2023年06月

《松村守一:経理》平生釟三郎と川崎造船所【企業拡大の着眼点:巨像へのマネジメント】1965

《松村守一:経理》平生釟三郎と川崎造船所
【企業拡大の着眼点:巨像へのマネジメント】1965

【企業拡大の着眼点:巨像へのマネジメント】1965
著者    小林宏 著
出版者   実業之日本社
出版年月日 1965
平生釟三郎と川崎造船所  p27-33/170
 松方幸次郎の退場
昭和三年五月二十六日、
当時川崎造船所(現在の川崎重工の前身)の
松方幸次郎社長は、
臨時株主総会において、
声涙ともにくだる悲痛な
社長辞職の挨拶を行なった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/27
 ワンマン松方の夢と悲劇
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/28
 ピンチ・ヒッター平生釟三郎
鹿島社長急死のあとをうけて、
昭和八年三月、三代目社長に就任したのは、
平生釟三郎であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/29
 再建はウィーク・ポイントの補強から
まず平生は、川崎造船所はつぎの三つの点が
致命的な欠陥であるとして、
その早急な改善対策をたてた。
三つの欠陥とは、
 一 資金操作が、へたであること
 二 営業が弱くて、へたであること
 三 工場管理が、へたであること
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/30
さて、平生は、右のような方針をかかげて、
川崎の再建にとりかかったが、
肝心の夫子みずから、
この方面にはとんと未経験であって、
手のくだしようがない。
そこで、考えた手は、
右の三つの欠点を解決するに
ふさわしい人材を
どこかから見つけてきて、
彼らにそれをやらせることであった。

まず、
第一銀行の神戸支店長をしていた
松村守一に目をつけ、
これを引き抜いて、
会社の経理をまかせることにした。

つぎに、当時海運界にくわしく、
営業肌の鋳谷正輔(専務)に営業の全部をまかせた。

最後に、海軍機関中将で
当時この途でのホープといわれていた
吉岡保貞を引き抜いて、
これに工場管理のいっさいをまかせた。
この吉岡のコネによって、
佐世保海軍工廠から海軍少将久原福松、
大野俊彦の二人が入り、
久原が総務を担当し、
大野が労務を担当することになった。
 すなわち
  平生 経理……松村
     営業……鋳谷
     管理……吉岡…久原(総務)
           …大野(労務)
という平生内閣が誕生した。

松村は識見豊富、
おまけに第一銀行と強いつながりがある。
金の途を絶たれた川崎が生きるための命綱でもあり、
資金に弱い川崎のマネジメントの筋金でもあった。

鋳谷は小柄、悠揚。
高等教育こそうけていなかったが、
全身これ機智のかたまり、
寸言人の心をとらえる不思議な魅力の持ち主。
おまけに、海運界のうらおもてに明るく、
営業の親分として、
うってつけの人物である
(のちに四代目社長となる)。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/31
 ヴェテランをつかいこなした素人社長
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/32
松方と平生のこのまったく異なったタイプの、
二人の名経営者の残した教訓を、
今さらのようにかみしめているのである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/33
著者紹介 大正12年8月、鹿児島に生まれる
昭和18年、東京外語大学スペイン語科を卒業
小林 宏/ ¥470
企業拡大の着眼点 巨象のマネジメント
昭和40年5月15日 初版発行
発行者/増田 義彦
発行所/株式会社 実業之日本社
本社/東京都中央区銀座西1の3
   電話(561)5121 振替 東京326
関西支局/大阪市北区真砂町53 書協ビル内
   電話 大阪(312)4706
印刷/壮光舎印刷(本文)・小倉印刷(表紙・カヴァー)
製本/共文堂
https://dl.ndl.go.jp/pid/3016075/1/167
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
―大阪商船、山下汽船による株式肩代りと
 川崎造船所の対応―
 柴 孝夫
本稿作成にあたっては  p32/33
帝京大学の田付茉莉子助教授に
貴重なご助言をいただいた。
また川崎重工業株式会社、
大阪商船三井船舶株式会社の
所蔵資料の閲覧には関係各位に便宜をはかっていただいた。
末尾ながら記して感謝の意を表します。
(京都産業大学)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村守一氏:第一銀行支配人》釜山財界と人物【朝鮮公論 10(7);7月號】大正11年(1922-07)

《松村守一氏:第一銀行支配人》釜山財界と人物
【朝鮮公論 10(7);7月號】大正11年(1922-07)

【朝鮮公論 10(7);7月號】大正11年(1922-07)
出版者   朝鮮公論社
出版年月日 1922-07
  釜山財界と人物 東萊迂人
 松村守一氏(第一銀行支配人)
釜山に於ける第一銀行は佐々木淸麿氏や
土岐僅氏などに依つて開拓せられ
古い歷史と古い得意を持つことに於て有名である
昨年前任者の永井啓氏が
實業界多方面の與望を捐(す)てて
小樽支店に榮轉した跡を承け
門司支店から來任し日尚淺いが
温厚と篤實の點に於て認められてゐる人多く
前任者の永井氏を女性的
現任者の松村氏を男性的なりといふが
そは外貌のみを見ての謂であつて
吾輩は寧ろその然らざるを思ふ
永井氏の圓轉滑脱
萬人に接して外(そ)らさず
一見優柔の如くにして
事に當るや勇往果斷なりしに反し
松村氏は頗る細心稠密
際立ちて社交に出づる事なく
從來培はれたる地盤の損せざらしめむるのみに
汲々とし
或ひは行是として然る乎と思はるれど
著しく消極的に堕した憾みがある氏も又
濱田氏と同じく神戸高商出身であるが
その性行の著しく世間一般の銀行家化したる點は
學歷より見て甚だ奇異の感に打たれる。
p42【朝鮮公論 10(7);7月號】大正11年(1922-07)
〔画像〕p42【朝鮮公論 10(7);7月號】大正11年(1922-07)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186978/1/42
大正十一年六月廿八日印刷納本
大正十一年七月 一日發行  第十卷第七號
編輯兼 貴田 忠衛
發行人 京城府太平通二丁目百十五番地
印刷人 大曲 重義
印刷所 京城印刷所
發行所 朝鮮公論社
發賣所 京城太平通二丁目
    振替口座京城一五七七番
    編輯用 電話本局 三三一五番 長三三一七番
             三三一六番
    營業用 電話本局 三七〇八番 長二四〇〇番
https://dl.ndl.go.jp/pid/11186978/1/100
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村守一》第一回卒業式(明治40年4月8日) 【神戸高等商業学校学友会報 (8)】明治40年(1907-04)

《松村守一》第一回卒業式(明治40年4月8日) 
【神戸高等商業学校学友会報 (8)】明治40年(1907-04)

【神戸高等商業学校学友会報 (8)】明治40年(1907-04)
出版者   神戸高等商業学校学友会
出版年月日 1907-04

神戸高等商業學校 學友會報 第八号
    學校紀事
  第一回卒業式及び卒業生
明治四十年四月八日午前十時より、
本校に於て第一回卒業式舉行の筈なり、
就職先  第一銀行
氏 名  松村守一
原籍地  島根
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539239/1/2
   葺合便
 (一)第一回卒業式
第一回卒業生九十二名の爲に、
本日卒業式を舉げられ申候、
卒業生の落付先、
式に先ちて業に已(すで)に定まり申候事、
社會の需要に投ぜしとは申ながら、
畢竟卒業生諸氏が奮闘の功
今日に顯(あら)はれたりとや申すべき、
今試(こころみ)に此(この)奮闘者が
學校の門をくゞりし時よりの統計を
左にしめして吾人の言を立證致すべく候。
 入学受驗競爭者      七〇八名
 豫科入學(一部 一三〇) 一七二名
     (二部  四二)
 本科一年へ進級      一四五名
 本科二年へ進級      一〇六名
 本科三年へ進級       九二名
而して今や九十二名揃ひも揃うて
卒業の榮を得られ候、
此幾回の選擇に一粒選に篩(ふる)ひ上げられし
諸君の前途は、
豫想するに難からず候、
然らば則ち諸君の爲に其光榮を喜ぶべき固より、
本校の爲にも此舉式を祝賀せざる可からず候。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539239/1/9
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村守一》兵役に服務:明治40年12月より明治42年2月28日

《松村守一》兵役に服務:明治40年12月より明治42年2月28日

明治40年(1907)12月より兵役に服務
廣島歩兵第十一聯隊第十二中隊一年志願兵
明治42年(1909)3月1日召集解除

【神戸高等商業学校学友会報 (14)】明治41年(1908-01)
出版者   神戸高等商業学校学友会
出版年月日 1908-01
  〇同窓會會費受領報告
   (自十一月廿七日 至一月十五日)
一 金壹圓也 一ケ年分 松村守一君

  〇會員消息
一、昨年十二月より兵役に服務せられし會員中
  所屬聯隊の分明せるもの左の如し
廣島歩兵第十一聯隊第十二中隊一年志願兵
松村守一君
安田重雄君
p11【神戸高等商業学校学友会報 (14)】明治41年(1908-01)
〔画像〕p11【神戸高等商業学校学友会報 (14)】明治41年(1908-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539245/1/11

【神戸高等商業学校学友会報 (22)】明治42年(1909-02)
出版者   神戸高等商業学校学友会
出版年月日 1909-02
   會員動靜一束
〇松村守一君 廣島步兵第十一聯隊經理室(豫備見習主計)
p15【神戸高等商業学校学友会報 (22)】明治42年(1909-02)
〔画像〕p15【神戸高等商業学校学友会報 (22)】明治42年(1909-02)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539253/1/15

【神戸高等商業学校学友会報 (23)】明治42年(1909-03)
出版者   神戸高等商業学校学友会
出版年月日 1909-03
 八、會員動靜一束
〇松村守一君
 三月一日召集解除、
 從前の通り、
 大阪市東區高麗橋三丁目
 第一銀行支店に從事
p15【神戸高等商業学校学友会報 (23)】明治42年(1909-03)
〔画像〕p15【神戸高等商業学校学友会報 (23)】明治42年(1909-03)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539254/1/15
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村守一》秋期野球大會(明治38年)11月【神戸高等商業学校学友会報 (5)】明治39年(1906-03)

《松村守一》秋期野球大會(明治38年)11月
【神戸高等商業学校学友会報 (5)】明治39年(1906-03)

【神戸高等商業学校学友会報 (5)】明治39年(1906-03)
出版者   神戸高等商業学校学友会
出版年月日 1906-03
 ◎昨年の野球界(野球部委員報告)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539236/1/30
(三)秋期野球大會(明治38年)十一月十八、十九日
第二回 本の三
一壘 松村守一
p31【神戸高等商業学校学友会報 (5)】明治39年(1906-03)
〔画像〕p31【神戸高等商業学校学友会報 (5)】明治39年(1906-03)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1539236/1/31
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木國藏》布哇に於ける邦人最古の商店【在米日本人史観】昭和5年(1930)

《鈴木國藏》布哇に於ける邦人最古の商店
【在米日本人史観】昭和5年(1930)

【在米日本人史観】昭和5年(1930)
著者    鷲津尺魔 著
出版者   羅府新報社
出版年月日 1930.4
 商店及び一膳飯の元祖
   鈴木國藏
鈴木國藏は千葉縣人、
弘化二年生、
幼時家貧にして苦惨の生活を續け、
慶應三年四月横濱に於て
獨逸人ベレリウテーに雇はれ、
甘蔗栽培勞働者として布哇に渡つた、
(明治元年者より一年前)
爾來各所に轉働し、
明治十九年十月、
布哇島ヒロ市に來り、
初めて小店を開いた。
店には少許の果物を並べ一膳飯を商ふた。
之れ布哇に於ける邦人最古の商店である。
國藏は「ヒロの國」と呼ばれ
商運次第に盛大に赴き
數十萬弗の財産を作り
内外人の信用を博したが、
物故して其跡を留めてゐない。
p241【在米日本人史観】昭和5年(1930)
〔画像〕p241【在米日本人史観】昭和5年(1930)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906530/1/241
一千九百三十年三月十五日印刷
一千九百三十年四月 一日發行 定價 金五弗
著 者 鷲津 尺魔
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    ホールデール通三千六百五十三番地
發行者 唐木 保藏
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    東一街二千六百十八番地
印刷者 佐渡 高一
    東京市外千駄ケ谷町原宿百七十番地十三號
發行所 羅府新報社
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    北ロスアンゼルス街百四番地
印刷所 中外印刷株式會社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906530/1/249
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木國藏》故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠【母国見学記念誌】昭和4年(1929)

《鈴木國藏》故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠
【母国見学記念誌】昭和4年(1929)

【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
著者    布哇仏教青年会 編
出版者   布哇仏教青年会
出版年月日 昭和4
  二、故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠
昨夏七月十七日
我が見學團が嚴島神社に參詣せし時、
計らずも我等に關係ある御影石の大燈籠一對を發見せり。
それには布哇島ヒロ鈴木國藏の奉納といふ銘あり。
我が見學團に因緣あるを以てこゝに紹介す。

抑も故鈴木國藏氏は私も相知の人なるが、
故參の在住者間には元年者として、
成功者として知られ居たり。

同氏は明治元年に外國人の計劃による
帆船サイト號に殆んど奴隷の如くにして
布哇に携れ行かれし
最古の日本人移民百五十三名中の一人なり。

故に上陸後數年勞働に從事せしと雖も
明治二十年頃には布哇島ヒロ市に獨立店舗を開き
白人間にも最も信用厚く
元年者隨一の成功者なりしなり。

目に一丁字なかりしも常に日本魂を失はず、
白人に對してもお世辭を使はず、
一歩も譲らず、
日本人たる事を誇として居れり。

その妻君はポルトガルの婦人なりしが、
子女も舉げし仲なれども、
明治二十七年の日淸戰爭の當時、
その妻君が日本は支那に負けんと放言しけるに、
氏は憤然として鐵拳を見舞へりと云ふ。

明治四十年頃布哇を引揚て歸朝し、
東京向島に邸宅を構へ老後を養ひ、
諸所遊歷せしが、
此燈籠もその頃奉納せしものならん、
大正三年頃七十餘歳に達し
終に東京にて逝去せられたり。

我が見學團と共に此燈籠に對して、
國藏老在住の昔と今日の發達を比するに
實に雲泥の差あり、
然るに六十一年前に移住したる故人は
此記念を内地の名所に遺せり、
今その事なし、
遺憾の至と謂ふべし。
p24【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
〔画像〕p24【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1077781/1/24
昭和四年十二月十五日印刷
昭和四年十二月二十日發行
編輯兼發行者 布哇佛敎靑年會
       米領布哇ホノルル・フオート街
右代表者   高桑 與市
       東京市京橋區東港町一丁目二十六
印刷所    精興社
       東京市神田區錦町三丁目十七
印刷者    白井赫太郎
       東京市神田區錦町三丁目十七
https://dl.ndl.go.jp/pid/1077781/1/65
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木國藏》本所區須崎町一六一(金百圓) 【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)

《鈴木國藏》本所區須崎町一六一(金百圓) 
【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)

【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
著者    東京市養育院 [編]
出版者   東京市養育院
出版年月日 1903-01
◎特志の寄附
▲本所區須崎町一六一
 鈴木國藏氏は祖先供養の爲めとて
 金百圓を何れも本院へ寄附せられたり。
p7【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
〔画像〕p7【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1515506/1/7
明治三十六年一月廿四日印刷
明治三十六年一月廿五日發行 (定價 金貳錢)
發行兼編輯人 高畠登代作
       東京市小石川區大塚辻町十八番地
印刷人    木村 龜作
       東京市日本橋區兜町二番地
印刷所    東京印刷株式會社
       東京市日本橋區兜町二番地
發行所    東京市養育院
       東京市小石川區大塚辻町十八番地
       (電話番號 番町四百四十二番)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1515506/1/9
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《鈴木國藏》嚴嶋神社石燈[Quni HILO.HAWAII]【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)

《鈴木國藏》嚴嶋神社石燈
[Quni HILO.HAWAII]
【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)

【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
著者    天沼俊一 著
出版者   スズカケ出版部
出版年月日 昭和7
目測だから間違つてゐるかも知れぬが、
高さ十五尺位はあらうと思はれる大石燈で、
型式は平凡であるが、
第四重目の基礎正面に、拙い文字で
 「菱の内にD」
 Quni HILO.HAWAII
とあるのが眼立つてゐる。
撥型の竿には、大きな字で「明輝」、
後面に「明治三十一年一月一日」、
左右側面に
 東京府住人
 布哇國布哇島ヒロ街
 鈴木國藏
と、一は楷書、他は草體でほつてある。
そこでQuniとあるのは「國藏」の「國」らしく、
普通Kuniと綴るべきに、
KをQとし態(わざ)とであらう。
「菱の内にD」は商標か何かと思はれる。
單に大きいのみで平凡な石燈を圖示した理由は、
銘文をみせるのが目的で、
横文字でももう少し巧みにかいておいたならば、
全形の不滿足を幾分でも取返すことができたらうに、
鐵釘流では頗る心細いのである(六・四・六)。
p98【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
〔画像〕p98【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/98

第二百六十三図 嚴嶋神社石燈 其九
  上。全形
  下。基礎正面の銘文
    (左右に立てるは曲尺の一尺)
  (昭和六年三月二十九日)
p99【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
〔画像〕p99【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/99
昭和七年十二月二十日印刷 石燈籠 第四回分冊
昭和七年十二月三十日發行 價五・〇〇
著 者   天沼 俊一
發行者   川勝政太郎
      京都市烏丸通二條南
寫眞印刷者 桑名  節
      京都市夷川寺町四
活版印刷者 松永 貞藏
      京都市烏丸鞍馬口南
發行所   スズカケ出版部
      京都市烏丸通二條南
      電話上二二二九
      振替大阪八三七一四
叢文社印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/329
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

鈴木国蔵が厳島神社へ寄進した石灯籠【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)

鈴木国蔵が厳島神社へ寄進した石灯籠
【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)

【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
著者    ハワイ日本人移民史刊行委員会 編
出版者   布哇日系人連合協会
出版年月日 1964
「元年者」の人々と「明治元年渡航者の碑」
→ヒロのクニ(鈴木国蔵)が厳島神社へ寄進した石灯籠。
p25【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
〔画像〕p25【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3030154/1/25
ハワイ官約移住75年祭記念
ハワイ日本人移民史  頒価¥2500
1964年4月20日発行
編集/
ハワイ日本人移民史刊行委員会
委員長 岡畑 博
発行/
布哇日系人連合協会
代表者 仲嶺真助
米国ハワイ州ホノルル市ビショップ街1145
製作代行/
日本出版貿易株式会社
東京都千代田区神田猿楽街1丁目1番地
印刷/
凸版印刷株式会社
東京都台東区台東1丁目5番1号
Printed in Japan
https://dl.ndl.go.jp/pid/3030154/1/379
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ