2012年12月

[東京専門学校:早稲田大学]【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年

[東京専門学校:早稲田大学]
【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/316
明治十五年一月(皇紀二五四二 西暦一八八二)
大隈重信 一私學校を創設か] p30/319
〔一・四、東京日日〕
私學校
前參議重信の卿は、
勇退の後ち洋行せらるゝなど一時は噂のありしが
去る思召立ちもあらせざりしか、
本年は府下にて最も閑靜の地を卜し
一の私學校を建設し、
大いに後生を敎育せられんとの
お目論見もあらせらるゝやに聞くと、
宜しき思召立にこそ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/30

明治十五年二月(皇紀二五四二 西暦一八八二)
大隈英麿が早稻田の別邸内に私立學校建設] p43/319
〔二・一〇、東京日日〕
大隈英麿君は早稻田の別邸内に私立學校を設け
漢學の大家を聘して生徒を養はるるよしにて、
最はや校舎の建築に取掛られたりとぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/43

明治十五年九月(皇紀二五四二 西暦一八八二)
[東京專門學校:いよいよ開校の運び] p105/319
〔九・二二、郵便報知〕
兼て都鄙の間に評判高かりし
牛込早稻田に設立の東京專門學校は、
追々開校の運びに到り、
來月十五日前後を期して開校の典を行はるゝ由、
同校は政治法律理學の數科を設け、
其速成を旨とし、
傍ら英語學科を置き
有志の人をして英書を自讀するの力を養はしめ、
大に期する所ある由、
其校長は大隈英麿君、
其議員は鳩山和夫小野梓矢野文雄島田三郎
其他幹事は秀島家良
其講師は此度東京大學を卒業したる
法學士砂川雄峻、同岡山兼吉、同山田喜之助
文學士高田早苗、同山田一郎、同天野爲之
理學士田中館愛橘、同石川千代松田原榮
等の諸君が擔當さるゝ由なれば
定めて盛大なる學校と爲るならん、
今や天下の輿論は翕然として
政治法律の學に赴くの隆に當て、
此の諸名士の相依て斯の盛大の學校を起すは、
國家の元氣を養ふ爲め
最も慶賀すべき事どもなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/105

明治十六年七月(皇紀二五四三 西暦一八八三)
[早稻田專門學校増築:試驗成績優等の人々] p193/319
〔七・二一、郵便報知〕
早稻田專門學校
同學校は入學者日々増加し
益々盛大に赴くを以て、
近日學舎をも増築せらるゝよし、
又同校に於て、
夏期の成業試驗に及第せし生徒は凡そ二百名計りにて、
昨日其人々へ成業證書を授けられしが
就中試驗優等に付
褒賞を受けたるは、
千葉縣士族  和智和太郎(政治三年生)
長野縣士族  小川滋太郎(法律三年生) ※明治17年 邦語法律科 p51/189
                    ※小河滋次郎 長野
新潟縣平民  本田信敎 (政治二年生) ※明治18年 邦語政治科 p10/189
鹿児島縣士族 長八次郎 (法律二年生)
山形縣士族  板屋碓太郎(英學二級生) ※明治17年 邦語法律科 p51/189
                    ※板屋確太郎 山形
大分縣平民  賀來佐太郎(英學三級生) ※明治18年 邦語法律科 p51/189
                    ※賀來昌之  大分
熊本縣平民  森田勇次郎(英學四級生) ※明治18年 邦語政治科 p51/189
新潟縣平民  上村要藏 (英學五級生) ※明治18年 邦語法律科 p51/189
新潟縣平民  本田信敎 (政治二年生・英學六級生) ※上記
の諸子にて、
其賞品は總て洋籍なりといふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/193

※ 【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
   得業生之部 p10/189
   邦語政治科 p10/189
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/10
   邦語法律科 p51/189
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/51

明治十七年六月(皇紀二五四四 西暦一八八四)
[東京專門學校で:同攻會=發會式] p270/319
早稻田派の明星集る
〔六・二四、郵便報知〕
一昨二十二日午後一時より
東京專門學校の講義室に於て、
今度創立されたる同攻會の發會式が擧行さる、
當日の來賓は大隈重信、野村文夫小野梓牟田口元學
犬養毅肥塚龍田口卯吉、小鷹狩元凱、
前田健二郎、小川爲次郎、永富謙八、岡山定恒
等の諸子にて、
第一に同會創立委員惣代として
黑川實司氏起て本會創立の趣旨を告ぐ、
蓋し同會は元と廣く書籍を集攬して
講學の便利を計るに在りし處、
計畫中規模漸く進みて學術攻究の會合と爲し、
演説討論文章を盛んにして
追々は雜誌をも發兌する見込なりといふ、
右終りて同校の講師
山田喜之輔氏(東洋族制論)
同山田一郎氏(學門の獨立を計るは同攻會員の義務)
の演説及び
田口卯吉氏の祝詞ありて饗宴を開かる、
席上に於て岡山、犬養、肥塚、田口等の諸子演説あり、
頗る盛況なりしと云ふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/270

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[淺草公園 區劃改正で:住民四百戸立退]【新聞集成明治編年史. 第五卷】

[淺草公園 區劃改正で:住民四百戸立退]
【新聞集成明治編年史. 第五卷】

【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/316
明治十七年三月(皇紀二五四四 西暦一八八四)
[淺草公園 區劃改正で:住民四百戸立退] p244/319
〔三・三、郵便報知〕
淺草公園
同公園改正の事は前號に記せしが
其改正新道開設の測量は昨今完了せしを以て、
其の道敷に係る居民
凡そ四百餘戸は第六區内
又は其他へ移轉することになりたり、
從來同公園内に寫眞屋三十二軒ありしが、
其うち廿軒は他へ移轉する筈にて
觀音堂の周圍
凡そ五千坪程の所は空地とし、
其内に在る堂祠類は附屬の建物だけを
取拂ふて其儘に保存し、
石碑等の道敷に係らぬ分も
其儘に差置く筈なりよいふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/244

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[淺草觀音堂修繕に屋根の漆喰寄附:左官屋達聯合で]【新聞集成明治編年史.第五卷】

[淺草觀音堂修繕に屋根の漆喰寄附:左官屋達聯合で]
【新聞集成明治編年史. 第五卷】

【新聞集成明治編年史. 第五卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/316
明治十五年十月(皇紀二五四二 西暦一八八二)
[淺草觀音堂修繕に屋根の漆喰寄附:左官屋達聯合で] p113/319
〔一〇・二八、読賣〕
今度淺草觀音堂の修繕に付き、
東京中の左官が屋根の漆喰を寄附するとて、
日本橋槫正町の左官
何某ほか數名が世話人となり、
同職三百人程が揃の手拭半纏にて淺草へ出向き、
近日仕事に取掛るといふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/113

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[淺草五重の塔 修繕]【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

[淺草五重の塔 修繕]【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十九年四月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[淺草五重の塔 修繕] p160/311
〔四・七、東京横濱毎日〕
淺草五重の塔は
今より二百八十餘年以前に創設したるものにて、
是迄充分の修繕をも加へざるより、
今回北豐島郡蓮沼村の伊藤某外三名の溌起にて、
觀世音の世話
向島隅田村の龜岡甚造、
本所中ノ鄕竹町中川又兵衞、
本町一丁目水島三右衞門の三名が補助となり、
既に五六日前より足代を掛けたるが、
右修覆費は三千圓餘の見込にて、
今年十二月迄に落成の見積りなりといふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/160

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[淺草開園式]《五百羅漢》【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

[淺草開園式]《五百羅漢》【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十九年五月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[淺草開園式] p170/311
〔五・二四、時事〕

淺草の開園式
去る廿一日同開園式の二日目は雨天に付き、
一昨廿二日順延となり、
同日は曇天なりしも
午時頃より晴模様となりしかば、
八方より鐡道馬車に圓太郎、
人力車に川蒸汽と思ひ想ひに出掛たる人衆は初日に劣らず、

假設の雷門より二王門迄は人波を打て、
宙を行(ゆく)かと思はるゝ程なりし、
偖(※さて)吉原藝者の木やり手古舞、
傳法院庭内の藝者茶番、
其他女輕業、
屋臺の馬鹿囃、
花屋敷、
五百羅漢》抔(※など)

至る所に老若男女の充滿し、
各所の露店も之に準じて商ひ多かりしも、
初日の溫熱に引かへ袷羽織に綿入といふ
寒合(かんあひ)まりしかば、
氷店は大にあてはづれとなり、
此の景氣中に不平をつぶやき居りしは
天を怨むるの外なく、

夜に入りては淺草田圃の溫泉場より、
電氣燈を雷門に移せしかば、
煉瓦店の軒提灯は明りをうばわれ、
宛ながら沖中の薦舟(ござぶね)が
千石船に帆風を取られたる有樣なりしと。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/170

明治十九年六月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[淺草公園 開園祝の景氣] p173/311
〔六・九、東京日日〕

淺草公園開園祝に付、
客月廿日より三日間の各營業高を
此程其筋に於て取調られしに、
花屋敷の縱覽人は二萬七千人、

羅漢堂が同四千八百九十四人
水族館にては五千有餘人、

北村(料理店)賣揚高四百四十圓、
一直(料理店)四百四十五圓、
萬梅同じく三百五十九圓六十七錢、
田川(料理店)三百三圓餘、
岡田(惣菜料理)五百圓
〔中略〕
敎育孕人形の縱覽人は六千二百人なりと云ふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/173

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

 『見世物興行年表』
2011年05月27日
明治19年(1886年)三
―略―
○四月十四日より、東京浅草公園内にて、
 陶器製の《五百羅漢)の見世物。
(「郵便報知新聞」4・15)
 「…此《五百羅漢》製造は
  今戸なる小野義真氏の創意に出でゝ、
  去る十六日八月中芝増上寺の什物なる
 《五百羅漢》の画像を借受けて、
  其真を写し取り、尾州及び伊万里等より土を取寄せ、
  金張の名工加藤太衛なる者を雇ひ、
  向島の八洲園に於て之を製造せしめ、
  其粉色の如きは丸谷より職工を雇ふて装飾せしめ、
  三年の久しきを経て漸く落成するに至れり。
  像の高さは凡そ二尺より三尺までにて、
  其顔容衣紋等皆古画に則とりしものなれば、精妙いふばかりなし。
  聞く、一体の費用、平均十円なりといふ」
 〈編者註〉煉瓦を以て新築せる堂に安置とあるから、
  立派な建物であったのだろう。
  ただ人気は長続きしなかったらしい。
―略―
http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51844978.html

『見世物興行年表』
2011年07月22日
明治25年(1892年)二
○三月、東京浅草興行もの案内。(「東京朝日新聞」3・31)
【五区】書画骨董美術展覧会・
    陶製《五百羅漢》・
    花屋敷(蓄音器に虎)・
    美術パノラマ。
【六区】凌雲閣(自動人形、美人歴史肖像画、東京百美人写真)・
    天狗の頭骨(名古屋本願寺の掛所の庭より掘出したるもの)・
    無名魚(銚子の浜でとれたもの)・四才童子(日高寛一)・
    娘の玉乗・変化奇術・印度釈尊霊跡パノラマ・剛力小僧・
    松本喜三郎作活人形(近日開場)、
    大軽業・支那人日本人合併軽業・女力持・撃剣会・
    日本パノラマ館・西洋奇術
―略―
http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51914800.html

『見世物興行年表』
2011年09月09日
明治32年(1899年)六
―略―
○十月十一日、東京浅草公園内に水族館が開館。館主太田実。
(「東京朝日新聞」10・7/「読売新聞」10・12)
 「浅草公園の水族館 予て記載せし事ある浅草公園の水族館は、
  旧《五百羅漢》跡にて第二共栄館と云へる勧工場なりしを、
  曩に太田實氏が譲り受け、
  金三万円の株式会社となして水族館を新設せしなるが、
  今回落成せしを以て、明八日より開会するといふ。
―略―
http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51942236.html

[東京都公文書館]
<東京市史稿 遊園篇第5 目次>
附記 浅草公園 陶製《五百羅漢》陳列 遊園5-1160
1885(明治18)年12月18日
浅草公園返地及借地
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0601yuen05.htm


小野義真:[浅草公園]陶製《五百羅漢》陳列
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176427.html

[吉原藝者 木遣の稽古:淺草公園 開園式の爲]【新聞集成明治編年史. 第六卷】

[吉原藝者 木遣の稽古:淺草公園 開園式の爲]
【新聞集成明治編年史. 第六卷】

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十九年五月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[吉原藝者 木遣の稽古:淺草公園 開園式の爲] p167/311
〔五・五、今日新聞〕
淺草公園地の開園式に雇はれし
吉原の手固舞藝者廿名は明後七日より
仲の町茶屋大島屋にて
獅子の木遣の稽古に掛ると。
又公園地の踊舞臺の地割も極まりて
それぞれに準備中なりと。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/167

明治十九年五月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[淺草公園] p168/311
〔五・八、東京日日〕
淺草公園開園式は、
來る十五日より三日間の筈なりしが、
準備の都合にて多分
二十二日より三日間に延引せらるべしとの事。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/168

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[淺草公園 花屋敷]【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

[淺草公園 花屋敷]【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第六卷】昭和15年10月8日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/308
明治十九年三月(皇紀二五四六 西暦一八八六)
[淺草公園 花屋敷] p155/311
山を築き池を鑿ちて
面目一新の一周年

〔三・一七、朝野〕
淺草公園花屋敷の園主
山本、間野の兩氏が一昨年同園を譲受けし時、
同公園の改正に際せしかば、
兩氏は大に其の美擧を賛成し、
舊植六が管する所の花園の面目を改良し
公園の美觀を添んとて、
爾来巨額の金を抛ち、
山を築き池を鑿ちて天然の風景を補ひ、
處々に亭舎を設け、
縦横に徑路を通じて遊歩休憩の便に供し、
珍奇の花卉禽獸を蒐集配置し以て
遊覧の興を多からしめしが、

來る二十日は同所改正改園の一周年に相當するを以て、
更に庭園を修築し或は珍奇の盆栽を增置し、
同日より三日間の祝祭を執行し、
新舊府知事、警視總監、各國公使、淺草區長、府會常置委員を始め ※
紳士等數十名を招待し、
且つ其佳辰を祝する爲め
遊覽料を平日の半額に減じて客を延き、
餘興として玩弄物の輕氣球數百個を放ち、
丘上の座敷にて淸樂を合奏し、
煎茶を饗し、

又園の入口の門上に、
勝海舟先生が「花鳥得時」の四大字を揮毫されたる
白縮緬張靑竹綠の大額(縱四尺餘横一丈二尺)を掲ぐるなど、
目下頻りに準備中の由なるが
當日は定めて賑ふ事なるべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/155

※新舊府知事、警視總監、各國公使、淺草區長、府會常置委員

※舊府知事 渡邊洪基
淺草區長 町田今亮

【改正官員録. 明治19年下3月】
東京府 武藏國豐島郡幸橋内 p1/91
知事  渡邊洪基 東京
    從四位 勳三等
    芝南佐久間町貮丁目五番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779362/1
淺草區長 正七位 町田今亮 p4/91
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779362/4

※新府知事 高崎五六
※淺草區長 町田今亮

【改正官員録. 明治19年下4月】
東京府 武藏國豐島郡幸橋内 p1/93
知事  高崎五六 東京
    從四位 勳三等
    麻布一本松町廿番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779364/1
淺草區長 正七位 町田今亮 p4/93
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779364/4

※警視総監 三島通庸

【改正官員録. 明治19年上3月】
警視廰 八代州町 p257/277
警視総監 三島通庸 東京
     正五位 勳三等
     三田四國町七番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779361/257

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[Wikipedia]
浅草花やしき(あさくさはなやしき)は、
東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地。
―略―
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により
牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。
当時の敷地面積は約80000m2だった。
江戸期は茶人、俳人らの集会の場や
大奥の女中らの憩いの場として利用され、
ブランコが唯一の遊具だった。
明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、
花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。
しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に
木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)と
その長男・松之助が経営を引き継ぐ。
翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E8%8A%B1%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%8D

[紅葉館の善美:杯泥棒頻々]【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年

[紅葉館の善美:杯泥棒頻々]
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年五月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[紅葉館の善美:杯泥棒頻々] p222/292
〔五・四、東京横濱毎日〕
芝公園地内の紅葉館は、
朝野の紳士が淸閑の日相會して宴席を開き、
互に歡娯を盡さんとて設けられたる所なれば、
其結構の壯麗なる壯飾の燦爛たる
實に目を驚す計りにて、
殊に杯盤膳具の如き最も善美を盡くし、
何れも髙價の品なるが、
開宴の際盃の紛失すること數々なるにより、
同館にても深く注意を加へ
種々手を盡くして捜索さるゝとのことなれど、
何者の所爲なるか今に判然せざる由、
尤も近頃新橋邊の在る旗亭にて、
同館の盃を見受けたるものありとの?なるが、
這は賓客が醉後の戯に持去りて
此旗亭に與へたるならん、
何せよ同館にては餘程困り居らるゝよし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/222

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[むかし、むかし近隣]
11. 芝・紅葉館(芝)
―略―
上流の者でもめったに紅葉館には入れなかったので、
たまにビジタ-として訪れる者が
紅葉館の備品を失敬する事が多かったという。
特に杯は人気で、酔った勢いで持ち出した杯を
2次会の新橋あたりの料亭において帰る者が多く、
紅葉館もあまりの紛失ぶりに苦慮したらしいが、
結局他の高級料亭に置いて行かれた杯も
紅葉館の名をさらに高める効果をもたらしたという。
―略―
http://deepazabu.com/m1/mukasi/kinrin.html

[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]

[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年四月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[名優 團菊も畢竟 河原乞食:紅葉館員に加入を拒絶せらる]p214/292
〔四・三、中立政党政談〕
芝高等館の館員たる人々は一ケ年金十圓を出す代りに、
いつ何時遊びに來るも妨げなく、
又館員の外は猥りに來遊するを許さずとの定規あるは
世の人も略知るところにて、
其館員は皇族大臣參議
その他貴顯紳士等なりとかや、
然るに頃日
市川團十郎、尾上菊五郎の兩俳優が同館員になり度しとて
謀貴顯に願ひたれば、
貴顯は早そく承知され紹介の書簡に
金廿圓を添えて同館の事務委員へ申込まれしに、
委員はこれを拒みて、
當館中には恐れ多くも親王宮家の方々もましますに、
如何駝開(イカニダヒラ)けの今日なりとて
俳優づれを其中に加へんは憚りあり、
此儀は叶ふまじとて斷りたるよし、
委員の口狀は何さま味ひあるやうに覺ゆと同日新聞に見へしが、
其貴顯とは誰なるや又紳士とは誰なるや、
紳士と俳優とは今日の世の中にては
おなじくたいこもちの類にて、
炭と墨との差ひもなければこそ如斯
誤りをなせしならめと人唱へける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/214

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[新訂 旅と歴史]
まずは「紅葉館」について紐解いてみます。
芝地区の情報誌に詳しく説明されているので、
そちらを引用させてもらいます。
―略―
紅葉館設立にあたって、野辺地尚義を幹事として、
明治13年(1880)「芝公園地内字楓山地所拝借願」を東京府知事に提出し、
翌年「貴顕紳士の集会共遊を旨とし、
   会員300名年会費10円」として開業した
その年早くも洋学者柳河春三の追遠会が
福沢諭吉、新聞記者福地源一郎、農学者津田仙等で催され、
翌年にはE・S・モース(東京大学招聘教授、大森貝塚発見者)が
同僚教授の送別晩餐会に出席している。
明治18年(1885)には当時農商務省の官僚であった
高橋是清の「特許に関する欧米視察」送別会に
西郷従道農商務卿らが出席している。
―略―
ここに50人ほどいた「給仕」とは、
会席で飲食をもてなしたり、
踊りを提供し座に興を添える従業員のことで、
女学校の宿舎よりももっと真面目だといわれていた。
当初は盛岡の人が多かったが後に京都の人が多くなった。
また、紅葉館は外国人の間ではメープル・クラブの名で知られ、
帝国ホテルも東京會舘も洋食だったが、
ここは関西風料理で日本情緒ある料亭として人気があった。
―略―
http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-334.html

[むかし、むかし近隣]
11. 芝・紅葉館(芝)
―略―
開業当初、芝・紅葉館は
300名限定で会費300円の会員制で完全予約制であり、
ほんの一握りの上流階級に属する者しか会員の資格を認められず、
有名人でもなかなか入れなかったという。
そして入り口には「雑輩入るべからず」と書かれた看板があり、
また門には制服姿の守衛が警備して入館者を厳重に管理した。
―略―
http://deepazabu.com/m1/mukasi/kinrin.html

[市川團十郎]

Wikipedia

[市川團十郎 (9代目)]
九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎、
天保9年10月13日(1838年11月29日)
- 1903年(明治36年)9月13日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。
俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・
壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、
雅号には夜雨庵(ようあん)。
本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。
五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」を築いた。
写実的な演出や史実に則した時代考証などで
歌舞伎の近代化を図る一方、
伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して
今日にまで伝わる多くの形を決定、
歌舞伎を下世話な町人の娯楽から
日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。
その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。
また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E_(9%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

[尾上菊五郎]

Wikipedia

[尾上菊五郎 (5代目)]
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、
天保15年6月4日(1844年7月18日)
- 1903年(明治36年)2月18日)は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。
本名は寺島 清(てらしま きよし)。
尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。
定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。
俳名に梅幸。
市村羽左衛門としての屋号は菊屋。
定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。
九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、
いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E8%8F%8A%E4%BA%94%E9%83%8E_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

[京都と愛知:陶器輸出に提携]【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年

[京都と愛知:陶器輸出に提携]
【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年

【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年二月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[京都と愛知:陶器輸出に提携] p207/292
〔二・二八、東京日日〕
京都の陶器に美術名譽あるは既に世に知らるゝ所なるが、
京焼は
幹山、       ※⑧幹山
道八、       ※⑩道八
六兵衞、      ※⑨六兵衞
藏六、       ※⑪藏六
龜亭、       ※⑫龜亭
淸風        ※⑬淸風
など其最たる者にて、
粟田焼の
錦光山       ※⑦錦光山
帯山には      ※⑭帯山
泰平寶山あり、   ※⑮泰平寶山
また陶器の講釋師は
丹山などなるが、  ※⑯丹山
中にも
幹山は殊に名ありて ※⑧幹山
此頃宮内省の御用を專と勤むるにぞ、
本人も精に精を加へ骨を折り寝食を忘れ、
別て上等の畫工を選びたるが、
此頃發明せしは墨色の絹紙に施せしが如き
活溌の氣象を失なはざるの一法なり、
さるころ愛知縣の陶器師よりの照會に、
凡そ一府縣下にして盛大を謀るにしかず、
畫は京師の長ずる所なり、
木地はまた我愛知縣の産の名あるに似たり、
さればお互ひに其長ずる所を交換し、
力を得意の道に竭さば善なるものますます
善を加ふるに至るべしとのことなるが、
協議も調ひたれば
幹山傳七は多く同地の陶器地を取よせ、 ※⑧幹山傳七
海外輸出をも盛大にせんとの見積りなりとぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/207

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


※⑦錦光山
[kotobank]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
錦光山(6代) きんこうざん
1823-1884 江戸後期-明治時代の陶工。
文政6年生まれ。
家業の京都粟田焼(あわたやき)窯元をつぎ,
小林の姓を錦光山とあらためる。
青木木米(もくべい)から磁器の製法をまなぶ。
維新のころ9代帯山(たいざん)与兵衛らとともに磁器の輸出をはじめ,
京都の陶磁器輸出の端緒をひらいた。
明治17年1月死去。62歳。名は宗兵衛。
http://kotobank.jp/word/%E9%8C%A6%E5%85%89%E5%B1%B1(6%E4%BB%A3)

※⑧幹山
[kotobank]
朝日日本歴史人物事典の解説
幹山伝七[かんざん・でんしち]
生年: 文政4   (1821)
没年: 明治23.2.28(1890)
幕末明治期の陶工。
尾張(愛知県)瀬戸生まれ。
加藤孝兵衛の3男。
幼名,繁次郎。のち孝兵衛を襲名した。
彦根藩の招きにより,
安政4(1857)~文久2(1862)年湖東焼で作陶を行う。
同年京都東山に移り,
慶応年間(1865~68)清水に丸窯を築き,磁器製造を始める。
文久3年,幹山松雲亭と号し,
明治に入り,幹山伝七を名乗った。
明治5(1872)年京都府から「職業出精ノ者」として表彰,
同8年,京都府勧業場御用掛に任命される。
国内の博覧会をはじめ,
パリ,シドニー,アムステルダムの万国博覧会でも幾多の賞を受ける。
明治3年ごろから指導を受けたワグナーの影響により,
西洋絵具の試用,石炭窯による磁器焼成など
京焼に新しい動きをもたらした。
(伊藤嘉章)
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B9%E5%B1%B1%E4%BC%9D%E4%B8%83

※⑨六兵衞
[Wikipedia]
清水 六兵衛(きよみず ろくべえ)は、
江戸時代中期以来の清水焼陶工の名跡。
《3代 [編集]》
(文政5年(1822年) - 明治16年(1883年)6月4日)
2代の次男。1853年(嘉永6年)、京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成する。
号は祥雲。
1868年頃、古藤六兵衛を清水(しみず)六兵衛に改める。
海外にも積極的に出品し賞を受賞。
《4代 [編集]》
(嘉永元年(1848年) - 大正9年(1920年)11月)
3代の長男。のち清水六居。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。
号は祥鱗。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AD%E5%85%B5%E8%A1%9B

※⑩道八
[Wikipedia]
高橋 道八(たかはし どうはち)は
京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。
江戸時代後期より作陶に携わり、
特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。
―略―
《四代 道八》
(弘化2年(1845年)5月 - 明治30年(1897年)7月26日)
三代の息子。名「光頼」号「華中亭」。
明治7年(1874年)襲名。
京都府勧業場の御用係として活躍。
青花磁・彫刻・白磁を得意とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%81%93%E5%85%AB

※⑪藏六
[kotobank]
真清水蔵六(2代)[ましみず-ぞうろく]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
真清水蔵六(2代) ましみず-ぞうろく
1861-1936 明治-昭和時代前期の陶工。
文久元年5月生まれ。初代蔵六の長男。
明治15年2代蔵六を襲名。
日本各地および朝鮮,中国の窯場をめぐって研究。
古陶の鑑識にすぐれた。
昭和11年6月13日死去。76歳。
幼名は寿太郎。号は泥中庵。著作に「陶寄」など。
http://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%94%B5%E5%85%AD(2%E4%BB%A3)

※⑫龜亭
[kotobank]
和気亀亭(4代)[わけ・きてい]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 文政9 (1826)
没年: 明治35 (1902)
明治期京焼を代表する作陶家。
和気家は寛延1(1748)年,
京都五条坂に開窯した亀屋平兵衛の流れを引き,
3代平兵衛(?~1807)より亀亭と号す。
備前(岡山県)出身の和気平吉(?~1822)が2代亀亭となり,
4代亀亭は3代亀亭亀屋平吉郎の長男として京都に生まれる。
幼名は岩松。文久2(1862)年,家督相続し亀屋平吉と称した。
明治初年に和気を本姓とし,和気平吉と改めたが,
亀亭の号とともに和気亀亭と呼ばれる。
明治6(1873)年京都府の勧業場御用掛となり,
その後,国内の博覧会・展覧会を初め,
9年フィラデルフィア万国博覧会,
11年パリ万国博覧会,
12年シドニー万国博覧会などでも受賞を重ねた。
(伊藤嘉章)
http://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E6%B0%97%E4%BA%80%E4%BA%AD(4%E4%BB%A3)

※⑬淸風
[kotobank]
清風与平(3代)[せいふう-よへい]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
清風与平(3代) せいふう-よへい
1851-1914 明治-大正時代の陶芸家。
嘉永(かえい)4年生まれ。
2代清風与平に入門し,その妹と結婚。
のち3代をつぐ。
釉薬(ゆうやく)を工夫し,純日本風陶磁器を制作。
青磁,白磁を得意とした。
明治26年陶芸界最初の帝室技芸員となる。
次男が4代をつぐ。
大正3年7月15日死去。64歳。
播磨(はりま)(兵庫県)出身。
本姓は岡田。
号は清山,晁浦,晟山。
http://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E9%A2%A8%E4%B8%8E%E5%B9%B3(3%E4%BB%A3)

※⑭帯山
[kotobank]
帯山与兵衛(9代)【たいざん・よへえ】
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 安政3 (1856)
没年: 大正11(1922)
明治大正期の京都の陶芸界の指導者。
3代清水九兵衛の次男。
京都生まれ。名は竜三郎。
明治11(1878)年帯山家の養子となり,
9代帯山与兵衛を継ぐ。
帯山家は錦光山家,安田家と共に粟田口焼を代表する窯屋で,
明治維新後いちはやく輸出陶器を心がけていたが,
この推進役として9代与兵衛は大活躍した。
白釉の陶胎をベースにして,伝統の色絵に十錦手を加味し,
さらに金泥をたっぷり使って,
京薩摩と呼ばれる装飾性豊かな器を作り,
各国の万国博覧会で銀牌を受賞した。
明治27年に粟田口窯を廃し,
京都南部の八幡に南山焼を興したといわれる。
(矢部良明)
http://kotobank.jp/word/%E5%B8%AF%E5%B1%B1%E4%B8%8E%E5%85%B5%E8%A1%9B(9%E4%BB%A3)

※⑮泰平寶山
[粟田焼年表]
1857 安政 四 寶山文蔵、青蓮院宮より泰平の号を拝領する
http://www.awatayaki.com/chron-brief.htm

※⑯丹山
[kotobank]
丹山青海[たんざん-せいかい]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
丹山青海 たんざん-せいかい
1813-1886 江戸後期-明治時代の陶工。
文化10年7月19日生まれ。
丹後熊野郡(京都府)の陶工新力山利喜蔵の養子となり,
中林竹洞(ちくとう)らに絵をまなぶ。
嘉永(かえい)4年京都東山粟田口(あわたぐち)に開窯。
6年青蓮院宮のもうけた陶器物産会所より粟田焼の専業を命じられた。
明治19年死去。74歳。
本姓は岸本。著作に「陶器弁解」。
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%B9%E5%B1%B1%E9%9D%92%E6%B5%B7

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