2016年11月

[思い出の写真帖]〔丹後①〕930422-2

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浦嶋神社(宇良神社)
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平成5(1993)422
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[思い出の写真帖]〔丹後①〕930422-1

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[思い出の写真帖]〔丹後①〕930421-2

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[思い出の写真帖]〔丹後①〕930421-1

[思い出の写真帖]〔丹後①〕930421-1

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《植民地時代と今日の台湾の比較》4/4奇美実業 許文龍 董事長:1998年

《植民地時代と今日の台湾の比較》4/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
p13-許文龍-講演
p13
才からほとんどの時間を
釣り、音楽、絵、読書に費やしています。
うちの会社の事に戻りますが、
私達は様々な方法でコストダウンをはかり、
気が付いたら、
世界一になっていました。
現在うちのキャパが100万トンですけれども、
100万トンというのは
アメリカ大手三社の総生産量を併せて
だいたい100万トンです。
日本のメーカーは10社あるんですけれども、
これも全部併せて90~100万トン近くだと思います。
一つの会社の生産量として、うちは世界一です。
今までは順調に発展してきましたが、
去年当たりから
韓国のコストを無視した安売りが始まって、
一時かなり苦しい状態に陥りました。
幸い現在は小康状態を維持しています。
先ほど申し上げましたように、
私は現在仕事の事よりも
儲けたお金をどう使うかが重要な事になっております。
それで考えた事はまず病院をつくりましょうという事で、
台南に南部で一番大きい1,200ベッドの病院を作りました。
その次に、文化を如何に向上させるかを考えました。
今日の台湾は確かに豊かになりましたが、
文化の面ではちょっと遅れています。
蒋介石はかつてナショナリズムから
中華文化を復興しようと唱えていましたが、
私に言わせれば、
中華固有の文化はほとんどないと思います。
現在いわゆる中原文化も
中央アジアから伝来した文化が主体だと思います。
私が強調したいのは、
国際文化の大切さです。
私はまず絵の収集を始めました。
私が絵を収集する時は絶対作者の名前を先に聞きません。
それに、難しい絵、誰が見ても分からない絵は買いません。
写実的な手法で書かれた絵、
特に19世紀の技術の爛熟した作品というのは
すばらしいと思います。
全世界の人が印象派、ネオ印象派ブームで浮かれている時、
私は全く違う19世紀の絵に注目し、
大量に購入しました。
もう一つのコレクションはバイオリンですが、
若い音楽家の育成のために、
貸し出しも行っています。
もう一つのコレクションは武器です。
私は昔から日本刀が好きで、
日本刀のすばらしさに魅せられています。
日本刀は外観が美しく、
切れ味の鋭さもその他の民族の刀より
格段にいいと思います。
従って、
私は日本の国宝級の刀をかなり集めています。
それから、
昭和初期に台南市に素晴しい
歴史博物館と自然史博物館がありましたが、
私は子どもの頃歴史博物館に行くのが好きで、
特に動物の標本を見るのを楽しみによく通っていました。
しかしこれらの博物館は戦争中に焼けてしまいまして、
戦後になって、
所蔵品は散らばってしまい、
現在台南には博物館がないのです。
動物標本に関して、
うちのコレクションは
幅の広さ及び数の多さにおいては恐
p14〔らくアジア一だと思います。〕
p14-許文龍-講演
p14
らくアジア一だと思います。
世界の動物を何千点と集めていますが、
私は世界で有名な剥製業者及びハンターを通じて、
毎年世界各地から標本を集めており、
かなりの数になります。
また、楽器の博物館を作りたいと思っています。
昔からある色々な楽器を集めて、
その発展過程を紹介したいと思います。
私は現在一番幸せに思っているのは、
稼いだお金の使い道がはっきりしてきた事です。
これは非常に楽しい事です。
台湾ではお金持ちが多いが、
お金というのは一種の原料だと思います。
使って初めて製品になります。
私はその製品をたくさん持っています。
従って、お金があるだけではなく、
私はお金を使う楽しみも同時に持っています。
当然ながら、
そうなると子供にどれだけお金を残すか
という事になりますが、
残念ながら、私は子供にお金を残さないつもりです。
残してもしょうがないと思いますし、
彼等にとっても大きな負担になると思います。
やはりお金のない人が自分の力で家を買ったという
楽しみは生涯忘れないと思います。
私もそうでしたが、
自分のお金で
マイホームを買った時の感動は一生忘れません。
また、結婚の費用も自分で貯めました。
私の場合30才で結婚しましたが、
その時代ではかなり晩婚の方でした。
自分で稼いだお金でもって奥さんをもらうとか、
家を建てるというのは非常に楽しい事です。
現在の親は子供に対して過保護になりがちであり、
子供の教育から結婚まで全てお世話したがりますが、
そうする事は
自分自身の力で何かを成し遂げるという楽しみを
子供から奪っていると思います。
従って、私は子供にあまりお金を残さないつもりです。
子供に自分の力で何かを成し遂げた時の
満足感を味わってほしいと思います。
以上で私の講演を終わらせていただきます。
ご静聴ありがとうございました。
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1-大型封筒-1
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《奇美実業、董事長、許文龍》
*総統府国策顧問:講演会・平成10年
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
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《植民地時代と今日の台湾の比較》3/4奇美実業 許文龍 董事長:1998年

《植民地時代と今日の台湾の比較》3/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
p10-許文龍-講演
p10
もうるさい問題です。
そういう意味で、
やはり日本の方々には台湾問題を
もつと真剣に考えてもらいたいのです。
やはりかつての後藤新平のような方が作った道を
継承して歩くわけですから、
当時日本の方がどういう事をされたかを
勉強し直す必要があります。
戦前の外交に比べると、
今の日本の外交は中国大陸に何かを言われると、
すぐ引っ込んでしまいます。
例えば報道問題で、
何か変な事を書くと中国大陸に入国できないので、
引っ込んでしまいます。
これは明治時代の人と発想が違うわけです。
仮に私がそういう立場にあったら、
チャンスだと思います。
じゃんじゃん書き立てて、
中国大陸がどうぞ書かないで下さい、
現地を見に来て下さいと
頭を下げてくるまで書き続けます。
それなのに、
日本人の反応は中国大陸に言われて、
入国できないと困るから、
書くべき事を書くのをやめるわけです。
これはいわゆる
戦後の日教組の影響かどうかは知りませんが、
そこでやはりみなさんに
もう一度植民地時代の台湾はどうであったか、
当時日本人がどういう事をやったかを勉強し直し、
戦前の事を頭から間違いだと思わないでほしいのです。
そして、
将来進むべき道をそこから見出してほしいのです。
今日はこういう植民地時代の話もいいんですけれども、
どうやらうちの会社に興味を持っている方も
かなりいらっしゃるようですので、
うちの会社を簡単に紹介します。
私は終戦後、まず2、3人の従業員を使って
家内工業から始めました。
そのうちに、プラスチックの成型材料を買ってきて、
インジェクション、モルディングをやって、
それからアクリルのキャスティング、
PS、ABSの順序で発展させてきました。
会社としてはそれほど大きいわけではありませんが、
最近うちの企業文化に対して、
色々な方が興味を持ち始めました。
それはどういう事かと言いますと、
第一に私は一週間に二日しか出勤せず、
毎日釣りをやっていますが、
釣りをやっていながら、
会社も順調に発展しているという所が
みなさんの興味を感じている所なので、
これから、
私は自分の経営経験を話したいと思います。
うちは家内工業から始まり、
35年前に今の奇美実業を設立しました。
実業というのは虚業に対する実業であり、
従業員には汗を流して金をもうけようと言って、
土地、株の操作と全く無関係という事を明確にするために、
実業としました。
それから、
まず最初に親戚から資金を集めて、
私は31才で会長に就任しました。
その時の資本金はわずか200万台湾元でしたが、
現在ではNT$120億元に成長し、
年商は現時点でNT$350~400億元です。
その間どういう事をやったかと言いますと、
p11〔最初のうちは家族企業なので、〕
※NT$:ニュー台湾ドル・新台湾ドル
p11-許文龍-講演
p11
最初のうちは家族企業なので、
重要幹部はほとんど親戚でした。
それから6、7年経過した後、
経営と所有の分離をやって、
能力主義に徹し、
社長及び重要幹部を外部から雇いました。
その次に、
今から20年前から従業員に株を持たせました。
どういう方法でやったかというと、
会社の株をやるのはいいんですけれども、
金で買う場合、
金のある人とない人の差が出てくるわけです。
従って、
その時私は無利息で従業員に金を貸して、
株を持たせました。
それで、現在従業員が所有している株は
NTS18億元に達しており、
全体のざっと16、7%を占めています。
できれば、
将来30%まで増やしたいのです。
そうすれば、
社員全体の利害関係が一致します。
これも後藤新平の考え方と同じ様なものです。
彼はやはり相手のほしいものをよく考えましたが、
従業員というのはどこでも同じようにお金がほしい、
遊ぶ時間がほしい、
仕事をせずにたくさんお金をもらいたい、
仕事をしても仕事をしやすいような
職場がほしいと思うものです。
私としては働かせるために
どうすればいいか考えたわけです。
儲けの一部を分け前として従業員にあげる事は
たくさんの人が考えましたが、
具体的に実施して、
まとまった金額になっているのは
うちだけだと思います。
18億ですから、
うちの株が上場すれば、
5倍とは言わなくても
かなり価値が増えると思います。
今まで、年に10~20%の配当をやってきたので、
従業員は給料以外にかなりの配当をもらっているわけです。
うちは350億の売り上げと言っても、
従業員は1,300~1,400人くらいで、
生産性が非常に高いのです。
従って、私の理想は、定年退職した時点において、
従業員一人の配当が給料くらいになる事です。
そうすると、
従業員の後顧の憂いが無くなります。
その点で言うと、
私の思うには
今の日本の会社にはかなり問題があります。
定年退職は60才として、
60才というのは本当はまだ若いのです
私は71才ですが、
まだぴんぴんしています。
社員は50才当たりから、
これから会社人生以外の何かを
やらなければいけないと思ってしまい、
会社に対する忠誠度が半減します。
最近日本の会社は景気が悪いからと言って、
どんどん従業員を減らしていますが、
そういう事を考えると、
これは確かに合理化にはなりますが、
かなり問題があります。
この問題を防ぐために、
私は25年前から従業員に配当を分け始めました。
そのおかげで、うちの従業員の転職率は低く、
定着率はおそらく台湾で一番いいと思います。
次に、
従業員の給料をよくする事です。
給料をよくするには、
従業員の生産性を良くしなければならないのです。
適当な目標、刺激を与えて、給料をあげていきま
p12〔す。〕
p12-許文龍-講演
p12
す。
もう一つですが、
私自身は週に4、5日間海で釣りをやっています。
従業員もさぞ遊びたいと思いますので、
遊ぶ時間を与えましょうという事で、
うちは10年前から現場、事務所共、
一週間の勤務時間は40時間という制度を導入しました。
もう一つは残業禁止。
東京に行くと、
夜になっても電気がついている所が多いです。
そういう所で働いている人は
恐らく家に帰ったらもう遅くなっていますし、
自分の時間がないと思います。
うちはなるべく残業せず、
一週間の勤務時間を40時間以内に抑えるという事で
実施し始めたのが10年前です。
最近になって、
奇美実業がちょっと有名になりましたが、
それは今年から政府が週休二日制を実施し始めて、
南部の奇美実業は10年前から
週休二日制を実施していることが分かつたからです。
最近、
李総統は報道関係の人約50人をつれて、
うちの会社に来たわけです。
私が今言ったような事を言いましたら、
みなびっくりしていました。
ですから、
そういう状態の下で仕事をしてもらう、
これが奇美が台湾で有名になった原因の一つだと思います。
やはり、
如何にしてモラルを向上させるかについて
考えなければなりません。
いくら働けと言っても、
働くはずもありませんし、
やはり忠誠度というのは保証されて
初めて出るものだと思います。
そういう所は心なしか
後藤新平さんのやり方に
一脈通じる所があると思います。
その次に私が考えた事は、
私の育った環境が決して裕福ではなく、
父は10人の子どもを生んで、
しかも30代で失業して、
従って私の子ども時代は幸せではありませんでした。
ですから、物心がついた頃から、
何とか金儲けをして生活を楽にしたいという
考え方が非常に強かったようです。
ただ40代から、
儲けたお金をどうするかという事が
私にとってむしろさらに重要な事になってきたわけです。
財産で言うと、
私の持っているお金は決して多くありませんが、
お金を如何に使うかという事は
私にとって重要なテーマになってきたわけです。
ですから、私は50の時に遺書を書いて、
一週間だいたい1日か2日しか
出勤しないことを発表しました。
実際に、私は40代からすでに仕事を総経理に任せて、
好きな事をやっています。
好きな事というのは、まず第一に釣りがあげられます。
私は釣りが好きで、
海釣りから渓流釣りまで色々とやっています。
その次は音楽です。
私は音楽が好きで、
自分で下手なバイオリンを弾いたり、
また45才からはバイオリンを勉強し直しました。
絵を書いたりするのも好きです。
下手ですけれども、
がっちリ、デッサンの基礎は積んでいます。
また、私は本を読むのも好きです。
そんなわけで私は50
p13〔才からほとんどの時間を〕
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《植民地時代と今日の台湾の比較》4/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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《植民地時代と今日の台湾の比較》2/4奇美実業 許文龍 董事長:1998年

《植民地時代と今日の台湾の比較》2/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
p7-許文龍-講演
p7
似たり寄ったりだと思います。
要するに、
私の歴史観は庶民にとってどうであったか
という事が大事だということです。
現在、台湾には外国企業がたくさんありますが、
台湾企業と外国企業の待遇の差はかなり縮まってきました。
だいたい20年、30年前でしたら、
アメリカ企業、日本企業だと聞くと
みな殺到していたわけです。
ところが、経営者はアメリカ人、日本人です。
これについて本に書かれている事は
外国人による経済侵略ですが、
庶民にとっては、待遇のいい会社、
仕事しやすい会社であれば一番いいわけです。
そういう意味で考えれば、
やはり今日の台湾の基礎は日本植民地時代に作られ、
それが衛生、治安の悪い状態から、
現在アジアでは日本に次いで立派な台湾を建設したのです。
そしてやはり日本の50年間の植民地統治、
特にその中でも後藤新平さんの貢献が大きかったと思います。
例えば、先のゲリラの話になりますけれども、
後藤新平さんが来るまでは武力で鎮圧しようという事で、
乃木大将とその後に来る人達はみな軍人ですので、
やはり力で押さえたいと考えていました。
それに対して、後藤新平は生物学者であり、
力ではなく、
まず台湾人の習慣に関して徹底した調査を行いました。
台湾人はどういうものをほしがっているのか、
どういう方法でやった方が一番いいのかについて、
まず徹底した調査を行いました。
そして彼はゲリラに対して、
過去を咎めないので投降しなさいと呼びかけました。
投降した後、土木工事をやらせます。
インフラ建設が始まった時ですから、
仕事はいくらでもあります。
日本でも土木工事となると、
昔はやくざが一枚かんでいるような状態ですけれども、
それと同じように、
後藤新平はそういう
日本に反抗する人たちに対して投降させ、
仕事を与えたわけです。
それでだいたい2、3年の内に、
ほとんどの家は夜に戸締りする習慣がありませんでした。
泥棒がいないんです。
いてもコソ泥で、
せいぜい放し飼いにしている鶏を取る程度で、
治安というと、
恐らく当時世界で一番よかったのではないかと思います。
治安がいいという事は非常に大事な事です。
例えば最近台湾で色々な誘拐事件だとか、
台南では一週間前に誘拐事件があったわけですけれども、
そういう目にあった場合に、
何はさておきやはり治安が大事だと思うわけです。
そういう事を生物学的に、
台湾人に喜んでもらえるような方法でやったのが後藤新平です。
もう一つは彼が就任する前には、
日本の役人は法律関係の人がたくさんいたわけですが、
日本の植民地は日本の延長ですから、
日本の法でもって台湾を治めようとしていました。
彼はこれが間違いで、
台湾には台湾の法があるべきとして、
就任していきなリ一千余人を
p8〔くびにしました。〕
p8-許文龍-講演
p8
くびにしました。
その代わり、後藤新平は産業振興をうたいました。
台湾を豊かにする事に重点を置きました。
そして衛生関係、教育も重視しました。
当然産業振興のためには、
インフラの整備が必要です。
後藤新平さんは人材を集めて
インフラ建設に投入したわけです。
ですから、
そういう計画のなかで日月潭の発電だとか、
烏山頭ダム、石門ダムだとか、
特にダムが出来た事によって、
農業が発展したわけです。
それで、かなり台湾人が豊かになったわけです。
私の知っている限り、
昭和の始め頃には、台南、
いわゆる嘉南平野の中流階級の層は
かなり厚かったようです。
これはやはり不毛の地からいきなり年に二作の米が
とれる農地に変わったおかげで、
農民が非常に豊かになったからです。
もう一つは台湾の産業、特に製糖、樟脳に対して、
後藤新平は特に力を入れていました。
彼が招聘した人材のなかには、
新渡戸稲造という人物がいまして、
彼がハワイから製糖技術を導入し、
さとうきびの品種を台湾の気候に合うように改良しました。
かくして、
製糖工業は台湾で最大の工業になったわけです。
確かにそういう事をやっている間、
いくらか台湾の人が政府に土地を取られ、
色々と不満もあったようですが、
だいたい戦争に負けた者としては
どこの国でもある事です。
蒋介石が来てまず肥料を独占で輸入して、
それから農民には国際価格の
倍から三倍の値段で売りつけました。
さらに、国際相場の半値で米を買い取りました。
そういう事に比べると、
日本時代の政策は立派なものです。
ですから、今でも嘉南平野を回ると、
昔の立派な家がかなり残っています。
この点から見ても、
植民地時代の台湾人には
かなり豊かな層があったわけです。
国民党は一にも日本人の搾取、
二にも日本人の搾取と言っていますが、
植民地になった後、
日本政府は大陸に帰りたい者は帰っていいと、
残りたい者は残って下さいという事で、
二年間の余裕を与えました。
大半の人は残りました。
問題はその後、十年経過した後、
今度は大陸から大量の人が台湾に来ました。
それが、
今の客家人だとか、
潮州人だとかですが、
台湾に来た理由は簡単です。
台湾に来ると、仕事はあるし、収入もいい、
治安がいい、
天国だということで、
大量にきたわけです。
ですから、
日本の植民地時代に
日本人がどうやったかという事は、
中国人だという事を捨てて、
台湾人になる人が大量に増えたという事で
成果が証明されていると思います。
それと同じように、
今もだいたい政府は日本の大陸への侵略、
特に満州国を作った事に対して批判しています。
実は私も何人かいわゆる満州人に会った事がありま
p9〔すが、彼らの話を聞くと非常に面白いのです。〕
p9-許文龍-講演
p9
すが、彼らの話を聞くと非常に面白いのです。
満州では、日本人が行く前に、
軍閥張作霖がそこを治めていました。
軍閥の税というのが、
日本が満州国を作ったその時代に比べると、
ずーっと重かったわけです。
当然ながら、守る法もなかったので、
満州国になった後、非常にいい状態になりました。
華北の人々が満州国に大量に行ったわけです。
それを政府が止めた事実があります。
日本人が行っていいことをやったので、
華北の人民が大量に満州国に行ったという
事実があるわけです。
だから、
いいことをやったかどうかは
こういう所を見ても分かります。
庶民には、誰がやってもいいですが、
仕事があって、生活が安定して、
守る法があればいいわけです。
植民地時代にやった事に対して、
今のほとんどの日本人は贖罪意識を持っています。
自分の先輩は大陸、台湾で悪い事をやったので、
中国大陸が何かを言うと、
ごもっともだと言うことしか知りませんが、
日本の方は一番大事な事を忘れています。
台湾は一番親日的で、
我々もかつては日本人でした。
現在日本は台湾をすっかり忘れてしまって、
中国大陸一辺倒になっています。
我々は当時大東亜共栄圏という理想に燃えていました。
私はインドネシアで工場を持っていますが、
インドネシアが独立できたのは
日本人のおかげだと言っている人がいます。
今のスハルトにしても、
やはり当時日本人が訓練したゲリラでした。
ですから、
そういう事実が今隠されて、
悪い事をやったと、
そういう贖罪意識が大きく影響しています。
そのために、
例えば過去のアジアオリンピック大会で
中国大陸が
台湾が出るならこちらは出ないと主張したら、
日本が青くなってしまって、
中国一辺倒になりました。
私は今、李総統の国策顧間をやっていますが、
実は李総統と親しくなったきっかけは
この本「台湾の歴史」です。
この本を李総統がたまたまご覧になって、
そしてある会合で私に、
ご自分は百パーセント同感だとおっしゃいました。
日本人は台湾で偉大な事をやったとおっしゃいました。
それを聞いて、
私も冗談半分で李総統に、
国民党の主席ですので、
そんな事を言ったらたたかれますよと言いました。
そうしたら李総統はにやにや笑っていました。
そういう事で、
私は李総統とすっかり親しくなって、
その上、李総統も絵とか音楽がお好きなため、
現在はどちらかと言うと音楽の仲間として、
そして話の相手として、
月に一回くらい顔を合わせています。
現在の日本というのは、
我々から見ますと終戦からはアメリカの顔色を伺ったり、
中国大陸の顔色を伺ったりして、
自己主張がないように見えます。
台湾問題は日本にとって対岸の火事ではありません。
台湾が中国大陸に取られたら、日本にとって
p10〔もうるさい問題です。〕
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《植民地時代と今日の台湾の比較》3/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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《植民地時代と今日の台湾の比較》1/4奇美実業 許文龍 董事長:1998年

《植民地時代と今日の台湾の比較》1/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
p4-許文龍-講演
p4
1998年3月6日 日僑商工例会
許文龍氏講演会写真風景
 ※本文5頁をご参照ください
伊那商工会議所青年部台湾来訪写真
p5-許文龍-講演
p5
《植民地時代と今日の台湾の比較》
(1998年3月6日 工商会例会講演)
 奇美実業(股)公司 許文龍 董事長
私は許文龍と申します。
ここでお話し出来る事を光栄に思っております。
先ほど交流協会に寄贈した
後藤新平さんの銅像にまつわる話ですけれども、
実は私がこの像をつくろうと考えたのは、約30年前です。
私は1928年(昭和3年)に生まれまして、
終戦の時はちょうど17才で、
植民地時代の台湾がどうであったか
という事はだいたい知っているわけです。
それに父、母から聞いた話をひっくるめて考えると、
今日これだけ繁栄した台湾にとっての最大の功労者は
後藤新平さんだと思います。
みなさんが入ってこられた
このホテル(国賓大飯店)の前の中山北路は
明治時代末期につくられた40メートル道路です。
当時、後藤新平は台北でいきなり三車線道路、
40メートルの道路を四本作つたのです。
その時代には大風呂敷と攻撃されたんですけれども、
それくらい彼は非常に先見の明があって、
台湾の今後はどうあるべきか
という事を企画し実施したわけです。
彼は確か仙台の出身で、
若い頃は非常に苦労されたようです。
最初はお医者さんだったため、
彼が政治家に転身した後の物事に対する手法は
生態学、生物学的な手法でした。
彼が行政長官として来たのは
ちょうど四代目台湾総督一児玉源太郎の時代でした。
当時、反日ゲリラ問題で非常に混乱していた台湾において、
まず一番大きな問題は阿片の問題でした。
私の祖父も阿片を飲んでいまして、
私の子ども時代の記憶では、
台湾での阿片は大陸よりもさらに普及し、
大きな弊害をもたらしていました。
その台湾の阿片問題をどうするかという事で、
後藤新平さんは確か日本政府に対して意見書を出し、
暫禁説という方法を主張しました。
つまり、
阿片をすっている者が急にやめるという事になると、
厳重な問題が発生しますので、
阿片をすっている者にはライセンスを与え、
政府が専売で販売し、
また、新たなライセンスは出さないという事で、
段階的に阿片の服用を禁止するという方法です。
もう一つ面白いのは、
政府が専売をやる際、台湾の保甲制度を利用して、
つまり地域ごとに一人の保正、
今で言えば里長という者に販売の代理権を与えますが、
その代わりに治安維持に協力してもらいます。こ
p6〔の方法は非常に成功し、〕
p6-許文龍-講演
p6
の方法は非常に成功し、
台湾政府はそこで浮いた金でもって、
台湾の衛生状態の改善を行いました。
実は当時台湾に上陸した日本軍のうち、
病死した人の数は戦死した人の数の三倍です。
こういう風土で熱帯病にかかり、
たいがいの兵士は病気でやられてしまいました。
コレラ、チフス、ペストが毎年流行し、
それを如何に撲滅するかが
当時の台湾にとって最大の問題でしたが、
後藤新平さんは阿片から上がつた利益でもって
これをやったわけです。
もう一つは台湾のゲリラ、いわゆる「抗日」、
日本に抵抗した人達の問題です。
歴史にはそう書いてありますけれども、
私は彼らがそんな立派な事をやったとは考えていません。
というのは清朝当時は都市を中心として、
郊外は税収の時に税金を取りにいきますけれども、
治安というのはその地方のやくざが分担しているわけです。
当時の台湾は衛生状態、治安状態が悪く、
地方に行くと無政府状態でした。
そういう時に、
後藤新平さんが取った方法は非常に立派でした。
彼は各地域に利益を与え、
治安問題を解決してもらいました。
反日、いわゆる抗日の人たちを
今は非常に高く評価しているんですけれども、
私が評価しない理由は、
彼らの大部分は中間搾取層だからです。
要するに庶民は誰が上に立ってもいいんです。
秩序があって、治安がよく、税金がそれほど高くない、
それでいいわけです。
父、母から聞いた話では、
日本人が来て、まず治安が一挙に良くなり、
衛生状態もよくなったようです。
それから、守る法ができました。
もう一つは税金も前と比べてかなりよくなりました。
私の歴史観はまず、庶民から見た歴史を重視します。
みなさんの手元にある「台湾の歴史」というのは、
私が五年前に従業員の教育という事で
しゃべったものなんです。
実は国民党が来てから、
ず一つと反日教育をやっているので、
年配の方以外はほとんど昔の事を知らずに、
日本は非常に悪い事をした、
という事しか頭にないわけです。
これでは将来の台湾をさらによくする意味においても、
大きな弊害があると思って、
私はこういう植民地時代の事を
ちょっとしやべったわけです。
過去300年の台湾の事を考えれば、
まずオランダ人が来て、
それから鄭成功が来て、
清朝を経り、
今度は日本の植民地になって、
そして蒋介石が来たわけですけれども、
その中、
台湾と台湾の人民にとって一番貢献があったのは
私は日本だと思っています。
第二位をもし取れば、それはオランダです。
鄭成功と蒋介石というのは
台湾の人がみな民族英雄と言っていますが、
日本では「国姓爺合戦」と言って、
おかあさんが日本人だったせいか、
鄭成功がかなり高く評価されていますが、
国民党政権と
p7〔似たり寄ったりだと思います。〕
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《植民地時代と今日の台湾の比較》2/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/8602484.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《奇美実業、董事長、許文龍》
*総統府国策顧問:講演会・平成10年
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
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[台湾の歴史]許文龍〔3/3〕平成6年(1994)

[台湾の歴史]許文龍〔3/3〕平成6年(1994)

  [台湾の歴史] 許文龍
[台湾の歴史]32-33
p32-33
[台湾の歴史]34-35
p34-35
[台湾の歴史]36-37
p36-37
[台湾の歴史]38-39
p38-39
 ―略―
今日は「奇美の歴史」を語るのに
「台湾の歴史」に話がそれたが
台湾の基礎は殆ど日本統治時代に建設したもので、
我々はその上に追加建設したと言ってもよい。
当時の日本人に感謝し、
彼等を公平に認識すべきである。
台湾の「二、二八事件」の死者の名誉回復をする如く、
日本統治時代の様々な施政についても
頭から日本が悪いと否定するのではなく、
改めて正しい評価をすべきと思う。
又、この機会に中国人と同民族である
台湾人に対する統治についても回顧反省し、
公平に評価すべきである。

台湾人民が比較的自由に言論発表が出来るようになったのは、
李登輝総統時代になってからである。
過去今日の如き話しをすれば、
調査局が必ず私を召還調査するだろう。
李総統が我社を幾度も訪問したから
ほめるのではなく、
歴代の総統で彼が最も言論の自由を尊重した。
彼は私利私欲の無い人で、
台湾を民主法治の国家に建設しようと革新を進めている。
私は台湾の将来については楽観的である。

多数の台湾人がグリーカード(米国永住権)を持っているが
私はすこしも興味がない。
なぜならば台湾は非常に安全である。
最近の改革で軍人の勢力は後退し
政情も正常化しつつある。
将来の歴史家は私のこの見解を証明して呉れるだろう。
私は諸君が歴史に興味を持つ様希望する。

歴史は非常に興味深い物で、
見る角度に依って異なる叙景が出来る。
或る歴史家が曽つて言った様に、
そこに在る三本の樹木が、
見る角度に依っては一本に見えたり、
或いは三本に見えたりする。
歴史とはこの様なものだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《奇美実業、董事長、許文龍》
*総統府国策顧問:講演会・平成10年
当日配られた資料を送付します。
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[台湾の歴史]許文龍〔2/3〕平成6年(1994)

[台湾の歴史]許文龍〔2/3〕平成6年(1994)

  [台湾の歴史] 許文龍
[台湾の歴史]20-21
p20-21  [台湾の歴史] 許文龍
日本人の台湾統治以前の事情を語る前に、
台湾の歴史を回顧する。
台湾の歴史はオランダ時代、鄭成功時代、清朝時代、
日本統治時代、国民党政府時代に分けられる。
歴史上の記述は見る角度によって異なる見解を示す。
過去我々が学校で習う歴史は
権力者の立場から見た歴史である。
即ち歴史を書いたのは当時の権力者であるからだ。
一般的に歴史は国家、民族の事情を強調し、
人民の事情にはめったに触れない。
事実上国家の版図がいかに大きく、
民族が強盛でも、
必ずしも人民が幸福であるとは限らない。
往々にして国土の拡張は
人民が戦争で流血して得たものであるが、
歴史はその戦争の惨禍には触れない。
荘子が言うには国家は大きいものである必要はない。
民族という言葉は、
往々にして権力者の専制獨裁の道具にされる。
例えば「民族の為に九を救え」式のスローガンは
私個人の見方では人を欺くものである。

会長の私が会議の席上で、
同僚に我々はこの会社の為に一生懸命に働こう!と言っても、
いわゆる工場の為、会社の為に一生懸命に働く事の本当の意義は、
会社が発展すると同時に、
従業員の所得も増える前提が必要である。
 ―略―
[台湾の歴史]22-23
p22-23
[台湾の歴史]24-25
p24-25
[台湾の歴史]26-27
p26-27
[台湾の歴史]28-29
p28-29
[台湾の歴史]30-31
p30-31
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[台湾の歴史]許文龍〔3/3〕平成6年(1994)
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