2023年11月

《竹本駒吉といふ女は、足藝が上達して…》ロンドンで死んだ【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年

《早咲小梅太夫》女德利兒
天保7年(1836)・年30歳位、
明治8年(1875)・年69歳位

《竹本駒吉》
江戸の香具師と出演の交渉中、
或日突然吐血して頓死

【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
出版者   財政経済学会
出版年月日 昭和10
ロンドンで死んだ 足藝の竹本駒吉
〔七・八、讀賣〕明治8年(1875)7月8日
越前生れの竹本駒吉といふ女は、
足藝が上達して
先年も淺草や兩國にて
評判で有りましたが、
其後西洋にわたり、
諸方で興行いたして
大さうに金を儲けましたが、
其内病氣に成つて
英吉利(イギリス)の
倫敦(ロンドン)で死にました。

其時の葬式には
英吉利の兵隊が二百人も送つていつたといふ。
ナント足藝ぐらゐの事でも藝といふものは
大したものでござります。
是を聞ても人間は無藝大食では
金持に成る事は出來ますまい。
p200【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
p200【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123713/1/200

【好色見世物志】昭和7年
著者    松浦泉三郎 著
出版者   風俗資料刊行会
出版年月日 昭和7.10
降て萬延元年に到り、正月から
※下記:壬申五年正月[明治5年(1872)2月
大阪難波新地で德利兒
竹本駒吉の足藝興行が行はれた。
是は從來の足藝と違つて、
五斗俵を右足で差切つたり、
齒で咥へて、打振り、投上げる、
等の力技をも演じ、大當りをとつた。

是より先、
天保七年(1836)
各所に現れて興行した
女德利兒、大阪下り早咲小梅太夫は、
それが女であつただけに、
好色家間に異常の人氣を呼び、
後年女の足藝興行を盛ならしめた。
小梅太夫は年三十歳位、
琴、三味線、縫物、生花、紙折り、
紋の切抜き、揚弓、投扇興等、
樣々の曲藝を演じた。
p83【好色見世物志】昭和7年
p83【好色見世物志】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1208402/1/83
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《竹本駒吉》
江戸の香具師と出演の交渉中、
或日突然吐血して頓死
【見世物研究】1928
著者    朝倉無声 著
出版者   春陽堂
出版年月日 1928
萬延元年(1860)正月から、
※下記:壬申五年正月[明治5年(1872)2月
大阪難波新地で足藝を演じた竹本駒吉は、
缶兒であるが血氣盛んな若者で、
見るも勇しい力持や齒力、
喝采を博したのである。
先づ最初に足調べとあつて、
足で文字を書いたり、
又は鼓を打ちなどした後、
足で巧みに鉢巻をしめる。
それから五斗俵を右足で差上げ、
又齒で衝へて打振り、
最後に其俵を空中高く投上げるといふ、
缶兒としては至難の離れ業を演じたので、
連日大當りであつた。
そこで江戸の香具師と出演の交渉中、
或日突然吐血して頓死したとは、
曾て浪花の老興行師から聞いた懐舊談の一節である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1823457/1/94
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SUBCULTUREAT
23日 2月 2019
【見世物】缶児「足芸に秀でた両手のない見世物芸人」
天保7年(1836年)には、江戸の渋谷で。
女缶児の早咲小梅太夫が各地で足芸興行を行い、
女ゆえの人気を集め、のちの女足芸流行の先駆者となった。
小梅太夫は、弓、投扇などさまざまな足芸を見せたという。
また同年、安芸国宮島にて、
女太夫小蝶と女太夫清山という女缶児の女足芸が行われたという。
 早咲小梅太夫

幕末の万延元年(1860年)に、
大阪難波地で缶児竹本駒吉の足芸興行が行われた。
駒吉はこれまでの缶児の足芸に、
勇壮な力技をくわえて注目を集めた。

彼の芸は、まず、文字を書き、太鼓を打ったりしたあと、
足で鉢巻きを上手にしめてみせた。
それから、右足で五斗俵をさしあげたり、
歯でくわえて振ったりし、
最後にその俵を足で高く投げ上げるという
缶児としては至難の離れ技を見せた。

しかし、駒吉は、連日の満員入りを見た
江戸の興行師と出演の交渉中、
突然、血を吐いて死んでしまったという。
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見世物興行年表
2014年02月07日
明治5年(1872年・壬申)1月~4月
1月
〇一月上旬より、大阪難波新地溝の側にて、竹本駒吉の足芸。
(『近来年代記』/「大阪新聞」四月・二号/
「名古屋新聞」三月・八号)
「難波新地ニおいて見せ物
 〇手無の足芸 竹本駒吉 此度の足げいハ、
 両手共うでくびよりすっぱりなしニて、
 いろ〳〵様々の芸をなし、古今めつらしき人物也。」
(『近来年代記』)
 ―略―
〈編者註〉無声はこれを万延元年正月のこととして
『見世物研究』(173頁)に以下のように述べている。
「万延元年正月から、
 大阪難波新地で足芸を演じた竹本駒吉は、
 缶兒であるが血気盛んな若者で、
 見るも勇しい力持や歯力に、喝采を博したのである。
 先づ最初に足調べとあつて、足で文字を書いたり、
 又は鼓を打ちなどした後、足で巧みに鉢巻をしめる。
 それから五斗俵を右足で差上げ、又歯で銜へて打振り、
 最後に其俵を空中高く投上げるといふ、
 缶兒としては至難の離れ業を演じたので、
 連日大当りであつた。
 そこで江戸の香具師と出演の交渉中、
 或日突然吐血して頓死したとは、
 曾て浪花の老興行師から聞いた懐舊談の一節である。」 
「観物画譜」183にも「万延元年」と書込みをしているが、
典拠は不明で、
おそらく「申」を万延元年として推定したのであろう。
しかしここは『近来年代記』その他より
「申」を明治五年と推定する方が正しいと思われる。
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《佐竹力総:京懐石 美濃吉 10代目当主》読売新聞「時代の証言者」2013年7月~8月

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創業享保元年 京懐石 美濃吉
2013.09.09メディア掲載情報
読売新聞「時代の証言者」
この度、弊社社長 佐竹力総が
2013年7月31日(水)から
2013年8月31日(土)までの1ヵ月間、
全22回に渡り、
読売新聞の「時代の証言者」にて
連載をさせて頂きました。
(2013年現在)
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【官報 1911年01月19日】明治44年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治44年
會社設立
商號 京都美濃吉合資會社
本店 京都市下京區大和大路通三條南入二丁目
   新五軒町百八十二番地
目的 海川魚料理營業
設立年月日 明治四十四年一月十二日
社員ノ氏名住所 出資ノ種類 價格及責任
   京都市下京區大和大路通三條南入二丁目
   新五軒町百八十二番地
   金千五百圓 無限責任
   《佐竹吉兵衞》
   京都市上京區聖護院町字片木原十三番地ノ二
   金五百圓  有限責任
   《村井淺吉》
   京都市下京區大和大路通三條南入二丁目
   新五軒町百七十四番地
   金五百圓  有限責任
   《小川ハル》
   京都市下京區大和大路通三條南入二丁目
   新五軒町百八十三番地
   金五百圓  有限責任
   《佐竹トモ》
存立時期 設立ノ日ヨリ向滿十箇年
京都區裁判所
p18【官報 1911年01月19日】明治44年
p18【官報 1911年01月19日】明治44年

【官報 1912年05月17日】明治45年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治45年
京都美濃吉合資會社
登記事項中變更
社員《佐竹トモ》ハ出資持分ヲ
社員《佐竹吉兵衞》ニ譲渡シ退社
《佐竹吉兵衞》ハ之ヲ譲受ケ自己ノ出資總額ヲ
金二千圓ト變更
右明治四十五年四月二十四日登記
京都區裁判所
p10【官報 1912年05月17日】明治45年
p10【官報 1912年05月17日】明治45年

【官報 1934年01月13日】昭和9年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和9年
◎株式會社設立
商號 和氣水須布同盟株式會社
本店 京都市上京區丸太町通智惠光院東入
   中務町四百八十六番地ノ十八
目的 賣藥和氣水 購買販賣
   右ニ關聯スル附帶事業
設立年月日 昭和八年十一月二十四日
資本ノ總額 金十万圓
一株ノ金額 金二十圓
各株ニ付拂込ミタル株金額 金二十圓
公告ヲ爲ス方法 本店店頭ニ掲示シテ之ヲナス
取締役ノ氏名住所
堀井 憲吉 京都市左京區岡崎成勝寺町五番地ノ三
伊東藤四郎 京都市左京區岡崎西福ノ川町十五番地
樋口儀三郎 京都市左京區聖護院蓮華藏町四十三番地
辻 國三郎 京都市上京區仁和寺街道六軒町西入
      四番町百十七番地
佐竹吉兵衞 京都市東山區大和大路通三條下ル
      新五軒町百八十二番地
日笠 政治 岡山縣和氣郡日笠村大字日笠上
      千百八十九番地
代表取締役 堀井憲吉
監査役ノ氏名住所
北川 淸吉 京都市東山區福稻川原町四番地
永田岩太郎 京都市中京區高倉通蛸藥師下ル
      貝屋町五百五十七番地
石原  玄 京都市左京區新丸太町孫橋上ル
      新丸太町七十三番地
存立時期 設立ヨリ滿三十箇年
p22【官報 1934年01月13日】昭和9年
p22【官報 1934年01月13日】昭和9年

【官報 1934年11月15日】昭和9年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和9年
◎株式會社設立
商號 株式會社 愛龍會
本店 京都市東山區五條橋東四丁目四百三十二番地ノ十一
目的 一 土地ノ賣買竝ニ經營
   二 金錢ノ貸付竝ニ投資
   三 以上ニ關聯スル一切ノ業務
會社設立ノ年月日 昭和九年八月二十日
資本ノ總額 金五万圓
一株ノ金額 金五十圓
各株ニ付拂込ミタル株金額 十二圓五十錢
公告方法 本店店頭ニ掲示ス
取締役ノ氏名住所
吉田美太郎 京都市東山區大和大路通四條下ル
      四丁目小松町五百七十二番地ノ六
吉川倉太郎 京都市中京區新京極通蛸藥師下ル
      東側町五百十二番地
佐竹吉兵衞 京都市東山區大和大路通三條下ル
      新五軒町百八十二番地
德岡 大吉 京都市下京區高辻通大宮西入
      坊門町八百三十二番地
西村 龜作 京都市中京區錦小路通新町西入
      西錦小路町二百六十三番地
小坂 龍平 京都市東山區五條橋東四丁目
      四百三十二番地ノ十一
監査役ノ氏名住所
小川 兵吉 京都市中京區壬生番場町十二番地
赤坂  淸 京都市下京區西九條北ノ内町十五番地
北村 由吉 京都市中京區二條通油小路東入
      西大黑町三百二十番地
存立時期 設立ヨリ滿二十箇年
p17【官報 1934年11月15日】昭和9年
p17【官報 1934年11月15日】昭和9年

【官報 1940年03月20日】昭和15年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和15年
◎美濃吉合資會社 出資增加
昭和十四年十二月三十一日
無限 佐竹吉兵衞ハ增出資ニ因リ
自己出資持分ヲ
一 勞務
一 金一万圓ト變更ス
p22【官報 1940年03月20日】昭和15年
p22【官報 1940年03月20日】昭和15年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年11月23日04:38
千枚漬の思い出(遺稿)佐竹吉兵衛 
料亭 美濃吉 六世主人(昭和30年6月7日逝去)
【洛味 52】昭和31年(1956-02)
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千枚漬の思い出(遺稿)佐竹吉兵衛 料亭 美濃吉 六世主人(昭和30年6月7日逝去)【洛味 52】昭和31年(1956-02)

【洛味 52】1956-02
出版者   洛味社
出版年月日 1956-02
  千枚漬の思い出
  (遺稿)佐竹吉兵衛
一樽千枚、
千枚漬は京都名産中の最高のものであります。
その千枚漬が私の先祖、
二代目吉右衛門の発明製造したもので
ありますことを
御存じの方は少ないと思います。

今から二十五年前程前に、
京都新聞の田中豊州君が見えて
「千枚漬は美濃吉様の発明だそうですね、
 府庁の文献で読みましたよ」
と話しせられた事がありましたが、
全く其の通りで、
私の方の創造であります。

御承知の如く、
料理を召上がった後に御飯を差し上げる時、
美味な漬物を添えて止を刺し、
その料理の有終の美を飾る事は
最も必要なことであります。

そこで料理屋が漬物に工風をこらし、
研究に心をくだくことは当り前でありますが、
このことは、
われわれの祖先が野菜の豊富な京都として
如何に美味な漬物を造るに苦心を重ねたか、
千枚漬によっても
その一端がよくわかる様な気がします。

それは漬物専門店があって便利になった
今日からは考えられないことですが……。

さて私の方の千枚漬の原料は、
聖護院蕪の皮を剥きまして、
薄く立て切にして並べ揃えて樽に漬けます。

それが一樽に千枚くらい漬かりますので、
此の漬物を『千枚漬』と命名したと
親共から聞いております。

尤も現今、市販せられております千枚漬とは
漬方も切り方も違っておりまして、
その当時の漬方は前に一寸申しましたように、
蕪の皮を剥いてうすく立て切にして
一枚一枚少しづつずらして、
重ねて、円型にして漬けます。

漬ける樽の底に、
先ず蕪の葉を引いて昆布塩をふり、
塩も少しふって、
その上に蕪を並べて漬けて、
またその上に葉を引いて昆布塩と塩をふり、
蕪を並べるという様に繰り返し繰り返しして、
樽が一杯に成るまで漬けこんで、
その上から重石を載せて一ケ月以上置きます。

そしてビードロ色、
即ち「すぐき漬」の様にして
漬けたものであります。

それは家の御客様に出しますことは
勿論でありますが、
お土産として売ったりしたもので、
特に大阪の御客様に受けました。

小桶にいれたのを何個も注文によって
淀の三十石船の横大路の船附場まで
持って行ったと言う様な話を聞いております。

そのうちだんだん
本職の料理屋が繁昌して参りましたのと、
千枚漬が評判になって需要が多くなるに従って
手が廻らなくなったところから、
もと、私のおりました縄手三条下る宅の向い、
東側に縫屋の越後屋宇兵衛(寺崎)と言ふ人が居まして、
非常に心安く致していました関係上、
いつも千枚漬を漬ける時期になりますと、
遊びがてら手伝に来てくれます。

その人がいつの程にか切方も漬方も会得して、
千枚漬を一手に引受けてくれる様になりまして、
ついにその人のお宅で漬ける様になりました。

私の方としましても
その方が便利に存じまして、
その越宇から買入れて
お客様に出すようになりましたが、
其の株、即ち今でいふ権利を越宇へ譲らず、
私の方に所有していたようであります。

越後屋は縫屋の傍、
千枚漬の時期には大きな長い提灯に
千枚漬と大書した看板を出して、
千枚漬屋になると言ふ始末で、
家の表で蕪を剥いて通行人に見せていました。

話が変りますが、
明治十年頃、
同じ縄手通新橋下る八百伊といふ八百屋が、
千枚漬が売りたいから株を分けてくれないかと、
私の方に話がありましたので、
権利金五拾円で分権したといふ記録が
私の方に残っていましたが、
引越や何かで只今は手元にありませんが、
多分、伏見の竹中さんには
その一片が残っているのでは無いかと思います。
竹中様は八百伊の孫に当るのですから……。

その後いつともなしに
株というものが無くなりまして、
あっちこっち製造せられる様になり、
種々改良が加えられまして
現在の千枚漬になったのであります。

只今の千枚漬の製法は、
大蕪や尾張大根を用いまして、
鉋で薄く切って干してから塩を降って置き、
漬ける時は樽に平昆布を引き
其の上に蕪を並べて、
葉は捨てて用いません。

そうして砂糖をふり、
また昆布を引き蕪を並べて甘味をふりと
いうぐあいにして、
矢張り一樽千枚ぐらい漬け、
重石を乗せて一週間位で漬け揚げて、
色の白いのを自慢で出すのであります。

駅頭などで「京都名産千枚漬」と
売声を聞きましたり、
名物屋の店頭に千枚漬の桶入れが
並べてあるのを見ます時、
「ああ、あれは私の店が元祖だ」と、
聊か自慢がしたくなって、
思出のまま書いて見ました。
呵々
(筆者 料亭美濃吉六世主人、
 昨年六月七日逝去)
p32【洛味 52】1956-02
p32【洛味 52】1956-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/3565673/1/32
洛味 第五十二集・百円
昭和三十一年二月十一日発行
編集発行人 宮崎小次郎
印刷人   上田 隆之
発行所   洛味社
      京都市左京区北白川久保田町一
p69【洛味 52】1956-02
p69【洛味 52】1956-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/3565673/1/69
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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創業享保元年 京懐石 美濃吉
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土から作る手づくりの味。
京漬物 千枚漬発祥の店
千枚漬本家 大藤
会社沿革 ~慶応元年
京都御所で料理方を勤めていた
初代・藤三郎が千枚漬を考案。
慶応元年・御所勤めを退き、寺町で開業。
大黒屋藤三郎の名から屋号を「大藤」とする。
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歴史・由来・関連行事
「千枚漬け」は、薄切りにした
聖護院かぶを塩漬けにした漬物。
「すぐき漬け」「しば漬け」と並ぶ
“京都三大漬物”の一つである。
従来の漬物と異なり、長期保存を目的としておらず、
繊細に漬け上げる。
江戸時代、御所の料理人である大藤藤三郎が
考案したものとされる。
のちに大藤藤三郎は漬物商に転身し、
「千枚漬け」を販売。
たちまち評判となり、
明治23年(1890年)に京都で開かれた全国博覧会では、
全国名物番付けに入選するまでになった。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年11月24日04:50
《佐竹力総:京懐石 美濃吉 10代目当主》
読売新聞「時代の証言者」2013年7月~8月
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《吉田淸成》アメリカで生れた初めての日本兒【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年

【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
出版者   財政経済学会
出版年月日 昭和10
アメリカで生れた 初めての日本兒
〔七・四、東京曙〕明治八年(1875)七月四日
米國華盛頓府在留
日本公使吉田淸成君に幼兒は、
日本人の此國に於て出生したる始めなるが、
不幸にして誕生日ならずして
夭死せしにより、
(ジョジトウン)府の
(オーク、ハイル、セメトリー)
に埋葬せられしに、
日本公使官の諸有司并に
公使の親友なる米國人等も來會せり。
其葬式を取行ひし者は
(プレスピトリアン)敎派の僧侶なりしといふ。
(ヘラルド)
p198【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
p198【新聞集成明治編年史 第2巻 民論勃興期】昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123713/1/198
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【官員録 明治8年11月改正】
〇外務省
特命全權公使
兼總領事  河瀨眞孝
兼海軍中將 榎本武揚
      吉田淸成
      鮫島尚信
      上野景範
      靑木周藏
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日11:16
小野梓:明治5年2月18日 
飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02
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在ワシントン日本公使館の形成 
--吉田清成駐米公使時代を中心に—
西脇, 彩央
京都大学大学院教育支援機構
奨励研究員; 教育哲学・教育史学コース
博士後期課程1回生
抄録
本研究は、吉田清成(1845-1891)の
駐米公使時代(1874-1882)に焦点を当て、
※明治7年(1874)―明治15年(1882)
当時の在米日本公使館のあり方を
明らかにしようとするものである。
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Lehmann,Carl(レーマン)Lehmann,Rudolph川口居留地外国人名簿(上)井上琢智・西口忠【大阪の歴史 (19)】1986-09

【大阪の歴史 (19)】1986-09
著者    大阪市史編纂所 編
出版者   大阪市史料調査会
出版年月日 1986-09
川口居留地外国人名簿(上)
  井上琢智 西口忠
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/30
  凡 例
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/31
 川口居留地外国人名簿 A~L
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/32

 川口居留地外国人名簿 H~L
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/42
Lehmann,Carl(レーマン)
〔生没〕
〔国籍〕
〔住所〕与力町1番一八七一
〔職場〕レーマン・ハルトマン商会(与力町1番)
    1868-72
〔役割〕居留地会議委員1869,1872
〔特記〕A⑥ではLehmann,Harmann& Co.
    居留地会議委員は弟の可能性も、
    A⑤1868-70では職場場所未記入
〔出典〕A①③⑤⑥ B⑤

Lehmann,Rudolph(レーマン)
〔生没〕1842-1914
〔国籍〕独
〔住所〕京都1875-82
〔職業〕製紙技師 教師
〔職場〕レーマン・ハルトマン商会(与力町1番)
    1870-71
〔在日〕1869-1914
〔墓地〕東京雑司ヶ谷霊園
〔特記〕C・レーマンの弟、
    最初の独和・和独辞書の刊行、
    京都欧学舎、東京外国語学校、
    東京大学予備門、
    A①一八七一では職場
    Lehmann,Harmann& Co.
〔出典〕A①②③⑤ B➃⑥⑦
(井上・関西学院大学 西口・桃山学院)
p46【大阪の歴史 (19)】1986-09
p46【大阪の歴史 (19)】1986-09
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/46
大阪の歴史 第十九号
昭和六十一年九月一日発行
編集 大阪市史編纂所
発行 大阪市史料調査会
   代表者 宮本又次
   大阪市西区北堀江四丁目三ノ三
   大阪市立中央図書館内
   電話 〇六(五三一)〇五五一
   振替口座 大阪三ノ八二二四一
印刷 ナニワ印刷株式会社
(実費頒布)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953351/1/64
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【大阪の歴史 (20)】1987-01
著者    大阪市史編纂所 編
出版者   大阪市史料調査会
出版年月日 1987-01
川口居留地外国人名簿(上)
  井上琢智 西口忠
 川口居留地外国人名簿 M~W
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/35
  カタカナ名のもの ア行~ワ行
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/44
 川口居留地の商社等 A~W
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/46
「川口居留地外国人名簿(上)」の追加・修正
  「解説」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/47
最後に、本名簿の作成にあたっては、
遠藤トモ氏(梅花学園資料室)
吉住英和氏(大阪女学院)
西村良次氏(橋本カトリック教会)
堀田暁生氏(大阪市史料調査会)のほか、
関西国際委員会のF・カンパネラ氏および
川口居留地研究会会員のご協力を得たことを記して
御礼申し上げます。
(井上・関西学院大学 西口・桃山学院)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/48
大阪の歴史 第二十号
昭和六十二年一月一日発行
編集 大阪市史編纂所
発行 大阪市史料調査会
   代表者 宮本又次
   大阪市西区北堀江四丁目三ノ三
   大阪市立中央図書館内
   電話 〇六(五三一)〇五五一
   振替口座 大阪三ノ八二二四一
印刷 ナニワ印刷株式会社
(実費頒布)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953352/1/66
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《福永梅芳師》京丹波町安栖里 龍心寺幼稚院:明治8年10月26日【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03

曹洞宗ナビ 龍心寺
〒629-1141 京都府船井郡京丹波町安栖里堂ノ成11
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
著者    中国四国教育学会 編
出版者   中国四国教育学会
出版年月日 1996-03
中国四国教育学会 教育学研究紀要
第41巻 第1部(1995年)
 p6【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
p6【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
  明治,幼稚園草創期の幼児教育方法
 京都府安栖里村龍心寺幼稚院・
 京都市柳池幼稚遊嬉場を中心に 
   桒原昭徳(山口大学)
はじめに
1. 龍心寺幼稚院における幼児教育方法
a. 開設の経緯
  安栖里の地に「幼稚院」との名称を掲げて、
  我が国最初の村立(公立)の幼児教育施設が開校された。
  教師は龍心寺住職の福永梅芳であった。
b. 教育の内容と方法
  明治9年3月になって、
  京都府はドイツ語雇教師レーマンを通して
  「小児遊戯器具」の購入を契約し
  翌10年2月には模造のうえ販売を試みている。
  子どものおもちゃに類する道具などは、
  玩具ないしは小児遊戯器具と呼ばれているので、
  この場合の龍心寺幼稚院の「器械」とは、
  机や椅子などの学校用具を指していると考えてよい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/276
2. 柳池幼穉遊嬉場における幼児教育方法
a. 開設の経緯
b. 教育の内容と方法
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/277
3. おわりに
a. 龍心寺幼稚院は明治8年10月26日に、
  柳池幼穉遊嬉場は同年12月1日に開設されているが、
  その違いはわずかに36日である。
  京都府内の互いに60km離れた
  丹波の僻遠の地と京都市内で、
  東京の女子師範学校附属幼稚園開園の
  約1年前に開かれている。
  しかも、いずれの場合も、
  西洋の施設の存在を知ったうえで、
  作られていることに着目しなくてはならない。
  当時の京都府政の進取的な風潮の表われの一つである。
b. 龍心寺幼稚院の教師の役には、
  僧職にあった男性が当たり、
  柳池幼穉遊嬉場は、小学校教育法に通じた
  老実の教師を起用している。
c. 龍心寺幼稚院の単語図を用いたり、
  いろは図・五十音図などの習得は、
  当時の小学校の入学時の教材として
  広く用いられていた掛図を用いた教育方法である。
  したがって、室内においては、
  教師と子どもたちが対面する教授的方法が
  用いtられたと推察できる。
d. どちらの施設においても、
  言葉の上では遊びや遊歩への着目がなされている。
  龍心寺幼稚院の場合には、
  「児童と遊びて導けば良い」、あるいは
  「イロハ五十音、
   単語図等を遊歩旁々修業致させ度いから」
  と表現されている。
謝辞
本論執筆の直前の中国四国教育学会第47回大会
(岡山大学)幼児教育部会の発表において、
山陽学園大学教授・秋山和夫先生、
広島大学教育学部教授・森楙先生の
貴重な助言をいただいた。
記して、心よりの感謝を申し上げたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/278
平成8年3月20日 印刷
平成8年3月21日 発行
教育学研究紀要 第41巻
編集兼発行者 中国四国教育学会
印    刷 株式会社 ニシキプリント
       広島市西区商工センター7丁目5-33
       〒733 電話(082)277-6954
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/289
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【日本教育史資料 八 再版】明治37年
著者    文部省[総務局 編]
出版者   富山房
出版年月日 明治37
名 称   ……
學 科   讀・算
舊管轄   ……
所在地   安栖里村
開 業   天保二年(1831)
廢 業   慶應三年(1867)
敎 師   男一
生 徒   男二五 女
調査年代  慶應二年(1866)
身 分   僧
習字師氏名 福永梅芳
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京丹波町議会 議長談話 梅原好範:一部議員の失礼極まりない行動・執行部から再発防止を求める申し入れ

※本文に追記 小野一雄
 令和5年(2023)11月19日13:15
コメント一覧 (1)
1. 京丹波町和知在住者の声
 2023年11月19日 12:24
談話の最後の方に、
議会基本条例に基づいた
議会機能を確立するとありますが、
「公的な補助金、助成金等が支出される
 町内の各種団体の代表には、
 議員は、補助金等の監視機能をもつため、
 代表の就任を議員自身から自粛することを規定」
した基本条例の第16条第3項を守っていないことが、
長老苑理事長就任当初から話題になっています。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
京丹波 議会だより 第81号
[令和5年11月17日]
 京丹波 議会だより 第81号-1

  議 長 談 話
 町民の皆様から与えられました
貴重な任期の折り返しとなる時期を迎え、
町民の皆様の温かいご支援に深く感謝を申し上げます。

 さて9月定例会の会期と前後して、
このような皆様のご期待を裏切るような
一部議員の失礼極まりない行動に対し、
お怒りとともに率直なご意見が私のもとに届きました。

 同時期にこのような常道を逸した行為により、
推し進める事業の進捗に支障をきたすことを危惧する
執行部からも、
再発防止を求める切実な申し入れを受け、
指摘を受けた議員はもちろん、
議会としても大きな責を負う
恥ずべき事態が発生しました。

 私は議長の職責を担う立場として、
何をおいても真っ先に不快な思いをされました
町民の皆様に心からのお詫びを申し上げます。
大変申し訳ありませんでした。

 議会では今回の事件を受け協議を繰り返すなかで、
問題行動を起こした議員だけにとどまることなく、
議会として全議員が真摯に猛省することを
絶対条件として申し合わせたうえで、
今後の活動について議論を行いました。

 今回苦情をお届けいただいた複数の皆様、
そして明確な理由を添えて申し入れをされた
執行部に感謝をしております。

 私ども京丹波町議会は
これを契機として全議員が襟を正し、
議会基本条例に基づいた議会機能を確立するために
全力で取り組みを進めますので、
今後におきましても
ご指導を賜りますようお願い申し上げます。
議長 梅原 好範
 京丹波 議会だより 第81号-2
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月12日15:02
《特別養護老人ホーム長老苑 理事長 梅原 好範》
〇京丹波町議会議員政治倫理条例
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《福永梅芳師・京丹波町安栖里 龍心寺》わが国最初の保育施設「幼穉院」明治8年10月【保育の友 28(11)】1980-11

曹洞宗ナビ 龍心寺
〒629-1141 京都府船井郡京丹波町安栖里堂ノ成11
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【保育の友 28(11)】1980-11
出版者   全国社会福祉協議会
出版年月日 1980-11
若き保育者へ
保育施設発祥の地・京都
  園部 道(京都市・信愛保育園園長)
さて、その保育園の歴史も
また京都からはじまったことを伝えたい。

わが国最初の保育施設「幼穉院」は、
一八七五年十月(明治八年)
府下船井郡和知町の「龍心寺」に開設された。
日本幼児保育史第一巻には
「竜正寺」の名称が用いられているが、
これは京都府教育史(昭和十五年刊)に
記されたものである。
しかし京都市園長会の保育年表委員会が
実地調査して明らかにしたのは、
和知町安栖里村の「龍心寺」である。
この「龍心寺」境内が幼児保育発祥の地である。

当時農耕に忙しい家庭の幼児たち、
谷深い僻地で危険にさらされて日々をおくる
幼児を集めて保育をはじめたのである。
住職 福永梅芳師は五十音、
単語図などを内容としていた由、
時の戸長区長の届出書により
明らかにされている。

これより、二か月後に京都市内の柳池校内にも
幼穉遊嬉場(幼稚園)が開設された。
その後も就学が奨励され、
子どもをみながら字を覚えてよいという
告諭が発令された。

東京女子師範に付属幼稚園が開設されたり、
京都市内でも小学校に幼稚園が付設されたのも
その後のことである。
 p28【保育の友 28(11)】1980-11
p28【保育の友 28(11)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971848/1/28
保育の友 第28巻 第11号
定価 410円 〒33円
昭和55年11月1日発行
編集人 小林芳之
発行人 見坊和雄
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 社会福祉法人 全国社会福祉協議会
    東京都千代田区霞が関3-3-4
    〒100 電話03(581)9511
    振替 東京1-39265
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971848/1/30

【保育の友 7(4)】1959-04
出版者   全国社会福祉協議会
出版年月日 1959-04
講座・保育の歴史(その1)
 保育所の源泉を求めて
 それは民間が生み民間が育てた
    副島ハマ
  ―略―
明治八年十月二十六日、安栖里村、
静正寺境内で住職福永梅芳氏の手で
「生命ヲ保持セントスル博愛的ナモノ」
が始められています。
※船井郡和知町安栖里村「龍心寺」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971591/1/24
保育の友 第七巻 第四号
定価 七〇円 〒四円
前金 六ケ月 四二〇円
   一ケ年 八四〇円
昭和三十四年三月十日印刷
昭和三十四年四月一日発行
昭和二十八年十一月二五日第三種郵便物認可
編集人 河村 定治
発行人 木村忠二郎
発行所 社会福祉法人
    全国社会福祉協議会
    東京都千代田区三年町一番地
    電話(58)三七〇一~五番
    振替 東京三九二六五番
印刷所 文永社印刷株式会社
    東京都新宿区淀橋五二三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971591/1/29
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【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
出版者   京都教育大学教育研究所
出版年月日 1983-03
 京都教育大学教育研究科 所報第29号
 表1障害児者に関わった教育・福祉機関の
   設立年月日(戦前)
 福祉関係
機 関 名  開 院 年 月 日
安栖里幼稚院 明治8年10月12日
京都府船井郡第15区(現、和知町)安栖里(あせり)の
曹洞宗龍正寺(住職、福永梅芳)から
  ※龍心寺
明治8年10月12日付で
“幼稚児童を毎日出席させて受業させたい”
との届が提出された。
農林業で親が不在となる家庭から
子どもを守るためのものであったらしい。
明治8年10月21日開院。
現在、龍正寺(※龍心寺)には
当時使用の机が残っている以外に文献資料はない。
(和知町教育委員会 中井教育長談)
 p145【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
p145【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/2268692/1/145
京都教育大学教育研究所・所報
昭和58年3月1日発行
発行所 京都教育大学教育研究所
    〒612 京都市伏見区深草藤森町1
印刷所 日本写真印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/2268692/1/183
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[レーマン]Lehmann, Rudolf【資料御雇外国人】1975

【資料御雇外国人】1975
著者    ユネスコ東アジア文化研究センター 編
出版者   小学館
出版年月日 1975
 肖像写真 p4-8/274
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/4
  第二部 お雇い外国人名鑑
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/108
 凡 例  p109-111/274
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/109
[ルードルフ]③〔オット〕
【原綴】②③ Rudorff,Otto
[ルードルフ]〔カール〕
【原綴】Rudolph,[Carl]
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/238
[レーマン]
①➃〔リュウドルフ〕
③⑤⑦〔リュードルフ〕
⑥⑧⑨レイマン〔⑥⑧リュードルフ⑨ルウドルフ〕
【原綴】⑦⑧ Lehmann, Rudolf
【年齢】⑤六年当時三一歳
【国籍】独
【雇入場所】①大阪(居留中雇入)⑤京都
【雇主雇期間】
①③➃文部省
(三年一一月一一日~六年一二月二九日③➃満期解雇)
②⑤~⑧京都府
(⑤七年一月一日~一二月三一日、
  八年一月一日~一二月三一日
 ⑧一二年一月一日~一二月三一日)
⑨東京外国語学校、東京大学
(一七年九月一一日~一八年二月二一日嘱託)
【職種】
①京都府ドイツ語学
②語学師
③第三大学区京都府出張
➃ドイツ語学
⑤~⑦建築并に語学教師
【給料】
月給①➃二五〇元 ③二五〇ドル
⑤日本金貨二六〇円、二〇〇円
⑥二三〇円
⑧二五〇円、一二年一一月より貿易銀二七五円
⑨紙幣七〇円
【備考】
「今般孛魯西人リウドルフ・レーマン京都府ヘ雇入レ、
 仏英蘭独等ノ語学並数学令教授候條…」
 (留守官達、三年一一月二〇日)。
三年一一月五日より入京滞留。
「京都府部内物産興隆ノ為メ…
 当府部内物産興隆ノ為メ水理ニ依候テハ
 水車諸器械ヲ設ケ、
 地理ニ依候テハ運輸ノ便道ヲ開キ度、
 且西陣織物、清水陶器、宇治製茶其外漆細工、
 養蚕製糸荒地開拓等ノ器械良法并
 産物海外ヘノ向キ不向キの品柄及質問度…」
(京都府伺、留守官宛、三年閏一〇月一二日)。
「…今般孛魯西人リウドルフ・レーマン京都府ヘ雇入シ、
 仏英蘭独等ノ語学並数学令教授候条、
 当管轄華族以下攻伝習度望ノ者ハ当官ヘ可願出事」
(留守官達、三年一一月二〇日)
「東京外国語学校職務時間外ニ於テ
 東京大学予備門独乙語学教授嘱託」
【住所】
①河原町二條下ル欧学舎内官舎
⑤京都府下
⑥~⑧京都上京第三一区末丸町五五九番地
【出典】①③~⑤太二②太一⑥⑧外一⑦外九⑨東五⑩外八
p240【資料御雇外国人】1975
p240【資料御雇外国人】1975
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/240
レーマン Lehmann, Rudolf 独
◇重久篤太郎
 「京都に於ける独乙文化の移植と
  ルドルフ・レーマンの業績」
 『同志社高商論叢』11,1934
◇「リュードルフ・レーマン伝」京都薬科大学編
 『京都薬科大学八十年史』1964
◇重久篤太郎「ルドルフ・レーマン」
 (『お雇い外国人⑤ 教育・宗敎』鹿島出版会、1968)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/257
資料御雇外国人 8,000
昭和五〇年五月一日 初版第一刷発行
編 者 ユネスコ東アジア文化研究センター
発行者 相賀徹夫
発行所 株式会社 小学館
    東京都千代田区一ツ橋二ノ三ノ一
    郵便番号〔一〇一〕
    電話 東京(二六三)二一一一
    振替 東京二〇〇番
印刷・製本 凸版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12283910/1/271
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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日本近代化の脇役ルドルフ・レーマン【日本近代化の先駆者たち】1975

父  ルドルフ・レーマン
   1842年(天保13年)10月15日生
   1914年(大正3年)2月4日歿 71歳
母  ベン(木田)
   1856年(安政3年)9月17日生
   1932年(昭和7年)6月24日歿 76歳
長男 アドルフ・レーマン:禮滿 安都呂夫
   1890年(明治23年)1月28日生
   1911年(明治44年)2月13日歿 21歳
   明治四十四年(一九一一)
   チフスにかかり二十一才で亡くなった。

【日本近代化の先駆者たち】1975
著者    手塚竜麿 著
出版者   吾妻書房
出版年月日 1975
 日本近代化の脇役ルドルフ・レーマン
東京に定住して以来長年にわたり、
たえずわが国の文化に寄与した
欧米人の業績の調査と遺跡の発見につとめ
その紹介をつづけてきたけれど
もはや新しい発表材料もつきてしまった思いでいた。

そういうとき、この六月
思いがけないきっかけから、
Rudolf Lehmann(1842-1914)の墓所を
いつも散歩する雑司が谷霊園の管理事務所に
勤務する知人の手びきで
その所在を知ることができた。
外人墓地外にあったが
この意外な偶然におどろいている。
大変な手ぬかりだった。
あらためてRudolf Lehmannをとりあげ、
できるだけくわしく
その人となりについて書いてみたい。

親日ドイツ人Kurt Meissnerから
数年前にいただいた
“Deutsche in Japan 1639-1960”
(1961年東京で刊行)によると、
Lehmannはドイツ北部のOldenburgに生れ、
KarlsruheとオランダのLeydenで工学を修め、
一八六九年(明治2年)大阪へきた。
来日の動機は、他の資料によると、
かれの兄が大阪川口居留地に
レーマン・ハルトマン商会を
創立することになったので、
技術的協力をもとめられて同意した
ものと考えられる。
p68【日本近代化の先駆者たち】1975
p68【日本近代化の先駆者たち】1975
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/68
しかし、その期間はみじかく、
一八七〇年(明治3年)には
京都府のお雇外人となった。
ただみじかいこの大阪時代に、
わが国で最初の洋式船舶をつくりあげたことは
書きもらすことができない。
 ―略―
つぎにかれは京都府のお雇外人となった。
東京で直接中央政府のお雇外人となったのではないから
京都時代の業績はあまり一般に知られていないけれども、
それは単に京都府だけに役立ったのではなく、
京都府で示された数々の業績を通して
日本全体の産業および文化の近代化に
寄与したものであることは
いうまでもない。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/69
 ―略―
京都府へ迎えられたRudolfの最初の仕事は
ドイツ語の教師であった。
明治初年に刊行された木版刷の
「御雇外国人名簿」をみると、
かれの名は京都府の欄にみられる。
一八七〇年(明治3年)一月から
一八七三年(明治6年)一二月までが
契約期間で月手当は二五〇元、
担当はドイツ語学であった。
当時二十八歳の彼は大阪の官舎にすみ
日々京都河原町二条の欧学舎へ通勤した。

欧学舎は府が経営した
ドイツ学校、英学校、フランス学校の総称で
経費は京都の窮乏を救うため
日本政府が支出した。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/70
 ―略―
こうして数々の業績を残して
一八八二年(明治15年)上京した。
京都にRudolfを迎えて創立された
欧学舎ドイツ学校は
幾変遷ののち廃校のうき目をみたが
かれが東上した翌々年(一八八四・明治17年)
弟子たちによって
私学ドイツ学校として再開され、
こんにちの京都薬科大学に発展した。

またPapier Fabrikはのち
王子製紙会社の経営にうつされたが、
いまは日本加工紙京都工場となっている。

上京後のかれは
東京外国語学校(東京外国語大学)の前身や
大学予備門(旧第一高等学校の前身)のほか
独乙学協会学校でドイツ語教師をつづけ、
多くの学生を教えたが、
身につけた技術を生かすため転身して
築地にあったM.Raspe商会に入り、
長い間、機械部の責任者として日独貿易に従事し、
またドイツ・アジア協会の会長をつとめた。
 ―略―
大阪生れの日本婦人ベンを妻として
四男二女をあげたが長男を残し

  ※五男一女
  由緒ある日本婦人,
  木田ベンを娶って妻とし,
  五男一女をもうけた.
  長女 たに,
  長男 Karl,
  次男 Adolph, 
  三男 Rudolf, 
  四男 Walter, 
  五男 Fritzで
  次男 Adolphの他は
  いずれも独逸で教育

他の五人はドイツへやって教育を受けさせた。
 ―略―
一九一一年(明治44年)十二月、
六十九歳のときドイツ語学者で当時
外国語学校教授であった水野繁太郎、
工学博士伊東忠太(建築学者)
その他の名士が発起人となって
レーマン会がつくられ、
築地の精養軒で盛大な発会式が催うされた。
その喜びは大変なものであったがその後、
ただひとり東京にのこして
その成人を楽しみにしていた
長男(※次男)Adolfが二十一歳で
腸チフスに肺炎を併発して亡くなった。
大変なショックでRudolfはこの時
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/71
はじめて人前で涙をみせたといわれる。

そのころLehmann一家は
小石川区同心町三十に住んでいた。
いま東京都社会福祉館
(もと小石川区役所)があるあたりである。
Adolfのため住居からあまり遠くない
雑司が谷霊園に墓地をえらんだ。

それから三年後の
一九一四年(大正3年)二月に
Rudolfは急性肋膜のためなくなった。
享年七十二歳だった。
その生涯の大部分を日本ですごし、
めざましくはないけれど、
ドイツ人らしい質実と素朴さで、
日本のドイツ語教育と
産業・文化の近代化のために尽した
Lehmannの死に対し当時の新聞は
ほとんど報道しなかったようだ。

一九三二年(昭和7年)六月、
七十六歳で急性肺炎のためなくなった
妻のベンも葬られているが
いまは無縁になってたずねる人もまれである。

墓碑の碑面は写真ではわからないが、
“Grabstatte der Familie Lehmann”
と上部にかかれ、
その下に埋葬順にAdolf,Rudolf,Benの三人の名と
生没地と年月日がきざまれ、
一番下にはヨハネ福音書八章三一~三二が
ドイツ文で記されている。
 ―略―
墓所は一種四号五ノ側十五番にある。
この墓地保存のためLehmannの事業と関係深かった
王子製紙や日本ビールなどの会社が
手をうってくれるとありがたいが、
それ以上に早くからドイツに去った子女の子孫が
この一文でさがし出すことができたら
どんなにうれしいだろう。
〔一九六四年(昭和39年)十月 TMN〕
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/72
日本近代化の先駆者たち
1975年11月25日 第1刷発行
著 者 手塚竜麿
発行者 杉浦勝郎
印刷所 K.K.啓文堂
発行所 吾妻書房
    東京都千代田区九段南4-2-12
    代表電話(262)4056・振替東京10342
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/268
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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万遊歩撮
霊園探訪 6 雑司ヶ谷霊園編 1 前編
2016/02/11 19:19
ルドルフ レーマン(1842-1914)造船技術者
Rudolf Lehmann 1
Rudolf Lehmann 1

ルドルフ レーマン 略歴
Rudolf Lehmann 2
Rudolf Lehmann 2
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都立霊園公式サイト 雑司ケ谷霊園
東京都雑司ケ谷霊園に眠る著名人
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雑司ケ谷霊園に眠る偉人・著名人一覧
Rudolf Lehmann  [ るどるふ れーまん ]
生誕年月日 1842年10月15日
出生地   オルデンブルク
没年月日  大正3年(1914年)2月4日
没地    東京
特記事項  職業:技術者、教師
      親族:カール(兄)
経歴    ドイツの技術者であり、教師。
兄のカールが設立した
レーマン・ハルトマン商会の相談役として
明治2年に来日する。
京都の欧学舎教師となり、
同僚たちと日本初の独和辞典の編集に尽力。
明治10年には「和独対訳字林」を校定。
のち東京外国語学校、東京大学予備門で教鞭を揮い、
退職後は日独貿易に従事した。
大正3年2月4日東京で死去。71歳。
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