2023年01月

世木澤藤三郎商店【北海道産業発達史 前編】大正7年

世木澤藤三郎商店【北海道産業発達史 前編】大正7年

【北海道産業発達史 前編】大正7年
著者    中外産業調査会 編
出版者   中外産業調査会
出版年月日 大正7
  世木澤藤三郎商店 p290-291/453
 一家を舉げて移住
成功の秘訣は熟慮斷行である。
斷行の意氣はやがて邁進の勇氣であつて、
堅忍不抜よく初一念を貫徹するもの
實に之れあるに因るので
旭川雜穀商の巨頭世木澤藤三郎氏が
今日の盛運を@ち得たるが如き、
洵に其の好模範たるを失はぬのである。

氏は明治七年四月八日を以て
 ※明治九年九月三日
丹波何鹿郡綾部町の農家の生れ、
 ※京都府船井郡竹野村字新水戸
長ずるに及んで雄志漸く禁じ難く
切に志を舒ぶるの地を求めて居たが、
偶々同郷の先輩田中敬造氏が北海道に移住し、
未だ十年ならずして既に異常の成功を
収めつゝある由を聞き、
密かに本道の開拓に着眼して
機の到るのを待つて居た。
  ―略―
 本道第一の澱粉王
https://dl.ndl.go.jp/pid/957623/1/290

 五百町歩の大地主
https://dl.ndl.go.jp/pid/957623/1/291
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《小野榮一郎》京大囑託 工學士【機械力学 (応用力学叢書 ; 3)】昭和22年

《小野榮一郎》京大囑託 工學士
【機械力学 (応用力学叢書 ; 3)】昭和22年

【機械力学 (応用力学叢書 ; 3)】昭和22年
著者    中村行三 著
出版者   産業図書
出版年月日 昭和22
  應用力學叢書
 京都大學敎授 工學博士 菅原菅雄 監修
應用熱力學 京大囑託 工學士 小野榮一郎 著
【機械力学 (応用力学叢書 ; 3)】昭和22年p120
〔画像〕【機械力学 (応用力学叢書 ; 3)】昭和22年p120
https://dl.ndl.go.jp/pid/1059047/1/120
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《小野榮一郎》愛知化學工業株式會社【同窓會員名簿 昭和17年度】六高同窓會

《小野榮一郎》愛知化學工業株式會社
【同窓會員名簿 昭和17年度】六高同窓會

【同窓會員名簿 昭和17年度】
出版者   六高同窓會
出版年月日 1942.7
【同窓會員名簿 昭和17年度】p1
【同窓會員名簿 昭和17年度】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/1910593/1/1

 昭和十一年(第三十四回)卒業
 〇理科乙類  p79/121
小野榮一郎 岡山 工
愛知化學工業株式會社
名古屋市昭和區長池町四ノ七
【同窓會員名簿 昭和17年度】p79
〔画像〕【同窓會員名簿 昭和17年度】p79
https://dl.ndl.go.jp/pid/1910593/1/79
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《小野栄一郎・小野又一》入會【機械学会誌 40(242)】昭和12年(1937)

小野栄一郎・小野又一》入會【機械学会誌 40(242)】昭和12年(1937)

【機械学会誌 40(242)】昭和12年(1937)
出版者   機械学会
出版年月日 1937-06
  入退會者(昭和12年4月並に5月承認)
   入會者
 氏  名  経    歷    紹  介  者
 准 員
小野栄一郎 京大工学部機械科在 菊川淸作君、田伏敬三
小野 又一 同       上 同   君、同   君
【機械学会誌 40(242)】p34
〔画像〕【機械学会誌 40(242)】p34
https://dl.ndl.go.jp/pid/2312896/1/34
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《小野栄一郎》独語部 昭和9-10年度【旧制高等学校物語 第6 (六稜外史-六高篇)】1965

《小野栄一郎》独語部 昭和9-10年度
【旧制高等学校物語 第6 (六稜外史-六高篇)】1965

【旧制高等学校物語 第6 (六稜外史-六高篇)】1965
著者    財界評論社 [編]
出版者   財界評論社
出版年月日 1965
 独語部々史   p101/474
六高校友会に於て独語部が創立されたのは
明治三十九年である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9545878/1/101
昭和九年度 部長 山岡教授、
      委員 森本照夫、宮田竜介、
         田中卓郎、小野栄一郎。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9545878/1/104
昭和十年度 部長 山岡教授、
      委員 田中卓郎、小野栄一郎、
         藤井 重、向井正文。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9545878/1/105
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《淸酒醸造家氏名》現・京丹波町【日本酒類醤油大鑑】昭和11年

《淸酒醸造家氏名》現・京丹波町
【日本酒類醤油大鑑】昭和11年

【日本酒類醤油大鑑】昭和11年(1936)
著者    醸界新聞社 編
出版者   醸界新聞社
出版年月日 昭11
 淸酒醸造家氏名  p205/416
代表マーク 石 數  氏  名   住   所
白 雉   一〇九 岩崎久左衛門 京都府船井郡須知村
比良駒   一一〇 太田 平馬  京都府船井郡檜山村
富政宗   三〇五 片山酒造(株) 京都府船井郡高原村
福 壽   三七八 安井 一郎  京都府船井郡須知村
皷 山   一一三 近藤 敏雄  京都府船井郡檜山村
山陰丹海  三〇七 寺井 光一  京都府船井郡下和知村
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263562/1/205
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《檜山銀行・京都府船井郡檜山村》【日本会社銀行録 虎の巻】明治32年

《檜山銀行・京都府船井郡檜山村》
【日本会社銀行録 虎の巻】明治32年

【日本会社銀行録 虎の巻】明治32年
出版者   国之礎社
出版年月日 明32,33
《株式會社 檜山銀行》 p184/834
京都府  船井郡檜山村
當銀行の目的は一般銀行の業務を經營するに在り
明治三十二年九月設立の免許を受け
次て會社の登記を了して營業を開始したり
資本金  三萬圓
總株數  六百
一株拂込 十二圓半
存立期間 未定、役員並使用人不明
頭 取 近藤  環 丹波、船井、檜山村
取締役 山内勇太郎 丹波、船井、檜山村
同   山内寛次郎 丹波、船井、高原村
同   船越藤三郎 丹波、船井、竹野村
同   塙  仁輔 丹波、船井、檜山村
取締役 太田榮之助 丹波、船井、檜山村
兼支配人
監査役 高見 種吉 丹波、船井、園部町
同   伊藤熊太郎 丹波、船井、檜山村

【日本全国諸会社役員録 明治33年】
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
《株式會社 檜山銀行》 p156-157/804
京都府 船井郡檜山村
設 立 明治三十二年九月
資本金 參萬圓
一 株 五拾圓
拂込高 七千五百圓
預リ金 九千六百七拾六圓
頭 取 近藤  環 船井郡檜山村
取締役 山内勇太郎 船井郡檜山村
同   山内寛治郎 船井郡高原村
同   船越藤三郎 船井郡竹野村
同   塙  仁輔 船井郡檜山村
取締役 太田榮之助 船井郡檜山村
兼支配人
監査役 高見 種吉 船井郡園部町
同   伊藤熊太郎 船井郡檜山村

【日本全国諸会社役員録 明治36年】
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
《株式會社 檜山銀行》 p184/947
京都府  船井郡檜山村
設 立  明治三十二年九月
資本金  參萬圓
一 株  五拾圓
拂込高  七千五百圓
諸積立金 九百五十圓
諸預リ金 壹萬六千圓
利益配當 前期及前々期 年壹割
頭 取 近藤  環 船井郡檜山村
取締役 山内寛治郎 船井郡高原村
同   塙  仁輔 船井郡檜山村
同   山内勇太郎 船井郡檜山村
同   船越藤三郎 船井郡竹野村
同   太田榮之助 船井郡檜山村
監査役 高見 種吉 船井郡園部町
同   伊藤熊太郎 船井郡檜山村
同   北村 三治 船井郡三宮村
支配人 中川 省二 船井郡檜山村
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船井郡の内 現 京丹波町【大日本紳士鑑】明治28年(1895)

船井郡の内 現 京丹波町【大日本紳士鑑】明治28年(1895)

【大日本紳士鑑】明治28年(1895)
著者    妹尾久造 編
出版者   経済会
出版年月日 明28.4
[大日本紳士鑑]p344/788
 目  次
〇東京府  p263/788
北豐島郡  p343-345/788
南千住町  小野 義眞
〇京都府  p350/788
船井郡   p368-369/788
須知村   岩崎茂三郎
仝     谷  嘉吉
仝     川合 茂市
仝     森本安兵衛
高原村   篠塚格之進
檜山村   近藤  環
仝     伊藤熊太郎
梅田村   辻  米造
三ノ宮村  北村德之丞
上和知村  山本 喜藏
〇兵庫縣  p420/788
〇長崎縣  p439/788
〇嶋根縣  p652/788
明治廿八年四月十四日印刷
明治廿八年四月二十日發行  定價金參圓
編輯兼 妹尾 久造
發行者 東京市麻布區霞町六番地
印刷者 久米川治三郎
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
發行所 經濟會本部
    東京市麻布區霞町六番地
印刷所 國文社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
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《伊賀とら》の二代目「鈴木さだ」“伊賀家さだ” 【Museum (143)】昭和38年

《伊賀とら》の二代目「鈴木さだ」“伊賀家さだ”
 【Museum (143)】昭和38年

【Museum (143)】昭和38年(1963)
著者    東京国立博物館 編
出版者   東京国立博物館
出版年月日 1963-02

p1【Museum (143)】昭和38年(1963)
p1【Museum (143)】昭和38年(1963)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4429532/1/1

 p2-1【Museum (143)】昭和38年(1963)
p2-1【Museum (143)】昭和38年(1963)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4429532/1/2

日本服飾美術展余話  p8-9/21
 埋もれた結髪伝承者 橋本澄子
 ところで陳列ケースの片隅に、
小さく「鈴木さだ」と記されているのに
気づいた人はあまりなかったようだ。
じつはこの人が、
貴重な技術の伝承者であり、
髪結の手を再現した人である。
 私が鈴木さんを知ったのは
今から七、八年前であった。
ある友人に、一風変った髪結いさんを紹介する、
なにかと便利だろうから、といわれ、
美容師ではなく髪結いという言葉に、
ひどく魅かれた私は
ぜひ逢ってみたいと思った。
その店は柳橋の浜町河岸に近い下町にあった。
道々友人の語ったところによると、
自分は美容師ではなく、
最後の髪結いだ、といって、
弟子たちにはパーマネントをやらせ、
自分は日本髪だけを一途に
結いつづけているということだった。
明治のころから、大正にかけて、
その道では名人といわれた
伊賀とらが彼女の師で、
少女のころから見習奉公にはいり、
いまは伊賀とらの二代目としての
生きのこりだという。
“伊賀家さだ”というのが
この人の号である。
 私は、いかにも名人気質の
種な人物を想像していた。
しかし私の逢った人は、
非常にさばさばした人のよさそうな
小母さんであった。
ただ変っているといえば、
美容室の主人にしては、
紅一つ塗らず、パーマもかけない、
ザンギリ頭が、それらしく感じさせた。
世にいう紺屋の白袴か、
あるいは、かなりあまのじゃくな性格であろうか。
 p8-1【Museum (143)】昭和38年(1963)
p8-1【Museum (143)】昭和38年(1963)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4429532/1/8
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《伊賀とら》さんのなさる美術は生きた人間を相手にする美術である【美容全集】山本久栄著 昭和2年

《伊賀とら》さんのなさる美術は
生きた人間を相手にする美術である
【美容全集】山本久栄著 昭和2年(1927)

【美容全集】昭和2年(1927)
著者    山本久栄 著
出版者   騒人社書局
出版年月日 昭和2


   巻後に  山本久榮  p203-209/213
 私は幼少の時から手先が器用でありました。
種々家庭の事情などもあつて、
何か職業を覺えてそれで身を立てる決心を致しました。
それでいろんな技藝を研究して見ましたが、
何をやつても一
家五六人を養ふことの出來る仕事は容易にありません。
最初裁縫をやり、それから料理をやり、體操をやりました。
が、それで學校の敎師になつても
其の時分では二三人の家族を養ふことはどうやら出來ても、
一家五六人を養ふことは到底六ケ敷いことでした。
詰まり男子なれば格別、
女の痩腕で稼ぐ高は知れたものでした。

 明治四十三年の三月頃のこと、
大阪のさる親類に婚禮があつて
   blog[小野一雄のルーツ]改訂版
   十九年前の花嫁ゆう子の美顏化粧に
   名髮結 伊賀とらの紹介
   【世界一周旅日記】昭和11年
私はお手傳ひに行つて働いて居りました。
其の親類といふのは香水商で隨分の資産家でしたから、
婚禮の衣装は金にあかして拵へましたが、
餘り衣裳が立派過ぎて
大阪京都には其の衣裳に合はして
髪を結ふ髪結
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192218/1/203
さんがありませんでした。
どんな髪結さんを連れて來ても
ぴつたりとあひません。
それで方々髪結さんを探し廻つた結果、
《伊賀とら》さんならばよかろう
といふことになつて、
東京から態々、
大阪へ來て貰ふことになりましたが、
其の時極めた報酬が
一日五十圓で五日間といふ約束でした。
今日でこそ五十圓は何でもありませんが、
明治四十三年頃の相場とすれば大變なものでした。
それもたかだか髪結さんの身で
一日五十圓の報酬と聞いては
誰でも驚かずには居られませんでした。
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明治43年 50円/日
現在に換算 50×1,500=75,000円/日
三菱MUJF信託銀行
貨幣価値・今昔物語
1901年(明治34年)の企業物価指数は0.469、
2019年(令和元年)は698.8です。
つまりおよそ1,490倍の差があることがわかります。
そのため1円は1,490円の価値があるといえます。
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 今もよく覺えて居りますが、
其の時の衣裳は、
振袖の色直しの模樣が
紫紺の地に雪の下の總模樣でした。
着物は黑に若松、
それが襟模樣になつてゐるのであつて、
當時襟模樣といふものはめづらしいもので
振袖はみなで五つ重ねありましたが、
《伊賀とら》さんが髪を結ひますと、
どれを着替へても不思議なくらゐよく似合ふのでした。
衣装と髪との配合が何とも云へず宜ろしくて、
其のために花嫁の姿が
どれ程引き立つたことか知れませんでした。
式は無論島田で色直しは束髪を結ひました。
 私は側でそれを見てゐて非常に感動させられました。
それ迄私は髪ひといふ仕事がこれ程
高尚な仕事であることを知らなかつたのです。
これは立派な美術であると私は思ひました。
私も其の前に東京の女子美術學校へ入つて
裁縫や刺繍や造花を學びましたが、
私の手先でする美術は
《伊賀とら》さんの美術と比べると
遠く及ばないことを悟りました。
「これは大したものだ」
 と私は思ひました。
私の造る造花などは只床の間の飾り物である。
《伊賀とら》さんのなさる美術は
生きた人間を相手にする美術である。
どうせ自分も美術を志すなれば、
生きた人間を相手にしてやつて見度い、
《伊賀》さんも手が二本あれば私も手が二本ある、
同じ人間の手に變りはない筈、
《伊賀》さんに出來ることなら
私にだつて出來ない道理はないと思ひました。
自分も髪結ひを覺えて髪結ひさんになつて
身を立てようと深く決心致しました。
それに前にも申す通り
《伊賀》さんは一日五十圓の報酬を取る腕をもつてゐる。
自分もどうかして《伊賀》さんのやうな
報酬の取れる體になつて
人をも助けるやうになつて見度いといふことも、
私が髪結ひを志す動機の一つで御座いました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192218/1/204

   blog[小野一雄のルーツ]改訂版
   都下第一流の髪結ひ
   大西白牡丹の廣告 明治44年11月
   【日本新聞広告史】昭和15年

昭和二年十二月七日印刷 —美容全集—
昭和二年十二月十日發行 (定價貳圓九拾錢)
著 者 山本 久榮
發行者 村松 義一
    東京市神田區材木町二番地
印刷者 野口常太郎
    東京市神田區三崎町三丁目五拾六番地
印刷所 友文社印刷所
    東京市神田區三崎町三丁目五拾六番地
發行所 騒人社書局
    東京市神田區材木町二番地
    電話 浪花二〇七五番
    振替東京二六〇〇八番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192218/1/209
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