2013年06月

[下西友枝村 末松玄洞 醫術出精]【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

[下西友枝村 末松玄洞 醫術出精]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

《末松玄銅》
『大河内傳次郎』著者 富士正晴
 中央公論社
大辺耕斎=シン(末松玄銅六女:明治21年(1888)死亡) ※末松玄洞
       (大河内傳次郎の祖母)

《末松玄洞貞 (初代玄洞)》
《末松玄洞貞親(二代目玄洞)》
『実録 大河内伝次郎』著者 池永 敬
 ライオンズマガジン社
 平成2年5月10日発行
大辺 ユキ   西友枝・末松玄洞 貞  長女 p65
           (初代玄洞)
        慶應四年八月二十三日
       ※慶應4年8月23日(1868年10月8日) 歿

大辺 シン   西友枝・末松玄洞 貞親 五女
           (二代目玄洞)
        明治二十一年十月九日     p65
       ※明治21年(1888)10月9日 歿

《末松玄洞》 ※(初代玄洞):小野一雄
《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.004
039『婦』 13-2
同郡友枝村 末松玄洞 女 奥野
文化八辛未年生  (1811年1月25日)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291489.html

【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/431
一一 明治四年 豊津縣 町家 帯刀之者 言上書 p335/434
本書表紙に「五郡并町家帯刀之者言上書、未十一月 民事課」とあり。
      ※明治4年辛未11月(1871年12月12日)
明治四年豊津縣民事課にて、
田川、京都、仲津、築城、上毛、
五郡の各手永大庄屋に命じて、
帯刀の資格者調を書出さしめしものにして、
企救郡の缺げたるは、
當時企救郡は日田縣の管下に属せしを以てなり。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/335
上毛郡 友枝手永 p354/434
下西友枝村 末松玄洞 醫術出精、嘉永四年十二月 苗字帯刀 p354/434
               ※嘉永4年12月(1851年12月23日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/354

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

『大河内傳次郎』著者 富士正晴
 中央公論社
 昭和54年1月20日再版

大辺耕斎=シン(末松玄銅六女:明治21年(1888)死亡) p9
       ※末松玄洞
       (大河内傳次郎の祖母)

また、晋の母シンは福岡県上毛郡西友枝村の
末松玄銅六女であるが、 ※末松玄洞
まことに大辺耕斎なる者に嫁すのに適しいような
父の名前といわねばならない。
医者か儒者であろうと思っていたが、
儒者だということである。  p12
     ――――――――――
『実録 大河内伝次郎』著者 池永 敬
 ライオンズマガジン社
 平成2年5月10日発行
大辺家の一覧表を、
富士正晴著「大河内傳次郎」(中央公論社)を参考にしながら、作ってみよう。
大辺耕斎(医者)
大辺シン(儒者・末松貞親、号・二代目玄銅の五女) p36
                 ※末松玄洞
以上の墓塔調査と生田重倫が執筆した
「生田氏姻戚系譜考」の“大辺耕斎家”系譜から
大辺家の略系図をつくってみた。
(正直以下は没年月日を記入、渡辺信幸調べ)     p63
大辺 杏寿 正綱(医)天保十一年三月一日
          ※天保11年3月1日(1840年4月3日) 歿
    = p65
大辺 ユキ      西友枝・末松玄洞 貞  長女
              (初代玄洞)
           慶應四年八月二十三日
          ※慶應4年8月23日(1868年10月8日) 歿

大辺 正次 杏庵 耕斎(養子)(医)
           中津藩 瀬川三太夫頼利 二男
           慶應元年二月十六日
          ※慶應1年2月16日(1865年3月13日) 歿
    = p65
大辺 シン      西友枝・末松玄洞 貞親 五女
              (二代目玄洞)
           明治二十一年十月九日
          ※明治21年(1888)10月9日 歿

大辺 晋 正隆(医) 明治四十年(1907)五月十日 歿 六十歳
    = p65
大辺 アキ      大久保逕三 教之 四女
           昭和十一年(1936)一月三十日 歿
     ――――――――――
《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.004

038『 』(郷太郎)13-1
号 三毛門丹左衛門
文化三丙寅五月六日生  (1806年6月22日)生
童 名 雄 冠 日 郷太郎
受 父之譲 奉仕

039『婦』 13-2
同郡友枝村 末松玄洞 女 奥野
文化八辛未年生  (1811年1月25日)生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291489.html
     ――――――――――
《末松 偕一郎》
《末松玄洞の三男》

[広報 豊教だより]第90号
平成22年 (2010)9月1日発行
発行所 豊前市教育委員会
《末松 偕一郎》
明治八年(1875)六月一八日、
築上郡友枝村東上の医師
末松玄洞の三男として生まれる。
―略―
http://www.city.buzen.lg.jp/gakkou/documents/houkyoudayori90.pdf

[慶應二年 小倉藩 知行帳]《大庄屋 三毛門眞九郎》【福岡県史資料. 第9輯】

[慶應二年 小倉藩 知行帳]
《六郡 大庄屋 三毛門眞九郎》
【福岡県史資料. 第9輯】昭和13年

[慶應二年 小倉藩 知行帳]《六郡 大庄屋 三毛門眞九郎》

《別府一九郎義方[別府又十郎の父]》
《別府又十郎 慶應2年9月18日(1866年10月26日) 相続》

【福岡県史資料. 第9輯】昭和13年6月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977/438
一六 慶應二年 小倉藩 知行帳 p346/441
  〔慶応二丙寅歳知行帳〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977/346
六郡 大庄屋 p350/441

上毛郡    p350/441
一、 七十石 友枝角之助
一、 五十石 三毛門眞九郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977/350

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

<別府義方(一九郎)作成の別府家系図:第一頁>[嘉永二己酉四十七歳ナリ]

<別府義方(一九郎)作成の別府家系図:第一頁>
[嘉永二己酉四十七歳ナリ]
※嘉永2己酉年(1849年1月24日)


予カ祖父四十二歳ニテ死 (註1)

父君九歳        (註2)
家??亡
貧乏之中ニ生長
千辛萬苦
予カ兄弟五人ヲ育ス
妻ノ墓誌アリ

是予家ノ中興ナリ
子孫毎月十八日     (註3)
忌日精進ヲ怠可カラス

予亦家ヲ續

父君久病 且
公私之務メ苦労シテ三十年守成 (註4)
唯 倹約甚忍ト人ニ間談スルニテ
先ツ漸毎事ニテ

嘉永二己酉四十七歳ナリ    (註5)
※嘉永2己酉年(1849年1月24日)

後齢猶質素ヲ守ルヘキ心ナリ

子孫農家之案ヲ不忘
綿衣廉食
家宅ヲ不飾
寡慾ニシテ精勤
公事ヲ?スヘシ

凶作ハ田畠之徳米ヲ格別ニ減取ヘシ
有餘ハ貧窮ノ人ニ施ヘシ

別シテ男子ハ農事ヲ勤サスヘシ

別府義方 記
<覚書風の系図の、第一頁にあり:小野一雄>
<それを別府義方(一九郎)が覚書風の系図として作成。 (註6)>


<予カ祖父四十二歳ニテ死 (註1)>

017(059)『蕃義』07-1[義方の祖父][別府又十郎の曽祖父]
059(017)『嘉藏』07-1 
五代『栄澄の弟』
高豐 二男 小字 日 亀吉 号 三毛門兵藏 後 改 嘉藏
元文4年己未    :1739年2月8日  生 (父34歳 母24歳)
天明1年辛丑閏5月2日:1781年5月24日 歿 43歳

《別府家 初代~八代:福岡県豊前市三毛門》
『昔、父に聞くあり』別府祐弘
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291502.html

<父君九歳        (註2)>
<子孫毎月十八日     (註3)>
<父君久病 且 公私之務メ苦労シテ三十年守成 (註4)>

062『義彬』25-1
号 三毛門兵藏
安永二癸巳三月十三日生  (1773年4月4日)
小字 日 續之助
蕃義 嫡子 生 甫 九齢表
父 家 皆 耗 弊
經営 勤 苦 夙 夜 匪 觧 終 興 家 十九
命 為 小共役 二十六 為
大庄屋 小町 志 于 更 務 勉
讀 其書 兼学等 桁 而 摘 吏 治 之 要 纂 為
一書 以 貽 子孫
勤 役 三十四年
文政七年甲申八月十八日  (1824年9月10日)
以 病 辭職
天保二年辛卯七月十八日卒  (1831年8月25日)
歳五十九
諡 須誠

《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.007
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291492.html

<嘉永二己酉四十七歳ナリ    (註5)>
※嘉永2己酉年(1849年1月24日)

七代 066『義方』28-1 別府一九郎義方[別府又十郎の父]
義彬 嫡男 号 三毛門兵蔵
享和3年癸亥3月1日:1803年4月22日 生 (父30歳 母18歳)

《別府家 初代~八代:福岡県豊前市三毛門》
『昔、父に聞くあり』別府祐弘
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291502.html

《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.001
福岡県上毛郡三毛門
福岡県築上郡三毛門
福岡県豊前市三毛門

《別府家系図》別府祐弘様 所蔵

[系図作成]別府義方(一九郎)
正式の系図:10mもある長い巻物。
それを別府義方(一九郎)が覚書風の系図として作成。 (註6)

[系図の流れ]敬称略
別府義方→別府又十郎→別府敏治→別府萬壽人→別府祐六→別府祐弘

別府義方(一九郎・別府又十郎の父)
      
別府又十郎 弘化4年12月19日生(1848年1月24日)
      昭和3年(1928)2月1日 卒

別府敏治 (別府又十郎の二男)
      明治10年(1877)3月3日生

別府萬壽人(別府又十郎の二男・敏治の二男)
      明治43年(1910)3月9日生

別府祐六 (別府又十郎の六男)
      明治28年(1895)7月25日生

別府祐弘 (別府祐六の長男)
      昭和11年(1936)9月1日生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291486.html

[三毛門村 別府又十郎:代々苗字帯刀:大庄屋格]【福岡県史資料. 第4輯】

[三毛門村 別府一九郎:代々苗字帯刀:大庄屋役]
[三毛門村 別府又十郎:明治三年三月 大庄屋格]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/431
一一 明治四年 豊津縣 町家 帯刀之者 言上書 p335/434
本書表紙に「五郡并町家帯刀之者言上書、未十一月 民事課」とあり。
      ※明治4年辛未11月(1871年12月12日)
明治四年豊津縣民事課にて、
田川、京都、仲津、築城、上毛、
五郡の各手永大庄屋に命じて、
帯刀の資格者調を書出さしめしものにして、
企救郡の缺げたるは、
當時企救郡は日田縣の管下に属せしを以てなり。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/335
[三毛門手永] p355/434
岩屋村  渡邊惣九郎   ―略―
沓川村  庄屋 尾家實藏 ―略―
宇嶋浦  城戸崎彦郎   ―略―
三毛門村 別府又十郎 父 一九郎 大庄屋役勤役中出精相勤、
           代々苗字帯刀
           尚又獻金、明治三年三月 大庄屋格
               ※明治3年3月(1870年4月1日)
三毛門村 別府忠治  獻金 文久三年三月 當人より三代 苗字帯刀
             ※文久3年3月(1863年4月18日)
           尚又獻金、明治三年三月 大庄屋格
               ※明治3年3月(1870年4月1日)
大河内村 庄屋 新貝由太郎 ―略―
宇島浦  佐藤文五郎    ―略―
宇島浦  田代眞他藏    ―略―
三毛門村 庄屋 別府仙内 子供役出精相勤、明治元年四月 苗字帯刀
                    ※明治1年4月(1868年4月23日)
宇島浦  田代實      ―略―
薬師寺村 恒遠傳内     ―略―
鳥井畑村 庄屋 恒成幸七郎 ―略―
三毛門村 別府廉平 岸井手永 大庄屋 勤役中出精相勤、苗字帯刀
三毛門村 別府兵藏 獻金、文久三年三月 苗字帯刀
            ※文久3年3月(1863年4月18日)
山内村庄屋 薬師寺村 恒遠秀藏 ―略―
岩屋村   渡邊 巖      ―略―
薬師寺村  庄屋 恒遠兵十郎  ―略―
宇島浦   中島丈平      ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/355
      ―略― p356/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/356

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《別府家関連》[恒遠塾遊學者《恒遠醒窓》]【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

《別府家関連》
[恒遠塾遊學者《恒遠醒窓》]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

《上毛郡三毛門  別府吉之輔》
《上毛郡宇野嶋  別府七九郎》
《上毛郡三毛門  別府方作》
《上毛郡三毛門  別府忠之助》
《肥前嶋原領高田 別府市之助》
《上毛郡三毛門  善正寺 新發意 秀山:梅高秀山》
《上毛郡三毛門  別府信一郎》
《上毛郡大河内  大邊 晋》[大邊晋:大河内傳次郎の父]
《上毛郡三毛門  別府松三郎》
《上毛郡三毛門  善正寺 弟子 心鏡》
《黒土村儒者   鬼木柳綠》
《九州西本願寺派寺院幹事 梅高秀山》

【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/431
一〇 恒遠塾遊學者 p327/434
築上郡横武村大字薬師寺には
恒遠和(醒窓、文久元年五月三日歿、年五十九)、
      ※文久1年5月3日(1861年6月10日)
同 仁(精齋、明治二十五年(1892)十一月六日歿、年五十一)
父子の塾ありき。
初塾名を自遠館といふ。
後新舎を増築し、
舊舎を梨花寮、
新舎を藤春園と稱す。
醒窓は日田廣瀬淡窓の門下にして、
こゝにも咸宜園風の門人帳を存す。
惜い哉散逸せるもの甚多し。
今残れるものをこゝに摘録す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/327
 入門年月日     住 所     氏 名
弘化三年五月一日  上毛郡三毛門  別府吉之輔 p329/434
※弘化3年5月1日(1846年5月25日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/329
嘉永六年三月二一日 上毛郡宇野嶋  別府七九郎 p330/434
※嘉永6年3月21日(1853年4月28日)

嘉永六年四月一日  上毛郡三毛門  別府方作  p330/434
※嘉永6年4月1日(1853年5月8日)

嘉永六年九月三日  上毛郡三毛門  別府忠之助 p330/434
※嘉永6年9月3日(1853年10月5日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/330
萬延元年七月二一日 肥前嶋原領高田 別府市之助 p331/434
※萬延1年7月21日(1860年9月6日)

萬延二年一月二七日 上毛郡三毛門  善正寺 新發意 秀山 p331/434
※萬延2年1月27日(1861年3月8日)

萬延二年一月二七日 上毛郡三毛門  別府信一郎 p331/434
※萬延2年1月27日(1861年3月8日)

文久元年三月二日  上毛郡大河内  大邊 晋  p331/434
※文久1年3月2日(1861年4月11日)

文久元年五月三日  醒窓は五十九歳にて歿す。   p331/434
※文久1年5月3日(1861年6月10日)

文久四年二月一六日 上毛郡三毛門  別府信一郎  p331/434
※文久4年2月16日(1864年3月23日)

精齋は文久四年 卽 元治元年 箕裘を襲げり。   p331/434
  ※文久4年(1864) 元治1年(1864年3月27日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/331
慶應三年三月九日  上毛郡三毛門  別府松三郎  p332/434
※慶應3年3月9日(1867年4月13日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/332
明治四年四月五日  上毛郡三毛門 善正寺 弟子 心鏡 p333/434
※明治4年4月5日(1871年5月23日)

左記は「精齋の門人」なり。             p333/434
前記 門人簿と重複するものあれど、原文のまゝに採録す。
 門 人 p333/434
元 黒土村儒者 鬼木柳綠  p333/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/333
元 九州西本願寺派寺院幹事 梅高秀山  p334/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/334

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《梅高秀山》[恒遠塾遊學者《恒遠醒窓》]【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

《梅高秀山》
《上毛郡三毛門 善正寺 新發意 秀山》
[恒遠塾遊學者《恒遠醒窓》]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/431
一〇 恒遠塾遊學者 p327/434
築上郡横武村大字薬師寺には
恒遠和(醒窓、文久元年五月三日歿、年五十九)、
      ※文久1年5月3日(1861年6月10日)
同 仁(精齋、明治二十五年(1892)十一月六日歿、年五十一)
父子の塾ありき。
初塾名を自遠館といふ。
後新舎を増築し、
舊舎を梨花寮、
新舎を藤春園と稱す。
醒窓は日田廣瀬淡窓の門下にして、
こゝにも咸宜園風の門人帳を存す。
惜い哉散逸せるもの甚多し。
今残れるものをこゝに摘録す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/327
 入門年月日     住 所     氏 名
萬延二年一月二七日 上毛郡三毛門  善正寺 新發意 秀山 p331/434
※萬延2年1月27日(1861年3月8日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/331
明治四年四月五日  上毛郡三毛門  善正寺 弟子  心鏡 p333/434
※明治4年4月5日(1871年5月23日)
左記は「精齋の門人」なり。             p333/434
前記 門人簿と重複するものあれど、原文のまゝに採録す。
 門 人 p333/434
元 黒土村儒者 鬼木柳綠        p333/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/333
元 九州西本願寺派寺院幹事 梅高秀山  p334/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/334

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[豊前市]
豊前の先人たち
教育者
その功績の大きさから恒遠醒窓、
そして、地域での教育に尽力した人物として
鬼木柳緑、広澤應知が知られます。
また、扇城高等学校(現;東九州龍谷高校)の創始者である
梅高秀山も敬愛される教育者です
http://www.city.buzen.lg.jp/kanko/miru/jinbutsu/index.html

[豊前市]
恒遠 醒窓(つねとう せいそう)
【1803(享和3)~1861(文久元)】
教育者 近世の地域教育を担った「蔵春園」創始者
―略―
http://www.city.buzen.lg.jp/kanko/miru/jinbutsu/tuneto.html

《梅高秀山》[水哉園遊學者《村上佛山》]【福岡県史資料. 第2輯】昭和8年

《梅高秀山》
《上毛郡三毛門 善正寺 秀山》
[水哉園遊學者《京都郡稗田の村上佛山の塾》]
【福岡県史資料. 第2輯】昭和8年

【福岡県史資料. 第2輯】昭和8年6月12日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213852/432
一四 水哉園遊學者 p288/435
京都郡稗田の村上佛山の塾
即ち水哉園の門人帳は、
天保五年(1834)より
其の歿年明治十二年(1879)に至るまで存し、
十二年(1879)以後十七年(1884)頃までの
嗣子靜窓の門人帳もあり。
今其の門人數を年別に統計すれば左の如し。
―略―
佛山の門人 通計 千百二十人、
靜窓の門人 通計  百四十八人。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213852/288
慶應三年(1867)
上毛郡三毛門  善正寺 秀山    p297/435
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213852/297
明治九年(1876)
六大區 三毛門 善正寺 鳥井田信教 p301/435
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213852/301

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[福岡県指定文化財仏山塾関係資料]
仏山塾は村上仏山によって創設され、
幕末から明治初めにかけて活動した私塾で
「水哉園」と名づけられている。
塾跡は仏山塾(水哉園)跡として福岡県の史跡に指定されている。  
 昭和11年、村上良一氏によって敷地内に建てられた
仏山堂文庫には仏山の遺品や塾の資料、
各地の著名人との往復書簡や書画等多数の関係資料が保管される。
これらのうち塾の資料としてとくに重要なものが
県の文化財に指定されている。
 「仏山堂日記」からは
天保15年(1844)から慶応2年(1866)までの
水哉園の日常を知ることができ、
「門人姓名録」には
天保5年(1834)から明治17年(1884)までの
千二百余名の入門者が記載されている。
また「書翰集」からは草場船山、三嶋中洲、帆足杏雨、
末松謙澄、大槻磐溪、広瀬淡窓、原古処、
草場佩川、池内陶所、貫名海屋、菊池三溪等
数多くの著名人との交流がうかがえる。
【指定資料】
  仏山堂詩鈔       18冊
  仏山堂日記       14冊
  仏山居士小春秋      1冊
  仏山堂詩鈔第二編版木  50枚
  門人姓名録       43冊
  書翰集          9巻
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http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/areamap/u1/butsuzan/top.htm

《梅高秀山》[咸宜園遊學者《廣瀬淡窓》]【福岡県史資料. 第1輯】昭和7年

《梅高秀山》
《上毛郡三毛門 善正寺 男 秀山》
[咸宜園遊學者《廣瀬淡窓》]
【福岡県史資料. 第1輯】昭和7年

【福岡県史資料. 第1輯】昭和7年6月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213832/428
一九 咸宜園遊學者 p348/431
豊後日田の咸宜園は廣瀬淡窓によりて開かれ、
靑村、林外其他によりて繼續せられ、
前後約九十年間人材を教育せり。
筑豊の地は距離近きを以て、
宜園に遊學せし人甚多く、
宜園門人帳を見れば、
其の入門年月住所氏名等を知るを得て、
興味殊に深きを覺ゆ。
左記は卽ち今の福岡縣地方の人々を摘録せるなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213832/348
 入 門 簿
 入門年月日     住  所        氏名
慶應三年四月二四日 上毛郡三毛門 善正寺 男 秀山 p358/431
※慶應3年4月24日(1867年5月27日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213832/358

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《瀬谷小次郎》【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年

《瀬谷小次郎》
【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年

【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年6月24日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953184/144
一等士族  p126/146
三百一石 瀬谷小次郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953184/126

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野梓:明治5218日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-05
W06【海外旅券・英字新聞】[乗客名簿①]小野一雄作成
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2099162.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[不破與四郎・東久世通暉・三好退蔵・大関増勤・瀬谷小次郎]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2216884.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《瀬谷小次郎》
[安藤小次郎君 畧傳]
【栃木県人物編】明治28年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2599574.html

[明治4年9月:東南両校一時閉鎖:貢進生制度も廢止]【古市公威】昭和12年

[明治4年9月:
 東南両校一時閉鎖:
 貢進生制度も廢止]
古市公威】昭和12年

【古市公威】昭和12年7月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257701/236
第二節 大學南校と貢進生  p24/240
―略―
是歳明治三年、  ※明治3年(1870年2月1日)
先生の一家は一旦姫路に移り、
父孝氏は家督を相續し、
同年先生を伴ひて再び東京に出づ、
而して恰も大學南校貢進生の選擧あるに會す。

當時姫路藩の青少年士にして
將來を嘱目せらるる者は、
概ね東京に在りて勉學中に屬し、
其の氏名の錄せらるるもの、
先生の古市造次、石本新六、高須碌郎、長谷川雉郎氏等、
合計十七人なりしが、
貢進生の選任者たる石本綱氏は、
此十七人中より
先生と石本新六氏の二人を抜擢したり。

此抜擢に就きては綱氏の弟なるを以て、
兄にして弟を抜擢す、
確乎たる自信あるに非ずんば能はず。

然り他日新六氏は陸軍大臣たり、
又男爵を授けられ、
先生と共に姫路出身の双璧として
名聲を博したるに見て、
克く兄綱氏の自信を立證し得たりと謂ふべし。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257701/24
第三節 南校と第一番中學  p25/240
明治四年七月、  ※明治4年7月(1871年8月16日)
廢藩置縣の斷行となるや、
學制も亦革新せられ、
曩に閉鎖したる大學本校を廢止し、
同時に文部省を置き、
大學南校は大學東校と共に文部省の管轄に屬し、
其の名稱の於ても、
大學の二字を削りて、
單に南校東校と唱へ、
各獨立の學校と爲れり。

既にして九月に至り、 ※明治4年9月(1871年10月14日)
東南両校共に一時閉鎖し、
舊諸藩の貢進生制度も之を廢止し、
三百有餘の貢進生は一旦總て退學を命ぜられたり。

蓋し南校東校は當時の最高學府なるが、
今此閉鎖は即ち改革を行はんが爲の準備なるが故に、
近く再び開校を見るべきは必然なり、
而して其の開校の日に於て、
舊貢進生中優秀なる者を選抜するの計畫なるを以て、
南校閉鎖の當日文部省は、
舊貢進生にして病気或は止むを得ざる事情に依り
歸國する者の外は、
皆東京に留まるべきことを以てしたり。

尋で改革案成り、
十月新に南校入學規則を發布し、 ※明治4年10月(1871年11月13日)
舊貢進生中より優秀なる者を選抜し、
且別に募集したる生徒と共に
其の入學を許可し、
同月再び開校せられたるが、 ※明治4年10月(1871年11月13日)
先生は其の選抜優秀生の一人たりしは言ふを俟たざるも、
専門科への進級は尚後日に在りたり。

斯くして再開せられたる南校の生徒數は四百四十餘人、
學科は地理、歴史、數學、理學、文學、修身學等にして、
外國語は英、佛、獨の三科とし、
各其の一を選ばしむ。

先生は從前の如く佛語を選定せられ、
當時の佛語教師は
「マイヨ」、
「フォンテーヌ」、
「レピシエ」、
「ピジョン」、
「タルジャン」の五人なりしが、
一般理學を担任せし、
「マイヨ」教授の先生に對する信用は
殊に深きものありたり。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257701/25

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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