2023年08月

《林 三夫》④【最高裁判所裁判集 民事 74(昭和39年6月-昭和39年7月)】

【最高裁判所裁判集 民事 74(昭和39年6月-昭和39年7月)】
出版者 最高裁判所
 昭和三八年(オ)第四九号
     判決
  芦屋市月若町四八番地
     上告人  岡本 義雄
  芦屋市精道町七三番地
     上告人  加藤信之介
     右両名訴訟代理人弁護士
          井藤誉志雄
  芦屋市船戸町五五番地
     被上告人 内藤  清
     右訴訟代理人弁護士
         《林  三夫》

 右当事者間の行政処分取消等請求事件について、
大阪高等裁判所が昭和三七年九月二〇日
言い渡した判決に対し、
上告人らから全部破棄を求める旨の上告申立があり、
被上告人は上告破棄の判決を求めた。
よつて、当裁判所は、次のとおり判決する。
     主文
 原判決を破棄し、
 第一審判決主文第一項を次のとおり変更する。
 被上告人(被告)は、
 芦屋市に対し金二四〇、〇〇〇円を支払うえ。
 上告人(原告)らのその余の請求を棄却する。
  昭和三九年七月一四日判決
  昭和三八年(オ)第四九号
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《林 三夫》③【最高裁判所裁判集 刑事 86(昭和28年8月-昭和28年9月)】等

【最高裁判所裁判集 刑事 86(昭和28年8月-昭和28年9月)】
【最高裁判所裁判集 刑事 119(昭和32年5月-昭和32年7月)】
【最高裁判所裁判集 刑事 134(昭和35年6月-昭和35年7月)】

【最高裁判所裁判集 刑事 86(昭和28年8月-昭和28年9月)】
出版者 最高裁判所
 昭和二七年(あ)第一五三〇号  p100-102/662
   判決
本籍 朝鮮済州島表中面表中里
住居 神戸市長田区駒ケ林町四丁目二三番地
   手袋加工業  高山こと
          高 桂助
          大正一〇年一月二〇日生

本籍 神戸市須磨区東寺田町一番地
住居 同市長田区苅藻通二丁目一八番地
   化粧品小売業 古江公貴
          大正六年二月一四日生

 右両名に対する麻薬取締法違反被告事件について
昭和二七年一月二九日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
各被告人から上告の申立があつたので
当裁判所は次のとおり判決する。
  主文
 本件各上告を棄却する。
 当審における訴訟費用は各被告人の負担とする。
  昭和二八年八月一八日判決
  昭和二七年(あ)第一五三〇号
第二点
 原判決が添付引用してゐる被告人古江の
弁護人《林三夫》のの控訴趣意書には

【最高裁判所裁判集 刑事 119(昭和32年5月-昭和32年7月)】
出版者 最高裁判所
昭和二八年(あ)第五三四七号  p475-476/665

本籍 西脇市板波町三番地
住居 神戸市葺合区浜辺通八丁目八番地 秋元清方
   店員   松原秀雄
        大正七年一一月七日生

本籍 神戸市兵庫区馬場町二二番地
住居 同市生田区海岸通四丁目三六番地
   天ぷら商 曾谷武雄
        明治四二年一月二六日生
被告人曾谷武雄の弁護人《林三夫》の上告趣意について。

【最高裁判所裁判集 刑事 134(昭和35年6月-昭和35年7月)】
出版者 最高裁判所
 昭和三一年(あ)第一七〇八号  p173-186/572
   判決
本籍ならびに住居
      兵庫県宝塚市中筋字大東の町三七番地の三
  農業兼植木職 中西留吉
         明治三六年八月二五日生
 右の者に対する強制執行不正免脱被告事件について、
昭和三一年四月一八日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し、
被告人から上告の申立があつたので
次のとおり判決する。
  主文
 原判決を破棄する。
 本件を大阪高等裁判所に差戻す。
  理由
 弁護人江口十四夫、
同《林三夫》の上告趣意第一、第二点は、
違憲を云うところもあるが、
その実質は原判決の事実誤認を主張するものであつて、
上告適法の理由とならない。
 昭和三一年(あ)第一七〇八号
   被告人 中西留吉
 弁護人江口十四夫、同《林三夫》の上告趣意
  右両名訴訟代理人弁護士
   《林  三夫》
    江口十四夫
 昭和三一年(あ)第一七〇八号
   被告人 中西留吉
 弁護人江口十四夫、同《林三夫》の追加上告趣意
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《林 三夫》②【最高裁判所裁判集 刑事 60(昭和27年2月上)】等

【最高裁判所裁判集 刑事 60(昭和27年2月上)】
【最高裁判所裁判集 刑事 76(昭和28年3月中)】
【最高裁判所裁判集 刑事 82(昭和28年6月上)】
【最高裁判所裁判集 刑事 83(昭和28年6月下)】

【最高裁判所裁判集 刑事 60(昭和27年2月上)】
出版者 最高裁判所
 昭和二六年(れ)第一九三〇号
     判決
  本籍 神戸市葺合区南本町通五丁目七番地の一
  住居 同市同区南本町通六丁目五二番地の一一
     仲仕 宮崎高志
        昭和二年一二月一九日生
 右に対する殺人未遂被告事件について
昭和二六年五月二六日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
被告人から上告の申立があつたので
当裁判所は次のとおり判決する。
    主文
  本件上告を棄却する。
    理由
理由弁護人《林三夫》の上告趣意(後記)は、
単なる訴訟法違反の主張であり
刑訴法四〇五条に該当しない。
 昭和二六年(れ)第一九三〇号
   被告人 宮崎高志
 弁護人《林三夫》の上告趣意

【最高裁判所裁判集 刑事 76(昭和28年3月中)】
出版者 最高裁判所
 昭和二六年(あ)第二九四九号
     判決
  本籍並びに住居 広島県加茂郡竹原町大石九八五番地
          無職 菊地敏晃
             大正一一年三月一五日生
 右に対する昭和二四年政令第三八九号違反被告事件について
昭和二六年三月七日大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
被告人並びに原審弁護人《林三夫》から
上告の申立があつたので当裁判所は次のとおり判決する。
    主文
  本件上告を棄却する。
    理由

【最高裁判所裁判集 刑事 82(昭和28年6月上)】
出版者 最高裁判所
 昭和二七年(あ)第五五〇二号
     決定
  本籍 徳島県板野郡板西町大寺字亀山西七五番地
  住居 神戸市葺合区吾妻通五丁目無番地(幼稚園跡)
                 森口まさ子方
     家政婦 水口トミ子
         大正二年二月二二日生

  本籍 徳島県板野郡板西町大寺字辻五〇番地
  住居 神戸市生田区中山手通三丁目二二番地
          セントミカエルマーケツト
     リンタク業 森本 茂
           昭和五年六月二二日生
 右に対する麻薬取締法違反被告事件について、
昭和二七年九月二二日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
被告人水口トミ子の原審弁護人《林三夫》、
被告人森本茂から上告の申立があつたので
当裁判所は次のとおり決定する。
    主文
  本件上告を棄却する。
  当審における訴訟費用は
  被告人水口トミ子の負担とする。
    理由
   昭和二八年六月四日決定
   昭和二七年(あ)第五五〇二号
 昭和二七年(あ)第五五〇二号
    被告人 森本 茂
 弁護人《林三夫》の上告趣意

【最高裁判所裁判集 刑事 83(昭和28年6月下)】
出版者 最高裁判所
 昭和二七年(あ)第二一〇一号
     決定
  本籍 兵庫県宍粟郡繫盛村上岸田六二〇番地の一
  住居 神戸市生田区加納町五丁目二〇番地
     飲食店営業 日下富太郎
           明治三九年七月二三日生

  本籍 朝鮮慶尚南道蔚山郡農所面虎溪里八三四番地
  住居 神戸市長田区川西通三丁目三八番地
     ゴム製品乾燥業 金沢忠介
             大正二年一月二〇日生

  本籍 朝鮮慶尚南道釜山府寿町一丁目四六九番地の一
  住居 神戸市生田区北長狭通り五丁目 高架下一六三号
     ゴム製品販売業 松井重雄こと
             金 海 龍
             大正九年九月一二日生
   昭和二八年六月一八日決定
   昭和二七年(あ)第二一〇一号
   昭和二八年六月一八日決定
   昭和二七年(あ)第二一〇一号
右日下富太郎に対する自転車競技法違反及び麻薬取締法違反、
金沢忠介、金海龍に対する麻薬取締法違反被告事件について、
昭和二六年一〇月三〇日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
各被告人から上告の申立があつたので
当裁判所は次のとおり決定する。
    主文
  本件各上告を棄却する。
  当審における訴訟費用は
  被告人金沢忠介の負担とする。
    理由
 被告人金海龍の弁護人《林三夫》の
上告趣意第一点は違憲をいうが、
所論被告人の第一回供述調書が強制による
自白を録取したものであるとの事実は記録をしらべても
その証跡なきのみならず、
差戻後の第一審第四回公判調書によれば
右供述調書を証拠とすることにつき
被告人及び主任弁護人において同意している
(記録二二〇丁、
 尤も同調書末尾の二行については
 不同意を示しているが、
 この部分は直接本件犯罪事実に関係はない)
のであつて、
所論は前提を欠き、
同二点は事実誤認の主張であつて、
いずれも刑訴四〇五条の上告理由に当たらない。
  ―略―
  昭和二八年六月一八日
   最高裁判所第一小法廷
    裁判長裁判官 入江俊郎
       裁判官 真野 毅
       裁判官 齋藤悠輔
       裁判官 岩松三郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《林 三夫》①【最高裁判所裁判集 刑事 36(昭和25年11月下)】等

【最高裁判所裁判集 刑事 36(昭和25年11月下)】
【最高裁判所裁判集 刑事 40(昭和26年2月)】
【最高裁判所裁判集 刑事 56(昭和26年11月上)】

【最高裁判所裁判集 刑事 36(昭和25年11月下)】
出版者 最高裁判所
 昭和二五年(れ)第一一二七号 p22-25/421
   被告人 山田禎一
 弁護人寺島祐一ノ上告趣意
而シテ昭和二十四年一月十一日
神戸地方裁判所ニ於ケル第一審公判ニ於テハ
弁護人中原保、
《林三夫》、磯田亮一郞ノ三名ハ
之ニ先ダチ被告人ノ家庭ト工場ノ狀態ガ
被告人ノ速急ナ保釈出所ヲ必要トシテ居ル事情ト
公判ニ於テ自認シナケレバ公判修了ト同時ニ
到底保釈ガ許サレヌト云うフ
公判ノ空気トヲ察知シテ止ムナク
否認ヲ続ケテ居ル被告人ニ対シ
公判デハ頭ヲ下ゲテ認メヨ
デナケレバ保釈デ出シテ貰ヘヌト
其ノ意ニ反シテ勧告シタノデアル、
其ノ結果被告人ハ第一審公判ニ於テハ
起訴事実ヲ全面的ニ認メ
只ハイハイト述ベタノデアル、
依テ同公判ノ審理ヲ終ヘタ
昭和二十三年一月十一日
漸ク保釈ガ許サレタノデアル。

【最高裁判所裁判集 刑事 40(昭和26年2月)】
出版者 最高裁判所
 昭和二五年(あ)第七五四号 p16-18/648
     決  定
  本籍 兵庫県宍粟郡三方村福野四三八番地の三
  住居 西宮市津門川町一番地
     土木請負業 柳川正吉
           大正一四年八月六日
 右に対する詐欺被告事件について
昭和二五年二月二八日
大阪高等裁判所の言渡した判決に対し
被告人から上告の申立があつたので
当裁判所は次のとおり決定する。
   主文
  本件上告を棄却する。
   理由
 弁護人《林三夫》の上告趣意について。
昭和二六年二月一日
 最高裁判所第一小法廷
   裁判長裁判官 岩松 三郎
      裁判官 沢田竹治郎
      裁判官 真野  毅
      裁判官 齊藤 悠輔

 昭和二五年(あ)第七五四号
     被告人 柳川正吉
 弁護人《林三夫》の上告趣意

【最高裁判所裁判集 刑事 56(昭和26年11月上)】
出版者 最高裁判所
 昭和二六年(あ)第九八三号
     決  定
  本籍 兵庫県加東郡福田村大門六八六番地
  住居 神戸市兵庫区上沢通八丁目一番屋敷の一〇
     無職 蓬萊昇
        大正一三年一一月一四日生

  本籍 朝鮮慶尚道泗川郡泗川面平和洞四五番地
  住居 神戸市生田区元町二丁目一〇四番地の一
     八方ホテル 崔仁柱方
     土工 高山哲男こと
        崔容義
        大正一一年五月二五日生
 昭和二六年(あ)第九八三号
     被告人 高山哲男こと
         崔容義
 被告人の上告趣意
 昭和二六年(あ)第九八三号
     被告人 蓬 萊 昇
 弁護人《林三夫》の上告趣意
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野義眞銅像》[建設者]小野十三郎[所在地]高知縣幡多郡宿毛町宿毛【偉人の俤】昭和3年

【偉人の俤】昭和3年
著者    二六新報社 編
出版者   二六新報社
出版年月日 昭和3

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市高知後援追手門
[建設月日]大正十四年十二月五日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 板垣伯銅像記念碑建設會
[銘 記] ナシ

林 有造銅像[偉人傳第八二頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町片島
[建設月日]大正六年一月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

片岡健吉銅像[偉人傳第八一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市帶屋町縣公会堂内
[建設月日]大正五年十一月七日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 岐阜縣岐阜市公園内
[建設月日]大正七年四月二十一日
[原型作者]畑 正吉
[鑄 造] 畑 正吉
[構 造] 像ノ高サ八尺 臺石高サ一丈四尺
[工 費] 二千三百圓
[建設者] 發起人 ―略―
[銘 記] ―略―

岩村通俊銅像[偉人傳第八三頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設月日]明治四十二年四月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

小野義眞銅像[偉人傳第一八七頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設年月]大正五年三月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 小野十三郎
[銘 記] ナシ
 p218【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p218【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/218
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/219

 p220-1【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-1【偉人の俤】昭和3年

      小野義眞銅像
 p220-2【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-2【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/220

小野義眞 (第六〇頁寫眞參照)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/667
昭和三年十月 廿四日印刷
昭和三年十月二十八日發行 定價金四拾圓
編輯兼 新居房太郎
發行者 東京市芝區芝口二丁目七番地
印刷者 三井壽衞九郎
    東京市芝區神明町二十一番地
印刷所 三井寫眞製版印刷所
    東京市芝區神明町二十五番地
發行所 二六新報社
發賣元 北隆館
    東京市京橋區元數寄屋町三ノ七
    電話京橋一七八八・一七八九
        一七九五・一七九六
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/805
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【統計集誌 (初號)】明治15年【スタチスチック雑誌 (1)】明治19年【統計学雑誌 (69)】明治25年

西蒲原有明様
【統計集誌 (初號)】明治15年
【スタチスチック雑誌 (1)】明治19年(1886-04)
【統計学雑誌 (69)】明治25年(1892-01)
下記、PDFを参照頂けますでしょうか。
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小野一雄様
私の控えで
「明治8年1875年(24歳)、
呉文聰(くれあやとし)は太政官正院の政表課に入り
杉亨二のもとで気象統計、貿易統計などを手がけ、
内務省衛生局に移り衛生統計、
駅逓局で運輸統計、農商務省で産業統計など、
広く統計の整備改善を行った。
1880年(明治13年、29歳)東京統計協会の設立にくわわり、
「統計集誌」を編集し、
国勢調査の準備に指導的役割をはたす」とあります。
「東京統計協会」と「統計協会」及び「統計集誌」と
「統計学雑誌」の関係が分かりません。
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【統計集誌 (初號)】明治15年(1882-01)
出版者   東京統計協会
出版年月日 1882-01
統計集誌 初號
明治十三年十一月
統計協會編纂刊行
 p1【統計集誌 (初號)】明治15年(1882-01)
〔画像〕p1【統計集誌 (初號)】明治15年(1882-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1572869/1/1
明治十五年一月十九日出版御届
編纂並出版 東京統計協會
      築地三丁目三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1572869/1/32
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【スタチスチック雑誌 (1)】明治19年(1886-04)
出版者   統計学会
出版年月日 1886-04
  「スタチスチック」雜誌第壹號
   記  事
 〇「スタチスチック」社沿革概略
明治九年二月有志ノ士十餘名
「スタチスチック」研究ノ爲一社ヲ興シ
杉亨二君ヲ推シテ社長トナシ
稱シテ表記學社ト云フ
※「スタチスチック」学社
蓋シ當時「スタチスチック」ヲ譯シテ
表記學トナセシヲ以テナリ

集會ハ毎月一回適宜ノ地ニ於テシ
專ラ「スタチスチック」ニ關スル論議ヲ開キタリ
之ヲ本社成立ノ第一源泉トス

同年(明治9年)十一月舊開成所ヲ以テ會場トナス
爾來社運日ヲ追フテ盛大ナラントスルノ勢アリ

明治十年九月會場ヲ杉君邸内ニ改ム

明治十一年二月社則ヲ改正シ又
社名ヲ改メテ「スタチスチック」社ト號シ
集會ヲ毎月第二、第四、土曜日ノ二回トナシ
再ビ會場ヲ東京大學内ニ設ク

明治十二年一月社員一同
杉君ニ請フテ毎會「ハウスホーヘル」氏著
「スタチスチック」ノ講演ヲ受クルヿトセリ
同時世良太一君ヲ擧ゲテ幹事トナシ
村上義方、浦野元純ノ二君ニ會計掛ヲ囑ス

明治十三年六月會場ヲ神田今川小路玉川堂ニ轉ス
https://dl.ndl.go.jp/pid/3556593/1/1

【スタチスチック雑誌 (68)】明治24年(1891-12)
出版者   統計学会
出版年月日 1891-12
明治二十四年十二月二十三日發兌
スタチスチック雜誌 第六十八號
https://dl.ndl.go.jp/pid/3556659/1/1

※社名、雑誌名を変更

【統計学雑誌 (69)】明治25年(1892-01)
出版者   統計学社
出版年月日 1892-01
統計學雜誌 第六十九號
  本社紀事
 ◎第六回總集會紀事
明治二十五年一月十七日午後一時より
第六回總集會を府下神田三河町の三河亭に於て開く
 ―略―
〇發議者河合利安君曰く
 從來の本社名并に雜誌の題號を
 「スタチスチック」で押通し來りたれとも
 世間の通り甚た宜しからさるとは
 今更喋々を要せすして
 諸君の熟知せらるゝところなるへし
 就ては他に名稱を撰ふことは必要の事と思考す
 然しなから左し當り適當の譯字を附すること
 頗る困難なるを以て
 矢張世間に行はるゝ文字を採り
 自今社名を統計學社、
 雜誌を統計學雜誌と改めんとを希望す
滿場異議なし
https://dl.ndl.go.jp/pid/3558793/1/10
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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大隈重信書翰(小野義真宛)明治36年12月27日義真の夫人が他界した時の大隈重信の弔詞【早稲田大学史記要 7(11)】

【早稲田大学史記要 = 
Transactions of Waseda University Archives 7(11)】
出版者   早稲田大学大学史資料センター
 【早稲田大学史記要 7(11)】p1
〔画像〕【早稲田大学史記要 7(11)】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/1
出版年月日 1974-03
早稲田大学関係文書(1)大隈重信書翰・小野梓原稿 
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/121
  二 大隈重信書翰(小野義真宛)
この書翰は明治三六年(一九〇三)十二月二十七日
小野梓の義兄小野義真の夫人が他界した時の
大隈重信の弔詞である。

受信者の小野義真は天保十年(一八三九)
土佐国幡多郡宿毛に生れ、
明治三年(一八七〇)四月工部省に出仕、
四年十月大蔵少丞に任じ、
五年十一月土木頭に至り、
七年一月に退官した。
後、三菱商会に入り、
岩崎弥太郎の股肱として活躍した。

また、日本鉄道株式会社を設立して社長となり、
東北本線の敷設に尽力し、
明治三十八年五月八日に六十七歳で没した。
一、大隈重信書翰(吉田清成宛)で述べた如く、
大隈重信は明治六年十月に
大蔵卿に任じられているので、
義真は大隈重信の属僚であったことがわかる。
これ以後においても、
大隈重信と密接な関係であった
岩崎弥太郎の下で活躍したので
大隈重信とも親近な関係が続いた。
付記すれば、
義真は明治七年に梓を大隈重信に紹介している。

なお、
この書翰は小野義真の孫小野富美子氏により
当編集所に寄贈され、
その寄贈に当って、
本大学教授大野実雄氏および
同客員教授福島正夫氏に仲介の労を頂いた。
ここに以上の方々に対して深甚の謝意を表したい。

令夫人御病気之処
 p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/124

御療養無御叶遂ニ
御逝去之段訃音ニ接シ
驚愕哀悼之至ニ不
愖御愁傷之極深察
致候右謹テ御吊詞
申進候也
 十二月廿九日 大隈重信
 小野義真殿
追啓乍輕微生花料
別包御霊前ヘ相供候
 p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/125
昭和四九年三月三一日発行
頒布価格 三五〇円
発行者 早稲田大学大学史編集所
    小松芳喬
印刷者 株式会社早稲田大学印刷所
    宇野政雄
発行所 早稲田大学大学史編集所
    東京都新宿区戸塚町一ノ六四七
    〒一六〇
(第七巻 通号第一一号)
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《小野梓・小野安子》故統計家及統計關係者諸氏祭典執行記事【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)

【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
出版者   統計学社
出版年月日 1921-08
 統計學雜誌 第四百二十四號(祭典記念號)
  目 次
  統計學社役員(いろは順)
 p1【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
〔画像〕p1【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/1
統計學雜誌 第四百二十四號(祭典記念號)
 ◎故統計家及統計關係者
  諸氏祭典執行記事
于時大正十年七月三日、
東京市麴町區大手町
大日本私立衞生會會堂に於て、
故統計家及統計關係者諸氏追悼の爲め、
遺族其他朝野の有志者百數十名參列し、
嚴肅なる祭典を執行したり。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/6
 遺族氏名(五十三名)
兵庫縣武庫郡精道村蘆屋二六二
小野安子
 ―略―
右の遺族に向つて發したる招待狀に對し、
出席の御答ありしもの三十二名、
病氣其他の差支に依り缺席の返事ありしもの十四名、
其他の七名よりは何等返信無かりし。
 p8【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
〔画像〕p8【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/8

先刻皆樣に差上げました、
祭典執行順次に記載致しましたる通り、
是より招魂の式が行はれまするが、
其際齋主より一々祭神の御名前を讀上げまする
筈でありますが、
反て時間を要しまするから、
便宜私が讀上げまして
齋主の朗讀は省略致します、
卽ち左の通りで御座ります。
小野 梓殿
 ―略―
 p12【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
〔画像〕p12【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/12
 ◎祭神略傳(其一)  筱崎 亮
《子爵鳥尾小彌太略傳》
《杉享二略傳》
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/22
渡邊洪基君略傳》
君は弘化四年十二月二十三日を以て
越前武生に生る、
 ―略―
君は明治十二年
馬屋原彰、小野梓、阿部泰藏、
矢野文雄、小幡篤次郎等と
統計協會を設け其會長となりて
死に至るまで會務に盡力し、
同會をして今日の盛大を見るに至らしめたり。
 p23【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)《子爵花房義質君略傳》
〔画像〕p23【統計学雑誌 36(424)】大正10年(1921-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487965/1/23
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[祭典記念號受領に付 禮狀を寄せられたる遺族]
【統計学雑誌 36(425)】大正10年(1921-09)
出版者   統計学社
出版年月日 1921-09
 ◎故統計家及統計關係者諸氏祭典記事續報
  筱崎 亮
一 祭典記念號受領に付
  禮狀を寄せられたる遺族は左の十二名なり
  岩井つも代君  岡松  淺君  中村 民一君
  飯尾 利恭君  高橋 多喜君  熊谷 みね君
  花房  子爵  多喜  澤君  在田 利平君
  小野 安子君  竹内  督君  世良 やす君
 p17【統計学雑誌 36(425)】大正10年(1921-09)
〔画像〕p17【統計学雑誌 36(425)】大正10年(1921-09)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1487966/1/17
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《小野梓》修文館の寄宿舍・彼は頗る勉强家・當時(明治4年)パーレーの萬國史を譯出:井深梶之助の談

【植村正久と其の時代 第1巻】昭和12年
著者    佐波亘 編
出版者   教文館
出版年月日 昭12至13
  二九 横濱と熊本と札幌
     横濱バンド
  ブラオン博士
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261290/1/252
多少重複を免かれないが、
さらにこれを詳かにするため、
井深梶之助の談を記せば、
『修文館はもと幕府の役人になる者を養成した所
(註 なほ
 この修文館の寄宿舍には、
 小野梓もゐて、彼は頗る勉强家にて、
 當時パーレーの萬國史を譯出したりしたと
 井深はおもひ出を語ったが、
 彼は土佐宿毛(スクモ)の人、
 明治七年二十三歳にして
 『共存同衆』を創立した。
 一旦官海に入りしも、
 明治十四年大隈と共に野に下り、
 明治十五年三十一歳の時、
 立憲改進黨の創立、
 及び早大の前身である
 東京專門學校の創立に參與した。
 明治十九年死去、
 行年三十五。)
であったが、後
洋學の部門も出來た。
p262【植村正久と其の時代 第1巻】昭和12年
〔画像〕p262【植村正久と其の時代 第1巻】昭和12年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261290/1/262
昭和十二年十二月七日印刷
昭和十二年十二月十日發行
植村正久と其の時代 第一巻 五百限定版
編纂者 佐波  亘
發行者 松野菊太郎
    東京市麻布區霞町二十六番地
印刷者 島 連太郎
    東京市神田區美土代町十六番地
印刷所 三秀舎
    東京市神田區美土代町十六番地
發行兼 株式會社 敎文館
發賣所 東京市京橋區銀座四丁目二番地
    振替口座東京一一三五七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261290/1/428
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《小野梓》修文館で同期の人々【工学博士白石直治伝】昭和18年

【工学博士白石直治伝】昭和18年
著者    吸江庵南海洋八郎 [編著]
出版者   工学博士白石直治伝編纂会
出版年月日 昭和18
   脚氣で一旦歸省
後藤邸で世話になつて居る中に、
(明治)四年八月十二日
陸奥が神奈川縣知事となつた。
先生は後藤の許しを受け、
中島の叔父や、陸奥達の推薦で、
横濱の修文館に這入つた。
修文館には米國人宣敎師の
サミユヱル・アール・ブラオンが居て、
英語や其他西歐の事を敎へた。
先生は主として英語を勉強したい念願であつた。
高知敎會故多田素牧師の話に依ると、
此のブラオンと言ふ宣敎師は、
當時の宣敎師間でも最も進んだ智識者で、
又人格の高い人であつた。
彼の札幌大學を創立したクラークと併稱された。

牧師界で有名な
《植村正久》《井深梶之助》
(此の兩人は大正八年白石博士の葬儀に際して、
 司祭者となつた親友)
《山本秀煌》
《小野梓》
《内村某》
等といふ人々と同期であつた。
殊に
《谷乙猪(谷干城將軍の養嗣子)》と
《北村喜久馬(長兵衞弟)》とは、
入學の時から極く親密であつた。
p42【工学博士白石直治伝】昭和18年
〔画像〕p42【工学博士白石直治伝】昭和18年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1107337/1/42
  工學博士 白石直治年譜
年齡 十五歳
年號 明治四年
干支 辛未
皇紀二五三一 西紀一八七一
横濱修文館ニ入リ
「ブラウン」ヨリ
英語及奉西ノ學問ヲナス。
小野梓、植村正久、井深梶之助等ト同門ナリ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1107337/1/367
年齡 三十歳
年號 明治十九年
干支 辛未
皇紀二五四六 西紀一八八六
一月 改進黨員 小野梓歿ス。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1107337/1/369
工學博士 白石直治傳 奥付
昭和十八年十一月十二日印刷納本
昭和十八年十一月十七日記念版發行 非賣品
編纂並著者   吸江庵 南海洋八郎
      東京都世田谷區上馬町一ノ七二七
印刷者(東東一) 代表者 肥後盛武
      東京都牛込區榎町七
      大日本印刷株式會社
發行者   明石太郎
      千葉縣葛飾郡小金町殿平賀七三
發行所   工學博士白石直治傳編纂會
      東京都麴町區丸ノ内丸ビル四
      白石基礎工事株式會社内
(東京府承認午用版第34號)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1107337/1/377
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