2022年03月

明治六年五月ゟ亜米利加の農学者ウヰート【明治六年-七年 京都府布令書】

明治六年五月ゟ亜米利加の農学者ウヰート
【明治六年-七年 京都府布令書】

【明治六年-七年 京都府布令書 明治六年
 自一月二月 至 明治七年一月ヨリ七月】
明治七年四月 第百六十六号  p142-143
 ―略―
去ル明治六年五月ゟ亜米利加の農学者
ウヰートと申す人を雇ひ
鴨沂東牧畜場にて農学の手始めをなし
 ―略―
p143【明治六年-七年 京都府布令書】
〔画像〕p143【明治六年-七年 京都府布令書】

【明治六年 京都府布令書 明治六年自七月至十二月】
第百十四号  p139-149/235
私學雇入外國敎師條約文例
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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「チエームス・オースタイン・ウヰート」明治七年四月三十日迄六箇月雇繼免状ヲ外務省ヘ申請セル㫖(明治6年11月9日)

 明治七年四月三十日迄六箇月
 雇繼免状ヲ外務省ヘ申請セル㫖
 (明治6年11月9日)

大藏省考課状  p1/12
 學校教師生徒及ヒ病院雇入外國人ノ部
 明治六年十月ヨリ十二月ニ至ル
第六號     p7/12
京都府ヨリ當府勸業場産業基立金ノ内ヨリ
一ケ月百五拾圓ノ給ヲ以テ
同場雇入米利堅人
「チエームス・オースタイン・ウヰート」
當明治六年十一月三十一日滿期ニ付
※誤記:明治6年11月30日
來明治七年四月三十日迄六箇月
雇繼免状ヲ外務省ヘ申請セル㫖
申牒セリ
(明治6年)十一月九日
p7- A07061805700
〔画像〕p7- A07061805700
レファレンスコード A07061805700
学校教師生徒及病院雇入外国人ノ部
国立公文書館太政官・内閣関係記録材料記録材料・
大蔵省考課状二・本省
[規模]12
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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横濱在留ノ外國牧師「 ウイート」雇入(明治6年4月23日)

横濱在留ノ外國牧師「 ウイート」雇入(明治6年4月23日)

大蔵省考課状 p1/71
本省 明治六年四月ヨリ六月ニ至ル
官省雜科ノ部
府縣雜科ノ部
第十九號   p44/71
京都府ヨリ頃ロ府下
牛傳染病流行シ既ニ上京二十二區
牛車渡世ノ者
持牛四十一頭斃死セリ
p44- A07061800100
〔画像〕p44- A07061800100

因テ     p45/71
府下ノ牧場ニ於テ
横濱在留ノ外國牧師「 ウイート」雇入
治療ヲ施行セシムルニ
其方法適當セリト見ヘ
即今病根絶タリト
其方法書ヲ副テ申報アリ
因テ其顛末ヲ文部省ヘ報告セリ
(明治6年)四月二十三日
p45- A07061800100
〔画像〕p45- A07061800100
レファレンスコード A07061800100
記録材料・大蔵省考課状八・本省
国立公文書館太政官・内閣関係記録材料記録材料・
大蔵省考課状八・本省
[規模]71
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月【実業教育五十年史】昭和11年

[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月
【実業教育五十年史】昭和11年
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  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2022年03月28日
  [京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月
  【実業教育五十年史】昭和11年
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【実業教育五十年史】昭和11年
    三、組  織
 修業年限三ケ年、年齢は一定せず、
創立當時は生徒約四十名入學し全部寄宿舎に収容し、
登校には必ず和服に袴を穿ち、威儀を正して授業を受く。
 1、授業に就てはウヰードの農學の講義せるを
   直ちに野見通譯によつて講義せらるたるも
   生徒は非常なる困難を感じたと云ふことである。
 2、授業は農學科敎授を主とし、間々實習を課す。
   家畜の手入、農場整理等は殆ど
   農夫、牧夫の手に依つて爲されたりと云ふ。
 家畜として洋牛十八頭、雜種牛約八頭、
 羊約五十頭、豚十頭位の飼育であつた。
    四、職  員
主任講師  ゼームス・オースタイン・ウヰード
通  譯  野見織之助 ※能美織之助:①英學校 ②牧畜掛
實習主任  一之瀨正男、金重、水島、大島、林某。
事務員   大中某。
農  夫  北村助三郎、田端才次郎、吉田甚吉。
小使兼牧夫 岡本房次郎、田垣辰之助(兩人共現存)。
      (因に當時農夫、傭人日當は十五錢なり)
    五、農園開墾狀况
 創立當時の農場開墾は現在の松木牧場前竹林附近より始め、
本校射撃場南の山に及び、
順次現本校即ち豊田方面に及びたるものゝ如く、
その開墾方法は所謂米國式大農式開墾にして
洋牛八頭、十頭、十二頭を以て開墾し、
其の廻り方の掛聲はホーラント、シーラントと云ひ、
實に今日に於ても見得べからざる盛况なりといはる。
    六、ウヰードの人物に就て
 農牧學校開設當時のウヰードは大體四十歳前後の
堂々たる偉丈夫にして性磊落。
狩を好み、散歩の際にも獵犬二頭二連發銃を携へた。
水泳を試みて地方人を驚かし、
肉食を奇習として地方民の嫌忌甚だしく、
同氏食肉牛の屠殺場は現須知町々葬場に定められ、
今尚ほ牛墓地の名あり。
解職後は園部町常盤詰に寓居せりと傳ふるも
其後を知らない。
    七、廢校の原因と其後の蒲生野
 明治初年京都府が蒲生野高原に着眼し、
之が開拓と開發に力を致し
折角農牧學校の設置を見たりしも僅々三年に達せず、
明治十二年五月廢校の運命に逢着せしは
眞に日本農業敎育界の一大損失と云ふべし
惜しみても餘りありと云つてよい。
之が原因につき深く探究すれば、
 1、歐米の大農式農法を直ちに我に輸入し、
   之を不毛の地に應用せしため、
   著しき成績を擧ぐることを得ざりしこと。
 2、當時の民度尚ほ幼稚にして外國人を忌嫌ふこと深く、
   地方人の無理解と言語風俗等の相違より
   外人との接觸混融せざりしこと。
 3、十年戰役のため濫發せられたる不換紙幣の整理に伴ひ、
   諸物價の低落、農地の暴落、地主の破産等により
   農界の人氣を粗喪せしめ、
   之が影響尠からず事業の蹉跌の悲運に陥りたるものならん。
   明治十二年五月ウヰードの事業蹉跌するや
   畜牛全部の拂下げを受け
   個人事業として之を繼續せし者ありたるも、
   漸次衰運に傾き遂に癈絶した。
   當時の農場、及校舎敷地等を地方人に拂下げたるも
   適切なる利用の途なく
   現今は當村各區の所有地となつてゐる。
   須知農林學校々地を除く
   蒲生野一帶の原野に畦跡の
   今尚ほ波狀に歷然として轉た追懐深いものがある。
p15【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p15【実業教育五十年史】昭和11年

 明治三十九年
農牧學校當時の農場(現在須知農林學校々地)に
本府種畜場を設置し、
約六町歩の牧草園と約十五町歩の放牧地を設け、
種畜牛約八十頭を飼養し、
豊富なる豫算のもとに大農式農場を經營せしも、
大正六年に癈止されて丹後筒川に移轉せられた。
種畜場所有の山林七町八反十一歩、
運動場四反五畝二十二歩、耕地五町六段八畝四歩、
建物二十三棟、乳牛七頭、製乳器其他備品を
郡立實業學校に無償交附せられた。
    八、農牧學校とその遺物に就て
 農牧學校癈止の聲傳はるや、
家畜、校地、建物、農具一切今日想像し難き安價を以て、
地方人に拂下げ、殆んど今日當時の遺物として見るべきものなし。
然るに種畜場を無償交付を受け經營せる本校に
他に見得べからざる大農式農具として
今日存するもの頗る多し。
參考のため本校所有の大農式農具を列記すれば左の如し。
  カルチベーター     サイス(小型用鎌)
  開墾用(四頭立、三頭立)洋犂 ローラ
  耕耡用犂        アタメホー
  輪 車 二       ワーレンホー
  ハ ロ -       スツカツルホー
  撒 播 器       ポテトホーク
  シリクル        (大型洋鎌)
    九、農牧授業生徒規則
第一條 今や此所に農牧學校を造立するは外國の長を取り、
    内國の短を補ひ
    大いに日本農事舊面目を一洗せんとの大意なり。
    故に敎育上に注意をするの責任を有し
    生徒は黽勉するの義務を有する者とす。
    若し其趣旨に背戻するあらば
    校を退かしむるは勿論の事。
第二條 生徒の課業を大別して二とす。
    一は現業技術、
    一は學問講義を學ぶ者とす、
    兼修偏修望に任す。
第三條 現業技術を三課とし一年半を以て卒業とし、
    一課六ケ月にて其の業を終る者とすと雖も
    敎授の緩急により相違あるべし。
第四條 一課業を終る毎に昇級の章を試與す。
    三課現業、乳牛及製乳取扱法、睾丸斷截法、
         並に羊毛の攝切法。
    二課現業、土地開拓法、草穀播下法、収穫諸法、
         培養諸法、寒暖晴雨測量等。
    一課現業、培養及田畑の薄厚を鑑定すること、
         農具用法を辯明すること、
         家畜の良惡を鑑定し之を改正すること。
    家畜の疾病あれば施藥治療すること。
    學問講義も右順序に從ひ三種とす、
    卒業の上證を與ふること前に同じ。
    三課學問、牧畜の大意、乳牛論の大意。
    二課學問、農學書、器械書、牧畜書。
    一課學問、農業化學書、獸醫學書、水利學書。
    右學術を卒業するには三年を以て限とす。
    而して其の證表印六枚を所持する者は
    普通學術を終る者と見做し
    一課專門の學を受くべし。
第五條 生徒入學或は他管人は其地方の長官より添章を受く
    萬事本人を引請くるに非ざれば入學を許さず。
第六條 管下の者は區長の奥書を以て入學願出づべし。
第七條 入學願濟の上は左の證を出すべし。(入學證略す)
p16【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p16【実業教育五十年史】昭和11年

第八條 疾病事故ありて缺席する時は届書差出すべし、
    違者は秣草を収納すべし。
    但し秣草は十貫目より少なからず
    百貫目より多からず以下之に倣ふ。
第九條 年中休日左の通り
    日曜日、天長節、神武天皇祭日
    但し其外休業は臨時掲示すべし。
右の條々可相守若し不便の廉あらば衆議の上改正すべし。
    九、其 他
ウヰード傭繼の事
京都簿第二百八十四號
外國人傭繼届
(但十一年より十二年傭繼届にして
 明治六年五月雇入に關する古文書は未だ見當らず)
 一、農牧講師
 一、給料一ヶ月に付 日本金貨二百圓
 一、傭繼期間 明治十一年卽ち洋曆千八百七十八年五月一日より
        十二年卽ち洋曆千八百七十九年四月三十日迄
        約一ヶ年
 一、結約所  京都府下
 一、住 所  京都府下丹波船井郡第三區蒲生野村
 右先年當府勸業場へ
 官費を不抑産業基立金之利益を以て
 傭人置候處
 今四月三十日滿期相成候に付
 前書の通
 傭繼致候間
 免狀御渡相成候招致度
 此段開申候也

 明治十一年七月二十七日  京都府知事 槇村正直
   外務卿 寺島宗則殿
    京都府とウヰード氏との條約
大日本京都府と米利堅合衆國の産なる
ゼームス・オースタイン・ウヰード氏と條約。
第一條 ゼームス・オースタイン・ウヰード氏を農牧敎師として
    京都府下に明治十一年則洋歷千八百七十八年第五月一日より
    明治十二年則洋歷千八百七十九年第四月三十日迄
    向ふ一ケ年間相傭候事。
第二絛 同氏雇中日本居室一宇可貸渡又
    食料家具奴僕は一切同氏の自費たるべき事。
第三條 同氏給料は雇中一ケ月に付
    貿易銀二百圓宛毎月末に相渡候事。
第四絛 諸規則傳習及時限等を定むる權は
    知事大少書記官及掛長官に在るべき事。
第五絛 同氏農牧取扱に付議すべき事件は
    都て決を掛り長官に取るべき事。
第六條 雇中一切商賣筋に關係不致事。
第七條 日本政府より定むる所の休日の外
    同氏業を怠るときは其日數の給料を可取去事。
第八絛 雇滿期引續き雇入る時は期限前に其事を可相示事。
第九絛 雇期間中府廰傭を止むるときは期限中は給料を可相渡事。
第十條 同氏其職を遂げ兼るときは期限中と雖も雇を止め
    其日より給料は不相渡事。
第十一條 雇期間中病に罹り一ケ月過ぐるときは
     自費を以て代人を出すべし
     三ケ月を經て猶癒ゆざるときは
     其の日より此條約を癈し候事。
 明治十五年五月一日
p17【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p17【実業教育五十年史】昭和11年

   京都府知事   槇村正直
   同大書記官   國重正文
   同少書記官   谷口起考
   米利堅人    ゼームス・オースタイン・ウヰード

 (參考) 學制頒布
     (明治五年八月二日太政官布告第二百十四號)
      ―略―
p18 【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p18 【実業教育五十年史】昭和11年
昭和十一年七月二十五日印刷
昭和十一年八月 一 日發行 【非賣品】
編輯者 靑木 助次
印刷者 長谷川 長
    京都市椹木町西洞院西入
實業敎育五十周年記念會京都支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年04月29日
須知高校 辻垣晃一様
[須知高の高原に響く鐘─京都新聞 丹波版]の『鐘』について
mail 2021/04/15
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年04月13日
須知高の「高原に響く鐘」?⇒『鐘』
【我等の田園生活. 1927刊】昭和3年
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年05月31日
『牧牛傳染豫防法』米國ウイード誌
(ジェームス・オースチン・ウィード)
【明治六年京都府布令書】
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[京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月【実業教育五十年史】昭和11年

[京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月
 蒲生野牧畜場記念碑文
【実業教育五十年史】昭和11年

【実業教育五十年史】昭和11年
   第二章 學制時代に於ける我京都府 p13/311
       實業敎育機關
 明治五年の學制に於ては農工商の實業學校は
中學校の一種として取扱はれ、
其内容に關しては何等規定する所が無かつた。
然るに翌六年の學制追加二編に於ては
之を專門學校の中に認め、
詳しく其の敎科を規定してゐる。
從つて當時の實業學校は今日の實業學校の如く、
高等、中等、初等等の種別は劃然と規程に依りて
分けられてはなかつたが、
大體其の敎科内容によつて區別することが出來る。
 當時代に於ける我が京都府に於ける
 斯種學校は極めて微々として
 僅に左に掲ぐる一校あるのみ

   京都府立農牧學校
 明治二年車駕東幸の後
京都府は人材の養成と産業の振興とを企圖し
先づ維新後の社會狀態の變遷に伴ひて
牛羊等の需要盛なるを察して
牧畜の獎勵に力を入れ、
殊に當時の知事槇村正直氏は頻りに西洋文化の輸入に努め、
明治五年二月、
現在の京都帝國大學附屬病院所在地に牧畜場を開き、
外國の良種を輸入飼育し在來の牛種の改良を圖り、
講習會を開き家畜飼養法を敎授せしめた、
次いで明治九年十一月
船井郡須知村蒲生野の原野を開いて
京都府立農牧學校を設立し
ゼームス・オースタイン・ウヰードを主任として
管内より三十名の自費生を募集し、
家畜の飼養と大農式農場經營を修めしめたのである。
これが京都府に於ける農業敎育の濫觴であり、
駒場農學校、札幌農學校等と共に
我國農業學校設立の先鞭をなすものであつた。
 然るに當時農學の進歩甚だ幼稚にして
未だ實業敎育を解する者尠く、
又當時の京都府の事情にも適しなかつたため
志望者も少なく僅に三年にして
癈止の止むなきに至つた事は
返すがへすも遺憾の極みである。
今尚ほ農牧學校跡として區劃整然たる敷地外濠、
井戸、冷藏庫歷然として存し、
且つ原野には丘陵畦跡の波狀に隆伏せる
當時の努力を追想するに足る。
而して此の學校の所在地は
歷史的に府下農業の先進地として
地方人を刺激する所尠くはなかつた。
加ふるに日露戰役後一般に實業敎育熱の勃興するや、
蒲生野開拓と地方文化の中心となるべき實業學校の設立とが、
地方民の熱烈なる要望となり、
明治四十一年四月
此の歷史ある學校跡に船井郡立實業學校が創立された、
これ現在の京都府立須知農林學校の前身である。
 時恰も實業敎育五十周年の劃期的盛典を迎ふるに際し、
農業敎育揺籃の聖地に現在斯道のために活躍しつゝある
京都府立須知農林學校が苦心調査研究を重ね
或は實地或は當時農牧學校に在勤して存命中の使丁、
牧夫を諸所に訪ねて未だ詳ならざるもの
或は跡あつて明かならざるもの等を正して
茲に整理考證された要點を記して本誌を飾る事にした。

   牧畜場記念文
    蒲生野牧畜場記念碑文に
 本場は京都牧畜場の一派にして
明治九年十月初めて出張所を丹波船井郡須知村金剛寺に置き
米國桑港より耕牛を購需し而して働作に馴練する
京都牧畜場産洋種牧牛を移し同郡蒲生野荒蕪地を開墾し
十年三月本場を茲に設け假農牧學校を立て
米國敎師ゼームス・オースタイン・ウヰードを聘し
生徒敎育を擔任せしむ、
十二年五月期滿ち雇を解き
p13【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p13【実業教育五十年史】昭和11年

悉く生徒を京都中學校に移し豫科學に從事せしむ。
 明治十三年庚申月 京都府知事 槇村正直の命を承け
          勸業課 明石博高 撰之
 以上記念碑は撰文既に成りたるも事故ありて
遂に建碑を見るに至らなかつたのである。
 之に由つて本校の設立は京都牧畜場の分場としての
農牧學校として一時は丹波地方勸農施設の一大光明なりしも、
當時に於ける歐米直輸入の大農場式農場經營の
實際的効果の有無に就ては僅かに三年足らずにして
之を放棄し癈校の運に遭遇せしことゝ見るに由なき次第である。
    一、當時の學校の位置
 京都府誌の錄する處によれば、
船井郡須知村蒲生野とあるも、
事實に徴すれば校地校舍の位置は
現在蒲生野豊田曾根の三字に跨り、
須知町、高原村境界附近
現本校農場附近を中心として
一大偉觀を呈したるものゝ如く思はる。
    二、建物の配置
 農牧學校の建物は山陰街道須知村蒲生
高原村豊田境界附近の西側にあつて、
間口一町、奥行二町に亘り、 ※一町=六〇間=109m
四方に濠を廻らし、
(前方は大濠にして一部分現存す)
壘を造り、 ※原本:疊
その上に生垣を配し、
東西北に各門あり、
一大城廓をなしたものゝ如し。
 學校正門は前述の位置に於て現存する外濠の内側にあり
粗末な角柱二本を以て造り門標を掲げなかつた。
校舎は城廓の中央に平屋建瓦葺のもの二棟、
前方は受付事務所、會議室、職員室に充てられた。
寄宿舎は北方に建築されて一人一室の制度らしく、
之に續いて調理室、小使室、職員官舎等の設備があつた。
寄宿舎に相對して南方にウヰード氏の官舎、
並に職員官舎等が設けられた。
特にウヰード官舎は御殿造にして當地方にて
見得べからざる建築であつたと傳へらる。
 乾草置場、農夫舎、農具舎は街道の西側外濠の前方にあり、
厩屋、飼料室、家畜病舎は街道の東側にありしものゝ如し。
(現在本校孟宗竹林地に當る)
   建物配置圖 ※〔画像〕参照
p14【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p14【実業教育五十年史】昭和11年
昭和十一年七月二十五日印刷
昭和十一年八月 一 日發行 【非賣品】
編輯者 靑木 助次
印刷者 長谷川 長
    京都市椹木町西洞院西入
實業敎育五十周年記念會京都支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《続く》
[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月
【実業教育五十年史】昭和11年
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《太田榮之助》京都府船井郡檜山村【大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月】

《太田榮之助》京都府船井郡檜山村
【大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月】
【大日本篤農家名鑑 [第2冊]明治43年8月】

【大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月】
◎京都府 船井郡 檜山村  p103/319
太田榮之助
室田勝治郎
喜士美一誠
西上 駒吉
中尾喜太郎
山本宇太郎
塙 一太郎
山口 準二
◎島根縣 簸川郡 直江村  p93/319
松村久之助

【大日本篤農家名鑑 [第2冊]明治43年8月】
◎京都府 船井郡 檜山村  p104/323
太田榮之助
室田勝治郎
喜士美一誠
西上 駒吉
中尾喜太郎
山本宇太郎
塙 一太郎
山口 準二
◎島根縣 簸川郡 直江村  p94/323
松村久之助
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《太田榮之助》檜山銀行 京都府船井郡檜山村【日本会社銀行録 虎の巻】明治33年

《太田榮之助》檜山銀行 京都府船井郡檜山村
【日本会社銀行録 虎の巻】明治33年
【銀行総覧 第20回】大正2年

【日本会社銀行録 虎の巻】明治33年
株式會社 檜山銀行   p184/834
     京都府 船井郡檜山村
當銀行の目的は一般銀行の業務を經營するに在り
三十二年九月設立の免許を受け
次て會社の登記を了して營業を開始したり
資本金  三萬圓
總株數  六百
一株拂込 十二圓半
存立期間 未定 役員並使用人不明
頭 取  近藤   環  丹波、船井、檜山村
取締役  山内 勇太郎  丹波、船井、檜山村
同    山内 寛次郎  丹波、船井、高原村
同    船越 藤三郎  丹波、船井、竹野村
同    塙   仁輔  丹波、船井、檜山村
取締役  太田 榮之助  丹波、船井、檜山村
兼支配人
監査役  高見  種吉  丹波、船井、園部町
同    伊藤 熊太郎  丹波、船井、檜山村

【銀行総覧 第20回】大正2年
商   號    株式會社 檜山銀行  p74/250
所 在 地    京都府 船井郡檜山村
資 本 金    三〇、〇〇〇
資本金拂込高   一〇、五〇〇
設  立年月日  明治三二年八月一九日
存立時期年月日  大正 八年八月一八日
代表者氏名    太田榮之助
大正二年八月十三日印刷
大正二年八月十五日發行
大藏大臣官房銀行課編纂
發行兼印刷者 濱田傳三郎
       東京市芝區櫻川町二十番地
印 刷 所  濱田活版所
       東京市芝區櫻川町二十番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《太田榮之助》檜山村 村長【職員録 明治33年(乙)】【職員録 明治41年(乙)】

《太田榮之助》檜山村 村長
【職員録 明治33年(乙)】
【職員録 明治41年(乙)】

【職員録 明治33年(乙)】
◎京都府           p27/231
〇船井郡役所 船井郡園部町  p30/231
郡 長  石田 眞平
村 長
竹 野  船越藤三郎
高 原  山根伊兵衛
質 美  谷  守義
檜 山  太田榮之助
梅 田  辻 幸太郎
三ノ宮  山内伍三郎
下和知  樋口國太郎
上和知  前林 源八
須 知  岩崎茂三郎
※京丹波町のみ記載

【職員録 明治41年(乙)】
◎京都府           p38/321
〇船井郡役所 船井郡園部町  p40/321
郡 長  三宅 武彦
町 長
須 知  荒井宇之助
村 長            p41/321
竹 野  古田良太郎
高 原  篠塚格之進
質 美  竹村 正夫
檜 山  太田榮之助
梅 田  中村彌之助
三 宮  北村 三治
上和知  山口 喜市
下和知  片山 常市
※京丹波町のみ記載
名譽職郡參事會員  p45/321
船井郡       p46/321
太田榮之助     廣瀨常治郎
野間幸治郎     船越彌三郎
小林 弘治
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《太田榮之助》淸酒 比良駒 醸造元 京都府船井郡檜山村【日本商工信用録 〔昭和3年〕 醸造之部】

《太田榮之助》淸酒 比良駒 醸造元
 京都府船井郡檜山村
【日本商工信用録 〔昭和3年〕 醸造之部】

【日本商工信用録 〔昭和3年〕 醸造之部】
太田榮之助  p8/161
京都府 船井郡檜山村
比良駒 醸造元
創   明治三十二年
振   大阪六〇三八九
銀   須知
和知酒造株式會社
京都府 船井郡上和知村

安井福次郎
京都府 船井郡須知町

近藤 敏雄
京都府 船井郡檜山村

京都府 船井郡下和知村

森本 耕作
京都府 船井郡須知町
鬼轉 醸造元
創  約一百年前
電  一〇
銀  須知

淸酒 鬼轉 醸造元
森本 耕作
京都府船井郡須知町
創立 約百年前
銀行 須知銀行

淸酒 比良駒 醸造元  p10/161
太田榮之助
京都府船井郡檜山村
創立 明治三十二年
振替 大阪六〇三八九番
銀行 須知銀行
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《太田源治郞》京都府船井郡檜山村字和田【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】

《太田源治郞》京都府船井郡檜山村字和田
【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】

【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】
  京都府船井郡檜山村字和田
        太田源治郞
 元治元年十二月十三日現住地に生る。
 ※1865年1月10日
資性温順、愛郷の念深く、
明治二十三年(1890)以來公共の事務に參與し、
村長に擧げらるゝこと五回に及び、
其の他府會議員、郡農會長、
郡産牛組合長等の要職に就き、
現に村信用購買販賣組合長として盡瘁す。
殊に終始林業の開發に力を竭し、
其の功績顯著なり。
 檜山村は地積約二千五百町歩なるに、
其の八割卽ち二千町歩は山林地帶にして、
殘り五百町歩に道路あり、河川あり、宅地あり、
僅かに三百五、六十町歩の田畑に
四百六十餘戸の村民が生活の資を求むる狀態なり。
往古運搬不便の爲、山林は財産視されず、
然も右二千町歩の大部分、
卽ち千五百町歩は部落有(舊村八部落)財産にして
二、三部落の外は春季に野燒を爲し、
單に田畑に供用する綠肥採取地として、
粗略極りなき取扱をなし來れり。
氏は此の部落有林地を開發し、
基本財産の造成を行ふは、
土地利用上竝人心統一上極めて緊要なるを痛感し、
先づ村當局と提携して各部落を行脚し、
愛林思想を鼓吹せり。
之が爲、火入は漸次跡を斷ち、
各部落共自由入山制限地を設定し、
天然林造成の爲鎌止をなし、
明治二十八年(1895)頃より、
谷間の地味良好の部分に杉、
扁柏の人工造林を試むるに至れり。
其の後明治三十四年(1901)に至り、
一歩を進めて部落有林の一部分を以て
村の基本財産を造成せんとし、
檜山村基本財産期成同盟會規約を提出し、
其の成立を見たり。
 これ氏が村會議員時代の事なるが、
明治三十六年(1903)よりは村長として衝に當り、
明治三十八年(1905)秋病氣の爲一度退職せしが、
明治四十三年(1910)八月再び村長に選ばれたり。
時恰も全國的に部落有財産の統一督勵せられ、
前記同盟會の滿期も間近となりしかば、
好機逸すべからずとし、
且つ今度は第三期事業なれば最も完璧を期し、
部落財産
p17【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】
p17【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】

全部を村に移し、
合理的、積極的に山林の収益能率を高め、
人心を統一して村民の幸福を增進すべきを期し、
部落有財産統一に關する趣意書を立案提出し、
遂に圓滿裡に決定して、
理想の統一を完了せり。
 斯くして明治四十三年(1910)十二月完全に手續を了し、
直に府に乞うて施業案を作成し、
爾來大正十二年(1923)二月村長滿期退職に至るまで、
十三年間不斷の努力を以て第一線に立ち、
人夫を督勵して植栽及保護手入に當れり。
 昭和五年(1930)四月林業功勞者として新宿御苑の觀櫻會、
昭和九年(1934)十一月同じく觀菊會に御召の光榮に浴せり。
p18【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】
p18【有栖川宮記念厚生資金選奨録 第6輯(昭和13年)】
昭和十三年十二月二十六日
 高松宮出版
   株式會社開明堂印刷
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日
《京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)》
【大日本紳士名鑑】大正5年
檜山村(2,516) p86/1086
太田源治郎 村長・勲七
田中慶次郎 檜山尋高校長
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