2018年01月

富永哲夫:第三部第三年甲組(醫科)【第二高等学校一覧】大正7年~10年

富永哲夫:第三部第三年甲組(醫科)
【第二高等学校一覧】大正7年~10年

富永哲夫   学 歴
秋田中学校      大正 7年卒業
第二高等学校 醫 科 大正 7年入学
第二高等学校 醫 科 大正10年卒業
東京帝國大學 醫學部 大正10年入学
東京帝國大學 醫學部 大正14年卒業

【第二高等学校一覧. 自大正7年至8年】
 第三部第一年甲組(醫科) p89/158
秋田中學 富永哲夫 秋田
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940307/89

【第二高等学校一覧. 自大正8年至9年】
 第三部第二年甲組(醫科) p84/163
秋田中學 富永哲夫 秋田
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940308/84

【第二高等学校一覧. 自大正9年至10年】
 第三部第三年甲組(醫科) p82/168
秋田中學 富永哲夫 秋田

【第二高等学校一覧. 自大正10年至11年】
卒業生氏名 大正十年 p148/165
 第三部 醫科
東京帝國大學 醫學部
富永哲夫 秋田
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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富永哲夫:仙北郡角館町東勝樂町【秋田県名鑑】昭和2年

富永哲夫:仙北郡角館町東勝樂町【秋田県名鑑】昭和2年

【秋田県名鑑】昭和2年
直接國税拾五圓以上納税者 p46/593
仙北郡 角館町 東勝樂町 p50-51/593
富永哲夫 p51/593
縣外及海外在住者 p376/593
◎仙北郡 角館町
宮永哲夫 醫學士
東大 醫學部 黴菌學敎室
東京市本郷區駒込蓬萊町二一
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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富永乾一郎:仙北郡角館町東勝樂町【秋田名誉鑑】明治44年・大正1・4・9年

富永乾一郎:仙北郡角館町東勝樂町
【秋田名誉鑑】明治44年・大正1・4・9年

【秋田名誉鑑 : 一名・秋田県直接国税拾五円以上納税名鑑】明治44年
仙北郡 角館町 p132/263
富永乾一郎
仙北郡 角館町會議員 p185/263
富永乾一郎

【秋田名誉鑑 : 一名・秋田県直接国税拾五円以上納税名鑑】大正1年
仙北郡 角館町 p146/278
富永乾一郎
仙北郡 角館町會議員 p199/278
富永乾一郎

【秋田名誉鑑 : 一名・秋田県直接国税拾五円以上納税名鑑.第6回改正】大正4年
仙北郡 角館町 東勝樂町 p129/249
富永乾一郎

【秋田名誉鑑 : 一名・秋田県直接国税拾五円以上納税名鑑.第6回改正再版】大正4年
仙北郡 角館町 東勝樂町 p129/249
富永乾一郎

【秋田名誉鑑 : 一名・秋田県直接国税拾円以上納税名鑑】大正9年
仙北郡 角館町 東勝樂町 p182/320
富永乾一郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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富永高敎は、角館の人なり【秋田人物伝】大正12年

富永高敎は、角館の人なり【秋田人物伝】大正12年

【秋田人物伝】大正12年
 第百六十二 富永高敎 p112/255
富永高敎は、角館の人なり、
伊兵衞と稱し、茅齋と號す、藩黌助敎たり、
文政年間の人。
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。
 文化の後、天保の前。
 1818年から1831年までの期間を指す。
大正十二年三月二十四日印刷
大正十二年四月 五 日發行
秋田人物傳奥附
正 價 金參圓五拾錢
    送料金貮拾錢
編纂兼 山方泰治
發行者 秋田市西根小屋末町七
印刷者 中田主税
    東京府南葛飾郡南綾瀬村小菅一二八四
    東京府南葛飾郡南綾瀬村小菅一二八四
發行所 秋田人物傳發行所
    秋田市築地中町十五番地
    振替口座 仙臺五五壹壹番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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会社の疎開と思い出4/4[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

会社の疎開と思い出4/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

あの広い
 ―15-
い戦場のようにけたたましい騒音の大型工場も
一時鳴りをしずめ
馥郁たる空気があたりに流れるような感じであつた。

昭和十六年十二月八日未明に行われた
あの真珠湾攻撃の勇士反保慶文中佐の
実戦談などもやつたなつかしい、
機体大型工場とも、
やがて別れなければならぬ時が
一日毎に近づいておつた。

昭和十九年十二月二十五日、
会社は機構の大改革を発表した。

「ハルビン」は北機械製作処、
公主嶺は「中機械製作処」
奉天は「南機械製作処」と名称が変つた。

北機械製作処には武石喜三氏が処長として転じ、
富永五郎氏が副処長となつた。

中機械製作処には西村源与茂氏が処長として転じ、
南機械製作処は畠村易氏が処長に、
多田敬由氏が副処長となつた。

機構改革の発表と同時に、会社は非常に忙しく、
「ハルビン」のH航空部隊、
「公主嶺」のK航空部隊の工場設備計画、
工作機械の輸送計画と、
連日関係者間の会議が開かれた。

敵機が、何時来襲するやも知れぬ緊迫した空気の中で、
これ等の計画は日夜を分たず迅速に進められ、
昭和二十年一月下旬には、
機械その他重要資材は、
輸送を完了して先発の職員は、
ぞくぞく「ハルビン」「公主嶺」へと赴任した。

この疎開の一大難事業も、
月余にして完遂したことは、
お互い職員の努力の結果であるが、
この
 ―16-

輸送面に絶大たる援助をおしまなかつた
満鉄の厚意を忘れることは出来ない。

私は五月中旬
「ハルビン」と「公主嶺」に業務連絡に出張をしたとき、
その工場や宿舎の未完成をつぶさに見て、
従業員諸子の苦労の程を目のあたり感じさせられたが、
その不便を克服し、
誰れ一人として不平もなく、
ひたすら一機でも一台でもと
ただ増産の念に燃えておる、
その姿には、頭の下る思いがした。
 ―17-
p16-17[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p16-17[追憶の曠野]小西達四郎
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会社の疎開と思い出3/4[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

会社の疎開と思い出3/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

私は心中「河野君」と呼び、
心の底から悲しみながら、彼の冥福を祈つた。

河野君は非常に淡白な人で、
酒も煙草もやらず、
何時も冗談を飛ばし、
皆んなを笑わせていた。

私が営業課に転じた昭和十七年頃には、
満航(満洲航空株式会社)に納入する
スーパー六人乗の旅客機が未だ七機ばかり残つていた。
ある時、河野君が私に、
「スーパーも残り少いから、
一度同乗して満航に納入してみたらどうです」
と言われたので、乗ることにした。
私も初めて乗る飛行機、いささか不安もあつたが、
勇をこして同情した。

秋晴れの良い天気で、
エンジンの音も快調に飛行場を飛び立つた。
二、三度旋回し、
機首を北に向けるとやがて新市街の方向に飛び、
奉天市の上空を五百米位の低空で見物させてくれた。

そして目的地、北飛行場の上空に来ると、
ぐんぐん上昇をはじめた。

するとなんだか地上が顔の上になつたような気がした。

別に不安もない。北飛行場に着陸し、
私の顔をみて、初飛行はどぅでしたといわんばかりに
「宙返りをしてやつたんですよ」と言つて笑つていた。
あの時の河野君の姿は今でも
まぶたに浮ぶのである。

 然し彼はもうこの地上には居らない、
ただ彼の冥福を祈るのみである。

あの運命の爆撃に、
私たちの会社を疎開と言う悲しむべき事態に直面させた。
 ―14-

機体部の主力は「ハルビン」に、
発動機部の一部は「公主嶺」に疎開が決定した。

私たちが、永い間血と汗とで築いた
なつかしい職場とも別れなければならなかつたことには、
一抹の哀愁を感じたのであつた。

機体大型工場の忘れられない思い出は、
昭和十七年秋、
突然歌手の渡辺はま子さんが会社に来たことである。

渡辺はま子さんは以前から会社の北村洋二理事と旧知の間柄で、
丁度満洲慰間旅行の帰途奉天に立寄り、
北村理事へ電話をかけたことから
此の慰問が実現されたのであつた。

北村理事から、
是非会社の職員を慰問してくれと頼んだところ、
早速快諾して来てくれたのであつた。

あの大型工場に全職員が集つたとき、北村理事は、
「……昨夜突然黄色い声で洋ちゃん、私、はま子よ、
と言う電話を貰つたのでありますが、
はじめは一寸驚ろきました。
奉天へ来て、こんな美しい女の声で電話を貰つたのは、
昨夜が始めてであります」
とユーモアたつぷりの紹介挨拶がかつた後、
渡辺はま子さんが、急造のステージに立たれ

「産業戦士の皆様、ほんとうに御苦労様です。
北村さんと知り合いの関係で、
皆様をご慰問することが出来ました。
今日は、はま子心から歌いますわ!」
とあでゃかなゼスチユアーには
満場の拍手鳴りも止まない。

はま子さん得意の「支那の夜」外 数曲を歌つて
私たちを慰問してくれた。あの広
 ―15-
p14-15[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p14-15[追憶の曠野]小西達四郎
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会社の疎開と思い出2/4[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

会社の疎開と思い出2/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

社業も着々進展し、増産の一途をたどつたが、又もや、
昭和十九年二月、再度の火災に機体部が見舞われ、
香積理事長もその責を負つて会社を辞任された。

私は偶々満福寮に来客を招待したとき、
香積理事長の送別の席に列する機会を得た。
その席には池内理事、松原部長、沢柳部長等が同席され、
互いに惜別の情を禁じ得ない面持で盃を重ねていた。

この時ふと、香積理事長が大変書を良くされたことを思い出し、
記念に長幅の書を所望した。
すると内地に帰られる忙しいさなかにも拘らず、
二三日後呼ばれて理事長の室に行くと、
「和衷共同」と書かれた半折を戴くことが出来た。

この記念の書も敗戦のどさくさで
失つてしまつたことは残念であつた。

香積理事長の後任には、小林一三社長のもとに、
東京電燈の副社長であつた
岡部栄一氏が理事長として就任された。

この頃会社は最も充実し、
一致協力増産の意欲に燃え、

機体部に於ては、
「キ四」、「キ十」、「キ二十七」、
「キ七十九」、「キ八十四」、「キ四十九」と
六種類を製作し、

発動機部は、
「ハ一乙」、三百五十馬力、
「ハ十三甲」四百五十馬力を製作し、

機体部は月産百七十機を生産し、
発動機部は、月産百五十機を生産し、
大東亜戦争の重要な一翼を担つていた。

然し昭和十九年十二月八日と、
十二月二十三日の
二度の「B二十九」の爆撃は機体部の生産を、
一時ストツプの事態におとしいれた。
 ―12-

この昭和十九年は会社にとつても、
私たちにとつても、忘れられないことは、
あの爆撃と火災の二つの不祥事に加へ、
河野操縦士の墜死である。

河野君は実戦の経験を得た航空中尉で、
会社では古い名パイロツトであつた。
何時も完成機をテストし、
飛行機を満洲航空支廠に空輸していた。

この日昭和十九年十二月四日も、
飛行服に身をかため、
凛々しい姿で元気に機上の人となり、
飛行場を飛び立つたが、何時ものように、
二、三回飛行場の上空を旋回し、
翼を振つて機首を西に向け、西飛行場に行くのだが、
どうしたことか、数回旋回しても、
なかなか翼を振らない。

飛行場には藤崎整備課長はじめ、
係員が何処か調子でも悪かつたのかと
心配げに見守つていたその瞬間、
機体は斜にかたむき、「あつ!」という間に、
そのまゝ飛行場の北方畑地に墜落した。

私が「河野が墜ちた」と知らされて
急ぎ病院に馳けつけた時はもう駄目で
手術台の上に横臥させられていた。
千術室に行くと、
看護婦が「小西さん、河野さんはお気の毒でした」
と悲しげな面持で言いながら、

「あんまり顔がひどくいたんで、
とても遺族の方々に見せられないので、
今整形手術をやつたところです」と言つて、
顔の白布を取つてくれたので見ると
彼の顔は全く別人の様に痛み変つていた。

毎目顔をあわせ冗談をいい会つた友が
瞬時にして変りはてたこの様な姿を見て
私の胸は破れる様
 ―13-
な悲痛な思いに襲われた。
 ―14-
p12-13[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p12-13[追憶の曠野]小西達四郎
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会社の疎開と思い出1/4[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

会社の疎開と思い出1/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

 会社の疎開と思い出

私たちの会社満飛(満州飛行機製造株式会社)は
昭和十三年七月一日に、
満州重工業株式会社(総裁鮎川義介氏)の傘下に出来た
満州に於ける飛行機製造の唯一の会社であつた。

奉天駅から東に八粁、旧東飛行場と張学良の兵舎を利用した
数十万坪の広大な敷地を占めていた。

私が入社した昭和十五年頃は未だ兵舎をそのまゝ利用し、
本格的な工場設備ではなかつたが、
昭和十八年には機体部も発動機部も、
共に立派な近代化した工場となり、
三階建の本館も見事に建設された。
従業員も、日系四千人、満系六千人と一万人以上の社員を擁し
日夜飛行機の増産に懸命であつた。

入社当時の理事長は、満業総裁の鮎川義介氏であつたが、
まだ そのけいがいに接する機会がなかつた。

その後偶々、
会社で職員に訓示をされたことがあつたが、
間もなく辞され、
後任には高碕達之助氏が理事長に就任された。
 ―10―

そして高碕理事長が辞された後は
小川淑一氏が理事長となられた。
小川理事長は、高碕達之助氏のもとに、
副理事長として、特に会社発展に努力された人であつたが、
不幸昭和十八年九月の機体部火災の責任を負い、
会社を辞されたことは遺憾の極みであつた。

私はその火災のあと、間もないある日、
毎日航空本部に報告する
機体や発動機の生産日報の決裁を貰うべく、
理事長室に入つて行つた。

小川理事長は北側の窓辺に立たれ、
焼失した機体部の方を見られ、
沈痛な姿で物思いに沈んでいた。

私は一寸たじろいだが、
「理事長、生産日報に決裁をいただきに参りました」
と言いながら、
机の前に進んだ。
小川理事長はふりむいて、机の前に戻りながら、
何時ものように協和会服の左胸のポケツトから、
象牙の印を出されたが、
余りにも憂いにみちた理事長の顔をみて私は思わず
「理事長あまり力を落さないで下さい」と言つた。


理事長は一寸笑を浮かべるように、
顔を硬ばらせ乍ら、
「焼けたものはしかたがない。そうだ、仕事だなあ」
と一言洩らされて印を捺された。

これが、小川理事長とお別れの最後の言葉であつた様に覚えている。

小川理事長が辞任されて、香積見弼副理事長が理事長となつた。
 ―11-
p10-11[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p10-11[追憶の曠野]小西達四郎
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運命の爆撃(奉天)4/4昭和19年12月23日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

運命の爆撃(奉天)4/4
昭和19年12月23日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

さとあわただしさで
彼の家の一間を改造し、夕方荷物と共に移つた。

この爆撃で会社は遂に生産も一時ストツプの状態となつた。
犠牲者の処置、不発弾の発掘、爆撃跡の整理等
全く会社は混雑を極めた。

然し、部隊から作業班の応援もあり旬日ならずして、
ともかくもやつと片づいたのであるが、
またもや十二月二十三日、
「B二十九」の爆撃に遭遇した。

私たちは空襲警報が鳴るや、
直に東陵方面に退避すべく
女子職員を先頭に走つて会社の西門を出た。
この時部隊作業班の兵隊がトラツクで通りかかつた。
「頼みます‼」と言つて乗せては貰つたが
車は東陵の方には行かず新市街に走つた。
私は「東陵方面が安全ではないか」と言つた。

一人の将校が「機銃掃射が危ない、新市街が安全だ」
と車を急がせる。
丁度千代田公園の近くまで来た時、
頭上にあの心憎いまで落着いた
「B二十九」の偉容が姿を現わした。
私達と兵隊は車を急停車し
公園側の防空壕に転げるように飛びこんだ。

耳と目を両手で覆つた丈で、
掩蓋の無い壕の退避は心細かつた。
高射砲は鳴り響き、
爆弾の落下する
あのもの凄いザーツ、ザーツという音と
同時にズシンと地響の音、
全く生きた心地もない。
 ―8-

地上から火を噴く高射砲、
空中から炸裂する爆弾の下に
私たちは数十分じつとして居たのだが、
恐いとか悲しいとか云う気持はおきなかつた。
ただ生と死の瞬間が今来るかと思うのみであつた。

この第二回目の爆撃は滑走路に主として投弾されたが
その他には余り被害は無かつた。
最も被害の大きかつたのは
奉天駅前を中心とした一帯で
満鉄社員には数多くの犠牲者が出た。

東陵方面に逃げれば
こんな被弾の洗礼を受けなかつたのも運命と言うものだろう。
 ―9-
p8-9[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p8-9[追憶の曠野]小西達四郎
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運命の爆撃(奉天)3/4昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

運命の爆撃(奉天)3/4
昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

風でガラス窓は破れ飛び、
煤煙に汚れて見るかげもなかつた。

本社は幸い直撃弾は受けなかつたが
前庭には数発の爆弾が落ちて、
その光景は目を覆うばかりであつた。

私は部隊長と中村監督官に挨拶をし、営業課へ急いだ。
室には誰も居らずガランとして居り、
爆風のために机や椅子は散乱してガラスの破片は室一杯である。

部長室に多田経理部長が一人沈痛な面持でいた。
私が入つて只今部隊から帰つた旨を言うと
部長は気遣わしげに
「君の社宅がひどくやられた。家族の安否も不明だが課員をやつた。
すぐに帰ってみてくれ」といつた。

私は部長と別れて自分の室に入り、
キヤビネツトから作業服を出して身仕度をし
裏門から社宅に急いだ。

機体工場の建物は直撃弾で無惨に壊われ
アングルはアメの如くに曲り、未だ燃え続けておった。

突然工場の横から郷里出身の守衛長の奥山君がかけて来て
「課長、奥様も子供さんも大丈夫です‼」
と言われた時はさすがにホット安堵の胸をなで下した。

裏門から社宅に行く道路へ出ると、
小さい沼のような爆弾の穴が無数に出来ている。
整備工場入
 ―6-
口の守衛所は影も形もなく直撃弾にやられ、
尊い三人の生命が奪われた。

社宅入口の道路には爆風にやられた
満人が顔を半分地面に埋めて血を吐いて死んでいた。

こんな悲惨な有様を見せつけられ乍ら、
極度のあわれさという様な気持を感じなかうたのも
戦争と言う悪魔のなせる
心理作用とでもいうものであつたのかもしれない。

東社宅は二百戸位あつたが、
数十発の爆弾で全戸被害を受け、
特に痛ましいのは、二上課長宅であつた。
二上課長の娘さんは花園分区に勤務しており、
空襲警報お同時に自宅に一人留守居のお母さんを
気遣つて急ぎ帰宅され、
二人で家の前の防空壕に退避したが
不幸にも直撃弾に見舞われ、
一片の肉塊すらも姿を残さず
二人の生命は一瞬にして消えたのであつた。

東社宅は二上さん母子を加えて三名の犠牲者が出た。
私の家も隣家の鈴木守衛宅の後に爆弾が落ちたため
メチヤメチヤに破壊された。
課員の手伝いで一室だけ応急修理をしたが、
如何んせん零下二十度以上の寒さのため、
とても住むことは出来ず
妻子は隣家の斎藤操君宅に移り住むことにした。

社宅は水道も暖房もない、電燈もない。
全く混乱の極に達したので、
翌十二月九日には、
知人友人を頼り花園社宅や西社宅に引越しが始まつた。

私も何時までも斎藤君宅に厄介になることも出来ないので、
十二月十日花園住宅に居る
大橋佐太郎君宅に移ることに決めて
壊れた社宅から畳や襖等を運び、
田舎芝居の舞台装置を作るような乏し
 ―7-
さとあわただしさで
彼の家の一間を改造し、夕方荷物と共に移つた。
 ―8-
p6-7[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p6-7[追憶の曠野]小西達四郎

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