2019年07月

早竹虎吉(初代)ニューヨークで死亡・慶応4年1月15日(1868年2月8日):見世物興行年表

早竹虎吉(初代)ニューヨークで死亡・
慶応4年1月15日(1868年2月8日):見世物興行年表

見世物興行年表
明治1年
2014年01月03日
慶応四年/明治元年(1868年・戊辰)一
○一月十五日(西暦1868年2月8日)、
早竹虎吉がアメリカニューヨークで死亡。
(「内外新聞」/『日本人登場』)
「慶応四年戊辰五月 内外新聞・第七(七日毎に出版)
❍第四編に記せし軽業師寅吉が始末、
其慥(たしか)なる書面を抜粋して左に挙ぐ。
正月元日より興行せしに、二日、三日頃より寅吉発病して、
同十六日終ニ病死す。
※慶応4年1月15日(1868年2月8日)
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見世物興行年表
明治7年
2014年02月21日
明治7年(1874年・甲戌)一
○一月より、大阪難波新地溝の側にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(絵ビラより)

明治7年(1874年・甲戌)六
〈編者註〉
二代目虎吉は初代の実子、養子、兄弟、弟子の諸説があって一定しない。
ここでは弟(実弟か義弟かは不明)といっている。
上記省略文中に、二代目虎吉は「堂々タル六尺体躯ノ輩」とあり、
長身であったことが分かる。
 〈編者註〉二代目虎吉
〔画像〕〈編者註〉二代目虎吉
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見世物興行年表
明治8年
2014年02月28日
明治8年(1875年・乙亥)二
○一月九日より、東京神田五軒町九番地にて、
二代目早竹虎吉の軽業が再開される。

明治8年(1875年・乙亥)四
○五月七日より、東京両国回向院にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(「あけほの」5・7、5・14)
「大坂登りの軽業師二代目早竹寅吉早竹福太郎の両人、
両国回向院にて本日より前代未聞の大軽業を興行するよし。
前代未聞に当(あたる)か知れんといふことなり」(5・7)
〈編者註〉若太夫は早竹福太郎(八歳)。
演じたのは旗竿の曲(吹流し・鶯の谷渡り・大の字など)、行燈渡り、
蜘蛛の巣がらみ、獅子の子落しなどで、
ここでも初代虎吉の芸をそのまま演じ、好評を得ている。

明治8年(1875年・乙亥)六
○七月十六日、東京築地延遼館にて、外国人饗応のため、
早竹虎吉の軽業や太神楽を見せる。(郵便報知新聞7・15)
「明十六日、築地延遼館にて、外客を饗応せらるゝとて、
軽業師早竹虎吉始め太神楽などの諸芸人を召し、
御馳走の品々は精養軒へ命ぜられたりと。
河村海軍大輔も臨席の由なれば、
該客は多分英国副水師提督ライトル氏外数名なるべしといふ」
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見世物興行年表
明治15年
2014年04月18日
明治15年(1882年)三
○四月、京都四条北劇場にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(西京新聞3・7、3・12、4・9)
「新京極で曩頃中ヨイサテと流行した軽業師竹沢万治は、
此度故人で有名なりし早竹虎吉の芸名を相続し
二代目早竹虎吉と改名したので、
近々に四条北側劇場にて名弘(なひろめ)初お目見[得]の
軽業及び初代虎吉が得芸(おはこ)の独楽曲を数々興行するとの
サア評判じや〳〵」(3・7)
「新京極で曩頃中々と(シカジカ)云第千四百九十六号に載せた
竹沢万治が二代目早竹虎吉と改名の一件は大間違だと
北側劇場の興行元とか勘定方とか結髪のある男や
脊高男杯が当社に来り
囂々然(がやがやぜん)蝶々乎(てふてふこ)として弁解には、
全く二代目早竹初代虎吉の弟福松が兄の芸名を相続して
此度興行するのですと云ひ
升から看客(みなさん)へ一寸」(3・12)
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見世物興行年表
明治17年
2014年05月02日
明治17年(1884年)三
○二月十四日より、大阪千日前にて、早竹(早綱)鯉之助安五郎の軽業。
(「此花新聞」2・16/朝日新聞2・15)
「軽業師の名人とまで聞えたる早竹虎吉は、先年洋行したるが、
彼地にて病死したる後、
同人の弟子早竹鯉之助同安五郎の両人は去る明治九年より英国に渡り、
同国にて名技の伝習を受け、遂に昨冬帰坂したるが、
一昨年[編者註:一昨日の誤記か]より南地千日前にて軽業の興行を始めたり。
其興行中、最も見物の膽を寒(ひや)したるものは、
索(つな)の上へ椅子を乗せ、其上にて種々の芸を為し、
又は自転車に乗て索を渡る等なり。寔に驚き入る計りとの評判」(此花)

「二三日前より千日前にて興行せる軽業師早綱鯉之助といふは、
一昨年米国人に雇込まれて彼国に航し、
處々興行して昨冬帰国せしものなるが、
航海中に覚えて来りし種々の奇芸を演ずるうちにも、
一條(ひとすじ)の索(なわ)を宙に引き、其上に椅子を置き、
之に腰をかけて遂に両脚を放し、
椅子の上にて自在に身(からだ)を運転すると。
又其索(なわ)の上を二枚歯の自転車にて渡るには頗る目新しく、
見るものをして覚えず喝采の声を発せしむるといふ。
人智の開達と共にかゝる遊技も追々奇巧に奇巧を加へて
世人の目を驚かすに至るも亦文明の余沢なり」(朝日)
〈編者註〉
自転車による綱渡りはすでに明治十五年七月、
横浜でフランス人ブロンドが演じているが、
日本人としては彼らが最初であろう。
この頃の日本では自転車そのものがまだ珍しく、
記事の文面通り外国で習得してきたことは間違いない。
この芸は大いに受けたと思われる。
なお早竹虎吉の弟子云々に関しては
「朝日」が早綱としていることなど、不確かな部分が多い。
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見世物興行年表
明治20年
2014年05月23日
明治20年(1887年)五
○六月一日より、大阪千日前東側の大小屋にて、三代目早竹虎吉の軽業。
(大阪日報5・29) 
「…(千日前)東側の大小屋手品、鞠、曲乗の跡へは、
桑港戻りの三代目早竹虎吉の軽業を出し(後略)」
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見世物興行年表
明治22年
2014年06月13日
明治22年(1889年)六
○七月二十五日より三十日間、東京日本橋区中洲町にて、
二代目早竹虎吉の軽業。
(郵便報知新聞7・24/東京朝日新聞8・14)
「先代の虎吉は、先年外国へまで渡航して軽業を興行し大に喝采を博したるが、
今度二代目の早竹虎吉久々にて上京し、
明二十五日より向ふ三十日間、中洲町に於て興行する筈なり。
同人は初代の形を其の儘大道具大仕掛けにて技倆を奮ひ、
此の興行を終りし上は直に外国に渡航して、
外人の耳目を驚かさんとの決心なりと」(郵便報知)

「昨今中洲にて興行中の早竹虎吉が軽業は自転車の針かね渡り、
鍋島猫騒動、猫の宙乗り其他佐倉惣吾等の曲芸を
大道具大仕懸にて見するよし」(東京朝日)

明治22年(1889年)八
「[広告]西洋大軽業興行 今回両国回向院境内に於て 
早竹虎吉三十三回に付 正午十二時開場同五時迄、
同六時開場同十一時限、晴雨共昼夜二回興行仕候 
最上等椅子付御一人前金三拾銭、上等同貮拾銭、中等同拾銭、下等同五銭。
 早竹一座」(東京朝日11・14)

「両国回向院にて興行中なる早竹虎吉の連中は、
本日と明日に掛け数万枚の切符を 諸人に与へ、
新発明の芸十八番を残ず演(し)て見せると」(東京朝日12・7)

「ことぶき座へ軽業師の早竹虎吉が俳優に成て出勤し、
葛の葉を一幕お目見え狂言に出すといふことは
前号に記載(かきのこせ)しが、
俳優連に於て早竹の出勤に苦情があり、
終に早竹は出勤せぬことになり、
夫ゆゑ葛の葉はおヂヤン」(東京朝日12・19)
〈編者註〉
初代早竹虎吉が死亡したのは慶応四年(明治元年)だから
三十三回忌はおかしい。
また初代の法要をしようとした虎吉初代の関係が、
兄弟なのか弟子なのか、いまだにはっきりしない。
さらには虎吉を名乗る人物が複数いた気配もある。
それはともかく、「二代目早竹虎吉」はこの年表にも多く登場し、
初代同様の大掛りな軽業を演じて、
日本各地で活躍し、好評を得ていることは事実である。
ところで、初代は国姓爺の虎の役で
尾上多見蔵と歌舞伎の舞台に上ったことは有名な話だが、
この虎吉にも葛の葉の話がきた。
しかし残念ながら昔気質な役者連中の横槍が入り、
オジャンになってしまった。
「文明開化」のかけ声はここまでは届かなかったようだ。
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「早竹虎吉:Haytaka Torakichite」軽業師竹沢万次の謎を追う:深沢正雪記者・ニッケイ新聞BRASIL

「早竹虎吉:Haytaka Torakichite」軽業師竹沢万次の謎を追う
:深沢正雪記者・ニッケイ新聞BRASIL

JORNAL ニッケイ新聞 連絡先
RUA DA GLORIA, 332, LIBERDADE, 
CEP 01510-000, SAO PAULO – SP, BRASIL
TEL +55(11)3340-6060

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=
幕末の軽業二名人が伯国に?
 『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)
(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』
(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連邦大学)には
次のように書かれている。

 《「Haytaka Torakichite」は、
1854年に大阪で生まれ、 ※1854年(嘉永6年・安政1年)
12歳でロンドンに向かい、 ※1866年(慶應2年)
そこで「Frank Olimecha」と名乗るようになった。
欧州、米大陸を巡業して回り、
1888年に ※1888年(明治21年)
イギリス人道化師フランク・ブラウンと共にブラジルに到着。
ブラジルではマヌエル・ペリ、フレデリッコ・カルロ、
アフォンソ・スピネリ、ポデスタ、ホルメル、シグリらと共に働いた。
1909年に ※1909年(明治42年)
フランキは自らのサーカス団「オリメチャ」を創立し、
全伯を巡業した。子どもたちは素晴らしい芸人に育ち、
サーカス団を長い間支えた》

 前節のルイス論文にあるように
フランキの渡伯が1883年(明治16年)で、
前述のようにペリ・サーカスに参加していたのであれば、謎が一つ解ける。
 エスタード紙初の日本人軽業師広告、
1886年2月28日付で ※1886年(明治19年)
「ペリ・サーカス」(Circo Pery)の
「40の手のひら怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)」という演目は、
おそらくフランキ・オリメシャが披露したものだろう。
 では、この「Haytaka Torakichite」とはいったい何者か――。
調べてみたら、とんでもない有名人、大物に突き当たった。
なんと〃幕末の軽業二名人〃と呼ばれた有名曲芸師に、
「早竹虎吉」(生年未詳―1868年2月8日、京都)がいたのだ。
          ※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
 歴史系総合誌「歴博」第118号によれば、
《早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大阪を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、その人気は一世を風靡した。
虎吉の得意としたのは〃曲差し〃と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである》
 そんなスーパースターがブラジルに移住していたことなど、
ありえるのだろうか…。
 ウィキぺディア頁があるほどの有名人であり、それによれば、
虎吉は1867年8月24日、
  ※1867年8月24日(慶應3年7月25日)
一座約30人を率いてアメリカに渡航した。
ただし、サンフランシスコを振り出しに、
サクラメント、ニューヨークなど米国各地で興行し、
フィラデルフィアでの公演終了後、
突如体調を崩して1868年2月8日に心臓病で客死した。
       ※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
 その後、1874年に実弟が二代目早竹虎吉を襲名し、
     ※1874年(明治7年)
東京で大評判をとったとの記述があり、
二代目もブラジルに移住したとは考えにくい。
 つまり、この「Haytaka Torakichite」
本人がブラジルに来たという話もまた、
「ブラジルの竹沢万次」同様に、どうも〃本家筋〃ではなさそうだ。
 カルバーリョ論文では
「Torakiche Hayataka」本人がブラジルに来たことになっているが、
前節紹介したマルタ論文では
「フランキ・オリメシャ」はその〃子供〃になっていた。
後者の方がまだ整合性がありそうだ。(つづく、深沢正雪記者)

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=
一世紀半も受け継がれる家=第17回
 ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、
同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。
 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した
子供芸人ではないかと思える。
 それならば、渡伯時の1888年(明治21年)に34歳の働き盛りだ。
海外興行の生活を続けてブラジルまで流れ着き、
長い巡業生活を経て、ここに定住したと考えるのが妥当ではないか。
 ―略―
(つづく、深沢正雪記者)
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※下記6名:1872年(明治5年)時点 米国在留
※年齢:1869年(明治2年巳年)時点
第56号《八百吉》虎吉長男29歳 1869-29=1840(天保10年)
第57号《安次郎》虎吉次男17歳 1869-17=1852(嘉永5年)
第58号《市松》 虎吉三男14歳 1869-14=1855(安政2年)
第59号《とよ》 虎吉長女12歳 1869-12=1857(安政4年)
第62号《由松》 豊吉長男11歳 1869-11=1858(安政5年)
第66号《勝之助》
 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
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国立歴史民俗博物館
歴史系総合誌「歴博」第118号
連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
■サーカスの夜明け-軽業芸人の海外交流
早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大坂を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、
その人気は一世を風靡した。

虎吉の得意としたのは"曲差し"(きょくざし)と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである(図1)。
 ―略―
一方、虎吉の一座をはじめ、
鉄割福松(かねわりふくまつ)一座(図3)、
鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座(図4)など、
日本で人気を勝ち得た軽業芸人たちが、
時を同じくして競い合うようにして渡航した。
ちなみにこの間、ニューヨークでは、
この中の鉄割一座の人気若太夫と
帝国日本芸人一座の隅田川一座の女三味線弾き登宇(とう)とが
密会していたのがばれ、
鉄割一座が詫状を入れるという色恋沙汰も起き、
見世物史に興を添えている。
その後、ロンドンにて登宇と濱碇定吉との間に女子が誕生。
『ロンドン・タイムス』は、日本国外で誕生した初めての日本人、と報じた。
 ―略―
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

日本野球最古の記録か 1872年(明治5年)に米国で試合、記事発掘:日本経済新聞

日本野球最古の記録か 1872年(明治5年)に米国で試合、記事発掘:日本経済新聞

日本経済新聞
日本野球最古の記録か 1872年に米国で試合、記事発掘
2019/7/18 17:49
 ―略―
見つかった記事によると、
日本チームは全米を巡業していた
「ロイヤル江戸劇団」という軽業師の一団で、
72年6月7日、 ※明治5年5月2日
ワシントンで大リーグの前身にあたる
ナショナル・アソシエーション所属の地元球団オリンピックスと対戦した。
野球は巡業中に習ったとみられる。
19世紀に発行されていたナショナル・リパブリカン紙が掲載した
5イニングの試合経過によると、日本チームは17-18と健闘している。
 ―略―
当時の記録によると、ロイヤル江戸劇団は子供を含む十数人で編成され、
英国人興行師に連れられて71年に横浜港を出発。
※下記写真:全13名:1869年10月(明治2年9月)横浜港 出発
西海岸サンフランシスコから東に移動しながら軽業を披露した。
各地の新聞に巡業の広告が掲載され、
「ゲンジロウ」や「キンジロウ」といった名前も出てくる。

米国滞在中の集合写真が残っており、ちょんまげの男性も。
 ―略― 〔共同〕
 全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」
全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」(サナトス・アーカイブ提供)=共同
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[早竹虎吉]※初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早竹 虎吉(はやたけ とらきち、
生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、
幕末期の曲芸師、軽業師である。京都生まれ。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、
虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した[6]。
翌月にサンフランシスコに上陸。
その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した[8]。
※恐らく、下記の虎吉が二代目虎吉。
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※以降、小野一雄作成
撮影日:1871年 7月(明治4年6月)以前
全13名:1869年10月(明治2年9月)横浜港 出発
年 齢:1869年(明治2年巳年)時点
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[本官勘合帳 外国官一号]原本:第49号~第102号
①第54号《虎吉》49歳
②第55号《奴伊》虎吉妻43歳~第60号《と免》虎吉次女5歳?
③第61号《豊吉》38歳~第66号《勝之助》
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下記7名:1871年7月(明治4年6月)帰朝 免状返納①②③記載
第54号《虎吉》 49歳
第55号《奴伊》 虎吉妻43歳(ぬい)?
第60号《と免》 虎吉次女5歳?
第61号《豊吉》 38歳
第63号《萬吉》 30歳
第64号《嘉な》 萬吉妻
第65号《角之助》
下記6名:1872年(明治5年)時点 米国在留
第56号《八百吉》虎吉長男29歳
第57号《安次郎》虎吉次男17歳
第58号《市松》 虎吉三男14歳
第59号《とよ》 虎吉長女12歳
第62号《由松》 豊吉長男11歳
第66号《勝之助》
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[航海人明細鑑3]原本:表紙・p001~p009
第56号《八百吉》虎吉長男29歳(33歳)※( )明治5年(1872)
第57号《安次郎》虎吉次男17歳(21歳)※( )明治5年(1872)
第58号《市松》 虎吉三男14歳(18歳)※( )明治5年(1872)
第59号《とよ》 虎吉長女12歳(16歳)※( )明治5年(1872)
第62号《由松》 豊吉長男11歳(15歳)※( )明治5年(1872)
第66号《勝之助》
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SANSPO.COM
2019.7.19 05:00
日本人の野球プレー最古記録発見か これまでより早い1872年に米国で
 日本野球、最古の記録発見か:サンスポ
1872年の米紙「ナショナル・リパブリカン」に掲載された
日本チームの野球試合のスコア=米議会図書館提供
※画像は削除されている
https://www.sanspo.com/baseball/news/20190719/bbo19071905000001-n1.html
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東京新聞:TOKYO Web
2019年7月18日 夕刊
最古?侍ジャパン 新聞に記録 1872年、米で軽業師一団
 「ロイヤル江戸劇団」
全米を巡業していた「ロイヤル江戸劇団」=サナトス・アーカイブ提供
日本チームの野球試合のスコア
1872年の米紙「ナショナル・リパブリカン」に掲載された
日本チームの野球試合のスコア=米議会図書館提供
https://www.tokyo-np.co.jp/article/sports/list/201907/CK2019071802000342.html
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[誓願寺綠起の考證]太良未・太文賈古子【日本文化と仏教】谷本富著・大正11年

[誓願寺綠起の考證]太良未・太文賈古子
【日本文化と仏教】谷本富著・大正11年

【日本文化と仏教】
  天智天皇を奉讃す p21/207
    壹
 今茲に突然天智天皇を擔ぎ出したからとて、
何も正月否一月に間近く成つたので、
歌かるた遊びの『百人一首』を思ひ浮べての事では厶(ござ)らぬ。
實は本年は(大正九年)天皇崩後
恰も御千二百五十年に相當する由で、
去る十二月三日の御正忌を以て、
昔天皇の御本願に由つて創建せられたと言ひ傳へて居る、
京都新京極の淨土宗西山派四個本寺の一………
只今は分離獨立して一派を爲したる誓願寺に於て、
御法會が虔修せられ、
尚ほ記念講演會の開催せらるゝに方つて、
斯く申す拙者に、 ―略―
p21【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p21【日本文化と仏教】大正11年

…この惠隱は誓願寺の開基といふ傳がある。…
p27【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p27【日本文化と仏教】大正11年

 此の時に方つて我が誓願寺が最初
天智天皇の御本願に由つて大和に御建立遊ばされ、
後 桓武天皇の遷都に際して、
之に先んじて平安の新京の近くに移つたのだと聞いては、
實に天皇と佛敎との一方ならざる御因綠を明にし奉るべきものとして、
大に欣喜した次第である。
p28【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p28【日本文化と仏教】大正11年

  誓願寺綠起の考證 p29-33/207
     一
 従來天智天皇の御草創と謂はれて居る、
京都市新京極誓願寺の綠起は、太だ有名なるものである。
※京都市新京極誓願寺:下記
 ―略―
p29【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p29【日本文化と仏教】大正11年

p30【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p30【日本文化と仏教】大正11年

 ―略―
仍つて自分は更に研究の歩を進めたが中々分らない。
幾度か中止しやうと思つたが、
終に辛抱の甲斐あつて、
驚く勿れ『日本紀』崇峻天皇の元年春三月に、※588年4月
百濟國より貢進したものゝ中に、
寺工 太良未、太文賈古子の二人あり。
デラダクミのタラミ、タモンケコシと和訓してあるのを見て、
此の太文賈古子が卽ち賢問子芥子國と訛傳して
終に父子二人に分けられたのだと解つた。
或は太良未太文賈古子が父子なのを、
その言に習はない名前を混同轉訛したのだと謂つても差支ない。
とにかく是は一新發見の積りだが、
淺學寡聞既にさう見(た人があるかも知らぬ。)p32/207
p31【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p31【日本文化と仏教】大正11年

p32【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p32【日本文化と仏教】大正11年

 ―略―
乃ち未定ながら卑見では、
一説に誓願寺は昔一旦大和から山城相樂郡の木津附近に移つたので
其處に多少遺址が尚存して居ると云へば、
或は是れは初から大安寺の支院とか別院とか云ふ風で、
恰も大和の法隆寺と播磨の斑鳩寺との樣な譯合であり、
從つていつとなく兩寺綠起が一所に成つて
傳はつたのであらうとも思へる、
如何なものだらう。
p33【日本文化と仏教】大正11年
〔画像〕p33【日本文化と仏教】大正11年
大正拾壹年八月廿參日 印刷
大正拾壹年八月廿八日 發行 正價金三圓
著作者 谷本 富
發行兼 西村九郎右衞門
印刷者 京都市下珠數屋町東洞院西入
    橘町八番戸
印刷所 丁子屋書店出版部
發行所 丁子屋書店
    京都市下珠數屋町
    振替 東京四五九七
       大阪一〇二九〇

【読史の趣味】大正4年
著 者 萩野由之 著
出版者 東亜堂書房
  三九 飛行機で朝鮮海峡を横斷した賢問子 p144-148/241
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺
ご本尊と宝物
天智天皇は常に仏の心を求められ、
ある夜の霊夢(神仏のお告げ)により、当時仏師として名を馳せていた
賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)父子に
丈六(一丈六尺=4.85メートル)の阿弥陀如来座像の造立を命じました。
二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたのですが、
合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったと
伝えられています。
ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、
天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられました。
これらは春日大明神の本地(本来のお姿)であることから、
ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られました。
ところがこの阿弥陀如来像は度重なる火災で焼失してしまい、
現在誓願寺本堂に御本尊として安置されています阿弥陀如来像は、
もとは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)に
八幡神の御本地仏として安置されていた阿弥陀如来座像で、
神仏分離が行われていた明治2年、誓願寺に移安されてまいりました。
現在のこの阿弥陀如来座像は木造、寄木造布貼の丈六の座像で
平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代の頃の作と
見られています。
宗派名    浄土宗西山深草派(せいざんふかくさは)
総本山    京都 新京極 誓願寺(せいがんじ)
総本山所在地 京都府京都市中京区新京極桜之町453 
       (新京極通り六角下る)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[本誓願寺由来]本尊阿弥陀出来記:西岸寺・京都府船井郡京丹波町中台桜梅

[本誓願寺由来]本尊阿弥陀出来記
:西岸寺・京都府船井郡京丹波町中台桜梅
『西岸寺所蔵文書』


  本誓願寺由来
 本尊阿弥陀出来記
 並 和泉式部因縁記
      中臺村 西岸寺

当寺は人皇三十九代天智天皇の御願寺也
勅願の梵刹にして恭なくも慈悲万行の如来にして
春日大明神の御真作 霊験不可思議の尊容也
其濫觴を尋ぬるに
往昔 大和国添上郡奈良の郷において日域無双の良匠あり
其名を賢問子と号しける
かれ寔に思ひらくは 我今和朝に誉を得たりといへども
猶願くは名を大国に顕はさばとて既に大志を企て遠く

大唐に渡りけるに 彼の唐の帝 叡聞ましまして
外国の良工を唐土に止めん事を 財宝にて恩寵をし玉ふ事浅からず
されども彼 賢問子は古郷わすれがたき習いにて
時々帰朝の色さし見へければ 帝より止留の勅使 度々となり
然れ共 更にとゞまるべき気はあらざれば、
叡慮をめくらし給ひて たけき武士の心をもなびかさんには
色にしくはなしとて 美女を賢問子が妻女に給いける
されども猶わすれやらぬ日本の古郷なりければ
朝夕に彼の雲路を打ち詠め気情いやます也
然れば帝 猶堅く止め給わんとて浦々添々へと勅を廻し
頻に渡海を禁じ給ふ
誠に賢問子も力に及ばすして さんざんに思惟しけるに
此の上は舩 亦は筏に乗って海上を行くべき事 不叶
兎角 空をかける鳥ならでは 万里の蒼波を行く
[本誓願寺由来]1
〔画像〕[本誓願寺由来]1

べき力なしとて
深閨に引籠り工夫を廻して木を以て鳥を造り
飛行して帰朝すべき巧をなし
有時 妻に向ひ言いけるは 妹背(いもせ)の中も中々に
ふり捨てがたきなれ共 我 此度 故郷の事思い立めるなり
夢の浮世と言いながら 他生の縁は たがわじと
涙ながらに言いけるが 折しも彼女 美呑夫女は懐妊の身なるが
十月満ちて汝が産生(ナ)す子 女子なれば力及ばす
若し男子にてもあらば 父がしるしに是を残しおくべしとて
鑿(ノミ)を渡し女房 気にあへず
我諸共に行くべき旅の道ならねば
惜しみ なみだの袖をしぼり引別ける
賢問子 彼の鳥の腹に入て両手を以て両の翼を繰りかけりければ
恰も空を飛ぶ鳥の粧に異ならずして 万里の海上 雲路を渡り
日本の和洲 三笠山の辺に至りけるが
是偏へに彼の 諸葛孔明が木牛流馬を繰りしも
かくなる不思議の機

巧かな 此時 天智天皇五年丙寅に ※666年2月
    当る 唐の乾封元年成る  ※唐の乾封元年:666年
賢問子 帰朝の后は 妻 美呑夫女
夫の行たる空を眺め明かし暮し
漸々日数かさなり 独りの男子生ず
此子成人するにしたがい 十一才に及んで
我 父はと尋ねる時に母 涙ながら昔物語り
これこそ父の形見とて一つの鑿をあたひける
彼ノ子 是を聞くより やがて心に思ひ
立ち早くも扶桑に趣き彼の父に相奉り
箕襄の業を継がんと思ひ
母に頼み申様は 此ノ年月を汝独りを慰みまひらすに
今 日本へ行かば いつ帰り来るべき
万里の外を隔てなば相みん事も覚束なしと留めければ
中々志し堅固な
[本誓願寺由来]2
〔画像〕[本誓願寺由来]2

りければ
是彼 渡海を願ひ 主上 叡聞ましまして
親子対面孝心 思ひ入 実ニ理り神妙なり
然し四百余洲の大国と六十余洲の日本と
物になぞらひ くらぶれば 彼の日域の一島は
わずかに粟散島とて芥子ほどの小国なり
彼国へ渡さんと思い重ねなればとて
其名を芥子国と号せられ
既に一葉の船を造らせ水主 檝取まで相添え
水碧天にひたし 浪白雲に坂のぼり
蓬流万里の海上を日本へとぞ渡し給いけり
船路も時しあれば ほどなく日本の地に着けり
是より大和の国 奈良の里に至り
胎内にて別れし父の面顔 何をしるべと尋ねべき便あらねば
母の言いし言葉と 彼ノ鑿をしるしと ここかしこと
尋ぬる内 春日明神の前にて天性父子の縁 絶えざるにや
賢問子にめぐりあう

是 古の燕の太子 丹が本国に帰り
蘓武が胡国に趣て ※蘓武:蘇武?
二度漢家万里の に帰るが如し
不思議なりし事ども也
しかる時に
天智天皇は十善万乗の主と仰がれさせ給うと いえども
生死無常転変むなしく生涯を送ること いつか のがれ難し
妻子 珍宝及王位臨命 終時 不随者と聞く時は
栄花も何のかひあらんと おぼしめし
生身の弥陀如来にあひたく
春日明神に祈誓し給うところ
天智七戊辰時に告てのたまわく ※天智七戊辰時:668年2月
生身 弥陀 目前にあるなり
彼 賢問子 芥子国 父子也
彼等父子に あふせて彫刻あるべしと告給時に
彼両人を召して宣下給う
両人も親子証拠の為に
春日社の左右に別れ室を立て彫刻しける
此の浄室にて相互に半身の弥陀像をば
[本誓願寺由来]3
〔画像〕[本誓願寺由来]3

彫刻して 昼は一人の音と見しが 夜に入れば
斧鑿の響き数十人にきこひける故
諸人あやしみ壁の間より窺見るに
賢問子は六臂の地蔵菩薩
芥子国は六臂の観音菩薩にて
さて亦 無数の眷属は光を放て暗室は昼の如くに輝きけるが
日ならず彫刻造立の事おわり
父子各々半身の像 抱き来て 指し合ければ
兼て言い合せし如く 全体円満にして
毫髪のたがひなく 只一作の如し
天皇が叡感 余りに如来の御面相の裏には
忝けなくも宸筆を染め朱を以て六字の名号を記し給ひし
御腹心の内には五色をわかち五臓六腑をそなひ
十二経脈をつり 三世諸仏 依 念弥陀三昧成等
正覚の形を表し 頂上 肉髻の一相をかくし給ひしは
本より十却の昔 正覚なりし仏なれば
八万四千の相好悉皆円満し給う
弥陀如来なり
[本誓願寺由来]4
〔画像〕[本誓願寺由来]4
※転記・文責:小野一雄
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東京府京橋區宗十郎町【全国所得納税者姓名録】明治21年

東京府京橋區宗十郎町【全国所得納税者姓名録】明治21年

【全国所得納税者姓名録 : 一名・代議士撰挙の台帖. 
 第1冊(東京府十五区ノ部)】明治21年5月26日出版

全國所得納税者姓名錄 第壹冊 東京府十五區ノ部 p11/205

◉京橋區 明治廿年十一月現在 p77/205
宗十郎町  p86/205
 二番地  小野俊二
 四番地  伊藤兼次郎
 五番地  福島良輔
 五番地  御厨眞胤
 七番地  野口本之助
 七番地  林 茂香
 七番地  内田ぶん
 八番地  中田庄兵衛
 八番地  廣田豐吉
 九番地  古川吉藏
 十番地  岡村竹四郎
 十番地  小西五兵衛
十一番地  土谷温濟
十一番地  吉岡哲太郎
十一番地  磯谷むめ
十二番地  金田正躬
十二番地  島田竹次郎
十二番地  永田伊三郎
十三番地  市川淸吉
十四番地  村井一英
十五番地  久松淸次
十五番地  伊藤莊太郎
十八番地  石井源三衛
十九番地  井上十吉
 廿番地  渡邊淸吉
廿一番地  久住庄八
廿一番地  廣田靜逸
廿一番地  田中やす
廿一番地  中村ふじ
明治廿一年五月二十日印刷
同   年五月廿六日出版 正價金三拾錢
編纂兼發行者 東京府平民
       加藤勘七
       日本橋區矢ノ倉町十四番地
印刷者    千葉縣士族
       宮本 敦
       京橋區銀座二丁目十二番地
發賣元    鶴聲社 東京日本橋區橘町四丁目十一番地
       博集館 東京神田區鍛冶町三番地
       東京屋 東京日本橋區本町一丁目七番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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東京府芝區三田三丁目~五丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

東京府芝區三田三丁目~五丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

【全国所得納税者姓名録 : 一名・代議士撰挙の台帖. 
 第1冊(東京府十五区ノ部)】明治21年5月26日出版

全國所得納税者姓名錄 第壹冊 東京府十五區ノ部 p11/205

◉芝 區 明治廿年十一月現在 p99/205
三田三丁目 p116/205
 十二番地 井口久次郎
 十二番地 四宮秀造
 十七番地 小浦鎨三郎
 廿四番地 須賀淸吉
二十七番地 田中ゑい
二十九番地 花田尚衛
 三十番地 小川駒橘
三十一番地 梅園直之進
三十二番地 大工原信吉
三十五番地 子爵 稲葉正邦
三十五番地 高濱忠恕

三田四丁目 p116/205
  壹番地 鄕 粲太郎
  壹番地 秋山幸吉
  七番地 有村武彦
 廿六番地 伯爵 奥平九八郎
二十六番地 赤川戇助
二十六番地 益田包義
二十六番地 和田基太郎
 廿六番地 須田辰次郎
三十三番地 小泉信吉
三十四番地 中澤周藏
三十七番地 宗像靖共
三十八番地 村尾次郎

三田五丁目 p116/205
 廿七番地 南澤 正
明治廿一年五月二十日印刷
同   年五月廿六日出版 正價金三拾錢
編纂兼發行者 東京府平民
       加藤勘七
       日本橋區矢ノ倉町十四番地
印刷者    千葉縣士族
       宮本 敦
       京橋區銀座二丁目十二番地
發賣元    鶴聲社 東京日本橋區橘町四丁目十一番地
       博集館 東京神田區鍛冶町三番地
       東京屋 東京日本橋區本町一丁目七番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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東京府芝區三田二丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

東京府芝區三田二丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

【全国所得納税者姓名録 : 一名・代議士撰挙の台帖. 
 第1冊(東京府十五区ノ部)】明治21年5月26日出版

全國所得納税者姓名錄 第壹冊 東京府十五區ノ部 p11/205

◉芝 區 明治廿年十一月現在 p99/205
三田二丁目 p115-116/205
 一番地  梅田波治
 二番地  福澤諭吉
 二番地  犬養 毅
 二番地  和田義郎
 二番地  中村貞吉
 二番地  濱野定四郎
 二番地  小幡篤次郎
 二番地  飯田平作
 二番地  岡本貞烋
 三番地  多田與八
 四番地  篠原宗太郎
 五番地  藤波作次郎
十一番地  北口市郎兵衛
十二番地  露木權兵衛
十二番地  山岡榮藏
十三番地  野村音次郎
十三番地  辻井新之助  p116/205
十五番地  松本榮藏
十六番地  土橋又吉
二十番地  定方鐵藏
二十番地  荒井仁兵衛
二十番地  浦口七兵衛  p116/205
明治廿一年五月二十日印刷
同   年五月廿六日出版 正價金三拾錢
編纂兼發行者 東京府平民
       加藤勘七
       日本橋區矢ノ倉町十四番地
印刷者    千葉縣士族
       宮本 敦
       京橋區銀座二丁目十二番地
發賣元    鶴聲社 東京日本橋區橘町四丁目十一番地
       博集館 東京神田區鍛冶町三番地
       東京屋 東京日本橋區本町一丁目七番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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東京府芝區三田一丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

東京府芝區三田一丁目【全国所得納税者姓名録】明治21年

【全国所得納税者姓名録 : 一名・代議士撰挙の台帖. 
 第1冊(東京府十五区ノ部)】明治21年5月26日出版

全國所得納税者姓名錄 第壹冊 東京府十五區ノ部 p11/205

◉芝 區 明治廿年十一月現在 p99/205
三田一丁目 p115/205
  一番地 永島伊右衛門
  三番地 梅村周藏
  三番地 大橋庄助
  四番地 手塚長八
  六番地 館本丈助
  六番地 渡邊淸吉
  七番地 村田平助
 十三番地 高梨宗兵衛
 十三番地 正田平三郎
 十七番地 高原瀧次郎
 廿五番地 岩間侃次郎
 廿八番地 川上直之助
 廿九番地 男爵 松村淳藏
三十一番地 伊集院兼寛
三十二番地 高須速太
三十三番地 河野通政
三十六番地 伯爵 黑田淸隆
三十六番地 長尾景弼
三十五番地 加賀美光賢
四十三番地 兒玉利國
四十四番地 白峯駿馬
四十四番地 日比翁助
四十六番地 谷元道之
四十七番地 椿 尚賢
明治廿一年五月二十日印刷
同   年五月廿六日出版 正價金三拾錢
編纂兼發行者 東京府平民
       加藤勘七
       日本橋區矢ノ倉町十四番地
印刷者    千葉縣士族
       宮本 敦
       京橋區銀座二丁目十二番地
發賣元    鶴聲社 東京日本橋區橘町四丁目十一番地
       博集館 東京神田區鍛冶町三番地
       東京屋 東京日本橋區本町一丁目七番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『敎育機關』[在滿日本大使館敎務部管下中等學校]【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】

『敎育機關』[在滿日本大使館敎務部管下中等學校]
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】

【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
 滿洲職員錄
 康德八年 昭和十六年 滿洲年鑑附錄
(康德七年九月三十日現在)
※昭和15年9月30日現在
 但しその後判明せるものは補正す
『敎育機關』      p25-28/73
[在滿日本大使館敎務部管下中等學校]p28/73
 ○新京第一中學校
校長 矢澤邦彦
 ○新京第二中學校
校長 大浦留市
 ○奉天第一中學校
校長 本多 篤
 ○奉天第二中學校
校長 堀越喜博
 ○鞍山中學校
校長 牧島金三郎
 ○安東中學校
校長 松田武男
 ○撫順中學校
校長 福島重美
 ○哈爾濱中學校
校長 長尾宗次
 ○牡丹江中學校
校長 志崎九五郎
 ○金州中學校
校長 服部與一

 ○新京敷島高等女學校
校長 池上林造
 ○新京錦丘高等女學校
校長 靑木 昌
 ○奉天浪速高等女學校
校長 植村良男
 ○奉天朝日高等女學校
校長 辛島太吉
 ○鞍山高等女學校
校長 森重 豐
 ○安東高等女學校
校長 江部易開
 ○撫順高等女學校
校長 大久保鹿次郎
 ○哈爾濱高等女學校
校長 川原淸市
 ○金州高等女學校
校長 南部一郎
 ○吉林高等女學校
校長 三上 登
 ○齊々哈爾高等女學校
校長 近藤喜助
 ○牡丹江高等女學校
校長 宗本 昇
 ○延吉高等女學校
校長 高橋淸顯
 ○四平街高等女學校
校長 平井 衞

 ○新京商業學校
校長 畑中幸之輔
 ○遼陽商業學校
校長 關根惣平
 ○奉天商業學校
校長 玉井靜一
 ○哈爾濱商業學校
校長 村井精一
 ○奉天女子商業學校
校長 上村又一
 ○公主嶺農業學校
校長 蔭山忠夫
 ○撫順工業學校
校長 棟 久藏
 ○奉天工業學校
校長 荒木止戈男
 ○開拓地敎員養成所
所長 東儀文孝
昭和十五年十二月一日印刷
昭和十五年十二月五日發行
昭和十六年 康德八年 滿洲年鑑〔附錄〕
編輯人 福富八郎
    大連市東公園町三十一番地
發行人 白井由藏
    大連市東公園町三十一番地
印刷人 鍋田覺治
    大連市東公園町三十一番地
印刷所 滿洲日日新聞社印刷所
    大連市東公園町三十一番地
發行所 滿洲日日新聞社大連支店
    大連市東公園町三十一番地
發賣所 滿洲書籍配給株式會社
    新京特別市西七馬路一四
發賣所 滿洲日日新聞社
    奉天市大和區協和街四段
發賣所 大連日日新聞社
    大連市東公園町三十一番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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