2014年03月

《岡島伊三郎:友染製造場》【浪華商工技芸名所智掾:商用手引】明治18年

《岡島伊三郎:友染製造場》
【浪華商工技芸名所智掾:商用手引】明治18年

浪華商工技芸名所智掾:商用手引】明治18年5月出版
[友染製造場]  p37/88
《岡島伊三郎》
 大阪 問屋町 瓦屋橋 西詰北エ入
《岡島伊三郎:友染製造場》
[銅版活版摺物製造處]  p86/88
《亀岡佐七朗》
 大阪西區長堀白髭橋南詰
[銅版活版摺物製造?]
明治十八年三月廿五日御届
仝 十八年五月   出版
定價 三十九錢
編輯兼出版人 亀岡佐七郎
       大阪府平民
       西區西長堀南通四丁目八番地
校正人    村上吉兵衞
       西區北堀江上通三丁目三番地
撿補人    生見堂
       垣貫一右衞門
       北區曾根嵜新地一丁目九番地
發賣所    林 安之助
       東京府下神田區五軒町五番地
       成美堂
       三浦源助
       岐阜縣下美濃國岐阜米屋町
       木曽 糺
       廣島縣下備後國尾ノ道御所回リ
       勝村治右衞門
       京都府下寺町植松町
       金石堂
       古鹿利兵衞
       大阪長堀問屋橋南詰
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803734/86

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[国立公文書館]
[公文書にみる]
「発明のチカラ」
―明治期の産業技術と発明家たち―
23. 緋友禅写染法の発明(岡島千代造)
 ―略―
その人気に着目した京都の織物業者は、
モスリン生地に友禅染めを施そうとし、
技術者達によって「モスリン友禅」を造る様々な方法が編み出されたのでした。
展示資料は、「緋友禅写染法」を発明した
岡島千代造(1853―1921)が明治36年に緑綬褒章を受章した際の文書です。
 ―略―
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/23.html

「濟生學舎」の前身「醫學私塾」:明治九年【日本新聞広告史】昭和15年

「濟生學舎」の前身「醫學私塾」:明治九年
【日本新聞広告史】昭和15年

【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
濟生學舎」の前身「醫學私塾」   p147/748
左に掲載するものは、
刀圭界の異物として稱せられた
長谷川泰》が
濟生學舎を開く前身として作られた
醫學私塾の廣告であり、

明治九年(1876)三月四日の
「郵便報知」九二四號に掲載されて居る。
我文化史上貴重なる資料である。

今般
醫學私塾を開き
敎員を設け
解剖生理病理藥劑及び
内外科を敎授せんとす
有志の諸君は
來る三月廿五日迄に  ※明治9年(1876)3月25日
御申込可有之

 月謝 一圓   束脩 一圓五十錢
但し當分の處
寄宿舎生徒は二十五名を限り
其餘は通學
   二月十日    ※明治9年(1876)2月10日
       本郷元町一丁目六十六番地
            《長谷川 泰》
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/147

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[千里軒の二階つきバス:明治七年]【日本新聞広告史】昭和15年

[千里軒の二階つきバス:明治七年]
【日本新聞広告史】昭和15年

【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
明治七年頃    p117/748
東京市内交通機關として
「千里軒」の乘合馬車があつた。
之は同年八月六日   ※明治7年(1874)8月6日》
「東京日日」七百六十三號に掲載された
千里軒の廣告であり、
片方はその乘合馬車の實景である。

併し此
乘合馬車の
二階作りが危險とあつて
使用を禁止された。

〔写真① 「千里軒」の二階つきバス〕

〔写真②〕 乘合馬車開業
 弊社 今般 歐米各國にて行るゝ
「オムンボス」と稱する
 二階造の馬車運轉を始め
 客三十人を乘せ
 淺草雷神門前より
 新橋汽車「ステーション」迄
 一時?達す
 毎朝六時より午後八時迄
 一日往返六回すべし
 路上の賓客便利の爲め
 途中の乘り下り望?任す
 冀????
 四方の君子
 伏て來駕したまわん事を
   壹人前 賃金 十錢
   途中半ヲ限  三錢   千里軒
   明治七年時代の東京の交通
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/117

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《由良 守応》
和歌山文化情報アーカイブ事業
和歌山県ふるさとアーカイブ
紀の国の先人たち
事業家 《由良 守応》(ゆら もりまさ)
1827年(文政10年)~1894年(明治27年)
由良町生まれ 
二階建ての馬車を走らせた時代の先駆者
文政10年(1827)、門前村(現:由良町)に生まれる。
 ―略―
明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加、
英国で二輪馬車や四輪馬車、
オムンボスという二階建ての乘合馬車を見て、
馬車に魅せられた日々を送り、
日本でも走らせたいと夢を持つ。
 ―略―
明治7年(1874)、
乘合馬車会社「千里軒」を開業、
東京浅草から新橋間に日本で初めて
二階建ての馬車を走らす。
このオムンボスの勇姿に、
東京の人々は歓声をあげて喜ぶ。
しかし、同業者の増加や鉄道等の発達により、
明治13年(1880)、営業に終止符を打つ。
その後、時代の先どりを行く
発動機の製造会社を設立するが、
うまく事は運ばず帰郷、
明治27年(1894)、67歳で亡くなった。
由良町興国寺内には、
守応の功績を称え、顕彰碑が建立されている。
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]01-06
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2099902.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-04
〔在欧吉田少輔往復書類〕 p265-268
[明治前期 財政経済史料集成]第十巻 大内兵衛 土屋喬雄 編
昭和54年4月20日発行 原書房(復刻版)
昭和10年8月19日発行 改造社

皇国人乗込人名(五十名)    〔THE JAPAN WEEKLY MAIL〕Apr.6.1872
 ―略―
松平 忠和   元島原県知事   Matzudira
井上 三四郎  元島原県知事家扶 Enoeya
瀬谷 小次郎  元黒羽県知事随従 Sedzuma
小野 梓             Ono
由良 勧農助  和歌山      14 Japanese Students
山澤 静吾   鹿児島県     14 Japanese Students
 ―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2098882.html

『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』[明治大正図誌 第15巻 九州]

『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』
[明治大正図誌 第15巻 九州]
1[明治大正図誌 第15巻 九州]
2[明治大正図誌 第15巻 九州]
3[明治大正図誌 第15巻 九州]
『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』
(第2列右から8人目が夏目漱石
 この年9月に英国に向けて出発した) p54
4列左から二人目の左腕で書類を抱えているのが、
 別府三穂三郎 p54
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html
[明治大正図誌 第15巻 九州]
 昭和53年5月15日 初版第1刷発行
 編 者 飛鳥井雅道  原田伴彦
 発行者 岡山 猛
 発行所 筑摩書房
     東京都千代田区神田小川町2-8

《別府三穂三郎》
第五高等学校 大学予科 明治33年7月卒業

<別府三穂三郎【第五高等学校】>
[別府三穂三郎]
第五高等学校
大学予科第一部(法科)(甲組)
明治30年(1897)9月入学
明治33年(1900)7月卒業
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257802.html

<穂村(別府三穂三郎)[吉田呑宇を哭す]>
<第五高等学校[龍南會雜誌]77-59-64>
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2260172.html
[夏目漱石先生:夏目金之助 北海道 平民]
【第五高等学校一覧】明治32-33年
[第五高等學校一覧 自明治三十三年 至明治三十四年]p120/253
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812891/120
職員(明治三十三年十一月末日調)          p171/253
外國留學中 從六位 文學士 夏目金之助 北海道平民 p171/253
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812891/171
大學豫科第九回(明治三十三年七月)卒業       p216/253
 第一部(法科)四十一人
別府三穂三郎 福岡平民 東京帝國大學進入      p216/253
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812891/216

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[獨英併學を敎授 ボラマータ:明治五年]【日本新聞広告史】

[獨英併學を敎授 ボラマータ:明治五年]
【日本新聞広告史】

【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
     報 告    p104/748
是迄 於 東京
獨英併學を敎授する事
一ケ年餘也
懇望 有志ノ輩は
入船町四丁目角
淸水屋方へ
尊來これあり度候也
    ボラマータ
(明治五年八月一七日 「東京日日」 第一五八號)
※西暦1872年9月19日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/104

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[吉益學舎:吉益政清:吉益東洞]【吉益学舎講義録】明治20年

[吉益學舎:吉益政清:吉益東洞]
【吉益学舎講義録】明治20年

【吉益学舎講義録. 生理篇】
 明治二十年五月六日出版御届
 明治二十年六月一日出版
口述人 吉益政清 大阪府士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地
出版人 遠田於菟男 石川縣士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833395/259

【吉益学舎講義録. 病理篇】
 明治二十年六月七日出版御届
 明治二十年七月一日出版
口述人 吉益政清 大阪府士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地
出版人 遠田於菟男 石川縣士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833396/206

【吉益学舎講義録. 外科篇】
 明治二十年八月廿五日出版御届
 明治二十年九月四日出版
口述人 吉益政清 大阪府士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地
出版人 遠田於菟男 石川縣士族
    大阪府西區江戸堀南通五丁目十六番地寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833398/150

【病理総論】明治21年
 府立大阪醫學校一等敎諭
   醫學士 吉益政清 講義
       門人 筆記
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834122/6

《吉益政清⇒吉益東洞》改名:明治21年(1888)10月9日
【大阪医学校第三次報告. 明治21年】
   職員  p7-8/81
明治二十一年一月十三日
一等敎諭以下自今敎諭ト稱スル旨達セラル
一月十六日
本校卒業生《河野徹志》本校助敎諭ニ任セラル
一月三十一日及ヒ二月一日ニ於テ
改正職制ニ依リ更ニ左ノ通任命セラル
任 大阪醫學校長   病院長ヲ命ス 《吉田顯三》
 一月三十日分
任 大阪醫學校 敎諭 監事ヲ命ス  《神戸文哉》
任 大阪醫學校 敎諭 敎頭ヲ命ス  《吉益政清》 p8/81
  ―略―
 以上二月一日分
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812597/8
明治二十一年
 九月二十八日 敎諭《吉益政清》
        二十一年第二回京都醫術開業試驗委員ヲ申付ラル
 十月九日   敎諭《吉益政清》《吉益東洞》ト改名ス p9/81
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812597/9
明治廿三年四月三十日出版
大阪醫學校
北區中之島常安町八番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812597/77

《吉益政清⇒吉益東洞》東京帝国大学醫学部:明治15年卒業
【東京帝国大学一覧. 明治20-21年】
 明治20年10月出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813164/156
醫學士
明治十五年卒業  p126/161
《吉益政清》   石川
《青山胤通》   東京
《猪子止戈之助》 兵庫
《田代 正》   東京
《西郷吉義》   長野
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813164/126

【東京帝国大学一覧. 從大正7年 至大正8年】
 大正8年3月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940169/520
醫學士
明治十五年卒業  p345/521
《吉益東洞》   石川
《青山胤通》   東京
《猪子止戈之助》 兵庫
《田代 正》   東京
《西郷吉義》   長野
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940169/345

【日本杏林要覧】明治42年12月28日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/965
《吉益東洞》 p155/976
大阪市西區 北堀江上通二ノ一八
學士 明治十七年五月
嘉永五年生 ※嘉永5年:1852年1月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/155

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

《岸本直道:京都府船井郡檜山町》
【日本醫籍録. 昭和15年版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659745.html

《岸本直道:京都府船井郡檜山町》【日本醫籍録. 昭和15年版】

《岸本直道:京都府船井郡檜山町》
【日本醫籍録. 昭和15年版】

【日本醫籍録. 昭和15年版】
 昭和16年1月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085597/447
《岸本直道》 京都府船井郡檜山町  p92/449
内科 山本醫院 ※岸本醫院
明治五年(1872)一月十一日生
京都府出身
明治三十一年 試験及第 登録 一〇五四一號
明治二十五年ヨリ二十六年マデ
大阪市吉益學舎ニ於テ前期ヲ  ※吉益學舎:別稿に記載
二十七年ヨリ二十九年迄後期ヲ
大阪慈恵醫學校ニ於テ獲得   ※大阪慈恵醫學校:下記
明治二十九年
東京濟生學舎ニ於テ臨床實驗研究
明治三十五年
東京帝國大學國家醫學講習會習了
明治三十五年福島縣監獄醫拜命
三十六年辭任
明治四十五年
京都帝國大學醫學講習會ニ於テ内科學修業
明治三十九年四月一日ヨリ
現在處ニ開業
船井郡三宮村診療所
三宮村尋常高 校醫
趣味 書画 俳句 旅行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085597/92

〔写真〕《岸本直道》 京都府船井郡檜山町 p442/449
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085597/442

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

<當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①>
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
[日本女醫會雑誌]第七十三號
 日本女醫公許五十周年記念號
《明治時代の關西に於ける女醫の學校》
<大阪慈惠醫院醫學校と關西醫學院> p109-110
明治廿七八年頃、大阪東區粉河町に、
〔大阪慈惠醫院醫學校〕が創立され、
校長には緒方正淸氏、講師としては、
高安通成、松本需一郎、鬼束益三、岩崎寛治、
田中祐吉、下方正則、白金某等の先生方が居られた。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267440.html

[吉益學舎:吉益政清:吉益東洞]
【吉益学舎講義録】明治20年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659746.html

[佛國 巴里斯 出生 ギイヤル氏:明治五年]【日本新聞広告史】昭和15年

[佛國 巴里斯 出生 ギイヤル氏:明治五年]
【日本新聞広告史】昭和15年

【日本新聞広告史】昭和15年11月5日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/744
     報 告    p104/748
佛國 巴里斯 出生 ギイヤル氏
當時
東京西ノ久保巴町
天德寺内 光岳寺ニ寄留セリ
自今 生徒ヲ集テ
敎導センコトヲ欲ス
有志輩
爰ニ來テ研究シ給フ可シ
 但 日々 二字間 敎授
   月謝 二圓宛ナリ
學科 會話 算術 地學 史學 理學
(明治五年八月一七日 「東京日日」 第一五八號)
※西暦1872年9月19日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718305/104

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《上羽志満》【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】

《上羽志満》
【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】

【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】
 昭和14年8月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028515/460
京都府加佐郡   p99/462
《上羽志満》 新舞鶴町濱 p99/462
上羽産婦人科醫院
明治二年十一月廿三日生
明治三十六年 試験及第 登録 一七八〇四號

明治三十六年ヨリ三十八年マデ
大阪衛戍病院看護婦長トシテ奉職
明治三十八年
京都市油小路姉小路下ルニテ開業
明治四十年
現地ニ轉ジ開業
趣味 育児
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028515/99
〔写真〕《上羽志満》 京都府加佐郡新舞鶴町濱 p447/462
           電話 二五六番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028515/447

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


≪當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①≫
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267440.html

[明治時代の女医:250名(246+4)]
《076-沖本 幸~100-上羽しま》p4/11
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2260198.html

《上羽玄碩》《上羽志満》
《小野 安》
【日本医籍録:昭和3年版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659735.html

《上羽玄碩》《上羽志満》《小野 安》【日本医籍録:昭和3年版】

《上羽玄碩》
《上羽志満》
《小野 安》
【日本医籍録:昭和3年版】

【日本医籍録:附・医学博士録・法規. 昭和3年版】
 昭和3年11月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/1286
京都府 竹野郡  p504/1287
《上羽玄碩》
徳光村成願寺
内科 上羽醫院
慶應三年十月廿一日生
明治三十四年 大阪慈恵醫學校卒 ※下記
登録 一九五三一號
明治三十四年迄 大阪緒方病院ニテ
        内科及外科擔任
次デ
父祖十代ノ業ヲ計ギ
現地開業
爾來
村醫及
徳光村成願寺郵便局長等
歴任至現在
趣味 書畫 囲碁
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/504
京都府 加佐郡  p508/1287
《上羽志満》 新舞鶴町濱
上羽産科婦人科醫院
明治二年十一月廿三日生
明治三十六年 登録 一七八〇四號
京大醫院ニテ産婦科學研究
日赤大阪支部 看護婦長トシテ奉職
明治四十一年 現地開業
趣味 育児
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/508
兵庫縣 武庫郡  p570/1287
《小野 安》 精道村芦屋字苅屋 ※下記
明治十六年九月十二日生
高知縣出身
明治三十六年 登録 一六六二六號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050596/570

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


「芦屋市月若町=(小字名)苅屋」

[ホテル竹園芦屋]
 ―略―
私は芦屋市史編集室を訪ねました。
室長の白川さんはとても博学で、
特に芦屋の事は何でもご存知で
すぐに教えて下さいました。
以下は市史編集室白川さんのお話です。
「町名としては残っていませんが
 恐らくこのあたりの事を
 西之町と呼んでいたのではないでしょうか・・・
 それは現在の西芦屋町・月若町・西山町にあたりますが
 小字で言いますと・・・・・
 西芦屋町=(小字名)岸ノ下全部・寺田大部・西ノ口南部
 月若町 =(小字名)苅屋・南ノ口全部・北ノ口南部・古屋敷一部
 西山町 =(小字名)開森・芝ノ欠全部・西ノ坊一部・法泉寺南部・
           北ノ口・西ノ口・  寺田北部・古屋敷一部
           ということになります」
 ―略―
http://www.takezono.co.jp/ashiyadayori/40.html

≪當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①≫
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
[日本女醫會雑誌]第七十三號
 日本女醫公許五十周年記念號
《明治時代の關西に於ける女醫の學校》
<大阪慈惠醫院醫學校と關西醫學院> p109-110
明治廿七八年頃、大阪東區粉河町に、
〔大阪慈惠醫院醫學校〕が創立され、
校長には緒方正淸氏、講師としては、
高安通成、松本需一郎、鬼束益三、岩崎寛治、
田中祐吉、下方正則、白金某等の先生方が居られた。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267440.html

《上羽志満》
【日本医籍録:附録・医学博士録、法規. 昭和14年版 近畿版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659736.html

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