《太田榮之助》《太田源治郎》舩井郡檜山村植林事業
【市町村特種事業概要. 第1輯】大正6年
【市町村特種事業概要. 第1輯】大正6年
九 舩井郡檜山村植林事業 p44-46/51
村ノ狀況ト植林
本村は山間谿谷に依りて村落を形成し、
村の全面積は約二千六百餘町歩、
内貳千町歩は山林地にして他は耕宅地道路河川等なり。
而、現在村有林千四百餘町歩は
部落財産を統一して得たるものにして、
天然林と人工林を有し、
其の他は綠肥採取地とし遺憾なく林地の利用を計れり。
目今松林の多くは十五六年乃至二十年生と、
一部分四十年以上のものありて、
松茸の採取料のみにても年額壹千圓以上なりと云ふ。
植林ノ起源沿革
人工植林は明治廿五六年の頃より公有林として
部落有土地の内溪谷の地味良好なる部分に
數千若は數百本づゝの杉苗を植栽し、
爾來年々之を繼續し、
明治四十三年の部落有財産統一の際には
其の數五萬本餘に及べり。
又村事業としての植林は、
明治三十七八年の戰役記念として扁柏三萬本
杉二萬本を植栽したり。
明治四十三年部落財産を統一したる後は、
村事業として左の如く植林を爲せり。
―略―
外三十町歩統一前植込
現況成績
人造杉林は明治二十五六年頃より
各區に於て植栽したるものは三尺廻りに達したり。
村に統一後明治四十四年春以後
連年植栽したる林地は大字小野(この)。
中臺(ちゅうだい)等は發育良好
既に鬱蒼たる林相をなせり。
又七八年生の杉にして
既に長二丈根元廻り一尺六七寸に及べるものあり。
要之、豫想以上の良好なる成績なり。
而、十年以上の松樹は面積約四百町歩、
村積十七萬尺〆め、
價格貳拾五萬五千圓に達ずべく、
新植したる杉檜松等にして今後十年を経なば、
間主伐収入として
年々參千圓乃至貳萬餘圓の年収入を得べく、
全部法正林の狀態となるに於ては、
其年収入額は一定して五萬八千餘圓に達すべく、
伐採跡地の造林及手入費等を控除するも、
五萬餘圓の純収益を得べき豫定なりとす。
附 記
以上の如く秩序ある植林を施行して
富源を開拓せんとしたるは、
實に部落有財産を統一したるに胚胎す。
左に之が統一の狀況と整理の一班を記せん。
本村各部落の處有に屬する植林は、
明治三十四年時の村長太田榮之助及
村有志者間に於て基本財産期成同盟會を組織し、
向ふ十ヶ年間伐木を禁止すると共に
一定の地域に對して關係部落植樹造林の義務を負擔し、
保護育成に因て生する収益を村基本財産として
提供するの約をなしたるに基因す。
爾來十餘年時世の推移と村財政の狀態は更に進で
部落有財產統一の急を告ぐるに至れるを以て、
時の村長太田源治郞就職後專ら此の方面に力を盡し、
趣意書を發表して大に之が必要を唱道し、
一面實地を踏査して林相を評價し、
以て林業經營の必要なることを一般に周知せしむる等、
其の方法を立てゝ勸獎し、
會を重ぬること數回、
村民亦克く此の趣旨を諒し、
舊來の慣例に拘泥することなく、
無償無條件にて擧げて村有に統一することを承諾するに至れり。
統一林野に對しては施業の方法を確立し、
殊に山林の看守は
各所屬部落民の連帶責任とし、
枝打間伐及林道の修築に要する勞役は、
柴草採取者の負擔とし、
專經費の節約を圖り併せて愛林思想の涵養に資する等、
當局者の用意周到なりと云ふべし。
統一したる地目面積左の如し。
一、 田 反 別 一町一反二畝二十一歩
一、 畑 反 別 三反五畝五歩
一、 宅地 反別 三反二十一歩
一、 山林 反別 七百十六丁二反五畝十八歩
一、 雜種地反別 二十町三反七畝二十九歩
大正六年七月 十日印刷
大正六年七月十三日發行
京都府内務部庶務課
印刷者 三上庄治郎
京都市下京區柳馬場三條南入
槌屋町四、五、六番戸
印刷所 似玉堂活版部
京都市下京區柳馬場三條南入
槌屋町四、五、六番戸
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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