2016年03月

《王敬祥:麥少彭:呉錦堂》[日本帝國ヘ歸化]【官報】明治34・37年

【官報. 19011023日】第五四九三號
 明治三十四年十月二十三日 水曜日 大蔵省印刷局
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948792/1
◎告示 p7/17
内務省告示第七十四號
  兵庫縣神戸市海岸通三町目十番屋敷居住
     淸國人 王敬祥
右我日本帝國ヘ歸化ヲ允許セリ
  明治三十四年十月二十三日
     内務大臣 男爵 内海忠勝
――――――――――――――――――――
内務省告示第七十五號
  兵庫縣神戸市榮町二町目十二番屋敷居住
     淸國人 麥少彭
右我日本帝國ヘ歸化ヲ允許セリ
  明治三十四年十月二十三日
     内務大臣 男爵 内海忠勝
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948792/7 

【官報. 19041126日】第六千四百二十三號
 明治三十七年十一月二十六日 土曜日 大蔵省印刷局
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949747/1
内務省告示第九十二號
  兵庫縣神戸市榮町通一丁目六十八番屋敷住
     淸國人 呉錦堂
右日本帝國ニ歸化ヲ允許セリ
  明治三十七年十一月二十六日
     内務大臣 子爵 芳川顯正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949747/2
 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 「王敬祥関係文書」
神戸大学附属図書館 > デジタルアーカイブ > 王敬祥関係文書
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/okeisho/index.html
 ■マッチ輸出と呉錦堂(六角堂主人)
明治37年版の『日本燐寸界名鑑』には
兵庫県燐寸貿易業の部に
怡生号(呉錦堂 神戸内栄町2丁目)、
怡和号(麦少彭  神戸栄町1丁目)、
タタ商会(インド人 神戸栄町2丁目)らが掲載されている。
http://www.matchclub.net/etc/uno60.html
 [辛亥革命前の神戸華商麥少彭の経済破綻]
 松浦
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7158296-00
 [第五部 呉錦堂 -神戸と中国-]
http://www.eonet.ne.jp/~yuzo/gokindou101.html

 

[福翁・白石照山・大久保麑山の三大紀念碑]【中津及中津人】淸原蘇子著

20120612()
【中津及中津人】
 中津及中津人 p12-14/134
 (一)緒論…福翁…麑山…照山…自然美…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、 

今日の吾中津人を爲せる三大恩人たらずんばあらず、
彼の三大恩人が百年の身血を人材の事に盡す、
中津は普く啓發せられ頴才を出したる處、

尊敬に價すべく是れ疑ひなき事實として、
何人も否まざるべし、
此の光榮ある過去の歷史は今日の吾中津人を養成せり、
照山派の學德、
慶應派の學德、
麑山派の學德、
其の人亡びたると共に、
其の學德今日僅かに存在する耳、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
老來多恨の士、之れを遵守せんとしつゝあり。 

然れども冷灰の如き吾中津人の多くは、
彼の紀念碑に對し不用の長物として、
冷視するの外、何等の敬意も、何等の尊敬も拂はざる也、 

吾輩は此の三大恩人が遺せる偉大なる德風が
日に消滅し行きつゝあるを
哀まずんばあるべからず、
其の榮冠を中津人自身が放棄しつゝあるを轉た
痛惜とする處也。 

吾中津が過去に於て此の三大人物を出だせるは、
以て其の因とする處ありと雖も、
鄕土自然の美は偉人なる三大人物を排出せりと云ふを得べし、
之れ實に自然の爲せる三大人物たる可き也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/13
福翁の遺風大に可也、
照山の遺風可也、
麑山の遺風大に可也、 

然れどもアイスの如き極端なる個人主義を主唱せるに非ず、
絶對に他と放れて己を護るべき獨立獨行を敎えたる者に非ず、
温健にして且高尚なる獨立自尊の主義を主張し
躬踐實行すべき福翁の精神が中津の何處に流れつゝあるか、
吾も人も之れを顧て轉だ今昔の感に耐えざる也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/14
 中津二大女學校論 p80-82/134
郡立高等女學校長 津田純一氏
扇城女學校長   梅高普行氏
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/80
中津及中津人 奥附
大正二年五月十九日印刷
大正二年五月廿二日發行
著者兼發行者 淸原寛之
       大分縣下毛郡中津町
印刷者    三重昇太郎
       大分縣下毛郡中津町千百〇四番地
印刷所    三重活版所
       大分縣下毛郡中津町千百〇四番地
發賣所    野依書店
       中津新博多町郵便局トナリ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/113
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

二碑の並び立つものあり【人物分布観. 上篇】大庭柯公:明治43年

20120706()
【人物分布観. 上篇】
[南豐地方(上)] p24/133
試みに中津に遊びて市中に問ふに
福澤諭吉の名を以てせよ、
彼等の多くは皆いふ
「あの足輕の子が」と一冷笑に葬り去る。
近來郷里子弟の慶應義塾出身者を增し來りて
此風漸く變ぜんとするも
而も里人の尚
翁を紀念せんとするものあるに至らず。 

更に公園に至る、
二碑の並び立つものあり。
その形大略同じきも
建立の時日二十年を隔つ、
その舊きものは大久保先生之碑にして
新きものは即ち
福翁門下の建立に係る獨立自尊の碑なり。
而して福翁や一世の偉人にして
大久保先生は眇たる一儒者に過ぎず、
郷人の福翁冷視する以て一班を察すべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778166/24
明治四十三年一月 十日印刷
明治四十三年一月十五日發行
金 六十錢
著作者 大庭柯公
發行者 杉本 要
    大阪市東區北渡邊町八十九番地
印刷者 堀越 幸
    大阪市西區阿波座二番町一番地
発兌元 梁江堂書店
    東京市京橋區中橋廣小路
    電話 本局 五七七番
発兌元 杉本梁江堂
    大阪市東區北渡邊町
    振替口座 東京 二八二三番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778166/124
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 《大久保麑山先生紀念碑》

《大久保麑山先生紀念碑》
[履歴と業績]別府祐弘 p20/34
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf

 

福澤諭吉の指導の多くは、当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい

20120209()
[履歴と業績]別府祐弘
帝京と私
1別府祐弘稿「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1 号、2002 10月、3-7 頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
帝京大学に着任早々の私は、
これを故沖永荘一学主、沖永佳史学長、沖永荘八副学長、
柴川林也経済学部長等に送呈して、自己紹介とさせていただいた。
「…中津の町はまた、福澤諭吉生誕の地として、
中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
しかし同じ公園の中に、
私の曽祖父の「大久保麑山先生紀念碑」も建立されていることを知る人は、
今日ほとんどありません。
そこには次のような碑文が刻まれているのです。 

大事にたへるには   欲任大事
篤実でなければならぬ 須是篤実
たとえば基礎が堅固で 督之基固
家が築けるようなもの 方可築室
君は実行を重んじ   君重躬行
かくて弟子を教えた  以誨弟子
学風を後に伝えて   風軌伝後
きわまることはない  罔有窮己
明治二十一年四月二十日
元老院議官従四位 中村正直 

この碑文の現代語訳は、
富士正晴『大河内傅次郎』中央公論社、昭和53年、18頁より。
(資料③参照)
文人風をきらって実学を尊重した藩学・麑山ゲイザンのこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも色濃く受け継がれていると
土地の古老は申します。
そしてこの碑文を選した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。
この碑文こそが、その後実学としての経営学を私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。
その間、経済学部経営学科、大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」 

『大久保麑山(ゲイザン)先生紀念碑』と
慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学・帝京大学 

最後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山について、
富士正晴著「前掲書」から若干引用して紹介しておきたい。
―略―
正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた 

福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。 

『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた白石照山のみが
福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていた…。
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf

 

[大久保麑山(げいざん)]略歴

20120209()
[大久保麑山(げいざん)]
 大久保麑山諱は教之字は子誨、通称を逕三といい、中津藩の世臣でした。
孝誨は教連、文政八年(1825)十二月十一日の生まれです。
幼い頃より慧敏、学を好み業を其の叔父
野本白厳に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又剣馬槍弓の術を習う。
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月教連歿し麑山国に帰る。
このときにあたり幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦微に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲台守隊長となり、又進修館助教となる。
廃藩置県後片端中学校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中学校教授と成る。
後年文部省より特別功労者として六国史及び硯石を賜る。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り碑を公園地に建てる。
その撰文は中村正直が行っている。
豊前人物志  山崎 有信  著   昭和五十六年 国書刊行会
扇城遺聞   中津小幡記念図書館  昭和七年
下毛郡誌 下毛郡教育委員会 昭和五十五年 国書刊行会
http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/geizan.txt 

[野本白巌]【大分県偉人伝】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/1
明治40812日印刷
明治40816日発行
著作者    大分県教育会
右代表者   千葉貞幹
発行兼印刷者 亀井忠一
       東京市神田区裏神保町一番地
印刷所    三省堂印刷部
       東京市神田区三崎町河岸第十二号地
発行所    三省堂書店
       東京市神田区裏神保町一番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/266
[野本白巌](日本教育史料)p130-131/270
野本白巌、諱は珵、字は伯美、通称は武三、
眞城山人と号し、晩年白巌樵夫と改む。
蓋し、宇佐郡白岩に退隠したるに因みてなり。
父は中津藩の儒臣野本亮右衛門。母は某氏。
寛政九年三月六日を以て家に生れぬ。
文化十三年、白巌嫡子を以て藩主昌暢に仕へ、
天保六年、父の後を襲ふて家俸十五口を継きぬ。
・・・
弘化四年、復た童蒙帳を下毛郡秣村に設けて教へ、
嘉永二年、又宇佐郡四日市に移りて教鞭を執れり。
同三年、露国の使船長崎に来るや、白巌慨然、
将に書を水戸老公に上り、邊防の事を論ぜんとして、
江戸に到りたるも、志を果たさざして帰り、
白巌の?宅を修め、書生を教授して居りぬ。
白巌幼より、帆足萬里に学び、程朱を以て宗と為し、
弱冠京都に遊び、古文を頼山陽に学びぬ。
性精識卓見、頗る気岸ありき。
学は實用に志し、博く治體に達しぬ。
故に、其の用ゐらるるや、政治を補佐し、其の罷めらるるや、
誌書を著し、側ら窮理説を学び、医術算数に通じ、律例を解せり。
俗語の著には、福恵全書、註解明官略、俗語纂、租税新論あり。
皆實用を主とせり。
又詩文集二冊あり、家に蔵む。
・・・
病に臥すること三年、安政三年七月三日を以て歿す。
享年六十。此の頃舊門生相議し、
白巌の塾跡に碑を建て鐫むに白巌先生之碑の六字を以てせり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/130 

[大久保逕造]
【中津歴史】廣池千九郎編述 明治24年12月発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/1
中津片端中学校開業ス p198/251
―略―
皇学教師ニハ渡邊重春アリ
漢学ニハ白石常人・橋本監厳・大久保逕造ノ三儒アリ
以テ両学ヲ分担専任シ
且傍ラ修身歴史地理等ノ訳書及和洋算術ノ初歩ヲ授ク
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/198
明治241210日印刷
明治241214日出版
定価金壱圓
編輯兼発行者 廣池千九郎
       大分県平民
       大分県下毛郡鶴居村151番地
印刷者    自由館印刷 担当人
       門田虎彦
       福岡県士族
       大分県下毛郡中津町106番地第二戸寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/246
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

[大河内傳次郎の青春]<別府祐弘>『土佐すくも人』第30号(2014年版)

20150824()
[大河内傳次郎の青春]<別府祐弘>
『土佐すくも人』第30号(2014年版)

 

[大河内傳次郎の青春] p10-19
 <別府祐弘>
  生い立ち
秀吉の軍師黒田官兵衛が
 1-秀吉の軍師黒田官兵衛

自らの居城として築造した
水城の「扇城」(幕末の中津は奥平藩)の
御殿医大辺晋を父とし、
藩学大久保麑山(注)の四女アキを母として
明治三十一年(1898)に生れた、
末っ子の大辺男(おおべ ますお)は
大のチャンバラ好きで、
従兄で明治二十八年(1895)生れの
別府祐六(私の父)に
チャンバラの相手ばかりさせて遊んでいたそうだが、
祐六は実社会で弱きを助け
チャンチャンバラバラの弁護士
(東京弁護士会所属五十年表彰)に、
男(ますお)は剣劇俳優になったのだから真に
「三つ子の魂死ぬまでも」である。
 2-別府祐六

その後、男(ますお)は室町次郎なる芸名で
「河原乞食」になったことで、
厳父の逆鱗に触れ、勘当されてしまう。

この男(ますお)を必死に庇ったのが
慈母アキであった。
そして彼女の父麑山(げいざん)を葬った
中津の大法寺に頼み込んで、
彼を佛門に入らせてもらったのである。
しかし、男(ますお)は初心忘れがたく、
生家のあった大河内村への強い望郷の念も抑えがたく、
「大河内傅次郎」なる新芸名で再起をはかった。
そのとき
「職業に貴賤はない。何でも一流になればよいのだから」
と男(ますお)を励まし、さらに援助しつづけたのもまた、
佛門を後にされて面目丸潰れの慈母アキであった。
作家富士正晴が風変りな俳優として、
大河内傅次郎に強い関心を寄せたのは、
まさに彼のこのような生い立ちによるのであろう。

 (注)
宿毛の清宝寺にある
「小野梓君碑」
(中村正直撰・明治二〇年(1887))と
中津(城址)公園にある
「大久保麑山先生紀念碑」
(中村正直撰・明治二一年(1888))と
「独立自尊碑」の関係、
したがってまた
早稲田大学と慶應義塾大学との関係等については、
別府祐弘稿「小野梓君碑と大久保麑山紀念碑   
ブログ[小野一雄のルーツ]改定版を参照されたい。
 

 俳優、大河内傅次郎の誕生
二十世紀前半に、ようやく形だけは安定した
日本の銀幕の時代劇に最初の魂を吹き込んだのが、
伊藤大輔監督と名優・大河内傳次郎のコンビであった。
それまでの講談や浪曲の二番煎じの時代劇ではなく、

不遇な人生の旅に疲れ果てた人間の姿、
虚無と絶望に共通する反逆児といった
現代人の共鳴する魂の声を、
あの傳次郎の
(演技に併せた弁士の)ドスの利いた、
腹から搾り出すような台詞まわしで
吹き込んだのである。

こういうニヒリズムと一種の反骨精神を、
巧妙なサイレント話術で展開した代表作
『御誂治郎吉格子』が、
平成二十四年(2012)七月三〇日、
現代の名弁士・澤登翠師の熱演により再現され、
門天ホール(東京メトロ門前仲町駅前)
満席の観客を沸かせた。
 3-澤登翠

傳次郎と縁続きのものとして
同ホール末席で同夜の演目を
鑑賞させていただいていた私の目は、
主演の傳次郎にではなく、
やっとこさ会えた美しい相手役
帝国キネマの看板女優
霧島直子こと日活の伏見直江に、
終始釘付けにされていた。
私の誕生前に繰り広げられた
ご両人の悲恋の物語に思いを馳せながらである。

なお文化勲章受章の大女優
山田五十鈴の銀幕デビューは、
この傅次郎・直江の
「剣を越えて」(日活・昭和五年(1930))であった。

 4-山田五十鈴

  看板女優との恋
先人のデリカシーに
私見を差し挟むような野暮はしたくないので、
以下は公刊された引用文を繋げるだけに留めたい。

 5-直江

 「…(前略)…大河内の母は直江の噂(競馬好きなど)を
 耳にすればする程、
 …(中略)…直江についての知識を得れば得る程、
 (子役育ちで読み書きソロバン、家事万般全部ダメ)、
 この結婚は全然問題にならないと考えたと思われる。
 おそらく大河内も、
 兄の弘も母の説得に努めた時があるに違いない。
 母は頑として承知せず、
 これはどうしても説得不可能だとそのことに絶望したが、
 さりとて直江を思う情は絶望によって尚更つのる。
 そこでその抜け道のごとき蒲郡の口説き文句、
 (「新聞に書かれてしまった以上、
  どう振舞おうが、
  もう世間のわれわれを見る目は同じだから」)
 大津での結合、浜坂(温泉)へのデート、
 そして一軒ひそかに家を借りての同棲があったわけになる。

  夜間撮影があるという言い訳には
 母としても妨げの仕様がなかったらしい。
 母は自分の好みの女性を探し出して
 大河内と結婚させねばならないと、
 大河内と直江が同棲生活に疲れと倦怠を覚える時期を
 ゆっくり待っていたであろう。

  何しろマスオの親孝行、
 母の意見に対して絶対服従であることは、
 マスオ自身新聞や雑誌にもしばしば書いているし、
 インタビューにもそう答えている。

  母は同棲をしってはいても
 知らぬ顔で平然とかまえていたらいいわけである。
 二人で駆け落ちしてどうこうする勇気は
 マスオにはないと見越していたに
 ちがいなさそうである。

  佛と母とを引き去ったら、
 大河内傳次郎はゼロとなると、
 本人が言っているのだ。
 こんなことを宣言して
 直江との結婚を許してもらえるわけはない…(後略)…」
(富士正晴著「大河内傅次郎」
 中央公論社・昭和53年(1978)・172-3頁)

 6-大河内傅次郎

  お見合い
年が明けて昭和七年(1932)
傅次郎は、
直江や世間の目を避けて
虚無僧姿に変装して別府に向かった。
母の顔を立てようとしたのであろう。
しかしこれが返って仇となった。

道中、移動警察の刑事に怪しまれ連行されて取調べを受け、
大スター・大河内傅次郎が
単身別府へ向かっていることは白日の下に
晒されてしまったのである。
しかも見合が終わると
親戚の記者が大特ダネと腕まくりし
待ち構えていた。

ここに至って流石の「丹下左膳」も所詮は人気稼業、
「寄らば切るぞ」ともいえず、
佛と母の両面からの話で引導を渡されることとは相成った。

 『大河内傅次郎におめでた話。
 相手は映画も知らぬお寺のお嬢さん』

 「伏見直江との結婚話以来噂の無かった
 大河内傅次郎に年が明けると早々
 おめでたい結婚話が訪れた。
 相手は意外にも無名の田舎のお嬢さんだ
 ~大河内は旧臘からこっそり
 別府温泉鶴水園ホテルに滞在してゐたが、
 三日午後郷里福岡県築上郡から尋ねて来た
 従姉梅高蓮子(私の伯母)に伴はれ
 豊前宇佐郡の名刹で八幡村森山の教覚寺へ車を走らせた。

    これが彼と同寺当主の姉にあたる
 平田妙香さんとの見合ひであった。
 妙香さんはことし二十四歳、
 大分県中津の扇城女学校を優等で卒業後、
 京都女子専門学校の家政科に学んだ近代女性、
 同地方で生き佛といわれた父の許で
 映画などは見たこともない
 淑やかさに育てられてゐるので
 俳優に嫁ぐなどとは思いもよらなかったが、
 スクリーンを離れた大河内の真面目さを知る
 東京築地本願寺の後藤環爾
 (傅次郎の母アキの姉、別府セツの長女要子の夫、
 つまり私の伯父)氏が
 斡旋して話を進めたもので、
 大河内は、八日親戚の末松代議士の来別を待ち
          ※(注)末松偕一郎:下記
 日取り等を相談するはずである。
 大河内は別府の宿で語る。
 私も三十五歳、一通りの修行は了えましたから
 結婚して母を安心させたいと思います…」。
(大阪朝日新聞 昭和七年(1932)一月九日夕刊)
 

 メランコリー
直江にとってこの大スクープは、
青天の霹靂、驚天動地であったであろう。
「不幸な伏見直江はどうしているか、
 コスモスの茎のように、
 折れ易い気持ちを
 じっと抱きしめて暮してゐる
 彼女を見るものは、
 その以前の彼女の勝気さを知ってゐるだけに、
 気の毒に思わないものはない。
 『大河内さんの今度の件どう思います』
 と何の気なしに彼女に聞いてみた或る人の前で、
 彼女は、何も言えずに泣き出したことがある。
 弱い女、伏見直江の淋しい姿を、
 私たちはこれから、
 何時まで見なければならないのであろうか」
(「映画の友」昭和七年(1932)五月号)
 

しかし直江は傅次郎の許をキッパリと去り、
慰謝料も受け取らなかったそうである。
 

 結 婚
「その見合いの相手である
 平田妙香はまさしく寺の娘(二女)で、
 その時、門司市大里(西本願寺)別院の
 鎮西女学校の教師をしていたが、
 冬期休暇で生家の(西本願寺末寺)
 教覚寺へ帰って来ていた。
 大河内の母がこの人をと心に決めた女性である。」
 (富士正晴著前掲書179頁)
 

「昭和七年(1932)五月一九日、
 京都錦小路西洞院 丹栄で
 芽出度く大辺・平田ご両家の結婚式が挙行された、
 新郎新婦はその日新婚旅行に出発した。
 …(後略)…」
(御園京平編著『畫譜大河内傅次郎』「年表」
 立命館大学図書館 昭和五一年(1976)九月 186頁)
 

私の母、別府ヨシ子扇城女学校OG談。
「それ以来扇城女学校では、
 理事長兼校長梅高普行・茶道教諭蓮子夫妻が
 すっかり大ファンになってしまい、
 大河内傅次郎の映画に限り、
 映画鑑賞が解禁になった」。
 

その後六人の子宝に恵まれた
この仲睦まじい二人の結婚が、
妙香の弟、崇徳前住職と傅次郎の姪、
    ※崇徳の父=崇鎧:祖父=琢勇
昭代(あきよ)様のご縁に繋がった。
 

そしてそのご子息の教覚寺
平田崇英現住職の主催する
大河内傅次郎映画鑑賞会で、
青春時代の彼の勇姿が現在なお健在なのである。
 

時たま古いシャンソン
「愛の賛歌」「メランコリー」
などを口ずさんでは、
なぜか
“大河内傅次郎の青春”伝説の
思い出される今日この頃である。
 

 メランコリー
 やるせなく しのびよる淋しさ
 酒と煙草に 溺れて
 涙ぐむ 女ごころ
 夜毎に しのびよる
 はてなき かなしさ
 酒をくみかわしながら
 夜明けまで 狂う
 恋人も明日も いらぬ
 なんにも いらない
 酔いしれては 飲み明かそう
 気の狂うまでは
 メランコリー
 おそいくる 心のむなしさ
 ひとり涙をこぼして
 酒を飲む夜よ
  (越地吹雪ビッグプレゼント・岩谷時子作詞)
 7-越地吹雪

  生涯青春の傅次郎
嵯峨野の竹林のなかの静寂の蹊(こみち)を彷徨(さまよ)った。
それはやがて山裾にひっそり佇む木戸門に突き当たる。
そこから中に入りだらだらとした坂道を暫く登ると視界が開け、
見事な日本庭園の中にお寺のように古風で瀟洒な建物が現れるが、
これが大河内傅次郎別邸であった。
 

そして徒然草にゆかりの双ヶ岡につらなる古都を眼下に一望できる
お座敷に和服姿で両手をついて挨拶に出られた、
在りし日の上品な妙香夫人から、
小粋な京懐石を振舞って頂いた
若き日の自分を思い起こし、暫し追憶に浸った。

 8-「大河内山荘」

 9-「大河内山荘」2

 ところで傅次郎没後、
ここは「大河内山荘」として一般公開され、
今日では国際観光客で賑わう京都名所の一つになっている。
傅次郎が晩年読経三昧の毎日を送った御佛堂を中心に、
嵐山と保津川渓谷も借景として取り込み、
百人一首で著名な小倉山南面の一木一石に至るまで、
三十四歳の昭和六年(1931)ごろから
六十四歳で逝去するまでの長年月をかけて、
彼自身が禅の境地の究極美を求め
吟味を重ねて作り上げたこの回遊式名園は、
彼の渾身のライフワークといえよう。

 10-「大河内山荘」3

 かくて大河内傅次郎は、
生涯青春の人生劇場を演じきった
偉大な俳優であった。
没後五十年、衷心よりご冥福をお祈りしたい。

またチャンバラの腕白仲間であった
亡父浄正院釈祐法三十三回忌に合掌。


◆本稿は「活カツキチ狂」
No.150
 二〇一二年一〇月一日の拙稿を元に加筆し、
 改めて書き下ろした。
 会報からの転載を快諾して下さった
 (株)マツダ映画社・無声映画鑑賞会に感謝の意を表したい。 
別府祐弘(べっぷ ゆうこう)

 11-別府祐弘(べっぷ ゆうこう)

 一九三六年、東京都港区に生れる。
一九六六年より、
成蹊大学大学院 経営学研究科教授、
帝京大学大学院 経済学研究科教授、
上武大学大学院 経営管理研究科教授、
早稲田大学・中央大学・青山学院大学・成城大学
講師等を歴任し、
現在 成蹊大学名誉教授。
スタンフォード大学、ペンシルバニア大学、
ワシントン大学、アメリカン大学、
コペンハーゲン大学、吉林財経大学で
客員教授・客員学者。
数社の役員・顧問を兼務した。
著書・論文多数。
詳しくは、「履歴と業績 別府祐弘」
(インターネット)参照。 

「履歴と業績 別府祐弘」
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf

◆編集後記◆ p80
別府祐弘さんのご尊父祐六さんは弁護士で、
大河内傅次郎の従兄に当る方です。
大河内傅次郎は、大正十五年(1926)、新国劇から日活に入り、
昭和前期の映画界を代表する大スターで、
「丹下左膳」が当り役であった。
独特の台詞まわしで人気があり、
「姓(シェイ)は丹下、名は左膳(シャゼン)」は
当時の子供でも知っていた。
知らざる傅次郎、青春のエピソードを
別府さんに寄稿していただいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「土佐すくも人」第30号(2014年版)
 東京宿毛会
 平成26年4月19日発行
 編集・発行 三元社
       東京都中野区野方1-56-2
       津野輔猷方
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※(注)末松偕一郎
【実録 大河内傳次郎】著者 池永敬
ライオンズマガジン社 平成2年5月10日発行
室町次郎の大辺ますお(男)が本身の槍でケガをした
大正十五年(1926)のころ、
別府三穂三郎は京都市伏見区稲荷町に住み、
鉱山経営のほか、
京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)に
映画館二館を持っていた。 p97 

経済界では、東京帝大卒の別府三穂三郎がいる。
大河内の母、アキの長姉、別府セツの三男で後藤要子、梅高蓮子の兄。
京都に住み鉱山などを経営し、
同郷の池永浩久に頼んで大河内を日活に入れた人物である。
アキは三穂三郎のことを「ミホさん」と呼んでいた。 p194
別府三穂三郎と末松偕一郎は親しかった。
別府は現在の福岡県立九州歯科大
(北九州市小倉北区真鶴町)の前身、
財団法人九州歯科医学専門学校が福岡市にあった昭和初年、
財政などで行き詰まったとき、資金援助などで立て直した。
昭和五年(1930)から同校の法人理事長に就任。
その後、校舎は小倉市(現・北九州市小倉北区)に移転した。
そのころから末松は同校の運営、経営面で別府を支援、
同十年(1935)二月、別府の死去で、
末松が同法人の理事長を受け継いでいる。 p194-195

 12-結婚式の写真(前列中央が大河内と妙香)

結婚式の写真(前列中央が大河内と妙香) p202
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※一部、追加・訂正を行った。 小野一雄
 平成27年(2015)8月24日
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[大河内傳次郎の青春]
<傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>
『活 カツキチ 狂』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2142075.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




[大河内傳次郎の青春]<傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>『活 カツキチ 狂』

20150826()
[大河内傳次郎の青春]
<傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>
『活 カツキチ 狂』

『活 カツキチ 狂』
No.150 季刊 秋:2012年10月1日発行

 150

 [大河内傳次郎の青春]
<傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>

 11-別府祐弘(べっぷ ゆうこう)

 二〇世紀前半に、ようやく形だけは安定した
日本の銀幕の時代劇に最初の魂を吹き込んだのが、
伊藤大輔監督と名優・大河内傳次郎
(本名・大辺男/マスオ)のコンビであった。

それまでの講談や浪曲の二番煎じの時代劇ではなく、
不遇な人生の旅に疲れ果てた人間の姿、
虚無と絶望に共通する反逆児といった
現代人の共鳴する魂の声を、
あの傳次郎の(演技に併せた弁士の)ドスの利いた、
腹から搾り出すような台詞まわしで吹き込んだのである。

こうゆうニヒリズムと一種の反骨精神を、
巧妙なサイレント話術で展開した代表作
『御誂治郎吉格子』が、
平成24年7月30日、
現代の名弁士・澤登翠師の熱演により再現され
“門天ホール”満席の観客を沸かせた。

傳次郎と縁続きのものとして
同ホール末席で同夜の演目を
鑑賞させていただいていた私の目は、
しかしながら主演の傳次郎にではなく、
やっとこさ会えた
美しい相手役・伏見直江に終始釘付けにされていた。

 2-大河内の母は直江

 私の誕生前に繰り広げられた
ご両人の悲恋の物語に思いを馳せながらである。

先人のデリカシーに
私見を差し挟むような野暮はしたくないので、
以下は公刊された引用文を繋げるだけに留めたい。

「…大河内の母は直江の噂(競馬好きなど)を耳にすればする程、
 …直江についての知識を得れば得る程、
 (子役育ちで読み書きソロバン、家事万般全部ダメ)、
 この結婚は全然問題にならないと考えたと思われる。
 おそらく大河内も、
 兄の弘も母の説得に努めた時があるに違いない。

 母は頑として承知せず、
 これはどうしても説得不可能だとそのことに絶望したが、
 さりとて直江を思う情は絶望によって尚更つのる。
 そこでその抜け道のごとき蒲郡の口説き文句、
 大津での結合、浜坂へのデート、
 そして一軒ひそかに家を借りての同棲があったわけになる。

 夜間撮影があるという言い訳には
 母としても妨げの仕様がなかったらしい。
 母は自分の好みの女性を探し出して
 大河内と結婚させねばならないと、
 大河内と直江が同棲生活に疲れと倦怠を覚える時期を
 ゆっくり待っていたであろう。

 何しろマスオの親孝行、
 母の意見に対して絶対服従であることは、
 マスオ自身新聞や雑誌にもしばしば書いているし、
 インタビューにもそう答えている。
 母は同棲をしってはいても
 知らぬ顔で平然とかまえていたらいいわけである。
 二人で駆け落ちしてどうこうする勇気は
 マスオにはないと見越していたに
 ちがいなさそうである。

 佛と母とを引き去ったら、
 大河内傳次郎はゼロとなると、
 本人が言っているのだ。
 こんなことを宣言して
 直江との結婚を許してもらえるわけはない」
(富士正晴著「大河内傅次郎」
 中央公論社・昭和53年・172-3頁)

年が明けて傅次郎は、
直江や世間の目を避けて
虚無僧姿に変装して別府に向かった。
母の顔を立てようとしたのであろう。
しかしこれが返って仇となった。

道中、移動警察の刑事に怪しまれ連行されて取調べを受け、
大スター・大河内傅次郎が
単身別府へ向かっていることは白日の下に
晒されてしまったのである。
しかも見合が終わると
親戚の記者が大特種と腕まくりして
待ち構えていた。

ここに至って流石の“丹下左膳”も所詮は人気稼業、
「寄らば切るぞ」ともいえず、
佛と母の両面からの話で引導を渡されることとは相成った。

『大河内傅次郎におめでた話。
 相手は映画も知らぬお寺のお嬢さん』

「伏見直江との結婚話以来噂の無かった
 大河内傅次郎に年が明けると早々
 おめでたい結婚話が訪れた、
 相手は意外にも無名の田舎のお嬢さんだ~
 大河内は旧臘からこっそり
 別府温泉鶴水園ホテルに滞在してゐたが、
 三日午後郷里福岡県築上郡から尋ねて来た
 従姉(別府蓮子=私の伯母)に伴はれ
 豊前宇佐郡の名刹で八幡村森山の教覚寺へ車を走らせた。

 これが彼と同寺当主の姉にあたる
 平田妙香さんとの見合いであった。
 妙香さんはことし24歳、
 大分県中津の扇城女学校を優等で卒業後、
 京都女子専門学校の家政科に学んだ近代女性、
 同地方で生き佛といわれた父の許で
 映画などは見たこともない
 淑やかさに育てられてゐるので
 俳優に嫁ぐなどとは思いもよらなかったが、
 スクリーンを離れた大河内の真面目さを知る
 東京築地本願寺の後藤環爾(私の伯父)氏が
 [3頁5段目へ続く]
 [巻頭頁より続き]
 斡旋して話を進めたもので、
 大河内は、八日親戚の末松代議士の来別を待ち
 日取り等を相談するはずである。
 大河内は別府の宿で語る。
 私も三十五歳、一通りの修行は了えましたから
 結婚して母を安心させたいと思います…」
(大阪朝日新聞 昭和7年1月9日夕刊)。

直江にとってこの大スクープは、
青天の霹靂、驚天動地であったであろう。
「不幸な伏見直江はどうしているか、
 コスモスの茎のように、
 折れ易い気持ちをじっと抱きしめて
 暮している彼女を見るものは、
 その以前の彼女の勝気さを知ってゐるだけに、
 気の毒に思わないものはない。
 『大河内さんの今度の件どう思います』
 と何の気なしに彼女に聞いてみた或る人の前で、
 彼女は、何も言えずに泣き出したことがある。
 弱い女、…伏見直江の淋しい姿を、
 私たちはこれから、
 何時まで見なければならないのであろうか」
(「映画の友」昭和7年5月号)

しかし直江は傅次郎の許をキッパリと去り、
慰謝料も受け取らなかったそうである。

時たま古いシャンソン
“爪”“メランコリー”などを口ずさんでは、
なぜか
“大河内傅次郎の青春”伝説の
思い出される今日この頃である。

『活 カツキチ 狂』
No.150 通巻182号 季刊 秋
2012年10月1日発行
1月4月7月10月 年四回発行
発行所/〒120-0003 東京都足立区東和3丁目18番4号
マツダ映画ビル内  無声映画鑑賞会
編集兼発行人    松田 豊
事務局 電話  03(3605)9981(代)
    FAX 03(3605)9982
無声映画鑑賞会 郵便振替 No.00140-2-152103
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※一部、訂正を行った。 小野一雄
 <傳次郎の従弟の倅 別府祐弘>
  ⇒
 <傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>
 平成27年(2015)8月26日
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[大河内傳次郎の青春]<別府祐弘>
『土佐すくも人』第30号(2014年版)
◆本稿は「活カツキチ狂」No.150
 二〇一二年一〇月一日の拙稿を元に加筆し、
 改めて書き下ろした。
 会報からの転載を快諾して下さった
(株)マツダ映画社・無声映画鑑賞会に感謝の意を表したい。
別府祐弘(べっぷ ゆうこう)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2142209.html
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初代チワワ-01

初代チワワ-01

初代チワワ-1
初代チワワ-02
初代チワワ-03
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キティとトースター

1-キティとトースター
CIMG12740-1
ミー子とキティ-10

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
20140320()
※画像をクリックすると拡大されます。

 p23-28p23/28

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  p29-28-奥付奥付

小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ④
  別府祐弘
4 むすび
早稲田大学創立者小野梓も熱烈なる仏教徒で
早稲田仏教青年会の創設者としても有名である。
彼の葬儀・法要の営まれた築地本願寺と早稲田大学とのご縁は
今日でも引き継がれているし、
慶応義塾大学創立者の福澤諭吉の最終講義も
「(親鸞聖人の)御文章について」であったと伝えられている。

菩提寺は共に西本願寺末寺の
清宝寺(宿毛)と明蓮寺(中津)・善福寺(東京麻布)である。

人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの信念を抱いていた
後藤環爾の考えに従えば、
早稲田大学と慶応大学の両創立者は共に敬虔な仏教徒であり、
然も同じ西本願寺の浄土真宗によって
人格形成された人々であったことになる。

つまり倫理と人格形成の基盤が同一なのである。

また両者共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に彼が撰した顕彰碑文にあることになる。

つまり早慶両校の校風はその根底の理念において繋がっているのである。

創立115周年の扇城学園においてをや。

注記

広瀬淡窓⇒恒遠醒窓(別府直夫の紹介で入門した)
⇒小笠原藩藩校明親館藩学(醒窓次男の恒遠精斎)と繋がっており、
名字帯刀を許されていた家の子弟は藩校で学んだから、
淡窓の直弟子・別府直夫(一九郎)の
長男又十郎と次男梅高秀山は
広瀬淡窓の曾孫弟子ということにもなる。
しかし両人は近くの恒遠醒窓の私塾でも学んでいるから
孫弟子ともいえる。

秀山は1年だけ日田で学んでいるので、直弟子かもしれない。
このような形で扇城学園創立者の血の中に
淡窓のDNAが入っていたものと思われる。
また藩学恒遠精斎の弟子でその私塾の師範代
鬼木柳緑が家庭教師として
別府家の六男で私の父祐六(当時9歳)の手をとって
三毛門公園の左右の門石柱の碑文
「遺徳照千秋・別府祐六謹書」
「芳名轟萬古・明治三十六年十一月吉旦建」を書かせ、
刻んで下さったわけである。

 三毛門公園の左右の門石柱の碑文

[別府祐弘稿]
「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、200210月、6頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)

そしてこの亡父の遺碑に込められた
別府家のDNAを確っかりと受継いでいかなければと
私は心に決めている。

⑮ 別府又十郎君 築上郡三毛門村
君は淡懷宏量なる老紳士、家世々大庄屋を勤め、
郡内有数の門閥家を以て推され、
鄕黨の歸嚮崇敬するところとなる久し矣。
君卓識を以て夙に其の名を知られ、
毎に郡村を代表して縣會議員外諸多の公職に服し、
論理正々、態度公明、熱心地方の發展に力め頗る令聞あり。
又政界の重鎭として同志の糾合、
黨勢の振張に與り貢獻するところ尠からず。
往年同志と共に株式會社吉富銀行を創設して財界に資し、
實弟故梅高秀山師、外二三特志家と
中津町に佛教主義の扇城女學校を設立し、
女子教育の鼓吹に力むる等、
時代の趨勢に伴ふ社界事業に力を臻し、
地方先覺者を以て許さる。
近年職に三毛門村名譽村長に從ひ、
鋭意自治の進展に努力するところありしが、
齡漸く老境に進みて昨年退職し、
爾來閑雲野鶴を侶とし專ら老を養ふ。
君特に意を子女の教育に用ひ孰づれも能く成功し、
目下長男敏治氏は
(創立募金に375円を寄付した)早稲田を出て
門司貯蓄銀行(吉富銀行の後身)を主宰し。

 『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』

 『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』
(第2列右から8人目が夏目漱石、
 この年9月に英国に向けて出発した。
 4列左から二人目の左腕で書類を抱えているのが、
 別府三穂三郎) p54
 [明治大正図誌 第15巻 九州]
(イギリス留学へ渡航直前の
 夏目漱石先生と一緒に五高卒業写真を撮った)
次男三穂三郎氏は
夙に赤門を出でゝ法學士となり
(共著【日英同盟】)、
門司興業株式會社の重役に在職し。
(篤姫の従妹の娘遠山常子と結婚)

三男醇氏は學を慶應義塾に修めて、馬關の名門伊藤家を嗣ぎ。
(坂本龍馬が暗殺されたとき、
 夫人は龍馬定宿の伊藤家で龍馬の帰りを待っていた)

四男賢吉氏は東京法科大學出身の法學士たり。
(旭川信用金庫創立者、弁護士)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/128
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行 p128/166
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

毳門生「感化講習会雑感」『扇城の友』
78頁、
明治42年(別府又十郎の上京レポート)。

筆者の父祐六は、六男で京都帝国大学法学部出身の弁護士
(東京弁護士会所属)であった。
但し、長男の十九郎が18才で没したので、
上記に従えば、五男で末子ということになる。

「同窓生対談―第
1
回生後藤要子・第4回生梅高蓮子」
『扇城の友』70周年記念号、3040 頁、
1970年で代表される4人の叔母達と母・別府ヨシ子は、
全員が扇城女学校卒であった。
なお四女ウラは大谷光瑞探検隊長・渡辺哲信氏夫人である。
扇城女学校創立の当面の目的は
別府家の子女の教育であったのかもしれない。

[資料③ 福沢諭吉 白石照山 大久保麑山 小野梓]
【大分県六大偉人綜合年譜】

 小野梓と中津の関係を探る手がかり?
 兄弟の一人が中津で亡くなっている

 1【大分県六大偉人綜合年譜】

2【大分県六大偉人綜合年譜】
明治16年10月3日 白石照山歿  六九(福澤諭吉 50才) 
p64/73
明治18年8月18日 大久保麑山歿 六〇(福澤諭吉 52才) p64/73
明治19年1月11日 小野梓歿   三三(福澤諭吉 53才) p64/73
【大分県六大偉人綜合年譜】昭和3年11月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/64
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑
      平成26年(2014)5月7日
         〒180-0001
東京都武蔵野市吉祥寺北町5-1-27
  電 話 0422-54-8800
  FAX 0422-54-6200
              別府祐弘

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html



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