2016年03月

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
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小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ③
   別府祐弘
 3 中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園
 東京女子師範(御茶ノ水女子大学)
初代摂理(学長)・中村正直の教育理念は、
当時としては極めて進歩的なものであった。
それは今日の男女共同参画社会の先駆けをなすものであった。
しかも親交のあった
「大久保麑山先生紀念碑」に顕彰碑文を撰した直前(約2週間前)に、
それは公刊された。
 「男女同権ノ弊ヲ気遣フハ教育ノナキ婦人ノ
 亭主ヲ尻ニシクヲ怕ルルニ過ス
 天道ヲ畏レ眞神ヲ敬シ技芸ヲ好ミ学術ヲ嗜ミ
 ソノ夫ノ輔助トナリ相愛シ相敬スルヤウニナリタラハ
 此等ノ心配ハナカルベシ
 サテ又男女ノ教養ハ同一ナルヘシ、
 二種ナルヘカラス
 苟クモ人類總躰ヲシテ極高極浄ノ地位ヲ
 保タシメント欲セハ
 宜シク男子婦人共ニ皆一様ナル修養ヲ受シメ
 其ヲシテ同等ニ進歩ヲナサシムベシ
 純情ナル婦人ハ純情ナル男子ニ伴ナハサルベカラス
 蓋シ善徳ノ律法ハ男子婦人ノ差別ナク
 共ニ遵用スヘキハ勿論ナリ」
[善良ナル母ヲ造ル説]p18-20/82
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/808657/19
【敬宇中村先生演説集】編輯者 同人社社員 木平譲
 明治21年4月2日出版
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

別府家は豊前国の小倉・小笠原藩において
代々・手永[てなが]大庄屋を務めた家柄であった。
しかし江戸末期の先覚者高野長英や大村益次郎をはじめ
多方面の人材を輩出し、
頼山陽も交わりを求めて訪ねて来たといわれている
硯学広瀬淡窓の豊後日田の咸宜園の
「学問は終生の業であり、自己の長所をもって時代に適応した
 社会有用の実践的人物を育成する」と言う教育理念は、
 ここに学んだ直弟子で家長の別府一九郎(直夫)により、
 もともとその子別府又十郎・梅高秀山にビルトインされていた。」注記⑭

このような
DNA
のある別府家において、
御茶ノ水女子大初代校長として上記のごとき
当時としては極めて進歩的な女子教育論を主張していた
中村正直の撰文になる『大久保麑山先生紀念碑』の建立から
10年の準備期間を経て、
同じ扇城内でこの碑から目と鼻のところの三ノ丁にあった自邸に、
中村正直の女子教育に対する考え方と
岳父の学風による
扇城女学校を創設したいという強い思いが、
麑山の長女セツ・別府又十郎〔祖父母〕夫妻にはあった。 注記⑮
彼らはまた親鸞聖人の敬虔な信徒であったところから、
別府家菩提寺・善正寺住職の実弟・梅高秀山師と手を携えて
扇城女学校を創設し、
秀山の浄土真宗による人格教育を中心にすえた上で、
この中村正直の女子教育理念と
大久保麑山の学風の実現を夢みたのであろう。

[扇城高校(現東九州龍谷高校)]

 [扇城高校(現東九州龍谷高校)]
 「扇城女学校(現東九州龍谷高校)は
1899(明治32)年三ノ丁で創立。
扇城内(中津城 3の丸 、現3ノ丁)で創立されたので、
この名前がついたのでしょう。
大正11年中殿町に移転。
この写真(前頁)は三ノ丁時代のもの。
(明治)44年10月22日のスタンプあり。
場所はマンション「サーバス中津城内」か
その東隣付近と思われます。
古い絵葉書の写真は加来さんの提供です。」
http://uchio.sakura.ne.jp/nakatsu/school/nakatsu-senjyou.html
現在の法人の名称   扇城学園
住      所   大分県中津市一ツ松211番地
創      立   1899年(2014年現在創立115周年)
沿革 1899年から1世紀以上続く教育の伝統がここにある

東九州短期大学〔大分県中津市一ツ松211番地〕
食物栄養学科・幼児教育学科
http://www.higashikyusyu.ac.jp/

 東九州短期大学

 [東九州龍谷高等学校]
平成9年(1997)  男女共学となり、高校名を「東九州龍谷高校」に変更する。

 1[東九州龍谷高等学校]

 2[東九州龍谷高等学校]

東九州龍谷高等学校〔大分県中津市中殿527番地〕
普通科・特別進学コース(男子・女子)
普通科・普通コース(男子・女子)
食物科(男子・女子)
衛生看護科(女子)
http://hk-ryukoku.ed.jp/gakkou-annai/

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html

 

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
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 小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ②
   別府祐弘
 2 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)

 小野 梓

 [早稲田の建学者たち]
 小野 梓 (1852-1886

後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山(げいざん)について、  注記④
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社から、
若干引用して紹介しておきたい。

「先生の始祖は諱は重敬、大久保右京亮教隆の孫で、
 小田原藩主加賀守忠朝の甥であるが、
 江戸で奥平家に仕え、食禄六百石。
 〔有名な大久保彦左衛門忠教の長兄が忠世といい、
 その孫が大久保右京亮教隆で、
 その子の忠朝が伯父忠常の養子となった。
 それが小田原藩主加賀守忠朝で、
 忠朝の兄の子が重敬であり、
 その重敬が奥平家に仕えて、
 大久保麑山の始祖となるわけである。
 重敬が奥平家(中津藩)に仕えるようになったのは
 大久保彦左衛門の口ききなどの伝説もあるらしいが、
 叔父加賀守忠朝の口ききだったのだろう。
 口ききする者がいいから、食禄もよく、
 奥平家において客分待遇であったと、
 子孫は言い伝えている。〕
 …君は…
 幼いころからかしこく学問好きで、
 母方の伯父野本真城     注記⑤
〔同藩の儒者であろう〕について学んだ。
 はやくから忠孝の大節を全とうすることを志し、
 武芸では剣・槍・鉄砲・騎馬、学ばぬものはなかった。
 …維新で藩校の文学助教となり、新たに家塾を設けた。
 四方から来塾する者、前後数千余人だった。」 (14-16頁)

 大久保麑山紀念碑

(資料①)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p57
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12
  正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた
福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。
『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた
白石照山のみが福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、      注記⑥
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていたのだから、 注記⑦
下記の講座概要を
「…最大の師とも言うべき野本真城と甥で
 師範代の大久保麑山に触れていない」とすれば、
 より正確になるのではないだろうか。

「平山洋講師(静岡県立大学助教):『福翁自伝』を読む
 諭吉には隠し事が多すぎる!
 早稲田大学〈エクステンションセンター八丁堀校〉
 講座コード:8204122008年、
 講座概要:
●自分で言っているからといって、それが真実と考えるのは早計で、
 自分の過去について隠したい事は、
 山ほどもある、というのが人間というものです。
 福澤諭吉についてもそれは言えて、
 彼は自伝で意図的な嘘を吐かないように心がけてはいたものの、
 最新の調査によって、ずいぶん黙っていたことが多かった、
 ということが分かりました。
 本講義では、『福翁自伝』を読みつつ、
 実は…、という具合にその裏の事情を明かします。
●第1回 中津にて:
 中津藩大阪蔵屋敷で生まれた諭吉は、
 三歳から二十歳まで過ごした豊前中津での就学について、
 最大の師というべき野本真城に触れていない。
 その理由は…。」
 講義内容については平山洋著
 『福沢諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』
 ミネルヴァ書房に譲っておこう。

 [福澤諭吉]

[福澤諭吉]
明治20年(1887)頃の肖像

「佐藤能丸 早稲田大学教授:
 『早稲田の校風』:2009年10月18日、
 早稲田大学第44回ホームカミングデー、ミニ講義の概要
●創立125周年の早稲田と創立150周年の慶応
●日本の私学の雄としての早慶の関係は
 双方の創立者の大隈重信と福澤諭吉との極めて緊密な交流から始まる
●福澤の慶応門下を大隈の配下に
●早稲田の「学問の独立」と慶応の「独立自尊」「一身独立」
●明治14年(1881)の政変と大隈・福澤提携陰謀説
●明治15年(1882)東京専門学校(早稲田大学)の創立」

 [若き日の大隈重信]
福澤諭吉(中津)と大隈重信(佐賀)は共に九州北部の出身で、
生い立ち教育の基盤と考え方が近かった為に肝胆相照らす間柄であった。
明治14年薩長藩閥政府と対立して大隈が野に下ると、
翌明治15年に創立された東京専門学校は
明治政府から“謀反人”の学校として警戒され弾圧されることになる。
西郷が征韓論に敗れて下野し、
薩摩各地の学校が西郷隆盛反乱軍の拠点になった
西南戦争から未だ日の浅いため、
東京の早稲田大学を拠点とした大隈クーデターを
時の明治政府は極度に警戒したのである。
大隈は福沢の出席した創立祝賀会にも出られないし、
その後10年くらいは早稲田のキャンパスに
一歩も足を踏み入れることができないような有様であった。
懐刀の小野梓なかりせば今日の早稲田大学はなかったのである。
そこで苦境の大隈・小野を有能な慶応義塾門下生を送り込んで
全面支援したのが福澤であった。
まず慶応義塾大阪分校長・徳島分校長を歴任した
高弟・矢野文雄を大隈のブレインとし、
早稲田大学創立者・小野梓が33歳の若さで夭折したため
初代学長・第3代総長を務めて
早稲田の育ての親と称される高田早苗、
早稲田大学教旨を起草した前島密(日本郵便の父)などがそれである。

したがって私には早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているように思われるのである。

[2007年10月21日
早稲田大学創立125周年記念式典 祝辞]
 慶應義塾長 安西 祐一郎
早稲田大学創立125周年記念式典 安西塾長祝辞
“このたび早稲田大学が創立125周年を迎えられ、
本日ここに盛大に記念式典が開催されますことを、
心からお祝い申し上げます。
とりわけ、白井克彦総長をはじめ早稲田大学関係者すべての皆様に、
心よりお慶びを申し上げますとともに、
125年の誇るべき伝統と実績を築いてこられたことに、
深い敬意を表する次第であります。
 ―略―
125年前、早稲田大学の開校式において、
建学を担った小野梓先生は次のように説かれています。
「一国の独立は国民の独立に基ひし、国民の独立は其精神の独立に根ざす。
 而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、
 其国を独立せしめんと欲せば、必らず先ず其民を独立せしめざるを得ず。」

ここに、私学としての早稲田大学の精神が凝縮されています。
その精神と誇りは、現在に至るまで決して絶えることなく受け継がれ、
尊敬されているものであります。

慶應義塾にも、創立者福澤諭吉が遺した
「一身独立して一国独立す」という思想が脈々と波打っていますが、
早稲田大学と慶應義塾は、「日本のオックスブリッジ」とも称されるように、
良き友、良きライバルであり続けてきました。

それは、両校の創立者大隈重信先生と福澤諭吉の、
明治の初め、1870年頃からの親しい関係に始まるものであります。
大隈先生のもとで多数の慶應出身者が積極的に活動いたしましたし、
早稲田大学開校式には福澤が出席したと言われています。
1907年の慶應義塾創立50年記念式典で励ましの祝辞を述べられたのも、
大隈先生でありました。
学問における切磋琢磨のみならず、
卒業生同士の交流、早慶戦をはじめとする学生間の交流もまた、
長年にわたる両校の絆を象徴するものであります。
 ―略―
http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/now_and_future/speech/2007/kr7a43000

 平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

ベストセラー『西国立志篇』などを公刊した文明開化の旗手として、
また東大教授・初代東京女子師範(現在のお茶の水女子大)校長として
日本を代表する当代屈指の知識人であった
東京人・中村正直がその人生の最晩年に、
何故に遠隔地の
宿毛(小野梓・明治20年)と             (資料②参照)
中津(大久保麑山・明治21年)の碑に顕彰銘を刻んで (資料①参照)
直後の明治24年に旅立って行かれたのであろうか?
それは少なくとも、
小野と大久保の両者が中村と基本的な考え方を同じくし、
理想を共有する同志との思いがあったからであろう。
事実中村は、若き日の麑山とは幕府学問所で一緒であったし、 注記⑧
福澤とは明六社同人、                    注記⑨
小野梓とは斯文学会同人であった。              注記⑩
そして福澤諭吉の慶応と小野梓の早稲田という
自主独立の「志立」大学の創設と発展に            注記⑪
日本国の文明開化の未来を託して
この世を去っていかれたのではなかったのか?

そして模範国民の造就・良民
(大事にたえるには篤実でなければならぬ)・
学問の独立・独立自尊・一身独立
(基礎が堅固で家が築けるようなもの)・
実学尊重・学問の活用
(実行を重んじかくて弟子を教えた)なる
両校の建学の精神の原点を大久保に見出して、
大久保麑山の学風をそのようなものとして
顕彰碑文に刻んだものと思われる。 

 小野梓君碑

(資料②)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p56
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

【敬宇文集
. 巻6】明治36年4月30日発行
 著者 故 中村敬宇(中村正直)
[小野梓君墓銘] p4-5/66
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/893604/4
 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と説く
水島銕也も、 注記⑫
大久保麑山の門下生で
中津藩士、水島六兵衛(均)の長男である。
野本真城(師範代・麑山)門下の福澤諭吉が関係し、
しかも、第一次・第二次長州征伐に大久保麑山隊長のもとで
武勲を挙げ藩費で福澤の慶應義塾門下生になれた
中津藩士・甲斐織衛が支配人(校長)を勤める
開校間もない神戸商業講習所に入り、
大久保麑山の学風を源流とする実学を学んだ。
その学風はその後彼の歩んだキヤリアーに色濃く反映されている。
明治14年 3月(18歳)神戸商業講習所に入学する。
明治17年 6月(21歳)中津開運社の給費生に選ばれる。
明治17年 9月(21歳)東京外国語学校付属高等商業学校に入学。
明治20年 3月(24歳)東京商業学校(高等商業学校)を卒業する。
明治20年 4月(24歳)東京高商(現在の一橋大学)教員を嘱託さる。
明治21年 4月(25歳)大阪府立商業学校校長心得となる。
明治22年10月(26歳)大阪藤田組に入社する。
明治24年 6月(28歳)横浜正金銀行に入り、横浜本店に勤務する。
明治26年 6月(30歳)横浜正金銀行ニューヨーク出張所詰となる。
明治29年 9月(33歳)東京高商(現在の一橋大学)教授となる。
明治32年 9月(36歳)東京高商附属商業教員養成所初代主任となる。
明治36年 9月(40歳)神戸高商(現在の神戸大学)を開設する。
そして初代の校長となり、
東京高等商業学校 (現・一橋大学)
学理を中心にした教育を行ったのに対して、
実践を重視して実務中心の商業学校卒業生に門戸を開放。
同時に国際商業人育成を掲げて
大正14年までの22年にわたって校長を務めた。

「近代経済界に新しい息吹→商業教育の基礎を築いた」
、 注記⑬
中津が生んだ実業教育のこの大先覚者を顕彰して
「水島公園」が造られている。

 〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕

 [神戸大学大学院経営学研究科]
[神戸大学経営学部]
〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕
http://www.b.kobe-u.ac.jp/info/news/2012/03/199.html

 

学風を後に伝えてきわまることはない」と中村正直が撰文した
『大久保麑山先生紀念碑』は、
扇城(中津・奥平城)の本丸にある
奥平神社本殿の参道に面して建設されている
本丸上壇唯一の紀念碑である。
(独立自尊碑は最初は三の丁、現在は二之丁)

[中津城内広場]
※『大久保麑山先生紀念碑』:左端

『大久保麑山先生紀念碑』:左端

http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/nakatujyoukara.html
http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/siro3.html


明治維新を挟んだ近代日本の黎明期に、
彼が奥平藩や中津の人々にとって如何に愛され
尊敬を集めた重要人物であったかを示す何よりの証左であろう。
そしてその学風は、
慶応義塾大学、早稲田大学、神戸大学(一橋大学専門部)の
建学の精神の中に生かされ、
現在に伝えられているのである。

注記

④ 《大久保麑山》p386-387
大久保麑山諱は教之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり。
麑山は其の號、中津侯の世臣なり。
考諱は教連(のりつら)、
文政八年(1825)十二月十一日を以て生る、
麑山幼より慧敏、學を好み業を其の叔父野本白厳(真城)に
宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以て名あり、又剣馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月考教連歿し麑山匇々國に帰る。
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ。
中津藩亦徴に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、
又進修館助教と為る。
廢藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中學校教授と為る。
翌年文部省より特別功労者として
六国史及び硯石を賜與せらる。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り豐碑を公園に建つ。
その撰文は中村正直なり。
麑山、人と為り温厚篤實、親に事(つか)へて至孝なり。
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ。
其の子弟に接するや、常に温顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く。
子弟深く麑山の學徳に服せり。
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、
長男恂は早死し、
次男慎次家を繼ぎ新聞業を営めり。
【豊前人物志】著作兼発行者 山崎有信
 旭川市六条通8丁目左10号
 昭和14年3月25日発行
 ⑤ 原文では、母方のおじの野本伯美(本名)になっている。
 ⑥ Sent Wednesday, April 22, 2009 9:25AM
  Subjrct: お答えします(平山洋)
  Re 質問「福澤諭吉の兄の先生は、大久保蔵之助と思います。
      …大久保蔵之助は大久保麑山と思います。」
 ⑦ 土地の古老(故別府満寿人氏)よりの伝聞。
 ⑧ 日本教育史資料、第7冊。
 ⑨ 戸沢行夫著『明六社の人びと』築地書館、1991年。
 ⑩ 【斯文六十年史】昭和4年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177169/122
 ⑪ 佐藤能丸教授の造語である。
 ⑫ 水島『学の人脈』神戸新聞 昭和52122328
 ⑬ 水島銕也 略年譜
http://fukuda.lib.hit-u.ac.jp/activity/workshop/PDF/20100614uemura.pdf

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html


[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
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[表紙]要旨・キーワード・目次

 p00-28-要旨・キーワード・目次

一 はじめに

 p01-28-一 はじめにp1/28

 p02-28p2/28

 p03-28p3/28

 p04-28p4/28

 p05-28p5/28

 p06-28p6/28

 p07-28p7/28

 p08-28p8/28

小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ①
   別府祐弘
 要旨:
福沢諭吉と小野梓共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に
彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているのである。

そして文明開化の大日本帝国の未来を
その旗手であった中村正直は、
両「志立」大学・「日本のオックスブリッジ」に託し、
「小野梓君碑と大久保麑山(げいざん)先生紀念碑」の撰文をして、
直後の明治24年にその生涯を終えた。

キーワード:中村正直、大久保麑山、小野梓、
      福沢諭吉、大隈重信、水島銕也、
      早稲田大学、慶應義塾大学、神戸大学、扇城学園

 <目 次>
1  はじめに
2 [中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)]
  [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)]
  [慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学]
3 [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園]
4  むすび


 1 はじめに
 《成蹊と私》
 「…中津の町はまた、福澤諭吉生育の地として、
 中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
 しかし同じ公園の中に、
 私の曽祖父の
 『大久保麑山先生紀念碑』も建立されていることを知る人は、
 今日ほとんどありません。
 そこには次のような碑文が刻まれているのです。

 大事に堪へるには   欲任大事
 篤実でなければならぬ 須是篤実
 たとえば基礎が堅固で 譬之基固
 家が築けるようなもの 方可築室
 君は実行を重んじ   君重躬行
 かくて弟子を教えた  以誨弟子
 学風を後に伝えて   風軌伝後
 きわまることはない  罔有窮己
 明治二十一年四月二十日
 元老院議官従四位 中村正直撰 注記①

 元老院議官従四位 中村正直撰 

 [近代日本人の肖像]
 中村正直 (18321891)
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html?cat=18
 この碑文の現代語訳は、
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社、
昭和53年、18頁より。(資料①参照)

  [大久保麑山先生紀念碑]

  [大久保麑山先生紀念碑]
[別府祐弘稿]
履歴と業績」 p50
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

 〔独立自尊の碑〕

 [福澤諭吉旧居・福澤記念館]
〔独立自尊の碑〕
http://www2.ocn.ne.jp/~fukuzawa/yukari.html


文人風をきらって実学を尊重した
藩学・麑山のこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも
色濃く受け継がれていると土地の古老は申します。

そしてこの碑文を撰した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、
成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。

この碑文こそが、その後
実学としての経営学を
私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、
成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。

その間、経済学部経営学科、
大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」
[別府祐弘稿]
成蹊と私
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、200210月、3-7 頁。
早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
成蹊大学名誉教授称号授与一覧
 称号記番号106 別府祐弘 Beppu, Yuko 経済学部 200241

《早稲田と私》
早稲田大学殿
拝啓
創立125周年、第二の建学に当たる真にお目出度きこの年に
定年退職するに当たりまして、
(昭和44年以来実に半世紀に亘る)
職務 (政治経済学部・商学部・社会科学部の
    経営学、財務管理論、組織論と演習)を
最後まで全うさせて頂きましたことに、
私としましては特に次の二つの理由から
深い感慨を覚えております。

(1)大隈重信侯と祖父・別府又十郎
  (大庄屋、吉富銀行頭取、県議会議員)が
   親交のあった由にて、
   老侯より賜りました親書が家宝として、
   別府家に大切に受け継がれておりますこと。 注記②

 大隈重信侯と祖父・別府又十郎

 [別府祐弘稿]
「履歴と業績」 p48
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

(2)伯父の後藤環爾 注記③
  (「図録・小野梓」15ページ参照、武蔵野大学創立者)が、
   早稲田大学創立者小野梓先生の
   菩提寺・清宝寺(宿毛)の住職であったこと。
   この度は、来る3月28日に
   定年退職教員慰労親睦会にお招き頂きまして
   真に有り難うございます。
   喜んで出席させていただきます。

追記:中津・奥平藩の藩学であった
   曽祖父・大久保麑山の紀念碑が中津公園にございますが、
   これと小野梓先生の墓碑に碑文(資料③参照)を刻んでくださった
   中村正直の記念文庫のある成蹊大学に
   65歳定年まで奉職させて頂きました後、
   現在はお陰さまで元気に、
   帝京大学に勤務いたしております。

宿毛訪問中、奥島前総長はじめ先生方とご一緒に
3月10日の清宝寺における
小野梓先生122回忌法要及び
お墓にお参りさせて頂きましたこと、
小野梓公園での
小松製作所創業者竹内明太郎翁(理工学部創設に功労のあった方)の
胸像除幕式に参列させていただきましたことは光栄の極みであり、
生涯の思い出とさせていただきます。
末筆になりましたが、
先生方のご健勝とより一層のご活躍をお祈り申し上げます。
敬具
2007年3月17日」

注記
①[中村正直](なかむら まさなお)
  洋学者・教育家。文博。号は敬宇。
  東京の人。佐藤一斎に学び、慶応二年渡英。
  明六社を組織し、新文化の興隆に努力。
  学士院会員・東大教授。
  初代お茶の水女子大校長。貴族院議員。
  「西国立志編」「自由の理」などの訳著がある。(18321891
  『広辞苑』より。
②「福岡は進歩党に合流いたしました玄洋社系勢力を除いては、
  大隈系政党(改進党―進歩党―憲政本党)の
  地盤の弱い地域でございまして、
  大隈の福岡における地盤開拓の努力を物語る、
  興味深い書簡でございます。
  本書簡につきまして、更にご教示いただける点がございましたら、
  たいへんありがたく存じます」…
  (早稲田大学大学史資料センター担当研究調査員木下恵太氏よりの
   2003年1月29日付書簡)

  大隈重信侯が、
  大久保麑山の長女・別府セツ・又十郎宅に逗留されたとも
  言い伝えられているが、
  10人の子全員が既にこの世の人でなくなった今、
  確かめる術もない。
  拙稿「成蹊と私」も参照されたい。

③《後藤環爾》(筆者の伯父で西本願寺総長・清宝寺住職)
『宿毛市立 宿毛歴史館』[宿毛人物史]より
教育事業界の英傑
東京千代田高等女学校と云えば都内でも有名な名門校で、
戦前にはその淑徳温雅な校風を慕って入学希望者が多い
まことに狭き門の学校であった。
しかし環爾が西本願寺東京事務所に職を奉じた明治38年頃は、
白蓮教会と云う築地本願寺の配下に当る一教会の営む、
ささやかな私塾的存在で、
その名も女子文芸学舎と云う生徒数も、
わずか50人前後のまことに貧弱な存在であった、
しかも事情により廃校寸前の状態にあった。
人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの考えを抱いている環爾は、
直ちにこの問題に取り組んだ。
殊に当時の我が国の女子教育は、
男子の教育に比して著るしく遅れており、
極めて不振の状態であることに強い関心を持っていた彼は、
この女子文芸学舎の廃止には絶対反対であるだけでなく、
これの発展策を図った。
そうして関係当局者の意見を強引にまとめ、
ついに白蓮教会と文芸学舎の全部を築地本願寺の直轄とし、
教会の堂宇は全部、築地本願寺境内に移転し、
その跡地を敷地として巨大な新校舎を建設した。
そうして名も女子文芸学校と改めて、
定員も300人に改め
女子教育界に新スタートを切ったのである。
その後大正年間になり更に千代田高等女学校と改称、
新たに千代田女子専門学校も併設して
生徒数、数千に及ぶ大校にまで発展した。
その間、環爾の学校に対する熱意は益々強く燃え
理事として直接、学校運営に貢献している。

次は武藏野女子学園(現在の武蔵野大学)の創設である。
大正12年9月1日の関東大震災により、
日本赤十字は難民救済の為
いち早く築地本願寺近くの焼跡に震災救護院を開設した。
しかもその建物は、半永久的な当時としては極めて立派なもので
9月14日に起工し、建築費数十万円を以て突貫工事を行なった。
数十万と云えば現在の数億円に相当するので、
応急建築とは云え近隣を圧する立派なものであった。
所が翌13年3月、
赤十字は計画変更でこの救護院を撤収することに決定した。
機を見るに敏な彼のことである。
俄然、彼の活動が開始された。
彼はこの建物を全部払い下げてもらって、
新らしい女子教育の殿堂とする大構想を描いたのである。
そうして例の通りの周到な計画と、
粘り強い交渉によりついに赤十字を動かして、
払い受けに成功して武蔵野女子学園の創立に成功したのである。

追悼録には、彼は仕事をつくり出す人だと述べている人があるが、
全くこの武蔵野女子学園の創設はその通りだと考える。
又彼は政治家肌で、交渉や談判が極めて巧みで、
政治的手腕に卓越していたとも述べている。
然しながら千代田高等女学校と云い、
又この武蔵野女子学園といい、
彼に教育に対する愛情と熱意が無かったら、
この2大事業も恐らく計画さえもされずに終った事だと考える。
その他彼がその生涯に関係した教育関係の公職の一部を挙げると次の通りで、
如何に彼が教育熱心であったかがわかる。
京都女子専門学校
(現在の京都女子大学)          理事長。
千代田女子専門学校
(現在の武蔵野大学・武蔵野女子学院に合併) 理事。
大分県扇城高等女学校
(現在の東九州短期大学・東九州龍谷高校)  理事。
龍谷大学                  理事。
東京市京橋区盲人技術学校        校長 等。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p015.html


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html

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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html


blog[小野一雄のルーツ]改定版
『改訂版』<別府又十郎 妻:セツ 10人の子>
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2377320.html
 

論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]

20140402()

論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
要 旨
福沢諭吉と小野梓共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に
彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているのである。

そして文明開化の大日本帝国の未来を
その旗手であった中村正直は、
両「志立」大学・「日本のオックスブリッジ」に託し、
「小野梓君碑と大久保麑山(げいざん)先生紀念碑」の撰文をして、
直後の明治24年にその生涯を終えた。

キーワード
:中村正直、大久保麑山、小野梓、
      福沢諭吉、大隈重信、水島銕也、
      早稲田大学、慶應義塾大学、神戸大学、扇城学園
※画像をクリックすると拡大されます。

[表紙]要旨・キーワード・目次

 p00-28-要旨・キーワード・目次

 一 はじめに

 p01-28-一 はじめに p1/28

 p02-28 p2/28

 p03-28 p3/28

 p04-28 p4/28

 p05-28 p5/28

 p06-28 p6/28

 p07-28 p7/28

 p08-28 p8/28
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html


二 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治二十年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治二十一年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)

 p09-28 p9/28

 p10-28 p10/28

 p11-28 p11/28

 p12-28 p12/28

 p13-28 p13/28

 p14-28 p14/28

 p15-28 p15/28

 p16-28 p16/28

 p17-28 p17/28

 p18-28 p18/28

 p19-28 p19/28
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[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html

 

 三 中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園

 p20-28 p20/28

 p21-28 p21/28

 p22-28 p22/28

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[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
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四 むすび

 p23-28  p23/28

 p24-28 p24/28

 p25-28 p25/28

 p26-28 p26/28

 p27-28 p27/28

 p28-28 p28/28

 奥 付

 p29-28-奥付

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[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
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※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

[明治2年11月頃:士族籍を脱して平民となる]『図録 小野梓』2002年

『図録 小野梓』
[大学創立一二五周年記念・生誕一五〇周年記念]
[立憲政治の先駆・大学創立の功労者]
   ≪小野梓年譜≫ p102
[明治二年(1869)] p102-103
二月頃、岩村道俊に伴われ宿毛を出発し、
大阪・京都を経て東京に到着、
岩村家に寄寓して漢学を学ぶ。
九月頃、岩村の北海道赴任(函館府権判事)後、
東京に残って昌平学校に学ぶ。
一一月頃、藩命により帰郷を命ぜられる。
帰郷後、藩の束縛を嫌って叔父善平の養子となり
士族籍を脱して平民となる。
 

[明治三年(1870)] p103
春、大蔵省会計監督官の小野義真を大阪に訪ね、
同家に寄寓して英学を学ぶ。
七月頃、小野義真の世話で、
名を東島興児とあらためて神戸から上海に渡り、
中国内地を旅行、「救民論」を執筆し、
また岡山県人西毅一らと交わる。
一一月、公務で上海に赴いた小野義真とともに帰国の途に就く。
 

[明治四年(1871)] p103
年初、小野義真とともに上京、
渡米準備のため横浜の修文館で英語を学び、
同館寄宿舎でパーレーの『万国史』の訳出に励む。
 

[明治五年(1872)]※小野一雄
[小野梓:明治5218日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]
二月頃、横浜から出帆して渡米、
サンフランシスコからニューヨークに至り、
ブルックリンに到着、
同地でジョンソン博士に師事し、
法律を学び始める。
 

[明治六年(1873)] p103
三月二〇日、米国より小野義真に書翰を送り、
岡本健三郎(大蔵省大丞)の斡旋により
大蔵省官費留学生となる予定を伝える。
 ―略―
 二〇〇二年二月二八日印刷
 二〇〇二年三月一〇日発行
※平成14年3月10日発行
 編集 早稲田大学
 発行 早稲田大学
 

[鳥海弘毅:京都女子手藝學校]【中等教育諸学校職員録. 明治41年10月現】

【中等教育諸学校職員録. 明治41年10月現】
[私立 京都女子手藝學校] p142/451
 京都市中立賣通西洞院東入
 明治三十五年三月創立
 現在生徒二百三十二名
名譽校長              大塚 要
校長兼理事             鳥海弘毅
主幹兼理事 漢、算、代、造花、修、 中森孟夫
理事                頼 龍三
敎授兼敎務 國、英、歷、修、    羽田 亨
仝兼庶務  國、地、修、      川島元次郎
敎授    刺、          石田常七
仝     洋裁、         林 鈴子
囑託    體、          西村兵一
敎授    裁、家、        土肥原京子
仝兼事務  習、          藤堂元誠
敎授    洋裁、         大見文太郎
仝     茶、          大塚宗圀
仝     造花、         大森岩雄
仝     刺、          渡邊庄次郎
仝     裁、          吉田ふさ
仝     國、          田中 薫
敎授兼敎務 國、英、敎、習、    田中了惠
敎授    裁、          田中千代
仝兼舎監  造花、裁、       中森かね
敎授    裁、          永味美津
仝     國、          山岡道行
仝     裁、          松生八重
仝     音、唱、        藤田胸三郎
仝     理化、算、幾、     藤沼とき
囑託    割烹、         福田芳峯
敎授    理化、         小松 茂
仝     裁、          小林澤江
仝     筝曲、         江良千代
仝     裁、          阿部輝子
囑託    割、          坂本恒吉
敎授    畫、          箕田玉章
囑託    博、生、        白井彦聖
敎授兼舎監 裁、          關 郁子
敎授    生花、作法、      舌 八重
名譽講師  歌文學、        池邊義家
仝     外國語、        春木一郎
仝     國、漢、        畠山太郎
仝     繪畫、         山元春擧
校醫                大村達齊
庶務                小林ふし
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779898/142
明治四十一年十二月一日印刷
明治四十一年十二月五日發行
(非賣品)
編纂並發行者 中等敎科書協會
       東京市日本橋區本材木町三丁目十六番地
右代表者   稻垣義真
印刷者    青木 弘
       東京市牛込區市ケ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所    株式会社秀英舎第一工場
       東京市牛込區市ケ谷加賀町一丁目十二番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779898/444
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

[京都橘大学]
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建学の精神
「力を実業教育に注ぎて、将来自営独立の実力を得しめん」
[創設者]
中森孟夫(なかもり たけお)
[経歴]
1868(明治元)年、滋賀県蒲生郡(現、日野町)の農家に生まれる。
1890(明治23)年、泰西簿記学校を設立。その後、京都高等学院などを設立。
1902(明治35)年、京都橘学園の前身となる京都女子手芸学校を京都市内に設立。
1909(明治42)年、同校校主辞任。
1913(大正2)年から1919(大正8)年まで、
        ハワイ、ホノルルの日本人学校などで教鞭をとる。
1946(昭和21)年、死去。
[解説]
京都橘大学と京都橘中学校・高等学校の前身は
「京都女子手芸学校」(1902年設立)です。
創設者である中森孟夫は、青年時代、小学校で教鞭をとる傍ら、
村の青年を集めて夜学を開き読み書きを教えました。
 ―略―
http://www.tachibana-u.ac.jp/about/corporation/founding.html

 

[鳥海弘毅:京都府収税長]【京都府職員録. 明治28年12月改正】

【京都府職員録. 明治2812月改正】
知 事 從三位勳二等 山田信道  熊本縣士族
    高等官一等(年三、五〇〇)
書記官 從五位勳六等 本部 泰  鳥取縣士族
    内務部長
    文官普通試驗委員長
    高等官三等(年二、〇〇〇)
警部長 從六位勳六等 田中貴道  福岡縣士族
    文官普通試驗委員
    高等官五等(年一、四〇〇)
収税長 正六位勳六等 鳥海弘毅  秋田縣士族
    文官普通試驗委員
    高等官四等(年一、四〇〇)
參事官 正七位    大槻龍治  宮城縣士族
    内務部第一課長兼第六課長
    官報報告主任
    文官普通試驗委員
    市町村立小學校敎員銓衡委員
    神職試驗委員長
    社司社掌試驗委員長
    高等官六等(年一、〇〇〇)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779550/2
明治二十八年十二月十八日印刷
明治二十八年十二月十九日發行
編輯     京都府知事官房
發行兼印刷者 中西嘉助
       京都市上京區下賣通小川東入
             西大路町拾番戸
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779550/60
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


《鳥海弘毅君傳》[小野梓亦嘗て士籍を奉還して平民と為り四方に漫遊す]

【京都府下人物誌. 1編】明治24年7月20日出版
《鳥海弘毅君傳》p29-33/108
 ―略―
明治二年(1869)     p29/108
君藩撰を以て東京に遊學す
君の説果して行はる
君東京に至るや直に福地源一郎氏の門に入る
未だ幾くならすして去る
福地氏は洒落の人なり
其業を授くるや體貌を修めす
衣襟或は幇間に類するあり
君謂?く以て師とするに足らさるなりと卒に去り
大學南校に入る
巳にして政府各藩の貢士を召す
龜田藩君を薦む
君尚政府の命により大學に在ること二年
君常に外國敎師の傲慢にして禮なきを憤る
竟に同盟數人と校を退く
君校を退くの後
頗ぶる志士の間に往來し大に經綸を論す
事聞き藩大に之を憂へ
君等を召還す
君應せす
既にして藩英學校を起し君等を招き敎授を主らしむ
既に歸る事皆計に出つ
盖し君等の
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777598/29
東京にあるや
其激論を爲し四方に徘徊するを恐る
是を以て事に托して君等を召還せしなり
君歸るの後爲す處なく快々として樂ます
頻りに出遊を思ふ
然れとも當時尚家に老母あり
且つ曩に學成らずして
一旦竟に故園に歸るの故を以て復た
藩命あるにあらすんは出遊を許されす
是を以て其機を得ず
是に於て一計を案し
自から下り足輕の格に入り
藩の飛脚と為り
以て東京に出つ
飛脚は賤業なり士のなさゝるところ
而して君之を爲して顧みす
盖し士卒平權論を躬行せんとするの意に出つ
小野梓亦嘗て士籍を奉還して平民と為り四方に漫遊す
亦君と其轍を同ふす
君か再ひ東京にあるや
某の家に客たり
當時維新日淺く
天下の事尚未た其緒に就かす
君爲以?く國家の要は敎育にあり
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777598/30
明治廿四年七月廿日印刷
明治廿四年七月廿日出版
定價 金廿五銭
著者兼發行者 櫻井敬太郎
       京都市上京區堺町夷川上ル
       絹屋町二十四番戸寄留
仝      佐野精一  靜岡縣平民
       同所寄留
仝      手嶋 誾  大阪府平民
       同所寄留
印刷者    小倉皆應  廣島縣平民
       京都市下京區油小路御前通下ル
       玉本町第五番戸寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777598/103
發行所    金口木舌堂
       京都市上京區堺町夷川上ル
       絹屋町廿四番戸
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777598/104
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[鳥海弘毅 とりのうみ ひろき]
生没年 嘉永2(1849)~大正3(1914)
分 類 官吏
略 歴 秋田県岩城町に、亀田藩士加藤権九郎の長男として生まれる。
    戊辰戦争では三崎口に出陣している。
    明治2年、藩費で久野謙次郎、中田直慈とともに
    大学南校(東京大学の前身)に入学するが中退。
    その後京都府収税長などを勤める。
    日本武徳会の創立者の一人として知られ、
    小野派一刀流、日置流弓術、大坪流馬術にすぐれた。
    武徳会幹事長。
    京都府で病没。
http://soutairoku.com/07_douzou/20_to/torinoumi_hiroki.html

 

《アメリカ號:明治5年7月21日・神奈川沖で焼失沈没》【国民過去帳. 明治之巻】

【国民過去帳. 明治之巻】昭和10年
アメリカ號》 p118/740
米國郵船にして
明治五年(1872)七月廿一日
神奈川沖に於て焼失沈没す
(郵便報知新聞)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271/118
昭和十年十二月 二十日印刷
昭和十年十二月二十五日發行
定價 金拾圓
送料不要
編纂兼發行者 大植四郎
       大阪府泉南郡八木村大字大町三六七番
印刷者    桃谷印刷株式會社
       末吉一郎
       大阪市東成區鶴橋南之町一ノ五七八五
發行所    尚古房
       大阪府泉南郡八木村大字大町三百六十七番地
       振替口座 大阪六四九五八番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271/736
 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

「アメリカ号」[岩倉使節団と久米邦武]高田誠二

[岩倉使節団と久米邦武]
漢文で学んだ科学技術
―久米邦武の研鑚とその背景―
 高田誠二
 (田中彰校注、岩波文庫判()42ペ-ジ、左から五行目)
此回ニ発スル飛脚船ハ「アメリカ」ト号ス、
太平会社飛脚船ノ内ニテ、
第一ナル美麗ノ船ナリ、
長サ三百六十三「フイト」(約我七十間半)
幅五十七「フイト」、
深サ二十三「フイト」、
甲板ヨリ上ノ高サ八「フイト」、
蒸気ノ力一千五百馬力
(此馬力ハ実馬力ヲ云フニ似タレトモ噸数ニ比スレハ甚弱シ、
恐ラクハ聞誤リアラン)ニテ、
四千五百五十四噸ヲ積ム…
同じ日の記録の書き始めは
「此朝ハ暁ノ霜盛ンニシテ、扶桑ヲ上ル日ノ光モ、イト澄ヤカニ覚エタリ」と
漢文名句のスタイルで綴られているが、
それに比べると「飛脚船」の段は散文的で技術レポートの印象がある
(なお「飛脚船」とは時代劇の響きを伴う語だから大槻『大言海』を調べたら、
「時日を定めて急航する蒸気船」と、見事な解釈が与えられていた)
―略―
「実馬力」の話に戻れば、
2書とも「求実馬力法」など詳述し例を挙げている。
答を先取りすると、
「容積噸数」4050ほどの汽船2例の
「実馬力」は3704馬力、4234馬力である。
岩倉使節団を運んだ「アメリカ」号は、
「噸数4554」に対し「蒸気の力1500馬力」だと聞かされた。
これを「実馬力」と解して他船と比較すれば、
なるほど「甚弱シ」と言わざるを得ない。
―略―
総括すれば久米は、
アメリカ号の1500馬力が「号」馬力なら納得もできるが、
当節の通念である「実」馬力と解すれば「甚弱シ」だから、
「聞誤リアラン」と注記せざるを得なかったのであろう。
―略―
「アメリカ」号後日談
以上、局所的な詮索だが、
久米の文献博捜の学風と批判精神の強固さとを、一例について示した。
以下は余談に近いが、
久米手稿『環瀛筆記』には
「コノ蒸気ノ力ヲ算スル、蓋シ2000馬力ヲ具ス」とある。
この「アメリカ」号は186566年に建造され名声高かったのだが、
そのデータは『汽機発靭』、『汽機必以』には見えない。
()著が1860年代半ばの本だから、それは止むを得ないのだけれども、
後の船舶技術史書に
「アメリカ」号のデータが登場しないのは不思議だと私は感じていたが、
その謎は、最近、『実記』英訳版で解かれた―
この船は、使節団を載せた翌年、火災で失われたのだそうだ。
現地の新聞によってこの出来事を英訳に注記して下さった
M.コルカット教授に深謝しなければならない。
(たかだ せいじ 久米美術館)
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I6802468-00


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