2016年11月

[台湾の歴史]許文龍〔1/3〕プロフィール・序文:平成6年(1994)

[台湾の歴史]許文龍〔1/3〕プロフィール・序文:平成6年(1994)

  [台湾の歴史] 許文龍
[台湾の歴史]表紙
表紙
[台湾の歴史]序文
p18 作者のプロフィール
一九二八年二月二五日 台南市に生まれる。
戦前の台南高等工業附属工業学校、
及び戦後の省立台南高級工業学校機械科を卒業。
しばらく町工場で働くが、まもなく自立、
玩具、日用雑貨の製造を始め、台湾のトップに。
五九年 奇美実業公司を設立、アクリル板の製造を始めた。
六八年 保利化学公司を設立、スチレン樹脂を、
又 七六年にはABS樹脂の製造を始めた。
八五年 に両社が合併、この頃から急成長を遂げる。
九六年現在、同社はABS、AS
(自動車をはじめ、家電、コンピューター、電話器、
 日用品にひろく使われる)
の製造では年産一二〇万屯の能力を有する。
世界一の規模を誇り、
第二位の米GE(年産能力 七六・三万屯)
を大きくリードしている。
因みに日本一〇社のトータルは七六万屯で、
これにも大きく差をつけている。

奇美の急成長の秘密はどこにあるかが
日本の石化業界の強い関心をひき、
いわゆる「奇美詣で」が相ついだ。
奇美の挙動を国内外の業界紙が争って取材、
化学工業日報や日本経済新聞の紙面を一再ならず賑わした。
ことに九四年三月二八日号の日経ビジネスに載った一文は、
大きい反響を呼んだ。

作者は教養人でもある。
荘子に傾倒し、
歴史、音楽、美術を愛し、
造詣も深い。
ことに釣りにかけては漁師はだしである。
一週間に出勤するのは二日だけ、
のこりは釣りをし、
バイオリンを弾き、
絵をかくのが日常生活。

p19 [序 文]
一九九三年の二月から八月にかけて、
私は社員教育講座で、
「奇美の発展史と私」をテーマに、十二回の講演を行った。
講演は一回が二時間であり、
本稿はそのうちの一回を整理したものである。
未来の台湾を背負って立つ若い世代は、
戦後の徹底した反日教育や、
行き過ぎた鄭成功の民族英雄論で、
歪められた史観を植えつけられた。
それを些かでも是正したい気持から、
私は敢えて台湾の歴史に触れたのである。
歴史を語るには程遠い私の知識であるが、
その真意を汲み取り頂ければ幸いである。
  一九九四年三月 ※平成6年(1994)3月
    許文龍 識す
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 [台湾の歴史]許文龍〔2/3〕平成6年(1994)
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《奇美実業、董事長、許文龍》
*総統府国策顧問:講演会・平成10年
当日配られた資料を送付します。
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《奇美実業、董事長、許文龍》*総統府国策顧問:講演会・平成10年

《奇美実業、董事長、許文龍》*総統府国策顧問:講演会・平成10年
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」

小野一雄様
ご無沙汰しております。
如何、お過ごしですか。
私も、在台3年を過ぎ、台湾の生活にも随分慣れてきました。
ところで、今日、日僑協会例会に行ってきました。
いつも、講演と昼食という形式です。
参加しようかどうしようか、少し迷つたのですが…。
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
《奇美実業、董事長、許文龍》*総統府国策顧問
とあり、少し興味をひかれ、参加しました。

非常に良い講演でした。
当然、流暢な日本語で、内容も教養と信念に満ちたものでした。
肩書きの通り、李総統とも、交流があります。
李総統に、「古事記伝を読んだかと質問されたそうです。」
許氏は回答は言いませんでしたが。
李総統は「古事記伝」も読んだそうです。
日本人より、日本文化に造詣の深い人が
台湾にいることを改めて痛感しました。

講演の冒頭、
許氏は、「後藤新平」の胸像を、交流協会に寄贈しました。
理由は、現在の発展した台湾の基礎作りをした
最大の貢献者は「後藤新平」であるのだそうです。
彼の統治思想が素晴らしい。
「生態学」的、「生物学」的思想によるものだそうで、
台湾の風俗・風土に適した統治を行ったそうです。

例えば、当時の大きな問題として、
「阿片」があったそうです。
この問題は、大陸よりも深刻で、
禁止しなければならなかったのです。
でも、急に、禁止すると問題も大きいと想定されたので、
禁止にはせず、
阿片常用者に阿片免許を与えたそうです。
そして、阿片を政府専売にしました。
しかし、新規の阿片免許は交付しませんでした。
時間の経過ともに、阿片患者は減りました。
そして、専売により、大きな利益を上げました。

当時間題になっていた衛生問題(コレラ…)解決に、
その利益を投下し、
衛生問題を解決したそうです。
それまでの統治者は、力(武力)で、
統治しようとした人が多かったようです。
軍人の人がそうであり、乃木将軍もそうだったようです。

そして、後藤新平時代に、懸案事項が多く解決されたそうです。
治安問題もそうです。
治安悪化の原因であった
「やくざ」
 (この表現はいいかどうか?
  かれらは、地方自治を仕切っていたようです)
をうまく使ったようです。
過去は間わないから、でてきなさい。
そして、彼らに土木工事という職を与えたそうです。
台湾-手紙-1
そして、インフラ整備もでき、治安問題も解決されました。
また、その「やくざ」は、住民から、税(?)を徴収していました。
当然、時の政府も税金を徴収しており、
ある意味で、二重の税金が必要でした。
このように、問題解決方法が、
流れにそった「生態学的」な考えにより、行われました。

庶民にとつて、念願だった「衛生」「治安」「税金」
という大きな問題が解決されたそうです。

ご存知のように、時の台湾総督は、児玉源太郎ですが……。
とにかく、台湾にとって、
「後藤新平」は大きな存在であったということです。
日本は、良いことをしたのだ。
日本統治がいやなら、2年以内なら、
自由に大陸へ帰つてもいいという方針を出しました。
その後、台湾がすべての面でよくなり、
大陸から多くの人が台湾に渡ってきたそうです。
とにかく、庶民にとっては、よかったのです。

あの「満州国」でもそうで、日本の侵略というが、
日本の統治のお陰で、いろいろな問題が解決され、
豊かな国になったそうです。
その証拠に、満州国の周辺の華北から、多くの人が移住し、
あまりにも多く、ストップしたそうです。

だから、庶民にとっては、素晴らしいことだったのです。
日本は、良いことをしたのです。
時の政権にとっては、不都合かもしれませんが、
庶民にとっては、素晴らしい統治だったのです。

だから、謝ってばかりいる日本(日本政府)は、相変わらず駄目だ。
このような話でした。

ここが、韓国との大きな違いでしょう。
他人の欠点ばかり指摘して、自分の欠点を認めようとしない。

でも、台湾の人は、日本の良さはきちんと認め、
自国の非もきちんと認める。

この前、あった日本人も、韓国人はいやだ。
商談中にも、すぐに「あの話」をするそうです。
その人は、何度か席を立ったそうです。
「そんなことを言うなら、取リ引きをしない」
こう言ったそうです。
そういうと必ず、次の日に謝りにくるそうです。
韓国人と商談する人は、必ずといっていいほど、
こんな場面に遭遇するそうです.
台湾人とは、雲泥の差です。

ところで、当日配られた資料を送付します。 ※①
では、お元気でお過ごしください。

民国87年3月6日 ※民国87年:平成10年(1998)
  小野雄二
台湾-手紙-2
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※①別稿に記載
[台湾の歴史]許文龍〔1/3〕〔2/3〕〔3/3
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※②別稿に記載
《植民地時代と今日の台湾の比較》〔1/4〕〔2/4〕〔3/4〕〔4/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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[思い出の写真帖]〔丹後①〕930420-3

[思い出の写真帖]〔丹後①〕930420-3

〔丹後①〕0420-10
〔丹後①〕0420-11
〔丹後①〕0420-12
〔丹後①〕0420-13
〔丹後①〕0420-14
〔丹後①〕0420-15
与謝郡世屋村
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平成5(1993)420
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5
浅沼 勇 インタビュー②
14[村八分:ライブ]ジャケット
16.序曲 ※4

村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー②

――このアルバムのライブレコーディングの日は
前もって宣伝とかはあったんですか?

浅沼
 全然ないです。変な噂がとんじゃって
ライブの日に全学連がなだれこむなんて
さんざん言われたんです。
僕は全学連にすごく強い立場にいたので、
絶対大丈夫だと、
ただそんな噂を広げて騒ぎになって、
何千万もする機材やられちゃうと大変だからね。
けっこう秘密でしたね。
この時、チャーボーがひとつ不満に思っていたのは。
控室が教室なワケ。
そこから西部講堂まで約100mあるんだけど、
そこをロールスロイスで走りたいって言ったんだ、
アイツは(笑)。
僕は加藤(和彦)君に
「かまわないから買って来い」って言ったんですよ。
でも間に合わなかったんですよ(笑)。

――どんなファン層が集まったんですか?

浅沼
 客は凄かった。
例えば5月でも毛皮巻いて、みたいな女とかね。
それもイイとこの年令高い。
当時の加藤の女房のミカのグループとか、 ※6:ミカ
ああいう連中ですよ。
スターへは一直線だったよね。
惜しかったなあ。

――アルバムの歌詞カードは実際に歌っている詞と違う部分が
いくつかありますよね?

浅沼
 あれは彼らの友だちが書いたんです。
私は村八分をずっと聴いててよく知っているからとか言って…。

――ライナーノーツで浅沼さんが書いておられる
ヨーロッパツアーとは?

浅沼
 オランダに行きたいって言いだしたんです。
僕がアムステルダムでのストーンズの話をしたのと、
あと(マリファナが)フリーでしょ。
たまたま僕の子分が3人くらい向こうにいたんで、
そんな話をしてたらすぐ行くって(笑)。
じゃあ、アムスじゃしょうないがないから
そこからロンドンに入れと。
キース(リチャーズ)の仲間たちも紹介するから、
そこにこちらから加藤君を送り込むから
ロンドンでレコーディングしろと。
当時の日本では初めてだから、
そういう形でやっちゃったらどうだということで。
だからあのライナーの段階ではそういう話だったんですね。
それでその後冨士夫が、
村八分はとりあえず一度解散すると言って来たから、
どういうことだって聞いたら、
チャーボーは行っちゃうと、
冨士夫は日本に残ると。
村八分みたいのは外国にもいなかったから、
似てるといえばストーンズだけど、
あれくらいトンでると
当時のロンドンだったら必ず当たったと思います。
だけど、グループサウンズが一人で行ったってしょうがないし。
まとまって行かなきゃ。

――当時、セールス的にはこのLPは売れたんですか?

浅沼
 売れてますよ。
初版は2万セットくらいからスタートしています。
バックオーダーがあったくらいですから。
僕が作った中では多い方じゃないですけど
ロックのレコードだったらイイところ行ってるでしょう。

――評価の方はどうだったんですか?

浅沼
 誰も評価しないですよ(笑)。
村八分自体コワモテだったし、
自分自身も業界では物凄いコワモテだったから、
「何か書いてみろ!この野郎」ってのがあったんでしょう。
プロモートしないことがプロモート。
今でもそうでしょ。
伝説になっちゃって、なんにも出てないから
逆にこんなに話題になる。
でも、彼らとの付合いは楽しかったですよ。
他のアーティストみたいに長い付合いになりませんでしたけど。
(1992年10月20日)
※2 ビートルズ、T・レックス等のディレクターでもあった。
   現在 東芝EMI
   エレックURCと並ぶ先鋭レーベルのひとつであった。
※4 本CDに収録されている「序曲」のこと。
※5 浅沼氏は1960年代からローリング・ストーンズと交流がある。
※6 元サディスティック・ミカ・バンドのヴォーカル。
   現クリス・トーマス夫人
●あさぬま・いさむ
1950年代よりギタリストとして活躍。
日本音楽院の社長を経て、
1969年エレックレコードの設立と同時に
専務兼プロデューサーになる。
現在もプロデューサーとして
数多くのヒットを生んでいる。
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2008年11月27日
元エレックレコードプロデューサー、浅沼勇さんとの再会
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5
浅沼 勇 インタビュー①
13[村八分:ライブ]ジャケット
CHABO:Vocal
FUJIO:Guitar
YOCCHAYN:Guitar
EIICHI:Bass
SHIGETO:Drums

村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー①

――村八分との出会いはいつ頃だったんですか?
また、その時の印象は?

浅沼
 最初に加藤和彦君の紹介で ※1:加藤和彦
おもしろいグループなんで検討してくれという話だったんです。
ライブレコーディング(1973年5月5日)の半年くらい前ですね。
2度ほど円山公園でのライブとかリハーサルを見て、
非常に興味を引かれたし、
ステージとリハーサルとのギャップがあったので。
当時の自分とこのアーティストも皆そうでしたけど、
例えば喫茶店で一緒に話していて誰も気付かない、
しかしステージに出たとたん巨人になるような…
そんな存在感を村八分にも強く感じました。
普通の時はやんちゃな少年という感じでしたね。

――加藤さんは初めに東芝の石坂敬一さんに ※2:石坂敬一
村八分を紹介したという話もありますよね。

浅沼
 レコード会社が手を出せなかったんですよ。
加藤君としては何処でもよかったわけで、
それで相談に来たんですよ。
で、ウチならやれるからやろうか
という話になっただけで。
僕自身もエレックやってましたけど、
フリーの部分が強かったから各社と仕事をしてたわけです。
だから石坂の所でもいいし、
三浦(光紀)君のところでもよかった。 ※3:三浦光紀
しかし何処って問題じゃなかった。
やっぱり皆怖がったんですね。
コントロールする人がいないと誰も手を出せない。
石坂もすごく苦しんだとおもうんですよ。
一生懸命いろいろ話はしたみたいですけどね。
ビートルズとかストーンズの映画見せたりとかね。
でも、やっぱりまだ少年たちだったから言うこときかないし、
ちゃんとした契約書を交してやる仕事は怖かったんでしょうね。

――結局エレックで、というのは?

浅沼
 当然若い人が聴いてしかるべき音楽をね、
世に出せないレコード会社とか出版社に対しては、
じゃあ全部自分が引き受けようということだったんです。
(吉田)拓郎とか泉谷(しげる)、佐渡山(豊)もそうだし、
当時はレコ倫に引っかかっちゃう部分がたくさんあったし。
ようするに全部引き受けてたんですよ(笑)。
村八分の音楽は当時の京都の一部だったんだけども、
ひとつの歴史の中に残しておいていい音楽だと思った。
だけど誰もやらない、ならウチがやる、と。

――ライブレコーディングの前に、
東京のエレックのスタジオで録りましたね。
それは出来がよくなくてボツになったんですか?

浅沼
 よくないですね。
その時2週間スタジオに入って
結果的にいいトラックが録れてなかったということです。
当時としては本当に破格で彼らのために、
イギリスから第一線級のミキサー呼んだり、
新しく16チャンを入れたり、
ドルビーとか買ってきたりしたんです。
だから機械面の拡がりとしては
その後の日本の音楽に貢献してますよ。
プロデューサーとしての判断で
最初の4日間の時点でやめとうと、
君たちの音楽は地元でやるべきだ、と言ったんです。
そこで一番いい機材を持ちこむからそれをナマで録ろうと。
やっぱり不良少年なんですよ。
彼らもスタジオにいる時、
「やっぱりナマじゃなきゃできない」っ何回か来たんです。
冨士夫だけはなんとかがんばってくれたんだけど、
他のメンバーがね「熱が来ないから出来ない」って…。
だから、逆にマルチじゃなくて、
そんな新しい機材入れないで一発録りだったら
けっこううまく録れたかもっていう部分もありますね、
もっと気楽に出来るコンディションであれば、
スタジオレコーディングも出来たとも思います。
あの曲の中から1曲ブルースを ※4:ブルース〔序曲〕
ライブ盤に入れてあるけど、
あれが一番いい。

――チャーボーと冨士夫以外のメンバーチェンジが頻繁でしたけど、
各メンバーの役割というか位置付けはどんな感じでしたか?

浅沼
 はっきりいってあの2人は飛び抜けてるよね。
だから、あの2人が何か作っていくため必要な人間が
必要な時に揃っていくのが村八分だったという気がする。
当時は、チャーボーのリズムの間をぬって来る声がすごく好きで、
何歌ってるかわからないんだけど、
とにかくイイんだよね。
例えば、ポップス歌ったらすごく売れただろうと思うもの、
はっきり言って。
村八分ってえらいハシリぐせがあったんだけど、
スネアがパシッて終った時にピタッて語尾が来てるとか、
ああいうことって今のロックバンドに出来ないよね。
ロックンロールって音楽的には非常に簡単でしょ。
3コードで、リズムも2つか3つしかないワケだから。
それをあそこまで高められていたからね。

――本当はどんなレコードにしようと考えていたのですか?

浅沼
 正直言って伝説以外にも
充分聴き応えのあるレコードを作りたかった。
ストーンズがいくらワイルドであっても、 ※5:ストーンズ
キースがずうっと1人でスタジオひ入って3日も4日もかけて
1曲練り上げていく姿を見てたから、
ああいうの出来ないかなって。
それを冨士夫に話して出来たのが『ひまつぶし』なんだけどね。
村八分全体としてのグループサウンドと同時に、
冨士夫のギターとチャーボーの歌だけでやってみたかった。
当時、いろんな可能性があったと思う。
だから、しっかりとしたマネージャー欲しかったなあ、本当に。
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22[村八分ライブ]解説
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5
(1992年11月 川村 聖)②

 1971年も終わらないうちに、青木と上原が脱退。
その後の青木は1976年頃から、スピード、フールズなどの
ギタリストとしてバンド活動を再開している。
上原は一流のセッションマンとして
シュガーベイブや沢田研二のエキゾチックスなどにも参加している。
青木に代りベースにはヨッチャンこと加藤義明が参加。
上原に代わりドラムにはカント、
そして間もなく村瀬シゲトに代わった。
しばらく表立った活動がなかったが、
1972年8月の円山公園音楽堂のワンマンコンサートを
皮切りに再び活動を開始。
いくつかのレコード会社が村八分に接近し、
ロンドン録音のアルバムが
東芝から発売予定というニュースが流れた。

 1973年、村八分はエレックレコードと契約し、
東京に来てレコーディングセッションを行ったが
その時の演奏はボツになった。
このセッションが終わった時期に山口は、
村八分を脱退する意思をメンバーに伝えたという。
結局、チャーボーの誕生日でもある
5月5日の西部講堂におけるステージを
レコーディングすることになったが、
浅田が脱退してしまったので、
ヨッチャンがベースからギターにコンバート、
ベースにはエーイチという人物が参加し、
ライブは決行された。
この日の演奏は6月25日に2枚組LP『ライブ』
としてリリースされたが、
山口以外のメンバーはヨーロッパに渡ってしまい、
以後の村八分は何の音沙汰もなく実質的に解散していた。
1974年4月10日には、山口のソロ『ひまつぶし』が
エレックからリリースされた。

 1979年7月15日、西部講堂にて
村八分は6年ぶりに姿を現わした。
メンバーは、チャーボー、山口の他、
浅田がベースを担当し、
元スラッシュのミッキーこと松田幹夫のギターに、
ドラマー、キーボードプレイヤーという6人編成であった。
頂度、パンク~ニューウェイブのムーブメントが
日本でも盛り上がりつつあった時期だったので
“元祖パンクが復活”と話題になり、
テレビ番組「11PM」にも出演し
「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」と
「ロール・オーバー・ベートーベン」のカバー2曲を演奏した。
しかし、村八分の再結成はこの時限りで終わった。

 以後、山口は1980年に裸のラリーズに加入、
1983年からは本格的にソロ活動を開始。
青木真一と共にタンブリングスを経て、
1987年にティアドロップスを結成し、
1989年には東芝EMIよりデビューしている。
チャーボーは、1990年秋よりバンドを結成、
『村八分』としてマイペースながら音楽活動を再開している。
(1992年11月 川村 聖)
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21[村八分ライブ]解説
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5
(1992年11月 川村 聖)①
12[村八分:ライブ]ジャケット
 1970年初頭、山口冨士夫はアメリカ帰りの
チャーボーこと柴田和志と出会う。
山口は東京杉並区出身の実力派グループサウンズ、
ザ・ダイナマイツのギタリストとして活動していたが、
グループ解散直後であり
セッションなどに明け暮れていた時期だった。
アメリカでローリング・ストーンズを観て来たチャーボーは、
出身地である京都に戻る前にしばらく東京に滞在し、
山口とバンド結成の構想を話したりした。
1970年4月には、山口(g)、成毛滋(key元フィンガーズ)、
つのだひろ(ds元ジャックス)、石川恵(b後にファーラウト)
から成るセッション「山口冨士夫グループ」が、
日比谷野音で行われた「日本ロックフェス」に出演。
チャーボーは出演者でないのにもかかわらず、
演奏中ステージ上で踊っていた。
チャーボーが日本のロックファンの前に初めて姿をみせたのが、
この時である。

 その後、山口は友人の青木真一と共に
チャーボーの住む京都に向った。
当時の京都は日本のカウンターカルチャーの拠点として、
外国からもヒッピーがたくさん流れてきた街である。
バンド名は未だ決まっていなかったが、
京都で新しいバンドが結成された。
メンバーは、チャーボー(vo)、山口(g)、染谷青(g)、
青木真一(b)、恒田義見(ds)の5人で。
チャーボーを除く4人は東京から移住して来た。
バンドのデビューステージは、
このメンバーに水谷孝(vo・g)を加えた6人で
「裸のラリーズ」として、
1970年7月26日に富士急ハイランドでのイベント
「ロック・イン・ハイランド」に出演して時である。
「裸のラリーズ」は水谷孝の流動的なワンマン・グループで、
チャーボーと水谷は旧知の中にあり、
チャーボーは水谷とバンドを組もうと思ったこともあったという。
以後、バンド名は決まらないままイベントやディスコで演奏、
オリジナル曲を作るなどの活動を続けていたが、
恒田と染谷が脱退。恒田は東京に戻り、
近田春夫のハルヲフォンに参加した。

 新メンバーとして、浅田哲(g)、上原裕(ds)が参加し、
バンド名も「村八分」と決まり本格的な活動がスタート。
村八分としてのデビューステージは、
1971年3月20日の京都大学西部講堂における
「モージョ・ウェスト・コンサート」で、
共演は沢田研二や萩原健一など
元GSのスターが集まったPYGだった。
チャーボー、山口、浅田、青木、上原の5人
メンバーで平均年令19~20歳というこの時期、
6曲入のデモテープを録音しており、
この音源は1991年5月にアルバム『草臥れて』として
京都のインディー・レーベルよりCDでリリースされている。
オリジナルの日本語のロックバンドが
まだ珍しかった時代でもあり、
グラムロックが出現する以前からメイクをしていた村八分の存在は、
あっという間に全国的に噂として広まった。
活動は、西部講堂を拠点として、
京都円山公園。日比谷野音などのイベント、
大学祭にも出演。
九州、北海道ツアーも行っている。
チャーボーの挑発的かつ攻撃的なアクションとヴォーカル、
ステージ後方でプレイする山口のギターは、
マスコミでも取り上げられるようになった。
ステージに登場したとたんにアンプをひっくり返してしまい。
今日の客は気に喰わないから1曲で終わったとか、
かぶりつきのカメラマンを蹴っとばしたとか、
話題性にも事欠かなかったが、
村八分自体はほとんど取材を拒否し、
写真を撮られることも拒んでいた。
村八分は、反体制文化を象徴するグループとして
一部から圧倒的な支持を受けるようになる。
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[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5

[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5
11[村八分:ライブ]ジャケット
(昭和)48年5月5日 京都 京大西部講堂にて収録

村八分は、日本のロック黎明期に登場した
最もラディカルでヒップなグループだ。
日本古来の文化と斬新な創造力に溢れていた
当時の京都という風土が生んだ異端、
日本では成立しないとさえいわれていた
ドラッグカルチャーの落とし子である。
その激烈なオリジナリティーは、
日本語のロックの可能性を大きく広げ、
多くのアーティスト達に強い影響を与えている。
20年以上の時空を超越して今もなお燦然と脈打つ
妖しくも艶やかなロックンロール・サウンド。
このCDは、村八分がリリースした唯一の作品を
完全収録したものである。
(オリジナル盤/エレックレコード
No.ELW-3003 1973年6月25日発売)※昭和48年(1973)
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20[村八分ライブ]解説
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]歌詞
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/15076230.html
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【早稲田 幼兒園】臺中市 私立:2013年2月1日

【早稲田 幼兒園】臺中市 私立:2013年2月1日

小野一雄様
差出人:"YUJI ONO"
日 時:2013年2月1日 18:28
件 名:早稲田幼稚園
今、台湾(台中)のモータ会社の仕事をしています。
ここの経営者のお兄さんが、幼稚園をしています。
幼稚園の名称が早稲田です。
早稲田大学に因んで、つけたそうです。
立派な幼稚園です。
1800坪で、設備もすごいです。
入園は順番待ちだそうです。
早稲田大学と関係ができればいいなあと思っています。
小野雄二
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1-早稲田幼稚園_01
【早稲田 幼兒園】臺中市 私立
2-早稲田幼稚園_01
左 小野雄二
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[我が家の台杉:剪定前]平成28年11月17日

[我が家の台杉:剪定前]平成281117

1-我が家の台杉:剪定前
2016/11/17 12:30
2-我が家の台杉:剪定前
2016/11/17 12:34
3-我が家の台杉:剪定前
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5-我が家の台杉:剪定前
2016/11/17 12:36
撮影:小野喜代子
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