[本官勘合帳 外國官一号]第百十七号~第百十八号
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第百十七号 『南部英麻呂』 午十五歳 p020 ※明治3年庚午(1870年)
南部従五位 弟 米國
明治九年一月三十日?? ※明治9年(1876)1月30日
十二年一月十三日 返納 ※明治12年(1879)1月13日
《南部英麻呂》 米 p002
南部従五位 弟 留学 自
庚午八月 ※明治3年庚午8月
(1870年8月27日)
明治六年 十八 ※明治6年(1873)
十一年十二月帰 ※明治11年(1878)12月
十二年一月十三日 返納 ※明治12年(1879)1月13日
第百十八号 『奈良眞志(マサシ)』 午二十五歳 p020
※明治3年庚午(1870年)
南部英麻呂 随従 米國
七年十二月十五日 ※明治7年(1874)12月15日
《奈良眞志》 米 p002
岩手縣 前同人家従 留学 官
庚午八月 ※明治3年庚午8月
(1870年8月27日)
明治六年 二十八 ※明治6年(1873)
七年十二月十五日返納 ※明治7年(1874)12月15日
第百十七号 『南部英麻呂』
WASEDA WEEKLY
入学記念号
早稲田に歴史あり 特別編
東京専門学校開校式 ―第1回目の入学式
大学史資料センター 助手 伊東 久智
1882(明治15)年10月21日午後1時。
早稲田大学の前身・東京専門学校の開校式が挙行された。
現在へと連なる早稲田大学の歴史が幕を開けた瞬間である。
居並んだ新入生の数はわずか80名。
学苑の周囲にはいまだのどかな田園風景が広がっていた。
式は校長・大隈英麿(大隈重信の養子)の「開校の詞」にはじまり、
慶應義塾の福沢諭吉をはじめとする来賓の祝辞を挟んで、
最後に建学の功労者・小野梓が演壇に立った。
「祝開校」と題されたその演説は、
舌端(ぜったん)火を吐く気迫に満ちたものであったと伝えられている。
一国の独立は国民の独立を基礎とし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。
そして国民精神の独立は、実に学問の独立による。
ゆえに、国の独立のためには民を、民の独立のためにはその精神を、
そして精神の独立のためにはまず何よりも学問を独立させなければならない―。
自学の精神に基づく「学問の独立」という建学の理念は、
この演説のなかではっきりと表明されることとなった。
創設者である大隈重信は、
政変のために明治政府を追われた直後ということもあり、
学校が反政府分子の養成所とみなされる風評から学生を守るため、
この開校式には姿を現さなかった。
小野はその大隈の心情を代弁するかのように、
参会者の胸裏にその一語一語を刻みつけたのである。
それから130年―
今年もまた大学の歴史を継ぐ新入生たちがキャンパスに
足を踏み入れようとしている。
開校式で高らかに謳(うた)われた建学の理念は、
これまでもそうであったように、これからも、
前進してやまない学生たちの歩先を照らしてくれるはずである。
1270号 2012年4月1日掲載
http://www.wasedaweekly.jp/detail.php?item=225
第96回:南部英麿(なんぶ ひでまろ)
更新日 2011年12月14日
南部英麿(1856年~1910年)
早稲田大学創立貢献者
南部英麿は1856年(安政3年)9月11日,
盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれた。
兄の利恭は第41代南部家当主に,弟の信方は支藩の七戸藩藩主となっている。
幼いころより英邁の誉れの高かった英麿は,
1870年(明治3年),数えで15歳の時に姉の夫である
華頂宮博經親王(かちょうのみや ひろつね しんのう)に従い渡米した。
現地の私立中学をへてダートマス大学に入学,
のちにはプリンストン大学に移り,天文学を修めて学位を得た。
1878年(明治11年)12月に帰国した英麿は,
翌年大隈重信の娘クマ子と結婚,養子縁組を行い大隈姓を名乗る。
当初は内務省地理局,外務省交信局に勤めるも,養父の重信とともに
1881年(明治14年)に官を下り,
翌年の東京専門学校(現:早稲田大学)創設の際には推されて校長に就任した。
その後第二高等中学校教授,東京高等商業学校教諭などをへて,
1896年(明治29年)には早稲田中学校校長となり,
“去華就実”を校是として大いに中等教育の普及に努めた。
1898年(明治31年)3月には岩手県第1区で衆議院議員に立候補し当選,
3期議員を務めている。
しかし1902年(明治35年)9月,とある事情で大隈家を離れた英麿は南部に復姓し,
兄利恭に分家を申し出て自ら平民となった。
その後は亡くなるまで,郷里で子弟の育英にあたった。
理工系の学問を修め,
その普及に努めた英麿だったがなかなか思うようにはいかなかった。
そのため1908年(明治41年),
早稲田大学に理工科が創設された際には非常に喜んだと言われている。
掲載日:2008年9月25日
http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007544.html
第百十八号 『奈良眞志』
奈良真志[なら-しんし]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1846-1911 明治時代の軍人。
弘化(こうか)3年生まれ。
アメリカに留学し,海軍会計事務をまなぶ。
海軍主計学舎の教頭などをへて,明治19年主計学校校長となる。
海軍省にはいり,26年主計総監。
明治44年11月7日死去。66歳。陸奥(むつ)盛岡出身。
http://kotobank.jp/word/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%9F%E5%BF%97
きろく解読館
荻原勇馬家 201227
替って戸来官左衛門秀包の三男勇馬是知がその家督を相続した。
使番目付兼帯となり、公事用懸を勤め、
維新後は監察、盛岡県大属、岩手県大属を勤めた。
明治三年華頂宮博経親王がアメリカ留学の時、
南部英麿、奈良真志、藤森主一郎らと倶に随行した。
郁子妃は南部利剛の長女で、留学費用は南部家から出費された。
同六年宮が留学先で病に倒れ、
是知と藤森主一郎は随従帰国した。
この年是知は華頂宮家家扶となった。
明治十一年には東京に在住中であったが、士族明細帳によれば、
加賀野村(盛岡市)三番屋敷に住所があった。
大正六年東京で死去。その跡を千代吉が相続した。
http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50591
[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第百十七号 『南部英麻呂』 午十五歳 p020 ※明治3年庚午(1870年)
南部従五位 弟 米國
明治九年一月三十日?? ※明治9年(1876)1月30日
十二年一月十三日 返納 ※明治12年(1879)1月13日
《南部英麻呂》 米 p002
南部従五位 弟 留学 自
庚午八月 ※明治3年庚午8月
(1870年8月27日)
明治六年 十八 ※明治6年(1873)
十一年十二月帰 ※明治11年(1878)12月
十二年一月十三日 返納 ※明治12年(1879)1月13日
第百十八号 『奈良眞志(マサシ)』 午二十五歳 p020
※明治3年庚午(1870年)
南部英麻呂 随従 米國
七年十二月十五日 ※明治7年(1874)12月15日
《奈良眞志》 米 p002
岩手縣 前同人家従 留学 官
庚午八月 ※明治3年庚午8月
(1870年8月27日)
明治六年 二十八 ※明治6年(1873)
七年十二月十五日返納 ※明治7年(1874)12月15日
第百十七号 『南部英麻呂』
WASEDA WEEKLY
入学記念号
早稲田に歴史あり 特別編
東京専門学校開校式 ―第1回目の入学式
大学史資料センター 助手 伊東 久智
1882(明治15)年10月21日午後1時。
早稲田大学の前身・東京専門学校の開校式が挙行された。
現在へと連なる早稲田大学の歴史が幕を開けた瞬間である。
居並んだ新入生の数はわずか80名。
学苑の周囲にはいまだのどかな田園風景が広がっていた。
式は校長・大隈英麿(大隈重信の養子)の「開校の詞」にはじまり、
慶應義塾の福沢諭吉をはじめとする来賓の祝辞を挟んで、
最後に建学の功労者・小野梓が演壇に立った。
「祝開校」と題されたその演説は、
舌端(ぜったん)火を吐く気迫に満ちたものであったと伝えられている。
一国の独立は国民の独立を基礎とし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。
そして国民精神の独立は、実に学問の独立による。
ゆえに、国の独立のためには民を、民の独立のためにはその精神を、
そして精神の独立のためにはまず何よりも学問を独立させなければならない―。
自学の精神に基づく「学問の独立」という建学の理念は、
この演説のなかではっきりと表明されることとなった。
創設者である大隈重信は、
政変のために明治政府を追われた直後ということもあり、
学校が反政府分子の養成所とみなされる風評から学生を守るため、
この開校式には姿を現さなかった。
小野はその大隈の心情を代弁するかのように、
参会者の胸裏にその一語一語を刻みつけたのである。
それから130年―
今年もまた大学の歴史を継ぐ新入生たちがキャンパスに
足を踏み入れようとしている。
開校式で高らかに謳(うた)われた建学の理念は、
これまでもそうであったように、これからも、
前進してやまない学生たちの歩先を照らしてくれるはずである。
1270号 2012年4月1日掲載
http://www.wasedaweekly.jp/detail.php?item=225
第96回:南部英麿(なんぶ ひでまろ)
更新日 2011年12月14日
南部英麿(1856年~1910年)
早稲田大学創立貢献者
南部英麿は1856年(安政3年)9月11日,
盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれた。
兄の利恭は第41代南部家当主に,弟の信方は支藩の七戸藩藩主となっている。
幼いころより英邁の誉れの高かった英麿は,
1870年(明治3年),数えで15歳の時に姉の夫である
華頂宮博經親王(かちょうのみや ひろつね しんのう)に従い渡米した。
現地の私立中学をへてダートマス大学に入学,
のちにはプリンストン大学に移り,天文学を修めて学位を得た。
1878年(明治11年)12月に帰国した英麿は,
翌年大隈重信の娘クマ子と結婚,養子縁組を行い大隈姓を名乗る。
当初は内務省地理局,外務省交信局に勤めるも,養父の重信とともに
1881年(明治14年)に官を下り,
翌年の東京専門学校(現:早稲田大学)創設の際には推されて校長に就任した。
その後第二高等中学校教授,東京高等商業学校教諭などをへて,
1896年(明治29年)には早稲田中学校校長となり,
“去華就実”を校是として大いに中等教育の普及に努めた。
1898年(明治31年)3月には岩手県第1区で衆議院議員に立候補し当選,
3期議員を務めている。
しかし1902年(明治35年)9月,とある事情で大隈家を離れた英麿は南部に復姓し,
兄利恭に分家を申し出て自ら平民となった。
その後は亡くなるまで,郷里で子弟の育英にあたった。
理工系の学問を修め,
その普及に努めた英麿だったがなかなか思うようにはいかなかった。
そのため1908年(明治41年),
早稲田大学に理工科が創設された際には非常に喜んだと言われている。
掲載日:2008年9月25日
http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007544.html
第百十八号 『奈良眞志』
奈良真志[なら-しんし]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1846-1911 明治時代の軍人。
弘化(こうか)3年生まれ。
アメリカに留学し,海軍会計事務をまなぶ。
海軍主計学舎の教頭などをへて,明治19年主計学校校長となる。
海軍省にはいり,26年主計総監。
明治44年11月7日死去。66歳。陸奥(むつ)盛岡出身。
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荻原勇馬家 201227
替って戸来官左衛門秀包の三男勇馬是知がその家督を相続した。
使番目付兼帯となり、公事用懸を勤め、
維新後は監察、盛岡県大属、岩手県大属を勤めた。
明治三年華頂宮博経親王がアメリカ留学の時、
南部英麿、奈良真志、藤森主一郎らと倶に随行した。
郁子妃は南部利剛の長女で、留学費用は南部家から出費された。
同六年宮が留学先で病に倒れ、
是知と藤森主一郎は随従帰国した。
この年是知は華頂宮家家扶となった。
明治十一年には東京に在住中であったが、士族明細帳によれば、
加賀野村(盛岡市)三番屋敷に住所があった。
大正六年東京で死去。その跡を千代吉が相続した。
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