2014年04月

「明治40年~45年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治40年~45年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治40年 ?月 越沼フジ(油田)、二宮澄江(仁保)、
         玉川よの(本村)、
         桑原りうほう(平山)、中山スミ(正井)、
         岡田つる、田添ヨシ、
         林イワ、采睾トク、
         高橋小丈、内田松(晴代)、
         小早川トクヨ(池田)、
         醫師となる。

明治41年 6月 ドイツに留學なりし福井繁子、
         ドクトルメヂーネの學位を得て歸朝す。

明治41年11月 荻野吟子、夫と死別後 數年 北海道に止まり
         夫の遺業を継承せしが此年歸國し、
         本所區小梅町に醫業を營む。

明治41年  末 大阪関西醫學院 廢校となり   p12
         茲に學びたる女醫學生は東京の日本醫學校 及
         東京女醫學校等に轉學す。

明治41年 ?月 山尾うら、左座かねを(春日)、
         井出茂代(竹内)、堀ちよ、
         中川だい、高須いま、 ※高須克弥の祖母“高須いま”
          杉田つる、川崎とも、
         富原ゆく(木阪)、諸石トキ(緒方)、
         菅野イチ(島峰)、原トリ(道子)、
         桑原うめ枝(林)、
         醫師となる。

明治41年    杉田鶴子 東大 小兒科 介補となる。
         女醫にして小兒科 介補の最初なり。

明治42年 1月 菊地ゑい、醫師となる。

明治42年 3月 私立日本醫學校 卒業試験 施行の際、
         受験生62名中 及第者28名、
         しかもその第一位は石川松枝にして
         他は悉く男子にて顔色なし、
         卒業生を代表して答辭をよむ、
         女史は當時二十二三歳の妙齢
         然も勉學後 日浅く此榮譽をうく。
         校中の評判たり。

明治42年 ?月 第一回(春)に土田せん、宮田邦子、
         第二回(秋)に善行地玉與(後 山田)、江間貞子、
         石川まつ枝(後 鈴木)、
         神山超子、
         醫師となる。

明治42年  末 東京醫師倶楽部 醫學講習會なるもの
         神田區美土代町に明治34年来開講せられ、
         勉學の時間少なき醫學生の爲
         約十年間便宜を與へ居たるが、
         醫術開業試験廢止の期迫れるにつき
         本年度限り閉講す。
         此處にも男學生に交り數名の女醫學生學ぶ。

明治42年12月 大阪緒方病院 學術研究會にて
         福井繁子「會陰保護術について」演説す。

明治42年 ?月 藤田みつ、北京に於て上流婦人に   p13
         衛生思想を普及し傍ら診療に従事す。

明治43年 ?月 本郷壱岐坂尋常小學校内に
         「中央醫學研修所」なるあり。
         數名の女醫學生在學す。
         一二年継続の後 閉鎖す。

明治43年    婦人共立育兒會病院なる小兒施療病院
         麹町區飯田町に設立、
         院長 弘田長博士の下に女醫のみ採用、
         初代には、山尾うら、杉田鶴、町田満、内田節の
         四女醫勤務、
         爾来代々女醫のみ勤務す。

明治43年    東大 小兒科教授 弘田長博士の
         薫陶をうけし女醫のみにて
         都香草會なる會生まる、
         師を中心として年二三回親睦と知識の交換をなす。

明治43年    文部省 醫術会合試験 及第者 激増し
         二十二名の女醫出づ
         (これより以後は
          醫術開業試験及第者の氏名を略す。
          詳細は後日發表の古参女醫表を見よ。)


明治43年    曽根操、中川もと、
         米國フイラデルフヰヤ、
         ウーマンスメヂカルカレツヂ、
         オブ ペンシルバニアにて
         ドクトル・オブ・メデイシンを得。

明治44年 4月 東大 整形外科 介補 北村静子、
         東京に開催の日本外科學會に於て
         女醫にして初めて演説をなす。
         演題「先天性足内飜症治療成績に就て」

明治44年 6月 大阪灘波病院學術集談會にて
         同醫局員 山中貞子
         「縫合糸の細菌學的研究」について報告す。

明治44年 8月 吉見こう子、東京市衛生試験所に勤務す。 p14
         女醫にして最初なり。

明治44年10月 幣原節子(大阪緒方病院醫員)
         同病院學術集談會にて
         「子宮腔固定術後に於ける分娩に就て」報告す。

明治44年    私立日本醫學校(明治37年創立)
         醫學専門學校となす爲め、女子の入學を拒絶す。

明治45年 3月 東京女醫學校(明治33年創立)
         文部省より財団法人組織の専門學校たることを認可され
         東京女子醫學専門學校と改稱さる。
         4月新入學者95名、
         專門學校第一回の入學生なり。
         尚 前 在學生より試験によりて56名を
         第二學年に編入す。

明治45年 ?月 藤田みつ子、支那より歸朝、池袋に閑居す。

大正 1年 1月 以降  ―略―

「明治36年~39年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治36年~39年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治36年 1月 日本女醫會 新年會 兼
         宇良田唯子 ドイツ留學 送別會
         九段 富士見軒に開く。
         出席十一名、幹事 鷲山、大八木。

明治36年 1月 宇良田唯子 ドイツ マルブルヒに留學す。
         曩に高橋瑞子(明治23年)留學の時
         許されざりし
         ドイツの大學も今や門戸を開放す。
         時勢なる哉。

明治36年 8月 濟生學舎 廢校となる。
         同校は明治9年
         長谷川泰氏の創立にかゝり、
         爾来今日迄私學の醫育機関として
         重きを爲せしものなり。
         同校創立以来
         明治35年6月まで
         醫術開業試験合格者
         實に九千六百餘名を算すと。
         明治30年頃迄の女醫は大方此學舎より出づ。

明治36年 9月 濟生學舎 廢校の爲
         困難したる醫學生の懇望により
         醫學士 丸茂文良氏 自己の病院内に
         「醫學温習會」なるものを起し
         臨床實地について指導す。
         女醫學生も數名あり。

明治36年11月 日本女醫會 秋季例會を上野東照宮内に開く。
         出席十九名、ドクトル柳澤米子の米國談あり。

明治36年 ?月 谷本薫、福間はる、中村あい、大政稻野、
         萩谷玉枝(藤村)、上羽しま、
         大井キヨエ、
         醫師となる。

明治37年 4月 私立日本醫學校、神田區淡路町に開校、  p10
         校長 山根正次氏、設立者 磯部検三氏、
         女醫學生は初め約二十名入學、漸時増加す。

明治37年 4月 野間菊子、明治35年以来
         ドクトル・グレジヤ、ドクトル・ラツクウード等に就き
         水治療法を研究し此年
         神戸市山本通り二丁目に専門開業す。

明治37年 5月 日露戦争軍事救護に来朝せるマギー夫人(米國)の
         歓迎會を日本女醫會にて開く。
         會場 九段 星ケ岡茶寮、出席十九名、
         井上友子 通譯の勞をとる。

明治37年 6月 東京女醫學校 牛込區河田町に移轉す。

明治37年 9月 井上友子 實践女學校 校醫となる。
         (39年10月より東京府立第三高女 校醫を兼任)

明治37年10月 塚原雄子 韓國宮内府に侍醫として招聘され、
         傍ら漢城病院に勤務す。

明治37年 ?月 文部省令により従来の醫術開業試験は、
         十年後に廢止せられ、
         醫學専門學校卒業生ならざれば
         醫師たるを得ざるに至る。

明治37年 ?月 合田成尾、坂本シヅ(田中)、花谷保枝、吉田千代、
         中川コト、越智俊子(小山)、鶴野恵美、高橋スヰ、
         富山やす、丹羽美知、三谷茂、
         細井八重、
         醫師となる。

明治38年 3月 宇良田唯子 一月
         ドイツにてドクトルメヂーネの學位を得、歸朝す。

明治38年 5月 藤田みつ子、
         清國 浙江省 南潯鎭濟生病院に奉職す。p11

明治38年 9月 福井繁子、宇良田唯子の學びたる
         ドイツ、マルブルグ大學に留學す。

明治38年 ?月 橘薫、河越まさよ、菊池鶴恵、日下サキ、山内ヨネ、
         北村シヅ(水江)、中山きん、眞中すず、
         醫師となる。

明治39年  春 日露戦争後 東京女醫學校 入學生激増し、
         校舎及寄宿舎の建増を行ふ。

明治39年 ?月 高橋喜代、油川太嘉、久恒静枝、田中ふさ、
         早坂千賀、伊藤てる、
         石津静衛、今村ウタ、
         醫師となる。

明治39年 7月 油川太嘉子、母校 日本醫學校より東大衛生學教室に
         一般細菌學講習法研究生を命ぜられ同教室に入る。
         後 母校 衛生細菌學教室主任となる。

明治39年11月 北村しづ(水江) 東大整形外科教室 介補となる。
         (教授 田代義徳博士)
         女醫にして最初なり。

※次稿に続く。

「明治31年~35年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治31年~35年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治31年 4月 外國醫學校 出身の
         須藤カク、阿部ハナ、日本醫籍に登録。

明治31年 4月 宇良田唯(中村)、醫籍に登録。

明治31年 8月 花谷安枝、醫籍登録。

明治31年  秋 久保サチ、醫師となる。

明治32年 2月 女醫 右田朝子の碑
         田端大龍寺に建立され遺髪をその地下に納む。
         女史は井上眼科病院に勤務中 病気に罹り、
         死に臨み
         その眼球を
         同病院に研究の資料として遺すことを遺言す。
         同院長 井上達七郎博士 主唱者となり
         有志者 醵金して此 石碑を建つ。
         題額 石黒悳子爵、
         選文 井上達七郎氏その閲歴を記す。 p7
         寄進者中には、
         女醫 前田園子(本吉)、賀川哲子の名あり。

明治32年  春 坂本ヤソ、塚原雄(高橋)、
         河野桃野、近藤キシヨ、醫師となる。

明治32年 9月 高田畊安氏 茅ヶ崎に結核療養所 南湖院を創立し、
         醫員として女醫を採用す、
         副長として在職せし女醫は
         初代より、石坂蓮子、河野桃野、前田園子、
         高野直子、中村愛子等あり、
         その外 醫局員として土岐みや子(高橋)、
         初め常に女醫就職す。

明治32年  秋 野間キク、鳥取アイ、浅海コト、醫師となる。

明治33年  秋 濟生學舎、女子學生の入學を拒絶す。
         但し當時在學中のものは未だ止まる。

明治33年    小林みよ、村田みつ、朝枝小春(近藤)、
         木下なみ、中島フサ、岩浅ワキ、
         前島ケイ(今村)、吉岡タダ、太田奈美、
         沖本幸、篠田せい、
         醫師となる。
        ※木下なみ=太田奈美
         木下奈美(舊 太田)「先輩女子名簿」p3
         [日本女醫會雑誌] 第80號
          昭和12年8月30日発行

明治33年12月 濟生學舎にて女醫學生の入學を拒絶したる爲、
         女醫志望の者方針に迷へるを察し、
         吉岡彌生夫妻、
         麹町區飯田町に私塾様の女醫養成所を造る。
         これ東京女醫學校、
         後の東京女子醫專の前身なり。
         初めは學生數名に過ぎず。

明治34年 3月 濟生學舎長 感ずる所あり
         遂に在學中の女醫學生も全部拒絶す。
         爲めに中途廢學するもの、
         或は一定の場所を借り   p8
         濟生學舎の講師に懇願して講義をきゝて
         受験勉強をするもの、
         女醫學校に入るもの等
         種々の方法をとる。

         濟生學舎を出されし後期女性組は、十五六名にして、
         本郷區中央會堂にて濟生學舎講師を頼み聴講す。
         前期生は神田三崎町の歯科醫學校の一部を借り、
         濟生學舎の講師を依頼し三十名ばかりにて講義をきく。
         その内漸時生徒も増加発展し來り、
         「女子醫學研修所」と命名、
         石川清忠氏を校長とし、明治37年迄継続、
         後 男子の同系統のものと合同して
         「東京醫學校」となる。

明治34年 5月 柳澤米子 米國加州大學 醫學部卒業、
         ドクトルオブ、メデイシンの學位を受く。

明治34年 6月 吉岡彌生夫妻 設立の東京女醫學校、
         牛込區市谷仲ノ町に寄宿舎を設置す。

明治34年 9月 佐世保に開業中なりし
         今村ケイ子(後 前島)
         清國浙江省日支學校校醫として赴任す。

明治34年11月 前田園子 韓國 漢城病院に醫員として赴任す。

明治34年12月 井上友子 ドクトルとなり米國より歸朝。

明治34年 ?月 松尾千代、尾崎シヅ、巽たけへ、説田てる、
         細井シゲ、高野直、太田繁、醫師となる。

明治35年 1月 前田園子 日本女子大學校醫となる。
         爾来今日に至る迄継続す。

明治35年 4月 前田園子等の主唱により
         「日本女醫會」創立せられ、
         第一回會合を上野鶯谷
         このはな園に開く。
         幹事 前田園、塚原雄、以後毎年二、三回會合す。

明治35年 7月 東京女醫學校、在學生に三ツ巴の優美なる徽章を
         胸間に帯ばしめ校風を一層粛正せしむ。

明治35年10月 日本女醫會 第二回を上野公園 三宜亭に開く。
         幹事 前田園、塚原ゆう。

明治35年 ?月 小野安子、幣原節子、岡村松、白石すて、
         河村悦子、村上琴子、福井榮子、河村瀧野、
         醫師となる。

※次稿に続く。

日和下駄(掃苔:墓、舞台、ベイスターズ)
日本初の眼科女医「右田朝子(アサ)」記念碑
2006/5/27(土) 午前 0:27
一年以上前に「正岡子規」の掃苔の為に訪れた
大龍寺にて思わぬ出会いをした「右田朝子」について。
一般的には、殆ど無名と言ってもよいと思われる
「右田朝子」の碑文に偶然にも巡り逢えた。
 ―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/massy_ishikawa/37015010.html

平成18年第2回(6月)桜川市議会定例会会議録(第1号)

平成18年第2回(6月)桜川市議会定例会会議録(第1号)

平成18年第2回桜川市議会定例会議事日程(第1号)
平成18年6月6日(火)午前10時開会
〔19番(野澤 博君)登壇〕
〇19番(野澤 博君)
4、選挙候補者への陣中見舞いや当選祝いについても
  支出を認めない対象とされていますが、
  この点についてはいかがですか。

〔市長公室長(飯嶌洋一君)登壇〕
〇市長公室長(飯嶌洋一君)
4番目の選挙候補者への陣中見舞いや当選祝いについても
支出を認めない対象とされているが、
この点についてはどうかということでございますが、
公職選挙法との兼ね合いもございますので、
陣中見舞いや当選祝いについては
一切支出はしておりませんので、
よろしくお願いいたします。
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/gikai/kaigiroku/H1806T.html
桜川市   ふるさと桜川「元気都市」宣言!
桜川市役所 大和庁舎 〒309-1293 茨城県桜川市羽田1023番地
      岩瀬庁舎 〒309-1292 茨城県桜川市岩瀬64番地2
      真壁庁舎 〒300-4495 茨城県桜川市真壁町飯塚911番地
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/index.html
桜川市 市長交際費の公表
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/page/page000275.html
桜川市市長交際費支出基準
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/doc/1235481069_doc_10.pdf

「明治27年~30年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治27年~30年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治27年 4月 福井繁子、醫師となる。

明治27年 ?月 大阪緒方病院(院長 緒方正清氏)にて
         初めて女醫 福井繁子を採用す。
         其外 同院には、
         幣原節、小野安、村上琴、橘薫(以下略)等、
         勤務す。
         ※幣原節 明治17年生
         ※小野安 明治16年生
         ※村上琴 明治15年生
         ※橘 薫 明治 7年生

明治27年 6月 荻野吟子 夫 志方氏の後を追ひ
         北海道後志國利別原野に赴き
         夫の事業の開墾と傳導を助け
         傍ら醫業を營む。

明治27年10月 小出峰、醫師となる。

明治27年    岡見京子、新宿角筈に衛生園を開き
         恢復期患者の入院治療を爲す。

明治28年 8月 井上友子 米國に留學し
         クリーブランド、ホメオパシツク醫學校 及
         ミシガン、シカゴ大學等に學ぶ。

明治28年 ?月 高田もと(5月)、新名たみ、增野八重の(乾)、
         醫師となる。p6

明治28年 ?月 大阪市東區粉川町 大阪慈恵病院醫學校 
         創立せらる。
         校長 緒方正清博士
         後に女醫學生 茲に修學す。

明治29年11月 山家たか(松本)、美甘光(内田)、醫師となる。

明治30年 3月 萩谷清江、醫師となる。

明治30年 6月 横山ジュン、醫籍登録。

明治30年  秋 市川田鶴、鈴木ケイ、若山とし(小川)、
         大八木幸、堀きん、中村菊、醫師となる。

※次稿に続く。

「明治23年~26年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治23年~26年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治23年 ?月 荻野吟子 熊本縣人 志方之善と結婚す。 p3

         荻野吟子 明治女學校に校醫となり
         傍ら生理衛生を教授す。
         又 濃尾大震災により孤児多數生じ
         負傷者も生じたるによりその孤児十二名を
         下谷黒門町の自宅に収容しその救護に努む。

明治23年    高橋瑞子 雄圖を抱きドイツ伯林に留學、  p4
         當時は未だ女子に大學の門戸を開放せず、
         熱心なる女史の志、
         同地産科醫の泰斗
         マルチン及びウオルスハウゼンを動かし、
         同氏等の病院に於て實地研究をなせしが
         一年半にして病を得て歸朝す。

明治23年 4月 間宮八重 醫師となる。

明治23年10月 村上巖  醫師となる。

明治24年 4月 前田園子、伴はる子、山本哲(賀川) 醫師となる。

明治24年 9月 水沼なみ子(後 本田)醫師となる。
         水沼なみ子
         東京市養育院 小兒科 醫局(醫長 弘田長博士)に
         看護婦名義にて研究に入る。
         當時は女子は醫師として入局を許されざりしに由る。

明治24年  秋 千坂竹、右田朝、柏木千代(皷)、丸橋みつ(藤田)、
         醫師となる。

明治24年 ?月 菱川ヤス(外國醫學校出身)醫籍登録

明治25年  春 井上愛、筑紫イト、(以上4月)
         大丸古宇、日野歌(山崎)、(以上5月)、
         醫師となる。

明治25年  秋 中野みね(加藤)、鷲山彌生(吉岡)、
         醫師となる。

明治26年 2月 久田調(江間)、齋藤かね、醫籍登録。  p5

明治26年 ?月 伊藤房野、伊藤貞子、醫師となる。

明治26年 4月 村岡亨(三浦)、加賀美のぶ(大村)、
         天田つる(赤尾)、醫師となる。

明治26年 5月 丸橋 改 藤田みつ、清國に渡り
         上海英租界四川路にて醫術開業。

明治26年11月 吉田賢、岡部つぎ、中原篷、中村徑(千田)、
         醫師となる。


※次稿に続く。

「明治17年~22年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治17年~22年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治17年 6月 吾國に初めて女子に醫術開業試験許可される。 p2
         之れ 荻野女史の數年に亘る熱心な運動と
         石黒軍醫監の援助と、
         長與衛生局長の英断に因る。
         荻野吟の外、岡田すみ、松浦さと、木村秀の三人受験し
         荻野吟子丈け同年9月前期試験に及第す。
          (因に此年醫師免許規則改正せられ、
           醫師は内務卿より開業免状を得たるものに限り
           之を許し、
           開業免状は、開業試験に及第したるもの及、
           官立及府縣立醫學校若くは
           外國醫學校を卒業したるものゝみに與へ、
           之れを内務省醫籍に登録することゝなる。
           開業試験を前期後期に別たれしも此年なり。)

明治17年12月 高橋瑞子、唯一の私學醫育機関たる
         濟生學舎入學の門戸を開く。
         三日三夜同校を動かず遂に
         舎長長谷川泰氏を屈服せしむ。

明治18年 3月 荻野吟子 後期試験及第、
         茲に初めて吾國最初の女醫出現す。
         高橋瑞子 前期試験及第

明治18年 5月 荻野吟子 本郷區湯島三組町八四に開業、
         後 下谷區黒門町二二に移轉診療に從事す。

明治18年 8月 高橋瑞子、本郷區湯島順天堂病院に
         實地研究生として婦人にして初めて入門、
         入門料五圓の爲め夜具を賣りて調達す。

明治20年 3月 生澤ソノ 醫師となる。
        ※生澤ソノ=原文のまま
        ※生澤クノ:
        ※追記:平成27年4月10日

明治20年 4月 高橋瑞子 醫師となる。

明治22年 7月 本多銓  醫師となる。  p3
         之より先き高木兼寛氏等により創立せられたる
         海軍軍醫養成機関 成醫會醫學校に
         竹橋女學校出身の才媛即ち
         本多銓、松浦さとを試みに女醫學生として
         醫育を授けたりしが、
         本多銓のみ醫師となる。
         松浦さとは、後
         慈恵會病院の看護婦長として永く勤務す。

明治22年 ?月 西田(岡見)京子
         米國費府(※フィラデルフィア)
         ペンシルバニア女醫學校を卒業し
         吾國醫籍に登録す。

明治22年 9月 東京慈恵醫院にては新たに婦人科を設置し
         米國費府女子醫學校を卒業したる
         岡見京子主任となり
         曩に同院醫學校にて卒業し
         醫術開業免状を得たる
         本多銓子助手となり
         月、木両曜日を診察日とし施療を爲す
         因に岡見京子は
         明治22年9月12日より
         明治25年9月8日迄同院に勤務せり
         同時に同院看護婦養成所にも講義をなす

         本多銓子は岡見京子と共に
         慈恵醫院に産婦人科の診療に從事すると共に、
         同院看護婦生徒に講義を爲す。
         又 横濱フエリス女學校に衛生の講義を爲す。

明治22年10月 采睾房榮(後に武生) 及び
         深萱むね(丸茂) 醫師となる。

明治22年12月 設楽りう(後に飯島) 醫師となる。


※次稿に続く。

[前がき]『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[前がき]『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行
 〔非賣品〕
 編輯者   多川澄子
       東京市芝區白金三光町二七三
 発行者   杉田鶴子
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
 印刷者   谷本 正
       東京市芝區愛宕町二丁目一四
 発行所   日本女醫會雑誌発行所
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
       電 話 小石川 五七六六番
       振替口座 東京 三一九〇〇番
 廣告申込所 大矢雅美
       東京市目黒區鷹番町三十九番
 印 刷   常磐印刷株式會社

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
  前がき  p1
此 日本女医醫五十年史年表は、
明治17年初めて吾國に
女子も醫術開業試験を受くることを公許せられ、
明治18年日本女醫の嚆矢現はれてより、
昭和11年始めまでの満50年間の、
女醫に関する記録を、比較的精密に、
暦年順に記載せるものなり。
大正2年6月
日本女醫の機関たる、
日本女醫會雑誌発行せられて後は、
稍々正確なる記録存するも、
その以前は正確なるもの非常に少なく、
又あるも精粗不同、
年月區々にして取捨に苦しむ場合尠からず。
其内可及的確實なるものを採り上げて
茲に編纂せるもの即ちこれなり。
偶々着手中微恙に罹り
中途挫折の止む無きに至り、
徒らに時日苒延するに忍びず、
完璧を他日に譲り、
茲に杜撰乍ら括め終りて
本誌上に草稿として発表せんとす。
後日訂正補筆の上
他の資料と共に、
「日本女醫五十年史」として出版し、
後より来るものゝ爲めに、
いさゝか資する所あらんとす。
願はくば本草稿を一讀せられたる諸氏よ、
補正の勞を惜ませ給はざらんことを。
(附記 月日の不詳なるものは年の下に○印を附す。
            ※?月と表記:小野一雄
    尚 氏名には敬稱を省く)

※次稿に続く。

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]②【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]②
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年

【大日本飛行少年団拾年史】
 昭和16年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/63
[大日本飛行少年團グライダー部沿革]②
同年(昭和15年)三月二十三日より四月五日まで p47/67
  十四日間(第一次第二次に分つ)
  二級滑空士受験合宿訓練を實施す。
  參加者指導者内田部長以下五名、
  練習生二十二名計二十七名。
  本訓練は受験訓練なるに鑑み
  特に一級滑空士利根川薫氏を首席敎官に委囑せり。
  三月三十一日を以て第一次となし、
  それより四月五日まで、
  十二名の受験資格者を殘して
  第二次訓練を實施し、
  同日航空局航空官西澤亮平、
  試験係長伊東左内
  兩試験官を迎へて受験の結果、
  左記六名に對し
  四月九日附にて二級滑空士
  免状を下附せられたり。
  山口克己(岡山)
  小島知永(栃木)
  内田丈市(東京)
  馬場良則(山口)
  高瀬正夫(東京)
  松平和子(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/47
同年(昭和15年)  p48/67
  七月二十五日より八月十八日に至る二十五日間
  大阪地方本部と合同して
  左記により受験を目的とする夏季合同訓練を實施す。
  一 期間 七月二十五日より八月十八日まで、
       但し更に七日間を豫備に充つ。
  二 場所 大阪府中河内郡盾津村 大阪陸軍飛行場。
  三 人員 指導者七名、練習生二十一名、
       但し指導者中四名の二級滑空士には
       一級滑空士受験をなさしむ。
  四 指導者 本團グライダー部長内田丈市滑空士、
        大阪地方本部グライダー部長山下常彦大尉、
        島吉正飛行士、
        小島知永、石井忠重、松平和子、廻間正輔
        各滑空士。
  五 使用機材 プライマリー 二、
         セカンダリー 三(中 二機は東京より)
         ソアラー   一、
         シボレー 三九年型 トラック一臺
         (其の他牽引装置一式)
         一三式練習機 一機、
         修理用資材若干。
  六 受験   八月十六日 術科、
         翌十七日 學科の順にて航空局より
         伊東試験官出張實施されたる結果、
         八月二十一日附にて
         左記の十一名にそれぞれ免状下附せられたり。
   一級滑空士 小島知永 (栃木)
         石井忠重 (神奈川)
         松平和子 (東京)
         廻間正輔 (岡山)
   二級滑空士 林 明彦 (大阪)
         松岡 阜 (大阪)
         關 保之助(大阪)
         日向美智子(東京)
         菊地増吉 (神奈川)
         岸上秋雄 (東京)
         笠井昌佑 (大阪)の諸君。
         尚、川崎弘君(東京)はその後學科を受験合格せり。
         尚右の外術科のみの合格者七名ありたり。
  七 約一ヶ月間の長期なりしため訓練は終始餘裕を以て實施し得、
    人、機共に何等の故障なく八月十七日受験訓練を終了せり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/48

昭和十六年(1941)一月一日 本年度訓練初め式を行ふ。 p49/67
同年(昭和16年)一月三日より同九日まで松戸に於て
函館滑空協會の委囑に依り
同地中等學校敎員二十三名の冬季合宿訓練を指導なすと同時に
有志練習生の訓練を實施す。
本訓練はゴム索に依る初級機訓練なり。

同年(昭和16年)一月現在グライダー部現状次の如し
 部長兼指導者 二級滑空士 内田丈市氏
 指導者顧問  一級滑空士 利根川 薫氏
 指導者    一級滑空士 小島知永氏
 指導者    一級滑空士 石井忠重氏
 指導者    二等飛行士 松平和子氏
        一級滑空士 松平和子氏
 指導者    二級滑空士 岸上秋雄氏
 指導者    二級滑空士 日向美智子氏
 指導者    二級滑空士 菊地増吉氏
 指導者    二級滑空士 丸木良隆氏
 助敎           菊地敏夫氏
 助敎           末田太郎氏
 部員(練習生 男子 八十五名、女子 二十二名 計 百七名)
 機材 一  日本式鳶型セカンダリー    一機
    二  伊藤式B二型セカンダリー 一機
    三  日本式鳩型プライマリー    二機
    四  伊藤式A二型プライマリー 二機
    五  霧ヶ峰式鳩型プライマリー 一機
    六  牽引用トラック      一臺
    七  右同鋼索 八百米及附屬品一式
    八  其他關係諸器具     一式
    九  格納庫二棟        計 百九坪
        (外に飛行機格納庫一棟 八十一坪)
    一〇 修理用器具       一式
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/49

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[滿洲國へ派遣せる少年少女航空親善使節團]
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659789.html

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]①
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659790.html

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]①【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]①
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年

【大日本飛行少年団拾年史】
 昭和16年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/63
[大日本飛行少年團グライダー部沿革]     p42/67
昭和十年(1935)十二月一日
  東京代々木練兵場に於て本團グライダー部發會式を擧行す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/42

同年(昭和12年)九月十二日         p44/67
  第四期生五十五名の入部式を擧行す。
  八月前部長山田新吾氏出征されたるを以て
  總本部職員内田丈市氏グライダー部長に就任し
  本日より訓練に参加す。
同年(昭和12年)十月十五日
  内田部長、八田首席敎官、高橋安五郎、
  白石繁司、野口忠衞、
  松平和子、山本登美子
  各練習生は野溝理事長引率の下に
  グライダー滑空場調査並に
  航空思想普及の目的を以て
  プライマリー一機を携へて
  新潟縣小千谷飛行場に出張、
  多大の成果を収めたり。
  ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/44
同年(昭和12年)十一月二十一日   p45/67
  第五期練習生五十名入部す。
同年(昭和12年)十二月二十五日
  東京市本郷區湯島町朝田良彦氏より
  日本式鳩型プライマリー一機を寄贈され
  本日命名式を擧行朝田號と命名す。

同年(昭和13年)六月十二日
  第二格納庫完成す。
  豫てライオン歯磨本舗より寄贈の下に建設中なりし
  第二格納庫完成に就き本日竣工式を擧行す。
  本格納庫は間口六間、奥行十二間、七十二坪にて
  組立てたる機體七機の収容可能にして、
  從つて第一格納庫は爾後主として
  部員室、修理室、講堂に使用する事とす。
  尚本日は第二格納庫竣工を記念して
  滑空競技會を開催せしところ
  本團グライダー部の外に
  巢鴨學圓グライダー部、
  茨木工業滑空部等の參加ありたり。
同年(昭和13年)六月十五日
  原田積善會より
  伊藤式A二型プライマリー、
  霧ヶ峰式鳩型プライマリー
  各一機寄贈さる。
同年(昭和13年)七月一日
  練習生より
  内田和夫、菊地敏夫、加藤信三、田口政雄の四君
  大日本青年航空團に入團
  本日その訓練地盛岡に向け出發す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/44
同年(昭和13年)九月二十六日    p46/67
  本團少年少女遣滿航空親善使節團
  本日午後九時
  東京驛發滿洲に向ふ。
  團長東條大佐、常務顧問草野忠右衞門氏、
  敎官八田一二氏、
  グライダー部練習生
  内田和夫、菊地敏夫、田口政雄、
  松平和子、山本登美子の諸君。
  尚大阪地方本部グライダー部より
  高橋安五郎、松岡阜、守安素女の三君
  この一行に加はる。
  尚ほこの一行に對する歡送グライダー訓練大會は
  九月二十四日松戸滑空場に於て雨を衝いて擧行す。
同年(昭和13年)十月十二日
  午後四時三十五分
  本團少年少女遣滿航空親善使節團
  晴れの歸京をなす。
  (尚本使節團に關しては別稿同記事參照のこと)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059370/46

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[滿洲國へ派遣せる少年少女航空親善使節團]
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659789.html

[大日本飛行少年團グライダー部沿革]②
【大日本飛行少年団拾年史】昭和16年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659792.html

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ