2022年12月

《小野ヤス》大阪市住吉區田邊町六丁目[松村一造方ヘ] 【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04

《小野ヤス》大阪市住吉區田邊町六丁目[松村一造方ヘ] 
【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04

《小野又一》 京都帝国大学 工学部 機械工学科
       昭和14年3月卒業

【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04
出版者   日本小児科学会
出版年月日 1939-04

 〇消息    p80/97
小野 ヤス君  p81/97
京都市上京區紫竹ヨリ
大阪市住吉區田邊町六丁目
松村一造方ヘ
p81【児科雑誌 45(4)】1939-04
〔画像〕p81【児科雑誌 45(4)】1939-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/1760319/1/81

【児科雑誌 45(11)】(昭和14年)1939-11
出版者   日本小児科学会
出版年月日 1939-11

◎大阪府 一九五  p99/125
 大阪市 一六八
 住吉區  一三
小野 ヤス 田邊町六丁目
      松村一造方
p99【児科雑誌 45(11)】1939-11
〔画像〕p99【児科雑誌 45(11)】1939-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/1760326/1/99
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野又一:満洲國奉天市葵町三九 齊藤方》
【会員氏名録】昭和15年用~昭和18年用
《小野又一》 京都帝国大学 工学部 機械工学科
       昭和14年3月卒業
【会員氏名録. 昭和15~16年用】
 昭和15年12月10日発行
《小野又一》 高知 工(京) 昭14 機械 p386/664
       満洲飛行機會社
       大阪市住吉區田邊西町六ノ七 松村一造方
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《小野安子》福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

《小野安子》
(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究
【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

※福岡大学
 (正式名)京都帝国大学福岡医科大学
 (現)  九州大学医学部

【小野梓】早稲田大學佛教青年會
著者    早稲田大學佛教青年會 編纂
出版者   冨山房
出版年月日 1926.6(大正15年)
p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/1

表題『小野梓』の三文字は
同氏が國憲汎論發行の際
其の書に題筆せる所のもの、
印顆三個は
同氏が存稿議案批評の題辭に捺せるを
寫したるものにして
氏は之を以て常に其雄墨に用ゐたるものなり。
p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/2

 小野梓先生肖像
p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/3

 先生曾つて小野義眞氏の妹利遠子を娶り、二男三女を生む。
義男、鐵麿其二男及び橡子嬢は夭折せられ、
安子嬢は(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
それより福岡大學に入學を志願し、
破格を以て小兒科敎室に於て研究せられ後
神戸に於て開業せられたりと云ふ。
p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/14

大正十五年六月十七日印刷
大正十五年六月十九日發行 (非賣品)
編纂者 早稻田大學佛敎靑年會
    右代表者 木山十彰
    東京市牛込區岩戸町二十六番地
發行兼 合資會社 冨山房
印刷者 東京市神田區神保町九番地
    右代表者 坂本嘉治馬
p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/47
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野安子(祖母):西太后の主治医にという話
◎同仁會會長大隈重信伯の演説
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野安(安子)]明治39年(1906)頃:九州大学医学部聴講生
小野安子 談
昔、九州大学だけが女性の聴講生を受け入れていた。
※ 明治39 年(1906) 頃 福岡大学で聴講生(小野一雄 調)
※ 九州大学大学文書館 折田悦郎教授に調べて貰いましたが、
  正式な記録は残っていなかった。平成21年(2009)10月8日
  もし、記録が残っていたら、日本で女性・第一号の聴講生です。
※ 福岡大学
 [(正式名)京都帝国大学福岡医科大学 (現)九州大学医学部]
※ 当時、女性に大学入学は認可されていなかった。
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《安井莊次郎君》安井航空機研究所主 昭和3年10月30日殉職【航空殉職録 民間編】昭和11年

《安井莊次郎君》安井航空機研究所主
昭和3年10月30日殉職
【航空殉職録 民間編】昭和11年

【航空殉職録 民間編】昭和11年(1936)
著者    航空殉職録刊行会 編
出版者   航空殉職録刊行会
出版年月日 昭11

安井航空機研究所主  p180-181/184
二等操縦士  安井莊次郎君
  京都 西陣
  昭和三年十月三十日殉職
 君は京都西陣の染物問屋の息子として生る。
實家は非常な資産家なりしが、
君幼少の頃より飛行機に趣味を持ち、
大正六年大阪に於て開かれし
子供博覽會に於て、
高左右隆氏の出品せし
ホールスカツト六十馬力の發動機を買入れ、
自ら飛行機を製作し
之を各務ヶ原が未だ陸軍飛行場とならざりし前に
同機を同所へ持ち出し、
單獨にて練習飛行を始めたるを第一歩とし、
あらゆる辛酸を嘗め、
飛行界に在る事十有二ヶ年の長年月に亘り、
民間飛行家の長老として一角に重きをなし、
京都市外須知町に自ら安井航空機研究所を設け、
飛行機操縦士の養成に努め、
君の爲利する者多數ありたりしが、
昭和三年十月二十一日
大阪市木津川尻の國際飛行場を根據地とし催されたる、
帝國飛行協會主催の御大禮記念特別飛行大會に
君も選ばれて參加し、
優秀なる成績を以て其競技を終へ、
其後數日國際飛行場に滯在せしが、
十月二十五日須知町に歸航せんと
p180【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p180【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/180

午後二時五分、
愛機甲式三型を操縦し離陸、
約十米の高度に達せし時
發動機に故障を生じ、
忽ち錐もみ姿勢となり左に半旋回をなし、
場の東北隅に墜落、
兩翼を大破し、
君は右前額部に長さ十ミリ
骨膜に達する重傷を受け人事不省に陥り、
直ちに駈け付けし地上員に依りて
港區鶴町二丁目賀用病院に入院し、
手當を受けたりしが
胸部の打撲傷等の致命傷に依り、
遂に六日目の十月三十日午前七時三十分逝けり。
 君の業績は比較的に地味なる飛行生活を爲せし爲か、
古參熟練者乍ら割合に名をうたはるゝ機會少なかりしも、
專心後輩の敎育に務めたる事は特記すべき事にして、
又關東大震災には義侠的に
各務原、大阪間に郵便物の輸送飛行を行ひ、
帝國飛行協會より有功章を附與されしは
君の飛行生活を飾る一頁也。
  航空殉職錄 民間編 終り
昭和十一年四月 十日印刷
昭和十一年四月十五日發行 航空殉職錄 民間編 奥附
發行兼 淺田 禮三
編輯人 東京市四ツ谷區上馬町三丁目千六番地
印刷人 堀  修造
    東京市牛込區榎町三十四番地
印刷所 大日本印刷株式會社
    東京市牛込區榎町七番地
發行所 航空殉職錄刊行會
    東京市京橋區築地三丁目八番地
    會 長 陸軍大將 井上幾太郎
    副會長 海軍中將 安東 昌喬
    副會長 陸軍中將 淺田 禮三
p181【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p181【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/181
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安井飛行研究所勤務 民間練習生《日向晃君》《加藤兼次郎君》大正13年6月12日殉職【航空殉職録 民間編】昭和11年

安井飛行研究所勤務 民間練習生
《日向 晃君》
《加藤兼次郎君》
大正13年6月12日殉職
【航空殉職録 民間編】昭和11年

【航空殉職録 民間編】昭和11年(1936)
著者    航空殉職録刊行会 編
出版者   航空殉職録刊行会
出版年月日 昭11

安井飛行研究所勤務
 民間練習生  日向 晃君  p119-120/184
   石川縣金澤市
   大正十三年六月十二日殉職
p119【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p119【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/119

 君は明治三十八年を以て石川縣金澤市に生る。
 幼時より資性英邁學に在るや
常に優良の成績を擧げ、
長ずるに及び切に民間飛行家を希望し、
寸暇あれば斯道研究書を讀破し
其の知識を得、
京都市外須知町安井研究所に入所し、
安井莊次郎氏の指導の下に研磨練習に猛進せし折、
大正十三年六月十二日
ソツピース式二型機に同僚と同乘し、
安井飛行場附近上空を飛行中
ガソリンタンクより氣化器に至る
燃料管の接合箇所ゆるみ、
ガソリンの漏洩せるに氣付かず
二百米の高度に於て突然排氣ガスより引火し、
機は忽ち猛火に包まれ、
君は死力を盡し場外田圃に不時着するを得たりしが、
突如爆發せしタンクのガソリンを全身に浴び、
爲に火達磨となり大火傷を負い、
遂に機も金屬部を殘すのみにて、
之より雄飛せんとする君業中ばにして
悲壮なる殉職を遂げたり。
p120【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p120【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/120

安井飛行研究所勤務
 民間練習生  加藤兼次郎君  p178-179/184
   滋賀縣愛知郡西押立村大字横溝
   大正十三年六月十二日殉職
 君は滋賀縣愛知郡押立村大字横溝の人にして、
京都市外須知町の安井飛行研究所に入所し、
安井莊次郎氏の指導の許に操縦術の習得に努力中
大正十三年六月十二日、
同研究所のソツピース二型機(ローン八十馬力)に
日向氏を同乘して飛行場附近の上空を飛行中、
ガソリンタンクから氣化器に至る
燃料管の接合箇所ゆるみて、
ガソリンの漏洩せるに氣附かず、
ために二百米の上空にて突然排氣ガスより引火し、
機は忽ち猛火に包まれしため場外の田圃に逃がれ、
無事着陸せしも、
爆發したタンクのガソリンを全身に浴びて火だるまとなり、
大火傷を負い、間もなく絶命す、享年二十五歳。
p178【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p178【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/178

尚、大阪中央電話局に事務員として勤務中なりし
君の實妹志津子さん(二三)は、
空しく挫折せし君の飛行機に對する熱情に感激し、
その意思を継いで飛行家として立派に成功、
以て君の靈を慰めんと悲壮なる決意を持して、
安井飛行研究所へ入所したり。
p179【航空殉職録 民間編】昭和11年
〔画像〕p179【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/179
昭和十一年四月 十日印刷
昭和十一年四月十五日發行 航空殉職錄 民間編 奥附
發行兼 淺田 禮三
編輯人 東京市四ツ谷區上馬町三丁目千六番地
印刷人 堀  修造
    東京市牛込區榎町三十四番地
印刷所 大日本印刷株式會社
    東京市牛込區榎町七番地
發行所 航空殉職錄刊行會
    東京市京橋區築地三丁目八番地
    會 長 陸軍大將 井上幾太郎
    副會長 海軍中將 安東 昌喬
    副會長 陸軍中將 淺田 禮三

〔画像〕p181【航空殉職録 民間編】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219241/1/181
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【日本航空史 乾】昭和11年(1936)
著者    高橋重治 著
出版者   航空協会
出版年月日 昭11
(二八)民間練習生 加藤兼次郎氏(操縦)
    同     日 向 晃氏(同乘)
    大正十三年六月十二日
〔略歴〕加藤氏 享年二五。
    日向氏 享年二〇。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1222329/1/1176
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【航空忠魂録】昭和16年(1941)
著者    日本軽飛行機倶楽部東京帆走飛行研究会図書部 編
出版者   日本軽飛行機倶楽部東京帆走飛行研究会図書部
出版年月日 昭和16
 航空忠魂錄 目次     p7/533
   民間篇        p447/533
  安井飛行機研究所勤務  p460/533
練習生 加藤兼次郎
練習生 日向  晃
https://dl.ndl.go.jp/pid/1682928/1/460
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《安井莊次郎》飛行場許可:安井航空機研究所(須知町字院内)【官報 1922年12月09日】大正11年

《安井莊次郎》飛行場許可:安井航空機研究所(須知町字院内)
【官報 1922年12月09日】大正11年

【官報 1922年12月09日】大正11年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正11年

  ◎飛行場許可  p7/22
京都府知事ハ航空取締規則第十八條ニ依リ
本年十月三十日附ヲ以テ
左記場所ヲ航空機離箸陸場トシテ許可セリ
一、所在地 京都府船井郡須知町字院内、
      曾根及高原ノ一部(院内野原)
二、管理者ノ氏名及名稱
      京都市下京區魚棚通室町西入魚屋町二四一
      管理者 安井莊次郎
      名稱  安井航空機研究所
三、面積  二〇四、〇三八坪
      (現在地均セル場所約四萬坪)
四、恒風位 秋ヨリ冬ノ間  北西ノ風
      春ヨリ夏ノ間  東南ノ風
五、許可期間 大正十一年十月三十日ヨリ無期間
p7【官報 1922年12月09日】大正11年-1-50
〔画像〕p7【官報 1922年12月09日】大正11年
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[製造者]安井莊次郎氏[機名]安井式第3號[製造]大正10年【海と空 4(臨時增刊)】昭和10年(1935-05)

[製造者]安井莊次郎氏[機名]安井式第3號[製造]大正10年
【海と空 4(臨時增刊)】昭和10年(1935-05)

【海と空 4(臨時增刊)】昭和10年(1935-05)
出版者   海と空社
出版年月日 1935-05

[機 名]安井式第3號
[製造者]安井莊次郎氏
[製 造]大正10年
[發動機]カーチス OX5型 水冷式 V型 100馬力
[座 席]2
[重 量]自重 680瓩 搭載量 230瓩 全備重量 910瓩
[性 能]最大速度 145粁/時
     巡航速度 113粁/時
     着陸速度 73粁/時
     上昇時間 1000米迄3分30秒
     航續時間 4時間
[寸 法]全幅 8.55米 全長 5.80米 全高 2.90米
p52【海と空 4(臨時增刊)】1935-05
〔画像〕p52【海と空 4(臨時增刊)】1935-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/1499399/1/52
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【日本の航空50年】昭和35年(1960)
著者    郡捷, 小森郁雄, 内藤一郎 編
出版者   酣灯社
出版年月日 1960

安井式3号 p44/261
高左右式6号機で練習を積んだ安井莊次郎氏が、
大正10年春に自作した複葉機。
発動機はカーチスOX5型90hp[100hpともいう]を装備し、
全幅8.55m、全長5.80m、乗員2名、
自重680kg、搭載量230kg、総重量910kg、
最大速度145km/h、巡航速度113km/h、着陸速度73km/h、
上昇時間1,000mまで3分30秒、航続4時間。〔178〕
p44[安井式3号]【日本の航空50年】昭和35年
〔画像〕p44[安井式3号]【日本の航空50年】昭和35年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2427809/1/44
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

【道標八十年】1967(昭和42年)
著者    村上謙次郎 著 [他]
出版者   村上謙次郎
出版年月日 1967

  喜寿を祝して
昭和三十七年十月十三日は、
私の喜寿の日であるが、
芝蘭会香川本部では、
一ケ月おくれの十一月十三日の夜、
高松市内第一生命ビル内の交蘭クラブで、
喜寿祝賀会を開かれた、
集まった会員約四十名が、
たのしく、なごやかにすごしたが、
会員からあった述懐、
追慕のかずかずの言葉は、
なつかしい思い出を残した。
この稿は昭和三十八年一月発行の
芝蘭会香川支部会報の記念号に集録された
当夜の談話を要約再録したものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/31

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
 私ごとを申し上げて、
はなはだ失礼なんでございますが、
私、実は長く捕虜になっておったものですから、
  ※捕虜:昭和20年8月~昭和28年8月

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』
  [左京医報2011年12月号(548号)]
  昭和15年 旧陸軍軍医(満州)~20年8月
  昭和28年 京大病院外科副手助手~ 31年1月
  昭和31年 香川県 高松赤十字病院外科部長
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
  叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
  昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ
  同船の団長:足立道五郎先生
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  【満州引揚】《小川清久》
  [高砂丸帰還者名簿]舞鶴入港 昭和28年8月11日

芝蘭会の支部に属したというのは、
この高松が初めてでございまして、
芝蘭会に関係した何事かありますと、
すぐに村上先生のところへ持ち込みまして、
無理難題を申し上げるんですが、
いつもスラスラと解決していただけますし、
また先生ご自身にご厄介を非常にかけております。
先生は、私のずっと前に、
日赤におきまして外科の医長もされておられますので、
直接手をとって、
ご指導はいただかなかったんでございますけれども、
ほんとうに道士と申しますか、
ほんとうの人生の先生だというふうに
感じておる次第でございます。
今後も何とぞよろしく
御指導のほどをお願いいたします。
先生のご健康を心からお祈りいたします。
 足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
〔画像〕足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/34

村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
 村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
※前列 左から三人目 足立道五郎先生
 撮影:昭和37年(1962)11月13日(火)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/44
道標八十年 (非賣品)
昭和四十二年九月二十日発行
発行者 村上謙次郎
    高松市幸町七六ノ四
編集者 後藤 通久
印刷者 香川印刷株式会社
    杉山 桂三
    高松市鍛冶屋町
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/216
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【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
著者    帝都教育会 編
出版者   帝都教育会
出版年月日 昭14
 參列者名簿   p243/393
京都帝國大學   p244/393
配屬將校
 歩兵大尉 櫻井 忠記
 引卒者  長崎 太郎
  〃   豐田 多八
 學 生  島  義之
      木村  博
      淺田  茂
        ―略―
      足立道五郎
        ―略―
p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
〔画像〕p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1685252/1/244
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【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 昭和32年
◇高松赤十字病院   p393/643
足立道五郎 外科医長
兵庫県出身 大5.10.31生
昭和15年京大卒 登録番号94304号
昭和31年1月現職
p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
〔画像〕p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/8798105/1/393
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《江沼孝太郎》満洲飛行機製造(株)発動機部長【全日本紳士録 昭和40年版】

《江沼孝太郎》
満洲飛行機製造(株)発動機部長
日本ミネチュアベアリング(株)副社長
ビユーテイカメラ(株)取締役
【全日本紳士録 昭和40年版】

【全日本紳士録 昭和40年版】
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1965
《江沼孝太郎》 p167/1019
産業開発(株)企画部長
朝日精機(株)顧問
富山県出身
東京都杉並区在籍
明治42年5月17日生
昭和6年物理学校 数学科 ※下記:卒業名簿に記載なし
経 満洲飛行機製造(株) 発動機部長
  日本ミネチュアベアリング(株) 副社長
  ビユーテイカメラ(株) 取締役
趣 音楽・読書
住 東京都杉並区上高井戸三ノ六六九
  (電)398-二七五七
勤 産業開発(株) (電)251-三四六〇・254-四三二五
 p167【全日本紳士録 昭和40年版】
〔画像〕p167【全日本紳士録 昭和40年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/3041322/1/167
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【東京物理学校一覧 昭和11年度】
著者    東京物理学校 編
出版者   東京物理学校
出版年月日 昭11
第八十回 昭和六年三月卒業 p67-68/97
江沼孝太郎 記載なし
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
当時の組織の一部は次のとおり。 p40
北機械製作処
処長 武石喜三
副  富永五郎
副  松尾四郎
機体部  部長 富永五郎
発動機部 部長 江沼孝太郎
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《江沼孝太郎》ビューティカメラ取締役工場長【北日本年鑑 1962年版】昭和37年

《江沼孝太郎》ビューティカメラ取締役工場長
【北日本年鑑 1962年版】昭和37年

【北日本年鑑 1962年版】昭和37年
著者    北日本新聞社 編
出版者   北日本新聞社
出版年月日 1962
《江沼孝太郎》
ビューティカメラ取締役工場長
東京都杉並区上高井戸三の六六九
(富山県)明治42・5・17
 p202【北日本年鑑 1962年版】
〔画像〕p202【北日本年鑑 1962年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2985225/1/202
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《江沼孝太郎》日本ミネチュアベアリング株式会社【東京都立工業奨励館報告 (8)】(昭和34年)1959-03

《江沼孝太郎》日本ミネチュアベアリング株式会社
【東京都立工業奨励館報告 (8)】(昭和34年)1959-03

【東京都立工業奨励館報告 (8)】(昭和34年)1959-03
著者    東京都立工業奨励館 [編]
出版者   東京都立工業奨励館
出版年月日 1959-03
ミネチュアベアリングの摩擦トルクの測定 p13-14/44
 研究者 太田 信之(機械部)
     江沼孝太郎(日本ミネチュアベアリング株式会社)
     木村 衍夫(千葉工業大学)

p13【東京都立工業奨励館報告 (8)】1959-03
〔画像〕p13【東京都立工業奨励館報告 (8)】1959-03

p14【東京都立工業奨励館報告 (8)】1959-03
〔画像〕p14【東京都立工業奨励館報告 (8)】1959-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/2341501/1/13
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