2012年12月

[芝公園紅葉山の景勝地に名流紳士の宴会場を建築]【新聞集成明治編年史. 第四卷】

[芝公園紅葉山の景勝地に名流紳士の宴会場を建築]
【新聞集成明治編年史. 第四卷】

【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十三年六月(皇紀二五四〇 西暦一八八〇)
―(紅葉館誕生前記)―
[芝公園紅葉山の景勝地に名流紳士の宴会場を建築] p139/292
〔六・一二、東京日日〕
芝公園中の金地院の後面にあたる
紅葉山と唱ふる一座の小丘は、
佳樹蓊鬱として自から市廛の塵に遠ざかり、
眺望もまた佳にして、
品海を隔てゝ遠く望む房總の山々は畫蠶のごとく、
富岳眉に接して聳へ、
新鮮の空氣流通して、
東京繁華の中にかかる勝區のあるべしとは覺えざる程なるが、
今ど該地を卜して、
岩崎、小野の諸氏の主唱して、     ※①岩崎彌之助 ※②小野義眞
名流紳士の宴會用のために土木を起し、
大厦巨樓を建築せらるゝよし、
概費一萬圓と云へば結構また想ふべし。

又た神田花園町の俚俗秋葉の原も、
近傍六ケ町の請願にて花木培栽所となし、
小遊園になさんとの趣なるが、
同地へもまた小野氏の發意にて美麗の家屋を建て、 ※②小野義眞
是も同じく集會所となしたき旨を其掛りへ照會ありしと聞く。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/139

[芝の紅葉館:善美を盡して出來あがる]

【新聞集成明治編年史. 第四卷】昭和15年10月20日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/289
明治十四年二月(皇紀二五四一 西暦一八八一)
[芝の紅葉館:善美を盡して出來あがる] p205/292
〔二・一八、東京日日〕
岩崎・熊谷・小野・子安等の諸氏が經營に出でたる
 ※①岩崎彌之助 ※③熊谷 ※②小野義眞 ※④子安峻
芝山内の紅葉館は此ほど落成し
(府廰より賜はりし上野御臨幸の便殿は疾に工を竣り、
 華族方の取立らるゝ能舞臺はなほ普請中なり)
去十五日に開館式を行はれ、
一昨十六日は子安君の催しにて同業諸子を招待あり、
敝社よりも一兩名其席に連なりたり、
扨その結構の樣を見るに木材の美、
作事の巧みなるは云ふも更らなり、
蒸襖(むしぶすま)張附
その他の家具一式とも悉く紅葉の圖
又は模樣を用ひ、
欄間は是眞翁が筆、     ※⑤是眞翁
膳椀類は橋市の工(タクミ)、※⑥橋市
陶器は總て西京なる
錦光山           ※⑦錦光山
幹山            ※⑧幹山
六兵衞の手になれるにて、  ※⑨六兵衞
諸器物にまで斯く意を用ひられしは、
諸氏の配慮もさこそと推量らる。
此日は春雨の時雨めきつゝ降りそゝぎて
餘寒も烈しければ、
來る人の顔も初めはあをかりしが、
座に入るや否や、
山海の珍羞席(シュウセキ)に滿ち、
殊に新柳二橋の明眸皓齒が巧みに盃酌を侑めたれば、
忽ち紅於の色を現はして歡笑かぎりなかりき、
抑も抑も此地は金地院の山つづきにて
庭に楓の大樹數株あり、
品海の烟波は眼の下にありて
房總の翠巒は眸の中に集りたれば、
月の夜ごろは嘸かしなるべく、
秋は殊さら紅葉すればや
照りまさるらんとも
歌ひ出づべくや、
兎にかく斯る勝區の近く府下に出來たるは、
文雅社會の一大幸福とも申すべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920347/205

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

※①岩崎彌之助

小岩井農場の創業者
http://www.koiwai.co.jp/story/index.html

※②小野義眞
小岩井農場の創業者
http://www.koiwai.co.jp/story/index.html
[宿毛市立 宿毛歴史館]
《小野義真》
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p005.html

※③熊谷

※④子安峻
[港区ゆかりの人物データベース]
プロフィール
天保7-明治31(1836-1898)。
実業家。佐久間象山らに蘭学を学び、
明治維新後に外務省翻訳官となりました。
明治3年(1870)元外務一等書記官の本野盛享(もとの・もりみち)、
通訳の柴田昌吉(しばた・まさよし)らと
横浜に日本初の鉛活版印刷会所「日就社」を設立し、英和辞典を出版。
さらに明治7年、この設備をもとに東京・虎ノ門で『読売新聞』を創刊し、
初代社長を務めました。
のちに日銀初代監事にもなっています。
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=42

※⑤是眞翁
[Wikipedia]
柴田 是真(しばた ぜしん)
文化4年2月7日(1807年3月15日)
- 明治24年(1891年)7月13日)は、
江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、絵師・日本画家。
幼名亀太郎、名は順蔵、字は儃然、
号は是真、令哉、対柳居、沈柳亭など。
日本の漆工分野において、
近世から近代への橋渡しする役割を果たした工人である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%98%AF%E7%9C%9F

※⑥橋市

※⑦錦光山
[kotobank]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
錦光山(6代) きんこうざん
1823-1884 江戸後期-明治時代の陶工。
文政6年生まれ。
家業の京都粟田焼(あわたやき)窯元をつぎ,
小林の姓を錦光山とあらためる。
青木木米(もくべい)から磁器の製法をまなぶ。
維新のころ9代帯山(たいざん)与兵衛らとともに磁器の輸出をはじめ,
京都の陶磁器輸出の端緒をひらいた。
明治17年1月死去。62歳。名は宗兵衛。
http://kotobank.jp/word/%E9%8C%A6%E5%85%89%E5%B1%B1(6%E4%BB%A3)

※⑧幹山
[kotobank]
朝日日本歴史人物事典の解説
幹山伝七[かんざん・でんしち]
生年: 文政4   (1821)
没年: 明治23.2.28(1890)
幕末明治期の陶工。
尾張(愛知県)瀬戸生まれ。
加藤孝兵衛の3男。
幼名,繁次郎。のち孝兵衛を襲名した。
彦根藩の招きにより,
安政4(1857)~文久2(1862)年湖東焼で作陶を行う。
同年京都東山に移り,
慶応年間(1865~68)清水に丸窯を築き,磁器製造を始める。
文久3年,幹山松雲亭と号し,
明治に入り,幹山伝七を名乗った。
明治5(1872)年京都府から「職業出精ノ者」として表彰,
同8年,京都府勧業場御用掛に任命される。
国内の博覧会をはじめ,
パリ,シドニー,アムステルダムの万国博覧会でも幾多の賞を受ける。
明治3年ごろから指導を受けたワグナーの影響により,
西洋絵具の試用,石炭窯による磁器焼成など京焼に新しい動きをもたらした。
(伊藤嘉章)
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B9%E5%B1%B1%E4%BC%9D%E4%B8%83

※⑨六兵衞
[Wikipedia]
清水 六兵衛(きよみず ろくべえ)は、江戸時代中期以来の清水焼陶工の名跡。
《3代 [編集]》
(文政5年(1822年) - 明治16年(1883年)6月4日)
2代の次男。1853年(嘉永6年)、京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成する。
号は祥雲。
1868年頃、古藤六兵衛を清水(しみず)六兵衛に改める。
海外にも積極的に出品し賞を受賞。
《4代 [編集]》
(嘉永元年(1848年) - 大正9年(1920年)11月)
3代の長男。のち清水六居。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。
号は祥鱗。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AD%E5%85%B5%E8%A1%9B

[留學生病死の入費]《日下部太郎》【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年

[留學生病死の入費]《日下部太郎》
【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年

【新聞集成明治編年史. 第一卷】昭和9年12月2日発行
明治五年三月(皇紀二五三二 西暦一八七二) p251/295
[留學生病死の入費] p251/295
〔三・ 、新聞雑誌三四〕
米國留學生
足羽縣日下郡太郎病死セシ處、  ※日下部太郎:誤記
辨務使幷彼國師友取扱ヲ以テ、  ※辨務使
左表ノ如ク厚キ埋葬ヲ受ケタリ。
是偏ニ皇國ノ餘澤ト米人ノ懇親ニ依ルコトナルベシ。
一 米國紙幣一百四十四ドル五十錢 棺。
一 同一拾〇ドル 葬式ニ付寺入用。
一 同八ドル 同斷に付花入用。
一 一百二十五ドル 墓地買上代。
一 同一ドル 墓地受取書 町役所帳ヘ書込ニ付、世話斷。
一 一百八十〇ドル七十五錢 石碑幷ニ墓地々形等。
一 同三十〇ドル 墓地生植廻リ芝代。
一 同一百〇〇ドル 葬式ニ付 世話ニ成シ旅宿ヘ遣ス。
一 同貮〇〇ドル 墓地生殖 枯ルルニ付 石墻廻シ代
合 九口 米國紙幣七百九十九ドル二十五錢。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/251
新聞集成 明治編年史 全拾五巻 奥附
第一巻 維新大變革期
會員本
昭和九年十一月二十八日印刷
昭和九年十二月二日發行
昭和十一年十月二十五日第二版
編著者    中山泰昌 編纂代表
發行兼印刷者 草村松雄
       東京市赤坂區田町七丁目三番地
印刷所    川口印刷所
       東京市芝區西芝浦三丁目二番地
編纂所    新聞集成 明治編年史編纂會
       東京市赤坂區溜池町一番地
      (三會堂 二階 十一號室)
       電話 赤坂 一九三番
一手發賣元  林泉社
       東京市小石川區音羽町九丁目十八番地
       電話 大塚 (86) 四三九一番
       振替 東京 三七二七番
=第一回配本=
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/292

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[日下部太郎・ウィリアム・E・グリフィス]
くさかべたろう
生没:弘化2年(1845)~明治3年(1870)
弘化2年(1845)、
福井城下の江戸上町(現、福井市宝永4丁目)
150石の藩士の家に生まれた。
慶応3年(1867)23歳のとき、
福井藩第1号の海外留学生となって米国に渡り、
1年間の英語学習の後、
ニューブランズウィック市のラトガース大学に入学した。
勉強熱心な太郎は成績抜群で、多くの人々から賞賛されたが、
学費の不足による苦しい生活と気候風土の違いにより、
卒業を目前にして病に倒れ、26歳の若さで世を去った。
ラトガース大学では、その死を惜しみ、
卒業生名簿に太郎の名を加えるとともに、
首席卒業生だけに贈られる
ファイベーターカッパー協会のゴールドキーを贈り、
その生涯をたたえた。
Copyright (C) 2007 (財)歴史のみえるまちづくり協会. All rights reserved.
http://www.fukui-rekimachi.jp/b_jinbutu/o_kusakabe.html

[日下部太郎の墓を訪ねる]
―略―
ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと
入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳
となっています。 みんな若くして亡くなっています。
―略―
墓には名前が刻まれていますが、
非常に見にくくなっているものもあります。
5つの石柱の前に見えるのもお墓で、
石柱の上部がなくなって土台のみになっています。
土台のみになった墓にまつられた人たちの名前等も書いておきます。
かわさき しんじろう、 Poughkeepsie, NY、 21歳
さかたに たつぞう、NY, NY、26歳
土台には、英語でのみ名前が書かれているので、漢字はわかりません。
―略―
高木三郎と須磨の娘と書いています。
これも最近作られたものでしょうか。
幼くして亡くなった子供のお墓のためか、
他のとは違うお墓になっています。
高木三郎は、明治の初期、ニューヨークの領事をしていた人です。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/8390/hitorigoto/kusakabe2.html

※辨務使
[kotobank]
森有礼[もり・ありのり]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 弘化4.7.13 (1847.8.23)
没年: 明治22.2.12 (1889)
初代文部大臣として日本近代学校制度の骨格を造った代表的行政官。
薩摩(鹿児島)藩士森有恕と妻さとの5男として鹿児島城下に生まれた。
幼名助五郎,のち通称金之丞,さらに有礼と称した。
壮心に富み修養に励む少年であった。
藩校造士館,開成所(洋学校)に学び,
慶応1(1865)年藩からの留学生に選ばれてロンドン大学に学ぶ。
慶應3年渡米して神秘主義的キリスト教徒T.L.ハリスの感化を受けた。
明治1(1868)年帰国。
外国官権判事,議事体裁取調御用などを勤めたが,廃刀案を提起して免官。
明治3年再び召されて少弁務使として米国に赴任。
―略―
http://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC

[三井物産會社]《三井武之助:養之助》《小野梓》【新聞集成明治編年史. 第三卷】

[三井物産會社]
《三井武之助:養之助》
《小野梓》
【新聞集成明治編年史. 第三卷】

【新聞集成明治編年史. 第三卷】昭和15年10月28日限定再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920337/272

明治九年八月(皇紀二五三六 西暦一八七六)
[三井物産會社] p42/275
〔八・一六、郵便報知〕告知。
私共兩人組合ヒ
右の社號を以て商業相創め候に付き
此段廣告仕候。
 但御國内は勿論、
 海外諸國とも
 廣く取引仕候間、
 送り荷或は買品注文其外
 諸事御依頼次第
 御引合可仕候。
 東京第一大區十五小區坂本町四番地
 三井武之助
 三井養之助
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920337/42

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


卒業論文
老舗企業について
―総合商社における三井物産の歴史と今後―
―略―
―三井財閥創業事情―
―略―
三井家の同苗を構成する本・連家十一軒のうち、
小野田、家原、長井の三連家が幕末期以来絶家となっており、
明治初年になってその再興が試みられていた。
すなわち、明治四年(1871)十月二十日に大元方寄合では、
同族の子弟のうち
貞次郎(小石川家高喜次郎)、
武之助(北家高副六男)、
養之助(高喜三男)の三名を相続人として、三連家を再興し、
いずれも、三越姓を名乗らせることを決議した。
しかし、間もなく銀行業習学のため洋行問題が起こり、こ
の三名に三井長四郎(高棟)を加えて四名が渡米することになったが、
官庁への届書には三井姓を用い、
三越への改称は見送られてたということだ。
渡米中客死した貞次郎については、
<引用―三井文庫所蔵史料本六百八十八「大元方御状并無番状」より>
「三越相続被仰付候得共、未タ入家以前二付法事万端於真如堂相営可申」
とされたが、
呉服店の分離以後は絶家となっている
三連家の法要その法要その他遺産の管理等は、
三越呉服店内に設けられた三越元方によって取り扱われた。
-略―
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2153/soturon1.htm

[三井広報委員会]
三井物産の創立
―略―
こうして明治9年、三井物産は正式に設立された。
社主は三井武之助(五丁目初代高尚)、
三井養之助(本村町家初代高明)、
社長の益田は28歳であった。
益田は三井物産の業務を、
依頼を受けて物産を売り捌き、
手数料を取る「コミッション・ビジネス」と表現した。
―略―
http://www.mitsuipr.com/history/meiji/mitsui.html

[小野梓 任官]〔東京曙新聞:明治9年8月〕【新聞集成明治編年史. 第三卷】

[小野梓 任官]〔明治9年8月16日発行:東京曙新聞〕
【新聞集成明治編年史. 第三卷】

【新聞集成明治編年史. 第三卷】昭和15年10月28日限定再版発行
明治九年八月(皇紀二五三六 西暦一八七六)
[小野梓 任官]  p42/275
〔八・一六、東京曙〕※東京曙新聞
八月十五日     ※1876年8月15日(明治9年8月15日)
任 司法少丞    小野 梓
任 陸軍二等藥劑正 松永東海  ※誤記:永松東海(下記に詳細)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920337/42

新聞集成 明治編年史 全拾五巻 奥附
會費(全拾五巻一揃)
金 壹百六拾五圓也
第三巻 西陲擾亂期
特製 會員本
昭和十一年六月二十四日印刷
昭和十一年六月二十八日發行
昭和十五年十月二十八日限定再版發行
編著者    中山泰昌 編纂代表
發行者    草村松雄
       東京市赤坂區田町七丁目三番地
印刷者    秋葉 信
       東京市牛込區榎町七番地
印刷所    大日本印刷株式會社 榎町工場
       東京市牛込區榎町七番地
編纂所    新聞集成 明治編年史編纂會
       東京市赤坂區溜池町一番地(三會堂)
一手發賣元  林泉社
       東京市小石川區音羽町九丁目十八番地
       電話 大塚 (86) 四三九一番
       振替 東京 三七二七六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920337/272

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《図録 小野梓》
『大学創立一二五周年記念』
『生誕一五○周年記念』
『立憲政治の先駆・大学創立の功労者』

第四部 少壮官僚 小野梓    p35
帰国後二年余、在野での活動に専念していた小野梓は、
一八七六年八月、司法省に入り、 ※1876年8月(明治9年8月)
官僚としての道を歩むこととなった。
「羅瑪律要」の纂訳が認められたためという。
時に二四歳。
イギリス帰りの少壮官吏の誕生である。
―略―
少壮官僚としての小野梓の閲歴は、
法制官僚としての三年半と、
会計検査院の検査官としての一年半に大別される。
(大日向 純夫)

小野梓 年譜          p102
一八七六(明治九年)八月一五日 ※1876年8月15日(明治9年8月15日)
司法少丞に任ぜられ、      p104
民法課副長に就任、
一時、民法編纂委員を兼ねる。
この月、『共存雑誌』第一三号を発刊し、
以後、刊行を中断(一八七九年三月まで)
一〇月二〇日、従六位に叙せらる。
暮秋、「国憲論綱」(上下二巻)の執筆を終える。

二〇○二年二月二八日印刷
二〇○二年三月一〇日発行
編集 早稲田大学
発行 早稲田大学

[kotobank]
東京曙新聞[とうきょう あけぼの しんぶん]
世界大百科事典 第2版の解説
明治前期の東京で発行された日刊の政論新聞。
前身は1871年(明治4)創刊の《新聞雑誌》であったが,
75年(明治8)1月に《あけぼの》と改題され,
さらに6月に《東京曙新聞》と再改題された。
西南戦争前後には民権派の有力紙に数えられ,
新聞紙条例による筆禍者第1号は同紙の主筆末広鉄腸であった。
しかし自由民権期に入ると,内紛などによって衰退し,
82年(明治15)2月に《東洋新報》と改題されたが,
同年12月に廃刊した。[山本 武利]

百科事典マイペディアの解説
明治前期の月刊政論新聞。
1871年(明治4)創刊の《新聞雑誌》が
1875年(明治8)1月《あけぼの》と改称され,
同年6月《東京曙新聞》となった。
末広鉄腸や大井憲太郎が在社し,民権派新聞として知られた。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
http://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%9B%99%E6%96%B0%E8%81%9E

[山野千枝子女史]【昭和之日本:御大典記念】 昭和4年

[山野千枝子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[山野千枝子女史] p465/718
明治二十八年三月十一日生
東京市麹町區永樂町 丸ビル一階
電話 丸ノ内 三九五七番
丸ビル化粧料本舗、
米國ネオス會社 東洋總代理店、
美容美髪師

文化の進歩と
婦人美粧の變遷とは、
不即不離の密接なる關係在りて、
街頭に一瞥する婦人の美髪美容に依りても
優に一國の文明を卜知し得べし。
我が帝都のシビック・センターたる丸ノ内ビルに
美容院を經營し優秀なる技術を以て
滿都の婦女子に?々好評を博する山野千枝子女史は、
都下凡百の美容師中
嶄然一頭地を抽く至能至技の人也。
女史は横濱の人にして
神戸市の高等家政女學校を卒業し
大正二年
山野末松氏に嫁し直に良人と共に渡米し
日本美術雑貨商を營む。
旁々紐育市ワナメーカ・ビユテー・スクールに學び
卒業後紐育知名の美容院、ロビンソン・ビユーテー・パーラを初め
ホテル・バンダビルド美容院並に
ジョーンス・ヘヤスペンヤリスト等に勤務して技能を練磨し、
後ち白人と協力してブロードウエの要衝に
スタンリース・ビユーテイシヨツプを經營し、
金髪美人の間に嘖々たる令聞を謳はる。
剰へ希臘人及び西班牙人に就き洋式化粧品の製法、
洋式鬘の製法等を修得し
大正十一年十月歸朝す。
歸來一番、
絶對無害染毛劑ネオスヘヤの輸入、
ネオス會社東洋總代理店等の經營に努め
翌十二月現地に歐風美容院を開設して
東都の斯業に一新紀元を劃すに至る。
大阪及神戸に各々支店或は營業所を併設し
今や全國的に斯業界を風靡せんとしつゝあり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/465
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【神戸高等家政女学校裁縫学習精義. 和服之部】
昭和九年五月
神戸高等家政女學校長 旭 竟恩
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437977/3
昭和九年拾月拾日印刷
昭和九年拾月廿日發行
定價 金 壹圓五拾錢
編輯兼發行人 旭 竟恩
       神戸市林田區片山町一丁目二七五
印刷人    松井梅藏
       神戸市神戸區花隈町三二二
       電話 元町 二〇八一番
印刷所    松井印刷所
       神戸市神戸區花隈町三二二
發行所    神戸高等家政女學校
       神戸市林田區池田上町
       電話 湊川 ⑤ 二六八七番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437977/179

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《神戸市の高等家政女學校を卒業》

[学校法人玉田学園 神戸常盤女子高等学校]
 沿革
1908年(明治41年)校祖玉田貞也 私立家政女学校創立
1915年(大正 4年) 私立神戸高等家政女学校と改称
1921年(大正10年)神戸家政女学校と改称
1929年(昭和 4年) 神戸高等家政女学校と改称 旭竟恩第二代校長就任
―略―
http://www.kobe-tokiwa.ed.jp/2gaiyou/message.html

[小口みち女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[小口みち女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[小口みち女史] p478/718
明治十六年二月八日生
東京市外千駄谷原宿二一四
電話 靑山 五九二九番
小口美容研究所主、
三越美容室主任

時代世粧の變遷は文化水準の向上に比例するは自明の理にして、
就中、震災を一轉期として美髪美容の變化せるは較著たる事實たり。
之れを目して保守論者は輕佻と罵り浮華と深慨すと雖も、
時代の推移は抗すべからざる處と云ふべく
從つて時代美を構成する美髪粉黛の創案
或は洋風化は時勢の趨く處に馴致すべきものたるは
是れ又當然の事たり。

我が小口女史は疾くより斯る時世
粧の變遷に着目し舊習を打破して
新時代の麗人に層一層の美を添加しつゝある
斯界の功勞者也。

兵庫縣加東郡社町の人
舊一柳藩士
寺本武氏の長女に生れ
後ち小口氏に嫁す。
是より先郷里に於て敎職に在ること六年
感ずる處あり
上京して遠藤波津女史に師事し
美髪及美容術の研究に没頭す
時に明治四十一年の交なり。

大正三年
獨立して芝公園十四號地に美容術研究所を創設し旁々
桃谷順天館經營の巴里院に聘せられて
其日本部主任となり
後ち現地に移住して化粧品製造を開始す。
越えて大正十三年十二月
京橋區南傳馬町に小口美容術研究所を經營し
信望益々萬都の婦女子に喧傳せらるゝに至る。

昭和二年四月
三越に美容室の開設せらるゝと同時に招聘せられて
其主任となり現在に至る。

趣味高雅
和歌を好くし專心斯道の向上に努めつゝあり。
倂かも女史の指導に依りて
斯界に覇をなす者
都下に充滿せり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/478
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
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[關口文子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[關口文子女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[關口文子女史] p576/718
明治十五年二月十三日生
東京市京橋區出雲町一三
電話 銀座 四七二七番
美容術師
美容術は時代の生める彩花也。
婦人美の變遷に伴れて粉黛を異にするは自然の數にして、
近來、美容術の洋風化せるは
國民文化の國際化に反映する處と云ふべく、
その技巧の繊細を極め、
時代世粧の粹を發揮して
都下凡百の斯業者に卓然たる異彩を放つものを
關口文子女史となすべし。

女史は東京府の人
關口勝五郎氏の長女として
市外調布町に生れ、
六歳にして同町の永法寺(現在の大正寺)に入つて修養に努む。
十三歳の交
京橋區山城町の粕谷わか女史に師事して
專念斯術を練磨すること三年、
明治三十一年四月一日
京橋區八官町に獨立開業す。
次で同三十三年鑑札制度布かるゝや
第一回の一等鑑札を交附せらる。
是より先、
銀座或は築地の私塾に通學して專ら英語を修得し、
或は又生花術の稽古をなし
關月庵の雅號を授けらる。
同三十六年某氏に嫁し
病夫を助けて激勵し狀師たらしめんと努力せしも、
誠意通ぜず、遂に破鏡の嘆を見る。
茲に於て女史は奮然起つて獨立獨行の決心をなし
專ら美容術を以て終始せんとし、
京橋區南金六町に店舗を構へしが
震災直後三十間堀に移轉し
超へて昭和三年更に現地に移轉し盛大に事業を經營して
遂に今日の信用を博するを得たり。
家庭には嚴父勝五郎氏母堂とめ子健在にして
尚ほ弟妹二子ありて家庭頗る圓滿なり。
趣味は和歌を好くし佳什甚だ多し。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/576
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[佐藤あき女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

[佐藤あき女史]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[佐藤あき女史] p473/718
慶應三年十一月廿六日生
東京市下谷區數寄屋町一三
電話 下谷 一六〇二番
美髪美容師
東都婦人美髪界の元老たり名手たる
佐藤あさ女史が         ※佐藤あき女史
前半生に於ける苦闘史は、
今日成り上り者のハイカラ美容師などの
到底想像だに容さざる處にして
剛毅なる態度と不屈不撓の精神とは、
六尺男子も爲めに三舎を避くる處也。

女史は埼玉縣南埼玉郡川柳村字麥塚の名家
飯高秋次郎の三女に生る。
生家は代々名主を勤めし素封家たりしが、
女史は十九歳の時緣談に傔らずとなし
廿歳の時健氣にも獨立を志し家出して上京、
郷里出入の髪結お春女の妹を頼倚り
その千住の寓居に倚る、

間もなく自ら進んで髪結を志願し
池の端の渡邊つる女の内弟子となる。
勞苦惨澹を重ね、
只管師匠の命に服從すと雖も
師匠は顧客の受けよきを却て疎じ、
三年後には遂に放逐の憂目に遭遇す。

茲に於て女史は奮然と決心し愈々獨立開業せり。
次で郷里の隣村千疋村の人
佐藤宗治氏との緣談纏まれるを以て
茲に初めて家庭の人となる時に二十三歳也。

爾來、辛苦勉勵して家業に精勵せし爲め
非凡な技術漸く認められ遂には
岩崎家、前田侯家、溝口伯家、有馬伯家、岩倉公家
其他の名門の奥向に出入するに至り
聲名忽ち滿都に喧傳せらる。
爲めに財大に成り五十萬圓の資財を積むに至れり。

其の内廿萬圓を寄附して淺草神吉町に美髪研究所を設置し
後進の途を開き貢献する處頗る大也。

大正八年下谷婦人結髪業組合長に推され、
同十一年東京婦人結髪業組合聯合會々長に推戴せらる。
現に勇退して閑地にありと雖も隱然元老格たり。
一男三女あり。
熱心なる金光敎の信者也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/473
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[妻木二郎氏]【大東京の現勢】昭和10年7月20日三版発行

[妻木二郎氏]【大東京の現勢】昭和10年7月20日三版発行

《妻木二郎:妻 三女 遠山良子 明治32年(1899)10月生―》

《父 遠山友俤(織田長易の三男)》
           安政5年8月26日(1858年10月2日)生
   
長男 遠山友郷(英彦)明治22年(1889)10月生―大正9年(1920)2月歿
   夫人 愛    明治30年(1897)5月生―
           松崎藏之助 長女
   ※?女 眞子  大正5年(1916)9月生―
   ※三女 和子  日野西徳明 大正8年(1919)2月生―
長女 遠山常子    明治17年(1884)2月生―
           別府三穗三郎 夫人
二女 遠山幾子    明治25年(1892)生―大正9年(1920)歿
           男爵 島津貴暢夫人
二男 遠山健彦    明治30年(1897)7月13日生―
   夫人 賀壽子  明治35年(1902)6月26日生―
   ※養妹 眞子  大正5年(1916)9月生―
   ※養妹 和子  日野西徳明 大正8年(1919)2月生―
三女 遠山良子    明治32年(1899)10月生―
           妻木二郎 夫人
四女 遠山春子    
           改  貴子
           男爵 島津貴暢 夫人

【大東京の現勢】昭和10年7月20日三版発行
[妻木二郎氏] p353/458
明治十九年五月十八日生
東京市麹町驅平河町五ノ一
横濱正金銀行 東京支店 支配人代理
國際關係の複雑化に伴れて
横濱正金銀行の使命と職責とは益々倍加し來つたことは
何人も認識するところであつて、
日本の製品が世界市場に躍進一番
殆んど獨占の偉觀を呈してゐる現状に於ては
愈々その感を強くせざるを得ないのである。

同行支配人代理の要位に在る
妻木二郎氏の活躍に期待する所以は
又故なしとせずである。
氏は我が建築界の最高權威たりし
故工學博士妻木頼黄氏の令息であるが、
その叡智を享けて今日の地位を占めたのは
これ當然と云はざるを得ない。

元來、妻木家は代々岐阜縣土岐郡の妻木村に住し
土地切つての名門で
祖父妻木源三郎氏は二十四歳の靑春の身で
疾くも長崎奉行となつた偉材であるが、
先代の妻木博士は世人周知の如く
多年内務省技師として令名を馳せ
本邦建築界に致せる功勞は甚大なるものがあり
正四位勳二等の榮譽を擔ひ
斯界の聲望を一身に聚めてゐた。
然るに大正五年病歿した爲
氏がその家督を相續したのである。

これより先、氏は五髙を經て
京都帝國大學法科大學に學び
大正三年政治科を卒業し直ちに
横濱正金銀行に入社したものである。
同七年には大阪支店に轉勤を命ぜられ
同九年には東京支店に轉じ
信用狀係主任に昇進したが
次で輸入係主任となり更に抜擢せられて
支配人代理となり現在に及ぶものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030124/353
昭和七年十二月 十五日印刷
昭和七年十二月 十八日發行
昭和九年 六月二十五日二版發行
昭和十年 七月 二十日三版發行
定價 金 貮拾圓
編輯兼發行者 高山中助
       東京市瀧野川區西ケ原町七百八十五番地
印刷者    世良淸一
       東京市四谷區箪笥町三十番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市日本橋區人形町一丁目十四番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市日本橋區人形町一丁目十四番地
       振替口座 東京 六八八六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030124/457

《妻木二郎 第五高等学校 明治41年9月 第一部 第二年 乙組》
《特待生  大内兵衛   明治41年9月 第一部 第三年 甲組》

【第五高等学校一覧. 明治39,41年】
[第五高等学校一覧 自明治四十一年 至明治四十二年] p112/218
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812894/112
生徒(明治四十一年九月末日調)            p155/218
第一部 第三年 甲組                 p155/218
特待生 大内兵衛 兵庫                p155/218
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812894/155
第一部 第二年 乙組                 p160/218
妻木二郎 東京                    p160/218
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812894/160
明治四十一年十二月十五日印刷
明治四十一年十二月二十日發行
編纂     第五高等學校
發行兼印刷者 梅田平次郎
       熊本縣熊本市手取本町十一番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812894/213

《妻木二郎 第五高等学校 明治43年7月卒業》

【第五高等学校一覧. 明治44-45年】
大學豫科 第十九回(明治四十三年七月卒業)二百四十七人 p97/236
第一部 英語 文科 二十六人              p98/236
京法 妻木二郎 東京士                 p98/236
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812896/98

《妻木二郎 京都帝国大学 政治学科 明治43年入学》

【京都帝国大学一覧. 従大正元年 至大正2年】
第二 法科大學學生及生徒 p128/187
政治学科         p130/187
四十三年入學       p130/187
妻木二郎 東京      p130/187
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940178/130

《妻木二郎 京都帝国大学 政治学科 大正3年7月卒業》

【京都帝国大学一覧. 自大正3年 至大正4年】
卒業生姓名    p161/215
法學士      p161/215
政治学科     p162/215
大正三年七月卒業 p163/215
妻木二郎 東京  p163/215
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940179/163

《妻木二郎 横濱正金銀行 秘書部長》

【日本全國銀行會社録. 第50回 上卷】昭和17年刊行
[横濱正金銀行] p287/349
頭 取  大久保利賢
副頭取  柏木秀茂
副頭取  荒川昌二
―略―
秘書部長 妻木二郎
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082937/287

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[桑島千代氏]【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
[桑島千代氏] p593/718
明治十二年四月生
東京市京橋區宗十郎町一一
電話 銀座 七七一番
婦人美容術、京橋築地署管内組合長
今日苟くも流行の結髪を云爲する程の者にして、
新橋の桑島千代さんの隆々たる盛名を知らざるはなかるべし。
技術の洗練せられたること、
華客送迎待遇に懇切叮嚀なること、
剰へ華客の個性を尊重して、
其人々特有の美を發揮せしむる妙技に至つては、
都下に美容術師多しと雖も
眞に氏の右に出ずるものなし。
氏は淺草の人
先考桑島重兵衛の次女に生れ
十七歳の時
京橋區山城町の粕谷結髪家に弟子入りをなし
三年間熱心修行を重ね
廿一歳の時獨立して以來
今日まで三十年間一日の如く孜々として業務に精勵し、
時代の進歩に鑑みて
昭和三年八月洋髪美容一般の技術者を傭聘し、
從來の純日本風結髪と共に倂せて好評嘖々
華客常に市をなせり。
養女みつ子孃は
昭和三年本郷眞砂町の錦秋女學校を卒業し
目下斯業を專ら見習ひつゝあり。
氏は性格寛濶にして溫情溢るゝが如きものあり。
多くの弟子に尊敬せらる。
得意は勿論日本髪にして
新橋花柳界の紅裙連は何れも
氏の妙技に依つて嬋妍を磨き好評嘖々たり。
正に斯界の元老株にして
現に築地署管内の同業者組合長に推され
人望籍甚也。
p593-1【昭和之日本:御大典記念】昭和4年

p593-2【昭和之日本:御大典記念】昭和4年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/593
昭和四年五月廿八日印刷
昭和四年六月七日 發行
定價 金 五拾圓
編輯兼發行者 世良淸一
       東京市四谷區鹽町一丁目十八番地
印刷者    石原愼之助
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
印刷所    東京毎夕新聞社副業部
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
發行所    東京毎夕新聞社
       東京市麹町區丸之内一丁目二番地
       振替口座 東京 六八八六番
(土開製本所製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188629/715

【現代婦人職業案内】主婦之友 婦人家庭叢書 第一篇
 大正15年3月19日発行
主なる美容院及學校養成所は左の通りです。 p34/68
理容館    (遠藤波津子)  東京市京橋區竹川町一二
艶粧館    (島田つや)   東京市牛込區筑土八幡町九
巴里院    (マリールウヰズ)東京市麹町區有樂町一ノ三
小口美容研究所(小口みち子)  東京市京橋區南傳馬町一ノ六
丸の内美容院 (山野千枝子)  東京市丸の内ビルデング内
銀座美容院  (早見君子)   東京市京橋區銀座
女子整容大學 (山本久榮)   東京市麹町區紀尾井町六
資生堂美容術師養成部      東京市京橋區竹川町
日本女子美容術學校       東京府下中野町字中町六一〇
大阪美髪女學校美容術科     大阪市東區玉造東雲町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/34
美髪師 p34-35/68
女髪結といって軽蔑したのは昔のことです。
今では婦人美髪師といはれて、
立派な婦人職業として新しい意義を持ってきました。
一流どころの髪結さんになると、
何十萬といはれる財産を拵へて豪儀なものです。
髪結と一緒に美容をやればなほ便利であります。
現在全国に二萬四千七百人餘の婦人美髪師がをります。
―略―
主なる結髪師と学校及養成所
桑島千代    (東京市京橋区宗十郎町一一)
伊賀とら    (東京市京橋区宗十郎町一〇)
關口文子    (東京市京橋区南金六町一四)
佐藤あき    (東京市下谷区数寄屋町一三)
日本女子美髪学校(東京市神田区表猿楽町二)
東京女子美髪学校(東京市牛込区水道町三二)
東京婦人美髪学校(東京市本郷順天堂横丁)
大場理髪館婦人部(東京市芝区櫻田本郷町一四)
大阪美髪女学校 (大阪市東区玉造東雲町)
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019153/35

[錦秋女學校]
【錦秋高等女学校長秋間為子女史の足跡】昭和7年11月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099076/1

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 


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