2014年02月

《飯塚友一郎:妻 くに》【帝国大学出身名鑑】昭和7年

《飯塚友一郎:妻 くに》
【帝国大学出身名鑑】昭和7年

【帝国大学出身名鑑】昭和7年12月16日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/1002
《飯塚友一郎》   p125/1005
 隆文館株式会社  常務
 有限責任信用組合 相互金庫 理事
 辯護士
 父  由太郎 明治四年生 現戸主
 妻  くに  明治三三年生       ※旧姓:坪内くに
        東京府 關島清兵衛 二女 ※鹿島清兵衛
        文學博士 坪内雄藏 養子
        成女高女卒
 嗣子 五郎藏 大正一〇年生
 女  やなぎ 大正一一年生
君は東京府 酒商 飯塚由次郎の長男
明治廿七年十一月 東京府牛込區に生る
第一高校を經て
大正八年 東京帝大 法科 佛法科を卒業し
大正八年十二月 現地に辯護士を開業す
曩に東京府會議員(牛込區選出)
所得税 調査委員たり
宗教  佛敎
趣味  劇文學
(神奈川縣鎌倉郡腰越津村谷戸)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/125

【花】明治34年6月
明治三十四年五月廿八日印刷
明治三十四年六月 四日發行
編輯發行兼印刷者 鹿島清兵衛
         大阪市東區瓦町一丁目八十一番屋敷
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832599/14

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚仁兵衛》(牛込區横寺町七)【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年

《飯塚仁兵衛》
(牛込區横寺町七)
【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年

【東京市及接続郡部地籍台帳. 1】明治45年4月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/9
牛込區 通寺町  p581-582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
四〇ノ一 宅地  一五四・一三 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p582/617
五〇   宅地   四二・六三 横寺町七 《飯塚元吉》
五一   宅地   四八・二六 横寺町七 《飯塚元吉》
五二   宅地   五二・一六 横寺町七 《飯塚元吉》
五三   宅地   四八・四八 横寺町七 《飯塚元吉》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/582
牛込區 横寺町  p582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
 四   宅地  一三五・六五 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p582/617
 五   宅地  一二四・六八 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
 六ノ一 宅地   二〇・二五 横寺町七 《飯塚春之助》
 六ノ二 宅地   四〇・五〇 横寺町七 《飯塚元吉》
 七   宅地  三五三・八一 横寺町七 《飯塚八重》  ※
 八   宅地  一九八・四三 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
二四   宅地  一七〇・六〇 横寺町七 《飯塚元吉》
三〇   宅地  二〇九・〇〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三一ノ一 宅地  一八八・七〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三一ノ二 宅地  一九九・六八 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
三二   宅地   四五・五〇 横寺町七 《飯塚仁兵衛》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/582
牛込區 横寺町  p582/617
地番   地目   坪 數   所有者住所 所有者氏名
三九   宅地   四四・二四 横寺町七 《飯塚仁兵衛》 p583/617
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800933/583

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《飯塚仁兵衛》(牛込區横寺町七)【日本現今人名辞典】明治36年・明治45年

《飯塚仁兵衛》
(牛込區横寺町七)
【日本現今人名辞典】明治36年・明治45年

【日本現今人名辞典】明治36年2月14日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/796
《飯塚仁兵衛》  p72/802
(いひつか、にへゑ)
君は東京屈指の酒造家なり
大古源之助氏 長子
天保十四年九月      ※天保14年9月:1843年9月24日
上總國木更津在?南に生る
 ―略―
(納税 三〇〇圓餘、東京市牛込區横寺町七)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/72

【現代人名辞典】明治45年6月27日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/1020
《飯塚仁兵衛君》  p136/1027
君は酒造家なり。
上總の人、
大古源之助氏の長男にして、
天保十四年九月を以て   ※天保14年9月:1843年9月24日
木更津在?南村に生る、
夙に商業に志し
十二歳江戸に出で某店に入りて
店丁となり精勤以て?に力め、
遂に??に依り
飯塚氏の養子となる、
同家は牛込區内屈指の舊家にして
累世酒造を業とす、
君其業を襲ぐに及び
益其發展に力め、
斯界の重鎭を以て目せらるゝに至れり、
曩に東京府酒造組合の創立せらるゝや
推されて頭取となり、
爾來繼續上任する事數回に及ぶ、
明治十三年以來
常に牛込區名譽職に推選せられ、
區内の公共事業一として君の手に俟たざる無く
聲望甚高し、
日本赤十字社、
海防費獻金枚擧に邊あらず、
賞狀賞杯を受けし事
十數回に及び
二十六年黄綬褒章を賜はれり、
三十二年
内外火災保険會社を創立して社長に推され又
日本酒精會社及中央貯蓄銀行の重役たり、
曩に市會議員に擧げられたる事あり、
夫人を亡とき子と呼び
五男あり
(牛込區横寺町七 電話 番町 一一三三)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779591/136

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚友一郎》【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】

《飯塚友一郎》
【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】

【日本辯護士名簿. 大正14年7月現在】
 大正14年8月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/243
日本辯護士名簿 大正十四年七月現在  p5/247
 日本辯護士協會(事務所 電話 銀座 二八六〇)
○東京地方裁判所所屬 貳千百貳拾九名 p5/247
 (一) 東京辯護士會(一七二二名) p5/247
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/5
《飯塚友一郎》 本籍 東京      p7/247
事務所 牛込區若松町一〇二
電 話 牛込 六一九七
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906395/7

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《飯塚友一郎》【帝国大学出身録】大正11年

《飯塚友一郎》
【帝国大学出身録】大正11年

【帝国大学出身録】大正11年4月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970710/870
《飯塚友一郎》  p70/872
 東京市牛込區若松町一〇二
君は東京市牛込區横寺町七番地に原籍を有し
明治廿七年十一月を以て生る
第一高等學校を經て
大正八年 東京帝國大學 法學部 佛法科 卒業
大正八年十二月 辯護士登録
現地に開業し
以て 今日に至る
大正十年六月 牛込區選出 所得調査委員となる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970710/70

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《飯塚友一郎》【第一高等学校一覧】【東京帝国大学一覧】

《飯塚友一郎》
【第一高等学校一覧】
【東京帝国大学一覧】

[第一高等学校 佛法科 大正2年9月入学]
[第一高等学校 佛法科 大正5年7月卒業]

[東京帝国大学 法律学科 仏蘭西法 大正5年9月入学]
[東京帝国大学 法律学科 仏蘭西法 大正8年7月卒業]

【第一高等学校一覧. 自大正2年至3年】
 大正2年12月8日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/179
◎七章 生徒姓名(大正二年九月末調)        p64/180
 ○大學豫科                    p64/180
第一部 一年五之組 佛法、政治、佛文科(四十一人) p74/180
私立成城 《飯塚友一郎》 東京
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/74

【第一高等学校一覧. 自大正5年至6年】
 大正5年12月22日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940279/206
大正五年七月(第一高等學校 大學豫科) 卒業 p180/207
佛法科(三十七人)              p181/207
《飯塚友一郎》 東京             p182/207
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940279/182

【東京帝国大学一覧. 從大正5年 至大正6年】
 大正6年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940167/491
○學生生徒及姓名(大正五年九月末調)     p266/492
 第二 法科大學               p270/492
法律學科                   p270/492
 第一年(姓名イロハ順)           p274/492
佛蘭西法ヲ兼修スルモノ            p275/492
《飯塚友一郎》 東京平            p275/492
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940167/275

【東京帝国大学一覧. [大正8年度]附録】
 大正9年3月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152274/142
○學士及卒業生姓名          p7/144
 法學士               p7/144
法律學科(佛蘭法選修)(姓名五十音順) p19/144
《飯塚友一郎》 東京
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152274/19

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


[坪内くに子嬢の婚禮姿]【歴史写真. 大正9年8月號】

[坪内くに子嬢の婚禮姿]
【歴史写真. 大正9年8月號】

【歴史写真. 大正9年8月號】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966265/1
[坪内くに子嬢の婚禮姿]  p37/45
文學博士《坪内逍遥》氏の
養女《くに子》嬢(二二)は
博士養子《士行》氏と
二世の契りを取交すべき
約束の人であつたが、
人も知る如き事情の下に其の事成らず、
嬢の母校成女女學校長
《宮田脩》氏夫妻の媒酌にて
牛込の素封家
法學士《飯塚友一郎》氏(二七)と ※《飯塚友一郎》別稿に記載
大正九年六月三十日
日比谷大神宮に於て
華燭の典を擧げ
夕刻五時より
帝國ホテルに於て披露の宴を催した。
[坪内くに子嬢の婚禮姿]

《宮田 脩:早稲田大学 文学科 明治31年卒業》

【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
 大正4年12月24日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/189
◎早稲田大学 評議員之部   p6-7/189
《宮田 脩》 評議員     p7/189
 牛込區南山伏町一四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/7
◎文學科           p73/189
●明治三十一年得業      p75/189
《宮田 脩》 東京
 住所前出(評議員の部)
 本大學評議員
 成女高等女學校長
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/75

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


※成女女學校長 宮田脩氏

[成女学園中学校:成女高等学校]
 成女のあゆみ
明治
1899(明治32)年 麹町下二番町に成女学校創立 初代校長 吉村寅太郎
1903(明治36)年 山根正次 第二代校長就任
1906(明治39)年 現在の富久町に移転
1908(明治41)年 成女高等女学校と改称 宮田修 第三代校長就任
1909(明治42)年 校歌『この花』制定
http://www.seijo-gk.ac.jp/ayumi.html

《坪内みさを=雲井浪子》〔現代の代表的婦人〕【婦人宝鑑. 大正12年度】

《坪内みさを=雲井浪子》
〔現代の代表的婦人〕
【婦人宝鑑. 大正12年度】

【婦人宝鑑. 大正12年度】
 大正12年3月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958772/336
〔現代の代表的婦人〕 p313/340
《坪内みさを》    p325/340
坪内士行氏夫人。
明治三十四年 淡路國に生る。
雲井浪子と號し
寶塚少女歌劇研究生として名聲を博した。
現住所、大阪府下箕面村櫻井。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958772/325

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《坪内ミキ子》
[Wikipedia]
坪内ミキ子(つぼうち みきこ、1940年4月12日 - )は、
東京府(現:東京都)出身の女優・タレント。
人物・略歴[編集]
父親は演劇評論家・坪内士行
(宝塚歌劇団職員・宝塚音楽学校の顧問も歴任した)、
母親は宝塚歌劇団1期生の元トップ娘役で
宝塚歌劇団卒業生の雲井浪子(本名:坪内操、旧姓:高井)、
 ―略―
1963年に早稲田大学文学部英文科を卒業。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E5%86%85%E3%83%9F%E3%82%AD%E5%AD%90

[早稲田大学創立125周年記念式典]
1小野一雄 坪内ミキ子
小野一雄 坪内ミキ子
2小野一雄 坪内ミキ子
小野一雄 小野喜代子 坪内ミキ子
撮影場所:早稲田大学 戸山キャンパス「記念会堂」
撮影日 :平成19年(2007)10月21日

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
早稲田大学創立125周年記念式典
平成19年(2007)10月21日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200284.html


blog
[小野一雄のルーツ]改訂版
新潟より<菊水酒造の銘酒が到来>
早稲田大学創立125周年記念の枡
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350970.html


《雲井浪子》[寶塚少女歌劇團一行の入京]【歴史写真. 大正8年7月號】

《雲井浪子》
[寶塚少女歌劇團一行の入京]
【歴史写真. 大正8年7月號】

【歴史写真. 大正8年7月號】
 [歴史寫眞]
 大正八年七月號
 大正八年七月一日發行
 會長 秋好善太郎君
 天變人事理工化學
 後の今を見る 又猶 今の昔を見る如く
 現代を利し 後世を益する事 莫大なり
 株式會社 東光園
 歴史寫眞會發行
 東京淀橋 電話 番町 五八四・二七七四番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966256/1
[寶塚少女歌劇團一行の入京]  p20/37
寶塚の少女歌劇團は
昨大正七年の夏上京して
帝國劇場に獨特の歌劇を上演し
都人士の喝采裡に退却京したが、
大正八年にも再び帝劇の招きに應じ、
五月二十四日午後八時半
一行二十八名
東京驛着列車にて入京した。
殊に今回は同團の監督にして
嘗て外國より伴ひ來れる
《ホームス》といふ婦人の爲に捨てられたる
文學博士《坪内逍遥》氏
嗣子《坪内士行》氏も一行に加はり居り、
更に同氏が新たに選んで結婚するといふ噂のある
一座のスター《雲井浪子》嬢も上京したることとて
一層の人気を喚び
帝劇に於ても連日の大入を占めた。
寫眞は同團入京當夜
東京驛前の撮影に係るもので
前列左より二人目
鞄を手にしたるは問題の《浪子》嬢である。
《雲井浪子》嬢

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《雲井浪子》
[Wikipedia]
雲井浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井[1])
(1901年(明治34年)7月23日[2] - 2003年(平成15年)8月20日)は
元宝塚少女歌劇団主演娘役で宝塚歌劇団卒業生。
兵庫県洲本市出身。
夫は演劇評論家、早稲田大学教授の坪内士行。
娘は女優・坪内ミキ子[3]。
実姉は同じく宝塚歌劇団1期生で宝塚歌劇団卒業生の八十島揖子、
実妹は宝塚歌劇団15期生で宝塚歌劇団卒業生の緒島なお子。
義理叔父は坪内逍遥、逍遥の養女は飯塚くに。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E4%BA%95%E6%B5%AA%E5%AD%90

[帝大の銀時計組:明治36年7月]【新聞集成明治編年史. 第十二卷】

[帝大の銀時計組:明治36年7月]
【新聞集成明治編年史. 第十二卷】

【新聞集成明治編年史. 第十二卷】
 昭和15年6月28日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920426/306
 明治三十六年七月(皇紀二五六三 西暦一九〇三)
[帝大の銀時計組]  p69/309
〔七・一二、時事〕
東京帝國大學卒業證書授與式は、
昨日午前十時擧行せらる。
 ―略―
當日特に天皇陛下より
優等生に對させられ、
銀時計一個宛の恩賜ありたり。
優等生 左の如し。
法律學科  牧野英一
      雉本朗造
政治學科  小野義一
      上杉愼吉
      小川郷太郎
醫學科   小川嵯五郎 ※小川瑳五郎
      中川元吉
機械工學科 佐野清風
造船學科  大河内正敏 ※造兵學科
應用化學科 岡本 櫻
英文學科  安藤勝一郎
化學科   鈴木庸生
農學科   片岡 證  ※片岡 謙
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920426/69

【東京帝国大学一覧. 明治36-37年】
 明治36年12月3日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/353
明治三十六年七月卒業
法律學科(佛蘭西法) 牧野英一  岐阜 p254/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/254
法律學科(獨逸法)  雉本朗造  愛知 p255/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/255
政治學科       小野義一  高知 p259/357
政治學科       上杉愼吉  石川 p259/357
政治學科       小川郷太郎 岡山 p259/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/259
醫學科        小川瑳五郎 大阪 p265/357
醫學科        中川元吉  東京 p265/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/265
機械工學科      佐野清風  岡山 p272/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/272
造兵學科       大河内正敏 東京 p275/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/275
應用化學科      岡本 櫻  兵庫 p280/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/280
英文學科       安藤勝一郎 東京 p290/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/290
化學科        鈴木庸生  石川 p295/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/295
農學科        片岡 謙  茨城 p301/357
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180/301

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[Wikipedia]
[銀時計]
恩賜の銀時計[編集]
 ―略―
東京帝国大学では
明治30年(1897)から大正7年(1918)まで授与制度が続き、
323人が対象になった。
選定基準は必ずしも明確ではないが、
成績に加え人格も評価され、
学部1名と決まっていた訳ではない。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%99%82%E8%A8%88
記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ