2023年12月

京丹波町議会会議規則[第8章]表決(条件の禁止)第80条《表決には、条件を付けることができない》

○京丹波町議会会議規則
平成17年11月30日
議会規則第1号
(条件の禁止)
第80条 表決には、条件を付けることができない。
 第8章 表決(条件の禁止)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年12月24日08:45
京丹波町議会会議規則 議会規則第1号第2章 
議案及び動議(議案の提出) 第14条
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇朝田善之助との出会い【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇朝田善之助との出会い
京都は被爆の経験がほとんどない。
私が家族ともども一人も欠けずに、
戦災列車で京都駅に降りた印象も、
戦前私が生活の中で見なれてきた、
余り風体のあがらぬ京都駅であった。
そして私には今でもその当時の京都の印象が
そっくりそのまま続いている。
実際には大へん変っているのだろうが、
変っていないように見える。

私は帰って早々は、
とにかく私の旧知たちを訪ねて帰国のあいさつをし、
傍らしごとの口を頼むことで明けくれた。
京都の古い町々を歩いたが、
戦前のままの風情がのこっているところが多かった。
戦後の京都が革新府・市政をつくりだし、
一方で国会から市町村の自治体にいたるまで、
多くの革新議員をおくりだしているのも、
この京の変らぬ古さが
一つの力になっているのではなかろうか。

こんな理屈はこれくらいにするが、
こういう京都の古さが
一定の見識となって京都市民中に
居すわっていることはたしかであろう。

私が満州から京都へかえってきて、
まず腰をおろしたのは、
左京区の象徴のような顔をした
京都大学の北に百万遍という大きな寺がある。
この百万遍を通りぬけたあたりに
安井病院という共産党員が院長をしている
大きな病院がある。

ここの初代院長の安井信雄は、
マルクス経済学の開拓者の一人である
河上肇などの主治医であった人だが、
左京区という山深い地域をかかえた一帯を
長年の医療活動で開拓した力で、
戦後の最初の市議選に立候補し
みごと第一位で当選して以来、
ずっと落選したことがない。

その安井病院をとりまいた形のところに
私の妻の実家が住んでいた。
当初、この借家は私が満州へ行くまで
住んでいた家である。
私たち一家の渡満したあとで、
この家は妻の実家が借りていた。
そこへ一先ず私たちは腰を降ろした。
妻の実家にすれば迷惑な話だが、
断りもできない。
そんなことで私の帰国後の生活の巣は
この左京の一角となった。

帰国して二、三日だと思う。
私の妻の姉が共産党員であったので、
そのあっせんで中国の体験を話してほしいといわれた。
それで、一夜が、つまり私の話を聞く会になった。

安井病院がまだ今のようなところでなく、
安井医師の自宅が同時に病院になっていた。
或いはまだ病室がなく
診療所だけの医院であったかも知れぬ。
その安井医院の一室に数人集って
私の話を聞く会がもたれた。

そのとき安井医師から
朝田善之助を紹介された。
そのころの朝田善之助はレッキとした
共産党員であった。
いずれにせよ朝田と正式に知りあったのは、
この時が初めてである。

そして、翌年の地方選挙で朝田は
左京区の共産党の正式候補となり、
地方選挙をたたかったのである。
私もビラの街頭張りや応援弁士で応援した。
当時の応援弁士は、
若い運動員の自転車のお尻にしがみついて
つぎの会場へという全くの手弁当型であった。

この選挙、安井は一位当選であったが、
朝田は落選した。
朝田には地域での浮動票がほとんど入らない。
また、本来朝田の基礎票田である
田中の部落が大変な乱戦。
朝田の他に保守系から二人、
さらに社会党、労農党、無所属と出馬している。
労農党はいまは無いが、
もともと容共革新の小政党である。

田中から立候補した人は、
どうみても革新系とはいえない人物。
ところが立候補者がたくさんいて、
もう名乗る政党といえば労農党しかない。
それでやむなく労農党へ申し入れ、
候補者を出さない労農党は
まあよかろうといった調子で、
さすがの大票田の田中もバラバラに分散している。
頼みの田中の部落がそんな状況だから、
市議選の方はしっかりと地盤をもった
安井信雄が予想以上に票を集め
第一位で当選であったのに、
府議の朝田の方は落選であった。

その後朝田とは、
私が六〇年安保のころ、※昭和35年(1960)
しごとの関係で東京へ移住するまでつづいた。

別に組織として直接には関係がないから、
任意なものであったが、
朝田の周囲では
戦前から市役所の民生局関係のメンバーが
ブレーン・トラストのような形で
朝田にくっついていた。

その中では、民生局の主査である
中川忠次が中心で、
朝田の思想形成には
このグループの影響が大きかった。

中川忠次は京大のドイツ文学出身で、
荒木次郎が中川だといえば
ああそうかという人もいよう。

その中川は私もよく知っていたが、
戦後の京都でわき上るように
職場からわき起った文化活動熱を
二人でまとめることになった。

そして、京都勤労者文化同盟という組織をつくり、
その活動費の財源は市の予算から
中川らがひねりだした。

当初から財源がたしかな組織の運営は楽である。
中川が市職から出た形で議長、
私が「全新聞」から出た形で副議長ということで
連盟はうごき出して、
四七年(昭和22年)の秋には
全市の労働組織やサークルで、
さまざまな分野のコンクール、
発表会、展示会などをひらいた。

朝田と私がつきあった中で、
副産物のようにしてつくりだされ、
成果をあげたのは勤文連であろう。
そうしたことが可能な雰囲気が
敗戦直後の日本にいたるところに
かもし出されていたことも、
勤文連成立の大きな原因であろう。

敗戦でも一度顔を洗い直した
日本の勤労者がつくりだした、
きわめてすなおな民主主義の姿である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/29
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
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京丹波町議会会議規則 議会規則第1号第2章 議案及び動議(議案の提出) 第14条

○京丹波町議会会議規則
平成17年11月30日
議会規則第1号
第2章 議案及び動議
第14条
法第112条(議員の議案提出権)の規定によるものを除くほか、
議員が議案を提出するに当たっては、
2人以上の者の賛成がなければならない。

2 議員が議案を提出しようとするときは、
その案をそなえ、理由を付け、
所定の賛成者とともに連署して、
議長に提出しなければならない。

3 委員会が議案を提出しようとするときは、
その案をそなえ、理由を付け、
委員長が提出者となり、議長に提出しなければならない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
地方議会制度の概要⑧ ~議会の運営~
議案の提出
・ 議員は、議会の議決すべき事件につき、
 議会に議案を提出することができる。(法§112)
 地方議会制度の概要⑧ ~議会の運営~
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京丹波町 議会構成
委員長  隅山 卓夫
副委員長 山崎 眞宏
委員   畠中 清司
     西山 芳明
     谷口 勝已
     山田 均
     松村 英樹
     森田 幸子
 総務産建常任委員会
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《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇甘粕正彦の自殺真説【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇甘粕正彦の自殺真説
日本国の敗戦、
満州国の消失という一つの歴史的な変化は
まだまだ明らかにされてはいない。

シベリアへ日本軍兵士が大量に抑留された
問題一つをとっても、
最近のロシアの政変とからんで
やっと口が開けてきたといったように、
多くの人々のことが土足でふみにじられるように
消え去って行くのだろう。

悪名か善名かは知らぬが、
とにかく一さわがせした人や事件で、
どうやら歴史の片隅にのこされそうなのは、
幸いとしなければならぬ。

私が中国東北の胡芦島港から輸送船で、
多くの日本人と一緒に日本国に帰ってきたのは、
一九四六年(昭和21年)八月十七日であった。

もっと厳密にいうと二泊三日間の船旅で、
日本国の博多港へ上陸したのが八月十日で、
ここではじめてはっきりと日本の土を踏み、
米兵と日本の女性がうでを組んで
ヘラヘラと白昼歩いているのを眼にしたのである。

驚いたのは、私たち旧満映の引き揚げが
「映画人帰国第一号」ということで、
ジャーナリストがどっと押しかけてきたことである。

裏方と家族という人たちばかりなので、
やむなく私が代表して応待した。

記者たちには当外れでお気の毒であったが、
そこで驚いたのは、
甘粕正彦理事長がピストル自殺したという。

私はそれはまちがいで、
甘粕は理事長室で
青酸カリであったことを明らかにした。

これは、甘粕正彦という正体不明な存在が、
ピストル自殺をしたという、
いかにも甘粕らしい死をくつがえし、
青酸カリという小さな形に矮小したことで
記者たちはガッカリしたらしいが、
私自身も連絡があって理事長室へ行き、
まちがいなく青酸カリ自殺の姿を目撃したから、
曲げようもない事実であった。

ただ、甘粕はソ連進入のあと、
日本人社員を全員集めて、
その前で自分は自殺すると公言したことは
私もその中にいたからまちがいはない。

ただ敗戦前後の混乱した中で、
甘粕自殺という報道がとにかくにも
どこかの誰かによって
なされていたことも事実のようだ。

ただ私は誤ったままの
甘粕自殺の報道が実際になされたことを
確かめてないので、
案外私の記者会見が第一号かも知れぬ。

この「甘粕自殺」はこちらがもっている情報だが、
「原爆投下」はどうだろうかと、ふと思った。

私は正直にいって、何も知らなかった。
おそらく私と行を伴にした引き揚げ日本人も
同様に知らなかったろうと思う。

私は(昭和21年)八月十六日の白昼に
山陽線を京都へ向けて走る
引き揚げ者の一人であった。

つぐつぎに赤ちゃけた感じの色彩につつまれた
被災地を通り過ぎたし、
ヒロシマ駅では停車もしている。

原爆投下一年後のヒロシマは、
私にはひどく破壊され、
赤銅色一色のような記憶が
ボンヤリのこっているだけである。

その後私が戦後の広島を最初に訪れたのは、
映画「原爆の子」の上映のことで、
一九五二年(昭和27年)の真夏である。

そして私が歩いて自分の眼でたしかめた
戦後のヒロシマは、
被爆の面影は表面的にはうすれていた。
ただ驚いたのは、その夜、
旅館で夕刊をみると、
私が昼前後に通った広島駅近くの猿猴橋で
ヤクザのいざこざがあり、
ピストルが射たれていたことである。

もう少し私の通ったのがおそければ、
どんな目にあっているか判らないわけで、
ゾッとした。

翌日、劇場の支配人との話の中で、
そのことを話すと、
支配人は、
とにかくヤクザの進出はすごいですよ、
一つちがえば一発パーンですからね、
注意して下さいとのことであった。p29/40
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/28
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
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《居谷 知範議員》反対討論[発議第1号、地域公共交通の維持・確保に関する意見書]令和5年12月19日(火)

令和5年第4回 京丹波町議会定例会 最終日 第2部
追加提案・議案質疑・採決
令和5年12月19日(火)
地上111ch 京丹波CATV
2023/12/23(土)13:00~15:05(125分)

議案番号  発議第1号
議案    地域公共交通の維持・確保に関する意見書
審査委員会 12月19日追加提案
 令和5年第4回定例会 提出議案一覧

《居谷 知範議員》発議第1号 反対討論
01:51:47~01:55:56
ただいま上程されております発議第1号、
地域公共交通の維持確保に関する意見書につきまして、
反対の立場から討論を行います。

まず最初に本発議の意見書案に記されています、
地域公共交通の維持・確保のための財政的な支援、
とりわけ特別交付税について、
さらなる拡充を図るよう求めること、
そして路線バス事業者への補助事業に対する要件緩和など
国庫補助制度の見直しを求める部分について、
異論を唱えるものではありません。

全国の路線バス運行事業者の約9割が赤字と言われ、
地方公共交通の維持・確保に関する支出は
地方自治体において増加の一途をたどっており、
その支援措置が必要な状況にあることは明らかです。

また本町においては、
本年度末に西日本JRバスが園福線から撤退し、
その路線を中京交通ならびに京都交通が
4月から引き継ぐことが決まっており、
そのイニシャルコスト(初期導入費用)についても
非常に大きな歳出となります。

こういった部分への財政的な措置も
地域公共交通を維持していくにあたり、
当然必要となり、
関連する南丹市や福知山市と歩調を合わせることが
重要であると考えますが、
今回そういった動きは確認しましたところ、
残念ながら見られませんでした。

そして決定的に、
本意見書は最も重要な部分が欠落してしまった
意見書であると言わざるを得ません。

それは委員会においても継続審議となった、
運行の担い手の確保と
育成支援に対する支援の強化を求める部分の問題です。

全国各地で運転手不足による
減便や運休、路線の廃止などが
皆さまご承知おきの通り急速に進み、
今や大きな社会問題化しています。
この類のニュースを目にしない日はないくらいと
言っても過言ではありません。

運転手不足は高齢化も一因として大いにありますが、
新型コロナウイルス感染症の後遺症、
つまりは社会経済活動が停滞したことによる
大量の離職者が発生し、
社会が元に戻ろうとしている今日、
新たな運転手の確保ができずに
減便や運休、路線の廃止に至っており、
さらにはいわゆる2024年問題もあり、
運転手の確保が全国的な喫緊の課題で
あることも明らかです。

総務産建常任委員会で審議された
発委としての意見書案でも、
この部分は述べられており、
意見書を有効かつ意義ある物にしていくため、
更に研究を重ねるべく
継続審議となったものであります。

それにも関わらず、
委員会において意見書案が否決された場合に、
発議として本議案が上程されてくるのであればまだしも、
総務産建常任委員会で継続審議となった意見書案を、
委員会において合意が取れた部分のみを抽出し、
合意や賛同を得られなかった部分を削除し、
発議として上程されるのは、
賛成多数で継続審議となった委員会の軽視であると
指摘せざるを得ません。

またその副委員長が賛成者として名を連ねることは
あってはならないことであります。

地方公共交通の維持・確保を
この先も持続可能なものとするために、
運転手の確保や育成に係る財政支援を求めること、
そして、労働環境の改善などを行ったうえで
運転手の確保に全力をあげるよう求めることは
必須であります。

国から地方自治体や運行事業者に向けた
財政的支援だけでは、
本来の目的である地域公共交通を維持し
安定して運行していくことが、
決して解決される問題などではありません。

この最も重要な部分が欠落している以上、
本意見書案に賛成することは
できないことを申し述べさせていただき、
私の反対討論といたします。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《北川鉄夫=西村龍三》戦火をのりこえて◇満映に入社【部落問題と文芸 (5)】1992-09


【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇満映に入社
戦争のまっただ中である。
私はどうしていたかといえば、
前半は新たに実施された
戦時統制法の「映画法」で、
映画人の機能を守る組織の
全日本映画人連盟の関西事務局長をやっていた。
後半はこの連盟が戦時解散したので、
海をわたって満州国の半官半民組織である
「満州映画協会」に入社、
赤い夕陽と高粱畑をみてくらした。

ここで敗戦、
満州国が解体する混乱の中を、
私は一九四六(昭和二一)年八月十七日、
日本国へ帰り、
一まず妻の実家の京都へおちついた。
この私の戦争期間には、
もちろん書くことが多い。
書きようでは、
それだけで一冊の本になるだろう。
しかし、
本稿がそもそも私と部落問題というのが
中心のテーマなので、
この戦争期間では部落問題の関係は
ほとんど皆無にちかい内容である。
それで私は思い切って、
この部分を切り捨て、
若干の問題にふれるだけに止めた。

一つは二回にわたる日本人映画人の満映参加である。
第一回は、一九三八(昭和一三)年のときは、
当時の日本映画界で名作をつぎつぎと世に送っていた
日活の製作のリーダーである
根岸寛一、マキノ満男らが俳優を除く
各種の技術者を引きつれて満映へ入社した。
ところが、これらの職員型技術者は、
基本運営を官僚式の合理主義でかためている
満映の体質とはウマがあわない。
思うほどの成果を見ない満映では、
人材の入れ替えを考えた。
そして甘粕正彦理事長が自ら日本へ渡り、
第二次の人材補充を申し入れた。
甘粕正彦というのは憲兵大尉で関東大震災のとき、
無政府主義者大杉栄・伊藤野枝と
甥の少年の三人を扼殺した男である。
彼は、刑を終えると満州へおくられ、
その後はいわゆる満州国建設の影の力として
動かし難い存在となっていたが、
表面的には満州映画協会という文化組織に身を寄せ、
にらみを利かしていた。
その甘粕がのりだして、
人集めをしたわけである。
当時日本映画界は映画法制定などで
次第に戦時色をふかめており、
一方フィルム製造に必要なニトログリセリンは
また火薬製造に必須である。
火力の充実を計った軍は、
当然フィルムの生産に影響し、
映画の製作の減退は当然である。
それは製作関係の映画人の合理化を意味する。
そうした状況におかれた映画人の中に
合理化による失職の黒い影が
生じてきたのも当然であろう。
そうした技術者の動揺は、
それでは外地でやるかという思いとなり、
満州=甘粕の意図は一応の成果を生んだ。
八木保太郎、杉山公平らの
一流のベテラン技術者を筆頭に、
かなりの映画技術者が
第二次満映入社となったのである。
私は渡満希望者を
映画人連盟の事務局長だというので
まとめる立場から世話をしていたが、
君も一緒に行かぬかということになり、
映画人連盟も解散するし、
外国生活もよかろうと
満映に入社することになった。

私は映画技術者ではないので、
満映は私をどんなポジションに
つけるかと思っていたら、
映画人養成所の主事ということになった。
なるほど私は映画理論や映画史のことは
一通り専門的に知っているし、
これなら養成所で生徒に講義はできる。
主事ということで私の上役には所長がいたが、
これは製作局の中心なので、
所長は形式的で、
私がほとんど管理と運営を任された形だった。
ここでは中国人の技術者を養成するのが目標で、
日本人や朝鮮人の青年も少数だがいた。
満映は敗戦とともに消え去るのだが、
その機材と施設、
そして若干の中国人技術者
―まだ幼稚ではあったが―は残った。

第一回の卒業生の中には、
のちに毛沢東専門のカメラマンとなった
馬守清もその一人であった。
また、日中外交が正常化して
文化交流が行なわれた行事の一つに
京劇の名優が来日したとき、
私も大阪での歓迎会に出席したら、
その一行の一人から呼びとめられた。
見ると、これは眼の碧い中国人で
李某という養成所出
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/27
身のカメラマン。
彼は中国人とロシア人との混血児で
眼が碧いので、
私はよく覚えていた。
彼はこの訪日芸能人一行に随行している
カメラマンであった。
彼との話で、
養成所出身の技術者たちが
りっぱに第一線で活躍しているとのことで、
私には大へんうれしかった。

養成所は毎年秋になると、
生徒募集である。
入所資格は中学校卒ということなので、
所としては、
毎秋所長か主事がめぼしい中学へ
勧誘に全国を旅して、
入所者をかためてゆく。

私もこの勧誘旅行を二度ばかりやったが、
土地不案内に言葉も通じにくい
という障害もあったが、
結構この旅はたのしかった。
独りで行くのだから、
万事が自分のやり放題である。
官費で負担もかからない。
この旅のおかげで
私はあちこちの都市を歩いて廻った。
今も記憶にのこるのは、
熱河省の承徳。
この西太后の離宮や
いくつかのラマ教寺院が美しく
山河を彩っている美しさはすばらしい。

私はスベン・ヘディンの『熱河』一冊を手に、
街中が一つの結構をつくした
大庭園のような承徳の街を歩いた。
中学の校長から、
熱河は中共系の遊撃隊の活躍地帯で、
街を歩くのも十分注意してほしいといわれたが、
街の美しさにひかれていつか危険のほども忘れ、
ラマ僧のアパートみたいな大建物をただ独り、
エッチラオッチラ歩いて上った。
そのとき私の感動したのは、
手にしたヘディンの『熱河』の文章であった。
彼の書いた一行、一行は、
まるでその歩いているところを
すぐペンにしているほど、
緻密で正確で、生々としていた。
これは日本型のボカシとはちがう美の感覚である。
こんな旅をしながら、無事満映へもどって、
何人かの養成所入所希望を報告していたのである。

そして一九四五年(昭和20年)八月に
ソ連軍の満州国進出となったのである。
実質的な「満州国」は、
機能を停止したといってよいだろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/28
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立石果樹園(高知県宿毛市)《2024》土佐文旦(ぎゅっと濃厚な味になりそうです) こだわりレモン

    立石果樹園 《2024》令和6年
 南国の太陽と、潮風の恵み
 丹精込めて育てたみかんです。
立石果樹園の笑顔とともにお届けします。

今年の文旦は…
ぎゅっと濃厚な味になりそうです!
その年の気候、特に降雨量に大きく影響される文旦。
今年はここ数年でも珍しいほどに雨が少なく、
今年の文旦は全体的に濃厚で特に美味しくなりそうです!
毎年少しずつ味が違うことも農作物の醍醐味。
今年の文旦の味をぜひお試しください!

お届け予定の果物
文旦    1月下旬~4月初旬
レモン   12月上旬~2月頃
すくも小夏 3月中旬のご案内になります
※クリックで拡大します。
立石果樹園-2024-1
〔画像〕立石果樹園-2024-1

土佐文旦
お届け予定 1月下旬~4月初旬

こだわりレモン 150箱 限定販売中
お届け予定 12月上旬~2月頃

立石果樹園
〒788-0023
高知県宿毛市字須々木823
TEL 0880-65-7158
FAX 0880-65-7717
インボイス取得しています
立石果樹園は適格請求書発行事業者です。
全ての請求書に登録番号を記載しております。
※クリックで拡大します。
立石果樹園-2024-2
〔画像〕立石果樹園-2024-2
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《北川鉄夫=西村龍三》山宣葬前後◇フリーパスで東大へ【部落問題と文芸 (5)】1992-09

【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと 6
山宣葬前後  北川鉄夫
 p18【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p18【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇フリーパスで東大へ
二度づとめをした三高生活も
いよいよ終りをつげるときがきた。
五年間の三高生活は、
私の生涯の方向を形成したといってよい。
当時のいい方によれば、
「赤」の「社会主義者』に
私はなりつつあったようだ。

昭初三年(1928)の晩秋のころ、
兄の上官である京大の斉藤大吉先生が、
ひょっこり学校の敦室へ私を訪ねてきた。
斉藤先生とは兄の指示で
時々先生の自宅へうかがい顔なじみになっていた。
先生は私をみつけると外へ呼び出して、
「君、このごろ大分桃色じみてきてるそうじゃないか」
といった。
「森校長から電話があってきたのだが、
 兄さんに心配かけるなよ。
 適当にやりなさい。
 気をつけなさい」というのである。
「ハイ」と返事する外はないので、頭を下げた。
斉藤先生は微笑をうかべながら帰っていった。

ブタ箱入りで警察が学校へ通告したのに違いない。
それで私は気をつけたわけでなく、
適当にやることにしただけである。
そんなことで 、
「桃色じみた」私になったわけだが、
別に卒業に支障がでたわけでなく、
私は大学を東京にするか京都にするかを考えた。
劇や映画のことをやるなら、
やはり東京大学へ行こうと肚を決めた。

しかし、東大に入るのは入学試験が容易ではない。
ところが、東大の入試条項が発表されると、
何とありがたいことに文学部は入試なしである。
どうしてそうなったかというと、
その年度の東大の入試は、
これまで文学部なら英文科、美学美術史科といった
各科別に試験があり、
受からないと
第二志望、第三志望に欠員があれば
そこに廻される。
それも駄目なら入れない。
そういう試験制度であったが、
この年度は、
文科一本で三百人という新しい
やり方になったところが
文科志望の志願者総数が
合計すると三百人に足りない。

それで全志望者はすべてフリーパス
ということになったのである。
おまけに私の第一志望の美学美術史科は
定員十五名のところへ志望者十三名。
この方も私はフリーパスであった。

「おい、東大行くなら試験勉強しろよ」
と同級生から注意されていた私であったが、
一向に準備をしない私はフリーパスで
東大入学が決まったのである。

三高から大学へは、京大志望が多かったが、
東大もかなりいた。
その連中の大半は、法・経といった志望者であり、
彼らの目前には入試の難関がひかえている。
みな必死で勉強しているわけである。
そこへなまけ者の私が悠々とフリーパスで
前途安泰というわけである。
何とも運のよい私であった。
そんな次第で卒業試験もすみ、
休暇になった。
私は兄に東大へ入ることをパリまで手紙をし、
兄からも許可の返事がきた。

一九二九年(昭和4年)三月、
私は無事に三高を卒業した。
東京での下宿は、
文学仲間の一年先輩の植村収と同居することに決めた。
万事ととのった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/18

◇山宣の死
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/18
◇花やしきに籠城
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/19
◇山宣葬当日
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/20
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《北川鉄夫=本名:西村龍三》
第三高等学校
入学 大正13年(1924)4月
卒業 昭和4年(1929)3月

東京帝国大学 文學部 美學美術史學科
入学 昭和4年(1929)4月
中退 

【第三高等学校一覧 大正13年4月起大正14年3月止】
〇文科一年甲類一學級 四十一人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 大正14年4月起大正15年3月止】
〇文科二年甲類一學級 四十二人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 大正15年4月起大正16年3月止】
〇文科二年甲類一學級 四十人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和2年4月至3年3月】
〇文科二年甲類一學級 四十人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和3年4月至4年3月】
〇文科三年甲類一學級 三十九人
京都一 西村龍三 京都

【第三高等学校一覧 昭和5年4月起昭和6年3月止】
〇昭和四年三月高等科卒業生
〇文科甲類卒業生
東文 西村龍三 京都

【東京帝国大学一覧 昭和5年度】
 第五 文學部
 美學美術史學科
〇昭和四年入學
西村龍三 京都
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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張英華(現長春電影副廠長)を中心に「長春電影公司」が設立【新中国映画 (現代中国新書)】1956

【新中国映画 (現代中国新書)】1956
著者    大芝孝 著
出版者   法律文化社
出版年月日 1956
私営プロダクションの接収
全中国の解放に成功した
中国共産党の映画会社接収工作は、
まず東北から始められた。

それに先立ち、
抗日戦争の終った
一九四五年(昭和20年)の一〇月、
旧満映のスタジオでは
張英華(現長春電影副廠長)を中心に
「長春電影公司」が設立された。
これには、
もとから満映にいた
進歩的な工作者たちが参加した。
内田吐夢、木村荘十二監督のほかに、
多数の日本人技術者も加わった。
ここでは、金山が監督し、
張瑞芳が主演して、
〔松花江上〕を一本撮ったが、
翌四六年(昭和21年)四月、
正式に中共に接収されて、
国営「東北電影製片廠」に変った。

東影の指導にあたった中心人物は、
かつての名作〔馬路天使〕の監督で、
抗戦中は延安に走って文工団などで活躍し、
ソヴェトにもいったことのある
袁牧之や舒群であった。
袁が初代東影廰長になった。
p35【新中国映画 (現代中国新書)】1956
p35【新中国映画 (現代中国新書)】1956
https://dl.ndl.go.jp/pid/2483103/1/35
著者略歴
1921年1月2日
兵庫県宝塚市生れ
41年駒井徳三の康徳学院卒、
中国に留学、
46年神戸外専助教授、
49年神戸市外国語大学助教授、
著書「現代中国文学論」、
訳書「抗戦第二年代」。
1956・9・20 ¥170
現代中国新書 新中国映画
著 者 大芝  孝
発行者 亀井  蔀
発行所 株式会社 法律文化社
    京都市左京区吉田近衛町
    振替 京都10617番
中村印刷株式会社・協真社製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/2483103/1/134
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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長春映画制作所訪問・報告(下)李光恵・馬守清先生【映画テレビ技術(465)】1991-05

【映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering (465)】
出版者   日本映画テレビ技術協会
出版年月日 1991-05(平成3年5月)
長春映画制作所訪問・報告(下)
――残影――満州映画協会――
  八木信忠(やぎ のぶただ)
 日本大学芸術学部教授、本誌編集委員
◇長春映画制作所・主の変遷◇
この長春撮影所の主は何度も変った。
それは日本と中国、
それにソビエトの波乱に満ちた
国際関係に翻弄された結果であるといってもよい。
簡略にこの撮影所の歴史をたどってみよう。

1939年(昭和14年)11月、
この撮影所は落成した。
満州映画協会(以下、満映)の本社ならびに撮影所として。
満映の創立は1937年(昭和12年)であるが、
1939年(昭和14年)までは
長春市の北西の寛城子という所の
使わなくなった機関庫をスタジオとして使用していた。

1945年(昭和20年)8月9日ソ連軍が参戦、
ソ満国境を越えて侵攻。
1945年(昭和20年)8月15日をもって終戦、
甘粕満州映画協会理事長は自殺、
満州映画協会は解体した。
ソビエト軍が長春に進駐。

1945年(昭和20年)11月1日、
「東北電影公司」として新しく発足、
所長には
張英華(1938年(昭和13年)日大映画科卒、
西河克己監督と同級)
制作部長は馬守清というメンバー。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/31
写真4 李光恵さん(右)と馬守清先生
 p32【映画テレビ技術(465)】1991-05
p32【映画テレビ技術(465)】1991-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/32
(筆者注)
《甘粕正彦》 ※下記参照
1891年(明治24年)1月16日生れ、
※明治24年(1891)1月26日
陸軍士官学校24期生、憲兵となる。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災、
同年(大正12年)9月16日
大杉 栄、伊藤野枝、橘 宗一を殺害、
軍法会議にて懲役10年の刑を受ける。
服役後満州国建国にかかわる。
1939年(昭和14年)11月1日
満州映画協会理事長に就任、
1945年(昭和20年)8月20日
満映理事長室にて青酸カリで自殺。

《木村荘十二》
1903年(明治36年)生れ、
1924年(大正13年)大阪東邦映画製作所入社、
阪妻ユニバーサル連合、河合映画、帝キネマを経て、
1930年(昭和5年)「質屋と花嫁と紳士」で第1回監督、
以後新興キネマ、PCLの監督として活躍。
1941年(昭和16年)中国に渡り
満映参事、満映養成所で教鞭をとる。
戦後帰国後、独立プロ作品、記録映画、
アニメーション等の監督として活躍、
1988年(昭和63年)没。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/33
©映画テレビ技術 5.1991 No.465
平成3年5月1日発行(毎月1回1日発行)
昭和26年11月24日 第3種郵便物認可
発行人 伊藤二良
編集人 中山秀一
発行所 社団法人 日本映画テレビ技術協会
    東京都千代田区大手町1-7-2
    サンケイビル別館
    電話(03)3231-7171大代表
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/74
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年08月02日05:57
[滿洲映畫協會]理事長 甘粕正彦
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
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