2018年05月

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑨あとがき・奥付[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑨あとがき・奥付
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
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 あとがき p370-372
本書にまとめた右翼人の素描は、
昭和四十五年から四十六年にかけて
「問題小説」(徳間書店)に「壮士列伝」として
連載したものが中心になっている。
その他の雑誌に発表したものは、
その稿の末尾に明記してある。
書き足りない部分や読みかえしてみて、
間違いに気づいた部分については、
全面的に書き改めた。

左右激突の危機といわれた七〇年(昭和45年)から、
すでに三年が過ぎ去ろうとしている。
この間には、三浦義一、福田素顕、佐郷屋嘉昭といった
右翼の巨頭があいついで逝った。
笹川良一も「直接的反共活動」から身を退くことを宣言した。

右翼団体は、左翼のように理論によってではなく、
人間関係によってまとまる傾向が強い。
したがって指導者の人柄によって、
運動の盛衰は大きく左右される。
これからの右翼運動は、
指導層の新旧交替の進行のなかで、
展開されていくことになる。

全愛会議は、先ごろ開いた京都大会で
「一発の銃声は百万の力にまさる」
というスローガンをかかげた。
いうまでもなく「一発の銃声」とは、
二・二六事件をさしている。

その底流には「クーデター指向」が見られるが、
現憲法のもとで育った若者たちに、
その意味が理解できるかどうかは大いに疑問である。
没理論的な一揆主義は、危険である前に、
理論を尊重する若者たちには受け入れられない。
いまの若者――とくに学生の多くは、
「右翼」のラベルを貼られることさえも本能的に嫌がる。
「右翼」という二字に時代がかった
アナクロニズムを感じとるのである。

現実に右派系の学生団体のなかには、
「反右翼」を標榜するものもあり、
既成右翼に根深い不信感と警戒心を抱いている。
そして、その姿勢こそ
「民族派学生運動の出発点にすべきだ」
という声もある。

筆者は、ある人に
「いったい右翼は政権をとった場合を想定しての
 政策をもっているのか」ときかれて、
説明のしようがなく困ったことがある。

「じゃ、経済政策なり公害対策は」という。
これも、スローガン的にかかげている団体が若干あるていどで、
それを体系的に行動理論としている団体はない。

評論家の堀幸雄氏は、筆者に、
「戦後の右翼運動は体制従属の反共活動として推移してきた。
 だから、右翼に政策がないというのはあたらない。
 政策なんか必要なかったのだ。
 戦後の右翼運動に対権力闘争というものが見られないことが、
 なによりもそれをものがたっている」と、
指摘したことがあるが、
これに反論する材料はいまもない。

かつて北一輝や内田良平、宮崎滔天は、
貧困の極にありながらも、
朝鮮では東学党を助け、
孫文を助けて中国革命に情熱を燃やした。
たとえ、それが日本帝国主義のアジア侵略に
結果的に短絡されたとしても、
少なくともそのことに生死を賭けてたたかった。
しかるに戦後の右翼(はベトナム、ラオス問題一つをとっても、)
[日本の右翼]p370-371
〔画像〕[日本の右翼]p370-371

(しかるに戦後の右翼)
はベトナム、ラオス問題一つをとっても、
「共産勢力の浸透」をいうだけで、
主体性のある主張というものがまるでない。
要するにアメリカの政策を是認し、支持するだけだ。
これでは、若者の支持が得られないのは当然である。

今後、右翼運動はどのような変貌を遂げていくか。
戦前の右翼運動とは、どのようなものであったのか。
その問いに若干なりとも答えるべく
「解説・右翼運動の軌跡と展望」を付した。
率直なご批判をいただければ幸甚である。
  母の初盆の日に  著者

著者略歴
猪野健治
1933年(昭和8年)滋賀県に生まれる。
新聞記者・雑誌記者・週刊誌記者等を経て、
1962年以降フリーとなる。
著書に『親分』『全学連各派』(双葉社)、
『児玉誉士夫の虚像と実像』(創魂出版)、
『民衆宗教の実像』(月刊ペン社)、
『電通公害論』『天下り官僚』『買占め黒書』(日新報道)、
『やくざと日本人』(三笠書房)ほか多数。
現住所・埼玉県春日部市大枝89
    武里団地6-1-206

 日本の右翼
昭和48年9月15日発行 ¥970 〒110
著 者 猪野健治
発行者 綿秡幹夫
発行所 株式会社 日新報道
    郵便番号 105
    東京都港区芝栄町9番地
    電話 03(431)9561
    振替 東京140840
(分)0030(製)46267(出)5738
編集人 遠藤留吉
担 当 青山博充
印 刷 上野印刷
製 本 宮田製本所
乱丁・落丁はお取り替えいたします
[日本の右翼]p372-奥付
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年07月12日 08:01 ◆『株主総会百人の侍』
《西山幸輝:昭和維新連盟》
『株主総会百人の侍』松島聖悟:昭和43年
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑧雌伏の五年間[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑧雌伏の五年間
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
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雌伏の五年間 p133-134
西山幸輝は、四十五年(1970)十二月二十五日、
乃木神社で営まれた右翼有志による
三島・森田追悼会で、
「自分には、この事件について、なにもいう資格はない」
と、参会者に訴えた。

そして、それを機会に、
昭和維新連盟、全愛会議、旭進学園、日本及日本人社などの
役職から一切身を引く決心をした。
右翼運動をやめるというのではなく、
「もう一度、一兵卒にかえって、じっくり勉強したい」
ということらしい。

旭進学園は工業高校(電波技術)で、宮崎にあり、
毎週月曜日に「皇居遥拝」、
生徒手帳の第一ページには
「教育勅語」が刷り込まれているというように、
徹底した「日本精神」をつらぬいている。

西山幸輝の地味な仕事の一つに、
日本政治文化研究所(財団法人)がある。

同研究所は時局問題をテーマとした
一連のパンフレットを発行している。
すでに刊行されているものでは、
王育徳(台湾独立連盟中央委員)の「台湾は愁訴する」、
津久井龍雄・上条末夫(駒沢大講師)の対談「共産主義の虚妄」、
源田実の「アジア・日本防衛の原点」その他、
北方領土問題、教(育)、
[日本の右翼]p132-133
〔画像〕[日本の右翼]p132-133

(北方領土問題、教)育、
尖閣列島問題などをとりあげ、
それらは勉強会の資料に使われている。

その一方で西山は、
日本カーフェリーの付帯事業を請負する太平洋海事など、
いくつかの企業役員をつとめている。

短銃と日本刀に狙われるという騒乱の巷を歩いたのち、
三浦義一と児玉誉士夫氏の庇護のもとで、
政財界に地盤をきずいた
西山幸輝が今後どう変貌するかは、
予測しようもない。

西山には、終戦直後から約五年間、
断続的に消息の知れない部分がある。

「温室」育ちの無謬の「エリート」に魅力がないのは、
そのコースに起伏がなく、
したがってドラマもナゾもないからである。

西山幸輝に魅力があるとすれば、
それは、その黒幕的な行動に、
つねに「秘密」のニオイがつきまとい、
それがアウトロー的かつ
荒けずりな光芒を放つからだといえるかも知れない。
[日本の右翼]p134
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑦運動資金の問題点[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑦運動資金の問題点
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
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運動資金の問題点 p131-133
西山幸輝の、
こうした政財界の裏側での動きに対する批判は、
もちろん右翼の内部にもある。

が、逆説的にいうならば、
待合政治に象徴される日本の政財界の体質は、
ビジネス以前に「専門的な第三者」の「仲介」または、
「調停」をもってしか解決できない問題を、
政局の推(移の過程、)
[日本の右翼]p130-131
〔画像〕[日本の右翼]p130-131

(政局の推)移の過程、
あるいは企業の内側にあまりにも多くかかえている
――ということの結果でしかない。

大衆的な基盤を持たない右翼は、名目はどうであれ、
政財界からなんらかのかたちで、
資金をあおがざるを得ない。

政財界との資金上の因果関係は、
右翼の政財界に対する批判や行動をにぶらせる。
たとえば公害問題については、
「左翼の宣伝にのるな」と主張する。

水俣病に例をとるなら、
あの運動は、イデオロギーとはなんの関係もない。
チッソ(株)のたれ流す廃液でからだを犯され、
片輪になり、あるいは死んでいった
地元住民の怨念を原点として広がった運動である。

いまも、この本質はかわらない。
「左翼の宣伝にのるな」という前に、
右翼がこの運動の先頭に立てばよいのだ。

現実の政治に不満をもつ一般民衆は、
そうした右翼にそっぽを向く。
かくて、一般民衆と右翼との意識上のズレは、増幅され、
運動は民衆のなかへは定着せず、
浮きあがって孤立化する。

三島由紀夫が既成右翼に絶望し、
ほんの二、三人を除いては
交流を持たなかったのもその故である。

右翼が純粋に右翼であろうとするならば、
政財界筋からの資金にたよらず、
「会員」が「正当な労働」につき、
それぞれの職場で、
「シンパ」や「会員」を獲得し、
運動資金は「会費」と「カンパ」でまかなうという
社会運動の原則に立ちかえる以外にない。
[日本の右翼]p132-133
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑥政財界の裏面で暗躍[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑥政財界の裏面で暗躍
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
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政財界の裏面で暗躍 p128-131
昭和四十一年(1966)、
自民党は、重政誠之元農相(旧河野派)を
政調会長に据えることを内定、
新聞にもその旨報道されたが、
土壇場になって、
中間派の赤城宗徳がかわって就任した。

西山は重政追い落としの影で動いた一人であった。
西山は、重政と共和製糖の菅貞人との黒い関係を
早くからキャッチしていた。

重政が農相時代、記者連が、大臣室をのぞくと、
重政のかわりに菅貞人が大臣椅子に座っている
ということがままあったのである。

当時、砂糖業界は過当競争下にあり、
「原料高の製品安」現象に、
各メーカーは、大幅な赤字を出していた。

そこで糖価の安定をはかる目的で、
政府出資の事業団ができた。

事業団の恩恵を受けるのはメーカーである。
大手十七社に対抗して、
中小八十社をひきいる菅貞人は、
重政農相に、「政治献金」することによって、
巧みに「補助金食い」をやった。

鹿児島県、同経済連と共和製糖が合弁でつくった
南国製糖もその一つで、
「国産ビート糖生産」のうたい文句もどこへやら、
わずか一年三カ月でつぶし、
宮崎にも同様の合弁会社をつくり、
これまた行き詰まった。

一カ所だけならともかく、
こうなると明らかに「補助金食い」である。

菅と重政の「クサイ関係」はやがては、
表面化せずにはいない。
その重政が党三役(政調会長)に入るのは、
自民党にはマイナスだ。

西山は、三浦義一に相談をもち込む。
重政の対抗馬には、
三木派から早川崇が立つことになったが、
「早川が立つならおれも立つ」
と言って重政はおりなかった。

とどのつまりが、
中間派の赤城宗徳におちついたわけであった。

それから三カ月後に、共和製糖事件が発覚した。
重政が政調会長になっていたら問題は、
もっと大きくなったに違いない。

西山は、ホテル・ニュージャパン問題でも調停に動いている。
ニュージャパンは、
斜陽の一途をたどる藤山コンツェルンの
最後のトリデといわれた会社だ(が、)
[日本の右翼]p128-129
〔画像〕[日本の右翼]p128-129

(最後のトリデといわれた会社だ)が、
豪華ホテルのあいつぐオープンで、経営不振をつづけ、
つもった借金が五十四億円、
赤字が四億円に達した。
対する売上げは、約十八億円(四十年の段階)、
金利と償却費だけに売上げの三分の一強を食われていた。

藤山勝彦は、重役の一人、永田雅一に相談をもちかけ、
永田経由で植村経団連会長(当時は副会長)に話が持ち込まれた。
そこへ、中央土地の勝田国夫(韓国名=朴竜九)社長から、
「肩がわりしたい」と話があり、
おりから日韓問題が解決に近づいていたときだったので、
植村会長がなかに入って、
「日韓財界のかけ橋に」ということで、
藤山の持株を中央土地が引きとり、
再建にあたることで話しあいがつき、
勝田新社長が誕生した。

ところが、やがて難問がもちあがる。
経営はパブリック・スペースの拡大や
大小宴会の誘致で上むくが、
勝田側が再建資金を出ししぶったことから、
藤山側との間にトラブルが生じたのである。

藤山は永田経由で、児玉誉士夫氏に調停役を依頼した。
これを受けた、西山は、
ホテル業界制覇に意欲を燃やす、
国際興業の小佐野会長に
「藤山―勝田双方が身を引く」条件で、話を持ち込んだ。
が、調印前夜になって、
勝田側が難色を示し、国際興業は手を引いた。

一時は、この問題にからんで
在日韓国人グループ数百人が動く気配もあったが、
経営の実権は、一応藤山側の手にもどった。

公称六百七十万人の信徒を持つ
真宗本願寺の内紛では、
児玉誉士夫氏とともに大谷光紹新門側につき、
多数派だった革新派(?)の
訓覇信雄宗務総長の追い落としに一役買った。
しかし、この紛争は、なお尾を引いており、
全面的な解決はついていない。

八幡・富士合併の「影の部分」といわれた
松庫商店事件でも、
西山は、「調停役」の一人として登場する。

松庫事件は、
八幡製鉄のクズ鉄部門といわれた同社が行き詰まり、
稲山嘉寛 元八幡社長の従弟にあたる山根一郎が、
融資と引きかえに、松庫にのり込んだときにはじまる。
実権を一切奪われ
ていよく叩き出された松庫の桑原用二郎前社長は、
児玉誉士夫氏らに調停を依頼、
西山は桑原のもっている大量の長崎日報および松庫株を
八幡が七千万円で引きとることで話をまとめた。
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑤「独立独行自由自在」[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派⑤「独立独行自由自在」
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

「独立独行自由自在」 p126-128
三十六年(1961)七月、
興論社から独立し、
手塩にかけた六人を中心に昭和維新連盟を結成する。

綱領には、
①青年の知育と徳育の錬成、
②思想的研鑽と同志的結合、
③国際共産勢力の排撃
 の三点をうたった。

昭和維新連盟は、
パンフ「維新シリーズ」を刊行するかたわら、
傍若無人な行動を展開する。

たとえば、日教組大会では、三日前にのり込み、
会場前に大横幕をめぐらし、
日教組打倒の断食をやったり、
駅頭で待ち受けて地方代表に突入するというように
連合組織の全愛会議や青思会との統一行動を無視して、
もっぱら派手なスタンド・プレイを連続的にやってのけた。

そのかわり、部下にはきびしく、
会則に反する行為をした者は、
容赦なく木刀でぶん殴った。

昭和維新連盟が単独行動をとったのには、
それなりの理由がある。

戦後の右翼運動は、
組織的にも資金的にも左翼に大きく水をあけられた。

きれいごとを並べてみたって、どうにもならない。
そこで何といわれようが、
まず団体の名を売り、行動右翼の存在を大衆に印象づけ、
運動の足がかりをつかむ――それが西山の考え方であった。

当然のことながら、その行き方は、
全愛会議や青思会加盟団体の強い反発をかった。

スタンド・プレイや さきがけ行為は、
統一行動を攪乱する――というわけだ。
事実、それから数年間の全愛会議や青思会の統一行動には、
発煙筒をたいたり、
会場に乱入してビラをまいたりする売名的な行動が続出し、
一般市民のひんしゅくをかった。

あれやこれやで西山は、総スカンをくい、
全愛会議の議長団に選ばれたときも、
一部に反対が強く、
佐郷屋嘉昭代表のとりなしで、
やっと諒承するという一幕があったほどだった。

中学時代から硬派で鳴らした西山にとっては、
一定のワクのなかにおさまっているのは、
性にあわないのかも知れない。

佐郷屋嘉昭も、西山を評して、
「とにかく行動をせねば納得のできない男」(『大亜義盟』)と、
書いている。
[日本の右翼]p126-127
〔画像〕[日本の右翼]p126-127

三十九年(1964)六月には、
中国青年反共救国団(蔣経国主任)の招きで、
足立諭彦(関西護国団)ら十三人と渡台、
蔣政権の要人とアジアの反共運動について懇談した。

が、帰国後、
台湾独立連盟の指導者王育徳(明大教授)を知り、
その思想に共感して運動に協力することになる。

「台湾人による台湾」の実現を目ざす、台湾運動は、
蔣政権がもっとも きらうところである。
中国承認についても、
「反共日本の政治テーゼとは別」という立場から、
「平等互恵の日中関係の打開」を主張し、
中国派、蔣政権派の双方から「敵」あつかいされた。

西山は、自邸の書斎に、
「独立独行自由自在」
という頭山満の書をかざっている。
思いたったら周囲がどうあろうと、
大胆に実行に移さずにはいられない性格が、
結果的に西山に「火中の栗」をひろわせることになるわけだ。
[日本の右翼]p128-129
〔画像〕[日本の右翼]p128-129
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[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》小野雄二:平成30年5月26日

[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日

[柴田家之墓]
  くたびれて
あるいても あるいても 
涯てどなく 涯てどなく
握りしめた 手のひらは
あせばかり あせばかり
 チャー坊 デビュー作
柴田家の墓-1
〔画像〕柴田家の墓-1

   平成二十八年十月六日
俗名 柴田次男 納骨
   行年 七十一歳
柴田家の墓-2
〔画像〕柴田家の墓-2

[柴田家之墓]
柴田家の墓-3
〔画像〕柴田家の墓-3

釋 浄 剛
昭和41年1月22日歿 俗名 金三郎 行年 63才
釋 尼 妙 春
昭和58年4月14日歿 俗名 つぎ  行年 73才
春光院法音日和居士
平成6年4月25日歿  俗名 和志 行年 43才
柴田家の墓-4
〔画像〕柴田家の墓-4

柴田家の墓-5
〔画像〕柴田家の墓-5

平成7年4月建之
 柴田次男
柴田家の墓-6
〔画像〕柴田家の墓-6

[柴田家之墓]
柴田家の墓-7
〔画像〕柴田家の墓-7
撮影日 平成30年(2018)5月26日(土)
撮影者 小野雄二
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BABYDOLL LOUNGE
2013-09-27
チャー坊の墓参り
 ―略―
30分ほど神社(伏見稲荷大社)を見学した後、
チャー坊の墓参りへ。
伏見稲荷駅の入口から見て右手の歩道をまっすぐ進み、
2、3分ほど歩くと踏切のある線路とぶつかる。
そこで左に曲がり山側の民家が並んだ細い道を
まっすぐ上っていくと、それほど大きくはない墓地がある。
有名なぬりこべ地蔵がある場所のまん前だ。
管理人も誰もいないので勝手に入ってお墓を探したんだけど
意外と見つけるのに苦労したね。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月28日 07:24 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日 07:50 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月27日 08:31 
◆柴田和志 <チャー坊(“村八分”)の生と死>
《柴田金三郎》《柴田 コト 北野金三郎》
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月08日 10:56 ◆柴田和志 バスケットボール
柴田次男(柴田和志の兄):平成28年10月6日逝去

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月23日 11:44 ◆柴田和志 バスケットボール
[柴田大地トレーナーの父と叔父][具志堅ジムの比嘉大吾]

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年06月27日 06:10 ◆柴田和志 バスケットボール
[小野雄二:柴田和志][京都陸軍墓地(京都府)]昭和39年秋
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派④ハダカで重光元外相を訪ねる[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派④ハダカで重光元外相を訪ねる
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
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 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

ハダカで重光元外相を訪ねる p124-126
西山が社会党から、一転して右翼運動にとび込むのは、
三浦義一を知ってからである。

右翼には左翼からの転向者が多く、
一つの人脈を形成しているほどだが、
戦後、転向したのは
浅沼美知雄(防共新聞主幹=元社会党杉並区議)と
西山くらいのものであろう。

しかし、西山の場合は、社会党に投じたといっても、
「社会主義社会の実現の可能性を確信していたわけではなく、
 既成の価値観が音をたてて崩れていくあの混乱のなかでは、
 なにかに没入せずにはいられなかった。
 そんなとき、松本先生を知った」
と言っているように、
社会党というより、
松本英一や松本治一郎の人間性にひかれて、
運動に入っていったというほうが当っている。

松本治一郎の周辺には、
むしろ右翼イデオローグに属すると見られる人が数多くいた。
苦難の底部を通過してきた松本には、
それだけの包容力があったのであろう。
だが、政党となるとそうはいかない。

とくに左翼政党には官僚的な統制や教条主義がついてまわり、
規律の名のもとに、しばしば個人の情熱をつみとってしまう。
だから、理論よりも人間関係あるいは感性で行動するタイプは、
政党には向かない。

西山は、そのことを考えはじめていた時期に、
関山義人氏を通じて三浦義一を知る。
政財界に多数の知己をもつ三浦は、
GHQによってたたきつぶされた右翼の再建工作や
政財界の影の「策士」として、
多忙な毎日を送っていた。

その傘下には、
大庭勝一(義仲寺史蹟保存会常務理事)、
栗原一夫(評論家)、
関山義人(興論社社主)氏といった切れ者があり、
三浦を助けていた。

西山が関山義人氏の世話になったのもこの時代である。
関山氏は、三浦が国策社を創設した当時の青年部長で、
三浦と上海に渡り、軍の嘱託として活躍、
終戦で抑留ののち二十一年(1946)四月復員、
日本橋室町のライカビル五階に東京産業を設立し、
機械類のブローカーをはじめた。

その後、
二十八年(1953)、政治文化研究所を設立、
三十七年(1962)十月、民間調査局(私立探偵社)を設置し、
三十三年(1958)八月これを解散したのち、
同年(1958)十一月に政治結社興論社をつくった。

西山は、この関山氏にはひとかたならぬ世話を受けている。
西山は興論社幹部として、三浦義一の手足となって動く。

あるとき、三浦に「重光葵のところまで行ってくれ」
と使いを頼まれた。
三浦の要件は、い(つも緊急を要することばかりである。)
[日本の右翼]p124-125
〔画像〕[日本の右翼]p124-125

(三浦の要件は、い)つも緊急を要することばかりである。

おり悪しく、一着しかない背広は、
クリーニングに出したばかりで着ていくものがない。
おまけにワイシャツも、よれよれのヤツしかなかった。
知りあいに借りにいくにも時間がない。
仕方がないので、ハダカの上にオーバーをはおり、
襟を立ててすっとんで行った。

応接室に現われた重光には、
「カゼを引いておりますので……」とことわり、
ゴホン、ゴホンと空セキをやってゴマかしたという。

大久保留次郎を訪ねたときも、同じ手で切り抜けた。
[日本の右翼]p126-127
〔画像〕[日本の右翼]p126-127
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派③ガソリン奪取事件[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派③ガソリン奪取事件
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

ガソリン奪取事件 p120-124
九州という土壌は、
硬骨漢を育てるに、よほど適しているらしい。
右翼の源流黒龍会の中心人物は、
頭山満以下すべて九州の出身だし、
部落解放運動の父 松本治一郎またしかりである。

西山幸輝は、大正十二年(1923)三月生れ。
宮崎県西都市の出身である。
父由太郎は鉱山と山林を経営していて、
少年時代は、馬に乗って「付人」つきで学校へ通ったという。

中学(現西都高校)在学中は、
剣道に打ち込み硬派で鳴らした。
もうすぐ卒業という五年二学期のとき、
暴れすぎたのがたたって学校にいられなくなり、
福岡に出て予備校に通う。

やがて上京、明大に入るが、
由太郎が事業に失敗したため約一年で帰郷(のちに卒業)、
しばらくぶらぶらしているうちに徴兵で、
満州の黒河省へ配属される。

そのうち戦況が悪化して内地に送還され、
終戦は宮崎で迎えた。

終戦の混乱のなかでは、就職しようにも仕事がなかった。
GHQの民主化政策に助けられて、
労働組合運動や社会主義運動が
燎原の火のようにひろがっていった。

二十年(1945)の暮れ、
自由党宮崎支部の結成大会が、宮崎市内で行われた。
中央政界からは、
植原悦二郎(第一次吉田内閣の内相)がやってきた。
副総理格の来県というので、
会場には二千五百人の聴衆が詰めかけ、大変な騒ぎであった。

西山も聴衆のなかにいた。
つぎつぎに立つ政治家の演説は、
その場限りの逃げ口上、
天皇制の問題にふれるものはだれ一人としていなかった。

賛成にせよ、反対にせよ、
自分の立場をはっきりすべきだと
西山はやたらに腹が立ってきた。

植原が演壇に立った。
結党大会のクライマックスである。

西山は、やにわに立ちあがると、
「天皇陛下バンザイ!」
と大声で叫んだ。
大会は混乱におちいり、
西山は、よってたかって殴られ、表にほうり出された。
このハプニ(ングは、)
[日本の右翼]p120-121
〔画像〕[日本の右翼]p120-121

(このハプニ)ングは、
当時の新聞にも写真入りで報道されている。

西山は、福岡を放浪していたころ、
松本英一(現参院議員=社会党)に世話になったことがあった。
松本は、中学時代は野球の選手で、
松本治一郎のオイにあたり、
社会主義者というより、
解放運動家といったほうがぴったりする
人間的な幅の広さをもっていた。

その薫陶を受けて西山は社会党に入り、
宮崎県連青年部の部長となり、
党とは別に革新派の青年を集め、
宮崎県青年戦線協議会を結成、
その議長をつとめたりする。

戦前、共産党から転向した
労農前衛党の佐野学を引っぱってきて、
九州の主要都市を遊説してまわったのも
この前後である。

筑豊炭鉱地帯や八幡製鉄をかかえた九州は、
共産党の拠点で、
反共の論客 佐野学を引っぱって歩くには、
相当な覚悟が必要だった。
西山が社会党内の異色分子だったのではなく
当時の社会党内の意識構造そのものが
このていどだったのである。

そのころ、米軍が接収していた都城の飛行機場跡に、
ドラム缶二百本分のガソリンがあった。
ダイヤよりもガソリンに目の色をかえた時代である。
しかも、このガソリンは、旧日本軍のものであった。

運動資金に詰まった西山は、
これを失敬して売りとばし、
青年運動の資金にまわすという大胆な計画をたてた。

監視の米兵に見つかれば銃殺だが、
十人の仲間がこの計画に加わった。

豪雨の夜、トラックを調達した西山は、
十人を引きつれて乗り込み、
ドラム缶五十本をまんまんと運び出した。

ガソリンは、二、三日できれいにさばけ、
西山は、なにくわぬ顔をして、運動をつづけていた。
が、なにしろ二百本中の五十本が消えたのである。
監視兵が気づかないはずはなく、
西山はつかまり、米軍の簡易軍裁にかけられた。

西山は、
「もともと日本のものを日本人が持ち出してなぜ悪い」
と、開きなおるつもりだったが、
思わぬ救い主が現われた。

当時宮崎市長だった二見甚郷(元ビルマ大使)が、
宮崎に駐屯していた米軍司令官と交渉し、
宮崎神宮にあった古美術品などを贈ったりして、
もらいさげてくれたのである。

西山のアウトロー的な才能は、
このときすでに萌芽していたといえよう。

それから、半年ぐらいは、
さすがに自宅に蟄居して、
「神皇正統記」や「万葉集」、エンゲルス、推理小説など、
手に入る本を片っ端から読みふけった。

カネがなくなると松本治一郎の自宅へ押しかけ、
食客をきめ込んだ。
松本邸には、
上杉佐一郎(現 解同本部書記長)などといった
解放運動の闘士がよく出入りし、
西山は、それらの人たちとも親しく交流する。
食糧のとぼしい時代であったが、
松本はイヤな顔もせず西山を迎え、
西山も松本を「おじさん」と呼んでいたほどだった。

それから間もなく、
西山は、社会党青年部の本部役員となり上京、
新橋のツツミ・ビルの党(本部に詰めた。)
[日本の右翼]p122-123
〔画像〕[日本の右翼]p122-123

(新橋のツツミ・ビルの党)本部に詰めた。

片山哲が委員長時代で、
書記長は西尾末広、
組織部長が浅沼稲次郎、
会計は松本治一郎が担当していた。
のちに国会で活躍する
只松裕治や楢崎弥之助(社)、
麻生良方(民社)とは、
このころからの知りあいで、
いまでも立場を超えて、つきあっている。
[日本の右翼]p124-125
〔画像〕[日本の右翼]p124-125
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派②錯綜した行動半径[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派②錯綜した行動半径
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

 西山幸輝
 壮士肌の黒幕的行動派 p118-134
[日本の右翼]西山幸輝
〔画像〕[日本の右翼]西山幸輝

錯綜した行動半径 p118-120
『日本及日本人』という隔月刊の雑誌をご存知の人は多いだろう。
発行部数は約二万。
書店で目に触れる唯一の右翼系理論誌として、
誌上を通じて新・旧左翼と激しくわたりあっている。

西山幸輝は、同誌の主宰者である。
例の三島事件の際は、マスコミ関係から電話が殺到し、
その応待に忙殺された。
警視庁の公安三課員もやってきた。
なぜ、こういうことになったかについては少し説明を要する。

右翼系の有力な学生組織に、日本学生同盟がある。
西山は、日学同が結成されて以来、
同組織の有力なリーダーである
矢野 潤(早大OB=喫茶店『ジュリアン』経営)、
斉藤英俊(青山学院大OB=日本工業新聞勤務)らを
ひそかに支援していた。

三島の死をともにした森田必勝は
矢野潤の後輩にあたり、
全日本学生国防会議(日学同傍系組織)の議長であった。
西山は、当然、森田必勝を知っていた。

四十三年(1968)八月、
日学同は、北海道根室で、
二週間にわたる北方領土奪還現地闘争を展開する。
出発に際して、挨拶にやってきた森田ら二十人のために、
西山は闘争資金をカンパし、
事務所で壮行会を開いてやった。

このあと森田らは、海上自衛隊の自衛艦で根室に向かう。
そして森田は、帰京後、
日学同の「大衆路線方式」とタモトをわかち(四十四年二月)
少数精鋭主義
(三島は盾の会を“世界一の小さな軍隊”と呼んでいた)
の盾の会の「軍曹」として伊豆神津島での
靖国学生連盟の「戦闘訓練」(四十四年七月六日~十一日)を
指導するなど、右翼ラジカルへと変貌していく。

森田必勝の行動と西山幸輝とは、直接の関係はない。
が、西山は、一方では、
行動右翼 昭和維新連盟の育ての親であり、
かつては、幾度か短銃と日本刀で狙われたこともある。

三浦義一、児玉誉士夫、佐郷屋嘉昭など
右翼の巨頭とも深いつながりを持ち、
行動派の連合体、青思会(高橋正義議長)や
関西の行動派 尼ケ崎の関西護国団(足立諭彦団長)、
住吉連合系の日本青年社(小林楠男会長)とは、
とりわけ関係が深い。

また西山は、政財界の「裏方」としても一種の「著名人」で、
評論家の大塚英介は、
「京橋将軍」(西山の事務所は京橋にある)
の異名をたてまつっている。

新しいところでは、
ホテル・ニュージャパン問題、
八幡・富士の合併にからむ松庫商店事件、
西鉄の楠根宗生社長辞任総会、
東本願寺紛争などの解決に動いている。

台湾独立運動にも関係し、
中国派・蒋派の双方からニラまれている。
[日本の右翼]p118-119
〔画像〕[日本の右翼]p118-119

そうした錯綜した行動半径から、
なにか事件が起こると、
まっ先にマークされるわけである。

ともかく、西山幸輝が右翼人の若手として
異色の実力者であることは、
筆者がインタビュー中も京橋の事務所に、
彼に会う順番を待つ人たちのなかに、
先ごろ那珂湊を全国的にクローズ・アップさせた
特別警備保障会社の飯島社長の姿があったことからも、
うなずけよう。
[日本の右翼]p120-121
〔画像〕[日本の右翼]p120-121
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西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派①[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

西山幸輝 壮士肌の黒幕的行動派①
[日本の右翼]猪野健治著 昭和48年

日本の右翼 その系譜と展望 猪野健治
日新報道出版部
[日本の右翼]表紙
〔画像〕[日本の右翼]表紙

猪野健治(いの・けんじ)
一九三三年(昭和八年)滋賀県に生まれる。
新聞記者・雑誌記者・週刊誌記者等を経て、
一九六二年以降フリーとなる。
著書に『親分』『全学連各派』(双葉社)、
『児玉誉士夫の虚像と実像』(創魂出版)、
『民衆宗教の実像』(月刊ペン社)、
『電通公害論』『天下り官僚』『買占め黒書』(日新報道)、
『やくざと日本人』(三笠書房)ほか多数。
現住所・埼玉県春日部市大枝八九
    武里団地六ノ一ノ二〇六

何を考え、どう行動するか!
 日教組大会への抗議活動、
 街頭での運動展開、
 等に見られるように、
 右翼団体の動きが最近急に活発になってきている。
 七〇年代後半へかけて、
 彼らは何を考え、
 何を行動しようとしているのか。
 また日本の右翼とは何か。
 これらの命題に対して、
 指導者の人物像を描くことにより、
 見取図を書きながらそれをさぐる。
カバーデザイン/友人社
カバーイラスト/小崎幸一
[日本の右翼]表紙-裏
〔画像〕[日本の右翼]表紙-裏
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年07月12日 08:01 ◆『株主総会百人の侍』
《西山幸輝:昭和維新連盟》
『株主総会百人の侍』松島聖悟:昭和43年
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Wikipedia[西山広喜]
西山 広喜(にしやま こうき、1923年 - 2005年2月24日)は、
日本の右翼で、政財界をつなぐフィクサーとして知られた。
日本政治文化研究所理事長。
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[西山幸輝]
生 大正12年(1923)3月
歿 平成17年(2005)2月24日
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