2022年06月

[五百羅漢]花屋敷の内に安置してあり【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)

[五百羅漢]花屋敷の内に安置してあり
【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)

【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書 
浅草観世音讃仰会 編纂 (浅草観世音讃仰会本部, 1933)  

【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)p3
〔画像〕【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098418/3

[普門品經文碑]
花屋敷の庭園内にあり、
長さ八尺許り、横六尺に餘る大碑なり、
普門品並びに觀世音像を彫り、
梵文をも刻し、寺中第一の大碑なり。

[五百羅漢 ]
また花屋敷の内に安置してあり。
【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)p39
〔画像〕【浅草観世音案内記】昭和8年(1933)p39
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098418/39

◆現在の淺草寺  p46/49
  ―略―
 四區は、公園の林泉地にして、大池あり瓢箪池あり、
 擂鉢山、中の島等ありて景致を添ふ、
 花屋敷、水族館、亦當區に入る。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098418/46
昭和八年四月十五日印刷 (淺草觀世音案内記)
昭和八年四月廿四日發行 (定價金五拾錢也)
著作兼 多田 好昭
發行人 東京市澁谷區向山三十五番地
印刷人 淺葉 作三
    東京市芝區白金三光町二〇八番地
印刷所 淺草觀世音讃仰會出版部
    東京市芝區白金三光町二〇八番地
    (電話高輪三四七七番)
發行所 淺草觀世音讃仰會本部
    東京市品川區上大崎町五四七番地
    電話高輪三七五二番
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1098418/48
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年04月24日
小野義眞、陶製の五百羅漢:陶工の姓名加藤太兵衞、
尾張の人、瀨戸の直系【随筆春城六種】昭和2年
〇往年、小野義眞、陶製の五百羅漢を作り、
 之れを向島の邸に置く、
 後之れを淺草の花屋敷に移すに迨んで、
 衆庶見て之れを珍とす。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年03月18日
[淺草公園開園祝]羅漢堂 小野義眞 淺草公園第四區 五百羅漢
 明治19年5月【東京市史稿. 遊園篇 第6】
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ゼー・エー・ウヰード 述 附録 童仙房紀行【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)

ゼー・エー・ウヰード 述 附録 童仙房紀行
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)

【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年(1875)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
ゼー・エー・ウヰード 述[他] (京都府勧業場, 1875)  

皇國紀元 二千五百卅五年四月 逐次出版
西洋紀元 千八百七十五年四月 巻數未定
西洋 農學日講隨録
   田代俊二 編輯
京都府勸業場藏版

西洋農學日講隨録
   緒 言
  此書ハ。
  京都府雇入レ農牧教師。
  米利堅國(メリケン)ノ人。
  ゼームス、オースタイン、ウヰード氏ノ
  講述ヲ隨録シタルナリ。
  紀元千八百四十六年ニ上梓シタル。
  米利堅國農學師リチヤールド、ヱル、オーレン氏ノ著ス
  新農學全書ヲ原本トシ。
  教師ノ實檢。
  或ハ目撃スル所ノ論説アオ併セ記ス。
  言ヲ捨テ。
  義ヲ取リ。
  重複ヲ除キ。
  簡便ニ從ヒ。
  專ラ教師示諭ノ㫖ヲ條達シ易
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p3
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/3

  カラシム。
  故ニ必シモ原書ノ行文ニ拘ラス。
  又毫モ私意臆説ヲ加ヘス。
一 昨明治七年甲戌四月十四日。
  業ヲ開キ。
  十二月廿二日。
  業ヲ休ム。
  其講述編輯スル所ノ目次左ノ如シ。
   ―略―
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p4
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p4
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/4

西洋農學日講隨録 巻之一
  京都府牧畜場農牧教師
    米國人 セー、ヱー、ウヰード氏 講述
  京都府勸業課   東  五一 通辯
  京都府勸業課   田代 俊二 編輯
   農學發端
    ―略―
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p7
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p7
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/7

附録
   童仙房紀行
  童仙房ハ。
  山城國相樂郡。
  東南ノ隅。
  衆山ノ巓(イタヾキ)ニ在リ。
  京都府廰ヲ距ルヿ十有餘里。
  荒蕪未開ノ地ナリ。
  維新ノ始メ。
  流亡ノ民ヲ植エ。
  有志ノ徒ヲ移シ。
  其地ヲ墾闢セシメ。
  更ニ支廰ヲ置キ。
  專ラ就産ノ方法ヲ勧奨ス。
  明治七年五月。
  農牧教師米國人ウヰード氏ヲシテ其地ヲ實査シ。
  開拓、樹藝、耘培、牧畜等ノ業ヲ説諭セシム。
  其往返途上。
  質問ノ略ヲ記スルヿ
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p24
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p24
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/24

  左ノ如シ
一 山城國綴喜郡市邉村ニ青谷ト云フ山アリ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/25

一 相樂郡木津驛ヨリ北村ノ間ニ鹿瀨山アリ。
   ―略―
一 相樂郡笠置村ヨリ童仙房ノ途上ニ沙山多シ。
   ―略―
一 童仙房ニテ師自ラ岡ニ登リ。
  概觀ス。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/26

一 童仙房山中ニ粘土多シ。
   ―略―
一 童仙房ニ水田アリ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/27

一 師曰。童仙房ハ開墾未タ久シカラス。
   ―略―
一 帰途木津驛ニ至ル。
  茶樹ノ枯萎スルヲ見ル。
  之ヲ養フ術アリヤト問フ。
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/28

京都府 牧畜場改印
明治八年四月刻成
製本所 書林 田中治兵衛
    京都 寺町通四條上ル町
【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p29
〔画像〕【西洋農学日講随録. 巻之1】明治8年p29
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838701/29
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童仙房の歴史
昭和44年4月に、童仙房の人たちが力を合わせて、
童仙房の歴史を「童仙房開拓 百年の歩み」
という小冊子にまとめ上げました。

南山城村の歴史(童仙房)
明治の開拓
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《別府賢吉》弁護士 旭川信用組合(四代目組合長)【北海道経済の百年】昭和42年(1967)

《別府賢吉》弁護士 旭川信用組合(四代目組合長)
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)

【北海道経済の百年】昭和42年(1967)
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
(北海タイムス社, 1967)  

【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p1
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/1

  大正前期には五金庫の前身  p76/148
本道には市街地が指定されるまでの大正前期に、
産組法の従来の規定による
単営の信用組合が引き続き新設されており、
その中には、
現在の信金の前身となる五つの組合が含まれていた。
旭川(大正三・四)、古平(大正四・十)、根室(大正五・五)、
帯広(大正五・五)、室蘭(大正六・九)の各信用組合である。
(括弧内は設立年・月)

旭川は曲木工芸会社の秋本一也が初代組合長。
当時旭川は、大正二年の大凶作で、
農民はもとより
“中小企業の困苦、言語に絶す”る不況下にあった。
大正七年、本道市街地信用組合の第一号となるが、
秋本の事業の失敗もあって、
大正十二年には破産状態となる。
これを更生させたのは
弁護士 別府賢吉(四代目組合長)であった。

古平(組合長 梅野梅蔵)は
"大正四年秋なかば上る朝日の空高く"の歌声で
「御大典記念有限責任古平信用組合」
という長い名前がついて生まれた。
漁業、加工業者中心でつくった信用組合だ。

根室も同じだが、ここは昭和八年まで、
購・販事業を兼営し続ける。

帯広は高倉治助、
室蘭は小林孝一郎、
いずれも地元の有力資産家が組合長である。
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p76
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p76
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/76

北海道経済の百年
昭和四十二年十月十五日発行
編集人 平塚 正雄
発行人 高柳 幸雄
製 作 中央公論事業出版
発行所 株式会社 北海タイムス社
    札幌市大通西四丁目
    電話札幌(23)〇一三一(代表)
    定価五〇〇円
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p131
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p131
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/131
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天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年(1962)5月

天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年(1962)5月

【建築.(20)】1962-05
著 者   中外出版株式会社
出版者   中外出版
出版年月日 1962-05
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌

天照皇大神宮教本部道場計画    p7/162
設計 大谷幸夫、沖種郎協同
協力・倉橋凡太、加藤実、三秀伸秀、柳沢誠司、
   佐伯匠一
私がはじめて田布施を訪れたとき、
そこに宗教の原型のようなものを感じた。
この体験と、敷地の特異な形状とが一緒になって、
なにかわけのわからない幻想にとりつかれた。
それは半円形の山に沿った渦で、
中心から小さな固まりがとび散っているようでもあり、
逆に中心に向って収斂しているようでもあった。
この渦のおかげで私の計画はなかなか形をなさない。
それでも協同設計のおかげで計画の基本線を把えることができた。
 ―略―
天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p7
〔画像〕天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p7
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/7

天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p8
〔画像〕天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p8
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/8

天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p9
〔画像〕天照皇大神宮教本部道場計画【建築.(20)】昭和37年p9
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/9
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第14回BELCA賞ロングライフ部門表彰物件
天照皇大神宮教 本部道場
所在地   山口県熊毛郡田布施町波野123
竣 工   1964年
用 途   大道場、小道場、事務室、会議室ほか
所有者   宗教法人 天照皇大神宮教
設計者   大谷 幸夫
施工者   清水建設(株)
維持管理者 宗教法人 天照皇大神宮教
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
概要
信者数は国内で約49万人(2018年現在)。
本部は、山口県熊毛郡田布施町大字波野10123。
山口道場は、山口県山口市平井188。
東京道場は、東京都千代田区九段北4丁目3-18。
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イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年(1962)5月

イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年(1962)5月

【建築.(20)】1962-05
著 者   中外出版株式会社
出版者   中外出版
出版年月日 1962-05
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌

イスラエルにたつ原子炉    p35/162
イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年p35-1
〔画像〕イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年p35-1

イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年p35-2
〔画像〕イスラエルにたつ原子炉【建築.(20)】昭和37年p35-2
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/35

イスラエルの原子炉・配置図  p48/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/48

イスラエルの原子炉・ドーム 平面、断面、詳細  p49/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/49

イスラエルの原子炉・柱、壁詳細  p50/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/50

イスラエルの原子炉・1階平面   p51-56/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/51

ニューハーモニー・シュライン 配置図  p57-71/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/57

ニューハーモニー・シュライン      p57-71/162
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2299637/71
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《柴田金三郎・チャー坊の父》報國新聞【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年(1935)

《柴田金三郎・チャー坊の父》報國新聞
【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年(1935)

【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年(1935)
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
全国新聞雑誌通信社聯盟 編 (全国新聞雑誌通信社聯盟, 1935)

【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年p3
【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1688508/3

題  號  報國新聞
發行回數  月三回
發行所   京都市 東山區大和四條上ル 常盤町一三
      報國新聞社
發行人   柴田金三郎
【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年p493
【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年p493
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1688508/493

【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年792
【全国新聞雑誌通信社名鑑】昭和10年792
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1688508/792
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年04月07日
《柴田金三郎・チャー坊の父》京都支部 常任幹事
【大日本生産党十年史】昭和16年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月27日
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
釋 浄 剛
昭和41年1月22日歿 俗名 金三郎 行年 63才
釋 尼 妙 春
昭和58年4月14日歿 俗名 つぎ  行年 73才
春光院法音日和居士
平成6年4月25日歿   俗名 和志  行年 43才
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<追記>[思い出の写真帖]068〔舞谷利治様と愛車〕平成26年7月31日

[思い出の写真帖]068〔舞谷利治様と愛車〕平成26年7月31日

<追記>下乙見区からのお悔やみ2022/06/24

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舞谷利治様 京丹波町下乙見(旧和知町)
平成26年(2014)7月31日
撮影:小野喜代子
場所:明治国際医療大学附属病院
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《舞谷利治様:明治国際医療大学附属病院》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2523413.html
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mail:2022/06/24 (金) 10:03

京丹波町

下乙見区からのお悔やみのお知らせ

下乙見区、舞谷利治さんの母、りよさんが、

6月22日、91歳で亡くなられました。

ご葬儀は、6月24日 午後1時から園部シティホールで、

家族葬で執り行われます。

なお、ご会葬・ご香典は辞退されています。

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《坂本牛松》坂本電器株式會社【京都会社名鑑. 1951年版】昭和26年

《坂本牛松》坂本電器株式會社【京都会社名鑑. 1951年版】昭和26年

【京都会社名鑑. 1951年版】
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
京都商工会議所 編 (夕刊京都新聞社, 1950)  

坂本電器株式會社  p178/277
所在地   東山區淸水五丁目一二七
      (電話 祇園一一三六~一一三九)
設  立  大正五年四月
主要事業  琺瑯鐵器、X線裝置、理化器械、醫科器械製作
資本金額  二、五〇〇千圓
役  員  (社 長) 坂本牛松
      (取締役) 伊藤傳三郎、吉川正男
      (取締役工場長) 藻川四郎
從業員   七〇名
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2459761/178
 「京都會社名鑑」 1951年版
昭和二十五年十月 二十日印刷
昭和二十五年十月二十五日發行
    定價 六百五十圓
編集者 京都商工會議所
    調査課長 山畑 俊吉
發行者 夕刊京都新聞社
    安岡 哲三
發行所 夕刊京都新聞社
    京都市中京區室町通夷川上ル
    電話上六六、九八〇~九八三
    振替口座、京都二五九一六番
印刷者 大日本印刷株式會社
    安達 信雄
印刷所 大日本印刷株式會社京都工場
    京都市右京區太秦上刑部町一〇
發賣所 夕刊京都販賣部
    京都市中京區室町通夷川上ル
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2459761/267
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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京都府官營「農牧學校」の顚末 京都學藝大學高原農場調【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)

京都府官營「農牧學校」の顚末 京都學藝大學高原農場調
【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)

  【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年 [9頁]

【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
(農業發達史調査會, 1950)  

  農業發達史調査會資料
    第26號
京都府官營「農牧學校」の顚末
 京都學藝大學高原農場調
(1) 緒 言            1頁
(2) 創立年月とその異説      1頁
(3) 學校の位置と建物の配置    3頁
(4) 學校組織と生徒規則      4頁
(5) ウイードの人柄について    6頁
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野  9頁
(7) 農学校の遺物について     10頁
(8) 結 尾            11頁
昭和25年9月
  農業發達史調査會
  東京都北區西ケ原町
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/1

  まえがき
 本編は京都大学榎本教授の御厚意により、
明治初期に於ける有畜政策と農業教育の濫觴である
農牧学校に関する記録(京都学芸大学高原農場調)を
筆写したものである。
 農牧学校については一般にしられていないが、
明治新政府が行った下総牧畜場、内藤新宿試験場等と
同時代に出現した全国中最初の地方的施設であり、
稀有なものであった。
 この農牧学校は、当時の明治新政府の勧農製作の底を流れていた
大農論的思想を端的に現わしており、
それが設立後三年足らずで廃校の止むなきに至っていることは、
外国農業技術のプリミチーブな直輸入の挫折を示している。
 本会では明治初期における、
外国農学ないし農業技術の影響の究明を志しているが、
その一資料として参考に供する次第である。
 なお農牧学校について解説したものとしては、
津下剛著「近代日本農政史研究」(昭和十八年・光書房刊)がある。
 昭和二十五年九月
       農業発達史調査会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/2

   目  次
(1) 緒 言            1
(2) 創立年月とその異説      1
(3) 學校の位置と建物の配置    3
(4) 學校組織と生徒規則      4
(5) ウイードの人柄について    6
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野  9
(7) 農学校の遺物について     10
(8) 結 尾            11

(1) 緒 言
 明治九年創立せられた京都府農牧学校は、
現在の駒場・札幌と共に
我国農業教育沿革史上不滅の足跡であるが、
僅か三年足らずして廃校せられた事と、
当時の史料文献の散逸とによって顧みられなくなり、
遂に農牧学校は名実共に斯界から没してしまったのである。
然るに近年実業教育の濫觴の一つであり、
又農業教育沿革史上重要なものとして注目して居る。

〔榎本註〕靑年師範で書いたので教育と云う事に偏している。
当時農牧学校の農場であった
由緒ある京都府立須知農林学校に奉職するものとして、
この尊い郷土の誇りを紹介する、
大口厚顔を辞せず京都府誌に散見せられるものと、
京都府文書課保存の古文書中に発見せられたものと、
現在存命の農牧学校当時の使丁 牧夫等について聽き正し、
整理考証したものを未完乍ら草することにした。

(2) 創立年月とその異説
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/3

   ―略―
(3) 學校の位置と建物の配置
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/4

   ―略―
(4) 學校組織と生徒規則
 学校組織については、次の農牧学校授業生徒規則を見れば、
大体如何なるものであったかは十分伺われる。
其中特に注意すべきは科の分け方で
即ち現業技術と学問講義になっている事で
従って修業年限も現業技術の方は一ケ年半、
学問講義は三ケ年となって、
当時に於ては進歩したやり方の様に思われる。
   職員組織
 主任講師  ゼームス・オースタイン・ウイード
 通  訳  野見織之助  ※能美織之助:下記
 実習教員  一ノ瀨、金重、水島、大島、林
 事  務  大中
 農  夫  北村助三郎、田端才治郎、吉田甚吉(死亡)
 小使兼農夫 岡本房次郎、田端辰之助(死亡)
 授業については、
主任講師ウイードが原書を以って農学を講義すれば、
これを直ちに野見通訳によって訳されたりと伝えらる。
当時の生徒の語学による苦辛は想像以上であったと思われる。
因に生徒の林田弥寿夫氏は ※林田弥寿夫:下記
当時外人によりて
たゝきこまれたる発音に依って老年に至るも会話については、
靑少年に対し屢々注意せられたりという。
 当時の開墾実習については所謂米国の大農式農具を用い
即ち洋牛八頭十頭十二頭を以て開墾し、
其の廻り方の掛声はホーラントシーラントと云い
実に今日に於て見得べからざる盛況なりしという。
 当時の生徒は約四十名で
管内に於て相当勧農思想に意を用いた
裕福な家庭の子弟が大部分占めていたのである。
生徒は全部寄宿舎に収容し、
登校には、初め袴を穿ちたというも、
後には髪を分け、洋服を着し、靴を履き、登校したと伝えらる。
この点から見れば、
ウイードの感化を受けた事は勿論であるが、
当時この丹波にも早や
欧米文化が正に謳歌されつゝあった事が出来る。
  農牧学校規則
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/5

   ―略―
(5) ウイードの人柄について
 明治十一年から十二年にかゝる
外国人傭継届の古文書から考えて見ると
ウイードが農牧学校の主任として赴任したのは
四十八才の男盛りであった。
当時の農牧学校の小使兼農夫であった
故田端辰之助氏の談に依れば
堂々たる体躯と非常な磊落な性格の持主で
趣味としては狩獵で常に洋犬を連れ
二連発銃を肩にして散歩し
特に鳥射には実に妙を得ていたと云われている。
満期解職後は船井郡園部町常盤橋詰に寓居して居た
と伝えられているが
これは地方人の口伝に依るもので
信ずるに足らないものである。

因にウイードの蒲生野に着任するや地方人は
ウイードの肉食するを奇として且之を悪嫌い した為、
ウイードの食用牛の屠殺場を現須知町町葬場に定めたという。
これ地方人が牛墓場と伝うる所以である。

 ウイードは農牧学校主任講師として奉職中の一ケ月の給料は
日本金貨二百円であったことは、
今日から見て当時の雇人一日の給料十五錢に比し
(当時米一升八錢)
外国人に対して如何に優遇していたか窺われる。

 ウイードの傭継の事
 京都簿第二百八十四号
    外国人傭継届
     米利堅人 ヂエームス・オースタイン・ウイード
          当 寅五十才
一 農牧教師
一 給  料 一ケ月ニ付 日本金貨二百円
一 雇継期間 明治十一年即洋暦千八百七十八年五月一日ヨリ
       十二年即チ洋暦千八百七十九年四月三十日迄
       約一ケ年
一 結約所  京都府下
一 住 所  京都府下丹波船井郡第三区蒲生野村
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/6

 京都府ト ウイード氏トノ條約
  ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/7

(6) 廃校の原因とその後の蒲生野
   ―略―
(7) 農学校の遺物について
   ―略―
(8) 結 尾 
   ―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/8

 裏表紙
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/9
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《山﨑 眞宏議員》[ひかり小京丹波検定]について:一般質問(令和4年第2回定例会)6月3日CATV放映

《山﨑 眞宏議員》[ひかり小京丹波検定]について:
一般質問(令和4年第2回定例会)6月3日 CATV放映

PDF:ひかり小京丹波検定問題  8,822KB P22

PDF:ひかり小京丹波検定解説  8,664KB p22
<追記>解説:2022/06/22 14:30

《山﨑 眞宏議員》
[ひかり小京丹波検定]
非常に良く出来ている。
問題集を全戸配布する考えはないか。
回答:その考えはない。
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