2018年09月

『故小野梓先生十年追悼會』③【小野梓】永田新之允・明治30年

『故小野梓先生十年追悼會』③【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)

廿八年二月十日正午より知音の士發企となり、
東京專門學校、主動となり、
本校大講堂に於て莊嚴なる追悼會を營みたり、

此日惠風和暢、大講堂の樓下を來會者の休憩室に充て、
室内に老松其他珍奇の盆栽、參差陳列し、

鳩山、高田、天野、市島、田原諸氏
其他校友會幹事たる黑川九馬、田中唯一郎、吉田俊雄、
增田義一、細野繁莊、永島富三郎、高木守三郎の諸氏
接待の任に當る

又 樓上の式場には正面に三階の佛壇を飾付け、
先生の半身油繪額を安置し、
其後ろには石摺の碑文、
兩側には眞蹟
「民者國之本吏者民之雇」と
民者國之本吏者民之雇
〔画像〕民者國之本吏者民之雇

「欲暖猶寒節序遲、朝々屈指數花期、
 花期未到意先到、爲賦墨江春色詩、」
小野梓著「待花」
〔画像〕小野梓著「待花」

と云ふ待花の題にて國會開設の遲きを嘆したる詩の軸を懸け、

靈前には遺著「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」を供へ、

「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」
〔画像〕「國憲汎論」「民法の骨」「東洋論策」

其他蘋蒭を捧け、
左方は遺族席並に來會者席に充て、
前面及右方は學生席と定む、

軈て
午後一時に至るや合圖の第一鐘に誘はれて學生入場し、
第二鐘に先生の義兄小野義眞氏並に同氏の令嗣同英之助
先生の令嬢、 ※小野墨
次て先生の知音にして嘗て導師に立ちし、
築地西本願寺内 眞光寺住 多田賢住氏は
石上北天氏 外三名の僧侶を伴ひ續て
伯爵萬里小路通房、子爵松平信正、
前島密、島田三郎、尾崎行雄、犬養毅の諸氏を始め
校友、改進黨、學生を併せて千有餘名相會したれは
さしもに廣き講堂立錐の餘地なし、

午後一時半
市島謙吉氏開式の辭を述べ、
次に讀經四十分餘に渉り、
其より我東京專門學校代表者 市島謙吉氏、
校友會總代 天野爲之氏、
學生總代 佐藤勇吉氏、
何れも追悼文を朗讀し、
次に大隈伯爵より寄せられたる追悼文を
左納岩吉氏朗讀し、
淺香克孝氏 立憲改進黨を代表して追悼文を朗讀し、
次に知音を代表して島田三郎氏の追懐の演説あり、
其より遠く書を寄せられたる山田一郎氏の演説文を
黑川九馬氏代讀し、
田中唯一郎氏は各地の知友より寄せたる追悼詞、
及 電音並に開式に當り
本校より郷里土佐宿毛の未亡人にあてゝ報道したる
其 返電等を報告し、 ※小野利遠:坂本利遠
學生某氏の演説あり、
後ち一同焼香し終て全く閉式を告ぐ、

當日來會者一同に頒ちたるは
先生が十數年前二才餘の愛兒を膝に抱き、※小野安
五六歳の令嬢を左側に寄添へるたる   ※小野墨

 写真[小野梓・墨・安]
 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 《大隈侯の思い出:小野安》
 [巨人の面影]丹尾磯之助/大隈重信生誕百二十五年記念
 《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校 本科
  明治29年3月卒業【官報. 1896年03月26日】明治29年

寫眞版及
先生自傳史料中の一節
「宿毛に歸りし後は熟々思ふよふ斯く藩廳の束縛を受くるは
必竟帶刀の身にて士分の列に在れはこそ然るなり、
されは兼て東京にて考へたる如く
今より士格を辭し平人と為し
この身を自由にするこそ今日の上策なりと
或る日其由を萱堂家兄等に話し
平人の願を出すことに爲したりき
然るに伊賀氏は之れを聞き届けなき爲め
據なく他家へ養子に往く躰にて
平人と為りたりき
この平人に爲る事に就きては人々大抵その
短氣なるを戒め今時は平人でさへ士格に成りたく思ひ
脇ざしの一本も差し度思ふ世の中なるに
態々帶力を抜き捨て平人と為るとは
誠に心得違ひなる由をさゝやきたれとも
我は少し見る所あれは
しはし我の心にまかせ呉かしと
堅く乞ひ
遂に平人とは成りにき」
の眞筆を併せて石版にしたる摺物と

「小野先生追悼」
と印たる菓子を配れり、

嗚呼天何ぞ無情なる、
當日頒布したる寫眞中
先生の左側に寄添へたる五六才の小女は遺族として
式場に臨まれたる令嬢ならんとは、
當日 令嬢が文章演説を聽き追慕の情に堪へさる狀を覗ひ
滿座暗涙を催さゝるはなかりき、
小野墨(17歳)女子高等師範學校 附屬高等女學校在学中

來會したるは左の如し
 多胡貞三郎   臼田甚八郎   坂本嘉次馬 ※坂本嘉治馬
         門馬尚經    小山愛治
 高根義人    高田早苗    今井鐵太郎
         高田貢平   (早苗氏嚴君)
 前島 密    鳩山和夫    並木覺太郎
         田原 榮    島村瀧太郎(島村抱月)
 池谷一孝    谷和一郎    古賀一基
         天野爲之    田中正造
         森脇 萬    淺香克孝
 島田三郎    山澤俊夫    首藤陸三
         尾崎行雄    波多野傳三郎
 鹽澤昌貞    犬養 毅    長谷部繁三郎
         町田熊雄    若林成昭
 關口又四郎   高橋至誠    齋藤順三
         小原金治    昆田文治郎
         久保良平    鹿島秀麿
 漆間民夫    松本義弘    高田卓爾
         鹽入太輔    橋本久太郎
 松島廉作    島田孝之    佐藤伊三郎
         廣住久道    能勢■二 ※津の下に土。
 儘田甚太郎   種村宗八    若代秀明
         大谷順作    左納岩吉
         高木守三郎   米田 精
 永島富三郎   黑川九馬    細野繁莊
         增田義一    吉田俊雄
         佐藤 靜    吉川義次
 光信壽吉    二宮育次郎
 其他校友及學生等なり

式後午後四時より牛込通寺町求友亭に遺族を招待し
會場に先生遺墨
「白砂千里淡斜暉、獨跨駱駝行更遲、乃兒河水洋々外、
 影聳尖塔古帝碑」の埃及口占の詩を懸く ※埃及:エジプト
埃及口占
〔画像〕埃及口占

來會する者 五十有餘名市島氏開會の詞を述へ、
次に增田義一、小山愛治、黑川九馬、田中正造の四氏は
交々立て最も莊嚴の辯と感慨の辭を以て先生の往時を演説し、
終りに高田早苗氏は悲愴の語にて
先生は予の最も親昵する所
而して先生兄
たれば予は弟たり、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『故小野梓先生十年追悼會』②【小野梓】永田新之允・明治30年

『故小野梓先生十年追悼會』②【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)

[一月十一日]
而して同月十一日溘焉 ※明治19年1月11日
として遂に簣を易ふるに至れり、
嗚呼萬物空寂、千古已んぬ、悲哉。

君既に逝く矣、
親戚故舊之を聞て慟哭哀悼せさる者なし、
同月十四日遺柩を奉じ錦街の宅を出で ※錦街:神田区錦町3丁目
谷中の墓地に葬むる、
會する者無慮千餘人亦た盛なりと云ふべし、
君歿する時歳正に三十五、
若し天生を假さは
有爲の時期は益々是れより盛んならんとし
政海の新潮流は幾多の君を要すべきに空しく、
願入院釋東洋居士の法號の下に瞑するに至る、
噫悼しゐ哉、

一二二回忌 法要
二〇〇七年三月十日 午後二時
願入院釋東洋居士 小野 梓先生 一二二回忌 法要
施主 早稲田大学
※平成19年(2007)3月10日 宿毛市 清宝寺
〔画像〕一二二回忌 法要

願入院釋東洋居士
〔画像〕願入院釋東洋居士

東洋小野梓之墓
東洋小野梓之墓
早稲田大学創立九十周年の歳
昭和四十七年十月
  早稲田大学建之
〔画像〕東洋小野梓之墓

[二男三女]
君曾て小野義眞氏の妹利遠を娶り二男三女を生む、
曰く義男夭す ※明治9年3月生 明治9年5月歿
曰く鐵麿夭す ※明治14年9月生 明治15年6月歿
曰く橡夭す  ※明治10年4月生 明治11年3月歿
曰く隅(墨) ※明治11年10月生 昭和22年2月歿
曰く安と、  ※明治16年9月生 昭和41年4月歿

二男三女
〔画像〕二男三女

而して當今此兩子の内
一は高知に在郷し、           ※小野安
一は橋場なる小野氏の邸に寄寓すといふ。 ※小野墨
 ※橋場町1380番地 小野義眞邸

[島地氏の追悼]
同年二月十三日 島地默雷氏 ※明治19年2月13日
會主となり舊友を集同して追悼會を
麴町區中六番町の白蓮社に開く、
會する者十數人、
氏時に追懐の詩あり、
蓋し君が國憲汎論に題せる待花の韻に次せるものなり。
  料峭寒殘春信遲。 多情久待百花期。
  花期未到身先死。 泣讀留題新著詩。
其後一年有餘にして左の報告書は君の遺友に依て頒付せられぬ。

[建碑の擧]
 拜啓陳者小生等發起募集いたし候
 故小野梓氏建碑義捐金
 幸に諸君の賛成を得て左の金額に相達し候に付
 即ち碑石買入の上
 兼て中村正直君に撰文を
 大内靑巒君に揮毫を乞ひ置候碑文を
 宮龜年氏に彫刻相託し出來の上
 小野氏の故郷土佐國宿毛郷へ建設いたし
 又殘金を以て五姓田芳柳氏に托し
 油繪一面を畫かしめ
小野梓肖像 五姓田芳柳画
〔画像〕小野梓肖像 五姓田芳柳画

 小野氏生前關係薄からさる
 東京專門學校へ寄附いたし候事に取計ひ候に付
 右碑面摺物一葉及計算書相添此段及御報告候敬具
   發起人
  石上北天   加藤瓢乎   箕浦勝人
  林 包明   高田早苗   島田三郎
  尾崎行雄   牟田口元學  島地默雷
  岡山兼吉   前島 密   末廣重恭
  大隈英麿   增島六一郎
  大内靑巒   北畠治房
義捐金額三百四十九圓三十八錢にして
義捐者大隈伯以下百有餘名なりき、
乃ち之れに依つて成されたる碑文は左の如し。
[碑 文]
 從五位小野梓君碑
     元老院議官從四位中村正直撰

小野梓君碑:中村正直譔
〔画像〕小野梓君碑:中村正直譔

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 [小野梓君碑:中村正直譔]「表紙拓刷は彩雲堂版」
 [小野梓君碑:中村正直譔]「読み下し文」

 明治二十年丁五月
   從三位勲一等伯爵大隈重信篆額
      大内靑巒書  宮 龜年刻

嗚呼天王寺畔永眠の夢既に十星霜を經過し、
花披き葉落ち春去り秋來り
人事天時の變移今の如くにして亦た昨の如し、

[十週年追悼會]
時に、明治廿八年二月十日東京專門學校は
一月二十七日校友大會の決議に依り、
君の十週年追悼會を同校大講堂に開き
式後 牛込通寺町求友亭に其遺族を招待しぬ、

當日式場の光景は左の如し。(中央時論に依る)
『故小野梓先生十年追悼會』
本校創立に最も與て力多き
本校の恩人故東洋小野先生は稀世の才と
和漢洋の學とを兼ね
身蒲柳の質を以て國事に鞅掌するの傍ら
著述と靑年の訓導とに赤誠を罩め、
官に在ては會計撿査院を起し、
野に下ては共存同衆
令智會立憲改進黨の創立に與り、
大隈伯爵の信任最も深く
伯が我東京專門學校の基を開くや、
先生大に努むる處ありしが天、
先生の睿智を嫉みてか年を假す、
僅かに三十五歳にして
去明治十九年一月十一日溘然遠逝せられ、
谷中天王寺に葬る、
法號を願入院釋東洋居士と稱ふ、
烏兎匇々、
先生去て茲に十年、知友
盍ぞ先生を忘れんや、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『故小野梓先生十年追悼會』①【小野梓】永田新之允・明治30年

『故小野梓先生十年追悼會』①【小野梓】永田新之允・明治30年

【小野梓】著述者 永田新之允・明治30年(1897)
  <病軀——永眠> p184-190/228
[生涯の一半]
君が生涯の一半は病軀史なり、
其幼少の頃資性羸弱なりしは嘗て記したるが如し、
而して外國に在りし頃も屢々リコメチズム發生し
大陸漫遊に出でたる事あり、
歸朝の後も虎列拉病に罹りたる事ありて ※虎列拉:コレラ
蒲柳の質は竟に治する能はず、
加ふるに君は意を攝生に用ゐずにして
過度の刻學を爲すが常なりし故
益々持病の增長を助けて、
官衙に出づるにも、
共存會館に赴くにも、
藥瓶は必ず隨伴を命ぜられ筆硯の前、
何時も其兀立して主公を護衛せるを見たりと云ふ、

[初の喀血]
明治十四年九月二十七日
君始めて喀血を病みき、其日記に曰く。
 退食の後喀血す驚て醫を迎ふ、
 先人喀血の病を以て命を終ふ、
 余の念い知るべし
 既にして緒方來り診斷して曰く ※緒方惟準
 肺膜の動作平生に異ならず
 且其血鮮紅に非ずして
 稍異色を帶ぶ是れ胃血の證也
 以て驚く勿れ、
 惟ふに君日々登衙し途遠し
 腕車の胃部を揺動し以て其血管を破りし也と、 ※腕車:人力車
 藥を投じて去る、

 余の意始めて安し
 余や前途猶ほ遠し
 平生の望未だ其十が一を酬ゐず
 然かも遽かに不治の病を懼る
 則ち其遺憾應に少なからさるべき也
 今や幸に肺部の出血に非ず
 胃部の出血は則ち其病自から輕し
 余復た何をか驚かん
君是れより痛く自ら攝養を加へて嘗て飲酒せず、
食は必ず洋饌二回を限り
數年の間其則を違へず、
常人の能くし易からさるを履行せり、
然れとも改進黨時代に至りても
猶ほ臥床黨務を見さる事數次なりしが、

明治十七年九月十三日
書店東洋館に於て事を處するの際
忽ち一咳喀血す、
即ち家に還り蓐に臥したるに又た喀血を發す、
池田國手を請ふて在らず ※池田謙齋
暫らく他の醫師をして之を療せしむ、
氷嚢を以て胸部を冷し出血を止む
而れとも終夜恍惚として寝ぬること能はず、

十月一日
池田氏來診して曰く   ※池田謙齋
是れ氣管支の迸血なりと、
是れより一月有半病蓐に在りき、

同月三日の記に曰く
熱度稍高、
然れども久しからずして散ぜん、

五日の記に曰く
又喀血す、
九日の記に曰く
此夜熱度頗る高し
殆んど華氏四十度、 ※華氏104度 摂氏40度
苦悶恍惚として寝ねず、
唯だ氷塊を欲するのみ、

二十八日の記に曰く
病輕し起て席上を歩す、

十一月一日の記に曰く
自傳志料を筆して無聊を遣る、

八日の記に曰く
感胃未だ全癒せず
閑居愛々物語の筆を始しむ云々、
此年遂に病癒へずして越歳せり、
君が改進黨掌事を辭したるは此時なりき。

明治十八年七月二日
又々喀血す
五日に再びし
十四日に三びせり
胃部冷を覺へ
膓亦攣急し
日を逐ふて激甚なり
而して國憲汎論は方に此蓐中に於て全部完成せり。
『國憲汎論』上中下巻
〔画像〕『國憲汎論』上中下巻

是れより先き五月
次兄稠松氏より態々贈藥し來れるに會し、
君同二十五日の日記に書して曰く、
稠松兄の書に接す
余が肺勞に罹りたりと訛傳し ※訛傳:誤った伝え
大に之を憂ひ贈藥し來れる也
即時書を裁して曰く
是れ訛傳也         ※訛傳:誤った伝え
微恙唯 氣管支炎耳 肺勞に非ず

[日本宰相の命を受くるに非されば則ち死せず]
梓 日本宰相の命を拜するに非されば
則ち死せず
斯精神軀躰の裏に盈つれば
病魔も亦之を畏る
阿嬢之を安んぜよと
意氣甚だ盛んなりと雖も
枯骨瘠軀追日衰弱に赴き
留客齋日記も遂に十月八日に至つて筆を絶せり。

[政府の大改革]
然るに同年十二月二十二日 ※第1次伊藤内閣
此生きたる墓の上には一大光明放射したり、
蓋し一大光明とは朝廷此日古今未曾有の大改革を行ひ、
太政官を廢して内閣十省を置き
參議伊藤博文を以て内閣總理大臣に任じ
歐洲政府の組織と其規を一にしたる是れ也、
抑も今回改革の大旨は
君が曾て國憲汎論下巻行政の篇に於て唱説せし所にして、
頗る君が年來の志望に協ひたれば
君は氣息奄々の中にも欣然として喜び
自ら禁ずる能はさりき。

翌十九年一月二日
天野爲之氏 君を錦街の病蓐に問ふ、 ※錦街:神田区錦町3丁目
君此時病殊に篤く殆んど言語に難み
纔に筆を執りて朝廷改革に對する哀情を告ぐる所
誠に此くの如くありしと云ふ、
然れとも當時未だ曾て辭世の念あらさりしなり、

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『滿洲國政府機關』[營口警務處][營口市公署]【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】

『滿洲國政府機關』[營口警務處][營口市公署]
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】

【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
 滿洲職員錄
 康德八年 昭和十六年 滿洲年鑑附錄
(康德七年九月三十日現在)
※昭和15年9月30日現在
 但しその後判明せるものは補正す
『滿洲國政府機關』 p7/73
[營口警務處]   p18/73
處 長       陳 景啓
警務科長      鈴木俊夫
特務科長      關 根昇
保安科長      毛 景仁
水上警察署長    今村 均
司法科長      島田兼吉
衞生科長      崔 永秀

[營口市公署]   p18/73
市 長       張  諒
副市長       内田 孝
庶務科長      稻田勝芳
行政科長      尹 作賢
事務官       大和寛一
商工科長      米永喜義
實業科長      金 文弘
財務科長      岸上正男
保健衞生科長    永田三六
工務科長      薗部光三
技 佐       黑田正輝
昭和十五年十二月一日印刷
昭和十五年十二月五日發行
昭和十六年 康德八年 滿洲年鑑〔附錄〕
編輯人 福富八郎
    大連市東公園町三十一番地
發行人 白井由藏
    大連市東公園町三十一番地
印刷人 鍋田覺治
    大連市東公園町三十一番地
印刷所 滿洲日日新聞社印刷所
    大連市東公園町三十一番地
發行所 滿洲日日新聞社大連支店
    大連市東公園町三十一番地
發賣所 滿洲書籍配給株式會社
    新京特別市西七馬路一四
發賣所 滿洲日日新聞社
    奉天市大和區協和街四段
發賣所 大連日日新聞社
    大連市東公園町三十一番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野英之助の実父》英国総領事アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス勲等進級ノ件:明治28年

《小野英之助の実父》
英国総領事アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス勲等進級ノ件:明治28年

 英國外交事務官總領事アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス
 勲等進敍ノ件
右 謹テ裁可ヲ仰ク
  明治廿八年三月十八日
    内閣總理大臣伯爵 伊藤博文
A10112450600-1
〔画像〕A10112450600-1

明治廿八年三月十四日
 内閣總理大臣 博文 賞勲局副總裁 印
布哇國ホノルル府駐在英吉利國
外交事務官總領事アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス
勲等進叙之儀
右ハ曽テ十四年間我海軍省ニ奉職シ
去ル十六年十二月勲四等ニ叙セラレ
觧雇後客歳現官ニ昇進シ
同府駐在ヲ命セラレ候者ニシテ
毎々懇親ヲ表シ同國在留帝國臣民ニ對シテモ亦
大ニ厚情ヲ盡シ候旨ヲ録シ勲等進級ノ義
同國駐在総領事兼外交事務官藤井三郎ヨリ申立候儀
御報酬ノ聖意ヲ表彰被為遊
外務大臣奏請之通此際
勲三等瑞寶章叙賜被仰出可然裁
此段允裁ヲ仰ク
A10112450600-2
〔画像〕A10112450600-2

布哇國ホノルル府駐在英吉利國
外交事務官總領事
アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス
義ハ曽テ十四年間我海軍省ニ奉職シ
去ル明治十六年十二月十二月勲四等ニ叙セラレ
旭日小綬章ヲ下賜リ
解雇後客歳ニ於テ
現官ニ昇進シ
同府駐在ヲ命セラレ候而シテ
同國ニ外交官ヲ在勤セシムルハ帝國ノ外
英吉利・亞米利加・葡萄牙 及 佛蘭西ノ四ケ國ニ有之
亞米利加ハ常ニ他ニ異ナルノ位置ニ立チ
葡萄牙・佛蘭西ハ布哇國ノ事情ニ格別配意セサル景况ニ付
政事上ノ點ヨリ觀察スレハ帝國外交官ト英吉利國外交官トハ
互ニ相提携セサルヲ得サル勢ニシテ
今後交際ヲ益々親密ニスルハ極メテ必要ニ有之
同人ニ於テハ毎ニ懇親ヲ表シ
同國在留帝國臣民ニ對シテモ亦
大ニ厚情ヲ盡シ候㫖ヲ以テ
勲等進級ノ義
同國駐在總領事兼外交事務官藤井三郎ヨリ申立候
就テハ同人着任後日尚淺ク候得共
外交上都合モ有之候間
此際三等
A10112450600-3
〔画像〕A10112450600-3

ニ進メラレ
瑞寶章ヲ下賜リ候仕度此段
謹テ上奏ス
明治二十七年三月十一日
  外務大臣子爵 陸奥宗光
A10112450600-4
〔画像〕A10112450600-4
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レファレンスコード A10112450600
概要 件名 英国外交事務官総領事
      アルヘルド、ジヨルヂ、シドニー、ホウス勲等進級ノ件
【 画像数 】4
作成年月日 明治28年3月11日~...
作成者   内閣総理大臣伯爵伊藤博文
組織暦   内閣
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野英之助の実父:英海軍のA.G.S.ホース大尉》
《小野英之助の実父:アルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ》
《小野英之助の養父:小野義真》

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月06日 08:25 ◆小野義真 小野英之助
[小野義真の息・小野英之助と英之助の嗣子・小野鶴太郎]
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《小野英之助の実父:英海軍のA.G.S.ホース大尉》

《小野英之助の実父:英海軍のA.G.S.ホース大尉》

《小野英之助の実父:アルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ》
《小野英之助の養父:小野義真》

鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」
2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その2
2008-11-19 06:28:10 | Weblog
『横浜周辺外国人遊歩区域図』を作成したのは、
英海軍のA.G.S.ホース大尉。
このホース大尉は、後に、あの有名なアーネスト・サトウとともに、
『日本の中部・北部旅行案内』を編集した人物だという。
この区域図が作成された年代は、
1867年(慶応3年)末か
翌年(1868年・明治元年)初頭のことであるらしい。
作成者である「A.G.S.ホース大尉」については、
『明治日本旅行案内 東京近郊編』
(アーネスト・サトウ編著・庄田元男訳:東洋文庫/平凡社)の
解説(庄田元男)に、その略歴が触れられています。
それによると、「A.G.S.ホース」とは
アルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ
(天保12年(1842)~明治30年(1897))のこと
(ということは、この区域図を作成した時、
彼はまだ25歳ほどの青年であったということになる)。
『明治日本旅行案内 東京近郊編』は、
サトウとこのホーズの共編著による。
ホーズは、英国海軍大佐であったエドワード・ホーズの息子として
1842年(天保12年)に生まれました。
英国海軍学校を卒業した後、
彼は英国軍艦セヴァーン号に乗務して東インド方面へ赴き、
ついで英国艦隊旗艦ブリンセス・ロイヤル号に移って、
英仏米蘭の四ヶ国連合艦隊の兵庫遠征(下関遠征?─鮎川)に参加。
1869年(明治2年)に自己都合で退役し、
それ以後、肥後熊本藩・工部省・海軍省に、
お雇い外国人として1884年(明治17年)まで勤務。
その後、アフリカのイギリス領ナイアサ、
フランス領ソシエテ諸島、サンドウィッチ諸島で領事となり、
1894年(明治27年)には
ハワイ国ホノルル府駐在総領事に就任しましたが、
1897年(明治30年)にヒロ島訪問中に死去。
軍葬によってホノルルに埋葬されたという。
日本滞在中はアーネスト・サトウと親交を結び、
「日本アジア協会」に所属して登山や競馬などを楽しんだらしい。

また日本の女性との間に生まれた男子は、
明治の大実業家小野義真(ぎしん)の養子になったという。

日本政府は、このホーズを日本海軍の父として評価し、
勲三等瑞宝章を与えている、とある。 ※別稿に記載
 ―略―
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【小野梓】明治30年(1897)12月12日発行
時に、明治廿八年二月十日東京專門學校は
一月二十七日校友大會の決議に依り、
君の十週年追悼會を同校大講堂に開き
式後牛込通寺町求友亭に其遺族を招待しぬ、
當日式場の光景は左の如し。(中央時論に依る)
『故小野梓先生十年追悼會』
 ―略―
廿八年二月十日正午より知音の士發企となり、
我東京專門學校、主動となり、
本校大講堂に於て莊嚴なる追悼會を營みたり、
 ―略―
午後一時に至るや合圖の第一鐘に誘はれて學生入場し、
第二鐘に先生の義兄小野義眞氏並に同氏の令嗣同英之助氏、
先生の令嬢、次て先生の知音にして…
開式に當り本校より郷里土佐宿毛の未亡人にあてゝ報道したる
其返電等を報告し、
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月06日 08:25 ◆小野義真 小野英之助
[小野義真の息・小野英之助と英之助の嗣子・小野鶴太郎]
[小野英之助氏](626 頁以下の写真のキャプション)
小野義眞翁の息。
明治4年(1871)生。
明治29年(1896)東京専門学校英語専修科卒業。
同年(明治29年(1896))冨山房入社。
明治38年(1905)父君義眞翁死去後退社。
明治45年(1912)2月16日歿。
嗣子鶴太郎氏は、
大正15年(1926)東大農学部卒業後直ちに帝室林野局奉職、
昭和8年(1933)退官、出版を志し、神田小川町に秋豊園を興し、
今日に至る。
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[大東亞共榮圏各國首腦者]【官廳・團體職員録 : 官廳之部. 昭和18年12月1日現在】

[大東亞共榮圏各國首腦者]
【官廳・團體職員録 : 官廳之部. 昭和18年12月1日現在】

【官廳・團體職員録 : 官廳之部. 昭和18年12月1日現在】
 同盟調査部資料班編
 官廳・團體職員錄(官廳之部)
 【昭和十八年十二月一日現在】
 社團法人 同盟通信社

[大東亞共榮圏各國首腦者] p26-27/44

滿 洲 國
 國務總理大臣     張 景 惠
 國務院總務長官    武部 六藏
  軍事部大臣     邢 士 廉
  民生部大臣     于 靜 遠
  外交部大臣     李 紹 庚
  經濟部大臣     阮 振 鐸
  司法部大臣     閻 傳 紱
  文敎部大臣     盧 元 善
  興農部大臣     黄 富 俊
  交通部大臣     谷 次 亨
 尚書府大臣      袁 金 鎧
 宮内府大臣      熙   洽
 參議府議長      臧 式 毅
 祭祀府總裁      橋本虎之助

中 華 民 國
 主 席        汪 兆 銘
  行政院院長     汪 兆 銘
  副 院 長     周 佛 海
   秘書長      周 隆 庠
  内政部長      梅 思 平
  外交部長      褚 民 誼
  財政部長      周 佛 海
  陸軍部長      葉   蓬
  海軍部長      任 援 道
  司法行政部長    羅 君 強
  敎育部長      李 聖 五
  實業部長      陳 君 慧
  建設部長      陳 春 圃
  宣傳部長      林 柏 生
  社會福利部長    丁 默 邨
  糧食部長      顧 寶 衡
  銓敍部長      趙 毓 松
 立法院院長      陳 公 博
 考試院院長      江 亢 虎
 司法院院長      溫 宗 堯
 監察院院長      梁 鴻 志
 軍事委員會委員長   汪 兆 銘
     總參謀長   鮑 文 越
 華北政務委員會委員長 王 克 敏

蒙古聯合自治政府
 主 席        德王(德穆楚棟魯晋)
  副 主 席     李 守 信
  同         于 品 卿
  參議府名譽議長   楊   森
  參議府議長     卓特巴札普
  政務院院長     呉 鶴 齡
   總務廳長     武内 哲夫
   内政部長     丁 其 昌
   經濟部長     田 汝 弼

泰 國
 攝政府主席      アーチツト・テイパアパー
   首 相      ピプン・ソンクラム
   國防相      ピチツト・クリアンサツク
   内 相      ルアン・プロム・ヨテイ
   外 相      デイレツク・チヤイヤナム
   藏 相      ポリバン・ユタキツト
   法 相      タムロン・ナワサワツト
   文 相      ナイ・ドウアン・プンナク
   農 相      ルアン・シン・カモラナウイン
   産業相      ヴエチヤヤン・ランシツト
   商 相      モンムルアンデ・サニオン
   交通相      ルアン・セリ・ロアンリツト
   厚生相      ルアン・チヤウエン・サツクテイ・ソンクラム
   (註)無任所相、副大臣、大臣代理は略す

ビルマ國
 國家代表       バー・モウ
  首   相     バー・モウ
  副 首 相     タキン・ミヤ
  國 防 相     オン・サン
  内   相     ウ・バ・ウイン
  外   相     タキン・ヌー
  財 務 相     ウ・セツト
  法   相     ウ・テイン・モン
  収 税 相     ウ・エ
  敎育保健相     ウ・ラ・ミン
  農   相     タキン・タン・トン
  商 工 相     ウ・ミヤ
  交通灌漑相     タキン・レイ・モン
  林 務 相     ウ・ラ・ベ
  厚生宣傳相     バンドラ・ウ・セイン
  協 力 相     ウ・トン・アウン
  土木復興相     タキン・ルン・バウ
  樞密院議長     ウ・トウイン

比島共和國
 大 統 領      ホセ・ベー・ラウエル
  内 相(兼)    ホセ・ベー・ラウエル
  外   相     クラロ・エメ・レクト
  財 務 省     アントニオ・デ・ラス・アラス
  法   相     テオフイロ・シソン
  農 商 相     ラフアエル・リヴアス・アルナン
  敎育厚生相     ホルヘ・ホコボ
  土木交通相     キンテイン・パレデス
  内閣書記官長    フランシスコ・ラビデス
  國民議會議長    ベニグノ・エス・アキノ
  大審院長      ホセ・ユー・ロー

ジ ヤ ワ
  中央參議院會議議長 スカルノ
    副  議  長 クスモ・ウチヨ
    同       ブンタラン・マルトモトジヨ

自由印度假政府
 主  席       スバス・チヤンドラ・ボース
  軍事部長 (兼)  スバス・チヤンドラ・ボース
  外務部長 (兼)  スバス・チヤンドラ・ボース
  財 務 部 長   アニール・チヤンドラ・チヤタージ
  宣 傳 部 長   スビアル・アパデユライ・アイヤー
  婦 人 部 長   スワミダオ・ラクシユミ
  書 記 官 長   A・M・サハイ
  最 高 顧 問   ラス・ビハリー・ボース
 (註)無任所相は略す
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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女性の心をひく『美髪師』と『美容術師』【職業婦人物語】昭和4年

女性の心をひく『美髪師』と『美容術師』【職業婦人物語】昭和4年

【職業婦人物語】昭和4年
 一二、女性の心をひく『美髪師』と『美容術師』 p146-151/182
一口に髪結ひと謂つて、
何だか下司な商賣ででもあるやうに思つて居るものもあるが、
今日では立派な『美髪師』といふ名前で、
収入の多いことにかけては、
他の何に比べても餘りひけをとらない。

全國で二四、七〇〇人、
東京だけでも九、一八〇人の髪結ひが、
多くは結構な門戸を張つて居るが、
張つて居ないまでも
懐ろ具合のよささうな暮らしを立てて居るのでも解る。

世間では『髪結ひの亭主は大抵は遊び人』とよく謂ふが、
別に、髪結ひさんが、遊び人を特に好いてゐる譯でもあるまい。
實を謂へば四十づらを下げた男一匹が、
遊び人がコツコツ働いても、
女房の髪結ひ錢の上り高にも追付かないやうでは、
土臺、恥づかしくつて働けもすまいじやないか。
自棄くそ半分で、
つい家の中に寝ころんで莨でも吹かしてゐるか、
八公熊公と一所になつて賽ころでも轉がして居たくなる譯である。

髪結ひで金になるのは、
何と謂つても花柳界を控へた場所であらう。
客足も多いし、お祝儀もはずむ。
客足といつても藝者が大部分であらうから、
待合のお座敷で今朝がたせしめて來た小使から、
五十錢玉の二つや三つ餘計にほうり出すのは何でもあるまい。
だから、斯んな場所で『あの髪結ひさんは』
と評判をとるやうにでもなれば、
それこそ大變な収入にならうと謂ふものである。
假令(たとへ)、亭主が法學士高等官三等でも、
仲々女房の上り高には追付かない。

京橋あたりの一流の髪結は、
徒弟の六、七人から十人も使用して、
月収四、五百圓から千五百圓に及ぶものもあり、
現に數十萬の身代を拵へ上げたなどといふ
豪氣な話もある位であるから、
どうです、希望者は看板に偽りのないところをさあさあ、
見に行つたり行つたり。

東京市内で一流と稱せられる髪結ひは左のやうな者である。
 桑原千代子(京橋區宗十郎町十一)
 伊賀とら子(京橋區宗十郎町十)
 關口文子 (京橋區南金六町十四)
 佐藤あき子(下谷區數寄屋町十三)
 大澤たけ子(京橋區日吉町十二)
 丹羽かく子(下谷區同朋町十)
 池田つま子
 荒木とき子(麴町區山元町一ノ九)

髪結ひになるには、
傳手(つて)を求めて三年乃至五年間、徒弟に住み込むか、
學校組織の養成所に入つて修業するかの二つの方法がある。
一通りの技倆になるには三年はかかるから、
出來ることなら傳手を求めて良い先生につき、
梳き手から仕上げてゆく方が確かな腕になる。

 學校組織の主なる養成所は次のやうなものである。
▼東京婦人美髪美容學校(東京市本郷區お茶の水)
 科 目     期 間   卒業迄の合計
 本 科    一ケ年卒業  百七十四圓廿二錢
 普通科    五ケ月卒業  六十二圓九十五錢
 速成科    三ケ月卒業  四十四圓九十五錢
 研究科    一ケ月卒業        九圓
 島田髪研究科 一ケ月卒業    十五圓三十錢
 洋髪科    一ケ年卒業   二十一圓五十錢
※略:授業料と校費・材料及敎科書・消耗品費
▼東京女子美髪學校(東京市牛込區水道町三二)
▼大場理髪館婦人部(東京市芝區櫻田町本郷町十四)
▼高木美髪學校(東京市小石川區表町九十一)
▼巴里院美粧美髪學會(麴町區有樂町三ノ一 日比谷五番館内)
▼和洋女子整容學院(麴町區土手三番町七)
▼大阪美髪女學校(大阪市東區玉造東雲町)
▼名古屋美髪學校(名古屋市中區春日町)
▼容儀美髪學校(大阪市東區)
▼美髪九十九學校(神戸市會下山町)
▼廣島高等美髪學校(廣島市材木町)
▼帝國美髪學校(下關市)
▼九州美髪學校(福岡市)
▼熊本美髪學校(熊本市藥園)

美髪と仕事の性質が共通であり
『整容』といふ言葉に含まれさうなものに
『美容術』がある。

美容術は、若い婦人と中年增の心を惹きつける職業である。

結婚前の賣り物に出て居る令嬢がたは謂うふまでもなく、
新時代の序曲を奏するモガたち、
そして亭主に飽かれ始めた中年增夫人、
如何にすればそのかむばせと姿とを
實力以上に誇張せんかを苦慮してゐる人たちにとつて
『美容術』とは、
まあ何といふ天來の福音であらうか。

佛國式マツサージ、ルロドボーテー、バイブレーター、カツプ、
いろいろのものを使つて顔全面から、
此の世で最も忌むべき
『醜』を取り除いてくれるといふのであるから、
誰れだつて嬉しからうではないか。

男でも嬉しい。
調髪に行つて眠りこくつてゐると、
夢うつつに柔かい繊細な肉體の感じが、
指の先から腦の頂邊まで、ぼけたように流れてくる。
足もとに若い女がしやがんで指先を、手頸を、ふんわりと握つて居る。

マニキユア、ガール
女は美爪術を施して居る。惡くはない。々々。
況んや女である。
美しく見せるための
總(あら)ゆる術を盡してくれるといふのだから、
美容術
師の出現が、女にとつて天來の福音でなくて何であらう。
呉服屋のシヨウインドウと、
お芋屋の行燈とに次いで、
かの女らの眼を射るものは恐らく此の美容術師の看板であらう。

美容術師といふのは廣義の謂ひかたであつて、
詳しく謂へば色々に分れて居る。
美顔術、美爪術、美裝術、化粧術、
そして美髪術までも含めるべきであるが、
美髪術だけは古い歷史もあるために、
今日獨立した一つの生業ちなつて居る。

それでも理想を謂へば美顔、結髪、気附、
と女一人を始めから終りまで綺麗に仕上げる
所謂『整容』を一手に引受けるのがほんとうである。

女と生れた甲斐には、
どれもこれも一度はやつて見たいし、
やらせても見たいものばかりである。
文化の進展と生活程度の向上につれ、
美容術こそは大いに將來ある職業として
推薦しうるものと思つて居る。

美容術師も美髪師と同じく、
家の中に引込んで仕事が出來る點が、
他の職業婦人に比して割が良い。
何しろ女として最も欲しがつてゐる
『美』を賣る商賣であるから、
之を購ふ方にとつても、
相當の出費を惜しいとは思はない。
大根の尻ツボに泥がついてゐても
二錢ぐらゐは値切らうといふ腹黑い女でも、
顔を綺麗にして貰ふのに値切るなどは金輪際ありつこはなし、
規定料金に割增を附けてニキビの一つも
餘計に取つて貰はうといふ覺悟は有(も)つて居る。

だから収入も相當なものがある。
開業匇々(そうそう)はいざ知らず、
二、三年も經つたら月収三百圓ぐらゐ稼ぎとるのは何でもない。
獨立開業をせないものでも、
美容院に雇はるれば、
食附で五十圓から七十圓は出さうといふ豪氣さである。

 美容術の標準料金は
  美顔術   一圓以上
  美爪術   一圓内外
  化 粧   一圓内外
  衣裳着附  二、三圓
  婚禮化粧  十圓乃至十五圓
  結 髪   一圓
となつて居る。
開業者の話によれば、
美容術といつても
單に美顔術や美爪術だけを心得て居るくらゐでは物足りない。
どうしても、所謂美容と共に、結髪もすれば、着附もする。
此の三拍子揃つた人でなければ
開業しても成績は上らないと謂つて居る。

三拍子揃へるには相當苦心が要る。
今日、美容術師となるには、
何とかして此の三つの術を覺えねばならぬ。
それには矢張り有名な開業者の許に
二、三年見習として住込むか、
或は學校組織の養成所に入つて學理、技術を修得するか
二者一を擇(えら)ぶべきである。

 左に主なる美容術師並に學校組織の養成所を掲記して見よう。
▼東京美容院(東京市京橋區南大工町一 北原十三男)
▼理容館(東京市京橋區竹川町十二 遠藤波津子)
▼資生堂美容術師養成部(東京市京橋區竹川町)
▼小口美容研究所(東京市外靑山原宿二一四 小口美智子)
▼艶粧館(東京市牛込區築土八幡町九 島田つや子)
▼艶粧館(東京丸ノ内ビルデイング  島田つや子)
▼丸ノ内美容院(東京丸ノ内ビルデイング内 山野千枝子)
▼銀座美容院(東京市京橋區銀座 早見君子)
▼女子整容大學園、日佛女子整容學校
 (東京市麴町區紀尾井町六 山本久榮)
  入學資格 本 科(高女、實科高女卒業者)
       研究科(右ノ本科卒業者)
  修業年限 本科、研究科 各一ケ年
  學  費 本科授業料 月額十五圓 材料費 月額五圓
▼巴里院美粧結髪學會(東京市麴町區有樂町三ノ一)
  入學資格 小學校卒業者、十五歳以上ノ女子
科別
美粧科 前期 敎授科目
       美顔術、化粧法、特殊化粧法
       剃刀法、電氣マツサージ、消毒法
       皮膚ノ生理衞生
       修業期間 一ケ月
       敎授料  十五圓
美粧科 後期 敎授科目
       美裝着付法、婚禮着付法、
       帶ノ結ビ方、洋裝着付法、
       營業法規、店舗經營法及廣告宣傳法
       修業期間 一ケ月
       敎授料  二〇圓
美爪術科   敎授科目
       マニキユーア、腕化粧法、
       ハンドモールデイング
       修業期間 十日間
       敎授料   五圓
▼マリー、ルウヰズ講習會(東京市麻布區霞町十七)
▼日本女子美容術學校(東京府下中野町中野六一〇)
  修業年限 (本科一年三ケ月 普通科九ケ月
         高等科六ケ月 專修科六ケ月)
  學  費 入學金二圓 授業料月額七圓 其他八圓
  入學資格 十五歳以上 尋常卒業者
▼和洋女子整容學院(東京市麴町區土手三番町七)
  修業年限 (本科六ケ月、全科速成科二ケ月)
  學  費 (本科月額七圓 全科速成科月廿五圓)
▼佐藤美容術研究所(東京市淺草區神吉町十一)
▼大阪美髪女學校美容科(大阪市東區玉造東雲町)
▼芝山美容女學校(横濱市住吉町)
昭和四年五月廿六日印刷
昭和四年五月廿八日發行
職業婦人物語 定價金壹圓八拾錢
著 者 前田 一
發行者 神原周平
    東京市牛込區天神町六番地
印刷者 小山作二
    東京市牛込區榎町七番地
發行所 東洋經濟出版部
    東京市牛込區天神町六番地
   電話 牛込(34)三三番 三四番
   振替 東京六五一八番
   私書函 牛込局第六號
日淸印刷株式會社印行
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月01日 13:22 ◆伊賀とら(登良) 大本教関連
[伊賀とら(登良)]伯母 松村正子(しょうこ)の母
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《山田直之介》滿洲重工業開發(株)参事【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年

《山田直之介》滿洲重工業開發(株) 参事
【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年

【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年
《山田直之介》 p727/950
 從七
 滿洲輕金屬製造(株)理事
 安東セメント(株)取締
 滿鮮杭木(株)監査
 滿洲鑛山(株)監査
 滿洲マグネシウム工業(株)監査
 滿洲鉛鑛(株)監査
 鞍山不動産信託(株)監査
 昭和自動車工業(株)監事
 新京特別市至善路一〇三
 電話(2)一八八二
〔閲歷〕
福島縣 三郎 長男
明治卅一年二月十一日生る
大正十年 神戸高商 卒業
大正十年 滿鐵に入り ※南滿洲鉄道(株)
地方部勸業課・興行部商工課・殖産部商工課・各勤務
地方部商工課輸入係主任・
總務部監理課商工係主任・同第二係主任等 歷職
昭和九年 命 參事 總裁室監査役を經て
滿洲重工業開發に轉じ
參事・財務部監査課長・總裁室監査課長等 歷職す
宗敎 淨土宗
趣味 音樂 英文學 陸上競技
〔家庭〕
妻  倭文子(明治二八年)
   愛媛縣 末光平十郎 長女
   京都 同志社女卒
長男 瑞穗(大正一五年)
   六高 在
長女 多見子(大正一三年)
   同志社女子專門 在
二女 明子(昭和二年)
   撫順高女 在
二男 啓介(昭和一〇年)

【人事興信録. 第13版(昭和16年) 下】
《山田直之介》 p861/1000
 ―略―

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《矢部潤二》滿洲重工業開發(株)顧問【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年

《矢部潤二》滿洲重工業開發(株) 顧問
【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年

【大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年
《矢部潤二》 p892-893/950
 正四勲二
 陸軍 主計中將
 中華煙草(株)副社長
 滿洲重工業開發(株)顧問
 上海特別市北海寗路六四
〔閲歷〕
石川縣 整の二男
明治十九年七月生る
經理學校卒業 任三等主計
昭和十三年七月 同中將に陞る
其間 本省經理局主計課長
臺灣軍・近衞師團各經理部長 被服本廠長 歷補
昭和十四年八月 豫備役被仰付
昭和十四年九月滿業に入り ※満州重工業開発(株)
顧問・總務部長事務取扱を經て
昭和十六年三月 現職
〔家庭〕
妻  菊枝(明治二五年)
   石川縣 蘆原春太郎 長女
嗣子  明(昭和三年)
長女  靜(大正七年)
二女 和子(大正一〇年)
三女 順子(大正一四年)
四女 雅子(昭和五年)
五女 進子(昭和八年)

【人事興信録. 第13版(昭和16年) 下】
《矢部潤二》 p808/1000
 ―略―
(東京市澁谷區幡ヶ谷本町三ノ三五一?)

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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