2013年10月

明治国際医療大学附属病院=本日退院

明治国際医療大学附属病院=本日退院

白内障手術(両眼)、予定通り無事終了し、
本日退院しました。

眼科外来 山田先生
     堀内先生
     大原先生
     視能訓練士の先生
     看護師の皆様
手術室  看護師の皆様
4階病棟 看護師長 渡邉様
     看護師の皆様
     お世話になった方々

お世話になりました。
感謝申し上げます。
ありがとうございました。

追記:一時、同室であった舞谷様。
   貴重な話をお聞かせ頂き、
   ありがとうございました。

平成25年10月31日
       小野一雄



明治国際医療大学附属病院=入院=白内障手術

明治国際医療大学附属病院=入院=白内障手術

明治国際医療大学附属病院
京都府南丹市日吉町

本日(平成25年10月21日)から、
10月31日(予定)迄、
白内障(両眼)手術の為、入院します。
ブログは、退院後、再開します。
1ブログは、退院後、再開します。
撮影 平成25年1月4日
2ブログは、退院後、再開します。
撮影 平成25年1月15日
3ブログは、退院後、再開します。
撮影 平成25年1月20日

[支那海關在勤日本人調査表] 《小川常是夫=小川清秀:上海》【最新支那官紳録】

[支那海關在勤日本人調査表]
《小川常是夫=小川清秀:上海》
【最新支那官紳録】大正7年


【最新支那官紳録】大正7年8月20日発行
[支那海關在勤日本人調査表]      p680/740
(大正五年十二月末 現在)
一、内班(In-door)(五十人)
職 名  姓 名   在勤地 就職年月
税務司 《黒澤禮吉》 蘇州  明治三十二年七月
税務司 《立花政樹》 青島  明治三十三年二月
     ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874492/680
二、外班(Out-door)(百四十五人)   p681/740
職 名    姓 名    在勤地 就職年月
三等鈴子手 《小川常是夫》 上海  大正五年十二月  p682/740
試用鈴子手 《兩角 祐》  上海  大正五年 七月  p682/740
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874492/682
大正七年八月十七日印刷
大正七年八月二十日發行
編纂 兼 發行者 支那研究會
         北京東城公平當胡同
         右 代表者
         田原禎次郎
印刷者      島 連太郎
         東京市神田區美土代町二丁目一番地
印刷所      三秀舎
         東京市神田區美土代町二丁目一番地
發賣所      冨山房
         東京市神田區裏神保九番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874492/719

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

≪氷の上ヲ走? ホヲカケタ アイスボート≫凍結した遼河
小川清秀 祖父
小川 梅 祖母
小川文子 母  大正10年(1921)6月5日生
撮影年月    大正末期
[赤い屋根の官舎]
わたしの大連・営口
凍結した遼河(昭和五年前後)
寒風を帆に孕んで走る氷上橇(営口)
SAILING-SLEDGES RUNNING ON FROZEN RIVER. YINGKOU.

冬になると遼河は全面凍結した。
ジャンクの代わりにソリが走った。
一度乗せてもらったがスピードがあって気持ちがよかった。 P13

父、佑(たすく)は・・・。
当時上海で一番収入が良いのは税関であることを知っていた父は、
一生懸命勉強して運良く税関に入ることができた。
そのころ、おかしなことだけれど、
中国の税関は英国が支配していたので英国人が多く、
ドイツ人、アメリカ人、日本人と世界各国から人が集まり、
仕事はすべて英語でやっていた。 P16

官舎も初めは二階建、二軒続きの洋館であまり大きくなく、
庭も三十坪ぐらいで赤いレンガ塀に囲まれた瀟洒な家だったが、
一年後にはすぐ隣の広い敷地に、
上海から職人を呼んで建てた純英国式、四階建四軒続きの家に移った。
小さいほうの家は後に大連に移ってからも
「何かお伽噺しに出てくるような家だったな―」と思い出していたから、
子供心にも安東の家とすっかり違った家で印象が強かったのではないだろうか。
最初の家の隣家には
三姉と同級の文子さんと、 ※小川文子小野文子
下に男の子が二人いて   ※小川清久 小川清澄
いつも庭で一緒に遊んだ。 P52

1990年12月12日 初版第一版発行
著 者 両角享子
発行者 羽生和男
発行所 宝文館出版株式会社
    東京都千代田区神田神保町三ノ一七
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2224074.html

《小川清秀:履歴書》
[朝鮮元山小學校:海星學校:英米煙草會社:佐世保重砲隊:中國海関…]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2630079.html

《藤井伊藏》【人事興信録.第13版(昭和16年) 下】【人事興信録.第14版】

《藤井伊藏》
【人事興信録. 第13版(昭和16年) 下】昭和16年10月1日発行
【人事興信録. 第14版 下】昭和18年10月1日発行

【人事興信録. 第12版 下】昭和14年10月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127945/1108
《藤井伊藏》  p664/1112
記載なし
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127945/664

【人事興信録. 第13版(昭和16年) 下】
 昭和16年10月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1070514/993
《藤井伊藏》   p540/1000
若松商工會議所  會頭
九州採炭(株)  社長
東洋特殊鑄物(株)社長
新長崎炭鑛(株) 社長
大平鑛業(株)  社長
日滿鑛業(株)  社長
深坂炭礦(株)  取締役
福岡縣在籍
  妻  シメ  明治二八年(1895)一月生
         福岡 藤田市太郎 女
  養子 則文  明治三七年(1904)三月生
         長女 ヒサエ 夫
         大分 高田東太郎 六男
  女  ヒサエ 明治四〇年(1907)一一生
         養子 則文 妻
  養子 久吉  明治三九年(1906)四月生
         二女 美惠子 夫
         山口 田中屋友次郎 三男
  女  美惠子 大正二年(1913)七月生
         養子 久吉 妻
  女  睦子  大正八年(1919)六月生
  女  鈴子  大正十二年(1923)一〇月生
宮崎縣 藤井采藏の弟にして
明治十四年(1881)七月出生
明治二十年(1887)家督を相續す
現時 若松商工會議所會頭にして
前記各會社の重役たり
家族 尚ほ
孫  昭伍郎(昭和五年(1930)一月生、養子 則文 長男)
同  和子 (昭和六年(1931)九月生、養子 則文 長女)
同  道子 (昭和九年(1934)二月生、養子 則文 二女)
同  寛治 (昭和十年(1935)二月生、養子 久吉 長男)
同  剛  (昭和一五年(1940)二月生、養子 久吉 二男)
同  日出雄(昭和一六年(1941)一月生、養子 久吉 三男)あり
三女 繁子 (大正四年(1915)九月生)は長野縣 春日悅司に
養子 富子 (大正七年(1918)三月生)は長野縣 春日省吾に嫁す
(福岡縣若松市修多羅九八八)
(電話 八五八)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1070514/540

【人事興信録. 第14版 下】昭和18年10月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455/1012
國債★債権で
さあ もう一機
   もう一艦!
大東亞戰爭國債
戰時貯蓄債権 報國債権
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455/2
《藤井伊藏》  p521/1019
若松商工會議所  會頭
九州採炭     代表
東洋特殊鑄物(株)社長
新長崎炭鑛 (株)社長
大平鑛業  (株)社長
合同製器  (株)社長
深坂炭鑛  (株)取締
福岡在籍
 妻  シメ  明治二八年(1895)一月生
        福岡 藤田市太郎 女
 養子 則文  明治三七年(1904)三月生(別掲)
 養子 久吉  明治三九年(1906)四月生
        山口 田中屋友次郎 三男
        醫博士 岡山醫大卒
 女  美惠子 大正二年(1913)七月生
        久吉 妻
        若松高女卒
 女  睦子  大正八年(1919)六月生
        若松高女卒
 女  鈴子  大正十二年(1923)一〇月生
        若松高女卒
宮崎縣 采藏の弟にして
明治十四年(1881)七月出生
明治二十年(1887)家督を相續す
現時 若松商工會議所會頭にして
前記會社の重役たり
家族 尚ほ
孫  寛治あり
三女 繁子(大正四年(1915)九月生)は
   長野縣 春日悅司に
養子 富子(大正七(1918)年三月生)は
   長野縣 春日省吾に嫁す
(福岡縣若松市修多羅九八八)
(電話 八五八)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455/521
《藤井則文》  p525/1019
九州採炭  (株)社長
大平鑛業  (株)常務
東洋特殊鑄物(株)監査
福岡在籍
  養父 伊藏  明治十四年(1881)七月生
         戸主(別掲)
  妻  久江  明治四〇年(1907)一一月生
         養父 長女
         直方高女卒
  男  昭伍郎 昭和五年(1930)一月生
大分縣人にして
明治三十七年(1904)三月出生し
伊藏の養子となる
福岡中學を卒業し
御穗炭礦營業部勤務を經て
現時前記會社の重役たり
趣味 謡曲 旅行
宗教 佛敎
家族 尚ほ
   長女 和子(昭和六年(1931)九月生)
   二女 道子(昭和九年(1934)三月生)あり
(福岡縣若松市山手通六)
(電話 八五六)
? 藤井伊藏
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455/525

【人事興信録. 第15版 下】昭和23年9月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123783/289
《藤井伊藏》  p155/294
記載なし
《藤井則文》
記載なし
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123783/155

醫博 ≪舊姓 田中屋久吉:藤井久吉≫ 山口
【岡山医科大学一覧. 自昭和9年至昭和10年】
 昭和9年12月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278887/96
◎學生
 四年級(昭和六年入學) p59/100
≪田中屋久吉≫ 山口
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278887/59

【岡山医科大学一覧. 自昭和15年至昭和16年】
 昭和16年5月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453821/113
昭和十年三月卒業(七十六人) p86/114
醫博 ≪舊姓 田中屋:藤井久吉≫ 山口
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453821/86

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《今里廣記:副社長》[九州採炭]
【ポケツト会社職員録】昭和14年~15年版
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2398626.html

《男爵 伊東義五郎》 【華族大系】大正3年5月26日発行

《男爵 伊東義五郎》
【華族大系】大正3年5月26日発行

【華族大系】大正3年5月26日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950444/504
《男爵 伊東義五郎》 信濃松代藩士  p344/505
 正四位 勳三等 功三級
 海軍中將 貴族院議員
 東京市麻布區霞町二十二番地
 (電話 芝 九二四)
當家は當主義五郎より家聲を揚ぐ。
義五郎松代藩士《伊東賢治》の四男にして、
夙に身を軍職に委ね
明治十四年海軍少尉に任じ、       ※明治14年(1881)
同十七年軍事視察の爲め佛國に差遣され、 ※明治17年(1884)
同二十一年歸朝後、           ※明治21年(1888)
高千穗砲術長、
海軍参謀部員、
常備艦隊参謀、
比叡、大和、葛城等各艦の副官となり、
日淸戰役に際しては、
海軍大臣副官として功あり。

爾來爾進海軍省主事、
佛國公使館附武官、
敷島艦長、
常備艦隊司令官、
横須賀鎭守府工廠長、
竹敷要港部司令官等を歴任し、
明治三十八年海軍中將に昇任し、     ※明治38年(1905)
日露戰役の功に依り
明治四十年九月             ※明治40年(1907)9月
男爵を授けらる。
後豫備に編入せられ、
貴族院議員に勅選せられ
以て今日に至る。
賢治⇒義五郎(安政五年五月生)⇒義節(明治三十三年三月生)
      ※1858年6月26日      1900年3月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950444/344

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《伊藤義五郎》【人事興信録. 初版(明36.4刊)】

《伊藤義五郎》
【人事興信録. 初版(明36.4刊)】

【人事興信録. 初版(明36.4刊)】
 明治36年4月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/663
《伊藤義五郎》  p52/670
 正五位 勳四等 功四級
 海軍少將 常備艦隊 司令官
 妻  マリーフラパ
    明治四年七月生   ※明治4年7月(1871年8月)
 男  義節
    明治三十三年三月生 ※明治33年(1900)3月
君は安政五年五月十六日を以て生る
  ※1858年6月26日
長野縣士族《伊東正》の弟にして
明治廿一年十一月分家す   ※明治21年(1888)11月
同十四年一月海軍少尉に任じ ※明治14年(1881)1月
同三十四年七月少將に進み  ※明治34年(1901)7月
定規艦隊司令官となる
其間
海軍参謀部第二課員
常備艦隊参謀
西海艦隊参謀長
海軍省主事
佛國公使館附
敷島艦長等に歴補
同廿七年九月        ※明治27年(1894)9月
大本營海軍大臣副官として
廣島に赴き盡すところ尠らず
同廿八年九月        ※明治28年(1895)9月
功四級金鵄勲章單光旭日章を賜ふ
家族は前記の外
女 イサベルトマリー       〔明治二十二年(1889)九月生〕
同 シザンヌ、アリーマメリー、球山〔明治二十六年(1893)二月生〕
同 禮禰鞠惠あり
(東京市麻布區霞町二二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/52

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[Wikipedia]
伊東 義五郎(いとう よしごろう)
1858年6月26日(安政5年5月16日) - 1919年2月22日)は、
日本海軍の軍人、最終階級は海軍中将。男爵。
 ―略―
親族[編集]
妻 伊東満里子 テオドール・フラパース(フランス海軍軍人)の娘、
フランス名マリ・ルイーズ・フラパース
娘婿 武者小路公共(外交官)・本野盛一(外交官)
孫 武者小路公秀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%BE%A9%E4%BA%94%E9%83%8E

《陸 實=陸羯南》【人事興信録. 初版(明36.4刊)】

《陸 實=陸羯南》
【人事興信録. 初版(明36.4刊)】

【人事興信録. 初版(明36.4刊)】
 明治36年4月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/663
《陸 實》 「日本」新聞記者 p408/670
 妻  てつ 明治二年八月生    ※明治2年8月(1869年9月)
       東京府士族 《今居元吉》長女
 女  まき 明治十九年二月生   ※明治19年(1886)2月
君は安政四年十月十四日を以て生る  ※1857年11月30日
青森縣士族《田中謙齋》の二男なり後
《陸沼五兵衞》の絶家を再興して
姓を《陸》となし
號を《羯南》と云ふ
夙に經史に通じ
曾て司法省法學校生徒となり
業成るの後
職を官報局に奉じ
幾?なく之を辭し
筆を東京電報社に執り
改題して「日本」となるや
依然之か主筆として
熾に國家主義を唱導す
是より君が文才
江湖に鳴り
《碌量》《蘇峰》等と  ※《碌量⇒碌堂》
三文士を以て稱せらる
今現に「日本」主筆記者たり
家族は前記の外
女 鶴代 (明治二十二年(1889)三月生)
女 いく (明治二十三年(1890)十月生)
女 ともゑ(明治二十六年(1893)二月生)
女 しま (明治二十九年(1896)十月生)
女 ますゑ(明治三十四年(1901)一月生)
等あり
(東京市下谷區下根岸八六)
(電話 下谷局 三四五)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/408

【文壇風聞記】明治32年9月25日再版発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995107/89
《陸 羯南》  p68-70/89
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995107/68
《朝比奈碌堂》 p70/89
◎文氣崢嶸、筆鋒截利、
 一度滿腹の毒氣を吹きかくれば、
 向ふ者皆仆れざるなし。
 碌堂の蘇峰羯南と對して、
 明治の三大新聞記者を以て
 稱せらるゝ者、
 過褒に非ざる也。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995107/70

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[Wikipedia]
陸 羯南(くが かつなん)
(安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日)
- 明治40年(1907年)9月2日)は、
日本の国民主義の政治評論家。
日本新聞社長。正岡子規を育てた。
幼名は巳之太郎、のち実、号が羯南。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%AF%E5%8D%97

※《碌量⇒碌堂》《朝比奈碌堂》
[Wikipedia]
朝比奈 知泉(あさひな ちせん)
(文久2年4月25日(1862年5月23日)
- 昭和14年(1939年)5月22日)は
明治時代の新聞記者、政論家。
号は碌堂、他に珂南・河水懶魚・不染盧主人などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E7%9F%A5%E6%B3%89

《蘇峰》
[Wikipedia]
徳富 蘇峰(とくとみ そほう)
(文久3年1月25日(1863年3月14日)
- 昭和32年(1957年)11月2日)は、
明治・大正・昭和の3つの時代にわたる日本のジャーナリスト、
思想家、歴史家、評論家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0

[大阪回生病院 看護婦養成所:明治38年~45年卒業生]【大阪回生病院沿革史】

[大阪回生病院 看護婦養成所:明治38~45年卒業生]
【大阪回生病院沿革史】大正13年

【大阪回生病院沿革史】大正13年7月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/217
[大阪回生病院 看護婦養成所] p209-214/220
 卒業生            p211/220
第一回 明治三十八年二月一日卒業
    人員 十二名
 渡海谷ハマ  佐久間ミホ  村上ハナ  井上ヒロ
 酒井クニ   橋本トワ   室 ジユウ 片岡スミ
 濱田フサ   植村シゲ   安藤シヅヱ 山崎ヤス
 (但シ渡海谷ハ三十三年東京ニ於テ
  佐久間、村上ノ兩名ハ三十四年十二月二十五日ノ卒業ナルモ
  規則改正ノ為メ之ヲ再授ス)

第二回 明治三十九年二月一日卒業
    人員 六名
 佐藤政代   柳田ヨシ   堤 ヒロ  近藤コシゲ 松本德惠
 堀内隆代

第三回 明治三十九年九月二十一日卒業
    人員 七名
 大西みち   飛松かよ   和田山ミツ 河本ハチヨ 德田コウ
 喜多村キヨノ 横山シツ

第四回 明治四十年二月一日卒業
    人員 二名
 池田とみゑ  武生チトセ

第五回 明治四十一年三月十一日卒業
    人員 三名
 引田みわ   山口しよう  植村千代

第六回 明治四十一年六月八日卒業
    人員 七名
 久保田ツウ  荻野佐久榮  馬場チカ  廣實ムラ  吉田カツヱ
 櫻木ヒサ   松井きし

第七回 明治四十二年五月一日卒業
    人員 三名
 岡田嘉乃   幸阪 虎   餘語ミツ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/211
第八回 明治四十二年五月一日卒業   p212/220
    人員 五名
 河本テツ   西端芳枝   久保 京  西村小糸  新 ヨシノ

第九回 明治四十三年四月一日卒業
    人員 十一名
 西村小繁   茨木シナ   土井リキ  森本ヨシ  森永サミ
 小南キワ   芦田テル   福田ムメ  岡本キヨ  中西千代
 山田ミツ

第十回 明治四十四年五月三日卒業
    人員 十一名
 緒方トシ   森 セツ   野瀬タミ  鐵輪末野  花栗孝代
 原田歌野   小野カツ   左尾まさ  小川すゑ  帯谷ます
 圓尾よね

第十一回 明治四十五年六月一日卒業
     人員 二名
 西畑サト   森 ハルヱ

第十二回 大正二年五月一日卒業    p212/220
     人員 七名
     ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/212
―略―
第二十三回 大正十二年四月十六日卒業 p214/220
      人員 二十四名
      ―略―

以上 合計 二百五十三名
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/214

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[大阪回生病院 産婆養成所:卒業生]【大阪回生病院沿革史】大正13年

[大阪回生病院 産婆養成所:卒業生]
【大阪回生病院沿革史】大正13年

【大阪回生病院沿革史】大正13年7月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/217
[大阪回生病院 産婆養成所] p215-216/220
 卒業生           p216/220
第一回 大正六年三月三十日卒業
    人員 十二名
 本田カスミ  田村ハルヱ  村田 藤  前田ハルヱ
 平山シゲ   前畑ツギノ  辻村アサ  多田フデ
 三保木益美  本田晃子   新谷キヨ  深田ノブ

第二回 大正七年三月三十一日卒業
    人員 八名
 安田千代   石川ツル   栗原スヱコ 赤崎チト
 池谷慶子   岡崎小芳   米崎サカヱ 本多マス

第三回 大正十二年九月二十日卒業
    人員 十一名
 太田 碧   神吉はるゑ  河合トメ  米田房野
 田村 操   信川オタカ  國松ふく  高坂千代野
 是永 治   淸水一枝   森本テイ

以上 合計 三十一名
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935281/216

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[卒業生:明治10年1月~12月(77人)  【東京府青山師範学校一覧】

[卒業生:明治10年1月~12月(77人)
【東京府青山師範学校一覧】

速成生   明治十年(1877) 一月卒業 (二十八人)
      明治十年(1877) 六月卒業 (二十六人)
一期豫科生 明治十年(1877)十二月卒業 (二十三人)

【東京府青山師範学校一覧】明治四十二年二月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/1
東京府靑山師範學校一覧           p8/173
   第一章 沿革略
明治六年四月    ※明治6年(1873)4月
小學校敎員講習所ヲ開設シ
府廰構内舊町會所ヲ學舎ニ充テ
從來ノ小學校敎員及ビ家塾敎員ノ志願者ヲ集メテ
小學校敎員タルニ必須ノ學科及ビ敎授ノ方法ヲ傳習セシム
本校ノ創始ハ此ニ基ヅク

同八年七月     ※明治8年(1875)7月
校舎新築ノ議ヲ決ス、
敷 地 千五十六坪餘
建築費 三千九百九十七圓

同九年三月     ※明治9年(1876)3月
新築校舎落成式ヲ擧行シ
東京府小學師範學校ト改稱ス
之レヲ本校ノ創始トス
   ―略―
(明治九年)     ※明治9年(1876)
 十一月 校名ヲ東京府師範學校ト更ム
 十二月 本府屬 田邊貞吉校長兼務ヲ命ゼラル
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/8
第九章 卒業生               p151/173
   速成生 明治十年(1877)一月卒業(二十八人) p151/173
黒澤源之允  澁谷恭寛   萩生 融
守 行三郎  篠原 行   石川政庸
加藤行吉   木村成宜   櫻井宇八
關 東    龜井淸一   增山爲繼
岩倉甲子二  及川椿吉   園部正直
平田次郎   松崎恒三郎  堀場一郎
山崎寅藏   麑島董吉   五十嵐三郎
石井重仁   太田有終   富田貞太郎
大橋直之   渡邊政吉   丹波島三郎
鈴木重蒔
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/151
   明治十年(1877)六月卒業(二十六人) p151-152/173
黒見 錄   淺井一郎   山本道太郎
淸水直義   伊藤 忍   田中正義
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/151
伴坂宗裕   祖谷江梅五郎 齋藤珍郎
岡本淸遠   元木忠郎   和田作太郎
山本正直   三角貞義   橋爪捨藏
上遠野 榮  倉地寛裕   中堀道戈
龜井 滿   松山 義   松平行正
景浦忠厚   山岸輯光   善波久馬
高松久二郎  小林捨次郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/152
   二、一期豫科生 明治十年(1877)十二月卒業(二十三人) p152/173
長山正智   安蒜馬一郎  澤田賢政
津田立本   稻垣稔藏   樋口忠次郎
大田原能熈  西郷久道   德永三郎
會田由義   高橋正次郎  酒井昇造
町田友也   小林三友   小柳重松
淸水正倦   長友安敦   柴田能敏
杉浦文兼   淸水復一   後藤義直
日下部政常  瀧川 新
  明治十一年中(1878)卒業(八十人)   p152/173
       ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813200/152

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[国立大学法人 東京学芸大学]
〈沿革表〉
http://www.u-gakugei.ac.jp/01gaiyo/enkaku.html
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