2023年06月

《柳瀨千代子》奈良女子師範附屬高女卒業後、日本女子大學卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《柳瀨千代子》奈良女子師範附屬高女卒業後、
日本女子大學卒業【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《柳瀨千代子》        p393/506
 撫順市東一番町二〇
明治二十七年五月
樋口義雄氏の長女として
奈良縣郡山町に生る、
東京府下豐多摩郡杉並町はその原籍地なり、
奈良女子師範附屬高女卒業後、
日本女子大學に入り、
同校卒業後、
柳瀨渡氏に嫁ぐ、
夫君は永年滿鐵病院に勤務、
退職後内科專門醫として
現住地に開業信望厚し、
夫人は大正六年結婚と同時に當地に來たり、
一時奉天に居住し、
醫院開業と共に再び撫順に來たる、
夫君との間に三男一女あり、
長男長女は何れも小學校在學中なり
夫人は撫順を以て生活の地にして
子女敎育の地に非らずとなし、
小學卒業後の敎育に就て
深甚の考慮を拂ひつゝあり、
明朗快活の氣質にて、
その素養よりしても亦交際上手の點から見るも
撫順婦人界の第一人者なり、
音樂、長唄に趣味を有す。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《ノット(Knott)》税関吏として[メーレンドルフとその補助者]明治16年(1883)朝鮮政府税関【朝鮮近代外交史年表】1987.6

《ノット(Knott)》税関吏として
[メーレンドルフとその補助者]明治16年(1883)
朝鮮政府税関【朝鮮近代外交史年表】1987.6

【朝鮮近代外交史年表】1987.6
著者    H.N.アレン 著 [他]
出版者   国書刊行会
出版年月日 1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/3


一八八二年 一二月 明治一五年 李大王一九年
メーレンドルフ
メーレンドルフ(P.G.Von Moellendorf)
外務顧問として招聘を決定した。
これは朝鮮政府から中国政府に懇請したもので、
税関事務を掌る。

一八八三年 一月 七日 明治一六年 李大王二〇年
メーレンドルフとその補助者
メーレンドルフの補佐
ハース(Haas)
ストリップリング(A.B.Stripling)
ライト(T.W.Wright)
ロバット(W.N.Lovatt)
税関吏として
ラポルト(Laporte)
マクベット(Mackbet(?))
メルセル(Moersell)
シュルツ(Schultz)
アルナアス(Arnous)
サバチン(Sabatin)
ベコウスキー(Bekofsky)
ボリオニー(Borioni)
ウーリタン(Woolitang)
トング(S.Y.Tong)
禹(Woo)
周(Chow)
良(Liang)
ウエルヒ(Welch)
グランフィールド(Glanfield)
ローゼンバウム(Rosenbaum)
ラデーヂ(Ladage)
p22【朝鮮近代外交史年表】1987.6
〔画像〕p22【朝鮮近代外交史年表】1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/22
一八八三年 一月 七日 明治一六年 李大王二〇年
ノット(Knott)
ダンカン(Duncan)
クロフォード(Crawford)
クレップス(Krebbs)
中林(Nakabayasi)
ラウヒト(Laucht)
ニッフラー(Kniffler)
ら来鮮。
これらの人びとは清国税関にならい
税関事務組織をつくった。
p23【朝鮮近代外交史年表】1987.6
〔画像〕p23【朝鮮近代外交史年表】1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/23
一九〇一年 七月一二日 明治三四年 光武五年
税関の移動
元山税関弁務官代理
ウェークフィールド(C.E.S.Wakefield)は
弁務官に任命された。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/66
ノット Knot,  36頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/86
朝鮮近代外交史年表
1987年6月  5日印刷
1987年6月10日発行 定価2,000円
著 者 H・Nアレン
訳 者 櫻井 義之
発行者 佐藤今朝夫
発行所 株式会社 国書刊行会
    〒170 東京都豊島区巣鴨3-5-18
    電話(917)8287(代表)
    振替・東京5-65209
印 刷 セイユウ写真印刷(株)
製 本 青木製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/88
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【親和 (147)】1966-02
出版者   日韓親和会
出版年月日 1966-02
前天津駐在ドイツ領事
ドイツ人
パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ
[Paul Georg Von Molleh dort]
(漢字名「穆麟德」、一八四七年二月生)
(H・Nアレン著、桜井義之 訳)
 『朝鮮近代外交史年表』
p21【親和 (147)】1966-02
〔画像〕p21【親和 (147)】1966-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252000/1/21
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月16日05:15
[税関吏:ノツト]明治18年9月
元山居留地ニ悪疫避病院建設費用補助在同所領事ヨリ願出ノ件
金弐拾六圓
  内
  金拾五圓 税関長    ライト     英人
             ※ライト(T.W.Wright)
  金 五圓 税関吏    ローセンハーム 米人
             ※ローゼンバウム(Rosenbaum)
  金 弐圓 同      米田五郎
  金 弐圓 同      ノツト     英人
             ※ノット(Knott)
             ※母方の曽祖父
  金 弐圓 同      マンヘーマ   独人
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月03日17:17
母方の曽祖父:イギリス人[ジョージ・ノット?]―01
[George Nott または Knott]  正確な名前は不明。
[Yoshiiwa Notuto] 小川清久(母の弟)家の過去帳に記載。
[ジョージさん・元山(韓国)税関長] 
母(小野文子)が話していた。
2ad60d50
小野雄二(弟) 談
生年月日 不明
歿年月日 明治34年(1901)4月27日
歿 場所 元山(現 北朝鮮)?
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《山上みさ子》夫君山上吉藏氏は早稻田大學出身・撫順窯業會社々長等【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山上みさ子》夫君山上吉藏氏は早稻田大學出身・
撫順窯業會社々長・撫順南滿火鑛品會社々長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山上 みさ子》        p393/506
 撫順市東七條通五四
明治十八年五月
故上村淸常氏の六女として
三重縣津市綿内町に生る、
鹿兒島縣姶良郡加治木町はその原籍地なり、
三重縣立高等女學校に入り、
中途にて退學し、
山上吉藏氏に嫁ぐ、
夫君は早稻田大學出身にて目下
撫順窯業會社々長、
撫順南滿火鑛品會社々長の職に在り、
夫人は明治四十年渡滿し、
一年後撫順に移り、
爾來二十餘年同地に生活して
第二の故郷の觀あり、
周圍の環境は子供の敎育には
餘りに適當の箇所とは云ひ得ず、
言語、風俗何れも良からざるも
夫君の事業上、
内地にも引返す譯には行かず、
夫人細心の注意を要する處なり、
長男は天津鮮銀に勤務し同地に居住、
長女は撫順高女を卒業し
家庭に在りて實務修業、
次女、三女何れも高女在校中なり、
末子は目下撫順永安幼稚園に通ふ。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《山本秀子》夫君山本豐吉氏は日本大學出身・正隆銀行支配人【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《山本秀子》夫君山本豐吉氏は
日本大學出身・正隆銀行支配人
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《山本 秀子》        p393/506
 大連市山城町二
明治二十九年一月
故高橋慶三郎氏の長女として
東京日本橋三丁目に生る、
夫君山本豐吉氏は日本大學出身にて、
目下正隆銀行支配人を勤む、
夫人は大連に來りて數年、
從來は夫君安田銀行勤務のため
主として東京府附近にありしも、
正隆銀行に轉じ、
茲に初めて海外生活を營む、
住み馴れて見れば
大連も亦安易なる生活を送るを得て、
永住亦苦しからずとなす
大連禮讃者の一人なり、
夫君との間に三男三女ありしも
長女、次男の二兒は不幸にして早世す、
長男榮一氏は大廣場小學校に通學中なり、
夫人は乳少なく、
子供の養育に一層苦心し、
殆んどその方に沒頭の姿なり、
多くの趣味を有するも
之れがため果たす機會更に無し、
夫人令兄は東京居住、
安田銀行勤務高橋亮氏なり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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西原亀三氏との対談(昭和8年) 大蔵省預金部運用課長[原邦道]【邦道随想録】昭和49年(1974)

西原亀三氏との対談(昭和8年) 
大蔵省預金部運用課長[原邦道]
【邦道随想録】昭和49年(1974)

【邦道随想録】昭和49年(1974)
著者    原邦道 著
出版者   講談社出版サービスセンター
出版年月日 1974
 西原借款のあらまし  p113-114/234
  ―略―
 西原亀三氏との対談
私たちは話はきいていましたが、
西原氏もその後どこにおられたか
わかりませんでした。

ところが昭和八年(1933)
私が運用課長をやっておりましたとき、
※大蔵省預金部運用課長
西原亀三氏の名刺をだしてきた
一人の大人に会いました。
名刺には京都府天田郡 ※雲原村
何々村村長という肩書があります。
あの有名な西原亀三氏が
名も知らぬ一村の村長であろうとは、
まず驚きました。

ついで
「あなたは預金部が随分ご厄介になった
西原さんですか、
どんなご用でお出でになったか知りませんが、
預金部いじめはどうかご勘弁願いたいものです」
といった。

すると、
いまでは村長(出身地らしかった)になって、
一つ理想的な村を作りたい。 ※下記ブログ
村づくりが一生の仕事なんだ、
農村のゆき方をみると、
今後の山村に米ばかりでなく
畜産を奨励してゆかなくてはいけないと思うので、
十万円ばかりを地方公共団体の事業資金として
貸してくれというわけです。

私はこの人が、
あんな大それたことをしたのかな、
変われば変わるものだ。
「西原借款の西原さんにしては
似合わない大金ですなあ、
なかなか健全な村づくりですね」
とひやかし半分に応答しましたが、
会って話をして
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/113
みると、
思ったほどハッタリのある人物では
なかったように思いました。

その当時としては、
いまでいう農村の先覚者というわけでしょうが
農村の構造改善の必要をそのとき、
すでに頭のなかに描いていたようで、
話が農村問題に及ぶと農村の理想形態について、
あれこれと熱を帯びて抱負を語っていました。
やはり一かどの人物だと思いました。
(昭和三七年五月一七日)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/114

 西山弥太郎君の追想  p203-205/234
※この項、表題以外は下記と同一。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/203

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 《松村守一邸の会見》原 邦道(大和銀行相談役)
 【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)

 引退後も忙しい生活  p215-216/234
  経済問題には”一言“もつ
東京島根県人会理事長原邦道氏が
財界の第一線を退いてからすでに久しいが、
いまも大手町の大和銀行東京事務所役員フロアーに
原相談役の一室がある。
原さんは大和の前身野村銀行の社長であり、
野村生命、野村証券の各会長も兼ねていた。
「野村はOBを大事にするところだよ」
とさりげなくいうが、
ただのOBではない。

野村入りしたのは、
日本証券取引所副総裁をやっていたころ、
時の石渡蔵相に口説かれたものであり、
日証副総裁の前は日本製鉄副社長、
その前は対満事務局次長、
大蔵省勤務と輝ける前歴の持ち主。

終戦直後財界パージで“骨休め”をしていたが、
追放解除とともに
長期信用銀行初代頭取としてカムバックした。
このときも
一万田日銀総裁や池田勇人蔵相に懇望されての就任で、
戦後の経済復興に貴重な輸血役を果たした功績は大きい。

在任七年、経済再建のレール敷きを見ととどけてから
ゆうゆう自適の身とはなったものの
結構忙しい日が続いている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/215
(昭和四五年三月三一日 島根新聞)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/216
  家族親族  p221-228/234
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/221
  原 邦道 年譜 p229-230/234
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/229
  あとがき    p230-231/234
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/230
昭和四十九年一月一日発行
   定価二〇〇〇円
著者 原 邦道
   〒141 品川区東五反田5の20の11
       池田山パインクレスト301
製作 (株)講談社 出版サービスセンター
   東京都文京区音羽二ノ一二ノ二一
   〒一一二 (電)945-1111
印刷 信毎書籍印刷株式会社
製版 株式会社 興陽社
製本 大製株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12256183/1/231
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年03月10日03:30
京都府天田郡雲原村 西原亀三
[雲原村経済更生事業計画要旨]関連資料:昭和9~17年
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年09月09日06:50
[雲原村集団耕地造成計画]《尾上良一》昭和16年(1941)
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《郭日出》狐狩り 明成皇后暗殺計画と「閔妃写真」群をめぐって①「追伸」第15号 2023.6

《郭日出》狐狩り 明成皇后暗殺計画と
「閔妃写真」群をめぐって①「追伸」第15号 2023.6

(株)日之出書房 郭日出様
「追伸」第15号 2023.6
狐狩り 明成皇后暗殺計画と「閔妃写真」群をめぐって①
御送付頂き、有難うございます。
拝読させて頂きます。
令和5年(2023)6月27日(火)
       小野一雄
 スマートレター5.6.22-50
〔画像〕スマートレター5.6.22-50

 「追伸」第15号 2023.6 表紙
〔画像〕「追伸」第15号 2023.6 表紙

狐狩り 明成皇后暗殺計画と「閔妃写真」群をめぐって①
    郭日出  構成:劉永昇
はじめに
2013年4月、
明治42年(1909)から大正10年(1921)まで
朝鮮古蹟調査員として
朝鮮半島南部・伽倻地域の古墳墓
1000基の発掘調査を行った
谷井済一の旧蔵品の写真帖(①)が
大阪古書組合の業者入札市に出品された。

当時の朝鮮では写真を印刷する機材がなく、
45枚の生写真を張り付けた写真帖である。

明成皇后の写真を見つめている私に声が伝わった。
「私が明成皇后であると証明しなさい」
左口元の陰影は微かな微笑に見える。
この「モナリザの微笑み」は
明成皇后だから伝わる威風と感じられた。
その聡明で凛とした佇まいに、
私はこれが明成皇后のご真影と確信した。

この明成皇后の写真に関しては、
韓国の資料を見ても真偽を論証できず
否定論が確定しており、
そのため同様に日本でも否定されている。
私は写真が御真影であることを証明する資料を
探し求めることとなった。
  「棘髪」(おどろがみ)
   ―略―
これは2011年5月3日KBS国際放送
「開かれた音楽会」で流れた
「春香伝」の一節と言われる
「棘髪」(おどろがみ)の歌詞である
(パンソリ歌手 パク・エリ)。
明成皇后の「棘髪」の恨(ハン)を思う。

写真を明成皇后の御真影であると信じてから
10年が過ぎた。
古書店を営む私はその間、
手に入れられるかぎりの史料を集めた。
論証する機会は一回限りである。
それに失敗すれば
明成皇后の恨は永遠の闇に閉ざされる。

日本の古書業界に加入した
最初の在日韓国人二世である
自分の仕事だという思いに衝き動かされた。

韓国人による韓国史を打ち立てなければ
ならないという願いがあった。

尊敬する歴史学者・故姜在彦先生は
「このために日之出書房は存在したのか」
と認めてくださった。
 「追伸」第15号 2023.6 p100-101
〔画像〕「追伸」第15号 2023.6 p100-101

追伸 第15号
2023年6月25日 発行
定価(本体500円+税)
発行/追伸舎(連絡先:風媒社内)
発売/風媒社
〒460-0011 名古屋市中区大須1-16-29
TEL052-218-7808 FAX052-218-7709
印刷/モリモト印刷
 「追伸」第15号 2023.6 奥付
〔画像〕「追伸」第15号 2023.6 奥付
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閔妃「明成皇后」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月02日08:10
[故 從七位 林武一 略傳]【朝鮮国真景】明治25年11月

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月01日08:37
[故 林武一 肖像]【朝鮮国真景】明治25年11月

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月01日08:17
[濟州島監理使衙門]《監理使:李圭遠》【朝鮮国真景】明治25年
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《原 邦道》原權三郞の三男【人事興信録】(第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

《原 邦道》原權三郞の三男
【人事興信録】(第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

原邦道 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 從五位
爵位・身分・家柄 島根縣在籍
職業 銀行檢査官、日本勸業銀行監理官
性別 男性
生年月日  明治二十三年十二月 (1890)
親名・続柄 原權三郞の三男
家族
母 カツ  文久二、六生、島根、福間泰四郞三女
妻 てる子 明三五、四生、東京、杉原宗三郞三女、
      雙葉高等女學校出身
記述部分(略伝)
君は島根縣人 原權三郞の三男にして
明治二十三年十二月を以て生る
大正五年 東京帝國大學法科大學經濟學科を卒業し
税務監督局屬となり副司税官
金融制度調査準備委員會幹事等を經て
昭和二年 銀行檢査官となり
現に日本勸業銀行監理官たり
家族は尚
亡兄 權三郞 妻カウ(明二三、四生、島根、昌子亮一妹)
同  長男  良宗(大四、三生、現戸主)の外其弟妹あり
住所・電話番号
東京市外大久保町西大久保一〇  電四谷五三六三
参照人物(親類) 杉原宗三郞、昌子亮一、※山口俊治
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《原權三郎翁墓銘》
【廻瀾余滴】昭和9年
著者    谷口為次 著
出版者   江角英一
出版年月日 昭和9
  原權三郎翁墓銘
諱  邦宗。
通稱 權三郎。
號  靜川。
八束郡忌部村。
松浦忠兵衞 季子也。

大正八年一月十六日病歿。
嘉永五年五月生。
享年六十有六。
配 福間氏。
二男一女。
長  保定。嗣家。
次  邦道。法學士。
   今爲 小倉税務署長。
女  仲子 適 于 久保田某。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1023286/1/121
昭和九年十二月十五日印刷
昭和九年十二月二十日發行 (非賣品)
著 者 谷口 爲次
編輯兼 江角 英一
發行者 東京市世田谷區太子堂町一七五番地
編輯兼 井上  梢
發行者 廣島縣雙三郡布野村横谷一二六六番地
印刷者 吉原 良三
    東京市牛込區早稻田鶴巻町一〇七番地
〔株式會社 康文社印刷所 印刷〕
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【以久美竹】
著者    原保定 編纂
出版者   原保定
出版年月日 1913.2
大正元年十一月十六日 原 邦道 識
https://dl.ndl.go.jp/pid/1907126/1/80
大正二年二月一日印刷
大正二年二月五日發行 (非賣品)
編纂兼 原  保定
發行者 島根縣出雲國簸川郡平田町九百九十二番地
印刷所 平田報光社
    島根縣出雲國簸川郡平田町千八十番地
    振替口座大阪五七三六番
    電話二十二番
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(発言の取消し又は訂正) 〇京丹波町議会会議規則

(発言の取消し又は訂正)
〇京丹波町議会会議規則

〇京丹波町議会会議規則
 平成17年11月30日
 議会規則第1号
第6章
第64条 
議員は、
その会期中に限り、
議会の許可を得て自己の発言を取り消し、
又は
議長の許可を得て
発言の訂正をすることができる。
ただし、
発言の訂正は、
字句に限るものとし、
発言の趣旨を変更することはできない。
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《小野梓の憲法理論》井田輝敏【北九州大学法政論集 3(2/3)】1975-09

《小野梓の憲法理論》井田輝敏
【北九州大学法政論集 3(2/3)】1975-09
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コメント、ありがとうございます。

コメント一覧 (1)
ご無沙汰いたしております。
『小野梓全集』第五巻に収載の
【自伝志料】全文を転写しまして
【facebook稲門クラブ】(OBの情報交歓クラブ)に、
全12回にわたって分割連載が完了しました。
日本中の、多くの仲間の方々に
読んで頂きたいと願っております。
文語調の文章で転写には、苦労しましたが
「一字一句」を丁寧にパソコンに打ち込みまして、
掲載を続けました。
沢山の方々から【いいね】のサインを頂きました。
早稲田大学の建学理念・精神の理解の一助となれば、
喜びとなります。
早稲田の【小野講堂】にて、
現役の学生に語るよう、
校友会の大先輩から宿題を頂いております。
遠からず実現したいと念願しております。
読まれる仲間の方より、
丁寧に転写しましたので理解が深くなったかと思います。
小野梓先生の生涯は【父・節吉】の遺言を胸に、
誠実に全力投球(完全燃焼)した三十三年十ヶ月の、
立派な生涯と再確認致しました。
この精神が永遠に継がれることが
私達の使命であると考えています。
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【北九州大学法政論集 3(2/3)】1975-09
出版者   北九州大学法学会
出版年月日 1975-09
 北九州大学
法政論集 第3巻 第2・3合併号
 北九州大学法学会
 昭和50年9月
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/1

小野梓の憲法理論
    井田輝敏
   一 序 説
   二 小野梓とその時代
   三 小野梓の憲法理論
   四 結 語
 一 序 説
従来、わが国における小野梓(一八五二~一八八六年)の
憲法理論の研究は、余りにも不毛であった。
そうして事実―管見によれば―、
小野の憲法学説を直接的課題対象に設定し、
その国家観・法思想、さらには憲法概念の特色を
意欲的に解明しようと試みた労作として、
わずかに、田畑忍の手になる
「小野梓の憲法立法論」
(『公法雑誌』第一〇巻第一号、昭和二〇年)を
数えるのみである。
 ―略―
この『国憲汎論』を目して、
「今日まで日本語で書かれた政治学中の最大の著述」
(高田早苗)とまで評価しうるならば、
小野の憲法理論にたいする学界の冷遇は、
言語道断の譏(そし)りを免れないであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/2
 二 小野梓とその時代
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/6

https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/14

 三 小野梓の憲法理論
   ≪君民同治≫を中心として
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/26

https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/37

  四 結 語  p42-48/148
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/42
とまれ、小野梓のユニークな憲法理論が、
何人によっていかに受容されたかを、
これ以上辿ることは残念ながら不可能である。
みずからの学統を忠実に継承する門下生を欠如したこと、
帝国憲法の弁証を志向する講壇憲法学が
主たる潮流を形成したこと、
これらが相互に相乗的効果を発揮して、
遂に小野の構成した憲法理説は、
いわば地を掃う他なかった。
万一にも拙稿が、従来とかく冷酷にして
盲目な沈黙をもって取扱われてきた、
小野の憲法学説にたいする熾烈な関心を呼び起し、
知的世界に ”開かれた辺境の時代“ をもたらしうる
一契機となるならば、
地下に眠る小野梓も望外の喜びとするであろう。
かくあることに祝福あれ!
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/46
(付記)
本稿の執筆完了後、次のごとき論稿に接した。
吉井蒼生夫「小野梓の法思想」、
『早稲田法学会誌』第二五巻(一九七四年)所収、
 三七五~四一一ページ。
本稿ではもはや、これに関説できないが、
示唆されるところの少なくない論文といってよい。
ここに付記して、吉井氏の海容を乞う次第である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/48

北九州大学法学会
 理事名簿
北九州大学法学会会則(抜)
昭和五〇年八月三一日印刷
昭和五〇年九月 一日発行
編集兼発行人
     大塚 勝美
印刷所  株式会社 ぎょうせい
営業所  東京都新宿区西五軒町五二
九州支社 福岡市中央区春吉三丁目二四ノ一二
     郵便番号八一〇
     電話七五一ノ二八六五
発行所  北九州市小倉南区北方
     北九州大学法学部内
     北九州大学法学会
https://dl.ndl.go.jp/pid/1409667/1/147
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井田輝敏(いだ てるとし、
1930年1月25日[1] - 2010年9月)は、
日本の政治学者。
愛媛県出身。
九州大学法学部政治学科卒、同大学院をへて、
八幡大学(のち九州国際大学)講師、助教授、
北九州大学助教授、教授、学部長を務め、
93年定年退官、名誉教授、
九州国際大学教授、2002年退任、名誉教授[2]。
近代日本政治史が専門。
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《松村守一邸の会見》原 邦道(大和銀行相談役)【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)

《松村守一邸の会見》原 邦道(大和銀行相談役)
【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)

【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
著者    西山記念事業会 編
出版者   西山記念事業会
出版年月日 1967
  松村守一邸の会見  p68-70/336
    原 邦道(はら・くにみち)
    大和銀行相談役
    明治二十三年(1890)生
    島根県出身
昭和二十五年(1950)
初秋のころと記憶しますが、
当時私は追放中で
西宮市南郷町に蟄居中でありました。

ある日、
松村守一氏から、
相談したいことがあるから
来てくれとの電話がありました。

松村守一氏は同郷の先輩で義理の叔父にあたり、
神戸高商卒業後第一銀行に就職し、
神戸支店長から川崎重工業の役員に転出して
長年川重の経営に当たった人であります。

私は魚崎の松村守一宅へまいりましたところ、
でっぷり肥った紳士が同席され、
松村守一氏は初対面の私に紹介されました。

この人が西山弥太郎さんでありました。

かねて新聞雑誌等で伝えられました
西山さんは非常な活動家で精力的であり、
実行型のたくましいお人だと思っていましたが、
実に物柔らかな、
愛嬌たっぷりで人を引きつける魅力が充満した
好紳士だというのが私の第一印象でありました。

相談というのは
川鉄千葉製鉄所に関することでしたので、
まず西山さんは一通り新製鉄所計画の輪郭と
雄大な千葉製鉄所の未来図について説明され、
ついで松村守一氏から
所要資金の調達について
相談をうけました。

その後
私はいろいろ工夫し
奔走もいたしましたが
微力のいたすところ、
ついにうまく参りませんでした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/68

時が移り諸般の情勢もやや好転しました
二十八年(1953)ごろには西山構想も
クローズ・アップされ、
第一銀行も全面的に金融の裏づけを
決定されました。

また長期資金の供給を使命として発足しました
日本長期信用銀行も酒井頭取の
お指図に従って協力いたしました。

かつて神戸の松村守一邸で
西山さんとの初対面を思いだしまして、
当時の願望が実を結んだことを
喜んだ次第であります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/70

昭和二十九年(1954)一月
川崎製鉄株式会社の指定商社
青山特殊鋼株式会社、
新庄鋼材株式会社、
摩耶興業株式会社は合併して
川鉄商事株式会社を設立し、
元川崎重工業株式会社
専務取締役
松村守一が社長に就任した。
西山はその創立総会に出席し、
祝辞を述べ
毛利元就の三本の矢の故事をひいて
社内の結束、
販売部門の強化を訴えた。
p313【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
〔画像〕p313【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/313
西山弥太郎追悼集
■発行・責任者
 昭和四十二年八月十日
 西山記念事業会・藤本一郎
 神戸市葺合区北本町通一丁目一番地
 川崎製鉄株式会社内
■制作・印刷
 株式会社経済雑誌ダイヤモンド社
 東京都千代田区霞が関一丁目四番二
 非売品
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/333
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月02日15:35
《松村守一》松村仙造(真澄)の実弟―03
《松村守一》三男
明治17年(1884)12月13日生
昭和41年(1966)[83歳]歿
《松村 ヒサ(久子)》
明治26年(1893)3月24日生
《松村仙造》二男
明治13年(1880)7月19日生
昭和3年(1928)3月3日[48歳]歿

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月23日04:34
《松村守一》【人材・島根:県人名鑑】昭和13年
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