2013年02月

《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 2002年12月18日 初版発行
柴田和志 年譜  p312-334
昭和41年(1966) 1月 父:柴田金三郎(63歳)逝去。p314
昭和58年(1983) 4月 母:柴田つぎ (73歳)逝去。p327

洛西ニュータウンのマンションで、
お母さん(柴田つぎ)の話。

※お父さん(柴田金三郎)が元気な頃、
 向日町競輪場で、騒ぎがあった。
 誰かが、「柴金」が来てると叫び、一騒動、
 一件落着と云っても二日かかった。
 お父さんが、新聞紙で包まれた束を、
 紐にぶら下げて帰って来た。
 中を開けると、百円札が一杯、入っていた。
 お父さんは、その時、初めて向日町競輪場に行った。
 その後、そのお金は、全部、競輪に使った。

 この話は、お母さんから、私が直接、聞きました。

京阪電車から全線無料定期券が、
 お父さんの歿後何年も送られていた。

※お母さん(柴田つぎ)の葬儀
 (伏見区向島庚申町・昭和58年(1983) 4月)に、
 篠原組の供花があり、若い衆が数人、参列していた。

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん(吉村邦代)”―    p077
 ―略―
チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
門下の方も大勢いらして、
それと、
こういう仕事にはつきものなんですけど、
やくざのような方ともつきあいがありましたから、
日銀の方や大臣から、
やくざの若い衆に至るまで、
本当にいろんな種類の人が
毎日訪れて来るような、
そんな家だったんです。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>[Quick Japan]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370665.html

邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》

邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》


[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p096
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第7回》
取材・文 北沢夏音

姉・吉村邦代さんの話から p098
 ―略―
それから、亡くなった母のことで、

(註・薬物中毒のため入院中だった
   チャー坊の病状が相当悪化していたため、
   母・つぎさんの死を知らせなかった)
 ※昭和58年(1983)4月母(つぎ)逝去

「お葬式に出られなかった俺の気持ちがわかるか?」
って責められて、

「あんたがクスリやるからや!」って言い返したり……。
 ―略―
主人の仕事が傾いて、
お金もそんなに勝手が利かなくなってきた時に、
傷までつけた

(註・薬物中毒で一時的に錯乱したチャー坊が、
 誤って邦代さんの夫・
 吉村法俊〔のりとし〕氏を包丁で傷つけた)

和志の面倒を主人に見てあげてほしいとは言えなくて、
私が働きに出て和志に仕送りをしていたんです。

そのことを、
和志がいちばんよくわかっていたと思うんですよ。

だから和志が

「くーちゃん悪いなぁ、
 俺が苦労かけてるからや」
って言って肩揉んでくれた時」、

私はそれだけで、
あーわかってくれているんだ、
と思って嬉しかった。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年12月30日 第一刷・発行
定価・900円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
《哲人の風貌を持った大柄な方でした》
[夢曼荼羅のブログ]
忘れられない右翼のテロ事件
2012-01-16 11:03:28
テーマ:ブログ
政治テロ事件と言えば、
もっとも記憶に残っているのは、
昭和三十五年の山口二矢(おとや)の、
浅沼稲次郎社会党委員長暗殺である。
まだ僕が小学生の頃である。
日本中が大騒ぎになり、
僕の父などは妙に興奮していた。
 ―略―
実は後に、僕は山口二矢の暗殺決行前に一緒だった
吉村法俊という人に何回か会った事があります。

哲人の風貌を持った大柄な方でした。

二十年前ぐらいに亡くなりましたが、
その一週間ぐらい前に
妻と病院にお見舞いに行った事がありました。
何故に知っていたかと言えば、
父の人脈の中の一人だったのです。
父は、気が合えば、左右関係なく付き合っていました。
それは僕と似ているのかも知れません。

山口二矢の暗殺決行前には、
吉村さんの他に、
後に江戸川乱歩賞を取ったNさんという
推理作家がいますが、
その方にはお会いした事はありませんでした。
 ―略―
https://ameblo.jp/fgh1234/entry-11137328275.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[今日の出来事ロジー]
10月12日、浅沼稲次郎暗殺事件
2006/10/12(木) 午前 6:25
 ―略―
1960年10月12日、社会党委員長の浅沼稲次郎が
右翼少年・山口二矢(おとや)に刺殺されました。
 ―略―
[写真]
右から二人目:赤尾敏 中央:山口二矢
※右端:多分、吉村法俊 註:小野一雄
 ―略―
[写真]
山口二矢のデスマスク
 ―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/21513644.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※チャー坊(柴田和志)と一緒に、大阪の家に行き、
 吉村法俊さんに一度だけ会ったことがある。

※チャー坊(柴田和志)の独白
「山口二矢のデスマスクを見て、
 頭がおかしくなった」

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月23日 04:17 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
[デスマスク]『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日 07:50
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《内田良平 額=為 柴田金三郎》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《内田良平 額=為 柴田金三郎》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

内田良平」から、柴田金三郎に贈られた額。

為 柴田金三郎 と、書かれていた。
私(小野一雄)が預かっていたが、
お姉さん(吉村邦代さん)に、
佐川急便で、昭和63年(1988)頃に、返した。
※年度は正確な記憶がない。

それを、お姉さんのご主人(吉村法俊・亡くなっていた)が、
世話になった人に贈ったと、柴田令子さんから聞いた。
※この電話の年月は覚えていない。

[吉村法俊](別稿に記載)
山口二矢が暗殺決行前に一緒だった
吉村法俊という人に何回か会った事があります。
http://ameblo.jp/fgh1234/day-20120116.html

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん(吉村邦代)”―    p077
 ―略―
チャー坊の父・柴田金三郎氏は、
立命館大学時代の後輩で、
のちに法務大臣を務めた
自民党代議士・田中伊佐次らと共に、
敗戦と同時になくなっていた
建国記念日制定のため尽力するなど、
関西でも指折りの民族主義運動家だった。
 ―略―
チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
父は初めアナーキスト(無政府主義者)
だったらしいのです。
ところが、
ご存じのように弾圧が非常に厳しくて
常に特高に追われている状態で生活していたのが、 p078
あるとき昭和の初めぐらいに転向して、
内田良平
―この人は民族主義の運動の創始者みたいな方だそうです―
に師事した。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

《柴田金三郎》《柴田 コト 北野金三郎》『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

《柴田金三郎》《柴田 コト 北野金三郎》
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

[本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割1]
【 レファレンスコード 】B04012995200
【 年代域 】昭和10年5月【 画像数 】100

第二四號
昭和十年一月      p52/100
國内情勢調査資料第三輯
右翼運動ノ現勢
<極秘> 外務省調査部
後編 右翼團體要覧   p85/100
第一節 東京地方
   ―略―
[本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割3]
【 レファレンスコード 】B04012995400【 画像数 】114

第二節 大阪地方    p21/114
  一 京都      p21/114
(1) 一般右翼團體   p21/114
[神州報國會]     p29/114
事務所   東山區東大路安井上ル
創 立   昭和六年十一月十日  ※昭和6年(1931)
關係團體  日本生産黨洛北靑年同盟
機關紙   興國新聞(月刊)
資金ノ出所 會長ノ私有財産及毎月各幹事ヨリ醵出ス
背後ノ人物 西村力、内田良平、草野庄三、横江善次郎
幹部 及
主ナル會員 會長   《柴田 コト 北野金三郎》。
      理事長  柴山 滿。
      書記長  澤村喜代治。
      常任理事 村田幸造、矢羽田慶三。
      理事   增田正次
會員數   二〇名
主義綱領
 趣旨
   ―略―
 綱領
   ―略―

一 昭和六年九月頃ヨリ ※昭和6年(1931) p30/114
  元當府思注(無政府主義ヲ抱持シ其ノ後思想轉換セル者)
 《柴田 事 北村金三郎》ガ
  在東京大民倶樂部員村田耕三ノ應援ヲ得テ
  之ガ組織ニ着手、
  會員獲得ニ奔走ス
一 同年十月二十五日  ※昭和6年(1931) p30/114
  京都市右京區花園龍安寺村田耕三方ニ於テ
  神州報國會發會式ヲ擧行
   ―略―
一 同年十二月七日   ※昭和6年(1931) p30/114
  會長《北野金三郎》ハ福島佐太郎外一名ト共ニ
  滿洲軍慰問ノ爲メ滿、
  同月十五日
  駐滿軍慰問ヲ終ヘ歸洛ス
   ―略―
一 昭和七年一月二十一日 ※昭和7年(1932) p30/114
  會長《北野金三郎》、幹事長村田耕三ハ
  大日本生産黨ニ入黨シ
  同時ニ會長北野金三郎ハ日本生産黨總裁ヨリ
  京都地方擴張委員ヲ命ゼラル
   ―略―
一 昭和七年四月十六日  ※昭和7年(1932) p31/114
  京都市左京區太秦蜂ケ岡町
  新興キネマ株式會社太秦撮影所ニ爭議發生スルヤ、
  會長《北野金三郎》、書記長澤村喜代治等ハ
  生産黨京都支部準備會幹部ト共ニ
  爭議調停ト稱シテ同社ニ出入シ、
  五月十二日北野、澤村及荻田正一ノ三名ハ
  遂ニ爭議團員ト衝突シ
  澤村ハ全治二週間、荻田ハ同一週間ノ負傷ヲ受ケタリ
一 同年五月十八日    ※昭和7年(1932) p31/114
  事務所ニ於テ研究會ヲ開催、
  豫備海軍少佐齋藤直幹ヲ聘シ
  「戰爭ニ就テ」ト題スル講演ヲ聽ク

[昭和維新聯盟] p31-32/114
事務所   京都市
創 立   昭和七年九月五日
系 統   國家主義
關係團體  敬天愛人運動本部、神武會京都支部、
      彌榮日本人同志會、靑年自由黨準備會、
      靑年自由軍、興民同志會、生産黨京都支部準備會、
      日本國家社會黨京都支部聯合會、
      日本愛國同志聯盟、興國靑年同盟
      神州報告會 ※神州報國會の誤り
幹部及
主ナル會員 常任委員
      敬天愛人運動本部代表 山田主一郎
      國社京都府聯代表   岩本健一、西光太郎、
      靑年自由黨準備會代表 坂本光三郎、西本健太郎。
      神洲報告會代表   《北野金三郎》、矢羽田慶造。
     ※神州報國會の誤り
      愛國靑年會代表    林弘之助。
      神武會京都支部代表  西澤季續、
      生産黨京都支部準備會 柴山滿 等
   ―略―

[日本愛國同志聯盟] p36/114
事務所   上京區新町通鞍馬口上ル 小山中溝町三二番地
創 立   昭和七年一月十八日
背後ノ人物 福島佐太郎
幹部 及
主ナル會員 理事長、敎育出版部長 櫻井淸一郎。
      組織宣傳部長     服部孝太郎。
      救濟慰安部長     立川重治、
      財務部長       森井峰太郎
會員數   約一五名
主義綱領
  宣言
   ―略―
  綱領
   ―略―

一 昭和七年四月二十一日     p37-38/114
  神州報國會ガ相當活躍セルニ鑑ミ
  之ト提携スルノ有利ナルヲ覺リ、
  理事長櫻井、組織宣傳部長服部孝太郎ハ
  神州報國會長《北野金三郎》、
  理事長柴山滿ヲ訪問シ提携ヲ約シ、
  場合ニヨリテハ合流スベシト
  意嚮ヲ述ベタリ
   ―略―
[本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割1]
【 階層 】外務省外交史料館>外務省記録>
I門 文化、宗教、衛生、労働及社会問題>
4類 労働及社会問題>本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件
【 レファレンスコード 】B04012995200
【 年代域 】昭和10年5月【 画像数 】100

[本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割2]
【 階層 】外務省外交史料館>外務省記録>
 文化、宗教、衛生、労働及社会問題>
4類 労働及社会問題>本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件
【 レファレンスコード 】B04012995300【 画像数 】97

[本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割3]
【 階層 】外務省外交史料館>外務省記録>
I門 文化、宗教、衛生、労働及社会問題>
4類 労働及社会問題>本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件
【 レファレンスコード 】B04012995400【 画像数 】114

『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>[Quick Japan]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370665.html

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>[Quick Japan]

[Quick Japan]Vol.7
(平成8年)1996年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《前編》
取材・文 北沢夏音
 ―略―
〔京都へ〕       p082
チャー坊のお兄さん―

柴田次男氏との待ち合わせに指定されたのは、
京都大学農学部の正門にほど近い百万遍にある
喫茶店「進々堂」である。
 ―略―
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、

〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。
 ―略―

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん”―    p077
 ―略―
チャー坊はいつも尚子さんの
母・邦代さんをこう呼んで慕った。
いちばん仲のいい姉として、
両親亡き後は母親代わりとして、
最後までチャー坊を物心両面から
支え続けた邦代さんは、
チャー坊の素顔を知る上で、
真っ先に訪ねなくてはならない人だと思っていた。
「どうぞ私達のことは気になさらず、
 和志のことについて、
 思う存分、
 感じたままを書いてください」
 ―略―
チャー坊の父・柴田金三郎氏は、
立命館大学時代の後輩で、
のちに法務大臣を務めた
自民党代議士・田中伊佐次らと共に、
敗戦と同時になくなっていた
建国記念日制定のため尽力するなど、
関西でも指折りの民族主義運動家だった。

その父の急逝により、
柴田家は激しく揺れ動く。

チャー坊の実兄・次男(つぎお)氏が
大学を中退して跡目を継がなければ
ならなかったことについては、
連載第一回で少し触れたが、
この出来事は、
まだ中学三年生だった
チャー坊の運命をも大きく左右することになる。

「和志は父によく似ていると、
 皆さんおっしゃいました。
 住む世界は違っていても、
 カリスマ性があるところ、
 面倒見のいいところが
 そっくりだと……」

チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
そして二五歳の時に、
周りに推されて市会議員選挙に出て、
組織も何もないところで次点がとれた。

それから弁護士になろうとして
勉強している時に
関西の財界を揺るがすような
大きな疑獄事件があって
―それは口外できないことですが―
何か恩のある方の罪を父が全部かぶって、
何年か獄に入ったんです。

これは父から直接聞いたのではなくて、
父が亡くなってから
人づてで聞いたことですが。

父は初めアナーキスト(無政府主義者)
だったらしいのです。
ところが、
ご存じのように弾圧が非常に厳しくて
常に特高に追われている状態で生活していたのが、 p078
あるとき昭和の初めぐらいに転向して、

内田良平
―この人は民族主義の運動の創始者みたいな方だそうです―
に師事した。

もっとも父は、
いわゆる右翼/民族主義といっても、
あまり過激派という感じでなくて、
理論的指導者という面が強かったようです。

門下の方も大勢いらして、
それと、
こういう仕事にはつきものなんですけど、
やくざのような方ともつきあいがありましたから、

日銀の方や大臣から、
やくざの若い衆に至るまで、
本当にいろんな種類の人が
毎日訪れて来るような、
そんな家だったんです。
 ―略―
ところが、
ちょうど建国記念日が制定された年だからよく覚えていますが、

昭和四一年(一九六六年)、
あの子が中学三年生の時に、
父が脳卒中で亡くなるんです。

そしたら、
それまで「チャー坊、チャー坊」って
ちやほやしていた門下の人達も、
案外サーッと散ってしまって、
そこで生活が百八〇度変わったんです。

<ドロップアウト>  p079
中学時代の和志は、
バスケット・ボールひとすじの子だったんです。

ギターも、
その頃からすごくやっていたんですけど、

運動神経が大変よかったものですから、
大会へ出て優勝したりとか、  ※昭和40年度 深草中学
朝・昼・晩とバスケットで日が暮れるような毎日で、

それが、
高校は市立に行くつもりだったのがすべってしまって、
東山高校っていう仏教の高校に進んだんですけど、
何か合わなかったようで、
今でいう登校拒否みたいになって
「あの学校には絶対行きたくない」って言いだしたんです。

言いだしたら引かない子ですから
どうしようもなくて、
そのうち髪の毛ながーくして
「東京に行く」ってヒッチハイクか何かで行ったと思ったら、
ヒッピーみたいになって帰ってきて、

一人芝居とか、
新宿のグリーン・ハウス(略)で知り合った人と二人で、
お医者さんが着るような白い服を着て、
京都の高島屋の前に立って、
「私の詩を買ってください」とか始めたんですよ。
 ―略―
村八分の活動が盛んだった頃、
「金がなかったらダメだ」って言い出して、
一時期(当時結婚していた)ステファニーと二人で
こっちでチリ紙交換をしていたことがあるんです。
よっちゃんもやってらしたし、

皆さんその頃何故か音楽方面の方で、
チリ紙交換が流行っていたんです。
でもまともに働くということをしたのは、
何月かやったそのチリ紙交換だけ。
 ―略―

※小野雄二:談
 昭和54年(1979)12月頃も、チリ紙交換をしていた。

※小野一雄
 チャー坊(柴田和志)の知人(チリ紙交換業)のマンションンに、
 チャー坊(柴田和志)と訪ねた。昭和55年(1980) 春頃?
 洒落た家財道具が揃っていた。

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.7
(平成8年)1996年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

東山高校っていう仏教の高校に進んだんですけど、
何か合わなかったようで、
今でいう登校拒否みたいになって
「あの学校には絶対行きたくない」って言いだしたんです。

※チャー坊(柴田和志)
「清水さんは、親切だった」
※清水良規(東山高校 一学年上)

[Wikipedia]
清水 良規(しみず よしのり、1949年12月21日 - )は、
京都府亀岡市出身のバスケットボール選手・指導者である。
O型。現在はパナソニックトライアンズヘッドコーチ。
元バスケットボール男子日本代表監督。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%89%AF%E8%A6%8F

“ミッキー”こと松田幹夫<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》

“ミッキー”こと松田幹夫
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》

<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》[Quick Japan]Vol.10

[Quick Japan]Vol.10
(平成8年)1996年10月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p089
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第4回》
取材・文 北沢夏音

山口冨士夫       p100
 ―略―
その時スピーカーから、
一際高い歓声と共に、
チャー坊が吹き鳴らす魂のこもった
ハモニカが聞こえてきた。

続いて滑り込んでくる抑制のきいた
素晴らしいギター・ソロに、
ぼくらはうっとりと聞き惚れるばかりだ。

《歩いても/歩いても/果てどなく/果てどなく……》
――再結成ライヴでもハイライトはやはりこの曲

「くたびれて」。
と、鼻歌でソロをなぞるフジオさん。
「♪ババババーバー、ミッキーだ」
「えっ、元“スラッシュ”の?」
「よく知ってるねぇ。会った?」
「いいえ、まだ。
 必ずお会いしようと思っていますけど」

「ミッキーも死ぬ寸前だったよな。
 入院してる病院から、
 この日だけ抜け出して来てさ、
 しょうーがねぇよな。

 誰もさわんなかったもん。

 ステージが始まる五分位前に、
 しかもメンバーじゃないヤツが
 《ミッキーそろそろ出番なんだけど》
 って起こしに行かなきゃなんないぐらい、
 具合が悪かった。

 一発バキーンってこんなのキメて、
 《ふっ……よし、行くか》。
 で、弾いてるギターがコレだもん。凄いよ」

“ミッキー”こと松田幹夫
新生相なった“村八分”の切り札。

京都でも有数のギタリストだった
新メンバーの彼が病に倒れたことにより、
プロジェクトは暗礁に乗り上げる。

無理やり上がったこの日の舞台も、
だから三〇分しか演らず、
当然アンコールもなし。

ツトムさんの話によると、
石坂敬一氏(東芝EMI・当時)に
「チャー坊とフジオさえ来てくれたら、
 メンバーはこちらで気の合う人を探す」
と言われたチャー坊は、

「ミッキーの退院を待つ」
と返事、断ったという。

だが退院のめどは立たず、
「チャー坊もフジオも、
 言葉数がだんだん少なくなっていった。
 そのうち部屋から一歩も出なくなり、
 ある日フジオは東京へ帰った」。

狂ったように、
再びドラッグにのめり込んでいったチャー坊は、
その後一〇年の長きに渡って薬物依存症に苦しみ、
病院を転々とすることになる。

インディーズもメジャー予備軍でしかない現在、
天下の(笑)
東芝EMIにこんなふうに誘われて行かない
バンドがいるだろうか。

自分が得をすることよりも、
仲間との絆を重んじる方を選んだ彼ら。

だが運命の糸はもつれ、
容易に解けなくなる。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.10
(平成8年)1996年10月26日 第一刷・発行
定価・824円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

※チャー坊(柴田和志)
「ミッキー(松田幹夫)のギターは、日本一や」

※昭和55年(1980)春頃
私は、昭和30年代の洋盤(EPレコード)を数十枚持っていた。

チャー坊(柴田和志)が、
「ミッキー(松田幹夫)に、
 コマーシャルソングの作曲の話があるので、
 参考になるかも知れないので…」

当時、ミッキー(松田幹夫)が住んでいた、
京都市伏見区向島のマンションに届けに行った。

<フジオ=山口冨士夫の弔問>[チャー坊(柴田和志)の母(つぎ)の葬儀]

<フジオ=山口冨士夫の弔問>
[チャー坊(柴田和志)の母(つぎ)の葬儀]

[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 2002年12月18日 初版発行
柴田和志 年譜        p312-334
昭和58年(1983)(33歳)  p327
     4月 母つぎ(73歳)逝去。
     入院中のため葬儀には出席できず。
     母の死を後日聞き、愕然とする。

<フジオ=山口冨士夫の弔問>

私の記憶では、
お母さん(柴田つぎ)の、お通夜の日か、
葬儀の日の夜に、弔問客があり、帰られてすぐに、
ボンチャン(柴田次男)が二階に上がって来て、
「いま、フジオが来てくれた」

先日、柴田令子(元妻)さんに電話すると、
「フジオちゃんは、コンサートがあり、
 通夜・葬儀に参列出来なくて、
 二人が落ち込んでいる時、
 何日か後に来てくれた」
と話されていた。

<お母さん(柴田つぎ)の入院:久野病院>
お母さんは、向島の家で一人住まい。
※京都市伏見区向島庚申町
 観月橋駅(京阪電車)から、徒歩10分程。

ボンチャン(柴田次男)一家の住まいは、
洛西ニュウータウン。

ボンチャン(柴田次男)に、
お母さんの健康状態を見に行って欲しいと頼まれ、
向島の家にお母さんを訪ねた。

お母さんを見た途端、
体調が悪いのが分かったので、
「具合が悪そうだったら、久野病院に連れて行ってくれと」、
ボンチャン(柴田次男)から聞いていたので、
お母さんに、その旨を話すと、

「分りました。着替えをしたいので、
 近所の□□さんを呼んで来て欲しい」

すぐに□□さんに来て貰い、
※□□さんの名前は全く覚えていない。
着替えを手伝って貰い、
(私は、外で待っていた)
久野病院に向かった。

正確な日数は覚えていないが、
程なく亡くなられた。

ボンチャン(柴田次男)から訃報の電話があり、
仕事を早退して、同僚の車を借りて、
向島の家に行った。

小野一雄

[フジオちゃんはギターの天才]<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第五回》

[フジオちゃんはギターの天才]
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第五回》

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん“ 吉村邦代    p077

チャー坊はいつも尚子さんの
母・邦代さんをこう呼んで慕った。

いちばん仲のいい姉として、
両親亡き後は母親代わりとして、
最後までチャー坊を物心両面から
支え続けた邦代さんは、
チャー坊の素顔を知る上で、
真っ先に訪ねなくてはならない人だと思っていた。

「どうぞ私達のことは気になさらず、
 和志のことについて、
 思う存分、
 感じたままを書いてください」
 ―略―

フジオちゃんには、     p082-083
私ら、
兄弟のような感覚をちょっと持っていたんです。

二年か三年位、
母と弟たちとひとつ屋根の下に暮らしていましたし、

うちの母からは
「フジオちゃんはチャー坊のことを
 兄弟と思っているだろうから、
 あなたたちも兄弟という感覚で接してあげてね」
って言われていたんですね。

フジオちゃんも母のことを
“お母ちゃん”っていうふうに呼んでて、
東京に来た時には私の家に寄ってくれたりしたんです。

だから、
何らかの行き違いはあったかもしれないですが、
フジオちゃんと和志は、
ライバルというよりも、

一緒にやっている時は共同体みたいな感じで、
本当に仲も良かったし、

和志は、
フジオちゃんの音楽に対しても
「フジオちゃんはギターの天才だし、
 右に出る者はいない」
って尊敬していました。

フジオちゃんがどう思っていたかはわからないですけど、
和志は死ぬまでそう言っていました。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

山口冨士夫“戦争の落し子”<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》

山口冨士夫“戦争の落し子”
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》

<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第4回》[Quick Japan]Vol.10

[Quick Japan]Vol.10
(平成8年)1996年10月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p089
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第4回》
取材・文 北沢夏音

山口冨士夫 p096
 ―略―
思い出しているうちに
だんだん腹が立ってきたのか、
フジオさんは震える手でコップを握りしめ、
立て続けに何杯も焼酎をあおった。

「……結局オレは、
 全ての主導権をチャー坊に渡してしまったところが
 気持ちの部分ではあって、
 オレのほうが兄貴なんだけどなっていう意識は、
 いつもあったんだけど、

 でもオレは施設の子だし、
 チャー坊んちに世話になってるしっていう、
 現実的な、シビアな関係があるからね。

 そういう時に、オレも自分の音楽性ばっかりを発揮してらんない。
 《洗濯はどうしよう》とか、
 ひでぇ話になってくるんだよ、
 一年も経っちゃえば。
 わかるだろう。

 だってオレ達“戦争の落し子”って言われた
 ハーフとかクォーターとかいっぱいいるじゃん?

 そういう奴はみんな国の税金で養われて育ってきたんだ。

 だからチャー坊んちにお世話になっても
 余計にそこらへんは思うわけよ。

 自分が大きくなれたのも、
 国民の皆さん全員が払った血税のおかげですってな。

 そんなキレイなふうに今は思っていないけれど、
 当時は二〇歳過ぎたばっかりだもんね。

 狭いハコバンの世界から抜け出して、
 広い世界を見た時にオレはそう思ったんだよ」

この世に産まれたその時から
逃れられない宿命と、
真正面から向き合ってきた
フジオさんの心の襞に触れ、
ぼくらはまたしても重度の失語症に陥ってしまった。
 ―略―
迎えに来たチャー坊達に待ったをかけて、 p099
丸二日間、
考え抜いたあげく誘いに応じ、
小さなバッグに着替えを詰めて、
ギターとレコード二〇枚を持って、
「今度こそ」の思いを胸に
京都に向かった一七年前のフジオさん。

見せてくれたアルバムの中に、
旅の途中で一泊した
西伊豆で撮った写真があった。

フジオさんとチャー坊が海水着で、
間にひとり女性を挟んで
(チャー坊の兄・次男さんの奥さんの妹だという)
手をつないで写ってる記念写真―

そのかわいらしさ、
ぎこちなさと言ったら!
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.10
(平成8年)1996年10月26日 第一刷・発行
定価・824円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

今年一番の大雪です

今年一番の大雪です
1今年一番の大雪です
2今年一番の大雪です
撮 影:小野喜代子
撮影日:平成25年(2013)2月24日(日)
記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ