2012年12月

[歐洲通用金相場]慶應4年6月【新聞集成明治編年史. 第一卷】

[歐洲通用金相場]慶應4年6月
【新聞集成明治編年史. 第一卷】

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

慶應四年六月(皇紀二五二八 西暦一八六八)

[歐洲通用金相場] p97/295
〔六・ 、日々新聞〕 ※慶応4年6月(1868年7月20日)

[歐羅巴諸州通用金相場の事]

英吉利の通用金「ポンド」といへる金錢を
二十に分たる銀錢「シルリング」といふ
一「シルリング」を十二に分たる
銅錢を「ペンス」といふ。
(この銅錢を一文?ふ時は?國の言葉にて「ペニ」といふ)
即ち一「ポンド」は二百四十「ペンス」なり。

「メキシコドルラク」を以て
「ポンド」の手形を買ふには、
固より時の相場次第なれども、
大抵
一「ドルラク」につき五十二三「ペンス」
即ち
一「ポンド」は凡
四「ドルラル」半にあたる。

「ドルラル」の相場を日本の金三歩とすれば、
一「ポンド」は金三兩一歩二朱許に當る。

亜米利加の「ドルラル」は
「メキシコドルラル」よりも少し輕し。
大抵
百「ドルラル」につき六七「ドルラル」の差あり。

佛蘭西の通用金は「フランク」といふ銀錢にて、
大抵
五「フランク」半は
一「ドルラル」と釣合相場なり
此「フランク」二十枚に當る金錢あり、
十年許以前の新吹にて金錢の表に
今の佛蘭西帝「ナポレオン」の面の像あるゆへに
歐羅巴にて此金錢に異名をつけ
「ナポレオン」と云ふ。

一「ナポレオン」は日本の二兩三歩許にあたる。

西洋諸國にては餘り
「メキシコドルラル」を通用せざれども、
印度海の港幷に上海香港邊にては
專ら此「ドルラル」をのみ用るゆへ、
日本より外國へ渡海する時は、
船中の小遣錢は「メキシコドルラル」を正金にして持參すべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/97

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[魯國政府 波蘭人の兵器を没収す]慶應4年4月【新聞集成明治編年史. 第一卷】

[魯國政府 波蘭人の兵器を没収す]慶應4年4月
【新聞集成明治編年史. 第一卷】

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

慶應四年四月(皇紀二五二八 西暦一八六八)

[魯國政府 波蘭人の兵器を没収す] p51/295
[ルーブルと弗相場]
〔四・二一、中外新聞〕 ※慶応4年4月21日(1868年5月13日)

此程 露西亜の政府より命を下し、      ※魯國・露西亜(ロシア)
波蘭(ポーレン)國人の兵器を持つ事を禁じ、 ※波蘭(ポーランド)
悉く其所有の兵器を取上げたり。

但し税銀ルーブルを出して
其支配より免許を得れば、
兵器を買ひ求むる事を得べし、
これを所持する者は年々此税を出さしむ。

 ルーブルは銀錢の名にして
 ドルの七分五厘に通用す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/51

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[横濱ドル相場]慶應4年3月~4月【新聞集成明治編年史. 第一卷】

[横濱ドル相場]慶應4年3月~4月
【新聞集成明治編年史. 第一卷】

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

慶應四年三月(皇紀二五二八 西暦一八六八)
[横濱ドル相場] p40/295
―異状なし―
〔三・二、中外新聞〕 ※慶応4年3月2日(1868年3月25日)
横濱ドルの相場
此十日程大抵替る事なし、
ドル百枚に付
一分銀二百九十八より二百九十九の賣買なり、
即ち一ドルの相場
四十四匁七分より四十四匁八分五厘にあたる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/40

慶應四年三月(皇紀二五二八 西暦一八六八)
[ドル相場は下落傾向] p43/295
〔三・二一、中外新聞〕 ※慶応4年3月21日(1868年4月13日)
ドル相場少し下落の方なり。
一枚に付
銀四十三匁五分より四十三匁六分五厘。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/43

慶應四年四月(皇紀二五二八 西暦一八六八)
[ドル相場は昂騰:錢相場奔落] p51/295
〔四・二三、中外新聞〕 ※慶応4年4月23日(1868年5月15日)
横濱ドルの相場
五七日來又少しく上りたる方なり。
一ドルに付
四十四匁八分五厘より四十五匁。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/51

明治二年三月(皇紀二五二九 西暦一八六九)
[横濱ドル相場] p154/295
〔三・七、中外新聞〕 ※明治2年3月7日(1869年4月18日)
横濱にてドルの相場
大に騰貴し二分金の位
急に下落し、
一時は二分金と一分銀との相場の開き
一ドルに付て五匁許にも及びしが、
近日漸く居り合ひ、
ドルも又少しく下値に成たり。
昨今にては一分銀にて五十二匁位、
二分金にて五十四匁四五分の通用なり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/154

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《大隈八太郎(重信)》[英國水夫暗殺事件]明治1年10月【新聞集成明治編年史】

《大隈八太郎(重信)》[英國水夫暗殺事件]明治1年10月
【新聞集成明治編年史】

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

明治元年十月(皇紀二五二八 西暦一八六八)
[英國水夫暗殺事件] p133/295
〔一〇・ 、崎陽雜報四〕    ※明治1年10月(1868年11月14日)
長崎「タイムス」ト云フ新聞紙ヨリ譯出ス。

昨年七月六日ノ夜、       ※慶応3年7月6日(1867年8月5日)
當港滞在ノ英軍艦「イカルス」ノ水夫、
ロベルトフオード、ジヨンホツチンスト
云ヘル兩人ヲ、
暗殺セシ兇手詮議ノ儀、
是迄不分明ノ處、
此節政道一新ノ庶相現ハレ、
一件全ク明白ニ及ビタリ。

凡一ケ月前朝廷ヨリ
大隈八太郎ト云ヘル高官、  ※大隈八太郎:大隈重信
是迄曖昧ナリシ此一事ヲ盡力シテ
氷解ナサシメンコトヲ命ジテ
當港ニ差送レリ
國々ノ領地中、
不洩探索ヲ遂ンコトヲ諸侯ニ希望セシニ、
此事全ク相遂ゲ、
竟ニ明白ニ至リシハ其事ヲ告知スルニモ、
予等歡喜ノ至ナリ。

此暗殺人ハ筑前ノ人ニシテ、
其時居留地番士ノ中ナルベシ、
總員十一人ノ人數ニテ、
内九人ハ此罪相當ノ刑ニ處セラレンタメ、
今既ニ長崎ニ至ルノ道中ナリ。

内一人ハ、
同人居所ニテ、
捕人來リシ時
截腹セリ。  ※截腹:切腹

外一人ハ脱走セシト雖モ
召捕ラレンコト疑ナシ。

 右罪人ハ船ニテ當港ヘ送リ來ルベシト風説アリ。
 今明日來港ノ積リ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/133

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[イギリス軍艦「イカルス」号水夫暗殺一件]
 宮永 孝
―略―
新政府も苦境に陥り、
これまであいまいであったこの一件を
氷解なさしめることにし、
大隈八太郎(重信)を長崎に派遣した。 p105
慶應四年九月七日(一八六八・一〇・二二)立山役所において、
大隈八太郎・楠本平之允(正隆、当時長崎裁判所権判事)・
吉井源馬・林亀吉(土佐藩大目付)らが参会し、
犯人捜索について相談し、
その後八方に手を廻して犯人逮捕の糸口を得ようとしたが
思わしくなかった。
しかし、ふとしたことから事件解決の端緒が開けた。
林亀吉は長崎に来てから書生を雇い置いていたが、
その者が「加害者を知っています、何でも筑前藩の者です」
といったことから、その旨を
長崎府知事沢宣嘉(一八三三~七三)、幕末・維新期の公卿)に申し出た。
かくして沢知事は、筑前藩の聞役(外的などの急を知らせる役)
栗田貢を呼び出し、取り調べを命じた。
同人は突然の話に狼狽し、藩庁に報告すると、
藩としても包み隠すことができず、
ついにじつは弊藩の金子才吉という者の仕業です、と白状した。
同人はすでに切腹して果てたので、
この一件に関しては連係者が自首するということにし、
ひとまず落着した。 p106
―略―
新聞記事としては「英国水夫暗殺事件」
(明治元・10、『崎陽雑報』(四)、
『新聞集成 明治編年史 第一巻』所収)
などがある。 p110
―略―
http://ci.nii.ac.jp/els/110000184568.pdf?id=ART0000544739&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1356846945&cp=

[Wikipedia]
[幕末の外国人襲撃・殺害事件]
慶応3年(1867年)
英国水兵殺害事件 [編集]
7月6日夜、      ※慶応3年7月6日(1867年8月5日)
長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵、
ジョン・ホッチングとロバート・フォードの2人が、
泥酔して丸山の路上に寝込んでいるところを、
筑前藩士金子才吉に殺害された。
金子は8日に自刃していたが、
筑前藩がこれを秘匿したため、
「凶行数時間後の未明に、
 長崎港内に碇泊していた土佐の帆船と汽船が
 相次いで突然出帆したという事実」から、
土佐藩に嫌疑がかかり、
イギリス公使パークスが土佐まで出向くなど
躍起になって犯人探索に当たるが、
当然ながら犯人は挙がらなかった。
後日(明治元年10月27日)、 ※明治1年10月27日(1868年12月10日)
犯人が筑前藩士であることが判明、
被害者遺族に見舞金が支払われ、
金子と同道していた6名の者が禁錮刑に処せられた。
なお、土佐藩はこの対応に時間をとられ、
薩土盟約が解消されることとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A5%B2%E6%92%83%E3%83%BB%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E9.B3.B6.E3.81.AE.E5.B0.8F.E4.BA.80.E4.BA.8B.E4.BB.B6.EF.BC.88.E3.83.95.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.B9.E6.B0.B4.E5.85.B5.E6.AE.BA.E5.AE.B3.EF.BC.89

[鍋島藩の大隈參謀:博識英才の評判]慶応4年6月【新聞集成明治編年史. 第一卷】

[鍋島藩の大隈參謀:博識英才の評判]慶応4年6月
【新聞集成明治編年史. 第一卷】

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

慶應四年六月(皇紀二五二八 西暦一八六八)

[鍋島藩の大隈參謀:博識英才の評判] p97/295
〔六・二、もしほ草〕 ※慶応4年6月2日(1868年7月21日)

ある人の説に
ながさき港は
商法まことによくととのひて、
土商(とち あきうど)、
客商(いこく あきうど)、
ともによろこびあへり。

參謀大熊氏は鍋島の人なり、
博識英才にて、
時勢をさつし、
急務をあげ、
邪正を糾し、
仁慈をほどこせり。

支那はいにしへより、
日本と和親の國なれば、
別段によきとりあつかひをなせり。

これによりて唐商ども、
朝廷のおぼしめしを感戴し、
舊弊のあらたまりたるを
よろこびけるとぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/97

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《図録 大隈重信
『生誕一五○年記念』
『近代日本の設計者』
第1章 新政府官僚としての出発   p30
45 横浜新報 もしほ草  第14編
  慶應4年(1868)6月2日 ※慶応4年6月2日(1868年7月21日)
  ヴァン・リード 1冊 19×13cm

 大隈の名を報じた最初の新聞記事。
「参謀大熊氏」とは、
 同年3月まで長崎裁判所副参謀の職にあった大隈のこと。
 累積した未決の訴訟を次々に処断した能吏大隈の名が、
 遠く横浜の地にまで及んでいたことがわかる。

昭和六三年一〇月一〇日印刷
昭和六三年一〇月二一日発行 ※昭和63年(1988)10月21日
生誕一五○年記念
図録 大隈重信
―近代日本の設計者―
定価 三、〇〇〇円
編集 早稲田大学
発行 早稲田大学出版部
169  東京都新宿区戸塚町1-103
電話 東京(〇三)203-1551
印刷・平文社 撮影・コウ写真工房

<ふたたび、喀血し、八月下旬まで療養>明治18年7月『小野梓全集』第五巻

<ふたたび、喀血し、八月下旬まで療養>明治18年7月
『小野梓全集』第五巻

《図録 小野梓》
『大学創立一二五周年記念』
『生誕一五○周年記念』
『立憲政治の先駆・大学創立の功労者』
 小野梓 年譜              p102
 一八八五(明治一八年)七月二日     ※1885年7月2日(明治18年)
 <ふたたび、喀血し、八月下旬まで療養> ※⑤541~544 p108
 二〇○二年二月二八日印刷
 二〇○二年三月一〇日発行
 編集 早稲田大学
 発行 早稲田大学
※ ⑤541~544 『小野梓全集』第五巻 p541-544

『小野梓全集』第五巻 p541-544

[留客斎日記 六巻] p522
1885(明治18)年7月
七月一日  猶霖。有事、衝雨訪岩弥、遂到銀行。 ※岩弥 岩崎弥之助
      決錬妹之南帰。欲嫁之於毛郷之某氏也。

七月二日  有咳吐血。延医診之。曰、胃血也。臥蓐(しとね)。 p541
  三日  在蓐。
  四日  猶昨。
  五日  又吐血。
  六日  在蓐。
  七日  猶昨。氷嚢冷胃部。二日以後如一日。
  八日  柬岩弥。在蓐。         ※岩弥 岩崎弥之助
  九日  岩弥。到書。答之(150. Y. till the end of this year)。
      ※岩弥 岩崎弥之助
  十日  在蓐。小安到書(150. Y. 差引)。※小安 子安峻
  十一日 在蓐。
  十二日 在蓐。
  十三日 岡山来訪。在蓐。        ※岡山 岡山兼吉
  十四日 又吐血。又胃血也。臥蓐。
  十五日 在蓐。岡山到書(200. till 9th month)。
  十六日 在蓐。大快。柬松濤、賀其右遷。 ※松濤 三好退蔵
  十七日 柬松濤。在蓐。         ※松濤 三好退蔵 p542
  十八日 了銀行之事。在蓐。(Y50. till 10th the next)。始執筆。
  十九日 在蓐。
  念日  在蓐。病漸軽。
  念一日 在蓐。接伊伯之書(100. till 20th. 8th.)※伊伯 伊藤博文
  念二日 在蓐。柬桃斉。             ※桃斉 小野義真
  念三日 病軽、起座喰餐。
  念四日 大熱。或起或臥。病軽。
  念五日 病逐次軽快。此日載 克蘭度(グラント)将軍死去之報。
  念六日 病軽。此日天子西巡。
  念七日 熱甚。起座費半日。
  念八日 熱。至八十六度。
  念九日 熱。病疴頗軽。
  三拾日 熱如昨。
 三拾一日 熱如昨。

八月一日  或起或臥。
  二日  熱。少歩席上。            p543
  三日  熱甚。橋場之老人来。  ※橋場之老人 小野義真
  四日  夜来雨、冷。不宜病体。臥蓐終日。
  五日  臥或起。校汎論。    ※汎論 『国憲汎論』
  六日  腸部少覚攣急。臥蓐。
  七日  腸患以依然不癒。
  八日  腸痛加劇。
  九日  如昨。
  十日  腸患愈甚。薬水不足圧其勢。
  十一日 腸患未癒。
  十二日 稍軽。然未癒。校汎論。還金於銀行。
  十三日 腸患荏苒(じんぜん)不癒。夜為不眠。
  十四日 如昨。此日前後通便硬。止灌腸。
  十五日 稍軽。校汎論。今現印刷其下巻。勢不可惰其校讐。
      故有少閑乃校之。是亦人生之一奇事也。
  十六日 腸部之憂患、未到快癒。
  十七日 如昨。
  十八日 夜来新用別調之薬水。大奏功、腸部頗覚軽快。
  十九日 腸部逐次赴快。校汎論。           p544
  念日  腸部将癒、食欲亦髄生。唯有不欲牛鶏之肉之意。
      蓋是一奇。余従来嗜牛肉食之、一日不必下一回。
      然、今不欲之。腸胃有変動乎。然、凡事動而保生。
      余変食嗜。又所以保我生乎。此暁頗冷。
  念一日 赴快。半起半臥。有客来訪。乃接之。校汎論。
  念二日 逐次赴快。校汎論。
  念三日 大快。校汎論。投書伊伯也(Return 30y.)。 ※伊伯 伊藤博文
  念四日 快。校汎論。
  念五日 校汎論。歩室内。
  念六日 校汎論。
  念七日 大快。校汎論。
  念八日 撤蓐。校汎論。
  念九日 校汎論。
  三拾日 校汎論。到夜半。
 三十一日 全校了汎論。   ※汎論 『国憲汎論』
      明治九年五月起稿以来十一年三月、於茲、
      嗚呼余亦熱心於国憲之制定者乎。

九月一日  此日手(てずから)製核肴(かくこう)、
      置酒賀国憲汎論之全成。
  二日  咽喉掀衝(きんしょう)覚痛。延医療之。
      筆国憲汎論中所引用諸家之略伝。
      蓋欲附刊於汎論而便読者也。
  三日  汎論之印刷逐次告成。            p545
      此日咏和歌代汎論下巻之題言。
      曰、
      逢ひ見むんと契ることばのなかりせば
            かばかりふかくものは思はじ

      余素不習咏歌。故到前田香雪正之。
      香雪為余刪正如此。
  四日  咽喉未全癒。然又不加其患。
      此日出汎論第三稿。
      ―略―

昭和五十七年三月三十一日発行
小野梓全集 第五巻
編集者   早稲田大学大学史編集所
発行者   早稲田大学
      東京都新宿区西早稲田1-6-1
発行所   早稲田大学出版部
      東京都新宿区戸塚町1-103
印刷製本  早稲田大学印刷所


※  『小野梓全集』別冊
    人名索引〔日本人〕 p3-17

昭和五十七年三月三十一日発行
小野梓全集 別冊
編集者   早稲田大学大学史編集所
発行者   早稲田大学
      東京都新宿区西早稲田1-6-1
発行所   早稲田大学出版部
      東京都新宿区戸塚町1-103
印刷製本  早稲田大学印刷所


[國憲汎論]上:中:下《東洋 小野梓》著

【国憲汎論. 上】
[國憲汎論]上
東洋 小野梓 著
明治十五年十二月 新鐫
明治十六年七月再板
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990835/1

【国憲汎論. 中】
[國憲汎論]中
東洋 小野梓 著
明治十六年四月 新鐫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990836/1

【国憲汎論. 下】
[國憲汎論]下
東洋 小野梓 著
明治十八年九月 新鐫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990837/1

明治十五年七月三十一日版權免許
明治十八年九月    出版
著述兼出版人 小野 梓
       東京神田區錦町三丁目五番地
發行書肆   東洋館書店
       東京神田區小川町拾番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990837/202

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[小野梓の「國憲汎論」]明治16年1月
【新聞集成明治編年史. 第五卷】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2328719.html

[小野梓の「國憲汎論」]明治16年1月【新聞集成明治編年史. 第五卷】

[小野梓の「國憲汎論」]明治16年1月
【新聞集成明治編年史. 第五卷】

【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/316

明治十六年一月(皇紀二五四三 西暦一八八三)

[小野梓の「國憲汎論」] p142/319

乙夜の覽に供す

〔一・二五、郵便報知〕      ※明治16年(1883)1月25日

小野梓君が自著の
「國憲汎論」上巻を
宮内省に獻じ
聖上乙夜の叡覽に供せられし處、
宮内卿は之を取次がれ
此頃その旨を同君に達せられし由、

同君の光榮は勿論、

今上にも同君が苦心を憐み給ひ
他日憲法を宸裁遊ばさるるときの御用にも相立つならん。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/142

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《図録 小野梓》
『大学創立一二五周年記念』
『生誕一五○周年記念』
『立憲政治の先駆・大学創立の功労者』

小野梓 年譜             p102
一八八三(明治一六年)        p107
一月三~四日 「上 国憲汎論 于 天皇 表」を執筆。
   七日   天皇に『国憲汎論』を上呈するため宮内省を訪問。
  一七日  『国憲汎論』に上表を付することを宮内省が拒否したため、
        上表を断念
  二二日   宮内卿、『国憲汎論』の受領を告げる。
       ※明治16年(1883)1月22日

二〇○二年二月二八日印刷
二〇○二年三月一〇日発行
編集 早稲田大学
発行 早稲田大学

[東京専門学校 明治18年7月卒業 邦語法律科:42名]

[東京専門学校 明治18年7月 卒業 邦語法律科:42名]

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十八年七月(皇紀二五四五 西暦一八八五)
[東京專門學校 卒業證書 授與式] p90/311
〔七・二八、東京日日〕
一昨廿六日午後一時より、
早稻田なる東京專門學校にて卒業證書授與式を行へり
―略―
當日卒業證書を得たるは
政治學科二十四人、
法律學科四十二人なり、
同校設立日尚ほ淺きに、
かくも多くの卒業生を出すを得たるは
實に同校敎員諸子の盡力なりと云ふべし
校長の演述は左の如し。
〔以下略〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/90

【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】

得業生之部 邦語法律科 p51/189
明治十八年得業     p51-52/189

01 上野喜永次   新潟 新潟縣新發田町本村
            新發田新聞主筆
02 昆田文二郎   新潟 住所前出
           (評議員之部:麹町區飯田町五、一三 p6/189)
            本大學評議員
            古河合名會社理事、
            辨護士
03 上村要藏   新潟 ×
04 川崎經造   茨城 ×
05 黑川九馬   長野 住所前出
           (評議員之部:赤坂區靑山南町七、一〇 p6/189)
            本大學評議員
06 多羅尾浩三郎 三重 廣島縣三原敎員養成所
            同所長
07 中山九萬   長野 ×
08 漆畑元吉   静岡 静岡市新通三丁目
            判事
09 森田卓爾   廣島 廣島市小町一七
            辨護士
10 池 久吉   鳥取 ×
11 森谷三雄   三重 ×
12 賀來昌之   大分 ×
13 水谷愛次郎  愛知 ×
14 平野 高   千葉 麻布區三河臺町一四
            村上株式仲買 店員
15 刀根勘三   山口 山口縣美禰郡共和村
16 高山圭三   福岡 住所前出
           (評議員之部:大阪市南區北桃谷町一二 p6/189)
            本大學評議員、
            増田ビルブローカー銀行 專務取締役
            關西信託會社 專務取締役
17 塙 淳助   秋田 秋田縣能代上町
18 靑木濱之助  長野 茨城縣行方郡香澄村牛堀
            茨城縣蠶業取締所 香澄支所主事
19 太神壽吉   大分 本所區向島小梅町二二〇
20 横田鍬太郎  三重 ×
21 進 榮之助  福岡 福岡縣京都郡矢山村
22 小林定脩   秋田 秋田縣北秋田郡役所
            同郡長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/51

23 瀨端善一郎  茨城 麹町區上六番三二
24 原 發太郎  廣島 廣島市上流川町八九次一
            山中高等女學校 幹事
25 渡邊雅之助  東京 豐多摩郡淀橋町角筈三三六
26 小泉淸志   巖手 樺太豐原三條南五、一
27 小林豐太郎  富山 京橋區南槇町一
            本會幹事
            辨護士
28 高松喜六   東京 ×
29 鎗田鷹助   埼玉 ×
30 繁野珠城   新潟 芝區愛宕町一、二
31 園部喜太郎  石川 ×
32 大和田三郎右衞門  茨城 ×
33 岡崎賢次   高知 高知市帯屋町四八
            土佐銀行 專務取締役
            大東漁業會社 取締役
34 早川早次   長野 ×
35 江崎喜三郎  長野 ×
36 西澤才次郎  長野 ×
37 樋口春吉   新潟 ×
38 小川泰明   徳島 徳島縣富田浦町
39 上島長久   奈良 住所前出
           (評議員之部:荏原郡入新井村一四六八 p6/189)
            本大學評議員
            報知新聞 主筆
40 笹尾新吾   三重 津市丸ノ内
            伊勢新聞 主筆
41 森 斌    三重 津市綿内町
42 久保田熙納  石川 金澤市備中町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/52

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《山田英太郎》[東京専門学校 明治18年7月 邦語政治科 卒業]

《山田英太郎》[東京専門学校 明治18年7月 邦語政治科 卒業]

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十八年七月(皇紀二五四五 西暦一八八五)
[東京專門學校 卒業證書 授與式] p90/311
〔七・二八、東京日日〕
一昨廿六日午後一時より、
早稻田なる東京專門學校にて卒業證書授與式を行へり
〔以下略〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/90

【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
得業生之部 邦語政治科 p10/189
明治十八年得業     p10/189  ※25名
04 山田英太郎 愛知  住所前出
           (評議員之部:芝區白金臺町二、五四 p6/189)
            本大學評議員、
            成田鐡道會社社長
            日淸生命保險會社取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/10

《山田英太郎》
【日本全国諸会社役員録. 明治33年】
日本鐡道株式會社   p84-85/804
庶務課長 山田英太郎 p85/804
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780115/85

【日本全国諸会社役員録. 明治34年】
日本鐡道株式會社   p99/903
庶務課長 山田英太郎 p99/903
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780116/99

【日本全国諸会社役員録. 明治40年】
成田鐡道株式會社  p482/1053
相談役 山田英太郎 p482/1053
    東京、麹町、中六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780119/482

【日本全国諸会社役員録. 明治41年】
成田鐡道株式會社  p483/1053
監査役 山田英太郎 p483/1053
    東京、麹町、中六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780120/483

【日本全国諸会社役員録. 明治42年】
成田鐡道株式會社  p486/1092
監査役 山田英太郎 p486/1092
    東京、麹町、中六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780121/486

【日本全国諸会社役員録. 明治43年】
成田鐡道株式會社  p492/1125
監査役 山田英太郎 p492/1125
    東京、麹町、中六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780122/492

【日本全国諸会社役員録. 明治44年】
成田鐡道株式會社  p517/1198
監査役 山田英太郎 p517/1198
    東京、麹町、中六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780123/517

【現代人名辞典】明治45年6月
《山田英太郎君》 p633/1027
君は愛知縣士族田中辰氏の長男にして、
文久二年十一月二十七日を以て生る。
夙に愛知師範學校
東京専門學校を卒業し、
操觚に從事す、
後愛知縣會議員
真宗大谷派學校教頭たりしことあり、
更に企業界に奔走し、
鐡道事業に盡瘁す、
方今
日清生命保険會社、
成田鐡道會社各重役
岩倉鐡道學校理事を兼ね、
夫人をれう子と呼ひ、
六男四女あり
(麹町區中六番町五一 電話 番町 一六五四)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/633

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[岩倉高等学校]
岩倉高等学校沿革
本校のあゆみ
昭和21年6月6日
学園興隆の父、校長 山田英太郎先生(金東と号す)逝去。
―略―
http://www.tky-iwakura-h.ed.jp/introduction/history.html

[東京專門學校 卒業證書授與式:明治18年7月]【新聞集成明治編年史. 第六卷】

[東京專門學校 卒業證書授與式:明治18年7月]
【新聞集成明治編年史. 第六卷】

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十八年七月(皇紀二五四五 西暦一八八五)
[東京專門學校 卒業證書 授與式] p90/311
〔七・二八、東京日日〕
一昨廿六日午後一時より、
早稻田なる東京專門學校にて卒業證書授與式を行へり
學士紳士多く招に應じて臨場あり
校長大隈英麿君は
一々卒業生徒をよび出して卒業證書を授け、
了りて祝詞を朗讀あり、

次に得業生總代答辭を述べ、
次に督監天野爲之氏演説あり、
次に議員島田三郎氏演説を爲し、

中村正直先生は祝文を朗讀し、
福沢諭吉先生は演説をなせり、
孰れも明瞭にして煩ならざりしかば
廰衆の喝采も一入なりし、

右にて式全く了りければ、

大隈重信君、同英麿君、
東道の主人となりて
來賓一同を其別荘に饗應せられ、
賓主共に歡を盡くして
退散せしは午後六時過なりき、

當日卒業證書を得たるは
政治學科二十四人、    ※①
法律學科四十二人なり、  ※②

同校設立日尚ほ淺きに、
かくも多くの卒業生を出すを得たるは
實に同校敎員諸子の盡力なりと云ふべし
校長の演述は左の如し。
〔以下略〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/90

※① 政治學科二十四人 (下記によれば、25人)

【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
得業生之部 邦語政治科 p10/189
明治十八年得業     p10/189  ※25名
01 鈴木熊太郎 愛知  赤坂區檜町二〇
02 田中松三郎 大阪  堺市熊野町東四、一八
03 岡田庄四郎 長野  ×
04 山田英太郎 愛知  住所前出
           (評議員之部:芝區白金臺町二、五四p6/189)
            本大學評議員、
            成田鐡道會社社長
            日淸生命保險會社取締役
05 森田勇次郎 熊本  牛込區市ヶ谷田町二、二一
06 大澤邦太郎 新潟  新潟縣中蒲原郡山通町
            園藝業
07 廣井 一  新潟  長岡市殿町
            長岡商業會議所特別議員、
            長岡銀行常務取締役、
            北越新報社副社長
08 茨木宗之  廣島  ×
09 秋廣淡一郎 廣島  ×
10 川上淳一郎 新潟  新潟縣古志郡東谷村
            長岡銀行取締役
            栃尾銀行取締役
            ※参考:北越新報
11 堀内七十郎 長野  本郷區駒込林町二二
12 宮原友記  鹿児島 鹿児島縣川邊郡覺村
13 降旗元太郎 長野  住所前出
           (評議員之部:松本市信濃日報社 p6/189)
            本大學評議員
            信濃日報社長
            衆議院議員
14 稗田三平  千葉  北豐島郡巣鴨町巣鴨一七九三
            稗田農園主
15 渡邊淸太郎 岡山  岡山縣後月郡井原村
16 小川覺太郎 岐阜  ×
17 齋藤忠太郎 埼玉  横濱市雲井町一、五
18 印牧順作  石川  麻布區市兵衛町二、七一
            日本中學校 及 正則中學校 講師
19 小川義春  東京  四谷區北伊賀町二
20 川本三郎  島根  牛込區天神町六四
            日淸印刷會社員
21 澤田愛作  長崎  熊本市西唐人町
22 林 昌雄  鹿児島 神戸市多門通四、六八
            會社員
23 本田信敎  新潟  住所前出
           (講師之部:牛込區喜久井町一八 p4/189)
            本大學講師
            早稻田學報編輯主任
24 石丸榮之進 愛媛  ×
25 北村住吉  長崎  芝區白金臺町
            東京割烹講習會會長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/10
得業生之部 邦語法律科 p51/189
明治十八年得業     p51-52/189
―別稿―   ※②法律學科四十二人なり、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/51

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《図録 小野梓》
『大学創立一二五周年記念』
『生誕一五○周年記念』
『立憲政治の先駆・大学創立の功労者』

 小野梓 年譜             p102
 一八八五(明治一八年)七月二日    ※1885年7月2日(明治18年)
 <ふたたび、喀血し、八月下旬まで療養> ⑤541~544 p108

 二〇○二年二月二八日印刷
 二〇○二年三月一〇日発行
 編集 早稲田大学
 発行 早稲田大学

※ ⑤541~544 『小野梓全集』第五巻 p541-544

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