2018年08月

女子高等師範學校及附屬高等女學校卒業生徒證書授與式PFD【東京茗渓会雑誌. (159)】明治29年4月

女子高等師範學校及附屬高等女學校卒業生徒證書授與式
PFD【東京茗渓会雑誌. (159)】明治29年4月:1896-04

女子高等師範學校及
附屬高等女學校卒業生徒證書授與式 / p18~22 (0011.jp2)
(明治29年)三月二十四日
女子高等師範學校及ビ
附屬高等女學校卒業生徒ニ卒業證書授與式ヲ擧行セラル
其式ハ ―略―
公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年07月23日 05:06 ◆小野梓《小野 すみ》小野 墨・松村 墨
《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校 本科 明治29年3月卒業
【官報. 1896年03月26日】明治29年

《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校 本科
 明治29年3月卒業

《小野 すみ》小野 墨・松村 墨
父 小野 梓 母 小野利遠
夫 松村仙造(眞澄)
小野一雄・雄二の実祖母
生 明治11年(1878)10月18日
没 昭和22年(1947)2月14日 69才
0507c2f2
左 安 右 墨
〔画像〕小野梓 墨 安[小野梓傳]
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《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校の入学年(明治26年9月)について

《小野すみ》女子高等師範學校
 附屬高等女學校の入学年(明治26年9月)について

[履歴書]松村墨子(小野すみ)昭和5年
主ナル學歷
明治二十六年三月
高知縣幡多郡宿毛町尋常高等小学校卒業
明治二十六年九月
東京女子師範學校附屬お茶の水高等女学校入学
同二十九年三月卒業
明治二十九年四月
同校家政科?入学 中途退学

職業上ノ主ナル履歷
明治三十二年ヨリ同三十九年七月マデ
高知縣幡多郡宿毛町尋常高等小学校ヘ奉職
明治三十三年ヨリ同三十九年マデ
右学校ヘ奉職傍 経木麦稈眞田ノ傳習ニ從事ス
賞罰 ナシ
昭和五年二月十一日
  氏名 松村墨子
[履歴書]松村墨子(小野墨)昭和5年_p2
〔画像〕[履歴書]松村墨子(小野墨)昭和5年_p2
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《小野すみ》明治26年9月入学(舊規則で入学の場合)
東京女子高等師範学校 附屬高等女學校(修業年限五箇年)
 ※下記省令に依り、三年生の二学期に編入

《小野すみ》明治26年9月入学(新規則で入学の場合)
東京女子高等師範学校 附屬高等女學校(修業年限六箇年)
 ※下記省令に依り、四年生の二学期に編入

【創立五十年】昭和7年
二三 入學資格及修業年限の變更 p57/154
從來當校の入學資格は高等小學校二箇年の課程を終りたる者、
若くは之に相當する學力を有する者にして、
修業年限五箇年なりしが、 ※《小野すみ》(舊規則)
明治二十六年三月之を改め、※《小野すみ》(新規則)
入學資格を四箇年の尋常小學卒業者、
若くは之と同等以上の敎育を受けたる者とし、
入學者の年齢を二年低下し、
修業年限を一箇年延長して六箇年となせり。
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【官報. 1893年08月05日】明治26年
⦿省令
文部省令第十一號 p1/7
高等師範學校及女子高等師範學校ニ於テ
生徒ノ缺員ヲ臨時補充スル必要アルトキハ
文部大臣ノ許可ヲ受ケ
明治十九年文部省令第十八號
高等師範學校生徒募集規則
第一條乃至第三條ノ規程ニ依ラス
學力年齢當該學級ニ相當ノ資格アル者ヲ募集シ
試驗ノ上入學セシムルコトヲ得
  明治二十六年八月五日  文部大臣 井上毅

文部省令第十一號參照
  文部省令第十八號高等師範學校生徒募集規則
  (明治十九年十月十四日)抄錄
 第一條 高等師範學校男女生徒ハ府縣知事之ヲ選擧シ
     高等師範學校長其中ニ就キ選抜スルモノトス
 第二條 高等師範學校ノ男生徒ハ
     尋常師範學校ヲ卒業シタルモノヨリ選擧シ
     女生徒ハ尋常師範學校ノ二箇年ノ課程ヲ終リタルモノ
     若クハ之ニ均シキ學力竝資格ヲ有スルモノヨリ選擧スヘシ
 第三條 高等師範學校ノ男女生徒ハ毎年一度之ヲ募集シ
     其期日及員數ハ其都度高等師範學校ヨリ府縣ニ通知スヘシ
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《末廣鐵腸》《小野 梓》【結核と闘った天才達】昭和15年

《末廣鐵腸》《小野 梓》【結核と闘った天才達】昭和15年

【結核と闘った天才達】昭和15年
 山雅房 醫學博士 上村忠雄著

     目  次
序   説・・・・・・・・・式場隆三郎・一
緒   言・・・・・・・・・・・・・・・五
結核の歷史・・・・・・・・・・・・・・・六
結核と文學・・・・・・・・・・・・・・二九
結核と運命・・・・・・・・・・・・・・四一
結核と闘つた天才達・・・・・・・・・・六二
 日本に於ける闘病者の群・・・・・・・六三
  淺見絅齋・賴山陽・橘守部・田中平八・高杉晋作・陸奥宗光
  末廣鐵腸・小野梓・小村壽太郎・關根正直・廣津柳浪・淸澤
  滿之・山際勝三郎・正岡子規・高山樗牛・齋藤綠雨・國木田
p1【結核と闘った天才達】
〔画像〕p1【結核と闘った天才達】

  獨歩・樋口一葉・綱島梁川・長塚節・竹久夢二・葛西善藏・
  中村彝・小酒井不木・直木三十五
 支那に於ける闘病者の群・・・・・・一一三
  諸葛孔明・杜甫・王陽明・朱舜水・魯迅
 ドイツに於ける闘病者の群・・・・・一二七
   ―略―
 イギリスに於ける闘病者の群・・・・一八二
   ―略―
 フランスに於ける闘病者の群・・・・一九六
   ―略―
 イタリーに於ける闘病者の群・・・・二一二
   ―略―
 アメリカに於ける闘病者の群・・・・二一六
   ―略―
 ロシアに於ける闘病者の群・・・・・二一九
   ―略―
 ポーランドに於ける闘病者の群・・・二二九
   ―略―
 オランダに於ける闘病者の群・・・・二三二
   ―略―
p2【結核と闘った天才達】
〔画像〕p2【結核と闘った天才達】

   ―略―
末廣鐵腸(一八四八~一八九六)
 嘉永元年伊豫宇和島に生れた。
板垣等の自由民權運動に加はり、
民權演説家の第一人者となつた。
又代議士としても活躍した。
文學上の功績は政治小説の創作であつて、
明治二十七年自主的外交及び
責任内閣の二大主義を主張して
奮闘したが胸患を得
二十九年二月五日遂に倒れた。

小 野 梓(一八五二~一八八六)
 土佐の人嘉永五年生れ、
十七歳にして東北征討軍に加つてゐる。
明治五年英國に學び歸朝して官界に入り
累進して司法少丞となつたが、
俗吏は眞平だとて急に官吏をやめ
十五年大隈を助けて
東京專門學校(早稻田大學前身)を創立、
十七年血を喀き乍ら講壇に立つたこともあつた。
彼の肺病が進んで來た頃、
彼を診察した醫者が「肺病ではない」と慰めた。
彼は自身の病狀を知つてか知らずしてか
「我輩は肺病患者ではない。
 これ位ひで死んでたまるものか、
 日本の宰相の印綬を帶びなければ死なぬ」
と言つて日記にも書いてあるが、
間もなく日記を斷つてゐる。
明治十九年一月大望を抱きつゝ
三十五歳の若さで世を去つた。
p3【結核と闘った天才達】
〔画像〕p3【結核と闘った天才達】

結核と闘った天才達
昭和十五年一月一日印刷
昭和十五年一月五日發行
    定價 金一圓四十錢
    外地 定價金一圓六十五錢
著 者 上村忠雄
發行者 川内敬五
    東京市牛込區市谷田町三ノ二〇
發行所 山 雅 房(さんがぼう)
    東京市牛込區市谷田町三ノ二〇
    振替 東京一二〇〇二五番
印刷所 同 興 舎
    東京市神田區神保町一ノ三三
p4【結核と闘った天才達】
〔画像〕p4【結核と闘った天才達】
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【結核と闘った天才達】
著者 (creator) 上村忠雄 著
出版年月日 (issued) 昭15
公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野 梓:東島興兒》【高知県誌】昭和8年

《小野 梓:東島興兒》【高知県誌】昭和8年

【高知県誌】昭和8年
《小野 梓》 p181/465
梓東洋と號し、幡多郡宿毛村の人、
家世々國老伊賀氏の臣下であつた。
父を節吉といつた。
梓幼より蒲柳の質であつたので、
自ら武事を斷念し文學を以て身を立てんと
專心學問に勵精した。
十歳既に酒井南嶺に就て學び、
尋で藩校日新舘に入り
舘中第一の秀才を以て目せられた。

明治元年の東征に中村重遠に從ひ
機勢隊に加はり北越の野に轉戰した。
其後事によつて士籍を脱し
東島興兒と改名して淸國を漫遊して歸朝したが、
五年官命を以て英國に留學し二年にして歸朝した。
是より羅馬律要の著作に從事し、
司法少亟より少書記官となり、
元老院書記官より會計檢査官となつた。

梓曾て生涯の一大著たる
國憲論稿(※国憲汎論)の大作に從事し
拮据經營の中、圖らず虎疫に冒され筆を絶ち、
後官を辭して更にその稿を繼いだ。
また宗敎統一の意あり、
白蓮會と共存同衆の事に盡力したが、
蓋し新舊思想の調和統制を圖つたものである。

明治十五年大隈重信の立憲改進黨を興すや、
梓之に關與して其の股肱となり三掌事の一人となつた。
會ま(?)私立東京專門學校設立の議があつて、
梓は大に盡力斡旋して其の成立の基礎をたてた。
是れ今日早稻田大學の前身である。

十七年病にかゝり
十九年一月十一日遂に永眠した。
享年卅五。
東京谷中の墓地に埋葬した。
今宿毛西法寺(※清宝寺)に紀念碑が建ててある。

梓天資俊敏思慮周密で。
其の政治憲法の學に至ては卓絶比類がなかつた。
宜なり大隈重信常に梓を以て其の腹心となしたこと。
利學入門、大日本歷史、東洋經濟論、
日本外交論、日本財政論、大隈公政略等の著述がある。
昭和八年十二月十五日印刷
昭和八年十二月廿五日發行
   定價金拾圓
編纂者 永瀬 潔
印刷者 仁尾 進
    高知市桝形十三番屋敷
發行者 永瀬 潔
    高知市小高坂三百八十六番地
發行所 高知縣誌刊行會
    高知市小高坂三百八十六番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月06日 04:28 
◆東京宿毛会 [東京すくも人]第2号1985年版
[東京すくも人]第2号:《小野梓先生を知るために》兵頭武郎
小野梓の『国憲汎論』が日本の新憲法に脈々と入り
生かされていることを知っている人は少ない。
この偉大な先駆者、小野梓を早稲田当局も
ますます大切に扱っているのであるが、
われわれ、宿毛人も小野梓をもっとよく知り、
その偉業を顕章する必要があるのではないだろうか。
 (日本文芸社 社長)
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《小野 梓》会計検査院 一等検査官【改正官員録. 明治14年10月】

《小野 梓》会計検査院 一等検査官【改正官員録. 明治14年10月】

【改正官員録. 明治14年10月】
官等及月給年給     p3/284
◎一等
 太政大臣 月給 八百圓
 左右大臣 月給 六百圓
 參 議  月給 五百圓
◎二等   月給 金四百圓
◎三等      金三百五十圓
◎四等      金二百五十圓
 内閣書記官長
 大書記官
 一等驛遞官
◎會計検査院 太政官内 p15/284
 兼議官
 長崎 從四位 勲二等 山口尚芳 永田町二丁目二番地
副長
 東京 從五位 勲三等 安藤就高 猿樂町二拾五番地
一等検査官
 東京 從五位     安川繁成 飯倉二丁目八番地
 東京 正六位     小野 梓 北豊島郡橋場町千三百八拾番地

【改正官員録. 明治14年11月】
◎會計検査院 太政官内 p15/279
 高知 從四位 勲四等 岩村通俊 神保町十二番地
副長
 東京 正五位 勲三等 安藤就高 猿樂町二拾五番地
一等検査官
 東京 從五位     安川繁成 飯倉二丁目八番地
 東京 從五位     小野 梓 北豊島郡橋場町千三百八拾番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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    [明治~平成 値段史]
  年         明治13年(1880) 平成27年(2015)
給与所得者 年収     176円※①   420万円※②
勤労者世帯 実収入(月)           52.6万円
国家公務員 初任給              181,200円
大卒    初任給     10円      20万円
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給 貮百五拾圓×12=年収:3,000円
年収:3,000円÷176円※①=17倍
420万円※②×17=7,140万円
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ
【近事評論. (356)】明治14年11月
◎一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ p2/3
萬鍾ノ禄モ意ニ適セザレバ食ハズ
藜藿ノ羹モ一飽ヲ取ルニ足レリ
身ヲ顧レバ位從五位ニ昇リ
給貮百五拾圓ヲ辱フスルモ ※年収:3,000円
意ヲ枉ゲテ禄ヲ食ムハ
予ノ屑シトセザル所ナリ
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一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ【近事評論. (356)】明治14年11月

一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ【近事評論. (356)】明治14年11月

【近事評論. (356)】
近事評論 三八之日發兌 p1/3
第三百五十六號
明治十四年十一月八日
◎政府將ニ一大新聞ヲ設立セントスルノ說ハ果シテ眞耶
◎一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ
◎勝海舟君ノ奇言能ク世ヲ警ム
◎大隈從三位ガ肥前ニ墓參セラルヽノ說ハ信ズルニ足ラズ
◎西鄕參議ハ何ゾ其レ多能ナル
p1【近事評論. (356)】
〔画像〕p1【近事評論. (356)】

◎一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ p2/3
萬鍾ノ禄モ意ニ適セザレバ食ハズ
藜藿ノ羹モ一飽ヲ取ルニ足レリ
身ヲ顧レバ位從五位ニ昇リ
給貮百五拾圓ヲ辱フスルモ
意ヲ枉ゲテ禄ヲ食ムハ
予ノ屑シトセザル所ナリ

待乳山ノ月
我ヲ待ツヿ久シ
墨江ノ水縷ヲ洗フベク
亦タ足ヲ洗フベシ
淵明逝キテ久キモ
豈ニ皈
田園ノ賦ナカランヤト
一日衣冠ヲ正シ其出仕ノ院ニ到リ
披露シテ申サク

予ヤ一言ノ參議諸公列座ノ前ニ申シ進ヲセ度キ事ノ候
下官ノ身ヲ以テ參議諸公ヲ此ニ招キ奉ルハ
嗚呼ノ振笏ニハ候得

其泰山ハ土壌ヲ護ラズ
河海ハ細流ヲ擇バズトカヤ
諸公ノ忠言ヲ容ルヽニ速カナル
必ズ此院ニ來臨セラルヽナラン

急ギ此由
諸公ニ通ジ進ヲセヨト屬吏ニ命ジタルニ
屬吏ハ旨ヲ奉ジ其由ヲ通ゼシカバ
諸公ハ何事ノ出デ來シナラント
早速其院ニ臨マレタルニ
彼ノ某氏ハ嚴然色ヲ正フシ

第一ニ諸公ノ來臨ヲ謝シ
第二ニ自身ガ從來ノ經歷ヲ述ベ
第三ニハ時事ヲ痛論シ
我國ヲ泰山ノ安キニ置クモ
諸公ノ御身ニ在リ
瓦解ノ危キニ置クモ
諸公ノ御身ニ在リ

予ハ今ヨリ冠ヲ掛ケテ
長ク諸公ト地位ヲ異ニセン
云々ト憚ル氣色モナク
演ベ了リテ

同時ニ辞表ヲ差出シタルハ
最モ目覺シモ者ト云フベシト」ハ
其記者ガ其紙上ニ載スル所ナリ

然レドモ記者其人ノ姓名ヲ記セザルヲ以テ
果シテ其誰レタルヲ
p2【近事評論. (356)】
〔画像〕p2【近事評論. (356)】

確知スル能ハズト雖モ
我輩今記者ガ文中
待乳山、墨江等ノ地名ヲ仔細ニ翫索スルニ
暗々裡ニ今戸橋場邊ヲ指スガ如ク
且ツ世上ノ風説ニモ辞職ノ前
要路ノ顯官ニ向ヒ
大ニ時事ヲ痛論セラレタルノ噂アルヲ以テ
彼此參照スルニ

現今居ヲ橋場ニ卜セル
一等撿査官小野梓君コソ
必ズ其人ナランコトヲ
推知スベキナリ

果シテ然ラバ君ガ平素ノ自由主義ニシテ
這般ノ事アル
毫モ怪ムニ足ラザルガ如ク然リト雖モ
滔々タル天下唯ダ利禄惟レ汲々タル腐敗社會ニ於テ
尚ホ能ク此等ノ事アル

我輩豈ニ之ヲ稱賛セザルヲ得ンヤ
世間官派ニ奴隷タルヲ甘ズル者
固ヨリ多シ
幸ニ此編ヲ三復シテ少シク反省スル所アレ
p3【近事評論. (356)】
〔画像〕p3【近事評論. (356)】
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【近事評論. (356)】
タイトル  近事評論. (356)
出版者   共同社
出版年月日 1881-11 明治14年(1881)11月
目次 (tableOfContents)
政府將ニ一大新聞ヲ設立セントスルノ說ハ果シテ眞耶 //1
一等撿査官小野梓君ノ辭職何ゾ其レ目覺シキヤ //5
勝海舟君ノ奇言能ク世ヲ警ム //6
大隈從三位ガ肥前ニ墓參セラルヽノ說ハ信ズルニ足ラズ //9
西鄕參議ハ何ゾ其レ多能ナル //10
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野梓=士族から平民》
「明治14年の政変」大隈重信一派が挑んだもの
姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年
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[とよたま愛読会114回3/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

[とよたま愛読会114回3/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

とよたま愛読会114回(特別篇 入蒙記 23章~39章)
                 記:望月幹巳
日 時  平成18年3月26(日) 午後1時から午後4時30分まで 
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方) 
物 語  特別篇 入蒙記  第四編 「神軍躍動」
     第23章 木局子 ~ 第39章 入蒙拾遺

第三十八章 世界宗教聯合会
* 天恩郷に新設する光照殿の礎石は、
同義的世界統一の基礎である世界宗教聯合の証であるので、
一石を積み重ねるにも、心するべきとして、
日出雄は親しく基礎工事監督の任に当たった。

* 一方、岡崎鉄首が同道した李松年を先駆者とし、
真澄別(松村真澄)に全権をゆだねて、
世界宗教聯合の設立を促すべく、北京に派遣した。

* 真澄別(松村真澄)は神命をかしこみ、隆光彦、岡崎鉄首と、
頭山満・内田良平両氏の代理である岡貞吉氏を伴って、
陰暦四月十二日、北京に向かった。
北京では熱心な仏教家である洪徳滋や章嘉活仏らと会見した。

* 章嘉活仏は内蒙全部、外蒙の十個の廟、五大山の五個廟、
北京のラマ廟を統括している。
寒気は北京に滞在している。

* 真澄別(松村真澄)一行は、各宗教の代表を訪れ、
大正十四年五月二十日、北京悟善社において、世界宗教聯合会の発会式を挙げた。
従来三五教と提携していた普天教、五大教のほか、
道教、救世新教、仏陀教、支那仏教、支那回教、支那基督教、儒教などが提携した。

* さらに真澄別(松村真澄)は霊地五台山を訪問して神勅を受け、
日出雄の下に復命したのは、
日出雄が大阪刑務所に到着したときから十一ヶ月を経た六月二十七日であった。

第三十九章 入蒙拾遺
* 張作霖は、第二次奉直戦が意外に早く始まったので、
いまさらのごとく盧占魁を処刑してしまったことを悔いたと伝えた。

* パインタラの前夜に身をもって逃れた劉陞山は奉直戦のさなかに大連に逃れ、
さらに日本に渡って綾部に身を寄せていた。
その後奉天の日本租界に身を潜めて使命が下るのを待っている。
隆光彦が支那にわたった際に訪問すると、たいへんな歓迎を受けたとのことだ。

* 真澄別(松村真澄)が北京に滞在中、
王昌輝、揚巨芳、包春亭、金翔宇らがたずねてきた。
いずれも、索倫の司令部に参じていた人々である。

* 王昌輝は河南軍に身を投じていた。
盧占魁の最期の様子を伝え、またパインタラの結果について悔しがり、
必ずいつか目覚しい結果を照覧するからと、日出雄への取り成しを願ったという。

* 揚巨芳は索倫で盧の配下・揚萃廷と衝突して引き上げてから、
奉天軍の憲兵少佐に任じられていた。
そして、張作霖は盧を処刑するつもりはなかったのだが、
現場の長の越権行為であのような結果になり、
揚萃廷や劉陞山が遭難の遠因を作ったと言って非難した。

* 包春亭は包金山の代理として訪ね、
今は奉天軍の顧問をしていると消息を明かした。
彼らは岡崎と共に奉天に救援軍を組織しに出立した後、
パインタラの遭難を知ったのであった。

* 金翔宇は、日出雄の近くに仕えた
白凌閣、温長興、秦宣、王瓚璋、王通訳らはみな、
難を逃れて命を助かったと伝えた。

* 真澄別(松村真澄)はいずれの人たちにも、
これは神様の深い思し召しのあることで、
単純な失敗ではないこと、世界的神劇の序幕であることを説明した。
その証として世界宗教聯合会の成立を伝えると、
各人一様に感嘆の声を漏らし、前途の祝福を忘れなかった。
特に蒙古人は、章嘉活仏との提携を非常に喜んだ。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年03月05日 04:25 ◆松村仙造(眞澄) 宗教法人大本
[大本教ニ関スル件:世界宗教聯合會]高秘第903號:大正14年7月9日

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年07月09日 05:55 ◆松村仙造(眞澄) 宗教法人大本
《外務省》警察署長 波多野龜太郎殿
[北京ニ於ケル世界宗教連合会関係者ノ行動ニ関スル件]大正14年7月16日

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月01日 10:40 ◆松村仙造(眞澄) 略歴:松村仙造
略歴[祖父 松村仙造(真澄・大本の名前)]―01
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[とよたま愛読会114回2/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

[とよたま愛読会114回2/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

とよたま愛読会114回(特別篇 入蒙記 23章~39章)
                 記:望月幹巳
日 時  平成18年3月26(日) 午後1時から午後4時30分まで 
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方) 
物 語  特別篇 入蒙記  第四編 「神軍躍動」
     第23章 木局子 ~ 第39章 入蒙拾遺

第二十八章 行軍開始
 ―略―
* 真澄別(松村真澄)は張作霖を当てにせず、
興安嶺に進出して独立を企てるべきだと主張した。
これに対して盧占魁は、綏遠・チャハル地方に一度戻ってそちらの部隊に合流を促し、
物資を補給してから外蒙に向かうようにしよう、と決めた。
 ―略―
* 果たして、今日では彼は熱河の奥地に本拠を構え、三千の軍を組織し、
日出雄の弔い合戦をするのだ、
と日出雄・真澄別(松村真澄)の再渡来を待っているのだという。

第二十九章 端午の日
 ―略―

第三十章 岩窟の奇兆
 ―略―

第五編 雨後月明
第三十一章 強行軍
* 猪野軍医長は、盧占魁の軍隊が兵隊も減り始めたのを心配し、
もう盧占魁と決別して別行動を取ろうかと提案した。
真澄別(松村真澄)は、神様の使命が一番に下ったのだから、
行くところまで行かなければ仕方がない、と諭した。
 ―略―
* 真澄別(松村真澄)は日出雄の意を受けて、
隊の中でも一番の大部隊を率いている劉陞山と筆談を交わしていた。
そして、今後の行軍予定は綏遠で冬籠りをすることだと聞かされた。

* 六月十一日に熱河区内のラマ廟に着いて、食料を満たすことができた。
六月十三日にまたラマ廟に宿泊した。
方向は依然として東南に戻り、奉天の張作霖の勢力範囲に近づいて行く様子なので、
真澄別(松村真澄)が問いただすと、
盧占魁はただ、民家の多いところに行くとだけ答えた。
 ―略―

第三十二章 弾丸雨飛
* 谷間を通り抜けて広大な草野に面した山すそで、
開魯の軍隊から威嚇射撃を受けた。
その間、真澄別(松村真澄)はゆうゆうとその様を見物しており、
日出雄は車の中で悠然と寝転んでいた。
 ―略―
* 続く六月十六日には、
民家の付近で休息を取っている間に後方を王府の兵に襲われ、
盧占魁の右腕である曼陀汗が戦死したため、盧占魁はいたく力を落とした。

* 真澄別(松村真澄)は再び盧占魁に行く先を糾したが、
盧は「先生方は安全地帯に滞在していただき、その間に自分は奉天に帰って、
張作霖の誤解を解いてくる」という返事であった。
 ―略―
* 日出雄は神勅に、パインタラに行くのは薪を抱いて火に飛びこむようなものだ、
と出たので、盧占魁に伝えた。
盧占魁はただ、大丈夫です、と言ったのみであった。
真澄別(松村真澄)は神勅に敬意のない盧占魁の態度に不安を覚えた。
 ―略―
* 宵闇の中、日出雄の一隊は進めども進めども、同じ場所に戻ってしまい、
先頭部隊との間が離れてしまった。
真澄別(松村真澄)は白孤が気をつけているといって心配したが、
日出雄は進まなければ仕方がないと答えた。

* 翌朝、盧占魁の伝令によって呼び起こされることになった。

第三十三章 武装解除
 ―略―
* やがて全部隊はそれぞれ村落の民家に宿営したが、
盧占魁は日出雄と真澄別(松村真澄)に人払いの上面会を乞いに来た。
そして、一度奉天に行って張作霖と談判しなければ虫が治まらない、
ついては神勅を伺ってください、と言った。

* 日出雄は、神勅は先般のとおり、
パインタラに行くのは薪を抱いて火に飛び込むのと同じ、
と真澄別(松村真澄)に伝えさせた。
盧はそんなはずはないと言い、
先ほど平行していた騎兵たちは自分たちの討伐隊ではない、と否定した。

* 真澄別(松村真澄)が盧の認識は間違っているのではないか、
とたしなめようとした時に、
盧の副官が厳封した密書を持ってきた。
それには、武装解除しない限り、パインタラには入ることはできない、
としたためてあった。

* 盧はもしものことがあったら、
パインタラに暴風雨か大洪水が起こるように祈願してください、
と言い残して、あわただしく去っていった。
 ―略―

* 日出雄と真澄別(松村真澄)は庭前に座して、神に祈願を凝らした。
神勅は、当日午後六時以降より異変打ち続くべし、
されど洪水などはみだりに起こすべきものにあらず、
皆それぞれの人心、時期に応ず、というものであった。

* 後に日出雄らがパインタラの獄舎を出てから後、
パインタラは二度まで大洪水に見舞われ、惨憺たる光景を呈してしまったという。

* そうするうちに、すでに日出雄の仮本営にも官兵の従卒たちが入り込んで、
双方打ち解けて談笑するという有様になっていた。
盧占魁は官兵に案内で、井上を伴って日出雄を同道して
パインタラに入ることになったという。
真澄別(松村真澄)は次の日に、
やはり官兵の護衛で後からパインタラ入りすることになった。

* 日出雄が先にパインタラに出立した後、
噂が噂を呼び、劉陞山の部隊は姿を消し、
脱営を企てるものが後を絶たなかったという。

* 翌日、真澄別(松村真澄)らは一個師団はある官兵に包囲されて拘束された。
盧占魁は官兵に送られて帰って来た。
長時間の協議の結果、盧占魁の軍はすべて武器を台車数台に積み込まれた。

第三十四章 竜口の難
 ―略―
* 真澄別(松村真澄)らも一緒にやってきて、鴻賓旅館で合流することになった。
その日は一同、官兵たちに饗応を受けたが、
日出雄はその日に限って気分が進まず、食事には箸をつけなかった。
 ―略―
* 日出雄、真澄別(松村真澄)、萩原、井上、坂本、守高らは並べられて、
機関銃の弾が飛んでくるという矢先、
射手は銃の反動を受けて倒れたため、数分を要した。
真澄別(松村真澄)は救世主である日出雄が
ここで命を落とすことなど決してありえない、
と強く主張した。

* 日出雄は霊魂が中有に迷わないようにと真澄別(松村真澄)を諭し、
一同の霊魂を救うよう、それのみに心を集中していた。
そして辞世の歌を詠んで弾丸が飛来するのを待っていた。

* しかしそうするうちに銃殺は中止になり、
またもや兵士が一行を引き立てて監獄へ連れて行った。
堅固な手かせ足かせをはめ、麻縄にて縛り、厳重な死刑囚の取り扱いをなした。

第三十五章 黄泉帰
 ―略―

第三十六章 天の岩戸
 ―略―

* ある日真澄別(松村真澄)が面会に来て、
霊眼で「十一」を見せてもらったという。
果たして、日出雄の保釈が決定したのが旧暦十月一日であり、
若松支所を出たのが新暦十一月一日の午前十一時十一分であった。
 ―略―

第三十七章 大本天恩郷
* 財政問題も日出雄が綾部に帰りつくや、一掃されてしまった。
瑞祥会本部を亀岡から綾部に移して宇知麿に総覧を一任した。
そして自らは真澄別(松村真澄)を率いて万寿苑に居を定め、
万寿苑を天恩郷と命名した。
 ―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[とよたま愛読会114回1/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

[とよたま愛読会114回1/3(特別篇 入蒙記 23章~39章)]真澄別(松村真澄)関連

とよたま愛読会114回(特別篇 入蒙記 23章~39章)
                 記:望月幹巳
日 時  平成18年3月26(日) 午後1時から午後4時30分まで 
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方) 
物 語  特別篇 入蒙記  第四編 「神軍躍動」
     第23章 木局子 ~ 第39章 入蒙拾遺

★ 報告
 ―略―
日本に帰着後、真澄別(松村真澄)をして再び北京に遣わし、
わずかの間に新しい提携宗派を多く得て、世界宗教聯合会の設立を成し遂げます。
その中には、蒙古に大きな影響力を持つ章嘉活仏との提携もありました。
真澄別(松村真澄)は、北京に滞在中に尋ねて来たかつての盧占魁幕下の幹部連に、
入蒙は深い神様の仕組みがあったのであり、
単なる失敗ではなかったと諭して、入蒙記は幕を閉じています。

★ 拝読箇所で気のついたこと
山河草木 特別篇 入蒙記 第四編 神軍躍動
第23章 下木局子
 ―略―
* 5月13日には仏爺ラマが、部下のラマ僧と兵士を従えて日出雄を来訪した。
日出雄は真澄別(松村真澄)に接見を任せて、ラマ教との提携を約束せしめた。
 ―略―

第24章 木局の月
 ―略―

第25章 風雨叱咤
 ―略―
* 日出雄は、
用もないのに勝手に風雨を起こして神界の規則に触れることを心配したが、
真澄別(松村真澄)が大事のためなら、自分が身代わりとなって行ってみたい、
と申し出たので、許可した。
盧占魁は、実はすでに奇跡を起こすと部隊に布告してしまっていた、
と明かし、日出雄が了承してくれたことを喜んだ。

* 日出雄はトール河畔に自ら聖域を卜し、真澄別(松村真澄)の修業を指導した。
 ―略―
* 日出雄一行が下木局子に来着すると、小憩の後、
日出雄の目配せを合図に真澄別(松村真澄)が何事か黙祷するやいなや、
たちまち司令部の上天は薄暗くなり、またたくまに全天雨雲に覆われ、
一陣の怪風吹くとともに、激しい暴風雨が来襲した。

* 一同は驚きあわて、みなあっけに取られて言葉もなかった。
しばらくして、今日は写真は駄目でしょう、という失望の声が聞こえてきた。
真澄別(松村真澄)は日出雄に、五分も経てば大丈夫、と言った。
日出雄はやおら身を起こして雨中に降り立ち、点に向かって「ウー」と大喝した。

* すると風勢は衰え、雨は次第に小降りとなり、
真澄別(松村真澄)の宣言のごとく、
暴風雨は消え去って空は元のごとく晴朗に澄み切った。
盧占魁は人々の間を立ち回り、
自分の宣伝が誇大ではなかったことを誇って回った。

* ここで幹部一同記念撮影をなし、卓を囲んで会食をしたときに、
真澄別(松村真澄)は温長興を指して、
実は大先生(日出雄)が今日の役目を承った竜神を、温さんに懸けておいたので、
温さんは朝から頭痛がしていたのだ、
と説明すれば、一同はただ感嘆の言葉を漏らすほかはなかった。
 ―略―

第二十六章 天の安河
* いつの間に盧占魁が宣伝したものか、
蒙古人たちは、日出雄は蒙古興安嶺中の部落の出身で、
日出雄の母は流転の後に日本人と結婚し、
異父弟の真澄別(松村真澄)が生まれた。
のちに日出雄は日本で一派の宗教を樹立し、
蒙古を救済するべく帰来した、と信じていた。

* 蒙古の元老たちは、日出雄をジンギスカンの末裔と信じていた。
日出雄は、万一自分が蒙古の外へ出ることがあっても、
弟の真澄別(松村真澄)を置いていくから心配するな、と彼らを慰めていた。

* 索倫に引き移ってからは、真澄別(松村真澄)が来客の応接に当たり、
日出雄は生き神としてみだりにこれを煩わさないような体制になっていた。
 ―略―
○ 真澄別(松村真澄)には木花姫命ならびに二体の竜神を持って守護させている。
守高は天の手力男ならびに二体の竜神を持って守護させている。
坂本広一には持国天、名田彦には白狐を持って守護させているが、
いまだに修行が足りないので、表には表れていない。

* この修行中、真澄別(松村真澄)の霊眼霊耳に
前途に関するさまざまな問題が映じ、聞こえたという。

第二十七章 奉天の渦
 ―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)]真澄別(松村真澄)関連

[とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)]
真澄別(松村真澄)関連

とよたま愛読会113回(特別篇 入蒙記 12章~22章)
                 記:望月幹巳
日 時  平成18年2月26(日) 午後1時から午後4時30分まで
場 所  愛善苑 豊玉分苑 (京王線下高井戸駅下車 徒歩8分 川崎方)
物 語  特別篇 入蒙記 第一篇 「日本より奉天まで」
     第12章 焦頭爛額 ~ 第22章 木局収ヶ原

★ 報告
山河草木 特別篇 入蒙記
第2篇 奉天より洮南へ 
第12章 焦頭爛額
 ―略―
* 列車は途中で何度も故障し、
修理に何時間も費やしながらゆっくりと進んでいった。
その間に、奉天から列車で出発していた真澄別(松村真澄)一行は、
3月6日の午前零時20分ごろに洮南駅に到着していた。

第13章 洮南旅館
* 日出雄一行は3月8日の午後9時30分にようやく洮南駅に到着した。
そして洮南旅館で真澄別(松村真澄)一行と合流した。
洮南府は日本官憲の勢力がない場所であった。
現在は特殊の関係のある者のみが25名逗留しているだけの地である。
 ―略―

第14章 洮南の雲
 ―略―

第3篇 洮南より索倫へ
第15章 公爺府入り
 ―略―

第16章 蒙古の人情
 ―略―

第17章 明暗交々
 ―略―
* 温長興が出発してから、その日の午後6時ごろ、
やっと真澄別(松村真澄)一行が荷物や食料を満載して到着した。
地獄で仏に会ったような心持に、日出雄も岡崎も非常に喜んだ。
たくさんの荷物や食料が到着すると、
老印君の日本人に対する態度はまたがらりとよくなった。

* 真澄別(松村真澄)にしたがってやってきたのは、名田彦、猪野敏夫の両人であった。

第18章 蒙古気質
 ―略―
* 4月14日に盧占魁は200人の手兵を引率して、公爺府に到着した。
盧は大勢の部下の前で日出雄に抱きついてうれし泣きに泣いた。
日出雄も感慨の念に打たれたのである。
互いに旅情を慰めあった後は、真澄別(松村真澄)が事務を盧と協議した。
 ―略―
* 白凌閣は日出雄、真澄別(松村真澄)以外の日本人の言うことを聞かないので、
あるとき猪野は怒って白凌閣の横顔を木片で殴りつけた。
白は顔面が腫れ上がり、地がにじみ出たが、
このことを自分の父に告げようともしなかった。

* 日出雄は見かねて白の手当てをし、鎮魂を施した。
30分もすると、腫れは引いてしまった。
日出雄は白に、日本人にひどい目に合わされても、
自分の親に告げに行かなかったのは感心だ、と言った。
すると白は、
『大先生の家来になったのだから、もはや父母を頼ることはできない。
また、先生の代理である真澄別(松村真澄)さんの言うことは聞きますが、
その他の日本人に服従する義務はありません。
道ならぬことをすれば、蒙古男子の恥になります。』と言った。
 ―略―

第19章 仮司令部
 ―略―
* 4月20日、神勅により、日出雄と真澄別(松村真澄)には、次のような蒙古人名が与えられた。
  《出口王仁三郎源日出雄》
   * 弥勒下生達頼喇嘛[みろくげしょう ターライラマ]
   * 素尊汗(言霊別命)[すーつーはん]
   * 蒙古姓名:那爾薩林喀斉拉額都[ナルザリンカチラオト]

  《松村仙造源真澄》
   * 班善喇嘛[ハンゼンラマ]
   * 真澄別(治国別命)
   * 伊忽薩林伯勒額羅斯[イボサリンポロオロス]

第20章 春軍完備
* 4月20四日午後、ようやく5台の台車に武器が満載されてやってきた。
それにつれて仮司令部の中も活気付き、兵士たちの士気も上がってきた。
日本人側もようやく安堵し愁眉を開いた。

* 奥地は難所が多いために荷物を軽くしていくことになった。
日出雄も霊界物語や支那服・日本服は洮南に送り返し、
ラマの法衣のみを着ていくことになった。
また日出雄と真澄別(松村真澄)は宗教家として武器は携帯しなかった。
 ―略―
* 日出雄と真澄別(松村真澄)は、こんなところを開墾して穀類を植え付け、
鉄路を敷いて樹木をきり出し鉱物を採掘したならば、
実に大なる国家の富源を得られるであろうと話しつつ、進んでいった。
 ―略―

第21章 索倫本営
 ―略―

第4篇 神軍躍動
第22章 木局収ヶ原
 ―略―

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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