[京都高校新人 バスケット 総評]昭和37年度(1962)2月-3/3
京都新聞:昭和37年(1962)3月?
《高校新人 バスケット 総評》
京都新聞社後援、
第九回京都高校新人バスケットボール大会は、
男子が山城、
女子は西京が優勝して幕をとじた。
予選リーグでは百校を越す参加校があり、
分厚い底辺になってきた。
それに昨年にくらべるとレベルも上がった。
だがまだ甘いプレーが多い。
夏の全国選手権までに、
どういう練習をしたらよいか―。
気づいた点を取りあげてみよう。
男子は山城と紫野が安定した力をもっていた。
山城の優勝は基本プレーを忠実に守っていたからだ。
長身者は山本しかいなかったが、
森、山下らの小柄な選手がよく走っていた。
十人以上をフルに使って、
最後までスピードをゆるめなかったが、
新しいバスケットは“スピードが生命”であり、
山城のとったチーム作りが本当の行きかただろう。
しかし高校チームはせいぜい七、八人しかいないので、
こうしたチーム作りは無理かもしれない。
そこで新しく入学する部員をきたえあげるのが
最上の方法になってくる。
南波副理事長は
「五人で試合をするという観念をすてて、
最小限でも八人まで使えねば……」といっている。
紫野は木村がハッとするような好プレーをみせて、
環、鴨井をよく動かしていた。
だが木村をのぞいては、動きが甘い。
目がきたえられていないので、
一つの動きにしかついていけない。
守りにしても漫然と相手についていくだけなので、
いざボールをとっても反撃のきっかけがおそくなる。
山城に敗れたのはこのためだ。
紫野には器用に走らず、
正確にプレーすることをのぞみたい。
きめ手になる攻めかたを三つはほしい。
この二校とはやや差があるが
京商、朱雀、東山、平安が成長してきた。
「いい傾向だと思う。
山城、紫野にはまだ勝てないが、
練習方法によってはもっと強くなれる。
それには選手の努力も必要だが、
コーチも勉強してほしい」と
細川技術委員長はいっている。
ベスト8にはいった福知山をはじめ
郡部勢にも同じことがいえる。
前に前にとボールをだすこと―
これが基本だが、
そのためには走ることがもっとも大切だ。
実のある練習をしてほしい。
女子は西京、平安、山城、光華がベスト4にはいったが、
紫野、京女も互角に戦える力をもつ。
だが共通の欠点はスピードがないことだ。
速攻ができるだけの練習をつんでいない。
ボールをとったあと、
タイミングのずれがありすぎる。
一回ドリブルをつくから、
相手に早く走られて守りを固められてしまう。
平安、光華にその欠点が目だった。
西京も青木―金井のコンビが
うまくペースをとっていたが、
力強さに欠けている。
チームそのものに迫力がない。
もっと鋭さがほしい。
山城もうまさは感じられるが
相手を圧倒するだけの力に欠ける。
京女は江守ががんばっていたが、
江守がマークされると動きが全然とまる。
江守の使いかた、
江守がいなくても得点できるプレーを研究しないと、
いつまでたっても強くはなれない。
紫野は魅力のあるチームだが荒すぎる。
しかし一年生中心であれだけやったのは上出来。
女子は数年前に鴨沂、山城、京女が
せりあっていたときと似ている。
いまは当時よりも力が同じチームが多くなっているので、
もっと期待がもてる。
五月に韓国が来日するが、
これに出場するメンバーの参考資料として、
今大会の優秀選手をえらんだが、
それだけの理由だけでなく
この企画はいいアイデアだ。
機会があればこれらの選手を集めて
合同練習をするのも
レベルアップになるのではないか。
オリンピック審判員として
南波道雄氏をはじめ
京都には四氏もいることでもあり、
審判技術向上を兼ねて
いいチャンスだと思う。
(木村)
【大会優秀選手】
▽男子
森、山本、原田、山下、嵐(以上 山城)
木村、人羅、環、鴨井(以上 紫野)
西村(朱雀)
篠原(京商)
新地(平安)
児島(同志社)
榎並(鴨沂)
福井(東山)
水間(福知山)
佐々木(東舞鶴)
高木(洛東)
▽女子
青木、金井、山矢(以上 西京)
徳永、横田、花村(以上 平安)
木田、山崎、大橋(以上 山城)
田中、垂水、山本(以上 光華) ※いずれも、旭丘中学
中西、乾(以上 紫野)
倉橋(嵯峨野)
江守(京女)
加納(洛東)
白波瀬(綾部)
[京三中・山城高校]
[バスケットボール部]
https://sites.google.com/site/yamashiroobog/
《山城高を韓国へ》
[韓国遠征]
そう、日本を代表して韓国に行ったんですね、
どんな感じだったのでしょう。
当時の京都新聞を見てみましょう。
●韓国遠征を知らされた時は驚いた、
はたして我々はそんなに強いのかと疑った。
今までの伝統が日本代表の栄誉をもたらしたと先輩達がおっしゃる、
真にその通り。
昭和37年7月
https://sites.google.com/site/yamashiroobog/Home/kankoku
京都新聞:昭和37年(1962)3月?
《高校新人 バスケット 総評》
京都新聞社後援、
第九回京都高校新人バスケットボール大会は、
男子が山城、
女子は西京が優勝して幕をとじた。
予選リーグでは百校を越す参加校があり、
分厚い底辺になってきた。
それに昨年にくらべるとレベルも上がった。
だがまだ甘いプレーが多い。
夏の全国選手権までに、
どういう練習をしたらよいか―。
気づいた点を取りあげてみよう。
男子は山城と紫野が安定した力をもっていた。
山城の優勝は基本プレーを忠実に守っていたからだ。
長身者は山本しかいなかったが、
森、山下らの小柄な選手がよく走っていた。
十人以上をフルに使って、
最後までスピードをゆるめなかったが、
新しいバスケットは“スピードが生命”であり、
山城のとったチーム作りが本当の行きかただろう。
しかし高校チームはせいぜい七、八人しかいないので、
こうしたチーム作りは無理かもしれない。
そこで新しく入学する部員をきたえあげるのが
最上の方法になってくる。
南波副理事長は
「五人で試合をするという観念をすてて、
最小限でも八人まで使えねば……」といっている。
紫野は木村がハッとするような好プレーをみせて、
環、鴨井をよく動かしていた。
だが木村をのぞいては、動きが甘い。
目がきたえられていないので、
一つの動きにしかついていけない。
守りにしても漫然と相手についていくだけなので、
いざボールをとっても反撃のきっかけがおそくなる。
山城に敗れたのはこのためだ。
紫野には器用に走らず、
正確にプレーすることをのぞみたい。
きめ手になる攻めかたを三つはほしい。
この二校とはやや差があるが
京商、朱雀、東山、平安が成長してきた。
「いい傾向だと思う。
山城、紫野にはまだ勝てないが、
練習方法によってはもっと強くなれる。
それには選手の努力も必要だが、
コーチも勉強してほしい」と
細川技術委員長はいっている。
ベスト8にはいった福知山をはじめ
郡部勢にも同じことがいえる。
前に前にとボールをだすこと―
これが基本だが、
そのためには走ることがもっとも大切だ。
実のある練習をしてほしい。
女子は西京、平安、山城、光華がベスト4にはいったが、
紫野、京女も互角に戦える力をもつ。
だが共通の欠点はスピードがないことだ。
速攻ができるだけの練習をつんでいない。
ボールをとったあと、
タイミングのずれがありすぎる。
一回ドリブルをつくから、
相手に早く走られて守りを固められてしまう。
平安、光華にその欠点が目だった。
西京も青木―金井のコンビが
うまくペースをとっていたが、
力強さに欠けている。
チームそのものに迫力がない。
もっと鋭さがほしい。
山城もうまさは感じられるが
相手を圧倒するだけの力に欠ける。
京女は江守ががんばっていたが、
江守がマークされると動きが全然とまる。
江守の使いかた、
江守がいなくても得点できるプレーを研究しないと、
いつまでたっても強くはなれない。
紫野は魅力のあるチームだが荒すぎる。
しかし一年生中心であれだけやったのは上出来。
女子は数年前に鴨沂、山城、京女が
せりあっていたときと似ている。
いまは当時よりも力が同じチームが多くなっているので、
もっと期待がもてる。
五月に韓国が来日するが、
これに出場するメンバーの参考資料として、
今大会の優秀選手をえらんだが、
それだけの理由だけでなく
この企画はいいアイデアだ。
機会があればこれらの選手を集めて
合同練習をするのも
レベルアップになるのではないか。
オリンピック審判員として
南波道雄氏をはじめ
京都には四氏もいることでもあり、
審判技術向上を兼ねて
いいチャンスだと思う。
(木村)
【大会優秀選手】
▽男子
森、山本、原田、山下、嵐(以上 山城)
木村、人羅、環、鴨井(以上 紫野)
西村(朱雀)
篠原(京商)
新地(平安)
児島(同志社)
榎並(鴨沂)
福井(東山)
水間(福知山)
佐々木(東舞鶴)
高木(洛東)
▽女子
青木、金井、山矢(以上 西京)
徳永、横田、花村(以上 平安)
木田、山崎、大橋(以上 山城)
田中、垂水、山本(以上 光華) ※いずれも、旭丘中学
中西、乾(以上 紫野)
倉橋(嵯峨野)
江守(京女)
加納(洛東)
白波瀬(綾部)
[バスケットボール部]
https://sites.google.com/site/yamashiroobog/
《山城高を韓国へ》
[韓国遠征]
そう、日本を代表して韓国に行ったんですね、
どんな感じだったのでしょう。
当時の京都新聞を見てみましょう。
●韓国遠征を知らされた時は驚いた、
はたして我々はそんなに強いのかと疑った。
今までの伝統が日本代表の栄誉をもたらしたと先輩達がおっしゃる、
真にその通り。
昭和37年7月
https://sites.google.com/site/yamashiroobog/Home/kankoku