2020年06月

私(元田肇)が小野梓君から法學會に入れ…:日本新聞 [Nippon Shimbun], (São Paulo, Brazil)昭和8年(1933)11月29日

私(元田肇)が小野梓君から法學會に入れ…:
日本新聞 [Nippon Shimbun], (São Paulo, Brazil)
昭和8年(1933)11月29日

 邦字新聞デジタル・コレクション
Nippon Shinbun / 日本新聞 [Nippon Shimbun], (São Paulo, Brazil)
主に沖縄出身者によるグループが『南米新報』買収し、
『日本新聞』を1932年に創刊した。
社長は翁長助成、編集長には中西周甫が着任した。
翁長は日本の『ジャパンタイムス』や
『伯剌西爾時報』での仕事の経験があり、
二世が良きブラジル人となる教育を提唱、
日本よりブラジルを優先させた。
在ブラジル大使館とはしばしば異なる見解を示し、
独自路線を貫き、経営は苦しかった。
1941年外国語新聞の発行がブラジルで禁止され、廃刊した。
https://hojishinbun.hoover.org/?a=cl&cl=CL1&sp=nih&e=-------ja-10--1--img---------

日本新聞 一九三三年十一月二十九日 ※昭和8年
Nippon Shinbun, 1933.11.29:Page 3

 靑年利用論 【上】
   三太郎 生
   ―略―
政會の元老、元田肇氏は斯う昔を追懐してゐる。
「人間は、一寸したことで一生の運命に非常な差を生じますね。
 私が小野梓君から法學會に入れと勸められたのを
 斷つて行かなかつたために、
 之に入つた同窓の友人達辯護の業務の上に於ても
 以來階級を異にし萬事に反對の地位に立つやうになり、
 小野君の世話をした代言人の連中は主として
 今日の言葉で云ふブルジョア階級の代言人又は實業家となり、
 それ等と反對に私はプロレタリアと云ふ階級。
 大衆の代言人、主に貧乏人側の代言人になつた譯で、
 最初の一寸しか違ひは後々には大變な違ひとなつて來るものです」
元田氏は帝大を出て直後の官界入りを自ら拒んで、
そしてこのやうな結果となつたのである。
 nih_19331129_0003
〔画像〕nih_19331129_0003
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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失敗せる政治家〔大隈伯〕烏嶽:日布時事 明治44年(1911)10月4日

失敗せる政治家〔大隈伯〕烏嶽:日布時事 明治44年(1911)10月4日

 邦字新聞デジタル・コレクション

日布時事 明治四十四年十月四日(水曜日)
Nippu Jiji 1911.10.04 Edition 02: Page 3

  寄   書
 失敗せる 政治家〔大隈伯
      烏 嶽
 今日外國に對して吾が日本を代表せる在野の巨人はと問はゞ
大隈伯は確にその第一人である、
外人の吾國を訪ふもの其政治家と學者と實業家たるとを問はず
皆必らず早稻田の老伯を訪ね
その謦咳に接するを一種の光榮と信ぜるが如く

伯は伊藤公死後に於て外國に對し
日本を代表する最大偶像であることは否まれない、
故にその今日朝にあらざるも
此を失敗せる政治家と稱するは少しく異樣であるが
事實は飽迄も否定することが出來ない。

 一たび參議の首席となりて事實
大久保内務卿死後の廟堂を主宰し黑田内閣
松隈内閣に入りて二度まで外務大臣となり
憲政黨内閣の總理大臣兼外務大臣として短期ながらも
一度内閣を組織せられたことは
餘人にありては確かに光榮の歷史で、
其一あるも能く名を竹帛に垂るゝに足るが
而も大隈伯としては尚失敗の政治家たるを免かれない、

明治初年における伯の權勢は維新三傑に次いだもので、
伊藤公と相並び當時の新智識として
稀有の財政家として大久保參議に非常に信賴せられて居た故に
當時の位置よりいへば伊藤公も遠く及ばず
山縣公の如きは遥に下級であつたのだ、

故にその順序より云へば
伯こそ眞先に内閣總理大臣たるべき人で
前に陳べた通り實際
大久保公薨後の政府を殆んど自由に切り廻して居た人である、
然るに悲ひ哉
その佐賀出身で薩長の如き強固なる藩閥の後援なかりしため
明治十四年薩長聯合の陰謀に中(あ)てられ
遂に野に下るの止むなきに至つた、
併し當時伯の威勢は盛んなもので

一朝改進黨を組織するや隨從雲の如く
前嶋密、河野敏鎌、北畠治房、春木義彰、矢野文雄、沼間守一、
小野梓、藤田茂吉、吉田嘉六、尾崎行雄、犬養毅、島田三郎、
鳩山和夫、箕浦勝人、肥塚龍、
その他地方中流以上の資産家多く此に應じ
三菱を兵站とし國民を後援として
薩長政府に相對するを實に一敵國の觀があつた。

 然るに黑田内閣における外務大臣としての條約改正案は
痛く國民の反對を招きて遂に
來嶋恒喜の曝裂彈に一脚を失ふの始末に失敗の局を結び

國會議場における改進黨は少數にて兎角振はず
憲政黨内閣の不手際は總理大臣たる伯の政治的手腕を疑はしめ、
俄然鼎の輕重を問ひ伯は畢竟批評言論の雄、
實際經綸の人にあらずと言ふものあるに至り

其部下の黨員中より欵を藩閥に通じ
敵黨の走狗たらんを希ふもの輩出し
所謂憲政本黨改革派として
遂に伯を黨首の地位より退隱せしむるに至り、

犬養氏の毅然たる態度により僅かに
伯多年の丹誠になる
進歩黨の殘壘を今日に留め國民黨として
兎に角その面影を維持するを得るのみ、

河野、春木、沼間、小野、藤田諸氏は遠く昔に死し
前嶋男は實業に隱れ、
北畠男は大和法隆寺の邸に退き、
矢野氏は宮内省に雲隱れ、
尾崎鳩山は敵に走り
嶋田、箕浦、肥塚、諸氏多くを賴むに足らず
最後まで伯が藩閥打破の大精神を繼承し
奮闘力戰病軀を提げて
心血を國民の前に吐き斃れて後ち止むの慨あるもの
夫れ唯だ一
犬養氏あるのみ、

往時を回想して今昔の感に堪へざるもの
豈に一人伯のみならんや、
吾人は今伯の國民的敎育事業を
布哇在留同胞の前に紹介するに臨み
世界的巨人たる伯の偉業を仰ぐとゝもに
其政治的失敗の跡を鑑みて感慨の余り
一言を禁ずる能はざるなり。
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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明治元年渡航者記念碑設立報告:昭和2年(1927)5月8日・布哇ホノルル 在留日本人有志

明治元年渡航者記念碑設立報告:
昭和2年(1927)5月8日・
布哇ホノルル 在留日本人有志

照合票   記録件名 本邦記念物関係雑件
 公第四二八號
  昭和二年五月十六日
   發信者 在ホノルル 桑島総領事
受信者 田中大臣
件 名 明治元年渡航者記念碑設立報告ノ件
原書ハ左記ニ在リ
   記
 J門1類2項0目 J2-12號
   本邦移民関係雑件
     在哇ノ部
B04012317900-2
〔画像〕B04012317900-2

 昭和二年五月十六日
  第四二八号 附属 在ホノルル来信
B04012317900-3
〔画像〕B04012317900-3

B04012317900-4
〔画像〕B04012317900-4

日布時事社寫眞部撮影
左 棚川半造(八九才) 右 石井仙太郎(九四才)
B04012317900-5
〔画像〕B04012317900-5

 明治元年渡航者記念碑建立報告
▲建立の動機
▲寄附運動
▲石碑探し
▲墓地の選定
▲碑銘と銅板
▲除幕式擧行
元年者の碑
元年渡航者記念碑
 除幕式擧行申
  風薫るマキキ墓地にて
明治元年渡航者の碑
 一九二七年五月八日 ※昭和2年5月8日(日)大安
 布哇ホノルル 在留日本人有志
▲會計報告
▲玉垣建設の義

明治元年渡航者之碑建立委員
    (いろは順)
本庄 第二  勝沼 富造
相賀安太郎  古川 茂生
貴多 鶴松  貴多 捨松
三樹七之輔
 賛助員(順序不同)
中尾 弌良  山本熊之助
西岡 楠市  門山 菊一
岡部 喜一  磯村 高助
米屋三代槌  山城松太郎
朝比奈梅吉  松田 猪七
空中光太郎  黒田重三郎
岡崎 音治  大久保庄吉
B04012317900-6
〔画像〕B04012317900-6
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レファレンスコード B04012317900
件名 本邦記念物関係雑件/在外ノ部 第一巻
   11.明治元年布哇渡航記念碑関係
【 画像数 】6
作成年月日 昭和2年5月16日(1927/05/16)
作成者 在ホノルル 桑島 総領事
組織歴 外務省//在ホノルル総領事
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名⑥無免許出航・布哇出稼人名簿〔141名〕【大日本外交文書】

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名⑥
無免許出航・布哇出稼人名簿〔141名〕
【大日本外交文書】

【大日本外交文書. 第2巻第1册】
 二〇六 明治二年五月二日(1869年六月十一日) p448/524
     外國官副知事(横濱在勤)寺島宗則ヨリ
     外國官判事宛
  布哇出稼人召還ノ爲ニハ使節ノ派遣ヲ要スヘキノ件
   附屬書 亞米利加人「ヴァン、リード」カ
       無免許出航セシメタル
       布哇出稼人名簿
朔日布哇島へ參居候我賤民百四拾壹人取返之談判申進置候通ニ?
使節壹人不差出候??取返難出來ニ付
壹人御見立委任狀?政府ゟ之御書御渡有之候ハヽ
談判行届可申候
サンフランシスコより布哇島航海入費?
フルベツキ能存居可申候間
御聞糺之上政府江御申立可被成候也
  五月二日 ※明治2年5月2日:1869年6月11日
           寺嶋四位
 外國官
  判事御中

(附屬書)
    編者註一、本附屬書ハ紙面ノ關係上名前ハ特ニ
         三段組ニ印刷セリ
 米國人ウヱンリート不法ニ三乙江差遣候もの名前書
横濱末廣町
 源左衞門店
  米吉寄子
001《忠五郎》  辰三十七歳 ※辰=明治元年(1868)
002《繁三郎》  辰廿五歳
003《寅次郎》  辰二十七歳
004《富太郎》  辰二十七歳
005《辰次郎》  辰三十一歳
006《金次郎》  辰三十八歳
007《龜 吉》  辰二十歳
008《常 吉》  辰廿八歳
009《淸兵衞》  辰十九歳
010《七五郎》  辰廿五歳
  米吉寄子
011《惣 吉》  辰二十三歳
012《長 吉》  辰二十二歳
013《吉之助》  辰廿壹歳
014《和 吉》  辰三十三歳
015《源 吉》  辰二十二歳
016《安五郎》  辰二十四歳
017《新 助》  辰廿壹歳
018《定 吉》  辰三十八歳
019《德次郎》  辰二十七歳
020《幸次郎》  辰二十四歳
021《勝 藏》  辰二十壹歳
022《吉 藏》  辰二十壹歳
023《初次郎》  辰二十歳
024《繁 藏》  辰二十八歳
  米吉寄子
025《寅 吉》  辰二十五歳
026《米 吉》  辰二十歳
027《長 吉》  辰三十歳
028《喜 助》  辰十八歳
029《萬 吉》  辰三十二歳
030《兼 吉》  辰三十八歳
031《喜三郎》  辰二十三歳
032《信 吉》  辰二十六歳
033《新 吉》  辰十八歳
034《房 吉》  辰三十六歳
035《美之助》  辰二十歳
036《幸 吉》  辰三十歳
037《平 八》  辰二十七歳
038《爲 吉》  辰二十七歳
  米吉寄子
039《十兵衞》  辰二十八歳
040《兼 吉》  辰二十四歳
041《市太郎》  辰十九歳
042《吉五郎》  辰二十四歳
043《重 藏》  辰二十五歳
044《長五郎》  辰二十五歳
045《德 藏》  辰二十五歳
046《久 吉》  辰二十六歳
047《常 吉》  辰二十八歳
048《仙太郎》  辰十八歳
049《鐵五郎》  辰三十歳
050《榮 藏》  辰二十二歳
051《兼 吉》  辰二十三歳
052《儀兵衞》  辰二十九歳
  米吉寄子
053《豐 吉》  辰十八歳
054《代 助》  辰三十歳
055《松五郎》  辰二十歳
056《龜 吉》  辰二十八歳
057《竹三郎》  辰三十二歳
058《和 藏》  辰二十七歳
059《岩 吉》  辰二十壹歳
060《甚五郎》  辰三十歳
061《良 藏》  辰二十七歳
062《永太郎》  辰二十六歳
063《熊太郎》  辰十八歳
064《長 吉》  辰二十一歳
065《淸次郎》  辰二十二歳
066《梅 吉》  辰二十九歳
  米吉寄子
067《周 藏》  辰二十四歳
068《武 藏》  辰三十二歳
069《こ と》  辰三十二歳
070《常 吉》  辰二十三歳
071《次郎吉》  辰二十八歳
072《吉五郎》  辰二十歳
073《藤 吉》  辰二十二歳
074《勇 吉》  辰二十五歳
075《鈴 吉》  辰十九歳
076《音 吉》  辰二十二歳
077《久 吉》  辰二十歳
078《豐 吉》  辰二十六歳
079《富三郎》  辰二十壹歳
080《幾 松》  辰二十壹歳

横濱辨財天町
 猪太郎店
  粂八寄子
081《龜 吉》  辰十七歳
082《定次郎》  辰二十壹歳
083《要 吉》  辰三十七歳
084《竹次郎》  辰二十五歳
085《靏 藏》  辰十七歳
086《善兵衞》  辰十五歳
087《金五郎》  辰二十四歳
088《勘 助》  辰二十二歳
089《貞 助》  辰二十四歳
090《熊 吉》  辰二十歳
091《金次郎》  辰十九歳
092《常 吉》  辰十九歳
093《又三郎》  辰十九歳
  粂八寄子
094《鎌 吉》  辰二十三歳
095《半 吉》  辰二十四歳
096《由 藏》  辰二十四歳
097《倉 吉》  辰二十四歳
098《淸次郎》  辰二十三歳
099《太郎吉》  辰四十壹歳
100《ま つ》  辰四十歳
101《圓右衞門》 辰二十七歳
102《淸 吉》  辰二十七歳
103《德 藏》  辰二十二歳
104《周 藏》  辰四十六歳
105《國 藏》  辰二十壹歳
106《德次郎》  辰十八歳
107《淸 八》  辰二十九歳
  粂八寄子
108《松五郎》  辰十九歳
109《政 吉》  辰二十四歳
110《靏 吉》  辰二十四歳
111《文 吉》  辰二十八歳
112《儀三郎》  辰二十五歳
113《松五郎》  辰三十歳
114《半 藏》  辰二十六歳
115《熊次郎》  辰三十歳
116《松五郎》  辰二十七歳
117《金太郎》  辰二十七歳
118《と め》  辰十九歳
119《幸 助》  辰二十三歳
120《彦兵衞》  辰二十壹歳
121《由五郎》  辰二十壹歳
  粂八寄子
122《仙 吉》  辰三十二歳
123《茂 七》  辰二十八歳
124《淸 吉》  辰二十歳
125《淸次郎》  辰二十三歳
126《政 吉》  辰二十五歳
127《豐次郎》  辰二十五歳
128《竹次郎》  辰二十七歳
129《金次郎》  辰二十壹歳
130《淸 吉》  辰二十歳
131《源兵衞》  辰三十壹歳
132《ま つ》  辰二十壹歳
133《啓 助》  辰二十八歳
134《仲 助》  辰二十五歳
135《又 吉》  辰二十八歳
  粂八寄子
136《繁 藏》  辰三十二歳
137《市太郎》  辰二十五歳
138《文 吉》  辰二十五歳
139《兼 吉》  辰二十六歳
140《吉五郎》  辰二十六歳
141《良之助》  辰二十二歳
「〆百四拾壹人」(朱書)

右者米國人ウヱンリート義百八拾人相雇
三乙江差遣度段舊幕中願出印章相渡候處
御新政ニ付御差止相成印章不殘引上ケ
當人共取戻方引合中前書人數之内
船中ニ罷在候分百四拾壹人無斷不法ニ差遣候事
  巳五月 ※明治2年5月:1869年6月
 編者註二、右出稼人名簿記載ノ氏名及年齡ハ
      後續ノ巻ニ夫々収錄スヘキ
      明治三年三月十二日附  ※1870年4月12日
      布哇ヨリノ歸朝者名簿(四十人)
      明治四年一月十一日附  ※1871年3月1日
      布哇ヨリ米國ヘノ渡航者出願者(四十六人)
      明治四年三月附     ※1871年4月
      布哇ヨリ海外諸國ヘノ出稼者出願書(三十七人)
      明治四年五月二十五日附 ※1871年7月12日
      布哇ヨリノ第二次歸朝者名簿(十二人)等ニ
      記載ノモノト對照スルニ一致セサルモノアリ

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名⑤百二歳翁・石井仙太郎氏Hawaii Times, 1955.10.01

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名⑤
百二歳翁・石井仙太郎氏
Hawaii Times, 1955.10.01

 邦字新聞デジタル・コレクション

Hawaii Times, 1955.10.01(昭和30年10月1日)
布哇移民史を彩る草分け先輩の寸描
           川添樫風
百二歳翁・石井仙太郎氏
 一八三五年九月九日、 ※天保6年閏7月17日
備前岡山藩士伊之助の二男に生れ、
一九三六年七月十六日、 ※昭和11年7月16日
馬哇島キパフルで死去
享年百二

 專ら元年者として遇された石井翁には、
二、三回接したやうに思ふ、
その一回は一九三三年(昭和8年)、
十六代樣德川家達公がホノルルに寄港した際、
公に面會するためわざわざ馬哇島から出府した
翁に會つた時である

 その時翁は既に九十八歳の高齢、
長壽の秘訣を尋ねると、
總て中庸を守ることだ、と云つた、
翁は酒も煙草も口にしたが、
決して度を過ごしたことがなかつた

 一九二七年五月八日、 ※昭和2年5月8日
マキキ墓地に、『明治元年渡航者の碑』が建立されたが
その時の元年者生存者は翁と棚川半藏翁の二人のみであつた

 次いで一九三五年二月十七日、 ※昭和10年2月17日
當市の日本總領事館を初め各地で、
第一回官約移民來布五十年記念祭が擧行されたが、
その時の生存元年者は翁一人だつたが、
翁は翌一九三六年(昭和11年)に、
その數奇極まる一生を終つたのである

 石井翁は從來元年者と呼ばれて來たが、
實は明治元年(1868)より二年前の慶應二年四月、 ※1866年5月
アメリカの捕鯨船で馬哇島に上陸し、
元年者より二年の先輩であつた

 この事については昨一九五四年(昭和29年)十月、
山下草園氏が當地の新聞に、
幾多の事例を擧けて詳述してゐる、
翁は馬哇島で布哇土人を妻とし、
その子供は馬哇及びホノルルに居住してゐる

 生前の翁は、布哇日本人の草分け中の草分けとして尊敬され、
馬哇を訪ふ者の多くは、僻地キパフルに、
翁を訪ふて敬意を表することを忘れなかつた

 在米日本人史家故鷲頭尺魔翁が、
わざわざ石井翁を訪うて
その訪問記を日布時事紙上に書いたのは、
今から二十七年前の
一九二八年(昭和3年)の初め頃と記憶してゐる

 一九四九年(昭和24年)十月、
社の相賀溪芳氏は、わざわざ墓參し、
その墓碑の出來てゐない事を嘆き、
これが建立方を世に訴えた

 今、翁の事蹟を書かんとして、
翁が永眠した當時の新聞綴込を出して見たが、
別に記事が見つからず、
臨終の時は世から忘れられてゐたらしい

 昨一九五四年(昭和29年)九月には、
馬哇の詩人宍戸潮風氏がわざわざ故人の遺跡を尋ねてゐる

 翁眠る磯邊の墓碑に
 日は落ちて、
 夕しば鳴く鷗鳥やも
 滿汐の渚に注ぐ汐しぶき
 碑蔭に濡るる花芒かな
 弔えば荒し儘なり、
 野花咲く岸に
 無量の 小ざ波の音

 この歌を見るとその後墓碑も出來た模樣である
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〔画像〕tht_19551001_0008

Nippu Jiji, 1935.02.16
五十年記念誌
元年者唯一の現存者
馬哇の石井仙太郎翁
 今年百二歳でまだまだ元氣
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〔画像〕tnj_19350216_0125

Zaibei Nihonjinshi, 1940.12.20
明治元年の渡布者 p53
植民全盛時代の魁けをなすハワイ移民の史實は、
貴重の史料として重視すべきものであるが、
ハワイに對する邦人移民の濫觴は
一八六八年(明治元年)百五十三名(うち女子十名)が、
米國船サイオト號にて渡布したことに始まつてゐる。
この渡布の經緯に就ては當時既に日本に駐在してゐた
ハワイ領事ユージン・ウエンリードが斡旋したと云はれてゐる。
右渡航は明治元年であつたので、
ハワイ邦人間に於ては、この初期渡來物を『元年者』と稱した。
當時渡航者の上陸等の通辯には
天保十二年(1841)の漂流者の一人
(遠州城東郡出身)仙太郎なるものが當つた模様で、
契約移民の給料は月四弗、宿食藥餌は雇主持ちで、
これに移民の周旋者は木村庄平なるもので
木村は横濱の太田屋と云ふ木賃宿をその本部としてゐた。
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〔画像〕znh_19401220_0053
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『明治元年渡航者の碑』
Nippu Jiji, 1935.02.16
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〔画像〕tnj_19350216_0122
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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山下草園氏
【元年者移民ハワイ渡航史】
タイトル  元年者移民ハワイ渡航史
著者    山下草園 著
出版者   米布時報社
出版年月日 1956
元年者移民ハワイ渡航史 目次
廿一、三人の仙太郎と通弁人 / (0022.jp2)
廿二、石井仙太郎は「元年者」ではない / (0023.jp2)
この資料は、著作権の保護期間中であるか、
著作権の確認が済んでいない資料のため
インターネット公開をしていません。
閲覧を希望される場合は、
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名④〔布哇出稼人12名:香港経由横濱〕【大日本外交文書】

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名④
〔布哇出稼人12名:香港経由横濱〕
【大日本外交文書】

【大日本外交文書. 第4巻】
 事項二〇 米國人「ヴァン、リード」ノ無免許出航セシメタル
      布哇出稼人召還ニ關スル件
      〔第三巻事項一四參照〕(事項八參照) p271/552

(附屬書一)  p272/552
  乍恐以書付奉願上候
  ―略―
前書乘込候人足百八十人ノ内
病氣ノモノ三十壹人八人上陸イタシ
殘リ百四十壹人無沙汰ニ
同月廿四日出帆イタシ候趣承知仕候ニ付
※1868年(慶応4年/明治元年)5月17日(旧暦4月25日)
驚直樣其段御裁判所樣ヘ御届奉申上候
然ル處彼國ヘ罷越候人足共ヨリ申越
百四拾壹人ノ内
四人病死殘リ百三十七人ノモノ
  ―略―
 明治二巳年四月 ※1869年5月
     右末廣丁
      彦造店
      富士屋
       半兵衞
     右  町
      名 主
       源左衞門
 御裁判所

(附記二)  p274/552
  布哇國惣領事廳
   千八百七十二年第四月十七日横濱
    卽我ガ壬申三月十日 ※明治5年3月10日
 神奈川縣令 陸奥宗光貴下
  ―略―
右船ノ出港相延ヒ只
百四拾六人丈布哇國ヘ出船イタシ
  ―略―
    在日本布哇國總領事
       ウエンリート

(附屬書二)  p284/552
    謹  白
大東洋中サンドイツ嶋え
一昨年御約定傭夫
御國民共の内死亡等指除き
都合壹百人昨年中伺濟候も
御趣意被仰渡後
當西曆三月上旬 ※明治4年1月(1871年3月)
四拾六人年限後亞國え渡海
諸業稽習願其後格別寛大の御趣意被仰渡
同當五月中三拾七人海外出稼願等 ※明治4年3月(1871年5月)
東京府外務省え差出置尤年限明き前右等の

御印章不相達節は其儘當嶋え滯留可奉捧旨
且横文譯解等
御送與相成卽刻夫を以
英亞の公使衆御談判當嶋政府え談事承引罷成
歸朝の者〆拾八人
船仕度旁滯留四人前件同樣出稼願
別段願入申出候に付
今月二日亞國飛脚船便を以奉願置
※1871年7月2日:明治4年5月15日
四人引殘り
十四人歸朝申付分の内
兩人當攝病院にて治療中
全快次第歸朝申付分
惣〆拾二人
但し小兒共左の名前のもの共
今日ヂヤマニー國の船名「ウエースタ」
甲比丹名「ダイーキス」
當政府より附添の衆「ロビスチー」
船中萬端係務仕へく併し
淸朝國香港え渉渡
同所より飛脚蒸氣船を以着朝の筈
何分安着の上は尚
御仁慈の御沙汰被仰渡度
尚病人兩人全快次第
歸朝させしめ候
且鄙拙義は願人共
御印章御捧授罷成候後
歸朝仕候實々御鴻恩の程忘却不仕
重々難有奉存候
         恐々謹言
  西曆一千八百七十一年七月十二日 ※明治4年5月25日
      ハワイ嶋ホノルル府にて
        傭夫頭取
            富三郎印
大日本國横濱府
  裁判所
   御政府え

(附屬書二)  p285/552
  サンドイチ嶋より今般歸朝のもの共名籍
01 七番       《次郎吉》
02 同  同人妻   《の ぶ》
03 壹番       《由五郎》
04 五番       《米 吉》
05 六番       《儀兵衞》
06 四番       《淸兵衞》
07 五番       《銀次郎》
08 七番       《鐵次郎》
09 六番       《房 吉》
10 同        《平 八》
11 同  長五郎事  《岱 助》
12 同  右次郎吉倅 《春 吉》
 〆 拾貮人
  西曆千八百七十一年七月十二日 ※明治4年5月25日
    ハワイ嶋にて
     ホノルル府
      傭夫頭取
      富三郎印

  三、左ノ文書ハ本號文書ノ附屬書ナリヤ否ヤ
    明カナラサルモ便宜茲ニ附記ス
(附記)
    謹 述
 ―略―
先般四十六人
御免章當西曆八月廿日運上所より
※1871年8月20日:明治4年7月5日
 ―略―
貮度目三十七人
御免章御發與にも
 ―略―
是にて壹人も調殘り等無之
六人の内
俊太郎義
當時病中には在之候
何れも出稼中出精仕
追々亞國行等も在之
一兩日以前壹人出帆仕候
追々出發の心得に罷在申候
何分御安心被成下置度奉存候
一 八月十一日出帆 ※1871年8月11日:明治4年6月25日
  小兒共〆十二人
  支那國え相廻り夫より横濱え出候
 ―略―
  西曆千八百七十一年八月十三日 ※明治4年6月27日
    ハワイ嶋
     ホノルル附
      傭夫頭取
       富三郎(印)
大日本
 東京府
  外務省にて
   三輪外務文書少佑樣え
          投申候

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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名③〔布哇出稼人外國出稼ヲ出願37名+6名〕【大日本外交文書】

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名③
〔布哇出稼人外國出稼ヲ出願37名+6名〕
【大日本外交文書】

【大日本外交文書. 第4巻】
 事項二〇 米國人「ヴァン、リード」ノ無免許出航セシメタル
      布哇出稼人召還ニ關スル件
      〔第三巻事項一四參照〕(事項八參照) p271/552

三四三 明治4年六月八日  p281/552
    (1871年七月二十五日)
    三輪外務文書少佑ヨリノ伺書
 布哇出稼人中更ニ外國出稼ヲ出願セル三十七名ノ
 許可ニ關シ伺ノ件

※473~509[本官勘合帳 外國官一号]37名
473 《和 藏》 勘藏倅     年二十七歳
     濃州武岐郡關坂下町

474 《又 吉》 傳兵衞倅    年二十六歳
     武州川越本町  名主忠左衞門支配

475 《政 吉》 卯兵衞倅    年二十六歳
     大坂北久太郎町三丁目 家主 太助店

476 《幸次郎》 傳法屋儀兵衞倅 年二十七歳
     大坂北久太郎町博勞町

477 《文 吉》 文藏倅     年二十九歳
     東京日本橋數寄屋町 家主市兵衞店

478 《忠次郎》 杉野忠兵衞倅  年三十歳
     尾州中納言殿家來

479 《龜 吉》 彌助倅     年二十三歳
     京都佐原木町 平兵衞地借

480 《半 七》太助事 武助倅  年二十四歳
     東京淺草田町壹丁目 源兵衞地借

481 《文治郎》 寅次郎倅    年二十三歳
     東京千住小塚原町 家主六兵衞店

482 《米 吉》 又右衞門倅   年三十歳
     上總久留里領戸崎村 名主四郎兵衞支配

483 《金次郎》新吉事 兼吉倅  年二十四歳
     武州深川海邊大工町 家主久兵衞店

484 《豐次郎》 磯吉倅     年二十九歳
     武州所澤 名主助右衞門支配

485 《庄兵衞》 名主吉右衞門倅 年二十八歳
     下總流山宿

486 《竹次郎》 重太郎悴    年二十三歳
     東京淺草南馬道 家主三之助店

487 《國 藏》玉吉事 百姓德次郎倅 年二十五歳
     下總市場郡木下風村

488 《長 吉》 兵輔倅     年三十歳
     下總國結城町 名主六郎右衞門支配

489 《豐 吉》 家主直藏倅   年二十九歳
     東京駒込片町

490 《金太郎》 喜三郎弟    年二十九歳
     武州深川網打場 家主三吉店

491 《と め》 同人妻     年十九歳

492 《熊次郎》 久兵衞倅    年二十五歳
     攝州西ノ宮濱東町 家主太兵衞店

493 《常 吉》 定次郎倅    年二十六歳
     東京本郷追分片町 名主惣兵衞支配

494 《半 吉》 市兵衞倅    年二十四歳
     武州神奈川在スケダ町村

495 《勝三郎》 家主長左衞門倅 年二十五歳
     東京芝通新町 名主重一郎

496 《周 藏》 家主平三郎店(倅) 年三十二歳
     東京淺草田町貮丁目 名主半左衞門

497 《啓 助》 茂兵衞倅    年三十一歳
     東京田原町三丁目

498 《政 吉》 嘉右衞門倅   年二十五歳
     相州大住郡葛原村 名主孫左衞門

499 《長次郎》 家主廣吉倅   年二十八歳
     武州深川仲木場扇町 名主甚四郎支配

500 《藤 吉》 富五郎倅    年二十七歳
     東京淺草今戸町 名主市左衞門支配 家主三右門店

501 《市五郎》 林藏倅     年十八歳
     相州小田原欄干橋町 名主爲吉

502 《松五郎》 伊三郎倅    年二十四歳
     東京深川大嶋町 家主七五郎店

503 《寅次郎》 寅五郎倅    年二十八歳
     武州神奈川惠蓮寺門前 名主六右衞門

504 《辰次郎》 仲左衞門倅   年三十歳
     武州埼玉郡鷲之宮 名主次郎左衞門

505 《富太郎》 文市郎倅  年貮十八歳
     甲州八代郡市川村 名主平助

506 《熊 吉》 傳右衞門倅 年二十歳
     越後蒲原郡三條在小仲川村 名主彌助

507 《新 吉》 長吉倅   年二十一歳
     東京中橋南傳馬町壹丁目 家主淸次郎店
508 《重 藏》 傳右衞門倅 年二十五歳
     駿州宇土郡府中上横田町 名主淸左衞門

509 《竹次郎》 直右衞門弟 年三十六歳
     甲州駒郡三ノ輪村新田 名主平左衞門

 〆テ  都合三拾七人
右の御國民共前條の通申出候に付篤と取調候上奉願候間
何卒早速御免許の御章翰御送與被仰付度奉願候恐々謹言
 西曆千八百七十一年五月 ※明治4年3月
    ハワイ
     ホノルル府
      傭夫頭取
        富三郎(印)
         謹白
大日本
 外務省
  御政府樣え
 註 右出稼希望者ノ名前ノ下ニ夫々爪判アリ

三四八 明治4年九月十三日 p287/552
    (1871年十月二十六日)
    留學生掛ヨリノ伺書
 布哇出稼人更ニ外國出稼ヲ出願セル六名ノ
 許可ニ關シ伺ノ件
  ―略―
(附屬書)
   海外の諸邦え追出稼歎願の章
一 今般格別の以
  御仁慈を下鄙共當ハワイ嶋え使役御約定年限後銘々任望
  出稼の儀窺濟被仰渡に付先般三拾七人奉願置候通同樣奉
  願候間何卒
  御聞濟の上御免翰御送與被成下置度奉願候
                 恐々謹言

※538~543[本官勘合帳 外國官一号]6名
538 《竹次郎》 小松屋安兵衞弟  當三十壹歳
     尾州名古屋本町貮丁目

539 《靏 吉》 三五郎倅     當十九歳
     武州品川宿南本宿四丁目 家主善兵衞店

540 《金次郎》 金兵衞倅     當貮十四歳
     東京本所 名主佐次右衞門 家主幸助店

541 《初次郎》 家主太助倅    當貮十壹歳
     東京市谷柳町

542 《濱次郎》淸兵衞事 乘物屋藤助倅 當廿歳
     甲州府中八日町通リ工町

543 《俊太郎》新之助事 家主宗兵衞倅 當三十壹歳
     東京芝濱松町貮丁目

 惣都て  六人
右六人の者歸朝人數の取調先般中既に人數調等差出し置候
得共追て前條の通歎願申出候間先々の御趣意を以御免許相
成御印章御送與被成度奉願候恐々謹言
 西曆千八百七十一年八月三日 ※明治4年6月17日
   ハワイ嶋ホノルル府にて
       傭夫頭取
        富三郎(印)
大日本
 東京府
  外務省
   御政府樣え
 註二、右出稼希望者ノ名前ノ下ニ夫々爪判アリ

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名②〔布哇出稼人中更ニ渡米修業ヲ出願セル46名〕【大日本外交文書】

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名②
〔布哇出稼人中更ニ渡米修業ヲ出願セル46名〕
【大日本外交文書】

【大日本外交文書. 第4巻】
三四一 ※辛未 明治4年(1871)
 三月 日缺 三輪外務文書少佑ノ省中伺  p277/552
 布哇出稼人中更ニ渡米修業ヲ出願セル四十六名ノ
 許可ニ關シ伺ノ件
 ―略―
(附屬書二)
  ハワイ島より亞國え渡海諸職執業    p277-291/552
    歎願の章

※332~377[本官勘合帳 外國官一号]46名
332 《要 吉》   小銃製造方
     村山仁平倅  年廿三歳
     阿州伊多郡富田

333 《吉之助》   錺職
     高木幸之助倅 年廿三歳
     武州本所石原 大番組


334 《松五郎》   馬道具革縮縫職
     半兵衞倅   年廿五歳
     相州相早郡大山町 名主武太夫支配

335 《竹治郎》   馬道具革縮縫職
     八十八倅   年十八歳
     武州深川富川町 家主久兵衞店

336 《友 助》   英語執業
     利兵衞倅   年廿五歳
     信州諏訪郡高島 名主善左衞門

337 《繁 藏》   馬道具職
     伊三郎倅   年廿八歳
     相州鎌倉郡  名主伊左衞門支配

338 《定 吉》   鍛冶職
     榮藏悴    年廿八歳
     加州鈴郡扇村 名主重兵衞支配
     (ママ)

339 《成 甫》   醫師執業
     淸次郎事
     醫師隆甫倅  年廿二歳
     武州神田御玉ケ池

340 《豐 吉》   鍛冶職
     儀右衞門悴  年廿三歳
     武州麴町貮町目 淸右衞門店

341 《政 八》   馬具師
     安兵衞倅   年廿貮歳
     武州赤坂田町壹町目 名主早之助支配

342 《兼 吉》   船大工職
     善助倅    年廿六歳
     武州靈岸島東港町  家主彌兵衞店

343 《市五郎》   船乘
     百姓宗吉倅  年廿貮歳
     下總結城郡小森村

344 《淸 八》   田畑開創仕法
     三右衞門倅  年廿五歳
     下總印幡郡佐倉町 名主六右衞門支配

345 《靏 吉》   馬道具
     平吉倅    年廿六歳
     甲州八ツ城郡下平井村 名主郷右衞門支配

346 《德 造》   英語執業
     金兵衞倅   年廿貮歳
     濃州關本町  名主彦十郎支配

347 《松五郎》   琩環細工
     源治郎倅   年廿歳
     武州靑山淺香町 家主淺五郎店

348 《德治郎》   時計師
     榮吉倅    年十八歳
     武州神田柳原新地 家主鐵五郎

349 《貞 助》   織物師
     金兵衞倅   年廿六歳
     遠州周知郡水作久保 名主平右衞門支配

350 《金治郎》   鐵炮鍛冶
     淸兵衞倅   年廿五歳
     奥州高木郡川俣宿 名主五郎兵衞支配

351 《鐵五郎》   鍛冶職
     德兵衞倅   年廿八歳
     武州牛込寺町 家主德右衞門

352 《粂 吉》   琩環細工
     粂治郎倅   年廿七歳
     武州芝濱松町四町目 名主平作支配

353 《源 助》   強藥製法
     儀助倅    年廿四歳
     武州本所綠町貮町目 平助店

354 《常 吉》   蒸氣器開製造方(器械?)
     伊三郎倅   年廿五歳
     武州淺草今戸町 名主市郎兵衞支配

355 《角次郎》   大工職
     吉五郎倅   年廿八歳
     豆州賀茂郡下加茂村 名主文次郎

356 《兼 吉》   鍛冶職
     長吉倅    年廿三歳
     武州多摩郡小安村 名主幸之助

357 《惣 吉》   大工職
     惣兵衞倅   年廿五歳
     越中國新川郡魚津宿金浦町

358 《長 吉》   馬道具職
     仁左衞門倅  年廿四歳
     越後古志郡長岡呉服町 太郎右衞門地借

359 《三代吉》   指物大工職
     小助倅    年廿五歳
     參州志多羅郡河内村 名主米吉

360 《淸治郎》   琩環細工
     吉兵衞倅   年廿六歳
     信州松本今町 名主源兵衞

361 《平兵衞》   左官職
     半兵衞倅   年廿七歳
     下總相馬郡取手宿 名主太藏

362 《鐵五郎》   小道具鍛冶
     元次郎倅   年廿三歳
     東京淺草上新堀合羽橋 名主喜兵衞

363 《吉兵衞》   染物職
     幸吉倅    年廿六歳
     東京人形町樂屋新道 家主 喜兵衞店

364 《淸 吉》   染物職
     百姓久右衞門倅 年廿五歳
     下總九十九里大根畑

365 《久 吉》   小道具鍛冶
     惣吉倅    年廿三歳
     相州小田原筋違橋 名主太助

366 《繁三郎》   織物職
     貢 倅    年廿六歳
     神奈川宿 名主佐右衞門

367 《榮 藏》   革細工
     太兵衞倅   年廿四歳
     駿河宇土郡人宿町

376 《已之助》   蒸氣道具
     善之助倅   年廿三歳
     東京西ノ久保新下谷町 喜兵衞店

377 《太 吉》   蒸氣道具
     十兵衞倅   年廿四歳
     東京御玉ケ池 久兵衞店

368 《房 吉》   琩環細工
     重兵衞倅   年廿三歳
     東京芝田町六丁目 嘉右衞門店

369 《源 吉》   革馬具仕立方
     源兵衞倅   年廿四歳
     紀州和賀山本町 名主惣藏

370 《勘 助》   ブリツキ細工
     地主九兵衞弟 年廿五歳
     東京本所四ツ目相生町

371 《松五郎》   外國馬業
     家主藤兵衞弟 年廿八歳
     東京府松嶋町

372 《菊治郎》   ブリツキ板製造方
     萬藏倅    年廿六歳
     讃州金比羅内町圓山寺

373 《龍之助》   革細工
     藤藏倅    年廿四歳
     越後蒲原郡澁無宿 名主半太夫

374 《拾一郎》   雜穀製造之仕方
     喜兵衞倅   年廿三歳

375 《幾 松》   革馬具仕立方
     源七倅    年廿三歳
     東京今戸町 取締方

  惣〆四拾六人
右の者共課目の通亞國え航海の上試業仕追て熟業の上難在
歸朝仕度旨面々申出候間何卒御聞濟
御印章御送與被成
下置度奉存候謹言
  西曆千八百七十一年第三月朔日 ※明治4年1月11日
      ハワイ嶋
       ワフー
        ホノルル府にて
         傭夫頭取
           富三郎(印)
            謹白
 大日本國
  神奈川縣廳
   御政府樣
    註三、右渡米希望者ノ名前ノ下ニ夫々爪判アリ

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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ハワイ移民1868年(明治元年)約150名①〔帰朝〕43名(40+3)明治3年2月6日【大日本外交文書】

ハワイ移民1868年(明治元年)約150名①
〔帰朝〕43名(40+3)明治3年2月6日(1870年3月7日)
【大日本外交文書】

【大日本外交文書. 第2巻第3册】
 六八八 明治二年十二月二十八日 p372/448
     (1870年一月二十九日)
     在「ホノルル」布哇出稼人總代富三郎ヨリ
     神奈川縣宛
  布哇國派遣使節ノ取計ニ對スル謝意表明竝ニ
  歸國出稼人名簿送付ノ件
   附屬書 歸國出稼人名簿
(附屬書)  p373/448
  日本    ハワイ嶋
   横濱    ホノルル府
    御裁判所え  傭夫頭取
     外ニ 相添  富三郎謹白
 今般歸 朝被仰付候人數左之通り
  モウイ嶋ラハイナ 抱主ジヲンソン
01《茂 七》  靑もの渡世
02《津 る》  同人妻
03《新太郎》  同人倅幼稚

  同嶋ハイクー 抱主ゴーテーラ
         (編者註「在布哇 牧野富三郎 鑑要記」ニハ
          「抱主ゴーデーラ」トアリ)
04《吉五郎》  左官
05《爲 吉》  桶屋
06《幸 吉》  煙草切り
07《鎌 吉》  左官
08《與 助》  紺屋
09《圓右衞門》 繪師
10《定次郎》  仕立師
11《倉 吉》  髪結
12《梅 吉》  料理方
13《鈴 吉》  セトモノ燒

 同嶋ウルバラコワ 抱主元甲比丹マゲイ
14《勇 吉》  瀨戸もの燒
15《政次郎》  瀨戸もの燒
16《與 吉》  鍛冶屋
17《熊次郎》  魚屋
18《長五郎》  料理人
19《常 吉》  左官

 ワフー嶋ワイロウ
         (編者註「在布哇 牧野富三郎 鑑要記」ニハ
          此處「抱主チンバレン」トアリ)
20《良 助》  鞢師
21《儀兵衞》  セトモノ燒
22《由五郎》  ?ん?やく燒
23《繁 吉》  左官
24《新之助》  酒造職 

 同嶋コーロフ 抱主ワイレル
25《源三郎》  生糸師
26《ま つ》  同人妻

 同嶋カワラヤ 抱主マゲービン
         (編者註「在布哇 牧野富三郎 鑑要記」ニハ
          上記ノ外「ベツチヤツトン」ノ名アリ)
27《文 吉》  印判師
28《又三郎》  棒屋
29《吉五郎》  櫛挽

 同嶋カ子ヲヘ 抱主ハルリス
         (編者註「在布哇 牧野富三郎 鑑要記」ニハ
          上記ノ外「ロース」ノ名アリ)
30《太郎吉》  植木屋
31《ま つ》  同人妻

 同嶋ホノルル府
32《吉五郎》  箔屋職  抱主英コンスル
33《兼 吉》  植木屋  抱主クレゴホン
34《竹次郎》  左官   抱主コーク
35《勝 藏》  木挽   抱主チヤーレ
36《淸次郎》  料理人  抱主ペータ
37《德 藏》  左官   抱主ヲード

 ラナイ嶋 抱主ゲビソン
38《武 助》  セトモノ職
39《な か》??事 同人妻

40-41《カワ嶋貮人》※名前不明
  皇朝日本書記官マシタホープルえ談事候得は後
  船に?爾歸朝候樣申聞候事
〆四拾人
 但 茂七倅 03《新太郎》義ホープル方に?定員外に有之候
 定員之外に
42《萬 吉》 同嶋ワイロフ 抱主チンバレン
43《靏 吉》 鯨魚船ヨリ參居候者 御免簡所持ス
皆都合 四拾三人 尚カワイ嶋貮人?後船に?歸朝可爲致旨
         ホープル申聞候事
 當嶋船號エードプリート
番號相記シ候?先般漂流之節一同之生國人相等其御地ニ?
一同之もの引請之もの半兵衞カ御取調可相成候得ハ
分明?相分リ可申??

【大日本外交文書. 第3巻】
事項一四  p225-237/407
     亞米利加人「ヴァン、リード」ノ無免許出航セシメタル
     布哇出稼人召還ニ關スル件
     〔第二巻事項四七參照〕(事項八參照)
(附屬書)       p226/407
 乍恐以書付奉申上候
     ハワイ島渡行
       諸職人足
     良助
      外三拾九人
私共義去る慶應四年辰中 ※慶應4年(1868年)
當港在留米國商人ウヱンリードえ
被相雇ハワイ島え罷越候始末御尋に御座候
 ―略―
 御重役樣方御渡來にて銘々御糺の上夫々御掛合の上にて
 私共四拾人御憐愍の御沙汰を以歸朝御免一同難有奉存
 巳年十二月廿八日 ※明治2年12月28日(1870年1月29日)
 彼地出帆
 當月六日 ※明治3年2月6日(1870年3月7日)
 歸朝仕乍恐一同安堵仕
 此上御沙汰次第銘々歸村致出精仕度右
御尋に付前書奉申上候通聊相違無御座候以上

 明治三午年二月十二日 ※明治3年2月12日(1870年3月13日)
良助   勇吉   吉五郎
茂七   政次郎  太郎吉
津る   與吉   まつ
新太郎(津る 倅 小兒)
     熊次郎  吉五郎
吉五郎  長五郎  兼吉
爲吉   常吉   竹次郎
幸吉   儀兵衛  勝藏
鎌吉   由五郎  淸次郎
與助   繁吉   德藏
圓右衛門 新之助  武助
定次郎  源三郎  なか
倉吉   たつ   萬吉
梅吉   文吉
鈴吉   又三郎
  町會所詰商館掛り役人
        彌 市 印
神奈川縣御裁判所
二四一 明治3年二月二十四日 p227/407
    (1870年三月二十五日)
    神奈川縣ヨリ外務省宛
 送還セラレシ布哇出稼人願出ノ趣通知ノ件
圓右衞門   繁次郎(熊次郎)  まつ
文吉     淸次郎       津る
竹次郎    幸助(與助)    なか
萬吉     芳五郎(由五郎)  兼吉(世話役)
德藏     熊五郎(長五郎)  吉五郎
朶吉(繁吉) 定次郎       鈴吉
勝藏     吉五郎       儀兵衞
吉五郎    梅吉        新之助
鎌吉     常吉        茂吉(茂七)
幸吉     政次郎       武助
大吉(兼吉) 又三郎       源三郎
爲吉     與吉        多郎吉(太郎吉)
倉吉     たつ        龍助(良助)
以上三拾九人
※( )神奈川縣裁判所(明治三午年二月十二日)提出書類より
※新太郎(津る 倅 小兒)を除く(定員外)

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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〔広告〕イーヂー洗濯器1937『日布時事』昭和12年2月6日(土)

〔広告〕イーヂー洗濯器1937『日布時事』昭和12年2月6日(土)

 邦字新聞デジタル・コレクション
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LIBRARY & ARCHIVES
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Nippu Jiji, 1937.02.06 昭和十二年二月六日(土)

New 1937   EASY WASHER
 $59.95
◎上中下 三帶洗濯作用を有する
 一九三七年型 イーヂー洗濯器
 此の最新器を見るまでは どの洗濯式もお買ひ
 需めにならぬ樣………

新洗濯作用がどんなに改良されて
居るものであるかを知るには
是非とも新ターボレーター式
イーヂー洗濯器を御覽下さい、
普通には上部のみ洗ふので兎もすると
平均に洗へない裝置と異なり、
上中下三帶が一度に洗へます、
是は從來 百弗以下の値段では絶對見なかつた所の
イーヂー獨特のものであります
値段は五十九弗九十五仙で月賦で提供します

總代理店 ホノルル市
モーダン イーヂー アプライアンス商會
販賣店
ワヒアワ サービス モーター商會
  ワイアルア   ワイアルア・グラージ株式會社
  ワイパフ    ワイパフ・モータース
  スアヌ街    マルマン商會
  キング街パアー 池田樂器店
  加哇リフエ   加哇セールス商會
  馬哇パイア   パイア日本人商會
  同ラハイナ   江村寶石商會
  ラナイシチー  江村寶石商會支店
  布哇島ヒロ   ヒロ・モータース商會
  モロカイ島   モロカイ自動車修繕所
 Modern Easy Appliance Co.
91 S. King St.―Next to Honolulu Gas Co.
 イーヂー洗濯器1937
〔画像〕イーヂー洗濯器1937
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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洗濯機100年のイノベーション史
01 電気洗濯機の歴史
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