部省宛報告)
午後 、遺体陸揚げ
葬儀バイアの教会において、軍艦士官礼を以て葬儀が行われ、
同地に埋葬された。
墓  日英語併記の石碑を日本よりロンドン経由でバイアに送ることとした。
展墓 明治43年(1910)6月 、巡洋艦「生駒」南米訪問の際、
   ブラジル政府によって墓の所在地を確認したが、
   墓は荒廃して隠滅していた。
   大正11年(1922)9月 、
   練習艦隊「浅間」・「磐手」・「出雲」が
   ブラジルを訪問した際も墓をたずねたが、不明であった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2002/34/2002_34_47/_pdf

[ニッケイ新聞]
JORNAL DO NIKKEY
コロニア前史に足跡残した日本人達
割腹した前田十郎左衛門
一八七〇年(明治三年)十月七日、
バイアに入港したイギリス艦隊の旗艦リバプール号の乗組員だった
前田十郎左衛門が寄港中突然、割腹自殺して
同地の人々に異常なショックを与えた。
翌日のジアリオ・デ・バイア紙は、
「短刀で腹を十文字に切った後、数回にわたってのどを突き刺した」
と伝えている。
前田は、〃ブラジルに骨を埋めた最初の日本人〃となった。
鈴木南樹は、
「何事か薩摩隼人のうっぷんを晴らさんとして割腹せしか」と記している。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/050101-08especial.html

【世界山水図説】明治44年9月15日発行 p93/146
二五 四十年前 伯剌西爾にて割腹せし
日本武士(前田十郎佐衞門)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993577/93
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

第百七号 『伊月一郎』 p018
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海を越えた日本人名事典
人物名:伊月一郎
別 名:伊田一郎,江戸一郎
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

第2編 関係官庁学校艦船部隊制度の変遷 (承前)
第2目 海外留学制度
帝国海軍に於ける海外留学の嚆矢は
明治三年三月海軍兵学寮生徒
前田十郎左衛門(鹿児島)及び
伊月一郎 (徳島)を英国軍艦「オーデシアス」号に乗組ましめ
三箇年を期し航海術を実習せしめたるに始まる。
http://navgunschl.sakura.ne.jp/suirai/jukkashi/2-02-2-6-2.html

永昌山龍原寺 東京港区三田一丁目
麻布十番近くのお寺
三田には龍源寺もあるのでご注意を
江戸氏之墓
黄蘆伊月君之(墓) 
(海軍大佐江戸一郎碑)
新居敦の撰・書
伊月一郎は嘉永1(1848)年11月7日~明治24(1891)年6月3日
別名=伊田一郎,江戸一郎。
明治期の海軍軍人。大佐。
海軍軍事研修のため渡英。
クリミア戦争を実見、海軍留学生の先駆者。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~garamdoh/2-2shushi/sotai/108-0073ryogenji.htm

[本官勘合帳 外國官一号]第百三号~第百五号

[本官勘合帳 外國官一号]第百三号~第百五号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第百三号 『折田権蔵』 午二十二才 p018 ※明治3年庚午(1870年)
      鹿児島藩 米國留学
      九年十一月帰朝 ※明治9年(1876)11月
      仝月十五日返納 ※明治9年(1876)11月15日
     《折田権蔵》 米 p002
      鹿児島縣 留学 官
      明治三年庚午二月 ※明治3年庚午2月(1870年3月2日)
      明治六年廿五   ※明治6年(1873)
      九年十一月帰朝  ※明治9年(1876)11月
      仝月十五日返納  ※明治9年(1876)11月15日
      
第百四号 『服部一三』 午二十才  p018 ※明治3年庚午(1870年)
      山口藩  米國留学
    《服部一三》 米 p002
      山口縣  留学 官
      明治三年庚午二月 ※明治3年庚午2月(1870年3月2日)
      明治六年廿三   ※明治6年(1873)
      私費留学

第百五号 『山本重輔』 午二十四才 p018 ※明治3年庚午(1870年)
      山口藩  米國留学
      明治八年五月四日返納     ※明治8年(1875)5月4日
     《山本重輔》 米 p002
      山口縣  留学 官
      庚午二月     ※明治3年庚午2月(1870年3月2日)
      八年五月四日返納 ※明治8年(1875)5月4日
      明治六年廿七   ※明治6年(1873)

第百三号 『折田権蔵』
折田 彦市(おりた ひこいち)
(嘉永2年1月4日(1849年1月27日)[1] - 1920年(大正9年)1月26日)は、
明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。
旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。
その前身校も含め、約30年間、三高の校長を務め、
同校の「自由の学風」を築いたとされる。
生い立ち [編集]
致遠館の学生群像。
フルベッキ(中央)の右、白鞘の刀を持った岩倉具定の前に折田が写っている[2]。
嘉永2年(1849年)1月4日 、薩摩藩士折田寧剛の四男として薩摩国鹿児島で生まれた。青年期までの名として
彦市のほかに三之丞・権蔵があり、諱は年長であった。
少年期には家族の縁に恵まれず、
父は安政5年(1858年)に没し、母も慶応元年(1865年)に世を去っている。
長兄の年昭に子がなかったため、その養子となっている[3]。
米国留学 [編集]
ニュージャージー大学(現プリンストン大学)
明治3年(1870年)3月、米国留学する具定・具経兄弟の随行者として
折田は横浜を出航した。
随行者にはほかに、長崎でフルベッキに学んでいた
服部一三・山本重輔がいた。
5人は政府の資金援助を得られる官費留学生であった[10]。

(明治5年)1872年3月、岩倉使節団で訪米した岩倉具視に兄弟の状況を報告するため、
折田はワシントンに赴いている。
(明治5年)1872年5月、具定は体調不良のため帰国、
具経は父とともにヨーロッパに渡り、
折田は岩倉兄弟の随員としての制約から解放された[16]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E7%94%B0%E5%BD%A6%E5%B8%82

第百四号 『服部一三』
服部 一三(はっとり いちぞう)
(1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年1月25日)は、
日本の文部官僚、教育者、政治家。貴族院議員。
経歴 [編集]
長州藩士・渡辺兵蔵の三男として生まれ、同藩士・服部又三の養子となる。
慶応3年4月(1867年5月頃)から明治2年11月 (1870年末)まで
長崎で英語を学んだ。
その後、アメリカ合衆国へ渡りラトガース大学で学ぶ。
1875年6月、同大理学部を卒業し、理学士(B.S.)の学位を取得した。
同年8月に帰国し、翌月、文部省に入省し督学局雇となる。
(明治24年)1891年4月、岩手県知事に転じ、以後、
広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事を歴任。
(大正5年)1916年4月に退官した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%80%E4%B8%89

[小野安(安子)] 《女医への道》-01
明治41 年(1908) 大隈重信書簡(服部一三宛)2月14日
小野梓三女安子(1883-1966)は緒方病院で医学を修め、
1910(明治43 年)年代初め頃に神戸で小児科病院を開業した。
その際、大隈が兵庫県知事
服部一三に安子を引き合わせて、
「萬事可然御高配」を依頼した紹介状。
(早稲田大学大学史資料センター蔵)『図録小野梓』p98
[大学創立一二五周年記念 生誕一五〇周年記念]
[図録 小野梓]《立憲政治の先駆・大学創立の功労者》
「発行 早稲田大学 2002年3月10日発行」
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/7/

第百五号 『山本重輔』
毛利 元一(もうり もとかず)
(文化13年(1816年) - 明治22年(1889年)2月26日)は、
長州藩一門家老である吉敷毛利家の13代。
父は毛利房謙。正室は毛利房顕の娘。
養子は毛利親直(上野五郎)、
毛利重輔(山本重輔)。
通称出雲。別名毛利元潔。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E4%B8%80

[本官勘合帳 外國官一号]第百一号~第百二号
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/592/

[本官勘合帳 外國官一号]第十四号『狛 熊勝』[狛 林之助]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/581/
【明治官員録】明治12年9月
鉱山局 技術 少技長 p137/252
イシカワ ろ 正七位 狛 林之助
ヤマブチ ろ 從六位 毛利重輔
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825772/137

社長 小野義真:[日本鉄道株式会社]【日本諸会社登記録】
【日本諸会社登記録】第1巻
[日本鉄道株式会社]  p18-19/171
取締役ノ住所氏名
社 長  小野義真  東京府北豊島郡南千住町元地方橋場千三百八十番地
副社長  毛利重輔  東京市下谷区竹町二十八番地
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/173/

[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年

[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年

[本官勘合帳 外國官一号]
第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村
        《國藏》  廿七        p011
         米國出稼

【新布哇】明治35年1月5日発行
[鈴木国藏]       p431/550
千葉縣印旛郡木下風  ※2
布哇島ヒロ市
―略―
先づ其郷里に歸るや殆んど知る人もなく
我家も既に其主人異なりし位なれば今昔の感に堪へず
其郷人を悉く村長の宅に招きて酒肴を供し
貧しき者には金錢を惠み
曾て一夜の宿借りし八幡宮には見上げる計りの巨大の額面を奉納し
且つ其祠堂及不動尊堂其他小學校建築費として二百圓を寄附し又
全國遊覧の途次
藝州宮島に參拜して高さ二丈八尺
之に在布哇國鈴木國藏と銘打てる石燈籠を寄進し
遂に地を

東京向島洲崎町に買ひ
此に荘麗なる邸宅を構え他年老を養ふの所とす

夫より君は年に一回づつ品物の仕入旁
歸國するを定例とす
今年方に五十三歳にて身體頗る壮健
業務甚だ勉勵
君の如きは數ある
明治元年の移住民中には實に珍しと云ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/431

【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年4月25日発行
[鈴木國藏] p325/694
本所區   向島須崎町
地 番   一六一
地 目   宅地
坪 數   二六七・三〇
地 価   六二七・八四
所有者住所 向島須崎町一六一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800934/325

【東京市及接続郡部地籍地図】下卷:大正1年11月7日発行
本所67   向島須崎町北部 p231/531
[鈴木國藏] 地番 一六一    267坪
[和田豊治] 地番 二三七   1880坪
[言問團子] 地番 二〇一ノ一  116坪
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080/231

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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鈴木国藏:千葉縣印旛郡木下風【新布哇】明治35年1月5日発行

鈴木国藏:千葉縣印旛郡木下風【新布哇】明治35年1月5日発行

[本官勘合帳 外國官一号]
第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村  ※1
        《國藏》  廿七        p011
         米國出稼
広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て
1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にある
ヒロの町にお店を開きます。
http://hawaiijapanesecenter.com/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95/

【新布哇】明治35年1月5日発行
鈴木国藏君 写真   p416/550
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/416

鈴木国藏       p431/550
千葉縣印旛郡木下風  ※2
布哇島ヒロ市
幼少の時は非常に困難を嘗め屡々他家に奉公せしことありしが
曾て我が居村なる八幡の祠に果なくも一夜を明し
我若し志を成さば必ず禮參をなさんと云ふ迄に零落したることあり
慶應三年四月二十五日   ※3-1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)
独逸人ベレリウテーに雇はれ甘蔗栽培の勞働者として布哇へ渡り
帆船にて三十一日目に到着せり
時に二十二
同行の勞働人 男百五十人 女六人
一ケ月の給料四弗の約束を以てマウイ島の甘蔗耕地に働くこと數年
其言語に慣れず事情に通ぜず勞働は激しく實に困難憂愁云はん方なく
雨に風に幾たびか日本の方に向ひ涙を濺ぎしが
後布哇の内務大臣ドクトルハッチソンのボーイとなり
辛うじて百五十弗の貯金をなし
四十一歳の十月十二日より初めて商店をヒロ市に開き
一膳飯と些少の果物を販賣せしが其頃ヒロも非常に寂寞にて
日本人の商店とては別にこれあらず
存外能く繁昌し遂に支那人の手を經し日本食料品を販賣せり
君は初め土人を妻とせしが故あつて離別し
今は葡人メリアジユリーを妻とし其子女五人あり
而して今日に至り君が商店は日々盛大に赴き
有ゆる雑貨より食料品に至るまで殆んど備はらざるものなく
既に數萬圓の資産をなせり
且つ今日布哇全島に於てクニと手書せし手形あれば
幾萬圓の金も融通さるるの信用あり
故に君も常に云ふ
僕が身を起したのは些少の資本金の爲にあらず全く信用の二字にあり
内外の人皆な國が云ふならば間違なしと信ぜられたるが
今日身を立てし原因である
以上は極めて簡単なる君の經歷なるが猶ほ此に感ずべきは
君は去る明治二十九年即ち國を出でて三十年目に日本に歸りしこととて
日本の進歩と變化は一通りならざるものから
君は實に驚嘆の聲を放ち
先づ其郷里に歸るや殆んど知る人もなく
我家も既に其主人異なりし位なれば今昔の感に堪へず
其郷人を悉く村長の宅に招きて酒肴を供し
貧しき者には金錢を惠み
曾て一夜の宿借りし八幡宮には見上げる計りの巨大の額面を奉納し
且つ其祠堂及不動尊堂其他小學校建築費として二百圓を寄附し又
全國遊覧の途次
藝州宮島に參拜して高さ二丈八尺
之に在布哇國鈴木國藏と銘打てる石燈籠を寄進し
遂に地を東京向島洲崎町に買ひ
此に荘麗なる邸宅を構え他年老を養ふの所とす
夫より君は年に一回づつ品物の仕入旁
歸國するを定例とす
今年方に五十三歳にて身體頗る壮健
業務甚だ勉勵
君の如きは數ある
明治元年の移住民中には實に珍しと云ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/431

明治三十五年一月一日印刷
明治三十五年一月五日発行
著 者 藤井秀五郎
    東京市牛込区矢来町九番地
発行者 今井賀照
    東京市京橋区加賀町二番地
刷 者 深山一郎
    東京市神田区雉子町三十四番地
発行社 文獻社
    東京市京橋区加賀町二番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/529

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[外國官一号]第473~509号:第332~第377号
【邦人海外発展史】昭和17年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/596/

※1 「下 総 市場郡 木下風村」
※2 「千葉縣 印旛郡 木下風」
C:印旛郡[・下埴生郡](下総国)
1889.4.1
印旛郡 木下町(きおろし)
54.12.1
→印西町
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/12_tiba1.htm
〒 270-1326 千葉県印西市木下(キオロシ)
〒 270-1323 千葉県印西市木下東(キオロシヒガシ)
〒 270-1328 千葉県印西市木下南(キオロシミナミ)

※3
<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せた
サイオト号が、ホノルルに到着しました。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/

[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一
【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295033.html

[千葉県印旛郡木下:町長]
《伊藤市平》
【職員録】明治28年~明治29年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2572384.html
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[外國官一号]第473~509号:第332~第377号【邦人海外発展史】昭和17

[外國官一号]第473~509号:第332~第377号【邦人海外発展史】昭和17年

[本官勘合帳 外國官一号]

[航海人明細鑑3]

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米國出稼》

ハワイへの日本人集団移民第一号     153名
帰国希望の約40名を日本に帰国     約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。           11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。     約50名
ハワイに残留。              40名強

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)
 哇布島出稼:米國出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/595/

〔ハワイに残留の人達〕

第四百七十七号 『文吉』  未廿九歳      p081
         文藏   忰 東京日本橋数寄屋町
         明治十年七月廿三日帰朝
         ・・・・・・・・・・
         十一年一月十一日届出
        《文吉》  三十一 東京府   p010
         十一年一月十一日免状紛失ノ為
         東京府・届出
※A-1
村田文吉 江戸日本橋数寄屋町生、歸國

第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳      p081
         杉野忠兵衛忰 名古屋藩
        《忠次郎》 三十二 愛知縣   p011
※A-2
忠五郎 江戸市ケ谷町尾張候家僕料理番 杉野忠兵倅、歸國

第四百七十九号 『亀吉』  未廿三歳      p081
         弥助   忰 西京佐原本町
        《亀吉》  廿五 京都府    p011
※A-3
亀吉 京都新左原喜町戎川上ル日和臺 安助倅、  479号
   加哇ワイメアに於て死亡、
   亀吉は三年契約済みの後鍛冶職となる

第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳     p082
         寅次郎  忰 武蔵??郡小塚原町
        《文次郎》 廿五 東京府    p011
※A-4
文治郎 江戸千住小柄原郡生、鳶寅倅、ホノルル在住

第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村
        《國藏》  廿七        p011
※B-1
広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て
1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にある
ヒロの町にお店を開きます。

第四百八十八号 『長吉』  未三十歳      p083
         兵助   忰 下総結城郡結城町
        《長吉》  三十二 印幡縣   p011
※A-5
同六日「厳重の煙草を飲み、長吉は手錠を嵌められ候」

第四百九十号  『金太郎』 未廿九歳      p083
         喜三郎  弟 東京深川佃?場
        《金太郎》 三十一 東京府   p011
第四百九十一号 『とめ』  未十九歳      p083
         金太郎  妻 東京深川佃?場
        《とめ》  廿一 金太郎 妻  p011
※B-2
アメリカで初めての二世弁護士になった小澤健三郎アーサーがいます。
元年者移民小澤金太郎夫妻のハワイ生まれの二世です。

第五百二号   『松五郎』 未廿四歳      p085
         伊三郎  倅 東京深川大崎町
        《松五郎》 廿六 東京府    p012
※B-3
元年者の桑田松五郎の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、
1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。

第五百七号   『新吉』  未廿一歳      p086
         長吉   倅 東京中・南傳馬町
        《新吉》  廿三 東京府    p012
※A-6
新吉  江戸深川字辨大工町生、兼吉倅、ホノルルに於て死亡

[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/

第三百六十六号 『繁三郎』 未廿七歳      p062
         貢    忰 武蔵國神奈川
        《繁三郎》 廿八 神奈川縣   p008
※A-7
繁三郎 出羽國生、佐々和左門倅平間藤林(醫師)男、ホノルルに於て死亡、
    繁三郎はホノルルに於て手押車を作り、
    水果(原文のまゝ)パン類を商ひし先祖なり

第三百六十七号 『榮蔵』  未二十四歳     p063
         太兵衛  忰 駿河國宇土郡人?町
        《榮藏》  廿六 静岡縣    p008
※A-8
榮藏  武藏國埼玉郡クオク村生、百姓兵左衛門倅、ホノルルに於て死亡

第三百七十号  『勘介』  未二十五歳 p063
         九兵衛  弟 東京本?四丁目
        《勘助》  廿七 東京府    p008
※A-9
勘助 江戸深川相生町生、源太郎倅、
   明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡

第三百七十七号 『太吉』  未二十四歳     p064
         十??  忰 東京?玉ケ池
        《太吉》  廿六 東京府    p009
※A-10
太吉 静岡縣宇土郡伊川町生、清水屋鐡五郎倅、歸國

※A
【邦人海外発展史】昭和17年
船は英國商船サイオト號である。
(明治元年)四月二十五日夜横濱を出帆し、海上三十五日を費して、
五月二日(四月は閏)ホノルルに到着した。
移民の一人佐久間米松は、横浜出帆からホノルル上陸まで、
一日も欠かさず「渡海日誌」を書き續けた。
同六日「厳重の煙草を飲み、長吉は手錠を嵌められ候」 ※A-5 第488号
「・・・元締富三郎様より・・・」
同八日に「七番武助、四番虎吉、・・・」
その總取締が富三郎である。姓を牧野と言つた。 p41/586
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/41

明治四年には黒田萬次郎なるものが、
一臺の古馬車を買って、乗合馬車屋を開業した。
これハワイに於ける乗合馬車の元祖だとある。  p46/586

前掲「渡海日誌」の筆者佐久間米松が、
後年加哇島リフェ耕地就働者十一名の出身地及び
それらのものが後にどうなつたかを記してゐる。
それを見ると元年渡航者の出身地が、
廣く各地に亘つてゐることが判るし、
またその全體の落着どころが大體想像出来ると思ふ。
一 千代松  河内國錦郡生、左官友吉の男、加哇リフェ耕地に於て死亡
一 繁三郎  出羽國生、佐々和左門倅平間藤林(醫師)男、
       ホノルルに於て死亡、
       繁三郎はホノルルに於て手押車を作り、
       水果(原文のまゝ)パン類を商ひし先祖なり ※A-7  第336号
一 新吉   江戸深川字辨大工町生、兼吉倅、
       ホノルルに於て死亡            ※A-6  第507号
一 榮藏   武藏國埼玉郡クオク村生、百姓兵左衛門倅、
       ホノルルに於て死亡            ※A-8  第367号
一 文治郎  江戸千住小柄原郡生、鳶寅倅、ホノルル在住 ※A-4  第481号
       明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡
一 勘助   江戸深川相生町生、源太郎倅、       ※A-9  第370号
       明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡
一 村田文吉 江戸日本橋数寄屋町生、歸國         ※A-1  第477号
一 惣平   美濃國カニヱ郡下海道池田塾生、百姓彌作倅、歸國
一 太吉   静岡縣宇土郡伊川町生、清水屋鐡五郎倅、歸國※A-10 第377号
一 忠五郎  江戸市ケ谷町尾張候家僕料理番
       杉野忠兵倅、歸國             ※A-2  第478号
一 亀吉   京都新左原喜町戎川上ル日和臺 安助倅、  ※A-3  第479号
       加哇ワイメアに於て死亡、
       亀吉は三年契約済みの後鍛冶職となる
       (前出「布哇五十年史」) p46/586

米松がこれを記したのは何時のことだか判らない。
しかし三十八年死亡のことが書いてある位だから、
それ以後であることは明かだ。
渡航後少なくとも四十年近くを過してからの記録である。
従つてその出身地の如きは誤記があるかも知れない。
ホノルルに於て死亡とあるのは、耕地労働をやめて、
同地で何かの商賣に従事してゐたものと見てよい。
歸國とあるのも、契約期限後すぐに歸國したものと見るべきでなく、
なほしばらくハワイに止つて活動し後に歸國したと取るべきであらう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/46

昭和十七年十一月三十日印刷
昭和十七年十二月五日 発行
著作者 入江寅次
発行者 井田宗一
    東京市神田区錦町一ノ二三
印刷者 栗原光三
    東京市下谷区上野山下町一ノ二
配給元 日本出版配給株式会社
    東京市神田区淡路町二ノ九
発行所 株式会社 井田書店
    東京市神田区錦町一ノ二三
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/582
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
注記B
[布哇日系人会館]
ハワイへ日本民族の大移動
明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第一話)
布哇ジャパニーズセンター長 本田正文
今は、明日がわからない不安な時代と言う人もいますが、
実は、現代の日本人は「現在」がどうやってできてきたかを知らないから、
よりよき「明日」をどう作ったらいいのかわからいのかもしれません。
ハワイで見えてくる明治の日本人による日本の国際化と
人間や町作りを知ることで、
現在がもっとはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年
ハワイには、現在を作った日本の過去が残っています。
1868年、140年くらい前に153人が、
明治維新の前にハワイへと鎖国の日本から海外へと旅立ったのです。
たった153人の日本人先駆者達も、
日本、ハワイ、アメリカを変える力となっていきます。
例えば、
広島出身の鈴木国蔵(※B-1 別稿に記載)は二度目の妻として
オランダ人と結婚して資金を得て1880年代に
ハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にあるヒロの町にお店を開きます。
そこへ1885年から始まるハワイ王朝政府と明治政府の協定によって始まった
官約移民が毎年何千人も押しかけてきてヒロを近代的な町にしてしまいます。
ハワイ全島では、明治27年までに29、139人がハワイに渡ってきました。
ホノルルより前に、当時の横浜にも負けない
港町がハワイ島のヒロにできてしまいます。
そこで稼いだ鈴木国蔵は広島に大金を持って帰ります。
今でも宮島に大きな鈴木国蔵の灯篭が
当時のハワイからの経済援助の大きさを物語っています。
実は、日本はこれまでにハワイに行った明治の移民たちから
かなりの経済援助を受けてきたことは、
明治、大正、昭和の移民の歴史を調べればわかります。
ハワイの先駆者たちはお金だけでなく、現代のアメリカや日本を変え、
日米共存を可能にした戦前と戦後支えた「知恵」も残していきました。
元年者の子供、二世、にアメリカで初めての二世弁護士になった
小澤健三郎アーサーがいます。
元年者移民小澤金太郎夫妻(※B-2)のハワイ生まれの二世です。
1907年日本はやっと日露戦争で勝ち、
世界の列強たちに仲間入りしたばかりのころに、
すでに大国だったアメリカの弁護士になったのです。
更に、元年者の桑田松五郎(※B-3)の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、
1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。
日米間の町で増えている姉妹都市の魁も
明治のハワイへの開拓者たちの子孫なのです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)哇布島出稼:米國出稼

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)哇布島出稼:米國出稼

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米國出稼》

473号~509号 37名

第四百七十三号 『和蔵』  未廿七歳      p080
         勘蔵   忰 濃??
         哇布島出稼人
        《和藏》  廿九 岐阜縣    p010

第四百七十四号 『又吉』  未廿六歳      p080
         ???  忰 武蔵川越本町
        《又吉》  廿八 入間縣    p010

第四百七十五号 『政吉』  未廿六歳      p081
         卯??  忰 大坂?久太郎町
        《政吉》  廿八 大阪府    p010

第四百七十六号 『幸次郎』 未廿七歳      p081
         ???  忰 同所博労町
         明治六年九月三十日返納
        《幸次郎》 廿九 大阪府    p010

第四百七十七号 『文吉』  未廿九歳      p081
         文藏   忰 東京日本橋数寄屋町
         明治十年七月廿三日帰朝
         ・・・・・・・・・・
         十一年一月十一日届出
        《文吉》  三十一 東京府   p010
         十一年一月十一日免状紛失ノ為
         東京府・届出

第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳      p081
         杉野忠兵衛忰 名古屋藩
        《忠次郎》 三十二 愛知縣   p011

第四百七十九号 『亀吉』  未廿三歳      p081
         弥助   忰 西京佐原本町
        《亀吉》  廿五 京都府    p011

第四百八十号  『半七』  未廿四歳      p081
         武助   忰 東京浅草田町
        《半七》  廿六 東京府    p011

第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳     p082
         寅次郎  忰 武蔵??郡小塚原町
        《文次郎》 廿五 東京府    p011

第四百八十二号 『米吉』  未三十歳      p082
         又右衛門 忰 上総久留里願戸崎村
        《米吉》  三十一 木更湊縣  p011

第四百八十三号 『金次郎』 未廿四歳      p082
         藤吉   忰 東京深川大工町
        《金次郎》 廿六 東京府    p011

第四百八十四号 『豊次郎』 未二十九歳     p082
         源吉   忰 武蔵入間郡藤澤村
        《豊次郎》 三十一 入間縣   p011

第四百八十五号 『庄兵衛』 未廿八歳      p082
         吉右衛門 忰 下総葛飾郡流山村
        《庄兵衛》 廿九 印幡縣    p011

第四百八十六号 『竹次郎』 未廿三歳      p082
         重太郎  忰 東京浅草南馬道
        《竹次郎》 廿五 東京府    p011

第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村
        《國藏》  廿七        p011

第四百八十八号 『長吉』  未三十歳      p083
         兵助   忰 下総結城郡結城町
        《長吉》  三十二 印幡縣   p011

第四百八十九号 『豊吉』  未二十九歳     p083
         直藏   倅 東京駒込片町
        《豊吉》  三十一 東京府   p011

第四百九十号  『金太郎』 未廿九歳      p083
         喜三郎  弟 東京深川佃?場
        《金太郎》 三十一 東京府   p011

第四百九十一号 『とめ』  未十九歳      p083
         金太郎  妻 東京深川佃?場
        《とめ》  廿一 金太郎 妻  p011

第四百九十二号 『熊次郎』 未廿五歳      p083
         久兵衛  忰 摂津武庫郡西宮
        《熊次郎》 廿七 兵庫縣    p011

第四百九十三号 『常吉』  未廿六歳      p084
         定次郎  忰 東京本郷追分?町
        《常吉》  廿八 東京府    p011

第四百九十四号 『半吉』  未二十四歳     p084
         市兵衛  倅 ・・・・・・・・村
        《半吉》  廿五 神奈川縣   p012

第四百九十五号 『勝三郎』 未二十五歳     p084
         長左衛門 倅 東京芝通新町
        《勝三郎》 廿七 東京府    p012

第四百九十六号 『周蔵』  未三十二歳     p084
         平三郎  店 東京浅草田町
        《周藏》  三十四 東京府   p012

第四百九十七号 『啓助』  未三十一歳     p084
         ?兵衛  倅 東京田原町
        《啓助》  三十四 東京府   p012

第四百九十八号 『政吉』  未二十五歳     p084
         喜右衛門 倅 ・・・・郡葛原村
        《政吉》  廿七 足柄縣    p012

第四百九十九号 『長次郎』 未廿八歳      p085
         廣吉   倅 東京深川扇町
        《長次郎》 三十 東京府    p012

第五百号    『藤吉』  未廿七歳      p085
         冨五郎  倅 東京浅草今戸町
        《藤吉》  廿九 東京府    p012

第五百一号   『市五郎』 未十八歳      p085
         林藏   倅 ・・小田原・・橋町
        《市五郎》 二十 足柄縣    p012

第五百二号   『松五郎』 未廿四歳      p085
         伊三郎  倅 東京深川大崎町
        《松五郎》 廿六 東京府    p012

第五百三号   『寅次郎』 未廿八歳      p085
         寅五郎  倅 武州・・・・・・
        《寅次郎》 三十 神奈川縣   p012

第五百四号   『辰次郎』 未三十歳      p085
         仲右衛門 倅 武州埼玉郡・・・
        《辰次郎》 三十二 嵜玉縣   p012

第五百五号   『冨太郎』 未廿八歳      p086
         文市郎  倅 ・・八代郡市川村
        《冨太郎》 三十 山梨縣    p012

第五百六号   『熊吉』  未二十歳      p086
         傳右衛門 倅 越後蒲原郡小仲川村
        《熊吉》  廿二 新潟縣    p012

第五百七号   『新吉』  未廿一歳      p086
         長吉   倅 東京中・南傳馬町
        《新吉》  廿三 東京府    p012

第五百八号   『重蔵』  未廿五歳      p086
         傳右衛門 倅 駿河・・郡静岡上横田町
        《重藏》  廿七 静岡縣    p012

第五百九号   『竹次郎』 未三十六歳     p086
         直左衛門 倅 甲州巨摩郡三ノ輪村
        《竹次郎》 三十八 山梨縣   p012

本稿[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)

ハワイに残留の人達か? 小野一雄

ハワイへの日本人集団移民第一号     153名
帰国希望の約40名を日本に帰国     約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。           11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。     約50名
ハワイに残留。              40名強

[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/

[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)布哇島出稼:ハワイ出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/594/

【邦人海外発展史】昭和17年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461457/46
前掲「渡海日誌」の筆者佐久間米松が、
後年加哇島リフェ耕地就働者十一名の出身地及び
それらのものが後にどうなつたかを記してゐる。
それを見ると元年渡航者の出身地が、
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

詳細は、別稿に記載。 小野一雄

第四百七十七号 『文吉』  未廿九歳      p081
         文藏   忰 東京日本橋数寄屋町
         明治十年七月廿三日帰朝
         ・・・・・・・・・・
         十一年一月十一日届出
        《文吉》  三十一 東京府   p010
         十一年一月十一日免状紛失ノ為
         東京府・届出

第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳      p081
         杉野忠兵衛忰 名古屋藩
        《忠次郎》 三十二 愛知縣   p011

第四百七十九号 『亀吉』  未廿三歳      p081
         弥助   忰 西京佐原本町
        《亀吉》  廿五 京都府    p011

第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳     p082
         寅次郎  忰 武蔵??郡小塚原町
        《文次郎》 廿五 東京府    p011

第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村
        《國藏》  廿七        p011

第四百八十八号 『長吉』  未三十歳      p083
         兵助   忰 下総結城郡結城町
        《長吉》  三十二 印幡縣   p011

第四百九十号  『金太郎』 未廿九歳      p083
         喜三郎  弟 東京深川佃?場
        《金太郎》 三十一 東京府   p011

第四百九十一号 『とめ』  未十九歳      p083
         金太郎  妻 東京深川佃?場
        《とめ》  廿一 金太郎 妻  p011

第五百二号   『松五郎』 未廿四歳      p085
         伊三郎  倅 東京深川大崎町
        《松五郎》 廿六 東京府    p012

<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せたサイオト号が、
ホノルルに到着しました。
1869年12月(明治2年己巳10月28日)に民部監督正という役職にあった
上野景範がハワイに到着し、
ハワイ政府に移民の送還と、バンリードの処罰を求めました。
交渉は難航しましたが、上野特使が調査した結果、
日本人移民の不満の多くが生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる
誤解などによるものが多く、
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような
状況ではないことが明らかになってきました。
特に、日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者がこのまま就労を続けたいという希望であることも分かってきました。
結果的には、ハワイ政府がバンリードの総領事罷免を確約したことから、
上野は帰国希望の約40名を日本に帰国させて
日本とハワイの交渉は一応、解決しました。
残る約110名は無事に3年間の就労を終えましたが、
その後、日本に帰ったのは、わずかに11名だったといいます。
それ以外の元年者の半数は、賃金の高いアメリカ本土へ移住し、
ハワイに残留したのは40名強だったようです。
ハワイに残留した元年者のほとんどは、
ハワイアンの女性と結婚し、
本当のハワイ移住民となりました。
そして、上野特使派遣後の
1871年8月(明治4年辛未6月15日)、日本ハワイ修好条約が結ばれ、
バンリードは条約締結に奔走した功績が認められ、
日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任します。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/

<アロハ Web カワラ版>
官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼
日本政府の強い要求により
駐在ハワイ公使を一時辞任していたバンリードの活躍もあって、
1871年(明治4年辛未)に「日本ハワイ修好通商条約」が締結され、
元年者移民問題を平和裏に解決したことから、
日本政府はアメリカ本土への移動を希望する元年者に旅券を交付しました。
しかも、ハワイ駐在アメリカ公使ピアースに
日本労働監督官を委嘱することさえしました。
これによって、出稼ぎであれ、移民であれ、
日本人のハワイ渡航は法的には可能になったのですが、
実際はそう簡単にはいかなかったのです。
ハワイ側も元年者に続く、新しい日本人の出稼ぎ者の送出を
再三にわたって日本側に要請しましたが、
結局、日本政府は一向に認めようとはしなかったのです。
1885年(明治18年)に日本ハワイ労働移民条約が締結され、
官約移民が実現するまで、事実上、移民の空白期間が続くことになります。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040506/

[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)布哇島出稼:ハワイ出稼

[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)布哇島出稼:ハワイ出稼

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
『布哇島出稼 p091-092』
《ハワイ出稼:在留國不分 p043》

第五百三拾八号~第五百四拾三号 (6名)

第五百三拾八号 『竹次郎』 未三拾一才     p091
         小松屋安兵衛倅 尾州名古屋?本町二丁目
        《竹次郎》 三十二 愛知県   p043
         辛未九月

第五百三拾九号 『鶴吉』  未拾九才      p091
         三五郎  倅  ・・・・・・・宿四丁目
        《鶴吉》  廿一 東京府    p043
         辛未九月
         八年十二月七日返納

第五百四拾号  『金次郎』 未弐拾四才     p091
         重兵衛  倅 東京本所
        《金次郎》 廿六 東京府    p043
         辛未九月

第五百四拾壹号 『初次郎』 未弐拾壱才     p092
         太助   倅 東京市谷柳町
        《初次郎》 廿三 東京府    p043
         辛未九月

第五百四拾弐号 『濱次郎』 未弐拾才      p092
         ??屋藤助倅 甲州府中八日町通工町
        《濱次郎》    山梨縣    p043
         辛未九月
         廿五年十月廿日布哇・・・・
         ・・・・・・・・・・・・・
         交付スルコトトナレリ

第五百四拾三号 『俊太郎』 未三拾壱才     p092
         宗兵衛  倅 東京芝濱松町二丁目
        《俊太郎》 三十三 東京府   p043
         辛未九月

[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/
[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)

上記の多くの人達は、アメリカ本土に移住か? 小野一雄

ハワイへの日本人集団移民第一号     153名
帰国希望の約40名を日本に帰国     約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。           11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。     約50名
ハワイに残留。              40名強

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)哇布島出稼:米國出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/595/

<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/

<アロハ Web カワラ版>
官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040506/
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